現代におけるアナログの本質

ノスタルジーではないアナログ回帰

ピークだった1976年の「2億」から、2009年に「10万」まで落ち込んでいたものが、2017年には急に「100万」まで回復。一体何の数字かと思うだろうが、これはどこかの会社の株価総額の乱高下ではなく、国内のレコードの年間生産枚数だ。

ピークと底値が2000倍も違うとは極端な話だが、CDからネット配信に移った音楽業界で市場規模は小さいものの、ここ10年で10倍も伸びた商品もそうはないだろう。タワーレコードのようにレコード専門フロアを新設する店も現れ、ブックオフなどでも扱う店舗数が激増し、人気のアーティストが新曲のリリースにレコードを加えるようになり、昨年からのコロナ禍の間にアメリカではCDの売り上げを抜いたことがニュースになった。

1970年代末までは音楽消費はアナログ方式のレコードやカセットテープが主流だったが、1980年代に入ってCDが登場し、デジタル方式が席巻しはじめた。折しもパソコンが世に出はじめた頃で、ファミコンが発売されてゲームのBGMに電子音が取り入れられYMOが流行した時代だった。2000年代にはブロードバンド化したネットの普及でダウンロードやストリーミングが主流になり、音楽はパッケージを持たないただのラベルを貼られたデータファイルになっていった。

こうしたレコードの復活劇を横目に見ながら『アナログの逆襲※1』というタイトルの本も見かけるようになり、生まれた時からデジタルが普通のZ世代が物珍しそうにLPやカセットテープを手にする姿が報じられ、「カセットカルチャー」なる言葉も生まれたと聞くと複雑な心境になる。

ノイズが多く、音質も悪く、ウォークマンのようなポータブルプレーヤーにも馴染まず、かさばって場所を取ると敬遠された古いメディアに若い世代が目覚めるのも不思議な気がするが、手に触れられないデジタル信号ではなく、インテリアにも使えそうなサイズのジャケットもいいのだろう。やはりメディアというものは、器としての身体性や物質性が肝要ではないかと、改めて感じている。

デジタル化の普及とその加速

ここ数十年のデジタル化の潮流は、従来のメディアの持つ手法を数値化・アルゴリズム化し、コンピューターを介することで精緻化し分類し精度を向上させてきた。コンピューターはまず文字や記号を論理として扱っていたが、1960年代にはCGの研究が始まってCADのような図面を扱うことから絵画的なアートの表現にも応用されるようになり、次には文字のフォントをアウトライン化し組版をグラフィック化して、画面で見たままをそのまま印刷媒体にも出力できるWYSIWYGを可能にした。

通信の世界では、もともと電信が文字をコード化してデジタル信号のような方式で送っていたが、音声を伝える電話を含めたデジタル化が局の間を結ぶ基幹回線で始まり、1980年代にはそれが一般家庭に届く回線にまで及び、1990年代のインターネットの普及で全デジタル化が加速した。同時にテレビ放送の電波にも、当初不可能と言われてきたデジタル方式の研究が進み、いまでは有線から無線を含めたすべてのインフラやコンテンツに及び、これまで蓄積された人類のあらゆる文物がデジタル情報に変換され、AIの導入によりコンピューターという機械によって読まれ処理される世界がやってきた。

写真の世界では当初、デジタルカメラは精度や表現力で従来のフィルム方式に及ばないと言われてきたが、2年程度で性能の倍化が進むというムーアの法則によって、いまではほぼ完全に市場を独占するまでになっている。スマホに常備されたカメラ機能とネットによって、ありとあらゆる画像や映像までもが自由に流通する世界がやってきた。さらにデジタル化された情報は自由に操作したり加工したり検索したりすることが可能になり、歴史的文物をデジタルでスキャンしてアーカイブしたり、現実世界のモデルを作ってナビゲーションをする「ミラーワールド」や「デジタルダブル」などと呼ばれるVR環境を作ったり、モデル化されたモノを3Dプリンターなどで実体化することまで行われるようになってきており、世界の全デジタル化の流れは止まりそうにない。

しかし、こうした流れが見えるようになってからの時間は40年ほどでしかない。1980年代にパソコンが出現した頃には、「アナログ対デジタル」という二項対立的な図式はまだ成立しておらず、これはその分野の研究者やビジネス、秋葉原に群がりオタクと呼ばれた若者の趣味の問題として、つまりサブカル的なトレンドとしてしか認識されていなかった。新聞や一般雑誌でデジタル関係の話題を扱う場合も、「OS」や「RAM」や「パソコン通信」といった言葉に、毎回注釈を付けなくては通じなかった。

ところが1990年代になってパソコンが大型コンピューターを名実ともに凌駕し、1995年のWindows95発売以降にインターネットが注目されるようになると、従来は特殊な世界の隠語のように扱われていたデジタル世界の用語が日常会話でも頻繁に使われるようになり、「最新のバージョンのアプリをダウンロードしてバグを解消する」などといった話が、ほとんどの場面で通じるようになった。

こうして、ありとあらゆる機器がネットにつながり、教科書からショッピング、ワクチン接種予約から友人との付き合いや国の行政までもがすべてデジタル化される時代には、それに追いつけない旧来の方式や世代が可視化されるようになった。パソコンやスマホを使いこなせない人は、自らを「アナログ人間」と言い訳するようになった。デジタルリテラシーなる言葉も飛び出し、こうした新しい読み書きソロバンに対応できないマイノリティーをどうにかしないと社会が機能不全に陥ると心配する声も聞かれる。それは中世の時代に、グーテンベルクの活版印刷が出現して、それまで口伝えだった物語や決め事がすべて印刷された本に収められるようになり、文字の読み書きができる人の世界観が大きく変わった一方で、そういうリテラシーも持たない人々が取り残されていった姿とも重なる。

こうした印刷革命による中世から近世への転換は、その効果が社会全体に及ぶのに百年単位の時間がかかったものの、それが宗教改革や科学革命の引き金を引き、確実に世界を変えていった。現在のデジタル化もその革命と同じように、世界の人々のコミュニケーション能力を飛躍的に向上させ、アラブの春やSNSによる世界的スターの出現など、前の時代の枠組みを超えた変化を起こしている。その変化の速度は、印刷革命の比ではないほど急激だ。

テクノロジーは普及率が10%を超えたあたりから顕著になり、25%程度になると一気に100%へ向けた加速が始まる。この25%に達するまでの時間は大ざっぱに見積もって、電話は40年、テレビは25年、パソコンは15年だったが、近年の携帯は10年、インターネットは5年と、普及の速度自体が加速している。これから出現するさまざまなメディアやサービスはさらにその傾向を強めると思われ、誰もが追い付いていくのに苦労することになるだろう。

デジタルとアナログの再定義

そうなると、デジタルに対応できないアナログ旧世代は絶滅危惧種になってしまう。そう考えてしまう人も多いのではないだろうか。しかし、デジタルとアナログを二分して、テクノロジーが引き起こす世代間格差に読み替えるのは、この問題の本質を捉えてはいない。現在は、コンピューターやデジタル機器を操作できることがデジタルで、それに追いつけないのがそれ以前のアナログという対立構造とされるが、人間の文明や知はこうした二項対立の優劣でできているわけではない。本質はもっと違うところにある。

そもそもデジタルという言葉はラテン語の「指(digitus)」から来ており、指で数を数える行為によって何かを区切って数値化することを言う。つまり、離散的な値に量子化するところから名付けられたものだ。そして、アナログはギリシア語の「比例(αναλογία)」を語源としている。これは連続した量を表す言葉から来ており、比例の他に「類推・類比・比論」などと訳される。似た物を比較して共通する傾向や法則を導くアナロジーも、これと同じ語源である。

最近のトレンドは、こうした本来数えられない何かの比を無理やり数値化してデジタルの数値に換算して処理しているだけで、われわれは生活の中で通常どちらが大きいかという判断に、わざわざ面積や体積を計ってはおらず、目視や秤を使っても分からないときに初めて数値化しているに過ぎない。そのためには、ある人為的な基準になるメートルとかグラムとか言われる単位を設定して、対象とのアナログ的な比較で閾値を定めて切って数値化するしかない。

もともとデジタルの元になった数えるという行為は、分かれているものの個々を一体と見なして数えるか、数えられないものを無理やり等量に分けて、それに数のラベル付けて数えているに過ぎない。しかし、この数えるときに使われる自然数の考え方は、連続する音声を切って文字に変換する書き言葉の延長線上にある言語的な行為の一環で、数字にひとつずつ加えて序数として順番を付けて並べ、後の方に来るものほど大きいとみなす行為だ。

リベラルアーツと数学

人類が最初に数と真剣に向き合うようになったのは、古代のギリシャ・ローマ時代だろう。現在は大学の教養科目を「リベラルアーツ」とも呼ぶが、これはもともとこの時代の学問体系から派生した「自由七科」(septem artes liberales)が元になっており、この中に数学が位置付けられていた。この七科は言語に関する三科(trivium)と数学に関わる四科(quadrivium)に分かれ、三科は「文法・修辞学・弁証法(論理学)」、四科は「算術・幾何・天文・音楽」から構成され、それらを統合する上位の学として哲学、さらには神学が控えている。

この四科を詳細に見ていくと、「算術」は人や物の数を数えることを基礎とした数論で、幾何は測量から派生した空間の測定から派生した学問としてユークリッドなどが体系化したものだ。算術はまさにデジタルのようにすべてを数値化し、それを演算して大小を決めたり取引に使ったりするためのもので、1次元的な世界を対象にする。

「幾何」はもともとナイル川の氾濫により土地を再区分することから発達したが、2次元の面の量を対象としたものだ。面積は周囲の長さを測量して求めることもできるが、面積を比較する際には分数のように自然数同士を対比することで、自然数では記述できない、いわゆる数えることのできない有理数が必要になる。比で表された数は割り切れることもあるが、自然数ではカバーされない有限や無限の小数になる。さらにはこうした比で表せる有理数ではない、平方根やπのような無理数も生じてくる。こうした量としての体系が有理数と無理数を合わせた実数で、その有理数の中のごく一部に自然数に負の数を加えた整数があり、その中の負の数を除いた数えられものに対応した自然数が包含されている。

ここで数学の理論を問題にしたいのではなく、むしろ自然の中で個々に数えられるものは例外的なもので、数えられないものの方がはるかに多いという事に注目してほしい。すべてを数の体系で表記できるが、それを数えることはできず、大小が比較できるだけの無限に数え続ける数としての量なのだ。

四科の他の学にはさらに「天文」があるが、これは星の動きを3次元的に記述して追うもので、残った「音楽」は数で表される音の周波数同士の調和を時間的な展開の中で測るので、4次元的なものになる。いくぶん乱暴な解釈になるかもしれないが、四科の「算術・幾何・天文・音楽」は数学の次元を高めていく体系なのだ。三科の「文法・修辞学・弁証法」は文系の学ではあるが、言語論理としての基礎体系であり、これらを自然体系に次元別に展開したのが四科だと考えるなら、リベラルアーツ全体の体系が見えてくるだろう。

こうした学問や知の体系は、13世紀にヨーロッパで大学が作られたときに法学、医学などの専門応用分野や神学が加わった際に、これらの基礎学問体系として採用され、その後はスコラ学などの洗礼を受け、その後の科学革命や啓蒙主義による新しい学の基底にあった。その後、独立を果たしたアメリカの教育で意識的に取り上げられるようになり、現在はまたさまざまな学問や知の体系の基礎として日本の大学でもリベラルアーツの重要性を説くようになってきている。

コンピューターは数論から幾何学へ進化した

このいわば知の原型(アーキタイプ)とも言えるリベラルアーツに、最近の情報科学を対照して眺めてみると、現在のコンピューターはアルゴリズムとしての三学をもとに、徹底的にすべてを数値化して演算することから始めるもので、まず四学のうちの「算術」を拡張したものと考えられる。

ところが自然数を基本に置いた四則演算を高速に行うことで発達したコンピューターは、科学計算や給与計算、経済予測などには有効だったものの、人間なら子どもでもできる人の顔を区別したり、アルゴリズムを特定できない事物には無力だった。そのため数値計算でカバーできない対象を、アナログ的にパターンとして比較分類するパターン認識と言う分野の研究が始まった。つまり、直線的な数値演算ではなく、二次元的な量や形の比較によって分類や処理を行う方式だ。

コンピューターは脳の働きをモデル化したものとされるが、チューリング・マシンと呼ばれる数学者アラン・チューリングの計算モデルは、言語的思考の記号演算を基本にした論理モデルだった。しかし実際の脳にはコンピューターのような演算回路や素子に該当するものはなく、ニューロンが絡み合っているだけだ。そこでニューロンのモデルをそのまま回路化して、つまり脳神経をアナログ的に類比して作られた「ニューラル・ネットワーク」というモデルが存在する。

このモデルは最初、1957年にフランク・ローゼンブラットがパーセプトロンとしてモデル化し、多くの事例やデータを与えることでニューロン間の結合を最適化するように学習し、人間が論理でなく経験からパターンを学んでいく方式を応用する道を拓き、これがチューリングの論理方式と等価な演算を行えることも確認された。そして、何度かニューラル・ネットワークのブームが訪れたが、複雑なニューロンに大量に学習データを与えてニューロン間の結合を調整するための計算を、論理方式の現在のコンピューターで個々に分解して行うと、膨大な計算が生じて、なかなか実用的な成果が出なかった。

ところが近年になって、ゲーム機などで使われる並列画像処理の演算チップを使うことにより、この計算を桁違いに早く行わせることが可能になり、複雑なニューロンのモデルを構築して実験してみると、猫や犬の写真を見分けることから始まって、ついには専門家が経験で判断していた画像の分類などを人間を上回る精度でこなすようになってきた。この新しいニューラル・ネットワークは、非常に高度だと思われてきた将棋や囲碁などの盤面ゲームにも応用され、論理計算では突破できなかった人間を上回る能力を発揮するようになり、グーグルに買収されたディープマインド社が開発した囲碁プログラムのアルファ碁は2015年にプロ囲碁棋士を破り、2年後には世界チャンピオンを破るまでになった。

当初の人工知能(AI)の開発は、論理計算で人間の能力を真似して知的な処理を行うもので、言葉による論理を論理式で演算する、いわば数論の証明のような処理を行ってきたため、言語化できない対象や、論理やアルゴリズムが解明できない対象には非力だった。ところがニューラル・ネットワークのような直線的な論理ではなく、並列的に情報を比較して分類する方式は、まさに情報を幾何学的に扱い、量としての比較を通して解答に至ろうとする方式で、論理やアルゴリズムが解明されていない対象に対しても有効だ。

アルファ碁がプロ囲碁棋士を打ち負かしているのは、膨大な可能性をひとつひとつ論理演算しているではなく、人間が経験から学んだ直感的に勝てるパターンを使って勝負をする方式を踏襲し、それを人間の脳より早く、より多くの可能性を試すことができるせいだ。そう考えるなら、第三次AIブームとして再び注目されている現在のトレンドは、まさにニューラル・ネットワークにより、コンピューターが数論から幾何学へ進化した、つまり、デジタルからアナログへと進化、もしくは深化したものと考えられなくもない。

アナログは数や論理を言語的に追う作法ではなく、面的に量を比較検討していくことだと考えるなら、アナログがデジタルに劣った何か低次元の話だと考えるのは、はなはだしい誤解である。つまり、現在注目が高まるAIブームは、われわれが信じるところのデジタル万能主義の拡張系と言うよりも、アナログへの回帰によるコンピューティングの新次元への進化と考えるべきなのだ。

現在はデジタル方式のコンピューターの全盛時代で、ニューラル・ネットワークの学習過程を計算で支えているのは、ニューラルをモデル化したデジタル方式のマシンだ。それはアナログ的なネットワークモデルの中を通るデータを、従来のようにひとつひとつデジタル化して分解して処理しているのでデジタル方式に見えるが、全体の構成や処理方式がアナログ的な方式なのだ。

アナログコンピューターとボルヘスの悪夢

1946年に発表された、初の全電子方式のデジタル計算機ENIACは、巨大な電子式ソロバンのようなものだったが、実はそれに先立ってアナログ・コンピューターが研究されていた。

これは、計算モデルを逐一計算するのではなく、基本的に対象のメカニズムをそのまま真似したモデルを、電気回路や歯車を組み合わせた機械を作り、こうしたミニモデルで対象の全体を模倣するものだった。いちいち手間のかかる数値計算をすることなく、瞬時に結果を得ることができるが、電気部品のバラツキや歯車の精度に制約を受け、大まかな比や動きとしての大局を把握することには有用だが、最終的な精度を数値演算的な方法のように高めることに限界があり、結局はデジタル方式のコンピューターが実用化されると表舞台から消えていった。

最も古いアナログ・コンピューターで有名なのは、太陽系儀オーラリーだ。これは古代に作られた太陽や月の動きを模して作られた太陽系のミニモデルで、太陽と月と地球の規則的な動きを歯車で組み合わせて、その日時に地球の模型を動かすと、太陽や月が連動して動いて実際の位置を割り出してくれるもので、ギリシア時代からあったとされるが、18世紀初頭にオーラリー伯爵の名前から取られて、この呼び方になった。

これはまさに、ラテン文学の巨匠ルイス・ボルヘスが『創造者※2』の中で書いた、ある皇帝と地図師の話を彷彿とする。皇帝は正確な地図を目指して地図師に詳細な現実の世界の地図を作らせるのだが、それがあまりに忠実なモデルとなってしまい、最後には現実の帝国と入れ替わってしまうという話だ。

インターネットの次の姿として、現在注目を浴びているミラーワールドは、現実の都市を忠実に再現したシミュレーションモデルで、例えばその中でデジタル化した自動運転車を走行させて訓練を重ね、さまざまなシチュエーションの場面から学習させることもできる。まるで現実を生き写しにした鏡が、現実の代わりに動いて現実を支配してしまうという、ボルヘスの描いた悪夢そのままの構図もそこには見える。

ウェブと検索サービスが支配するインターネットは、もともとは数値計算する計算機を電信のようなネットワークを用いて相互に接続して、それぞれの計算機が手紙をやり取りして同じ計算を分担して行うような共同作業のためのものだった。また当初はデータベースという図書館のような大量のデータの集積所にアクセスして、書物を閲覧する道具のように使われた。それが90年代のウェブの導入によって誰でもが簡単に使えるようになり、コンピューター同士の通信が、コンピューターと人の通信に移行し、ついにはコンピューターのネットワークの周辺に位置していた人と人を中心につなぐようになってきて、それがウェブ2.0とかソーシャルメディアと呼ばれるようになった。

この時代にはグーグルのように、インターネットの集合体としてのクラウドの中にある情報をキーワードで検索して選び出すというばかりではなく、キーワードという言葉で名指しできない、何かのトレンドやマクロな傾向を感覚的に把握することも必要になってくる。いまでは、人々の集めた文字化されたデータをキーワードで探るばかりか、利用者がどういう情報と、もしくはどういう対象や他者とコミュニケーションをしているかという行動パターンやコンテクストが重要になっている。アマゾンが利用者の購買パターンから商品と消費者、もしくは消費者同士の情報交換からリコメンドを提示してくるように、情報パターンをアナログ的に処理することが社会全体のミニモデルとして成立しており、インターネットはまさにミラーワールドとして機能しはじめている。

来たるべきアナログ時代のデザイン

こうした時代にデザインするという行為は、まさにこの不特定で論理の分からない自然現象や社会現象に対して、その環境で学んだ人間もその中の一部となって、全体像を模索する作業になる。緻密な論理計算を必要とする局面もあるかもしれないが、まだ海の物とも山の物とも分からない対象に、経験や直感から生まれたヴィジョンを重ね合わせ、対象のあるべき姿に対してのヴィジョンを実現してくことになる。

リベラルアーツは、こうした人間の知の仕組みを、言語の論理で定式化し、自然や社会と言う対象に関しては、まずは言語的な数論的思考で攻め、次に幾何学的に量を比較しながらバランスを整え、さらにはそれを天文学的に立体的に調和した形に組み上げ、全体を時間軸の中で音楽を奏でるように演奏する手法を提唱している。現在のコンピューターは基本的な計画の構造や工程を論理的に整備することに威力を発揮するが、それに加えてパターン的直観的なもっと空間的な広がりのあるデザインという行為をサポートしようとしている。

そう考えるなら、現在の時代に遅れたアナログと、次世代を先導するデジタルという二分法は、まるでナンセンスになってしまう。現在のインフラとしてのコンピューターは土台部分を数値計算によって精密化して強化しているが、いくらAIを導入して人間より早く高度な問題に解を導き出してくれるとしても、どういう問題を解かなくてはいけないか、いままで問題にされなかった疑問を導き出すということに関しては脆弱だ。

デジタル方式の算術型のコンピューターが、限定された問題領域で成果を上げているのを見てその延長線上に、コンピューターの知的能力が人類を上回るとするシンギュラリティーの論議がまことしやかに取り上げられ、「AIが人類を滅ぼすのか」といった類の本が出ているが、これもデジタルとアナログの優劣を論じるのと同じく意味はない。

現在は人間の脳を中心にした能力の一部を、デジタル方式で拡張している最中だが、コンピューターの進化の次のステップとしては、個々に数値処理した対象同士の相互の集合的なパターンを幾何学的アナログ的に処理することが求められており、それこそまさに人間が経験や直感から判断する「デザイン的思考」に近いものなのだ。脳に特化したように見えるコンピューターを人間全体の機械化ともっと広く捉えるなら、もともとは肢体を機械化したものとして捉えられてきた車やさまざまな工具を高度化して人間の似姿にしたロボットこそ、こうしたトレンドの行く先にあるものかもしれない。

人間を機械という他者、もしくは人間以外の何かで代替するという流れで見るなら、現在のコンピューターによるAIは、脳髄の言語機能にだけに特化した拡張で、AIが外界の情報をそのまま得て、外界にそのまま作用するには、それによって駆動される肢体が必要になる。その典型的な応用例として、現在よく話題になる自動運転車が典型的事例になるだろう。利用者が意志を持って身体的移動をするために、目的地をイメージし指令すればそれを地図情報やその時点の交通パターンに対応して判断し、道路のいま現在の状況にリアルタイムで対処しながら安全に目的地に到着するというモバイルマシンこそ、人間の脳と身体を拡張したパートナーの雛形だ。

アンドロイドや外骨格としての人間型もしくは人間のパートナーとしての広い意味でのロボットやアンドロイドは、何も機械の身体を持たなくてはならないというものではない。すでに人類の半数以上が常時接続されている集合体としてのインターネットは、地球全体をニューラル・ネットワーク化した身体のような存在で、ソフトや情報で直接的・間接的に人類をひとつの人間のようにまとめている。

こうした世界では、利用者である個人の生活空間や精神世界とネット全体の集合的実体が、まるでフラクタルのような相似形としてアナログな関係にあり、個人の主張や情報発信が全世界でリアルタイムに共有されていく。そんな時代の人生観や世界観は、いままでのメディアの発達の中で得られた知見を理解し、さらに違うステージの問題として考えていかなくては論議できない。そこにこそ未来のデザインの可能性がある。

環境と身体をつなげ、フィールドで文学を聴き、仏教で経験世界を観る

奥野克巳:
それでは、第3部に入ります。今回も広島大学大学院博士後期課程文化人類学専攻の大石友子さん※1と東京大学大学院博士後期課程フランス文學専攻の中江太一さん※2の話をうかがいながら、近藤祉秋さんと私で進めていきたいと思います。

第1部と第2部では、マルチスピーシーズ民族誌およびそれに近い人類学者たちのインタビューでしたが、ここからは環境人文学と呼ばれる複合的領域へと歩みを進めて、「More-Than-Human」シリーズ※3に掲載された、石倉敏明さん、結城正美さん、清水高志さんのインタビューを取り上げます。

まずは、唐澤太輔さんによる石倉敏明さんのインタビュー※4。この石倉さんの知的冒険では、中沢新一さんの『対称性人類学』の複論理という理論的な課題を「外臓」という概念を通じて深めているのがとても印象的でした。それは、食を通して人間の身体と環境の関係を考えることにつながっています。

身体の内側の、口から肛門の周囲に発達した内臓を、手袋をひっくり返すように外側にひっくり返したものが、身体の外部に広がる里山、里川といった環世界で、それを石倉さんは外臓と呼んでいます。外臓から内臓へ食べ物が入り込んで、外臓と内臓によるループ状の絡まり合いによって世界はできており、他者から見ると、自分自身の身体も外臓の一部であるというアイデアが示されていました。

石倉さんの外臓論は、多様な思考実験に開かれています。外臓論で考えると、身体の中に収められた、主体として成立している「自我」から出発することは難しくなり、食べることをベースに、デカルト主義を乗り越える手がかりにもなる。食べるもの、食べているものが生み出される外臓と、食べる「主体」である内臓がどうつながっているのかを見ていけば、自然と人間の関係を再考する可能性が見えてくるというわけです。

また、食べることは、食べることと食べられることの二元論ではなくて、朽ちて地球に食べられるという三層で見ていくべきなのではないか。それは、自然の循環と人間の文化の循環を連続的なものとして考えるためのポイントだと、石倉さんは述べていました。そうした環境と身体、外臓と内臓の大いなる循環を足がかりとすることで、日本では、人、生物、自然、神仏の共生関係の形成によって「共異体」が生み出されるに至ったのではないかと、論は進んでいきます。

共異体とは、あらゆる差異によって個々の生命存在がつながっていること。例えば、ブッダが悟りを開いた菩提樹の木は、誰もがそこに座ることができる場所です。種として、それぞれの土地に根を生やすことができる、柔らかな中心としての共異体が、そこにはあるのだと言います。石倉さんは、そのイメージを実体化してはいけないとも言っていました。

石倉さんたちのコレクティヴは、第58回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館展示で、この共異体の思想をテーマ化しています。沖縄や八重山・宮古諸島に散在する津波石はもともとはサンゴ石灰岩で、海中生物の化石が付着していたもので、その後津波によって陸上にもたらされ、動植物が共生する場になりました。これは多様な存在がつながっている人間と非人間の共生のモデルなのです。石倉さんたちは、この津波石やフィールドワークで得た卵生神話を踏まえて、創作と実践をおこないました。

アートと人類学の結びつきは、人類学の表象の危機以降の苦闘のひとつの結果だそうです。そして、人類学を知的生産だけに閉じ込めるのではなくて、他の学問領域とアートの架橋をしながら、越境的なインターフェイスとしていくのが、人類学におけるひとつの展望ではないかと結ばれていました。

次に、江川あゆみさんによる結城正美さんのインタビューです※5。ある学問領域だけではなくて、そこから他の領域や多様な実践者たちとの対話を進めていく姿勢は、先ほど大石さんから指摘があったように、最近の文化人類学ではようやくひとつの流れになりつつあるのかもしれません。それに対し、エコクリティシズムあるいは環境人文学では、研究者だけではなく幅広い層と交流・意見交換することが早くから重視されてきたことが、結城さんのインタビューからうかがえました。

チッソの社長は、水俣の漁民を人間扱いしていなかった。そのこととは対照的に、石牟礼さんの水俣文学の世界では、蛸、狐、馬酔木などと人が交わる世界が描かれています。人間をひとつの種として学ぶ上で、石牟礼作品は示唆的です。

結城さんの初期の研究関心は「サウンドスケープ」にあったようで、ファインさんやコーンさんがインタビューで述べているテーマにも重なるところがありました。研究方法の自明性をずらし、視覚ではなく、聴覚によって文学作品を見ることで鍛えられた知性。それはやがて、テクストとそれが書かれた場所での経験や思考の揺れを扱う「ナラティブ・スカラシップ」という研究スタイルへとつながっていったのではないでしょうか。

人類学のフィールドワークにも似た当該場所でのテクストの読みは、アクチュアルな問題に対するエコクリティシズムの積極的な関心にも影響を与えているように感じます。“What does ecocritism do?(エコクリティシズムは何をするのか)”の中の“do”が、結城さんが示すエコクリティシズムのアクチュアルな問題に対する方針です。

結城さんは、原発ゴミを考えるシンポジウムで、あるネイチャーライターの「山の身になって考える※6」というエッセイのタイトルを引いて、ウランの地層処分を進める組織の人たちの前で、ウランの身になって考えればゴミとして捨てられるというのはやってられないのではないか、と発言しました。それに対して、その組織の人たちから共感の言葉が寄せられて、対話につながったと言います。文学作品に言及したことで、対話を進めるための共通基盤が生まれたのです。

アクチュアルな問題に対するエコクリティシズムの姿勢は、環境危機や自然をめぐる問題に向き合うための、多くのヒントを与えてくれたのではないかと感じます。

最後は師茂樹さんによる清水高志さんのインタビュー※7。石倉さんのインタビューでは、デカルト主義的な「自我」、二元論思考、如来蔵思想の日本での展開、菩提樹でのブッダが始めた仏教の世界の広がりなどがしなやかに論じられ、哲学や仏教がマルチスピーシーズ民族誌、自然と文化の人類学、それから環境人文学を進める上で、参照すべき知の蓄積を孕んでいることがうかがえました。

それとは逆の方向から、哲学や仏教が、マルチスピーシーズ民族誌や環境人文学の見据える問題に対してどう接近しているのか見ることも重要です。西洋哲学には、古代ギリシャ以前から人間以外の存在者を取り上げる思索の系譜があります。それを踏まえて、20世紀のミシェル・セールの哲学を押さえながら、近年の実在論にも通暁し、そこに仏教に加えて、人類学までも見渡しながら最先端に位置しているのが、清水高志さんではないかと思います。

二元論思考をどう乗り越えるのかという西洋哲学の関心が、清水さんのインタビューの出発点にはありました。哲学ですから抽象度は格段に高くなりますが、追っていくと非常におもしろい。

《a》か《非a》のどちらかを取ると、その中間は成立しないという「排中律」を超えて、インド古来の伝統的な思考では、《a》でもなく《非a》でもない「第4レンマ」という思考の枠組みが考えられてきました。そうした議論は、近年のグレアム・ハーマンらによるオブジェクト指向哲学でもなされてきているのだと、清水さんは言います。

また、2世紀のインドの中観派の仏教僧ナーガールジュナは、《主語a》を立てると、《はたらきa》によって、《主語a》があらかじめあったように思えると言います。あらかじめあったように思える《主語a》を《主語a2》とすると、《主語a2》にも《はたらきa2》が出てくる。このロジックは循環的です。

ナーガールジュナは、《主語a2》と《はたらきa2》を「~においてある」構造、《主語a》と《はたらきa》を「~によってある」構造として問題を整理しています。その上で、ナーガールジュナは「~がある」が「~である」に変容してしまうはたらきの二重化の問題を執拗に問うたのではないかと、清水さんは指摘していました。

ナーガールジュナの『中論※8』の第2章では、この「~によってある」と「~においてある」という前件と後件が相互包摂している点が論じられます。《a》は《非a》によってあり、《非a》も《a》によってあるということは、それぞれが本質によってあるのではなく、「無自性」で「空」だというのが、中観派で示された相依性の考え方です。仏教の「空」の観念は論理を超えたものではなく、こうした論理を突き詰めた後に出てくるロジックなのです。

こうした流れを押さえながら、清水さんは、《a》でも《非a》でもない、《非a》でも《a》でもないということが同時に言えるためには、両極を同時に否定するロジックが必要であり、その点に絞って考えようとします。そこに主体と客体があって、相依性の重層化により「環界」が形成される契機を見るのです。

この環界とは、世界の眺めのことで、日本の鎌倉時代の道元禅師がいう山河のことだと、清水さんは指摘されていました。否定を組み込んだインド哲学からの系譜の果てに、道元の『正法眼蔵※9』では人が出てきます。山や川があるという単世界的なものではなく、人と山河が相互包摂する環界が、より具体的な山河の景色の中に綴られているわけですね。道元はあえて主語化を試みて「言うこと」によって、《a》がないから《非a》がないという「第4レンマ」によって捉えられたとき、一にして全なる環界が現成するのだと。

諸存在は、それぞれの環界、それぞれのパースペクティヴを持ちながら世界に向き合っている。そう考えると、世界が人や個物を照らし出しているとする思考は、人類学の多自然主義やパースペクティヴィズムにも通じている。ナーガールジュナによって突き詰められた、《a》でなく《非a》でもないという第4レンマを手がかりとして、二元論思考の乗り越えの行きつく先を、禅における人と事物、世界を視野に入れた環界の現成の中に見るのです。そしてそれが、近年の人類学がアマゾニアのフィールドワークで見出した思想にまでつながっていると指摘していました。

すこし長くなりましたが、以上が第3部の概要になります。

石倉敏明:体内と風景を地続きのものとして生きる

大石友子:
これまでのインタビューから、マルチスピーシーズ民族誌では、人間以上の視点を取り入れた民族誌の記述のみならず、民族誌映画やアートの制作など、多様な実践がおこなわれていることがわかりました。こうした実践をおこなう上では、人類学、文学、哲学などが交差する領域で、さまざまな概念や思想を手がかりとしながら表現方法を探求することが重要になります。この第3部のインタビューでは、そうした概念、思想、表現方法の広がりが提示されていました。

石倉さんのインタビューでは、そのためのヒントになる概念が多数提示されていたように感じます。私は物事を考えるときに四次元モデルをイメージすることが多いのですが、「外臓」という概念は、そのイメージにも重なりました。

また、石倉さんは食に注目をすることで外臓の概念を考えたということですが、たしかに食は生き物にとって必要不可欠なことで、そこでは多様な種が交錯しています。食からつながりを捉えることで拓けてくるものがあるというインスピレーションを得ました。例えば、「共異体」の議論から、人間と動物を「共食」の関係として捉えることができるのではないかと感じました。

共食とは、簡単に言うと、食事を共にすることです。現代はひとりで食事することも多いと思うのですが、人生の中で誰とも食事を共にしたことがない人はほぼいないと思います。その中には、人間とだけではなく、ペットとともに食事をとる人もいるのではないでしょうか。それぞれの食事を、同じ時間に同じ空間でとるということです。

共食に関して、人類学ではカーステン※10が、血縁関係と婚姻関係を前提とした、従来の親族や家族というつながりは、食事を共にすることで獲得されるケースもあると論じていました。これは共異体をベースにしても考えることができるのではないでしょうか。

私の調査地の人々は稲作をして、米を自給しています。そうした人間の労働で作られた米は、人間はもちろんのこと、家畜として育てている鶏や豚、家の番をしている犬、一緒に暮らしている象にも分け与えられます。これを、同じ米を家の敷地内でともに食べる共食とも捉えることができます。また、すこし違う角度から見れば、家畜に食べられるものという視座から、人間の労働を考えることができるように感じました。

このように、食や外臓といった概念は、つながりのイメージを大きく広げてくれるもので、新たな視点をもたらす可能性を持っているのではないでしょうか。

中江太一:
私からは大きく2点あります。まず最初に、食という媒介項を通じて人間の消化器官である内臓と、目の前の風景あるいは自然である外臓が地続きになっているという、石倉さんの発想がおもしろいと思いました。それは、人間の身体を一、その外の自然を一として、一対一の対応で考えたものではありません。人間の身体を内臓という複数のものとして考え、消化=分解の過程で多数の微生物が絡み合い、自然の方でも同様にさまざまな生き物たちが生産者、消費者、分解者という形で絡み合っている。こう考えると、石倉さんは一と多の問題を考えようとしているのではないかと感じました。

内臓と外臓の話は、デイヴィッド・モンゴメリーの『土と内臓』の議論を想起させます。この本でも、人間の身体とその中に住む微生物の関係と、土とその中に住む微生物の関係がアナロジカルに捉えられています。しかし、石倉さんの言葉で言えば「外蔵」に関してはすこし違った視点で、植物と土中微生物の間の贈与とも言える互恵関係の話が出てきます。

植物は、微生物を誘引するために化学物質を出してエサを供給していますが、微生物の方では植物を病原菌から守ったり、植物から出るトリプトファンを植物成長ホルモンに変えたりして助けになっているという意味での互酬的な共生関係であって、相互のコミュニケーションがおこなわれているという話です※11。石倉さんの話とは若干ずれるのですが、食べるという関係ではなくて、贈与の問題としてもマルチスピーシーズを考えられるのではないかと思いました。

最近は思想の分野で「贈与」の話が盛り上がっていますが、岩野卓司さんの『贈与論※12』という著作の一節では、「人間の贈与の慣習がいかに高度な文化を担っているとはいえ、人間は動物であるがゆえに、根本的に贈与する存在なのではないか。だから、贈与の概念を考え直す必要があるだろう」と書かれていて、人間中心的な贈与の議論を動物へと拡大していく必要性が説かれています。私個人は、動物に限定せず、人間を含めるか否かを問わず、マルチスピーシーズの贈与論まで発展させられると考えています。

食と微生物の話で言うと、小倉ヒラクさんの『発酵文化人類学※13』という本にもその一端が見られます。小倉さんは、マリノフスキやモースの贈与論、ベイトソンの議論を受けつつ、微生物と人間の関係を贈与によって捉えています。酒やチーズといった身近な例を取り上げながら、自然と人間が渾然一体となって織りなす生命の贈与のネットワークの中で人間と微生物の関係を見ると、自由意志の主体としての人間ではなくて、人間という存在が交換やコミュニケーションといった関係によって現れるのがわかると書かれています。この先にはマルチスピーシーズ贈与論のようなものが出てくると期待できます。

もうひとつは、石倉さんの話が非常にダイナミックで、人間と自然の関係について大きな見通しを示唆してくれる一方で、西洋思想についてはやや単純化しすぎる傾向があると感じました。これは現代思想全般に言えることかもしれませんが、デカルト的自然観が本当に西洋の自然観として有効なのか疑問が残ります。

たしかに非西洋の自然観の意味を探る上で、その特徴を強調するためには有効に機能すると思いますが、実際のところ西洋の思想や文学において、デカルト的自然観と十把一絡げにまとめられないようなものがたくさんあります。安易にデカルト的自然観を持ち出すと、藁人形のようになってしまう疑念があり、西洋内部での差異にも目を向けてもよいのではないかと思いました。

その意味で、先ほど取り上げたパンディアンさんがヘルダーやニーチェの名前を出しているというのは意義深いと思います。ヘルダーについて言えば、他者や他種への共感性の伝統を、18世紀ドイツの哲学者にまで遡っている点に、デカルト的二元論と大きく括ってしまう問題点を避けるヒントがあります。ニーチェについては、「思考するということ、理解するということは、必ず情動的で、根本的に感覚的かつ身体的、そして経験的なもの」と語られていました。それと合わせて、心身二元論を内破するようなアイデアが、西洋思想の中にも存在していることを示していると思います。

奥野:
タイのフィールドで、種を超えて米が食べられている現象を、食糧の分かち合いとして、共異体の枠組みで見ることもできるのではないかという大石さんの見方は、研究展望として発展性がありそうですね。

中江さんからは、石倉さんのアイデアをマルチスピーシーズ贈与論に発展させていくことへの期待が語られるとともに、西洋の思想を一枚岩的に捉えることを疑問視するコメントがありました。

結城正美:文学作品に書かれた場所のテクストを読む

大石:
結城さんのインタビューを読んで思ったのは、エコクリティシズムと人類学で類似している部分が多いということです。とくに従来論じられていたことを新たに捉えなおして、議論を活性化していくという部分については、人間のみを主体として論じられてきた概念を再考し、議論をより深めようとしているマルチスピーシーズ民族誌の取り組みと重なっています。

また「エコクリティシズムとは何か」と「エコクリティシズムは何をするのか」という2つのことが問われていましたが、先ほど奥野さんもおっしゃっていたように、これは人類学にも共通する問いです。つまり、「人類学とは何か」と「人類学は何をするのか」ということです。

「人類学は何をするのか」については、開発人類学や公共人類学でも問われてきました。そこでは、開発事業などへの人類学的な手法や知識の応用、また現地の人々への応答に関して、実践や議論の蓄積がおこなわれています。それに加え、人間以上の存在を取り扱う人類学においては、ファインさんやコーンさんのように積極的に創造的な実践をする人類学者も多くいます。

こうした人類学の取り組みを踏まえつつ、「何をするのか」という部分においてマルチシピーシーズ人類学やエコクリティシズムは、人間以上の存在との関係に巻き込まれながら、分野横断的に取り組んでいくことができるのではないかと思います。とくに結城さんが述べられていた「学術的に書こうとすると漏れてしまう思索の部分」を取り込み、ファインさんの言う「不可量部分」の表現を試みながら、アクチュアルな問題に働きかける実践を、共同しておこなっていくことができると考えています。

中江:
結城さんの議論で興味深かったのは、文学研究がテクスト解釈から外に出て、フィールドワークをも包み込むものに変化している点でした。客観的で実証的、あるいはテクスト中心主義に陥るのではなく、文学研究・批評は、ナラティブ・スカラシップを含めて、書き手自身の新たな感性やヴィジョンを創造し、言語化していくことへと変わりつつあるのかもしれないと、改めて思いました。

その意味で文学研究もネイチャーライティングと親和的になり、また人類学の民族誌的アプローチと近いものになっているのかもしれません。結城さんがインタビューの中で自身の生い立ちや、なぜエコクリティシズムを研究しようと志したかについて語っていること自体にも、実践的な意味があったのではないでしょうか。

私の研究分野に引きつけて言うと、フランス文学の領域においては、マリエル・マセという本格的な文学研究者だった人が、コーンやインゴルドらに触発されて、詩をマルチスピーシーズの観点から読み直すだけでなく、幾分かナラティブ・スカラシップを意識しているように見えるエッセイの中で、環境問題と文学の双方を自由に横断しながら、人間と他種の関係を新たに結び直すことを模索しています。

マセの“Nos cabanes”※14と題された著作では、われわれ(nous)、結ぶ(nouer)、結び目(noeud)といったフランス語では「ヌ」という音を含む語を中心とした、一種の言葉遊び的自由連想に基づいて思考が展開されています。具体的には、われわれ(nous)を構成する主体を人間だけでなく、他種へも広げていったときに、その主体をどのように結び(nouer)、またほどいて(dénouer)いくのかということを考えています。

しかしながら、環境人文学と呼ばれる領域において、文学研究の立場から何ができるのかということは、さらに考えていく必要があると思います。今私が考えているのは、次の2つの方向性です。

ひとつは、新たな時代の新たな感性を表現する言語を見つけ出すこと。これはネイチャーライティングやナラティヴ・スカラシップなど、ノンフィクションのジャンルによって実践可能な領域だと思います。もうひとつはフィクションでしかおこなえないこと、あるいはフィクションと現実の関係をさらに考えていくことです。

私が研究している無人島小説(ロビンソン物語)を切り口に話してみます。無人島小説というのは、作家が作品の舞台を訪れたことがないという意味で、極めてフィクション性が高いジャンルです。しかし、その中では、いかにして人間と自然、あるいは動植物が関わっていくのかが大きな主題となっています。

とりわけ、ミシェル・トゥルニエという人は、『フライデーあるいは太平洋の冥界※15』において、動物であったり植物を模倣することで、人間を超えた存在に生成していくロビンソン物語を書いていました。近く公開される拙論文※16では、とくに植物とロビンソンの関係に焦点を当てて、植物的ロビンソンとも言えそうな特異な人間像について書いています。

他にも例えば、近藤祉秋さんが『たぐい vol.3』で分析されていた多和田葉子の『雪の練習生※17』も、ホッキョクグマを主人公にしていますが、トゥルニエの小説同様にフィクションでしか作り出せないマルチスピーシーズ論だと思いました※18。人間と動物や環境の関係を新たに考え直す契機になるという意味で、フィクションの力をもうすこし考える必要があるのではないかと思います。

インタビューに引きつけて言うと、パンディアンさんがデビット・シュルマンの“More than Real※19”を参照しながら、16世紀の南インドの文学作品では、想像が単に作り話ではなくて、現世的で極めて生成的な力として捉えられていたという指摘が参考になりそうです。フィクションは単なる虚構ではなく、現実へと働きかけていく力を持っているのだと思います。

もうひとつ、気になったのは「人新世」という用語に関してでした。これは「More-Than-Human」シリーズの魅力でもあるのですが、話し手の思考が必ずしも共有されているわけではなく、それぞれの立場に差異があって、それが明瞭になるのが人新世という用語だと思います。9つのインタビューの中で、結城さん、コーンさん、パンディアンさんの3人が人新世という言葉を使っていますが、それぞれこの言葉に対する距離感が違いました。

人新世という言葉が頻繁に出てくる背景には、コーンさんが存在論的な分析が倫理的な問いへと移り変わってると言われていたように、現代社会の問題に対して、人類学や文学研究がいかにして関わっていくのか意識していることがあると思います。

結城さんは人新世と呼ばれる、人間の影響力が地質学的にも現れるとされる時代において、マルチスピーシーズやエコクリティシズムの領域で何ができるのかということを問うています。人新世の枠組みから自身の研究の立ち位置を見据えているコーンさんと結城さんに対して、パンディアンさんは人新世という用語そのものに懐疑的でした。この概念が「あまりにも一般的で、物事を丸く収めようとしすぎている」という懸念が表明されていたのです。

パンディアンさんが人新世というときに考えているのは、古い言い方かもしれませんが、大文字の歴史=物語(l’Histoire)というものと、複数の小文字の歴史=物語(des histoires)の対立のことかもしれません。世界中の人間と歴史を単一化してしまう人新世という言葉の背後に隠れてしまう複数の歴史=物語を紡いでいくことは、欠かせない作業だと思います。人新世というもっともらしい概念に寄り添わずに考える可能性も探るべきではないでしょうか。

議論を戻すと、ブランシェットさんのインタビューの中で、すでに人新世というフレームからこぼれ落ちる問題が出てきていました。アメリカという最も資本主義の発展した国においても、産業間の分断があるという話です。工業型畜産を調査すると、未だに畜産業では垂直的な統合が求められ、現代的でなく近代的な工業化が進められていたのです。アメリカの中にも複数の歴史=物語があるという見方は、人新世という概念によって隠されてしまうリアリティーがあることを示唆しているように感じました。

すでに長くなってしまいましたが、大石さんが言及されていた不可量部分についても、すこし話を続けます。英語圏の人類学研究を紹介することで日本の研究との差異を問うことも、このシリーズの目的のひとつだと近藤さんから話がありました。私はフランス文学を専門にしているので、フランスの人類学と文学の関係ということから不可量部分についてコメントしたいと思います。

ヴァンサン・ドゥベーヌという文学研究者が「第二の本(deuxième livre)」という概念を提示しつつ、フランスの人類学者たちが専門の民族誌とは異なる、文学的な著作を著していたことを詳細に分析しています※20。人類学を研究分野として確立させようとした1920~30年代において、アマチュア旅行家や植民者、あるいは宣教師たちの、訓練を受けていない非専門的な記述を退け、同時に文学からも厳密な距離を取ることが求められました。つまり、直接の観察に基づく客観性が要求されて、文学のような主観的描写は棄却されたと指摘しています。

ただ、その後に研究対象となる民族がどのように考え、感じるのかという心性(mentalité)がモースらによって問われるようになると、その状況が変わってきたと言います。調査対象の社会や人々の考えであったり、雰囲気(atomosphère)を読者に伝えるべく、客観的な研究者は同時によき文学者であることが要求され、レヴィ=ストロース、ミシェル・レリス、マルセル・グリオール、アルフレッド・メトローといった人たちが「第二の本」を書くようになったと指摘しています。

客観的な民族誌では記述できない、フィールドワークによって感じた現地の雰囲気や人々がどのように考えているのかといった不可量部分を、いかにして伝えるかという点に関して、フランスでは「第二の本」というジャンルが伝統としてあり、この傾向は、ピエール・クラストルやフィリップ・デスコラを経て現代まで続いている気がします。

奥野:
なるほど。フランスでは、実生活の不可量部分をどのように文字の中に書き込んでいくのかについて、関心を抱き続けてきた伝統があったということですね。

中江:
そうです。例えば、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造※21』のような学術的な書物だけでなく、『悲しき熱帯※22』を書いたり、レリスも『幻のアフリカ※23』を書いたりしました。不可量部分をいかに記述するかというテーマが、このインタビュー集では一貫して問題になっていたと感じたので、すこし補足しました。

奥野:
派生的にさまざまな論点が出されました。これは裏側から見れば、人間が取り巻かれている環境や動物、人間以上の諸存在を取り上げるジャンルとして、人類学のフィールドワークと民族誌や現実的な諸課題、文学批評におけるテクストと、結城さんが取り組まれているようなナラティブ・スカラシップやアクチュアルな問題とが、方向性を共有しながらつながっていて、交差する部分が多々あるということかもしれませんね。

清水高志:主客の相依性が重層化して環界が現成する

大石:
清水さんのインタビューは、人類学やフェミニズム研究におけるアイデンティティや主体の議論をイメージしながら読みました。

アイデンティティの議論を大雑把にたどると、従来のアイデンティティは、日本語で「自己同一性」と訳されるように、その人の本質として固定的で単一的なものとして静的に理解されてきました。それが現在では解体されて、そもそも本質的で固定的なアイデンティティなど存在せず、さまざまな文脈や実践の中で立ち現れるものとして動的に捉えられるようになったと理解しています。例えば、ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』やバトラーの『ジェンダー・トラブル※24』では「分裂」という言葉が使われていたりします。

また、ハラウェイはその後の著書『犬と人が出会うとき』で、人間と動物との関係性に注目しつつ、関係性の中で、相手との関係性自体も内包しながら生成される主体のありようを示しています。ここでは主体と客体が相互構成的で、生成し続けるという視座が提示されており、インタビューの議論とも接続性があるのではないかと思います。

人類学やフェミニズム研究でこうした議論が出てきたのは1980年代頃からだと思うのですが、それと重なる議論が古くからの仏教哲学の中にあったということには驚きました。英語圏やフィールドにおける思想だけではなく、身近な宗教やアニミズム的な思想から思考する重要性を感じました。

中江:
清水さんの議論は、そのインタビューで完結している印象があり、どう広げていいのかわからないですが、《a》か《非a》のどちらかを取るというような排中律のアポリアを避け、その中間をいかにして考え記述するのかという着眼点に魅力を感じました。

インタビュアーの師さんも指摘していましたが、もうひとつおもしろいのは仏教の文脈で直感的に捉えられきたナーガールジュナや道元の思想を、ロジックを使って説明しようとするところです。これは東洋哲学の西洋哲学化ではないかと思えました。つまり、西洋哲学を東洋哲学によって乗り越えるだけではなく、清水さんの思考自体が東洋哲学の相互包摂になっている印象を受けました。

清水さんは相互包摂という言葉をよく用いますが、ここでは環界というものがいかに生成してくるのかというところで相互包摂を持ち出しています。主客の主体と客体が独立してあるのではなく、「相依」的に —— つまり互いに依存し合ってるということだと推測しますが —— 関係しあうことで、折りたたまれるようにして世界が出現してくる。そのようなダイナミックなヴィジョンにとても感銘を受けました。

奥野:
ありがとうございます。いずれもいいまとめだったと思います。

マルチスピーシーズ民族誌や環境人文学が、具体的な現実やテクストやアクチュアルな問題に向き合う中で、記述考察と実践を深めていくのに対して、哲学や仏教思想は、それらの土台に横たわる論理の問題を深く探究します。哲学と仏教がマルチスピーシーズ民族誌や環境人文学を補強する役割を担っているとも見えます。こう言うと、すこし道具主義的過ぎるかもしれませんが。

たしかなのは、哲学者の清水さんと仏教学者の師さんが、お互いの専門の交差を通じて深められる西洋と東洋の哲学的思索は、環境人文学を進める上で、他の生物やモノそのもの、人間がそれらとともに生きてきたことの意味や問題を根底から考えるために、欠かせないものだということでしょう。

記号から他者の身体性へと向かう環境人文学

近藤祉秋:
大石さんがお話しされていた、エコクリティシズムとマルチスピーシーズ人類学の目指している地平が似ているという点から応答していきます。エコクリティシズムの研究者との対話をおこなう研究会やシンポジウムに参加させていただく度に、よく似た感想を抱いてきました。重要なのは、第1部で述べた、人類学は記号としての動物から他者としての動物へと論じられる対象が移ったことなのですが、エコクリティシズムでも鍵概念となる「交感(correspondence)」の意味が変わってきています。

野田研一さんによれば、エコクリティシズムでは、ロマン主義的な「交感」からポストロマン主義的な「交感」へと転回が生じてきたそうです。ロマン主義的な「交感」では、自然界は人間の側に吸収されてしまうものとして考えられていたのに対して、ポストロマン主義的な「交感」では人間性によって必ずしも回収されないような、他者としての動物や自然を考えるようになったとされます※25

この変化は、人類学が人間社会内の記号としての動物から、ままならぬ他者としての動物の身体性に議論を向けるようになったことと非常に似ている気がします。これは、今後もエコクリティシズムの研究者の方々と話してみたいポイントのひとつです。

中江さんからは、デカルト主義批判を安易にやっていいのかという指摘がありました。最近この話に関連して、英語圏の研究者自身が二元論の乗り越えを目指すようになってきていることも、興味深いと考えています。その動きの中で、西洋以外の言語での思考の可能性について、これまで以上により真剣に取り組んでいるように感じています。

存在論的転回以降の人類学とも関わりが深いアネマリー・モルやアクターネットワーク理論を応用した分析で有名なジョン・ローが “On Other Terms”という論集をまとめました※26。これは、英語以外の言語の概念を取り上げて、それを基盤とした社会科学の可能性を考えるという趣旨で編まれています。英語圏で活躍してる人類学者自身も、そうした方向で考え始めているわけです。

ヴァンサン・ドゥベーヌのフランス人類学における「第二の本」の話とも関連しますが、まだまだ日本にいる私たちが知らなかったような、それぞれの言語での人類学とか、人類学以外の分野での動向があり、そうした領域との対話をどう進めていくかが、最近はおもしろいと考えています。企画の振り出しに戻るようですが、さまざまな言語や分野の壁を超えて学び続けたいと、改めて思わされました。

奥野:
さて、座談会の第1部から第3部まで、「More-Than-Human」シリーズの9つのインタビュー記事に関して、いくつもの大切な論点が出されたのではないでしょうか。この座談会は、とくに結論を出すことなく、オープンエンデッドのまま終わります。この先は、それぞれがマルチスピーシーズ民族誌や環境人文学に関わる中で、考えていくことができればと思っています。

また、この記事を読んでいただいた方々に、「More-Than-Human」シリーズで紹介した領域で、今何がなされようとしているのか、そのイメージと情報が提供できていれば幸いです。


「More-Than-Human」特設サイト「More-Than-Human」特設サイト

人類学を複数化し、問題の裏の不在に共感する

奥野克巳:
第2部では、「More-Than-Human」シリーズ※1に掲載された、ファインさん、コーンさん、パンディアンさんのインタビュー記事を取り上げていきます。引き続き、広島大学大学院博士課程後期文化人類学専攻の大石友子さん※2と東京大学大学院博士後期課程フランス文學専攻の中江太一さん※3に話をうかがいながら、近藤祉秋さんと私で整理していきたいと思います。

村津蘭さんによるインタビューの中でナターシャ・ファインさんが注目するのが、モンゴルの医療です※4。モンゴルの人々が、げっ歯類のマーモットを狩って珍味として食べるのは、その肉に強力な治療性があるとされているからです。他方で、マーモットは、毎年若者に死をもたらすペスト菌の保有動物です。モンゴル人はそのことをよく知っていて、自然の中の観察を通じて、マーモットの動きが鈍いと、ペストが潜んでいることを知る民俗知を持っていると言います。

モンゴルにおける動物由来の感染症に関する観察行動から、一体何が言えるのでしょうか。ファインさんは、ウイルス源を特定して責任の所在を配分するのではなく、ウイルスの異種間の移動に着目することもできるはずだと言います。そのような見方を発達させてきたモンゴルの牧畜民の社会では、「ワンヘルス」に先立って、古くから人の医療と動物の医療を区別してこなかったため、「予防法」的な医療の仕組みが発達しています。モンゴル医療では、土地の状態と人や家畜の健康が相関するという視点で捉えてきたという点も示唆的です。

ファインさんへのインタビューの後半では、人類学の表象の問題が取り上げられていました。彼女は映像人類学の方法として、映像を見る観客が、映し出される対象と一緒にいて、自分たちが全体の一部であるかのように感じられる「観察映画」を採用しています。映画がゆっくりとしたテンポで始まれば、全体がゆっくりとしたテンポで進むことを観客に想像させます。ファインさんにとって、この映像手法は、人類学が向き合うフィールドの現実、声のトーンや物の手触りなど、フィールドワークを人類学に導入したマリノフスキーが大事だと唱えた「実生活の不可量部分(imponderbilia)」を伝えるのに適したものだと言います。

また、この手法は動物に関して観客に伝えたいことのあり方に適したものでもあります。映像だけでなく、例えばGoProカメラを動物に取りつけるなど、多様なメディア環境を駆使することで、単に論述のスタイルだけではないマルチモーダルな人類学が、彼女の次なる課題だと言います。

ファインさんは、マルチスピーシーズを通じて、動物に対する人間の関わり方はひとつではないと認識することができると述べています。マルチモードを用いて実生活の不可量部分にどのように接近するのかという問題意識も彼女にはあります。インタビューを通じて彼女は、マルチスピーシーズ、マルチモーダルによって、マルチプルな人類学の展望を示してくれたのだと言えるでしょう。

続いては、『森は考える※5』の著者エドゥアルド・コーンさんへの近藤宏さんによるインタビューです※6。このインタビューでは「人類学とは何か」という問いに対する彼なりの答えの模索が感じられました。

前半では『森は考える』がどのように作られたのかが述べられていますが、彼はエクアドル東部のフィールドでさまざまな存在に耳を傾けたと言います。それには、人々の声を聞くこと以上に意味がありました。そうするうちに、森の中で人々がコミュニケーションをするときには、言語のあり方が普段と違っていることに気づいたのです。そのことから、彼が元々考えていた人類学について考え直さなければならないと思うようになった。同時に、人類学は実は多くのことを伝える術を持っていないのではないかということにも気づいたと言っています。

コーンさんは、人類学が、この人はこう言い、あの人たちはこう言っているという記述以上に進めていないことと、社会的・文化的な現実だけを相手にすることはパラレルなものだと見ています。そして、人々が森の中でさまざまなことをおこなうように、異なる現実の中に踏み込んでいかなければならないと考えるようになったと述べているのは、とても印象的でした。

また彼は、個人的な思いを排除して、事物に対する考えを変えるような何かと向き合う方法を見つけるための手法が民族誌なのだと言っています。そのようにしながら、『森は考える』のサブタイトルにもなっている「人間的なるものを超えた人類学」という人類学の新たな展望に、コーンさんはたどり着いたのではないでしょうか。

意外なことに、コーンさんは文章が上手ではないそうで、すごく時間をかけて執筆に取り組んでいる。そのこと自体がまた、関連性や物事を把握する方法にもなるのだと述べていました。

コーンさんのフィールドワークは、レコーダーを森の中に持ち込んで、録音しながらおこなう聴覚的なものだったことについても触れていました。そうした態度は、彼が、擬音語が多い言語体系の存在に気づくことにもつながったようです。擬音語とは音響イメージでもあり、人が森の中で考えるならば、“sylvian thinking”つまり「森の思考」は人間に大きな影響を受けるのです。

哲学的であり概念的な書物である『森は考える』の刊行後に、コーンさんは、森とはよいものであると気づいたと言います。そのことによって、森の価値が破壊されないために、存在論的な思考をすることから、倫理的なプロジェクトに関わるようになりました。コーンさんにとって、森は私たちを導いてくれるものであり、現在彼は、世界の声に耳を傾ける方法を、アマゾニアの思想家である精神的なリーダーたちとともに探ろうとしています。

人新世に関しては、人間が間違ってしまったということを、その概念が示しているというだけでなく、人新世という概念を手に入れることで、これから一体何ができるのかを考える機会にもなりうるし、その際に私たちは、世界に耳を傾けることが大切だと結んでいました。

コーンさんと同じように、人類学がどうあるべきなのかという角度から考えているのが、次の山田祥子さんによっておこなわれたアナンド・パンディアンさんのインタビューです※7

彼の人類学への出発点は、環境問題を勉強する中で、見捨てられた環境でさえ、現地の人たちにとっては価値があり、重要なのだと気づいたことにありました。そこから、人は間違うこともあるが、環境マネジメントのように間違いを修正すべきという点から出発するのではなく、人がどうして特定の行動を取るのかを理解することこそが大事であると考え、人類学の世界に飛び込みました。

パンディアンさんの人類学は、とても現実的でかつ前向きです。何か問題があるということは、同時に他のやり方で物事をおこなう可能性があることを示している。つまり、何らかの問題は、別の根本的なあり方を想像することにつながるというわけです。

パンディアンさんにとって民族誌とは、ある種の変わった環境論的な方法論です。他者世界への没入を伴う民族誌を通じて、想定外の事態や困難に向き合う開放性や感受性を養い、予測しなかった状況を学ぶのが人類学であると捉えています。

インタビュー記事からは、パンディアンさんの人類学に対する強い肯定的な価値観が伝わってきます。彼にとって「人間性」というのは、他者に共感する同朋意識のことです。そして、それが人類学的な問いを突き動かすのです。人類学者は、目の前に何かを喚起してくれるという点において、映像作家や文化人とさほど違いはないとも言います。

そのことを踏まえて、人類学が果たす役割とは、西洋を独善的なものにした人種主義や帝国主義の遺産に対して効果的に立ち向かうことで、その延長線上に、人間と非人間の境界を越えた人間性も主題化しうるはずだと見ています。そのことによって、西洋の自然・文化の二項対立の奇妙な反復ではない、より強度のある環境概念を、人類学の歴史から見ていくことができるのだと言うのです。

コーンさんが森の中で音響イメージに着目したように、パンディアンさんも思考の物質的な基質として働くさまざまなイメージの重要性を指摘しています。思考は、世界から離れた場所ではなく、世界そのものに属している。人類学者は、そうしたイメージを、自らを通して表象するチャネラーだというわけです。パンディアンさんの言っていることは、コーンさんの「記号過程」的です。そして、それぞれの驚きやアイデアに向き合うことにより、思考や存在の質感を変容させてくれる絶え間ないプロセスこそが、人類学の経験の手法だと述べていました。

人新世については、その概念を用いた現在の状況が現われてきた中で、アジア・アフリカの人たちの役割は小さかったため、非ヨーロッパの営みの側から人新世について想像してみることで、別の可能性が見えてくるとも語っていました。存在感があるものの裏側では、ある犠牲のもとで何かが不在になっていることを、人類学者は考えてみるべきだと。

不在になってるように見える、他の考えの存在感に焦点をあてることで、潜在的な変革へと歩んでいくことができる。近代性とは、他のものが排除されたことによって成立したものであり、失われたものを回復させることもまた、人類学にとって重要なのだと、パンディアンさんは考えていました。

以上、第2部の3つのインタビューの概要でした。

ナターシャ・ファイン:動物をめぐる知を探り、人々の声やモノの質感を現前させる

大石友子:
第2部では、それぞれの方が人類学者として、フィールドで人間以上の関係に巻き込まれながら調査をおこない、その研究成果を民族誌として描き出して世に出すだけに留まらず、創造的なプロジェクトに関与していることが印象的でした。

マルチスピーシーズ民族誌を実践している人類学者の中には、先住民運動などに、コーンさんがおっしゃってるような通訳的、つまり概念の翻訳的な立場で関わっている方が多くいるように感じます。それはおそらく、先ほど近藤さんもおっしゃっていたように、この分野が科学技術の人類学の潮流を汲みつつも、例えばヴィヴェイロス・デ・カストロの多自然主義(multinaturalism)であったり、デ・ラ・カデナの多元的宇宙(pluriverse)※8のような、単一の世界と複数の文化ではなく複数の世界という視座を提示した、先住民の人間と自然の関係性についての議論の潮流を汲んでいることもつながっているように思います。

その中で気になったのは、日本のマルチスピーシーズ人類学においてはアートや文学、哲学などとの協働は見られますが、海外のような積極的な運動との結びつきがこれまであまりなかったように感じられることです。海外と日本の運動のあり方が異なるのかもしれないのですが、この第2部のインタビューで触れられている海外でのアクティヴな活動は、とても刺激的でした。

こうした視点からインタビューを見ていくと、ファインさんは2つの積極的な活動をおこなっています。ひとつは、モンゴルの医療に関するフィールドワークをベースにしながら、民族誌映画などのマルチモーダルなコミュニケーションを通じて、一般の人々にも動物や土地との関係性を自分たちとは異なる認識方法から理解してもらうことを目指す活動。もうひとつは、モンゴルの医療と知識の伝達について研究する国際チームで、生物医療の技術と牧畜コミュニティが持つ病に関する知識の統合に向けて、異なるパースペクティヴを健康という観点で結びつけようとする活動です。

どちらの活動も、異なるパースペクティヴを持った人々が他者と結ぶ関係性を別のあり様から捉える可能性とともに、その異なったパースペクティブが重なる地点を作り出すことで新たな可能性も拓いていくという、重層的かつ創造的な活動として捉えることができると思います。こうした活動は、人類学者がフィールドワークで、自分のホームである慣れ親しんだ世界とフィールドという異なる世界を行き来して、双方の世界における現実の不可量部分へと接近できるからこそ可能になっているのだろうと感じました。

パンディアンさんの議論にも関わるのですが、モンゴルの伝統的医療のようなものは、時代遅れとみなされて、合理化されていくシステムに反映されず、衰退する可能性もあるかと思います。そう考えると、ファインさんの国際チームでの活動は、衰退していく可能性もある伝統的なものの中に未来性を見出していくものだと感じます。そして、このような活動は、人類学者が得意としていることなのではないでしょうか。

奥野:
マルチスピーシーズ研究の誕生には、複数の世界への視点が人類学の中にもたらされたことも一役買っているのではないかということですね。その指摘はなかなか興味深いです。

では中江さんからもお願いできますか。

中江太一:
はい。ファインさんの話を読んで最初に思ったのは、コロナ禍でインタビューがおこなわれ、この「More-Than-Human」シリーズがWebサイトとして制作されたことの意味です。パンデミックに見舞われた世界において、モア・ザン・ヒューマン的な発想がどのような点で有効なのかを考える契機になったと思います。

ファインさんのインタビューでは、マーモットが取り上げられます。この動物にある種の薬のような効果があると信じているモンゴルの人々の風習と、実はペストを媒介する動物であるという医学的な側面のせめぎ合いが語られていて、非常に興味深く感じました。

また、畜産業についてのブランシェットさんのインタビューでも、人間社会は「豚の感染症を貯め込む貯蔵庫の中核」になっているということが指摘されていました。ウイルスや細菌を前にしては、人間と動物というのは同じ立場に置かれています。マルチスピーシーズという新しい人類学の見取り図によって、この人獣共通感染症が明瞭に見えてくることがよくわかるのではないでしょうか。

この点を補足する意味で、最近再注目されているカミュの『ペスト※9』でも、ペストに最初に感染したのは人間ではなく、ネズミだったことを思い出しました。それから人類学の分野では、フレデリック・ケックの『流感世界ーパンデミックは神話か?※10』がありますが、マルチスピーシーズ人類学の視点からすれば、どちらの本も物足りなく映ります。

カミュの『ペスト』においては、ネズミはオランという地域の人々を襲うペスト禍を予兆する一種の印、記号にしか過ぎません。ケックの『流感世界』についても、鳥インフルエンザに襲われた社会の生政治分析が中心となっていて、人間と動物を問い直す発想は欠けているように思いました。

コロナに関する文学としては、体験記的なものやコロナ禍の人間を描いた作品が次々と出版されていますが※11、今後はマルチスピーシーズ的な発想も求められると思います。今現在、ウイルスをめぐる新しい人類学があるのでしょうか。

奥野:
その指摘は、種を超えて広がるウイルスや細菌などの病原体を、人間と動物種を扱うマルチスピーシーズ民族誌が取り上げる余地があるのではないかということですね。コロナを含め、ウイルスをめぐる人類学がありうるのかという大きな問いも出ましたが、これは後に残しておきましょう。

エドゥアルド・コーン:森の知的興奮を聞き、人間の言語世界に還す

大石:
コーンさんの『森を考える』は、すべての生き物が記号過程にいるということを描き出しており、日本でも広く読まれている著書だと思います。その著名な本を書かれているコーンさん自身が、インタビューでは「人類学が多くのことを伝える術を持たないことに歯がゆい思いを抱いていた」と述べているのが印象的でした。

ここでは、ファインさんがマルチモーダルなコミュニケーションを用いて不可量部分を伝えようとしていたように、人類学において従来とは異なる方法が探求されるようになった背景には、フィールドワークと民族誌を書くことの間にあるギャップが強く認識されるようになったことがあるとわかります。

そうした中で、ナイトさんのインタビューでも指摘されたように、人間の視点や語りだけから、他なる存在との関わりを描くことの先へと進むために、コーンさんは、森で録音データを収集したり、多様なレイヤーを用いて、人々が他なる存在と交流する様子に耳を傾けながら執筆をおこなったという経緯がおもしろいです。フィールドワークやデータ分析の方法としても参考になりました。

先ほど近藤さんから、パースペクティヴィズムは視覚に寄りすぎているという指摘がありましたが、実は私もそう感じていました。なので、最近は視覚に加えて、聴覚や嗅覚にも注目をしています。

クアイの人々が、象のことを理解することは絶対にできないと言っていることに触れましたが、それは人間同士の親密な関係、例えば親友や配偶者であったとしても、その人のことを完璧に理解するのが難しいという事実がベースとなっています。そして、理解することはできないと彼らが言う際には、絶対に理解できると言い切ってしまうことで生じる権力性を持ち込まないという意図が込められているように感じます。

ただし、クアイの人たちが象の視点を完璧に理解することはできないからといって、理解しようとしていないわけではありません。実際に象と向き合う場では、コーンさんが聴覚に注目したように、象の発する声や身体を用いて出す音に耳を傾けることが重要になります。さらに、クアイの人々と象の関係は、匂いを交換することから始まります。コーンさんが用いたレコーダーでの録音のエピソードからは、そういった聴覚や嗅覚を使いながらおこなわれる人間以上の存在との相互交渉の実践を、いかに記録することが可能なのか考えさせられました。

また、『森を考える』が著者の手を離れて、作曲家などのアーティストへと影響を与えたり、コーンさんが「倫理学的なプロジェクト」と呼んでいる活動において、実践的な活動、とくにアニミズムの考えを政治の領域に持ち込むといった共同作業をおこなっていることには、ファインさんの活動とも通じるものがあると思いました。

アニミズムを政治的な場に持ち込むということは、人類学が現地の人々と共同しながらできることのひとつとして、重要なことだと感じています。例えば、クアイの人々もアニミズム的な見方を参照しながら象との親密な関係を築いており、象を家族の一員として語ります。しかし、近代的な見方においては、動物との親密な関係は嘘や虚構として捉えられ、クアイの人々はむしろ象を搾取し酷使する人々として批難されてきました。さらに、彼らの持つ象の所有権を取り上げようとする動きも過去にはありました。

第1部の最後の議論と重なりますが、動物の視点を理解することはありえないという不可知論を前提としつつ、近代的な存在論では、人間中心主義的な視点から象を被害者として捉える見方が一般化しているため、なかなか象との親密な関係自体を社会に受け入れてもらえない状況があります。アニミズム的な視点を村の中に留めておくのではなく、いかに彼らの地位の向上や社会の構築へとつなげていくことができるのかを考えさせられました。

奥野:
アニミズムを現代政治の場に持ち込むというのは、「森は考える」と考えてみることから始めようと唱えて『森は考える』を書いた、コーンさんならではのインスピレーションに溢れる着想だと思いました。これを手がかりに、何か考えていくことができそうですね。隅々まで概念と言葉によって覆い尽くされ、それへの黙従によって人々が囚われの身となることの根源にある、悟性からなる政治の舞台が、直観に基づくアニミズムの景色に変えられてしまうのは、想像しただけでワクワクします。

中江さんの方からも、コーンさんのインタビューに関してコメントをお願いします。

中江:
『森は考える』を読んだ印象は、非常に重厚で難解な作品というものでした。なので、このインタビューは導入として好適なのではないかと思います。思考というのは人間の特権的な行為ではなく、人間以外の存在にもありえる。つまり、森が思考するという着想に至るまでのプロセスで、コーンさんが味わった知的興奮がリアルに伝わってきました。

彼は、フィールドワークが無意味に感じられたり、退屈であったりするかと思えば、物事が突然ひとつに結びついて、ひらめく瞬間が訪れるとも言っています。後から振り返ってみると、本書に生かされた最も刺激的な発見のいくつかは、ほんの数秒の間に起こったことだったと言うのです。

コーンさんが述べている研究や調査における時間の問題は、文学研究をやっている私にも共感できるものです。ひらめきの瞬間性が語られている一方で、それを言葉にすることの難しさも述べられていました。「私は文章を書くのが上手ではない」という率直な告白には、そのことが端的に表れていたのでしょう。コーンさんは、言葉を用いていかに説得力を持たせられるのか腐心していて、それが言語の模倣性やオノマトペに対する関心にもつながったのではないかと思いました。

それから、大石さんも触れられていたところで、人類学研究が芸術活動を触発していることにも興味を持ちました。リザ・リムさんの音楽が『森は考える』から着想されていましたが、他にも人類学の影響を受けて別の分野が刺激される例があれば知りたいです。文学の領域においても、人類学的な知を取り入れようという動きがありますし、例えばハラウェイが現代美術界に大きなインパクトを与えていることは知られていると思います。

奥野:
たしかにメイキング・オブ・『森は考える』といった趣のある刺激的なインタビューでしたね。人がその一部でもある森というフィールドへの入り方を考えさせられました。また、コーンさんが『森は考える』後に、倫理的なプロジェクトに関わるようになって、「森の思考」を持ち込みながら、アクチュアルな問題に自然な成行きで加わっていったという点も、おもしろいところです。

アナンド・パンディアン:ひとつの経験から質的統合性を引き出す

大石:
この第2部のインタビューには重なる部分が多くあり、かつ相互補完的になっていると思います。その中でもとくにパンディアンさんのインタビューは、人類学やその研究手法が持つ可能性とおもしろさがふんだんに述べられており、希望の溢れるものだと感じました。

とりわけ、人類学的思考は、エスノグラフィーという手法によって、身体をもって感じ、考え、この世界の可能性と実際性に向き合うことから生じているものであると位置づけ、人類学者は、映画作家や文化人と同様に、出会う者の心を揺り動かそうとしているのだと指摘されているのが印象的でした。

これはファインさんが民族誌映画を制作したり、コーンさんがレコーダーを用いて耳を傾ける中で、民族誌を書くだけでなく、さまざまな人を巻き込んだり、巻き込まれたりする事態が発生していることとも関わっているように思います。こうした視点から、人類学や人類学者の役割をチャネルやメディアだと考えていくと、民族誌映画や実験的民族誌のような取り組みや、さらには環境人文学におけるフィクション的な記述が持つ可能性に注目していく必要があると感じました。

また、そのためにもフィールドワークの中で、身体で感じ、考える。コーンさんの言葉で言えば「人類学者が日ごろ研究対象としているようなたぐいの現実とは異なる現実へと踏み込んでいく」ことが重要なのだと、改めて確認できました。

中江:
パンディアンさんのインタビューは、人類学についての再帰的な問いのようなものが多く、なかなか理解できない部分も多かったのですが、一番興味を惹かれたのは、デューイを引いて人類学のフィールドワークについて話しているところでした。

パンディアンさんは、一般的な意味での“experience”と一回性の“an experience”を分け、後者には質的統合性というものがあると言っています。ここには、フィールドワークという一回性の具体的な行為の中から現実についての深い認識が生まれてくるという、基本的な価値観が提示されているように思いました。

以上の解釈が誤っていないとすれば、文学と人類学の研究にも共通点があるのではないかと思います。文学あるいは文学の研究というのは、ひとりの作家、ひとつの作品という個別的なものから、普遍的な問いを引き出すことに存しているからです。

奥野:
なるほど。パンディアンさんが一回性の経験を大事にしているというのは、非常に興味深いですね。

パンディアンさんを含め、この3人のインタビュー記事を読んで、とりわけ強く印象に残ったのは、人類学者が「人類学とは何か」を問わざるをえないという意味で、再帰的な問いを自らのうちに抱え込みながら、フィールドに往っては還り、還ってはまた往く研究者だという点です。

人間世界にはさまざまな問題が蔓延っていますが、それは事が成し遂げられた別の可能性があったことを示していると、パンディアンさんは言っています。そして、別の可能性を想像する人類学を構想していると。それは中心にどっしりあって存在感を放っているものではなく、周縁に見捨てられていたものたちの方から世界を眺めることであり、学問の実践の中で身体化してきた人類学に染みついた見方であるように感じました。

パンディアンさんには、現代の人類学の改革者であるティム・インゴルドが哲学に向かうのと似た感性があるように思います。インゴルドは『人類学とは何か※12』の中で、人類学とは人々「について」の学ではなくて、人々「とともに」人間の生を学ぶ学だと再規定しました。これまで人類学者がフィールドで長らくやって来たことを正直に述べ直すことによって、学問の制度の中で一般化されたデータを取るためのフィールドワークという見方をひっくり返したのです。

パンディアンさんのアイデアには、インゴルドに比肩しうる「騒めき」のようなものがあるのではないでしょうか。この「More-Than-Human」シリーズの中でも、彼にとっての「ヒューマン」とは人類学のことで、彼のインタビューは、人類学以上、あるいは人類学を超えていくという趣がありました。その意味で、パンディアンさんの人類学が今後どんな成長を遂げていくのか、また彼がコロナをどう捉えるのか、とても楽しみです。

マリノフスキーから100年後の人類学

近藤祉秋:
まず、大石さんがお話しされていた、英語圏と日本語圏の違いについてお答えします。実はこの「More-Than-Human」シリーズを企画した理由のひとつが、英語圏と日本語圏の人類学の間にある違いを伝えるということだったんです。これだけグローバル化した世界で、コロナ禍以前はアカデミアの国際交流も盛んでしたが、それぞれの国や言語圏ごとに人類学の動向も異なるという状況があります。この企画では、海外の状況を伝えつつ、日本からの発信もおこなうというのが狙いでした。なので、大石さんがファインさんの記事を読み、海外の動向に触れて刺激を受けたというのは、個人的にはとてもうれしかったです。

中江さんからは「コロナ禍を受けてどのような新しい試みがありうるのか」という問いをいただいていましたので、いくつか事例を挙げてみます。私自身はデジタル民族誌やデジタル人類学という分野を学び始めて、フェイスブックなどのSNSを使った調査方法を試行しています※13。私の調査地は、80人くらいの小さな村ですが、古老でもフェイスブックのアカウントを持っているところなんです。Twitterのアカウントを使って、調査している方の話も聞きました。SNSを使った調査方法はおそらく今後多くの事例が出てくるのではないかと思います。

また別のおもしろい動きとして、オートエスノグラフィーの手法を応用したものもあります。オートエスノグラフィーとは、自分で自分の生活を民族誌として記録することを意味するのですが、知り合いにコロナ禍での日々の生活を文字や音声で記録してもらい、それを集めて分析するという調査方法を試している人もいます※14

人類学のスタイルとしては、ひとりの人間がひとつの村やコミュニティに行き、長期間住み込むというのが定番です。しかし、それがコロナ渦でできなくなった今、さまざまな新しい試みが生まれています。今おこなわれている試みの多くは、コロナが終息したら顧みられることはないかもしれません。それでも、新しい方法を模索してみることは、人類学の未来を考える上で有益かもしれないと思っています。

ちょうど100年ほど前にマリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者※15』を出版したことにより、アームチェア人類学からフィールドワークをベースとした人類学へと変化が起こりました。現在、コロナ禍により生じている変化がどの程度続くのかもわからないですし、その後に影響を与えるような変化をもたらすのかも不透明な情勢ではありますが、マリノフスキー革命が起きてからほぼ100年後に人類学のフィールドワークをめぐる状況が揺れているのは、興味深いことだと感じています。

最後に、人類学とアートの関係性に関しても短めにコメントをさせてください。そもそも「マルチスピーシーズ民族誌」という言葉が生まれる背景として、「マルチスピーシーズサロン」というアート展がありました。第1部でも名前が出てた「マルチスピーシーズ民族誌」の特集を組織したカークセイは、バイオアートに関心を持っていました。彼が中心となって、人間と生き物の関係、とくにテクノロジーを介したような生き物との関係を表現したアートを集めた展覧会がアメリカ人類学会で企画されました※16。カークセイが組織した特集の序文※17では、この「マルチスピーシーズ・サロン」で出品された作品も紹介されていて、このことからして現在の人類学とアートの近しい関係性をうかがうこともできるかもしれません。


「More-Than-Human」特設サイト「More-Than-Human」特設サイト

奥野克巳:
この「More-Than-Human」シリーズ※1では、「マルチスピーシーズ民族誌」と「環境人文学」とその関連領域で、この10年ほどの間に国内外で顕著な研究活動をされてきた9人の研究者に対し、日本国内の研究者がインタビューをおこなってきました。その内容が、2020年7月から2021年1月にかけてÉKRITSで日英両語の記事として公開されています。

この座談会では、監修者の私と近藤祉秋さんが全体を整理しながら、広島大学大学院博士課程後期文化人類学専攻の大石友子さん※2と東京大学大学院博士後期課程フランス文學専攻の中江太一さん※3を招いて、これらの記事を読んだ感想や解釈を述べてもらい、理解を深めていきたいと思います。

本日は、3つのテーマによってインタビュー記事を3つずつに分けて、話を進めていきたいと思います。



マルチスピーシーズ民族誌と環境人文学の整理

奥野:
ここ数百年の間、人類は、人間にとって住みやすい場所を作ったり、快適な暮らしを送ったりすることを追い求めてきました。そのことは表面的にはうまくいっているようにも見えますが、実際はその恩恵を十分に享受できる人とできない人の間に格差があります。

また人類は、人間が住んでいるこのかけがえのない地球をズタボロにしてしまっただけではなく、そのことが新型コロナウイルスのような感染症をもたらすという、人間自身へのしっぺ返しとも思える事態に直面しています。そんな中、人間本位の振る舞いをこのまま続けていいのだろうかと反省し、とことん考え抜こうとする人たちが現れてきました。

人間だけが地球上に暮らしているわけではなく、他の生き物「とともに」生きてきたことに思い至り、地球や環境のことを考え直そうとする新しい思想は、研究者にとって馴染みの薄い土地でおこなう長期のフィールドワークと民族誌という、これまで文化人類学が培ってきた学問の強みと合流しました。そして、「複数種の民族誌」つまり「マルチスピーシーズ民族誌」というジャンルとして、21世紀以降に生み落とされたのです。

さらに同時期に、地球規模の環境変化に対する強い危機感と、それにともなう人間観の変化を背景に、人間の世界のみを研究対象としてきた旧来の人文学のあり方を自己批判的に問い、環境哲学、環境史、エコクリティシズム、環境をめぐる人類学などを横断的に結わえた「環境人文学」と呼ばれる学際的な領域が立ち上がってきました※4

エコクリティシズム研究者ウルズラ・ハイザは、環境人文学を総説する論文の中で、複数種によって構成されるコミュニティとして人間社会を捉え直そうとしているマルチスピーシーズ民族誌を、人間中心主義へ対抗する際の参考になると評価しています※5

まずは、マルチスピーシーズ民族誌と環境人文学について簡単に整理してみました。

工業化される家畜、動物から見た人間

奥野:
さて、この「More-Than-Human」シリーズの中で、マルチスピーシーズ民族誌が何であるのかに言及しているのは、ただひとりゴヴィンドラジャンさんだけです※6。彼女はヘルムライヒとカークセイを引用しながら、マルチスピーシーズ民族誌には、人間以外の動物や物質の持つ特有の歴史や伝記を表現したものをたどることへの関心があり、それは、より広い学問分野との対話の模索の中で、人間と人間以外の関係性がどのように形成されているのかを考察し、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、医療や資本をめぐる言説や実践までも視野に入れる研究を生み出してきていると述べています。

また、人間を含むさまざまな存在の異なる作用や働きによって、社会がどのように構成されるのか探究するジャンルであるとも述べています。おそらく彼女が述べている定義に当てはまるマルチスピーシーズ民族誌は、この「More-Than-Human」シリーズだとブランシェットさんのものになると思います。

ゴヴィンドラジャンさんが取り上げたのは、インドの中部ヒマラヤのクマオンの人たちと5種の動物との「状況化された関係性」です。人と動物との関係性が、中央と辺地、ヒンドゥー・ナショナリズムと動物愛護運動、女性と家父長制、近代と伝統といったさまざまな二項との関わりの中で、人間に多様で複雑な行動を引き起こし、それが動物に影響を与え、さらに人間の行動や思考を方向づけるという絡まり合いを描き出しました。

例えば、都市のよそ者が山村に持ち込んだサルと在来のサルに対して、クマオンの人々の取る特有の振る舞いがどのように描かれているのかを見てみましょう。動物愛護団体は、農家を襲うサルを銃撃することに反対しています。他方、サルは神の使いであるため殺してはいけないと主張するヒンドゥー・ナショナリストもいます。そうした諸派の理念に森林警備隊は、現実的にどう対処していいのか途方に暮れるのだと言います。そんな中、果樹園を荒らしたサルを毒殺してしまったことに罪悪感を抱いて、サルにエサを与えている人がいたことを、ゴヴィンドラジャンさんは振り返っていました。倫理的・宗教的な問題と経済的な生活の間で引き裂かれた人たちの苦悩を描いています。

もうひとつエピソードを取り上げます。豚を飼育するダリット・カーストの人たちは、豚は野生化してイノシシになったと言います。ダリットのある男性は、イノシシのことを「家畜-野生動物」と呼びます。そうした言説の背景にあるのは、野生のイノシシを脱走した豚の子孫とすることで、豚肉の消費を不浄だと見て蔑視する支配カーストを暴力的な偽善者だと規定する対抗的な考えです。ゴヴィンドラジャンさんの研究は、状況に応じて生まれる種間の関係性に焦点をあてることで、マルチスピーシーズ民族誌の光源から、人間社会に横たわるさまざまな問題を照らし出していました。

豚に関して、ブランシェットさんは、1950年代以降に工業化され、今日極度に工業化された養豚飼育される豚と人間の関係を取り上げています※7。1920年代から50年代が工業化の最盛期だったのですが、現在、豚が工場での工業的労働により、ますます工業化されているというのは驚きました。

種付け用の雌豚の飼育、繁殖畜舎、飼育畜舎、食肉処理場、後処理施設を一企業の傘下に収める垂直統合が進められ、家畜の生から死までが高度な管理下に置かれ、販売される豚肉の品質の均質化が目指されます。すべての豚の体重を生後半年できっかり280ポンドにするために、人間の労働が集約的に注ぎ込まれるのですが、そのことのためにかえって、これまで以上により多くの人間の労働力が必要とされるのです。また、そのプロセスの管理とエンジニアリングのために、人間の組織形態も作り直されつつあると言います。

そんな中、豚は工場内で単調な生活を強いられています。人間が雌豚に触れると動揺させてしまい流産させる可能性があると言います。そうした豚の知覚に関する専門知識は、季節労働者から季節労働者に伝えられるのですが、他方で上級管理職は確率や統計モデル化に専門的に従事するため、仕事内容は職種によって全く異なっている。現代の豚肉生産は、人間中心でも豚肉中心でもなく、収益を高めていくことが中心に置かれた資本中心だと言います。彼は、生き物に関わることの価値を今一度考え直してみることによって、生産性や効率性を軸に置く今日の工業化された養豚業が脱工業化されることが目指されるべきだと唱えていました。

続いて、サルに焦点をあてた調査研究に関するインタビューに答えてくれたのが、ナイトさんです※8。ナイトさんはマルチスピーシーズ民族誌ではないのかもしれませんが、これまで一貫して人間と自然の関係を調査研究の対象としてきました。ナイトさんは、初期の民族誌『狼を待ちながら(Waiting for Wolves)※9』(未邦訳)で、和歌山の山村を取り上げました。日本の山村の過疎問題とは量的・質的な問題であり、人間の活動の減少が、環境の不活性化に結びついていて、“encroachment”つまり野生動物の里への「侵略」が引き起こされたのだと見ています。

過疎の村ではサルが人間に対して恐怖心を抱かなくなり、大胆に振る舞うようになります。逆に人間がサルを追い払うようになり、サルにふたたび恐怖心が芽生えることもあります。そうした観察を経て、ナイトさんの関心はその後、サルや動物が人間に対して感じる「魅力」へと移ります。日本のモンキーパークは、サルが人間に対して恐怖心を抱かなくなることで成立しているという事実の再発見は、とても興味深いものでした。

ナイトさんのアイデアは、こういった経験主義的な人類学の手法を通じて、人間の視点から「人間-サル関係」を見るのではなく、サルの視点から「サル-人間関係」を見るというユニークなものに発展してきたように思います。サルが人間からエサをもらうというのは、サルが人間に対して恐怖心や警戒心を感じなくなっているということです。

ただ、サルは人との間で一対一でエサを受け取るのではなく、大抵の場合、サル同士での競合があるので、一対多の関係があるのだと言います。こういうふうに見てくると、動物への人間のエサやりというのは、とても興味深いテーマをはらんでいるものに見えてきます。ナイトさんは、エサやりは日本では娯楽的な要素を含んでいると見ていて、今後モンキーパーク以外の日常的な場所での種を超えたエサやりに関する調査研究を企画していると言います。

ここまでが、第1部で取り上げる3人のインタビュー内容の概要でした。

ラディカ・ゴヴィンドラジャン:種間関係の複雑なプリズムを通して映し出される人間世界

大石友子:
三人とも、調査を始めた時点においては、マルチスピーシーズ民族誌的な関心や問題を抱いていたわけではなかったことに言及していましたね。しかし、それぞれの目的を持ってフィールドワークを進めていく中で、マルチスピーシーズ民族誌的な研究への移行があったということが共通していました。

このような過程の背景をすこし考えてみると、まずひとつ目には、文化人類学が人間以上の領域に踏み込み、自然と人間が交錯しながら生み出す世界をめぐる学問として再編されつつあるということがあると思います。

もうひとつは、ラトゥール※10やハラウェイ※11が言うように、私たちは人間以上のものたちと切っても切り離せないような現実の関係性の中で生きていることがあると思います。フィールドワークにおいては、人類学者も、現地の人々が多様な形で築いている人間以上のものたちとの関係性に巻き込まれざるをえないことが深く関わっているのではないでしょうか。

奥野:
自然と人間が交錯しながら生み出す世界をめぐる学問として、おそらく文化人類学がまるごと再編されているわけではなく、その一部が再編されつつあるのだと思います。

ラディカ・ゴヴィンドラジャンさんのインタビューに関して、何か気になった点はありましたか。

大石:
ゴヴィンドラジャンさんは、奥野さんからご説明いただいたように、ヤギ、ウシ、サル、ブタ、クマという5種類の動物に注目しており、人間と動物の状況化された関係性からさまざまなテーマについて記述していくというアプローチが大変興味深いと思いました。

人間と動物の関係と言うと、人間とある特定の種類の動物を取り上げ、一対一の種間関係に注目をした研究が多いような印象があります。私も研究を始めた当初は、マルチスピーシーズ民族誌として多様な種を取り扱うというより、調査対象であるタイ東北部スリン県の象を扱う技術に長けた人々として知られるクアイの人々と象の一対一の種間関係に注目していました。

しかし、人間を多様な種との関係性の中で生成される存在、つまり単一で独立した存在であるhuman-beings(人間-存在)ではなくhuman-becommings(人間-生成)であると考えると、多様な状況に置かれた動物との関係性が、いかに私たちの存在のみならず、社会であったり、社会関係を構築しているのかを描き出すことが重要になります。ゴヴィンドラジャンさんの取っているアプローチはそれを可能にしてくれるものだと思います。

私も最近では、クアイの人々と象の関係を中心としながらも、家畜である鶏、豚、牛、そして、犬、森、精霊といったものを含めて研究を進めており、長期の調査に入ろうとしている段階なので、非常に参考になりました。

中江太一:
大石さんが話されたこととも重なるのですが、ヤギ、ウシ、サル、ブタ、クマの5種類の動物と人間の関係を問うことで、単線的な物語に落とし込んでしまうのではなく、人間と複数の動物の間で織りなされる複雑な現実を、複数のプリズムを通して多元的なまま提示しようとする姿勢に感心しました。この点では、ゴヴィンドラジャンさんが本質主義的だというフェミニズムの考えを否定しながら、状況化された関係性において人間と動物の関わりを捉えようとすることと、密接な関連があるのかなと思います。

5種類の動物の中でもっとも興味を惹かれたのは、ヒンドゥー教において神聖視されているウシをめぐる議論でした。在来のウシと外来のジャージー牛に対するインドの人々の反応というのは、マルチスピーシーズ的なアプローチに共感しない人々にも訴えかけるような説得力があるのではないでしょうか。

つまり、社会問題を扱う上で通常は前景化されない動物を研究の中心に据えることによって、経済と政治の難題、すなわち酪農の生産性向上に貢献する外来種のジャージー牛を重んじる経済的観点と土着のウシを神聖視するヒンドゥー・ナショナリズムとの軋轢がくっきりと見えてくるからです。経済的効率性と排外主義の対立は、インドのみならず世界中の普遍的な問題ですが、インドの一地域社会の、それも動物という細部に焦点を与えることで、普遍的な問いというものが見えてきます。フィールドワークと民族誌のダイナミズムが感じられました。

ゴヴィンドラジャンさんの議論でもうひとつ関心を持ったのは、クマとの性行為を想像する女性の逸話でした。異類婚姻譚で見られるような想像力が、今もなお現実的な力を持っているということに驚きを覚えたからです。どの動物の話も興味深く、近く翻訳が出版されるとのことで、今から楽しみにしています。

奥野:
前半部分は、種を越えた人間と動物の間で、状況に応じて生み出される関係性を見ていくことによって、われわれが人間の世界のことだけから接近していたこれまでの人類学的なテーマを、また別の角度から照射することになるという意味合いですね。

中江:
はい。排外主義については、通例カースト制とか移民の観点から語られるのではないかと思いますが、人間と動物の関係から考えることで新たな視野が開けてくるということです。

奥野:
それはゴヴィンドラジャンさんのマルチスピーシーズ民族誌の顕著な特徴ですね。私も翻訳出版が楽しみです。

アレックス・ブランシェット:労働者の振る舞い、豚の感受性、人類学者の経験が交錯する養豚工場

大石:
ブランシェットさんは、極度に工業化された生き物としての豚と資本主義的な人間の労働の搾取に注目をしながら、養豚の垂直統合がおこなわれている企業でのフィールドワークをおこなっています。インタビューでは、ブランシェットさんが実際に繁殖畜舎で仕事をしている際に、彼なりの動物に対する振る舞いとして犬や猫にするような手つきで牝豚を撫でたところ、同僚から大声で「豚に触らないで!」と言われたというエピソードが印象に残りました。

この出来事から、ブランシェットさんは、工場内での豚の単調な生活は、振る舞いも含む労働者の多大な労働に裏打ちされていることに気付きます。一方、労働者は自らの振る舞いが豚に対して何らかのサインとなってしまう可能性に注意を払っており、豚の感受性が労働者の振る舞いを生成していると言います。つまり、そこには豚と労働者の相互生成の過程が存在していると考えられます。振る舞いと感受性に基づいた人間と豚の関係性が、床ずれ、流産、肉の質といったような形で、豚の身体に現れている点も大変興味深かったです。

このエピソードでは、労働者の振る舞い、豚の感受性、そしてブランシェットさんの経験が交錯しています。豚と必要以上の関係性を構築してしまわないよう、労働者は制御した振る舞いを余儀なくされていました。その中で、振る舞いを通じたサインの送受信によって親密な関係性を築いてしまう可能性のある相手として、豚の主体性が逆説的に現れているようにも思います。

このような均質な肉を生産するための養豚において、労働者と豚が共有する空間は、人間と動物が切り離されて管理された空間というよりも、ハラウェイが『犬と人が出会うとき』で論じているようなコンタクト・ゾーン(接触領域)としての性質を持っているのではないかと感じました。出会いによって、すべての主体、ここでは労働者や豚が、それまでには存在しなかったような新たな主体として変容してしまうような可能性が常にあるのです。

しかし、養豚においては均質な肉の生産という目的があるので、その出会いや変容によって生じる豚の産仔数や肉の質が変動する可能性を排除する必要があります。そのため、あえて出会わないことを積極的に生み出す実践がおこなわれていると考えられそうです。

中江:
ブランシェットさんの話は、動物の搾取という観点から語られることが多い畜産業について、そのような問題にも十分な配慮をしつつ、動物を畜産業の被害者とみなすありがちな物語に回収しない姿勢を感じました。

とくに気になったのは、通常非熟練労働としてみなされる家畜産業肉体労働を、動物に関する暗黙知の次元で捉えて、労働者の動物への関わり合いをつぶさに見ていこうとするところです。例えば、何十万頭の豚の出産に立ち会ってようやく身に付くような子豚の扱いであったり、出産を控えた雌豚への振る舞いなど、畜産業に携わる労働者には動物に関する深い知識が求められていると言います。畜産業の労働の中に動物との濃密な関係性を見ていこうとするところに迫力を感じました。

もうひとつ、すこし論点がずれるかもしれませんが、アメリカの畜産業において可能な限り効率よく食肉を提供すべく徹底的に管理下に置かれた豚は、たしかに被害者でもあるかもしれませんが、同時にある種の主体として現れるという点にも興味を惹かれました。ブランシェットさんのインタビューでは、それほど前面に出ているわけではないんですが、動物や植物を支配的な力を持った人間に搾取される客体として捉えるだけではなくて、動物や植物の視点に立ったときに見えてくる主体性に着目するのは、今ホットな話題かと思います。

例えば、進化論的な視点によって見えてくる植物の知性であったり、家畜の進化の問題です。『植物は未来を知っている』によれば、人間がトウガラシの新種を生み出すことで、豊かな食生活のために利用しているように見えるのですが、トウガラシの視点に立ってみれば、カプサイシンという中毒性の物質を人間に摂取させることで、自らの遺伝子を原産のメキシコだけでなく、世界各地に伝播していく戦略として考えることができます※12。その意味でトウガラシが人間を利用しているという議論を思い出しました。

また『家畜化という進化※13』という本では、家畜化された動物の方にもメリットがあるからこそ、自ら人間に近づいていったのではないかという指摘があったと記憶しています。動植物や地球環境を一方的に被害者としてみなすことは、ある意味で新たな人間中心主義なのではないかなということを考えていました。

ジョン・ナイト:動物はどんな気持ちで人間に向き合うのか

大石:
ナイトさんのインタビューは、ブランシェットさんのインタビューと重なる部分を感じました。ブランシェットさんは、労働者の振る舞いが豚にとってサインとなってしまうという点で、人間と動物の間にコミュニケーションが生じる可能性が逆説的に示唆されていたと思いますが、ナイトさんは、私たち人間がコミュニケーション可能な動物に関心を抱いているので、相補的になっています。

ナイトさんは、人間とサルの実際の関わり合いを、ゴッフマンの人間同士の相互交渉に関する議論からインスピレーションを受けつつ明らかにしようとしている一方で、霊長類学の見方も取り入れることで、サルの視点からも理解しようとしています。そうすることで、人間の視点のみからサルとの関係性を描くことを避けようとしています。人間の視点や語り以外から人間と動物の関係性を考察したり、多様な種の交錯を描き出すのは、マルチスピーシーズ民族誌にとって重要なことではないでしょうか。

一方で、そのような理解や記述が可能であるのかについて、マルチスピーシーズ民族誌においても試行錯誤がおこなわれており、さまざまな可能性が提示されつつある段階にあると思います。そこでは、何を動物から見た視点であると考えるのかという問題とともに、いかに描き出すのかという大きな2つの問題があります。

その中でも、動物から見た視点と言ったときに、例えば、ヴィヴェイロス・デ・カストロ※14や、このあとに出てくるエドゥアルド・コーンさんが描き出しているような、アマゾン先住民のパースペクティヴィズムにおいては、人間も動物も自らを人間とみなし、他の種は人間でないものとみなすものの、異なる身体によりパースペクティヴの差異が生じるという存在論が提示されています。そこでの人間の視点や語りは、必ずしも人間から見た人間と動物の関係性ではなく、動物から見た視点も含み込んでいるのだと思います。

また、こうしたアマゾン先住民のパースペクティヴィズム以外にも、私が調査をおこなっている象と暮らすクアイの人々も似たような存在論を持っています。彼らはまず村と森を対置させています。この対置は、一見すると「自然と文化」や「自然と人間」といった二元論のようにも思えるのですが、彼らは村も森も多様な生き物からなる「社会」だと言うのです。そのため、私たちが人間による統御の有無に基づいて象を野生象と飼育象に区分するのに対して、彼らは野生象は森の中で精霊や他の動物との関係性の中で社会化された象であり、飼育象は村の中で人間や、犬、ときには車などの人工物も含めたものたちとの関係性の中で社会化されている象であると捉えています。

彼らによれば、象だけではなくすべての生き物がそれぞれの領域で「社会化」されているのですが、だからといって同じ見方をしたり、コミュニケーションが常に成立するのではないそうです。なぜなら、それぞれの身体が異なるために、視点の差異が生じるためです。

タイにおいてクアイの人々は象の扱いに長けている人々として知られており、実際に彼ら自身も象を家族と呼ぶような親密な関係を築いています。しかし、クアイの人々は、このような差異の存在を前提にしているため、象のことを完璧に理解するということは絶対に不可能だと言い切ります。だからこそ、クアイの人々は象の行動を常に解釈し続け、象が身体を用いて伝えようとしているさまざまな意図や感情を読み取る努力をしながら、象との相互交渉を成立させようとします。

こうしたクアイの人々の提示する世界のあり方から考えると、動物の視点から人間と動物の関係性を捉えることがとても困難なことであるように感じます。一方、そこで成立している実践、クアイの人々であれば象との相互交渉を、詳細に追っていくことの中に、動物の視点を部分的に理解したり、自らの視点に内包する可能性があるように思います。

ナイトさんの場合は、霊長類学が明らかにしているサルの振る舞いなどを参照しています。霊長類学の提示する見方をサルの視点として捉えることができるかということには、議論の余地があるかもしれません※15。しかし、霊長類学の提示する見方など、人間から見た関係のあり方だけを前提としていない視点に注目していくことが重要だと、私自身は考えています。つまり、ナイトさんのように、人間中心主義的ではない見方を提示している霊長類学者たちの見方を、動物の視点を理解するために取り入れていくということです。また、そうした人間以外の視点の記述方法については、人類学がエコクリティシズムなどの文学から学ぶことが多分にあると思っています。

奥野:
サルが人間に接する際に、サルが自らと人間の関係をどう捉えているのかをナイトさんが考えているのは興味深いですね。サルが人間を怖がったら、人間には近づくことができないはずです。

他方で、人間は自分に危害を加える者ではないし、危害を加えようとしても大したことがないと判断して、恐怖心を感じることがない場合には、サルは人間の傍にやって来ることになるわけです。そうしたことから、ナイトさんは、サルの人間観、人間に対してサルが抱く恐怖心や魅力について考えています。

人間がサルにエサを「贈与」すると、サルがそれを受け取るという「贈与交換」が成立している場合、サルは人間に対して恐怖心など持っていないことになるでしょう。逆に、サルがエサを受け取らなかったり、エサをチラつかせても近づいて来ようとしなければ、サルは人間に対して恐怖心や警戒心を抱いているということが読み取れます。そうしたことを視野に入れて進められているナイトさんの研究は、とてもユニークだと思います。

それに加えてもうひとつ、今の大石さんのお話の中で、野生象・飼育象ともに社会化されていると見ている話とともに、クアイの人たちが、象のことは絶対に理解できないところから出発しているからこそ、解釈を積み重ねているという話も、非常におもしろかったです。

大石さんがパースペクティヴィズムを引いて話されていた点で、ひとつ思い出したことがあります。最近ある動物行動学者から、私の論文で、ヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティズムと、狩猟民が動物のパースペクティヴを読み取った肯定的な論評に対する姿勢を批判されたことがありました。批判のポイントは、動物のパースペクティヴが分かるなどとは信じられないというものです。それは人間の側から動物が世界をどう見ているのかを一方的に読み取ってしまっている人間中心主義だという批判でした。

私は、パースペクティヴィズムだけでなく、ナイトさんの見方なども含めて、動物の視点をめぐる人類学の議論は、自分の飼っている犬や猫がどう感じているかを想像するのと同じではないかと思います。これは常識的な見方に基づいていて、動物の考えていることがなぜ簡単に分かってしまうのかと疑問視する動物行動学者とは、異なる層位にあるのではないかと思うのです。

パースペクティヴィズムは、基本的に「不可知論」ではなくて、動物の視点を知ることができるというところから出発しています。とくにエドゥアルド・コーンさんは、そうした傾向が強いです。

コーンさんの著作『森は考える』では、「案山子(かかし)」についての議論がなされています※16。エクアドル東部のルナの人々は、害獣であるメキシコメジロインコを遠ざけるために、案山子を毎年トウモロコシ畑に立てます。ルナの人たちは、案山子に猛禽類の顔を描くのですが、人間には全然猛禽類に見えません。しかし、メキシコメジロインコには、どうやらそれが猛禽類に見えるようなのです。つまりメキシコメジロインコは、案山子を捕食者である猛禽類だと見て、トウモロコシ畑に近づいてこないのです。

ルナは、インコにはその案山子が天敵に見えることを知っていて、案山子を毎年作っていることになります。有名なネーゲルの『コウモリであることはいかなることか※17』をめぐる議論に接続して言えば、コウモリであることがいかなることかを、人間は知ることができるということになります。

これは清水高志さんが、『実在への殺到』の第1章の「ヴィヴェイロス論」で指摘されていることにも通じます※18。パースペクティヴィズムでは、他の生物種の視点を人間が理解します。例えば、アメリカの先住民は、ジャガーが血をマニオク酒として見ると言います。この見方は、人間だけが特権的な場所に立って、自然=動物を外部化することを回避していると捉えられます。そのことで、パースペクティヴィズムは、人間中心主義に陥ることから逃れていると言うことができるわけです。

さきほどの動物行動学者からの批判では、パースペクティヴィズムは人間中心主義でしたが、他方で、パースペクティヴィズムは人間中心主義を回避しているとも言えるのです。

中江:
今話題に出たパースペクティヴィズムと自然科学者の応答という点に関して、私は対立的に捉える必要はなくて、むしろ相補的に考えるべきではないかと思います。不可知論的に考えない人類学の前提については賛同しますが、それと同時に自然科学的な知見を活かすこと —— 例えばナイトさんのインタビューに触れるなら、霊長類学の知恵を借りサルの生態を知ること —— によって新たに見えてくるものもあると思うので、自然科学とも常に対話しながら研究していく姿勢は重要ではないでしょうか。

ナイトさんのインタビューでおもしろいと思ったのは、野生と人間社会の境界の流動性の話です。馴染みのある日本の里山の問題からアプローチしているので、すんなりと理解できました。この野生と人間の社会の境界の流動性については、ゴヴィンドラジャンさんが、サルとイノシシをめぐる話でも言っていた「状況化された関係性」、「家畜-野生動物」という話とも連関していると思います。

もうすこし具体的にいえば、英語に野生動物の農村部を意味する“encroachment”という単語があるということに驚きました。野生動物の侵入をもたらす過疎の問題が里山の荒廃と密接にかかわっていることは常識的に分かりますが、それを人口の減少という量的な問題ではなくて、人間の活動の減少という質的な意味で捉えべきだという指摘に目を開かされました。活動というのは、農作業や森林の管理であったり、森や村の間での移動のことですが、野生動物の侵入を招く農村の過疎化は里山環境の不活性化を意味しているのは、とても興味深いです。

奥野:
重要な論点を出していただいたと思います。まず中江さんによる冒頭の指摘は、その通りですね。自然科学者と人類学者の見方が違うという点に関しては、対話して考えていくことが大事だと思います。ナイトさんが取り入れようとしているように、霊長類学がどのように見ているのかをもっと知りたいです。

もう一点、“encroachment”に関して、ナイトさんと同じようなことを言っている本を思い出しました。2020年に出た新書の『獣害列島※19』です。オオカミを絶滅させたり、絶滅しかけたトキをかろうじて救うなど、日本人はこれまで、あちこちで野生動物の住み処を奪ってきたとされます。しかし、近年全国で、野生動物が増えているらしいのです。それは、太平洋戦争後に日本の森が復元され、保護されることで、野生動物にとってよい餌場が生まれたことに関わっているようです。

ナイトさんの言っていることに近いのは、過疎化して、山村に人がいなくなって、年寄りばかりになってしまったために、野生動物が人間に対して恐怖心を感じなくなって、農作物を狙うようになったと、著者が見ていることです。獣害が増えているのは、そのためだと言うのです。山村の過疎問題とは量的・質的問題であって、人間活動の減少が環境の不活性化に結びついて、“encroachment”が引き起こされたというナイトさんの見方に重なります。

種が蠢き、感覚を拡張するマルチスピーシーズ研究

近藤祉秋:
最後に私からもすこしコメントしておきます。

大石さんは、通常の人類学では動物一種対人間みたいな形で、問題を設定しがちであったというところから、マルチスピーシーズ人類学を学び始めて以来、複数種の絡まりあいとして考えるようになったとおっしゃっていました。従来の人類学とマルチスピーシーズ民族誌の視点の違いに関して、またナイトさんはマルチスピーシーズ民族誌ではないのではないかという点も奥野さんから出てきましたけど、そのあたりについてコメントしたいと思います。

人間と動物の一対一で見てしまいがちだったという点は、欧米圏の人類学で1960年代や70年代に論じられてきた動物のシンボリズム研究の前提から、そうなるしかなかったんだろうなと感じます。動物というのは自然的な存在であり、人間は文化的な存在であるというのが絶対不動の前提として議論が始まります。その中で、文化を持ってる人間が主体で、それが動物とか自然物を分節化して、分類していく。動物はあくまでも記号として人間社会の中で役割を果たすというのが、動物のシンボリズム研究の前提だったと思います。

その後、1990年代から2000年代にかけてヴィヴェイロス・デ・カストロとかティム・インゴルドとかが出てくると、動物は記号ではなくて、主体性やパーソンフッドを持ったものであったり、人間との連続性があるようなものとして考えられなければならないということ言われるようになります※20。ナイトさんはこの時代の議論を引っ張ってきたひとりだと考えることができると思います。

ただ私も、そこからマルチスピーシーズ民族誌の議論までは、どこか距離があるような感じを受けています。ここで重要なのは、科学技術の人類学の研究者によってマルチスピーシーズ民族誌が提案されたということじゃないかと思います。

これまで一般的になされていた人類学の調査は、狩猟や牧畜民、農耕民などの小さいコミュニティに入り込んで調査するタイプのものでしたが、そうすると哺乳動物とか鳥類とか、人間の目につきやすい生き物につい視点が向かってしまう。実際に現地の人たちが生業や儀礼を通して関わっていたり、現地語でも名前がついてる場合が多いですから。

他方で科学技術の人類学系の研究をすると、例えば微生物を見ると、すごく小さなものの中に多様なものが絡まり合う生態系があるという場合もあります。例えば、チーズがいい例かもしれません。こういう世界になると、一対一で考えるということによって、見過ごされる世界があるということがはっきりします。だからこそ、科学技術の人類学が「人と動物の人類学」ではなく、「マルチスピーシーズ民族誌」という言葉を提案することができたのではないかと考えています。

大石さんが身体性に触れていましたが、私も最近「人間以上の感覚」について考えています。つまり、パースペクティヴィズムがやや視覚に寄りすぎていることが気になっていて、例えば嗅覚を通した関わりも考えていきたいのです。ナイトさんが記事の中で議論されていた、日本における獣害の話にも関連しますが、宮崎県の焼き畑をやっていた山村で、イノシシが鼻を通じて、人間やその他の存在とどのように関わっているかについてお話します。

イノシシは、目が悪い動物です。だから、イノシシが生きる上では視覚よりも嗅覚が重要です。奥野さんが言及されていたメキシコメジロインコは、天敵の猛禽類がいるかいないか視覚を使って見極めてから、畑を荒らすか否かを決めていたのに対して、畑を荒らそうと狙っているイノシシは、嗅覚を使って関わり合いを持ちます。

ルナのインコ脅しでは、インコにとって猛禽類に見えるようなものを作りますが、日本の山村では、人間の髪の毛や古着を畑に置いて、イノシシ除けをします。たとえ人間の姿がそこになくても、イノシシにとってはそれらが人間の存在を意味することを知っているからです。つまり、これらはイノシシにとって人間を意味する「換喩(メトニミー)」としての表象だと考えられます。

さらに先行研究※21では、村人が焼き畑をやるのにいい場所を探す上で大事なのが、イノシシが山芋を掘った穴があるかどうかだという話もありました。なぜかと言うと、焼き畑が終わった後、数年間経って地面の養分が回復した土地では、大きな山芋が育つようになります。イノシシはそれを鼻で嗅ぎ当てて、掘って食べています。回復してきた地面の養分で育つ地中の山芋は、人間の目には見えないかもしれないけど、イノシシが鼻を使って掘ることで可視化されるのです。

人間を超えた感覚器官があって、その力があるからこそ、イノシシは人間と対峙することができるし、逆に人間はイノシシの鋭敏な嗅覚を逆手にとって、畑を守ることもする。他方で、イノシシの嗅覚を使って地面の養分の回復具合を可視化するときのように、自分の生活に役に立てたりもする。

このように、感覚を通じたかなり複雑な関係性、駆け引きがあることがおもしろいと感じます。単に人間とイノシシの関係で閉じるのではなくて、山芋とも関わっていたり、そのような絡まりあいに開かれているということも合わせて考えなければいけないと思いました。

次に、中江さんがおっしゃった自然科学との対話について、すこしコメントをしておきます。2010年に『カルチュラル・アンソロポロジー』という雑誌でマルチスピーシーズ民族誌の特集が組まれました。その寄稿者のひとりに霊長類学者がいます。アグスティン・フエンテスという人なのですが、その方はバリの寺院近くに住んでいるサルを研究しています※22

フエンテス自身はもともと霊長類学者なので、サルの行動を調べるために痕跡とか糞とかの調査をしているのですが、それに加えて、サルと関わりを持つ村人に聞き取りをおこない、文理融合的なアプローチで研究をしています。マルチスピーシーズ人類学にもさまざまなアプローチがありますが、自然科学者自身が人文科学的な研究方法も組み合わせて研究を進めていくという方向性もあるわけです。

それに対して、人類学者は何をするべきか。私はマルチスピーシーズ民族誌家と自然科学者との関心の違いを、うまく生産的な対話に結びつけることを目指すべきではないかと考えています※23。マルチスピーシーズ民族誌家が主に訓練を受けているのは人間社会のフィールドワークなので、生態学者と比べるとどうしても人間寄りになってしまうかもしれないけど、それに加えてフィールドワークを通じて自然観察もおこなうことができます。

例えば、私が関心を持っているのは、内陸アラスカの鳥と人間の関係なのですが、鳥類学ではアラスカの鳥の渡りに関する研究はたくさんあります。渡り鳥の中には、さまざまな理由で秋になっても渡れなくなった「残り鳥」がいます。残り鳥が村の近くをうろついていると、内陸アラスカ先住民の村人は捕まえて、冬の間飼育して、春になると放鳥してきました。

取り残されてしまった鳥たちとアラスカ先住民の村人がどのように関わっているかは、鳥類学の検討や関心の対象にはなりません。しかし、イヌ以外の動物を飼育しないはずの内陸アラスカ先住民の人々が、野鳥の一時的保護をしていることは、マルチスピーシーズ人類学的にはおもしろいことになりえます。

このように、通常は自然科学者が関心を持たないような人と他種との関わりに、フィールドワークを通じて迫っていき、自然科学者との対話の糸口としていくのも、ひとつの方向性として考えられるのではないでしょうか。

奥野:
最後の論点ですが、残り鳥に対する人々の扱いは、鳥類学者や生態学者の研究の視野から漏れ落ちる可能性がある。それに対して、人類学者はその問題を拾い上げられる。それらを持ち寄ることで、互いの対話に発展させていくこともできるだろう。それがマルチスピーシーズ民族誌研究の意義のひとつになるのではないか。そういった指摘ですね。

最初の方の論点は、嗅覚からマルチスピーシーズ世界に接近するということでした。案山子は「嗅がし」だともよく言われます。日本では、案山子はもともと猪や鹿、サルに人間の臭いを嗅がせることによって、人間が周囲にいることを想定させる仕掛けだったとも言われていますが、そういった感覚の領域にまで研究を拡張していくことができるのではないか。

加えて、そのことが、人間と動物と、その関係を媒介する案山子との複数者の関係であるのと同じように、猪と人間の一対一の種間の関係だけではなく、猪と人間の間に山芋が入って、マルチスピーシーズ民族誌が説く絡まり合いという視点に開かれていく。こうしたアイデアは、とても興味深いと感じました。

1996年刊行のデスコラとパルソン共編の論集『自然と社会※24』の若き著者であったナイトさんは、人間と動物(非人間)の関係の問題を人類学の中に持ち込んだパイオニア世代でした。今から振り返ると、そのあたりが、人間とシングルスピーシーズ(単一種)との関係をめぐる人類学的な研究が始まった時代だったのではないか。その後、微生物などの「多なる存在」を取り上げる「科学技術の人類学」の進展により、一から多へ、つまりマルチスピーシーズ(複数種)にシフトしてきたのではないか。そんな近藤さんの「マルチスピーシーズ誕生秘話」の見立ても、非常に魅力的でした。


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伊藤亜紗『手の倫理』(2020)伊藤亜紗『手の倫理』(2020)

——— 今回は、伊藤亜紗さんの『手の倫理※1』という著書を解題しながら、インタビューを進めていきたいと思います。

わたしたちが生きていく場面で意思決定をしないといけないときに、最近は社会通念にならって動けば間違いないということが通用しない状況になっていて、もっと創造性が重要視されているのを感じるようになりました。これまでの解題インタビュー※2の反応を見ると、通り一遍にことを済ませていくのではなくて、自分自身で状況を打開していきたいと考えるような方たちが読んでくださっているようです。今回の伊藤さんの著書は、まさにそうした方に響くのではないかと思い、もっとくわしく話をうかがってみたかったという経緯がありました。

わたしが伊藤さんのことを知ったのは、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖※3配ったりしたんです。それ以降のお仕事も一貫して、主体でも客体でもない第三項的な身体を、いろんな形で問題にされています。それを思弁的に論じるのではなく、視覚障害者の方や吃音を持つ方への取材を通して、フィールド科学的な手法で論じられている。その手法によって、思弁的には気づけないであろう内部からの多様な視点や論点が出てきている印象がありました。

今回の『手の倫理』は、フィールドワークでの経験を「触覚」という観点でまとめられていました。この方法論がおもしろいんですけど、人文科学では異質だと思います。このようなやりかたは、伊藤さんにとっては自然な感覚なのでしょうか。それとも、何かしらの戦略があってこういったお仕事をされているのでしょうか。

伊藤:
実感としては自然な流れなんですけど、背景に構造的な要因はあるんだと思います。大学院までは、カントが言ってることや、いろんな美学者や哲学者の言説を細かくテキスト分析するようなことだけをやっていました。ただ、これをずっとやることで美学史学はできるけれど、美学には永遠にたどり着かないことに気づいてしまいました。研究としてはすごくおもしろかったんですけど、感性や感覚を扱っているのに言語分析で終わってしまうので、ずっとしっくりこなかったんです。

そもそもわたしがあまり本を読むのが得意じゃないというのもあって、本を読んで理解することが自分の実感を深めてくれないというか、知識が増えることと感性が深まることが連動しない感覚があったんですね。それが決定的になったのは、自分が大学院のときに出産したときでした。出産は身体を持っている人間にはとても大きな経験だと思うんです。ところが、出産について分析した哲学書や美学関係の本がないことに衝撃を受けました。つまり、そこに書かれていることが普遍的だと謳っているわりに、実はまったく普遍的じゃなかったと気づいたんです。

つまり、白人男性の身体をベースにした哲学を、東洋人で違うジェンダーのわたしのような研究者がやっているということが、知識が増えても感覚が深まらないことの原因だったのではないかと考えたんです。従来の美学や哲学で語られていたことは、一種の人工物というか、フィクションの身体であって、もうすこし現実に落とさないと、研究としても閉鎖的な意味での美学史学になってしまうと感じました。その状況から外に出るためには、文献調査だけじゃなくて、現実の身体にアプローチする必要があるだろうと考えたんです。

とはいえ、現実の身体というのは全部違うわけですよね。そのひとつひとつの身体がわかればいいんですけど、いきなり個別に行くのは研究として怖くて、方法論がもわからなかったので、ものすごく抽象的な身体一般と個別の身体の中間として、類的なレベルだったら扱えるかもしれないと思いました。それで障害を持った方とか、特徴がわかりやすい身体であれば、美学的な研究としてフィールドワークができるのではないかと思ってやりはじめたんです。

§

——— なるほど、ありがとうございます。もう最初のヴァレリーの本の時点で、今のフィールドワークのベースになる視点がすでにあった気がするんですけど、ヴァレリー研究によって、現在の基本形のフレームを掴んでいったということなんでしょうか。

伊藤:
自分ではまったく変わっていないと思っていて、ヴァレリーが言っていたことをそのままやっているぐらいの感覚でいます。ヴァレリーは言葉を使って体を鍛えるみたいなことを考えていたと思うんです。わたしがそこに焦点を当てているだけでもあるのでしょうけど、自分が書いたものもそうであったらいいなと思っています。言説として体系を緻密にしていくのではなくて、その言葉と出会うことで体がどう変わるか。その体の変化の方がゴールであって、そこに向けて自分の文章を書いているという姿勢に影響を受けていて、そのままやっている感じがあります。

§

——— ヴァレリーの本のなかでは「装置」という言い方をされていたと思うんですけど、いわゆる記号体系を練り上げて一つの体系に集約していくのではなく、「装置」として身体に作用させていく思考が、どの本にも一貫してあるという印象を持っていました。なので、ハイコンテクストなことを踏まえないと読めない本にはなっていないと思うんです。たとえば哲学とか、それこそヴァレリーのような文学であるとか、そういったものにまったく触れたことがない人がいきなり読んでも、何かしらの示唆が得られるというつくりになっていて、非常に拡張性が高い印象があります。

最初に言ったように、わたしやÉKRITSの読者の多くが、そもそもアカデミズムの人間ではないので、自分の実践に役に立つ思想がほしいという向きが強い。前に解題した上妻世海の『制作へ』もそうですが、伊藤さんのヴァレリー論から『手の倫理』までの著作も、繰り返し参照できる実用性がある感覚です。

伊藤:
それはわたしの今の職場が文学部ではないことが大きいかもしれません。学生たちが理工系なので、ベースが全然違うんですね。わたしは大学院では芸術の教員ですけど、彼らのような美術にまったく興味もない人にどうわかってもらうかを考えると、もう人体改造をするレベルなんです。これは学生だけじゃなく教員もそうなので、まったくコンテクストが違う人たちとコミュニケーションしないといけない環境にいるんです。

§

——— それで言うと、単行本にまとめられたばかりの『見えないスポーツ図鑑※4』がありますよね。この本にはフェンシングの例が出てくるんですけど、われわれがフェンシングをする機会はなかなかない。でも伊藤さんの本を読んでいると、フェンシングの身体感覚が理解できる。これを一言で要約すると、「身体を通じた翻訳」という感じがしたんです。つまり、みんな身体を持っているからコンテクストいらないよねという感覚で書かれているような印象です。この発想は今の時代に受け入れられやすいし、ここまでラディカルに考えられたものじゃないと役に立ちにくい状況になっているとも思いました。

要するに、コンテクストを前提としてしまうと、そのコンテクストを精緻化していくしかない。論文を読んで論文を書くというのも役には立つけど、異分野まで拡張しようとすると相当なリテラシーがいるということになる。伊藤さんは研究をされつつも、そういったリテラシーを持っていて、それが翻訳をされて表現されているので、わたしたちが読んでも簡単にアクセスできる気がしています。

伊藤:
はい。そのとおりだと思います。

——— 本題の『手の倫理』についても、いくつか聞かせてください。まず第1章で、そもそも「倫理」とは何かということが議論されていますね。古田徹也さんの『それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門※5』という本にある道徳(moral)と倫理(ethics)の対比を援用しながら、議論するという形になっている※6

道徳が長い時間かけて定まった一般性の答えに沿って生きるのだとすれば、倫理は一般性を前提としない状況のなかで都度普遍性を問い直すという態度のことだといったことが書かれています。ここで重要だと思ったのは、道徳/倫理みたいな二極性が、いわゆる個別性/一般性という二項対立ではなくて、「一般性に準拠するか/その都度問い直すか」という態度の問題として設定されているところでした。

つまり、人はそもそも倫理的でないと創造的ではありえないのかなということが伝わってきたんです。当然クリエイターは今の社会のなかに生きていて、そこから何かしらの材料を持ってきてクリエイティブな活動をするわけですけど、そのときに倫理的な態度をとること自体がクリエイティビティの基本条件ではないかと受け取ったんです。この読み方がそもそも合っているのかお聞きしたいです。

伊藤:
倫理的であることは創造的であるというのは意識して書きました。それは、答えを自分で探していくという意味です。道徳の場合は、最初に答えがあって命令としてトップダウンで自分に突きつけられるわけですけど、倫理の場合は、状況によって自分で答えを探すわけで、自分なりに状況を発見して材料を集めてつくられる答えなわけです。だから、一般的に理想化された答えからすると、妥協案にも見えるんだけれど、この妥協こそが創造的で。この条件からどう答えを探すかというすり合わせが状況の観察だし、答えを探すというのが創造的だと思います。

でも、その逆のこと、つまり創造的であるためには倫理的でなければならないという発想は、自分で考えていませんでした。でもそうですよね。おもしろいと思える作品は、やっぱり倫理的なんですよ。最初の計画通りつくられたものって、芸術作品でもおもしろくないものですし。芸術作品つくるときに、自分で能動的につくっていくというよりも、できていくという言い方をしますよね。ミケランジェロが、自分は石像をつくっているのではなく、大理石のなかから取り出しているみたいなことを言う有名な話がありますけど、あの態度ってすごい倫理的だと思います。

大理石と自分の関係のなかからつくられるものは何だと考えていく。そして、自分の計画を強制しているわけではないというのが、すくなくとも本人の実感としてはある。そうやってちゃんと出会っているところは倫理的だし、結果としてやっぱりおもしろい。ミケランジェロの作品って未完成のものとかもあって、ああいうのはやっぱりつくっていくなかで出てきた絵画で、そこまでで一旦つくるのを中止するということだったと思うんですね。そう考えると、たしかに創造的であることのなかに倫理性は含まれているかもしれないです。

——— なるほど、ありがとうございます。一般的に倫理と道徳はよく一緒にされていますね。人間関係でも、正しいひとつの基準があって、その正しさを逸脱すると道徳的ではない。あるいは同じような意味合いで倫理的ではないと言われる。こうした用法が日常的なのかなと思います。ただ『手の倫理』を読むと、厳密に倫理的と道徳的は態度として違う。

人間関係で言うと、目の前にいる人には必ず目で見ることのできない側面があるという前提で人と接すると書かれていますけど、これを伊藤さんは「敬意」と表現しています。人を見ただけでは決めつけないという態度だと思うんですけど、これって人に限らず動物であっても、さっきのミケランジェロの大理石のようなマテリアルであっても、客体としてある性格を決めつけてしまうと、そこでの対話的なプロセスというのは一切発生してこないことになるわけです。そう読むと、倫理的であることは、やはりひとつの創造性の基本条件だと思いました。

これは、たとえば障害者の方たちへの福祉の話にも関わってくるんだと思います。トップダウンで決めて制約的に関わっていくのではなく、関わりのなかで協働的に場のコンセンサスをつくっていく態度。自分にはこう見えるが実際は違うかもしれない。それを「不意打ちの可能性」を手放さないと言われていますけど、仮説を立てて関わってみたら、仮説とは全然違う反応が返ってくるといったことを、フィールドワークで沢山体験されていると思うんです。

伊藤:
そうですね。毎回圧倒されるというか、負けた気分になるんですけど、それがやっぱり楽しいですよ。結局自分とその相手との差が見えてくるということなんだと思うんです。最初は自分の頭で想像している相手なので、まったく差はないんですけど、その差を探るような感じでコミュニケーションしていくと、最後はすごい差が見えてきて。お互いが情報交換しているだけじゃなくて、人間関係の変化が感覚としてわかるのがおもしろいですね。

——— 『手の倫理』では、とくに「触覚」について前景化されて、それを軸に議論されています。この部分を読んで思ったのが、われわれが人間関係を結ぶときには、距離を測ってる感覚があると思うんですね。つまり、日常的にも距離が近いとか遠いとか、相手との人間関係の基準として距離の概念を物差しとして使っている。しかし、視覚障害者の方には距離を測るという視覚的な基準がまず通用しないわけですよね。なので、まずは触れることからスタートするという感じなんですけれど、その近さ/遠さというアナロジーで考えているのが、実はまったく自明ではないという驚きが、いろんな事例から伝わってきました。

本の最初の方で、触覚的な関係においては、信頼して相手に預けた分だけ相手のことを知ることができると、ご自身の実体験を書かれています。そのことで愕然としたのがよく伝わってきました。要するに、自明性みたいなものが裏返るというか、世界が壊れるといった体験だったんだろうなと思ったんです。もちろんわたしからすれば、文章からの想像なんですけど、そもそも異質なものに出会っていくのが好きな方の文章だと感じました。

伊藤:
そうですね。自分でも簡単に自分が思っていたものが壊れると感じているんでしょうね。いつも自分が考えていることは大したことはないというか。今回触覚のことを考えるにしても、触覚を介すと一番自分が壊れやすいと感じるんです。触覚というもの自体が、視覚を基準にした社会の倫理とは違うものを提示するという意味で壊すのと、触覚自体が自分の輪郭を簡単に壊すという、二重の特性を持っている。

恋愛関係がわかりやすいですけど、成人してしまうと恋愛がほぼ唯一の身体的に濃厚な接触になってきます。そういう接触が自分の輪郭を壊す。たとえば子供と接していて、自分が触覚によって壊されやすいと感じることもあります。ちょっとした喧嘩ごっこのような、取っ組み合いをやるじゃないですか。そうすると、自分の暴力性がすごく掻き立てられちゃうんですよね。情けないんですけど、手加減できなくなくて、本気で怒っちゃったりして。でもこういうのが発端で、感情よりも先に触覚を通して自分の枠が壊されて、虐待が起きるんだと思うんです。

さっきお話にもあったように、身体的な接触で精神的な距離が測れなくなるという、危機的な状況でもあるわけです。その危機感を実感していた部分がありました。触覚の揺さぶってくる力がすごいので、自分の思い込みが壊れるのも簡単だろうなと。何かそういうご経験ってありますか。

——— 複雑な手続きなしで、瞬間的に壊れる感覚ですよね。自分の経験だと、時代背景もありますけど、僕が生まれ育ったところがかなり荒れている地域で、不良たちが跋扈していたんですよ。なので、殴り合いとか頻繁に起こるようなところで、フィジカルな接触は日常的でした。もちろん子供の頃というか、高校くらいまでですけど、『ビー・バップ・ハイスクール』みたいな世界観ですね。

僕はそこまでの不良ではなかったですが、喧嘩で殴り合いになる機会はよくあったんですね。その感覚は今でもどこかで覚えています。要するに、身体接触がまったくない状態と、胸ぐらをつかまれた状態って、一気に温度感が変わるんですよ。実際に殴られると、もう興奮してアドレナリンが回って、今度はほとんど痛くもないというアグレッシブなモードに入る。殴られても痛くないし、普段なら殴るのも躊躇するところを、平気で殴っちゃう(笑)つまり、暴力的なモードにスムーズに切り替わっていく感覚があります。

そういう経験がまったくないと、暴力的な人に見えるようなことだけど、そうじゃなくてそのシチュエーションによってスイッチが入っている。触覚によって、われわれが普段考えている秩序立った世界が、いかにフィクショナルなものであるかと露呈される。

伊藤:
おもしろいですね。胸ぐらをつかむのは、相手のモードを切り替えるためなんですね。

——— おそらくスイッチが入るんですよ。その前段階で、よくガンを飛ばすと言われる、にらみ合いの状態がありますけど、あのときは正直「もうここで引いてくれ」とお互いに願いながらやっていると思うんです。誰も喧嘩はしたくないので。だけど、どっちかが胸ぐらをつかむと、もうやるしかないという状態になる。こういうのが日常になってくると、その世界観の変わり方が自分のなかに記憶されるので、あんまりひどい状態には至らなくなる。今度は興奮しても、これ以上殴ったら後遺症になるという手前で止められたり、そういう制御が効かせられるようになるんです。

伊藤:
おもしろいですね。でも、だからこそ倫理だと思うんですよね。そうやってスイッチが入ってしまうことがあるからこそ、倫理的な感覚が生まれるし、自分も条件に含めた最善の選択を冷静に考えられる。わたしも地元が八王子なのでヤンキーだらけでした。中学のときに好きな人ができると、その人の名前を手首にカッターで書くみたいな世界です(笑)今思うとすごい触覚的な世界でした。

——— 言語というのはコードに基づいた記号的な世界観をつくっていきますが、触覚はもっと物質的で、あまりコード化されない情報がやり取りされる世界観って特徴があると思うんです。だけど、そこには内在された秩序みたいなものがある。まったく無分節の状態ではなくて、言語のようにコード化はされてないし、視覚的な秩序でもないけど、何か分節された摂理のようなものがある気がするんですね。それを逆にまたこうやって言語化していくと、ややこしい話にはなっていくんですけど。

つまり、直にそこにアクセスして、その世界のなかでいろんな情報をやり取りしようというひとつの前提が立てられると、いろんな問題が自ずと解きほぐれていくという印象を持ちました。伊藤さんの本でも、「信頼」と「安心」について社会心理学者の山岸俊男さんの論を援用して、安心を突き詰めていくと、たとえば事務作業が増えて煩雑になるというデメリットがあると書かれてました※7

安心のために書類が煩雑になっていくと、いろんな不具合が出てきます。とくに大きい企業に勤められている方からは、書類を処理する時間が多すぎるという話をよく聞きます。つまり、社内で決められたフォーマットで情報を共有することに、実際の仕事以上にエネルギーを使わないといけない状況があって、要するに社員を信頼していないからそうなっていることに、多くの人が気づいている。

なので、いろんなものを信頼するというコミットの仕方が、触覚的な倫理におけるひとつの大きなファクターなのかなと気がしています。今はどちらかというと、できるだけ安心な状態を実現しましょうと考えてしまうことが多い。たとえば、公園で子供にとって危険なものを排除していこうとか、そういったことが社会的には主流と感じているんですけど、そこへの異議申し立てにもつながっていくのかなと思いながら読んでいました。

伊藤:
そうだと思うんですけど、実際にどうしたらいいのかは自分でもよくわかっていないんです。安心を追求することは、それはそれで大事だとは思うんですよね。さらにテクノロジーが高度になれば、より安心の方に行ってしまう。その結果、今実際そうなっていると思うんですけれど、ますます人を管理することになってしまう。それに対して「100%の安心はないんだよ」と言って、信頼に目を向けてもらうのに、どうしたらいいのかまではわかっていないんです。

信頼はそもそも根拠がないものなんですよね。誰かが最初に信頼すると、信頼された人がそれを受け取って、お互いに信頼モードみたいなものになり、それからまた人を信頼するようになるといったことはあると思うんですけど、社会全体というレベルで考えてしまうと、経済活動ともリンクしないので。

——— そうですね。個人の実感ですけど、たとえばビジネスの場合は、大きな取引になればなるほど、信頼のほうが大事になってくる感覚がありますね。

伊藤:
ああ、そうですね。それはなぜですかね。

——— たとえば大きな契約をして、億単位のお金が動くときは、安心を突き詰めてもどこかに裏があるかもしれない、穴があるかもしれないというリスクは、完全に潰すことができないんです。小さなアウトソーシングであれば、逆に安心を求めてるんですけど、大きな取引では対面で相手に会って、長い間話をして、ようやく契約にこぎつけるというプロセスを必ず取らないといけない状態になります。

そのプロセスで何をやっているか考えると、やはり相手に嘘をつかれてしまうと終わりなので、相手が信頼できるかどうかを見極めていく作業をしてるんだと思います。リスキーなことを潰していく。社会全体の設計が安全を志向するのは必然的な流れという気はするんですけど、安全をベースにした社会環境でも、個々の場面では信頼についての能力を鍛えていかないといけないという気はしますね。

伊藤:
それは能力を鍛えるという感覚があるんでしょうか。

——— 当然ながらビジネスは利益を追求する側面が大きいので、おいしい話にはとりあえず警戒するわけです。このおいしい話が、どういう経緯で回ってきたのか考えたりして、警戒モードになるわけです。この警戒モードになったときに、リスクを取るか、警戒して引くか判断する能力は、鍛えるって感覚が言葉としてしっくりきます。最終的に決めるときに、欲望に負けていないかとか、今このお金があったら自分に都合がいいみたいなところでバイアスがかかってないかとか、そういった内部検証のプロセスを経ているんですよ。

こういった、自分の情動がどう動くかをメタレベルでチェックしていく能力は、経験知が大きいと思いますね。ビジネスで大失敗する人の多くは、おいしい話に流されるパターンが多いですけど、情動に検証能力が負けてしまっているんじゃないかという気がします。

伊藤:
なるほど、自分の情動をちゃんと分析できるということなんですね。おもしろい。

——— 安心というのは、おそらく客観的に評価できると思うんです。でも信頼は、検証しても最終的に騙されることがありえるので、客観的な評価ができないんですよね。たしか山岸さん自身の本※8に書かれてたと思うんですけど、信頼というのはうまくいったり騙されたりした経験知を積み重ねて、どこに賭けると成功するパターンが多くて、どこに賭けると失敗するパターンが多いのかが確率論的にわかっていることが、信頼する能力なのかなという気がします。

伊藤:
これはかなり建設的な判断ですね。前に将棋の羽生善治さんとお話したことがあって、彼も若い頃は何十手も先まで読んで、こう打てばこうなるというのをわかって対局していたそうです。だけど、年齢を重ねていくと、そういった計算能力は若い人に敵わなくなってきて、大局観みたいなものに頼るようになってくるそうなんです。それは分析的なものではなく、経験知の積み重ねで、ひとつひとつ目を読むのではなく、将棋盤の感じみたいなものを読むことらしく。そういったことには、経験知を判断の根拠とする自分の能力もありますが、経験知がたまってくると必然的に意志決定の方法が変わるということもありそうです。年齢的なものだけではなく、信頼と安心もおそらく関係していると思います。

——— 信頼は属人的にならざるをえないですが、安心は誰にとってものことになると思うんですね。人を選ばないというか、たとえば幼児にとっても安心みたいな状態で、誰もが安心できるようにリスク要因を減らしていくわけです。触覚的な倫理も、ある程度ナレッジを蓄積していくことはできるんですが、最終的にはどうしても現場で人が感じるところに依存せざるをえない。なので、自分の感覚と相手の感覚を育てていかないといけません。この育てていくという感覚が、なかなかシステムには適合しないような気がします。

伊藤:
そうなんですよ。学生たちと「AIにできなくて人間にできることは何か」というお題でディスカッションしたことがあって、たぶん手加減はAIにできないんじゃないかと言っていて、おもしろいと思ったんですね。手加減というのは、自分の能力を完全に発揮しないということになります。

たとえば、子供と100m走で競争するときに、相手が自分より遅そうでも、その子がすごく怒りっぽかったら、自分が負けようかなと思うじゃないですか。そういった社会的な条件を要因にして、自分のアウトプットを調整していくのが、手加減なんだと思います。しかも、手加減したのが相手にわかってしまうとよくない場合が多いですよね。わかった方がいい場合もあるんだけど、そこも含めて感じ取って、自分の行動の調節をするというのが手加減なので、それはAIにはできないのではないかみたいな話になったんですよ。

——— ものすごく単純に言うと、コード化できるかできないかという話ですよね。みんながなんとなく気づいているのは、そのコード化できない領域をどう評価するかが重要だとということで、それが伊藤さんの本が求められていて、読んだときにインパクトを得ている人が多い理由じゃないかとも思います。

続けて、本の内容についてお聞きしていきます。第2章の「触覚」ですが、西洋哲学では距離がゼロであったり、持続性や対称性、それからヘルダーの彫塑論を援用しながら、触覚が内に入り込む感覚であると論じられています。内に入り込むときは、文字通り相手の内に入り込めるということなので、それが触り方によって引き出される情報が違ってくるという議論がされています。

ここを読んで、なんとなく医者の触診をイメージしたんですけど、触る側の身体化された想像力がかなり大きく関わっている気がしたんですね。つまり、医者が触ればどういう病変があるのか直観できるけど、素人が触っても全然わからない。このように身体を重要な情報源とすることが、いろんな現場であるんじゃないかと思いました。

伊藤:
そうですね。さまざまな身体知を持っている職人さんの技術もそうですよね。医療の話で言うと、東洋医学と西洋医学で触り方がかなり違うらしいです。西洋医学の場合は、先ほど言われたように触診なんですけど、東洋医学の場合は切診と言います。まったく観察する対象が違っていて、西洋医学の場合は要素還元主義なので、臓器を触診しようとするんです。対する東洋医学では、触ったときの患者さんの反応を見ている。たとえば、触ったときに患者さんがくすぐったがったとき、西洋医学では緊張されると臓器が触れないのでノイズととらえます。だけど、東洋医学の場合には、くすぐったがる体から、その人の緊張度や人に対する信頼感の持ちようとして反応を受け止め、そこから状態を診ていくらしいです。触るときも、東洋医学では手を温めるんですよね。サイエンティフィックに分割してパーツを見るのではなくて、対人間で見ていくのでかなり違う。

——— 東洋の知恵の系譜で気とか丹田とかありますね。これを東洋医学と言っていいのかわからないですが、そもそも丹田という臓器があるのではなく、体全体のバランスのなかのひとつの一点を指して丹田と呼んでいる。そのことが視覚的ではなく、触覚的だと思います。視覚だと、何かを分析可能な対象として見るのが前提になりますけど、東洋医学の体系全般が分析的ではなく、必ず関係的に見ていく気がしますね。こちらのアクションに引き出されたリアクションから、状態を解釈をしていくと言いますか。

伊藤:
そうですね。さっきは西洋と東洋という言い方をしましたけど、西洋医学も遡れば東洋に近いところがあります。四体液説の頃はもっとホリスティックだったと思いますが、顕微鏡の発明や解剖学の進化などによって、すごく視覚的なものになっていった経緯がおそらくあって、触っているようで実は見ているといった感覚が強いのかもしれません。

——— 西洋医学の体系は近代の体系で、すべてを要素還元的に見る目線を持っていて、それが知の体系になっている。医者はその知の体系を頭に入れつつ、臨床の現場で身体的な情報も組み合わせていると、何かで読んだことがあります。職人からアーティストまでが、記号的な知性だけでは対処できなくて、必ず現場では身体知みたいなものを使っているのが実際のところなんだと思います。

伊藤:
その読まれた本は佐藤友則さんの『身体的生活※9』ですかね。わたしも読んで、その箇所に感銘を受けました。数値は問題ないんだけど、この患者さんを今日このまま帰しちゃいけないという気がしたという話ですよね。

——— それですね。身体の情報から直観につながっていくんだけど、そこはコードを経由しているわけではないのかなと。

伊藤:
実際に話を聞くと、理系の研究者でもそういった部分はすごく大きいみたいなんですよね。理系の研究と言うと、数字で考えているイメージを持ってしまうけど、職人的な部分がどうしても残るみたいなんです。前に人工衛星の研究者から聞いたのは、小さい人工衛星を飛ばして宇宙空間で展開する構造を研究しているんですけど、宇宙空間での実験では展開の様子が見えないじゃないですか。数値として情報は入ってくるし、シミュレーションもできるんだけど、それだけではわかったことにならないんですって。最終的には展開しているのを自分の体で再現する能力がすごく大事なんだそうです。遠隔だから触れないけど、最後はむしろ触覚的にわかることが研究者としての能力にすごく重要で、分野ごとの身体知があることを強く感じます。

——— 本のなかでは、触覚について「さわる」と「ふれる」という二つの極を示されてますよね。ここで言われている「さわる」というのは、物を相手に、その性質や状態を確認することです。一方の「ふれる」は、相手に心というか内面がある前提で、こちらがふれることによって、相手もふれられているのを認識する。つまり、こちらのイマジネーションと分かちがたく結びついている触り方を指しています。だから、触ると同時に触られていて、能動と受動が曖昧になっていくような、双方向性があるのが「ふれる」だと思います。

先ほど例にした西洋医学の触り方は「さわる」のに近くて、東洋医学の触り方は「ふれる」のに近い。おもしろいのは、「ふれる」が双方向とは言っても、身体という物質が媒介としてあるところです。つまり、心という領域だけで起きてることではなくて、身体という自然に開かれたなかでの相互行為だと思うんです。倫理と言われると、どうしても心と心の関係みたいになるし、「ふれる」と「さわる」をカッチリした二分法で考えると、複雑に感じるんですけど、実感としてはまったく複雑ではありません。それは身体という自然に媒介されているからじゃないかという観点が、すごくおもしろくて広がりがあると感じました。

伊藤:
そこに注目していただけたのはすごく嬉しいです。こう書いてよかったと思いました。やっぱり「さわる」と「ふれる」を分けて書くと、「ふれる」という双方向性が重要なんだねってところで一見終わりがちなんです。でも先ほど話されたように、そもそも身体は人間的なものを超えている部分があって、そこへのアクセスでも触覚が開かれているんですよ。

本の最後の方で、看取る人たちが死にゆく体を「さわる」ことで納得するという話をしています※10。原始的な交流を超えて、この体が生命の先に行くことを納得するときは、一方的に受け止めるしかない。でもそこには納得感のある「さわる」がまたある。これも触覚のすごさだと感じます。

生と死の話では、そういったことがよく言われると思うんですけど、それ以外にも人間の体に対して「さわる」ことは結構あるんですよ。「あとがき」で書いたのは、母親に「さわられる」という経験なんです。母親との関係と言うと、「ふれる」ことで自分を大切にしてくれて、慈しまれた経験をよく聞きますよね。たとえば、痛いところを手当てされるとか。だけど、よくよく考えると「さわられた」ときの方が幸せだったという記憶もあるんです。母親が何も考えず、自分の体をただ気持ちよさそうに、母親自身の快楽のために触っているときに、ものすごく自己肯定感が高まっていた気がして。自分にもそういった感覚があったと、本を読んで話を聞かせてくださった方もいました。

つまり、「ふれる」方が必ずしもコミュニケーションとして人間的に深いわけでも、そこがゴールというわけでもない。その先に「さわってしまう」という感覚もあるんです。さわられてしまう。さわってしまう。「さわる」ことは、自分の想像を超えたものと出会うということでもある。自分が物質になり、物質として扱われるのが、実は深い肯定だったり、深い納得だったりするということすらもある。そこも大事にしたいと思うんです。

——— そうですね。結局のところ、双方向性の「ふれる」に関しても、そこに何かしら存在しないと「さわる」ことができない。何かを「さわる」上で、その「さわる」のひとつの特殊な形が「ふれる」と考える方が合っているのかなという気がしました。当然ながら、身体という物質がないと、そもそも「ふれる」ことすらできないわけなので。

心と心がふれあうといった言説は多いですけど、それは人間と人間だけのクローズドなサーキットに閉じていってしまう窮屈なものでもある。「ふれる」ということを否定的に考えているわけではないけど、「人間のふれあいって大事だよね」といった言説を聞くと、窮屈な印象も持ってしまう。この「さわる」ときの物質は、現実には物質をベースにした生命体なので、ただの物質というわけではなく、やはり生きている身体を触っている。このあたりを読みながら、そこで身体が返す反応によって、人間関係が開放的になっていくような感覚を持ちました。

伊藤:
生まれた環境のせいもありそうですけど、小学校から中学校くらいまでは、友達の体と接触する経験がそれなりにあったと思うんですよ。そうすると、友達それぞれの体が持っている生命体としての強度を理解することになります。たとえば、ある子とぶつかって、すごい弾力性が高い体だと知ったりとか。

そこで知ったのは、人格とは別の、生命体としての個性みたいなものだと思います。その基本情報が頭にあった上で、たとえばボールをパスするときの力を加減したりしてました。この子ならこれぐらいの速球でも大丈夫とか、そういったことが信頼関係にもつながっていた気がするんです。そういうレベルの情報も、人間関係のなかですごく重要だと思います。

——— モダンとプレモダンに二元化するとして、今おっしゃったような身体を互いに理解し合うことは、プレモダンの世界で構築されていたことじゃないかという気がします。たとえば、狩りをするとき、あいつは狩れるけど、あいつは狩れないみたいな区別だったり。変な表現になりますけど、それは触覚的に見ているという感覚ではないかと思います。距離をおいて視覚的に接するときも、なんか信頼できるなという感覚は、プリミティブな身体性から出てくるのではないでしょうか。こうしたプレモダン的な世界観がすべて正しいわけではありませんが、これを失いすぎると閉塞的な関係性になってしまうという気がします。

伊藤:
身体介助を受けている人は、さまざまな介助者と物理的に接触しているので、触覚的な人格をすごく重視しているんですよね。そうすると、パッと見の視覚的な情報と、実際が違うことが多いらしくて、この人は丁寧そうだと思っても、介助してもらうと適当だったりとか、堂々としていると思ったら、妙に慎重な手つきで触られたりとか。慎重に触られても、それはそれで面倒くさいと感じたりするらいんですけど。いずれにしても、視覚的に見えるその人と、その人そのものを、違う物差しで見て知っているわけですよね。

——— ヘッドスパを受けるみたいな日常的なケースでも、気持ちいい人と雑な人がいたりしますよね。

あと、おもしろいと感じた論点が、第6章の「不埒さ」と題されているところです。視覚的な秩序は、ひとつの対象をフレーム化してカテゴライズしていく種類の秩序だと思うんですけど、触覚はそもそも対象化やカテゴライズがしづらい感覚であると。AというフレームとBというフレームがあったとしても、触覚においては混ざり合ってしまう。本のなかでは、介護現場で介護している体感と、性愛のときの体感を混同してしまう例が上げられていました。つまり、性愛的な行為の場面で、つい介護のことを思い出してやる気をなくすとか、逆に介護の現場で性愛を連想して混乱してしまうといったことです。

このあたりの話を読んでいると、これは創造性という問題意識にも引きつけられるのがわかります。創造的な場面というのは、秩序立てられた客観的な情報、言わばキャビネットに入っているような情報を一旦机の上にばらまいて、それをいろんな形で結合させていく作業だと思うんですね。こういった作業も触覚的なんだと思います。

デザイナーやアーティストの作業現場を見ると、本当に手探りでやっている。これを秩序壊乱的とネガティブに評価することもできますが、この視覚的にカオティックな状態を経由しないとクリエイティビティにはならないという気もするんですよね。

伊藤:
そうですね。わたしがとても尊敬している東大の情報学環の暦本純一さんが、『妄想する頭 思考する手※11本を出版されるんですけど、タイトルがかっこいいなと思って、先に言われた感がありました。

手には考える力があって、この考える力というのは、先ほどおっしゃったように、手で触りながら違う枠組みに行ってしまうというか、想像していたのとは違う場所に横滑りしていくようなおもしろさがあるんです。

すこし前にご紹介してくださった『見えないスポーツ図鑑』も、ひたすら手で考える研究だったんですね。研究するときには、山のように百均のグッズを置いて、ノープランでどうするか考える。ただ大学でやる研究なので、先に研究計画書を出さないといけない。研究計画書を応募して、はじめて研究費がつくので、それ自体に創造性がないんですよ。答えがわかっていて実行するための枠が与えなければならないんです。だけど、研究はそんな風に結論が見えているわけではなくて、本当は何をやっているかよくわからないまま進めていくわけです。

いろんなものを触っていくうちに、『見えないスポーツ図鑑』というコンセプト自体ができてきたりとか、この種目ならこれを使って翻訳できるのではないかといったことが見えてくる。これは、そもそも人間の考えるという作業が、自分の頭のなかで完結しないもので、自分以外の材料が考えているみたいなところがあるんだってことなんです。それは常に意識して研究しています。

——— 頭で考えるというのは、一回記号化したものを組み合わせていくことだと思うんですけど、記号ありきで考えてしまうと、どうしても楽しくない思考になっていくのかもしれません。身体からまだコード化されていない情報を受け取って材料にせずに、頭だけで考えてしまうと、妄想的になっていくんだと思います。とくに手は自由に動くので、身体のなかでも思考に向いている器官という気がします。

手を使って試行錯誤していても、そもそも人間は生物として構造化されているので、分節機能が働くんだと思います。伊藤さんがされているのは、完全に混沌としたものを混沌としたままかき回しているわけではなく、人間の身体という分節構造で対象を構造化していく作業だから、そのまま思考と言えるのかなと感じました。

伊藤:
そうですね。その一方で、妄想も重要だと思うんです。妄想というか、言葉がつくり出すものは、常に無茶苦茶。わたしの今回の本では二項対立がたくさん出てくるんですが、これは体や認識に対してショックを与えたいと思って、意識的にやったんです。言葉だけで完結すると机上の空論だけど、それが体や認識と組み合わさったときはおもしろくて、そこから派生して変化が起きることがある。二項対立ってもの自体が、勝手に言い切るような言葉の使い方で、すごく妄想的なんだと思います。

そういう意味で、体は分節することで創造性を発揮するという面がありますが、混沌とした部分もあります。障害を持っている方が、どこかが痛いんだけど、それがどこなのかわからないときに、言葉を求めて痛みを分節化したいということがある。実際に分節化すると痛みが変質することがあって、よく体と言葉は対立的にとらえられるんですけど、対立するからこそお互いが材料や道具になるところがあって、そこが重要だと思うんですよね。

——— 『手の倫理』では二元論として書かれていましたけど、一方で哲学の系譜では心身一元論や汎神論みたいな世界観もあります。だけど、お話をうかがって、現実に創造的な拡張性が持てるのは、身体を他者と考えることじゃないかと感じました。

伊藤:
とにかく「体はすごい」みたいな身体論がありますよね。「体はすべてを知っている」みたいなの(笑)だけど、体があることで、しんどい面もたくさんある。体が勝手にやっていることがたくさんあって、それに巻き込まれて付き合わなきゃいけない。おっしゃるとおり、体はある種の他者というか、自分だけど自分ではないというのをメッセージとして突き付けてくる存在だと思います。これは自分の実感でもあるので、この先もそこを中心に考えていきたいと思っています。

2020年12月14日
インタビュアー: +M(@freakscafe