ÉKRITS / エクリ https://ekrits.jp デザイン思想のテキストをデザインするメディア「ÉKRITS / エクリ」 Thu, 14 Dec 2023 08:12:52 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.0.7 カーソル・ラバーハンド錯覚・スワイプ ── 「画面帰属感」がつくる自己を画面に帰属させたミニマルセルフ https://ekrits.jp/2023/12/8171/ Thu, 14 Dec 2023 08:06:12 +0000 https://ekrits.jp/?p=8171 ホーム画面をスワイプする体験の「わからなさ」

2007年にiPhoneが登場して以来、私たちは日常的に画面に直接触れるようになった。ディスプレイに表示されているアイコンをタップしてアプリを起動したり、写真をスワイプして次の写真を見たりしている。タップはマウスやトラックパッドのクリックを代替するものであり、特に違和感もなく受け入れた人が多いだろう。では、スワイプはどうだろうか。スワイプは「iPhoneユーザガイド」の「iPhoneの操作に使う基本的なジェスチャについて」で「画面の上で1本の指を素早く移動します。例えば、ホーム画面を左にスワイプすると、ほかのアプリが表示されます※1」と説明されている。こちらもほとんどの人があたらしい操作方法として受け入れただろう。しかし、私はiPhoneのホーム画面のスワイプに大きな違和感を持っていて、そのことを認知科学の研究者小鷹研理とメディアアーティストの谷口暁彦とのトークで話した。小鷹が私の話を次のようにまとめてくれている。

水野は、iPhoneでホーム画面をフリックする際にみられる、アプリのアイコンがグリッド状に並ぶレイヤ全体が面として左右に移動する映像を見せながら、この体験の「わからなさ」について説明された。とりわけ、ディスプレイに物理的に触れている一点の操作が全体の面に及ぶ変換の恣意性に対して、ある種の「不安」さえ覚えるという。一方で、この種のインタフェース体験は、多くのユーザにとって既に自明のもの、馴染みのあるものとなっていることも事実である。小鷹研理「「気持ちいい」と「気持ちわるい」の錯覚論、メディアアートとの対話※2※3

今回※4、私が考えたいのは、ホーム画面の遷移を可能にするスワイプというジェスチャについてである。なぜ私はこのスワイプ体験に「わからなさ」を感じ、スワイプに慣れた今でもたまに違和感を感じ続けているのだろうか。スワイプ体験を考える準備として、まずはカーソル体験を「自己帰属感」を軸に考察し、その後、ラバーハンド錯覚とカーソル体験との比較を行う。最後に、スワイプが皮膚という「半自己」的存在をヒトとコンピュータとのあいだに入れる行為であるがゆえに、画面に対しての「自己帰属感」が曖昧になり、「画面帰属感」というあらたな感じが生まれていることを示す。

カーソルと「自己帰属感」

渡邊恵太の『融けるデザイン』は2015年に出版され、2022年末には10刷がなされたインターフェイスデザインの基本書となっている。その理由は、インターフェイスデザインに情報で体験をデザインする時代に適した「自己帰属感」というあたらしい軸を提示したからである。

動きの連動によって自己への帰属感が立ち上がってくる。つまり、私たちは普段カーソルを意識しないで対象を意識しているというカーソルの「透明性」の正体は、「動きの連動」がもたらした自己感、自己帰属の結果であったと言えるのではないだろうか。また、ハイデガーの事物的存在と道具的存在も、この連動が生み出す自己帰属で説明するのが良さそうだ。

つまり、私たちはユーザーインターフェイスの設計に「自己帰属(感)」という新しい設計の軸を手に入れたのだ。しかもこれはカーソルを利用したシステムはもちろんのこと、コンピュータにおけるさまざまな入力手法を考えるときの強力な設計指針となる可能性を持つのだ。
渡邊恵太『融けるデザイン※5

渡邊が『融けるデザイン』で書いた「自己帰属感」は、実際にインターフェイス設計の「強力な設計指針」となっている。ここで私が考えたいのは、インターフェイスデザインにおける「自己帰属感」の有効性ではなく、渡邊が「sense of self-ownership」の訳語として「自己帰属感」を使っていることである。渡邊は次のように書いている。

もともとこうした「自己感」については脳科学や哲学の分野でも議論されており、そこでは自己感は2つに分類され紹介されている。それは、「自己帰属感[身体保持感](sense of self-ownership)」と、「運動主体感(sense of self-agency)」というものである。
渡邊恵太『融けるデザイン※6

なぜ「sense of self-ownership」の訳語として「自己帰属感」が使用されているのを取り上げるのかというと、「錯覚」という観点からインターフェイス体験を考察するために読んだ小鷹の『からだの錯覚※7』では「自己帰属感」が「sense of agency」の訳語として使われていたからである。私は小鷹研究室が考案する錯覚を体験して以来、ディスプレイに表示されているアイコンや画像などのデータから構成される「デジタルオブジェクト」に「触れる」という体験を分析するには、錯覚が起こる身体の仕組みを利用する必要があると考えるようになっている。錯覚の強烈な体験が身体イメージそのものを変えてしまうように、インターフェイスは使い続けるなかで身体とデジタルオブジェクトとの関係を否応なく変えているのではないだろうか。このような考えで小鷹の本を読んだときに、渡邊と「自己帰属感」という訳語の使われ方が異なることは、錯覚とインターフェイスとを繋げて考えるきっかけになると考えたのである。

「sense of ownership」と「sense of agency」は哲学者のショーン・ギャラガーが「ミニマルセルフ」を構成する要素として提示したものである※8※9。「ミニマルセルフ」とは自己を構成する最小限の要素であり、物語や記憶から成立する「ナラティブセルフ」の対となっている。そして、「ミニマルセルフ」は「この身体はまさに自分のものである」と感じる「sense of ownership」と「この身体の運動を引き起こしたのはまさに自分自身である」という「sense of agency」から構成されている。ギャラガーが論文に書くように、自発的行為においては「sense of ownership」と「sense of agency」とは一致していて、区別がつけにくい状態にある。だとしても、「自己帰属感」という語が「sense of ownership」と「sense of agency」にそれぞれ使われているのは興味深い状況であり、ヒトとコンピュータとが向かい合うインターフェイスという場で形成されるミニマルセルフに独自性があるとすれば、ここにそのヒントがあると、私は考えている。

小鷹が「sense of agency」の訳語として「自己帰属感」を使っているところを確認したい。小鷹は遊びから発展していった「蟹の錯覚」の説明の延長で「自己帰属感」(sense of agency)を使っている※10。「蟹の錯覚」は以下のような手順で行う「即錯」の一つである。

基本レシピ

  1. 向かい合った二人が、一枚の厚紙を裏側で両手を交差して保持する。この際、それぞれの両手は、一方を手前側にもう一方を奥側に位置させる。
  2. お互いに指をわしゃわしゃしてみる。

小鷹研究室as「即錯23:18 – 蟹蟹の錯覚」

この錯覚を体験すると「多くの体験者は「自分の手が自分の意図に反して勝手に動いてしまう」というような、視覚と運動感覚の齟齬を経験する」と説明される。実際に「蟹の錯覚」を体験してみる相手の手を自分の手と感じるなどして、自分の手を動かしているのは自分ではないような奇妙な感じが生まれてくる。小鷹はこのこんがらがった感覚を次のように説明する。

「自分の身体であるにもかかわらず、自分の思い通りに動いてくれない」状況として、本書ではすでに、「腕の圧迫」と「エイリアンハンド・シンドローム」の事例を取り上げています。ところで、特殊な症例である後者が稀な事態であることはいうまでもありませんが、こうした事例でよく引き合いに出される「腕の圧迫」であってもそうそう日常的にお目にかかれるものではありません。実際、このタイプの「ねじれ」を、私たちが意図して作り出すことは至難の業です。私たちの日常は、自分の身体が思い通りに動くという鋼の囲いの中に、深刻なまでに閉じ込められているのです。筆者は、《蟹の錯覚》が、そうした鋼の囲いを溶解させるための一つの呪術のようなものと考えています。

さて、ここで問題とされている、自身の運動感覚を起点として対象を意図通りに制御できているときの感覚のことを、学術の用語では、特に「自己主体感」あるいは「自己帰属感」(sense of agency)と呼びます(以下、単に主体感と呼びます)。主体感とは、つまるところ、視覚や聴覚によって把握できる外在的なイベントが、自己の意図を基点にしている、という感覚にほかなりません。したがって、主体感は、形式的には、運動と(典型的には視覚などの)外在的な感覚とのマッチングによって担保されることになります。
ところで、日常的には経験することが極めて少ない「主体感なき所有感」に対して、これとは逆のねじれである「所有感なき主体感」は、「これを体験しない日などない」というほどに、私たち人間にとって極めてありふれた事象です。というのも、このねじれは、道具の利用において生じている自己の投射にほかならないからです。
小鷹研理『からだの錯覚※11

小鷹は身体とカーソルとが連動している運動を視覚という外在的な感覚とマッチングさせて、物理的な延長としての道具ではなく、情報的に延長した道具としてカーソルを捉えて「自己帰属感-主体感」とするという見方をしている。そして、彼は「自己帰属感-主体感」を説明するために前後に「自分の身体であるにもかかわらず、自分の思い通りに動いてくれない」状況、「自分の身体が思い通りに動くという鋼の囲い」、「主体感なき所有感」、「所有感なき主体感」と興味深い多くの言葉が書かれている。これらを活かして、渡邊の「自己帰属感-所有感」との比較を行っていきたい。

その前に、小鷹が「sense of ownership」をどのように表記するかを書いたところを見ておこう。

本書で関心のある体の感覚とは、そのほぼ全てが、「それが自分のものである」と感じられるような、当人にとってのみ主観的にアクセス可能な自己所有の意識のことを指します。これは、実験心理学の世界では所有感(ownership)と呼ばれるものですが、筆者は、一般向けに説明する際には「からだ」という括弧付きの表記をすることとします。今後、本書の中で、文脈に応じて所有感と「からだ」のいずれかの用語が頻繁に登場しますが、特に説明が無い場合、「からだ」とは、そのような身体の所有に関わる主観的な意識および、その際の身体のイメージを指していると理解してください。
小鷹研理『からだの錯覚※12

小鷹が「sense of ownership」に当てるのは「からだ」であり、その説明に渡邊の「自己帰属感-所有感」で重要な役割を果たす「連動」は出てこない。小鷹が考える身体所有感は何かと連動するわけでもなく、ある状況において、ヒトの主観に現れる身体のイメージとなっている。

小鷹の考えに基づくと、身体が思い通り動き、カーソルがその動きに連動することは所有感より主体感をヒトに与えるだろう。そのとき、ヒトとカーソルとの関係は、小鷹がペンを自在に使っている人であっても、ペンを自分の身体だと思う人はいないとした上で、「ペンで紙に何かを書いているとき、主体感はペン先に鋭く投射される一方で、所有感はあくまでも自分の手の領域の中に引きこもったままなのです」と指摘しているものになっている。それは「所有感なき主体感」が示す道具的存在としてカーソルを捉えることであり、思い通りに動く限りは「からだ」は自分の身体に引きこもっていて、意識されないのである。

対して、「連動」を重視する渡邊はカーソルを「からだ」ではなく、「自己(self)」との関係で考えていて、ヒトとカーソルとの連動によって「自己」を情報空間に引っぱり出していくことが目指されている。それゆえに、渡邊の「自己帰属感-所有感」はギャラガーの考えるミニマルセルフを構成する「sense of ownership」と「sense of agency」から逸脱した意味を示す。『融けるデザイン』は生態心理学者のJ・J・ギブソンの影響をもとで書かれており、認知と行為との連動が重要視されている。出版から5年経った2020年に渡邊が「自己帰属感」という言葉と出会ったのは、河野哲也の『「心」はからだの外にある』だったと書いている。そして、河野はギブソンの考えを追いながら「自己帰属感」について次のように書く。

私たちが移動し運動するときには、つねに環境の変化の知覚がともなっている。知覚風景の自己帰属感は、この環境知覚と自己知覚の相互依存性から生じてくる。したがって、知覚風景が自己に帰属しており、他人に帰属していないのは、私の目の前にある知覚風景の変化が自分によって引き起こされ、他人によって引き起こされたものではないからである。とするならば、私の知覚風景の変化とは、逆から言えば、私がある環境のなかを移動した、あるいは運動したという事態に他ならない。つまり、知覚の自己帰属感とは、単純に私が移動したということ、そしてその移動は、自分が随意的に行ったのであり、他人によって引き起こされたのではないことを、その裏側から述べたもの以上ではない。
河野哲也『「心」はからだの外にある※13

ここでは身体が環境内を思い通りに動くことが前提となっていて、思い通りに環境内を動いたことで生じる自己と環境との連動が知覚風景の自己帰属感を生じさせるとされている。さらに、河野は「実際には、知覚風景の自己帰属は、自分が他人に邪魔されずにある環境のなかを移動・運動できたということにすぎない。そして、知覚風景を所有するということは、その環境に慣れ親しみ、適応的な習慣を獲得したということである※14」と書く。河野のテキストからも、渡邊にとって、そして何よりも、インターフェイスデザインにとって、「自分の身体であるにもかかわらず、自分の思い通りに動いてくれない」状況は避けるべき状態であり、コンピュータにおいてはこの状況はマウスとカーソルとの組み合わせによって解消されていたと言えるだろう。渡邊にとって「自己帰属感-所有感」とは「からだ」に対する意識であるよりも、自己と知覚風景とが連動するという動きのなかで、自身を取り囲む空間が自己に帰属していく感覚なのである。そこで渡邊は思い通りに動かせるカーソルに対して、ヒトの身体がラケットなどの物理的道具を思い通りに動かせる「自己帰属感-主体感」を情報的に拡張して適応させるのではなく、情報空間を自由に移動・運動できる自己とい​​う意味で「自己帰属感-所有感」を与えるのである。

カーソルが特別なのは、マウスとの「動かし」と画面の中の動きが連動し、自己帰属感が立ち上がるからである。カーソルまでが自己の一部となることで、人はカーソルを意識しなくなり、対象のほうを意識する、つまりカーソルは透明化する。だからこそカーソルの登場は「直接操作」を実現し、自己が画面の中にまで入り込んで情報に直接触れているかのような感覚へと辿り着く。カーソルはバーチャルな身体なのではなく、連動性という点においては実世界の自己の知覚原理と同じで「リアル」である。
渡邊恵太『融けるデザイン※15

マウスとカーソルとが連動することで、ヒトはカーソルのみならず情報空間そのものとも連動して、あたらしい空間を自由に移動するようになる。渡邊がこの状況を「自己が画面の中にまで入り込んで情報に直接触れている」と書くとき、マウスを持つ「からだ」は身体のある物理空間に閉じ込められたまま、「自己」の一部がカーソルとなって情報空間に現れるということが起きる。カーソルは情報的に延長した道具として画面に現れているのではなく、カーソルはヒトの動きとの連動を示して、ヒトとコンピュータとのあいだに生じるミニマルセルフの情報的現れとして画面に現れているのである。

物理空間と情報空間とあいだを跨ぐ「自己」とカーソルとの強固な関係を渡邊に実感させたのが「マルチダミーカーソル実験※16」である。「マルチダミーカーソル実験」は、カーソルと見た目が同じダミーカーソルを画面上に複数配置して、自分のカーソルを発見できるかを調べたものである。「マルチダミーカーソル実験」の問いは「まずカーソルが身体であるかということ以前に、そもそもカーソルを人はどう認知しているのか?物理的につながっていないのに、どうして「自分で操作している」と感じるのか?なぜ画面のカーソルが「自分の」操作しているカーソルなのか?※17」であった。「カーソルが身体であるか以前」に「自分」を考えているところに注目したい。「マルチダミーカーソル実験」は物理空間と切り離された情報空間における「自己」を発見するための実験だと言える。画面上の動く複数のカーソルから、自分の動きと連動するカーソルを発見した瞬間、そのカーソルはミニマルセルフの情報的現れとして認識される。

30個ものダミーカーソルがあるにもかかわらず、どういうわけか、ほぼすぐにと言っていいほど自分のカーソルが特定できるのだ。しかも、一度特定してしまうとほとんど見逃すことがなく、混沌とした画面であっても明瞭に力強く、操作とカーソルが結びついた体験を得られたのであった。これには驚いた。しかも、自分でもどうやって見つけているのかわからないのだ。ただ動かすと「あー!いたいた!」という感じである。これは新しい体験というよりも、混沌の中からいつもの「当たり前」感覚が湧き上がる体験であった。
渡邊恵太『融けるデザイン※18

ヒトとコンピュータとのあいだには、マウスとカーソルとの連動によって情報的に拡張されたミニマルセルフが現れる。ヒトは物理空間にいて、カーソルは情報空間にいるが、それらの連動が一度認められると、その連動は即座にヒトとカーソルとを含んだミニマルセルフを構成していく。私が「私」を探すという奇妙な状況ではあるが、連動を発見できない状態であっても、カーソルは情報空間にいる「私」として画面上にいることには変わらない。情報空間の「私」は物理世界の私に見つけてもらえていないだけなのである。しかし、そのときは、ミニマルセルフは情報的に拡張されはしない。そして、物理世界の「私」が動きの連動を認知すると「あー! いたいた!」と情報空間の「私」とのあいだに即座にミニマルセルフが成立する。何らかのきっかけで連動性を見失わない限り、その関係が解けてしまうことはない。物理空間と情報空間との断絶をまたぐミニマルセルフの発生は、身体とカーソルとがともに思い通りに動き、かつ、連動すれば成立する。その際に、「からだ」は身体に引きこもったままになっている。なぜなら、「自分の身体が思い通りに動くという鋼の囲い」が「からだ」を身体に閉じ込めているからである。カーソルはミニマルセルフの情報的現れではあるが、そこに私が持つ主観的な身体イメージである「からだ」はリンクしていない。渡邊の「自己帰属感-所有感」はカーソルは単なる道具的存在ではなく、カーソルは「自己」ではあるが「からだ」はないという奇妙な存在として画面を思い通りに移動していることを示しているのである。

カーソルとラバーハンド錯覚

この節では「錯覚」という観点からカーソル体験を考えていきたい。小鷹はからだの錯覚を研究していこうと彼自身に思わせた衝撃的な錯覚として「ラバーハンド錯覚」を挙げている。ラバーハンド錯覚とは、体験者の手を衝立で隠した状態で、体験者から見えるゴムの手と体験者からは見えない手の同じ部分に、同時に触覚刺激を与えると、ゴムの手が自分の手のように感じられるというものである。この錯覚自体は心理学の実験として有名なもので、インターフェイス研究とは一見関係ないものにみえるかもしれない。しかし、「ラバーハンドの遅い発見問題」という小鷹の問題意識は、ラバーハンド錯覚とインターフェイス研究とをリンクしてくれる。小鷹はこのシンプルな錯覚が学術的にはじめて発表されたのが1998年だったこと、そして、「ネイチャー」に発表されたにもかかわらず、その後10年はあまり注目もされなかったことに着目して、インターフェイス研究と関係する次の指摘をしている。

最初の疑問に戻ると、筆者の直感では、パーソナル・コンピュータの普及が、1990年代後半におけるラバーハンド錯覚の登場の後押しをした側面が指摘できるように思います。というのも、ラバーハンド錯覚は、身体を物理的な実体としてではなく、複数の感覚信号の組み合わせによる一種の情報的な効果として扱うものであるからです。

コンピュータの普及により、事物を情報的に処理する感受性が世界に浸透しつつあった1990年代後半に、「情報としての身体」を謳うラバーハンド錯覚が発表されたことは、単なる偶然であるとは思えないのです。
小鷹研理『からだの錯覚※19

ラバーハンド錯覚が発見されるには、コンピュータの普及によって、身体を物理的なものから情報的なものとして扱うということが必要だったのではないかという、小鷹の指摘が本研究にとって重要である。ラバーハンド錯覚の発見と普及とパソコンやスマートフォンの普及とをパラレルな事象と見做してみると、インターフェイスは身体における「複数の感覚信号の組み合わせによる一種の情報的な効果」を試す場であり、「情報としての身体」をさまざまに変形させてきたと言えるだろう。その一つの例が、前節で扱った渡邊の「自己帰属感-所有感」が示すミニマルセルフの情報的現れとしてのカーソルと言えるだろう。ヒトとコンピュータとの連動に「複数の感覚信号の組み合わせによる一種の情報的な効果」を浸透させてあたらしい「自己」を形成するのである。

カーソルとラバーハンド錯覚の関係を探るために、まずはこの錯覚が起こる原理を確かめたい。ラバーハンド錯覚は自分の手の位置が偽の手へ移動して起こる。このときに関係するのが複数の関節の回転状態をもとに計算される固有感覚である。ラバーハンド錯覚では自分の手の位置を示す固有感覚が偽の手の位置へ移動している。この事象は「固有感覚のドリフト」と呼ばれている※20。では、「固有感覚のドリフト」はなぜ起こるのだろうか。それは偽の手を見ている視覚の確かさにある。小鷹は「私たちの認知システムは、視覚から得られる空間情報に対しては、解像度が十分な限り、絶対的な信頼性を与えています」と書いている。

対して、固有感覚から得られる位置情報は視覚ほど確かなものでない。普段は、位置情報に関して信頼性が高い視覚が固有感覚の曖昧な位置情報を補正しているのだが、ラバーハンド錯覚では曖昧な固有感覚の位置情報が視覚の確かな位置情報を上書きする。同時に与えられる触覚刺激によって、見えない自分の手の刺激が示す曖昧な位置情報が見えている偽の手に対する刺激に重ね合わされる。小鷹はこの状況を次のように書く。

位置に絶対的な信頼を有している視覚は、融通がきかずに相手に歩調を合わせることができないという側面があります。すなわち、固有感覚が本来的に宿している曖昧さこそが、ラバーハンド錯覚を享受できる「能力」を私たちに授けているということができるでしょう。
小鷹研理『からだの錯覚※21

固有感覚は曖昧だから柔軟に視覚の正しさに融通をきかせて、位置情報を移動させることができてしまう。「物質としての身体」の位置は変わらないが、視覚と固有感覚が脳に送る信号が変調して、固有感覚が重ねられたラバーハンドが「物質としての身体」を情報的に拡張した「情報としての身体」の一部となる。「情報としての身体」を構成する視覚と固有感覚からの信号は、もともと「物質としての身体」から生じたものであるから、ラバーハンドにおいて「情報としての身体」と「物質としての身体」とが重なり合って、ゴムの手を自分の身体と感じるようになる。ラバーハンド錯覚で起きているのは、普段は重なり合っている「物質としての身体」と「情報としての身体」を特殊な状況において一度分離させて、別のかたちで統合するということであろう。

カーソルがラバーハンド錯覚と異なるのは、同時に与えられる触覚刺激がなく自分の手の動きがディスプレイに反映される点である。カーソルと同じような状況でもラバーハンド錯覚は起こり、「ムービング・ラバーハンド錯覚」というジャンルが形成されていて、主にVRを使った実験が行われている。そこでは、自分の手の動きで生じる固有感覚の曖昧な位置情報が、画面上に正確な位置情報として表示される。そして、画面を見て、再度、手を動かすという再帰運動で曖昧な位置情報と正確な位置情報との組み合わせが「情報としての身体」を変容させていく。その変容はカーソルというヒトと連動するデジタルオブジェクトが現れてきたからはじめて可能になったというわけではない。ラバーハンド錯覚が示すように固有感覚が示す曖昧な位置情報と視覚が示す正確な位置情報を元々処理していたからこそ、ヒトはカーソルを簡単に受け入れられたと言える。同時に、マウスによるカーソル操作によって、視覚が固有感覚をハッキングしていく手と目との情報的連動に慣れたからこそ、ヒトがラバーハンド錯覚が発生させる「複数の感覚信号の組み合わせによる一種の情報的な効果」に敏感になって、錯覚を発見できたとも言える。

カーソルとラバーハンド錯覚との相互作用を裏付けるまでとは言えないけれど、興味深い事象として、ラバーハンド錯覚が1989年に発見されて20年以上経った2010年代に様々なバリエーションの錯覚が報告されているということが挙げられる。このことは次のように2つの段階に分けて考えられるだろう。はじめに、私たちがマウスとカーソルをはじめとするインターフェイス体験をしていくなかで、ラバーハンド錯覚が示した感覚情報の組み合わせから生じる「物質としての身体」と「情報としての身体」と分離とその再統合とともに起こる「からだ」の変容に慣れていった。次の段階として、情報的に変容した「からだ」に対しての体験を設計し、「からだ」のさらなる変更可能性を探る試みが行われるようになった。小鷹がラバーハンド錯覚の原理を説明したのちに紹介している「軟体生物ハンド」と「マーブルハンド錯覚」は第二段階の試みにあたるだろう。

「軟体生物ハンド」は、小鷹研究室がラバーハンド錯覚をアレンジしたものである。金属の鍵でシリコンのラバーハンドの表面をなぞったり、ぐりぐりと押し込んでいるときに、被験者の手にも同じことを行う。すると、被験者は自分の手がシリコンのように「ぐにゃんぐにゃん」になってしまうのも否応もなく感じてしまう※22。ラバーハンド錯覚のように偽の手を自分の手と感じるだけでなく、その皮膚の質感が変わってしまうというところがラバーハンド錯覚の第2段階と言えるところである。私は小鷹研究室で「軟体生物ハンド」を体験したことがあり、今でも気持ち悪い感覚とともに体験を思い出せる。錯覚を体験中の私の手はいつにもなくぐにゃっとしたものであり、鍵がぐいっとラバーハンドを押し込んだ時には、自分の手の甲の皮膚が手を置いた机の表面に着いてしまったというとても奇妙な感じがあった。

また、「マーブルハンド錯覚」は次のような錯覚である。ヘッドフォンを装着した体験者の前に衝立を置き、自分の手首から先を見えない状態にして、実験者がその手をトンカチでトントンと叩いて、トンカチが手の甲にあたる瞬間に「コツン」という硬い石を叩いたような音をヘッドフォンから流す。この状態がしばらく続くと、体験者は自分の手が「自分の手の皮膚のマテリアルが、硬直した石のような感覚に変質していく」のを感じる※23。この二つの錯覚体験に対して、小鷹は次のように書いている。

これらは、私たちの認知システムが、皮膚の素材感覚をつくりだすうえで、触覚から得られる情報よりも、視覚や聴覚から得られる情報を重視していることを示しています。実のところ、触覚から得られる皮膚の素材に関する情報は、身体にとっての本来的にバーチャルな視聴覚情報によって書き換えられてしまう程度に、微々たるモノでしか無かったのです。つまり、私たちの皮膚のマテリアルに関する信念は、おそらくは、ほとんど視覚や言語による経験的なものに過ぎなかったと考えることができるのです。
小鷹研理『からだの錯覚※24

この指摘は、ラバーハンド錯覚では皮膚が触覚刺激を偽の手と同時に受けることで「物質としての身体」を「情報としての身体」へと拡張したことを考えると意外である。しかし、ここで移動したのは皮膚感覚そのものではなく、身体の位置情報を示す固有感覚だったのであり、皮膚そのもののマテリアルは問題になっていない。皮膚のマテリアルを問わないままに、視覚と固有感覚とのあいだで情報の移動があり、「物質としての身体」から「情報としての身体」が分離し、再統合していった。「軟体生物ハンド」と「マーブルハンド錯覚」は、ラバーハンド錯覚で分離した「情報としての身体」に対して、感覚信号の組み替え可能性として視覚情報と聴覚情報を使ってあらたな介入を試みた結果として、「物質としての身体」を覆う皮膚のマテリアル感覚がほとんどないことが示された。さらに、触覚情報が書き換えられてしまうほど弱いということが重要である。視覚など他の感覚との関係によって、触覚が決まっていく。

錯覚体験から皮膚を考えると、カーソル体験で触覚を含めた皮膚は外界からの情報を単調化してしまうフィルターとしても機能すると言えるだろう。マウスとカーソルの関係のおいても、操作中にマウスを握る手が見えないか、見えたとしても周辺視にあり明確ではないことで、マウスを握る手の皮膚が外界からの情報を単調化することによって、手がマウスを握っているということは特に意識されなくなっている。皮膚からの感覚情報が意識されないほど単調化されているからこそカーソルという視覚情報と組み合わせることが容易になっていく。

インターフェイスにおける感覚情報の組み合わせ変更の試みの一つの例として、渡邊が開発した「Visual Haptics」が挙げられる。「Visual Haptics」はカーソルが可能にした「情報としての身体」に対するあらたな体験をつくっている。そこでは「情報としての身体」としてのカーソルとその先にある対象とのあいだで生じる感覚信号の組み替え可能性が試されている。「Visual Haptics」は以下のように説明されている。

カーソルで触れる対象の状態に応じてカーソルの動きや変形を利用することで、ユーザが実際に触っているような感覚を再現することが可能となる手触り感提示システムです。ざらざら感、ベタベタ感、立体感、奥行き、液体の抵抗感、風に流される抵抗感など、多様な感覚を再現します。
渡邊恵太「Visual Haptics※25

身体とカーソルとの連動の変調によって、情報空間が自己に帰属する感じがズレ、特殊な感触が生まれる。私は「Visual Haptics」を体験していて、確かにさまざまな手触りを感じるのだが、それは「ガムテープ」「水」「蜂蜜」が示す物理世界の感触とも異なる独特な感触であった。その独特の感触はもちろん私が感じているのであるが、その発生源はマウスを持つ右手全体であった。右手がとにかく「重く」「鈍く」感じられるのである。この体験は、小鷹が書く「自分の身体であるにもかかわらず、自分の思い通りに動いてくれない」状況に陥ったモノであり、私がカーソルとの連動で、「自分の身体が思い通りに動くという鋼の囲い」の外に出された体験だったと言える。

渡邊は『融けるデザイン』で、「Visual Haptics」を「自己帰属感-所有感」で次のように分析している。

VisualHapticsでは、動きの連動に少しだけノイズ(位置のずらし、時間遅延、カーソルの変形)を適用したことによって、ある感触を発生させた。そして、自己帰属感は「動かし」の連動から発生していることについては述べた。マルチダミーカーソル実験によって、動きから自己を特定できることもわかった。つまりカーソルの自己感は動きの連動の結果である。この状態を、マウスとカーソルの連動 100%、自己帰属 100%とする。一方 VisualHapticsでは、それにノイズを発生させ、連動を乱している。だから連動は低下し、その結果、自己帰属感も低下、たとえば自己帰属 80%となる。

つまり感触の発生は、自己帰属感の低下によって生み出されると考えられるのではないだろうか。そしてより具体的には、感触の発生とは、その帰属が環境側に持っていかれることが、その環境の感触を生み出していると考えられるのではないだろうか。すなわち自己帰属率の配分が、インタラクション時の気持ち良さ/悪さ、また感触や質感の多寡になっているのではないだろうか。裏を返せば、私たち人間の実世界の環境認識についても、感触として感じていることが、自己帰属率の配分というようにも捉えられるのではないか。
渡邊恵太『融けるデザイン※26

「Visual Haptics」の独自の感触は環境側に自己帰属率を持っていかれることから生じるという渡邊の主張を、自分の身体だと思っていたものが思った通りに動かなくなる「主体感なき所有感」の状況は「身体から所有感が剥がれていく」事態だとする、小鷹の指摘と合わせて考えてみたい。デジタル環境を制御しているコンピュータがカーソルというミニマルセルフの情報的現れを動きをイレギュラーにすることで、ヒトとカーソルとのあいだの自己帰属率を変化させる。そのとき、私から「自己帰属感-所有感」から剥がれていき、私の身体でありながら「この身体はまさに自分のものである」と言えないような状況が訪れる。それは皮膚が触覚にほとんど寄与せずに視覚的に引っ張られる特殊な状況である、その結果として、私とカーソルとの連動が私に独自の感触を与えるのである。このとき、私は私とカーソルとで形成したミニマルセルフの一部でもなく、私の身体でもなく、体験の瞬間まで全く知らなかった「異物」を自分とカーソルとのミニマルセルフに招き入れてしまっていたと言えるのではないだろうか。

この「異物」のことを「光学的身体」と呼んでみたい。「光学的身体」は渡邊が「Visual Haptics」を開発したときの説明で使っていた言葉である。渡邊自身はこの言葉を気に入ってはいたが「身体とは何であるか?」という問いが残り続けたとしている※27。その後の考察で身体は「自己帰属感-所有感」における「自己」と環境との連動という「知覚原理」に昇華していく。しかし、ヒトとコンピュータとがディスプレイを介して連動しつつもどこか思い通りにならずに独特の感触を示す状態を「光学的身体」と呼んで、カーソルと身体との関係を考えてみたい。なぜなら、「Visual Haptics」が示した自己帰属率の配分による感触の発生には、「からだ」が寄与していると考えられるからである。

小鷹はラバーハンド錯覚のバリエーションの最後として「インビジブルハンド」を紹介している。「インビジブルハンド」は、ラバーハンド錯覚のように自分の手を見えない位置に置き、ラバーハンドがあるべきところに何に置かない状態で、実験者が体験者の手と何もないところを同時に筆で撫でると、何もないところに「見えない手」が存在するように感じるというものである。小鷹は「インビジブルハンド」の感覚をはじめて身をもって体験したとき、「そこで目の当たりにしたのは、「なんとなく」などというような甘ったるいレベルでは決してなく、そこに「自分の手がある」としか言いようのない、確固たる実在の感覚だったのです」と述べている※28。そして、この体験について次のようにまとめている。

実際、この透明な「からだ」からは、三次元的な奥行きや膨らみが、ありありと感じられます。この錯覚体験から得られる何よりも重要な知見は、「からだ」が、少なくとも視覚的な水準では、物質的な実体を必要としないということにあるように思います。
小鷹研理『からだの錯覚※29

さらに、「インビジブルハンド」は「体験者の無意識の中に眠る「からだ」を物理空間に引っ張り出してきている」と考えるべきだとしている。見えないながらも確かに感じられる実在の感覚というのは、インターフェイスを介して体験するデジタルオブジェクトに対する感覚を考える上で重要なものになっていくだろう。「インビジブルハンド」と同様に「VisualHaptics」も「「からだ」を物理空間に引っ張り出し」たと考えられる。物理空間に引っ張り出された「からだ」が即座に私とカーソルとの連動に重ねられて「光学的身体」となり、剥ぎ取られた「自己帰属感-所有感」を補うようにミニマルセルフに介入して、「重さ」や「鈍さ」という感触を情報的につくるのである。

最後にカーソルが情報的感触をつくるためには「↖」という抽象的なかたちが必要であることを確認していきたい。小鷹研究室出身の石原由貴は渡邊の「VisualHaptics」と対となるような試みを行っている。渡邊の「VisualHaptics」が「からだ」を利用しつつも、「重さ」や「鈍さ」をカーソルとの連動で情報的感触としてつくるのに対して、石原の研究「rubber hand pointer」は生々しい「からだ」そのものをカーソルに与えようとするものである。小鷹は「rubber hand pointer」について次のように書いている。

パソコンのディスプレイ空間内を意図通り移動する際の指示棒となる、あのおなじみのポインタ↖が、 文字通り「自分の指そのもの」であると感じられるためにはどうすればよいのか、という問題を考えた。とりわけ、ラバーハンド・イリュージョンの原理の一つ、「空間的整合性/antomical congruency」をディスプレイ空間に適用し、ポインタに身体所有感が投射されることによって、何かが変わることを期待したのだった。しかし、よくよく考えてみれば、インタフェースデザインにおけるポインタの本質は、各人の身体に固有の生々しさを排除し、華麗にディスプレイ空間を駆け廻る”匿名性”にあったはずであり、「手の形態との相似性」という制約によって、ユーザとの身体的なつながりを無理強いすることは、機能性の根幹に関わるところでポインタの首を締めることになる。
小鷹研究室as「小鷹研究室の各位●各論●身体論(カクイカクロンシンタイロン)※30

小鷹研究室のカーソルの扱いはミニマルセルフの情報的現れではなく、ヒトが持つ「からだ」の投射先とするためにラバーハンド錯覚の原理の一つである「空間的整合性」を使って「手」のかたちを模したものになっている。石原と小鷹はカーソルを手に似せることで、手に引きこもっている「からだ」を情報空間に持ち込もうとした。しかし、小鷹が書くようにカーソルの本質は「華麗にディスプレイ空間を駆け廻る”匿名性”にあった」ので、この試みはうまくいかなかった。石原と小鷹の「rubber hand pointer」を経由することで、カーソルがミニマルセルフの情報的現れとして、「からだ」を捨象した「自己」になっていることが強調されるだろう。ラバーハンド錯覚を体験したときのような驚きなくしてカーソルをスムーズに受け入れてしまうのは。カーソルが「↖」という手から離れて、何かを指示するという機能を抽出した抽象的な形をしているからである。手という「からだ」を捨象したカーソルはヒトの固有感覚と視覚とが示す位置情報とリンクしたミニマルセルフを形成する情報的現れとして画面に存在している。だから、渡邊は「柔軟な身体拡張」について次のように書けるのである。

私たちは、物理的であることが身体拡張のリアリティをもたらすと考えがちだが、物理的であることはたまたま身体との連動を作るのに都合が良いだけである。だから、物理的でないものであっても、たとえばカーソルであっても、連動すれば身体拡張と考えられる。むしろ、情報的に拡張する方が質量を伴わないため、柔軟な身体拡張が期待できるのだ。
渡邊恵太『融けるデザイン※31

「柔軟な身体拡張」を行うためには身体に閉じ込められている「からだ」をそのままにしておかなければならない。それは「自分の身体であるにもかかわらず、自分の思い通りに動いてくれない」とヒトが感じるような状況を回避するためである。その上で、身体とデジタルオブジェクトとの連動を「自分の身体が思い通りに動くという鋼の囲い」に入れてはじめて、「柔軟な身体拡張」が行われる。さらに、その鋼の囲いのなかでヒトとコンピュータとの連動で生じる「自己帰属感-所有感」の配分を上げ下げすることで、情報的で質量を伴わない「光学的身体」がヒトとデジタルオブジェクトの連動に介入して、デジタルオブジェクトに対する感触が生まれるのである。

スワイプと「皮膚としての身体」

これまでカーソルについて考えてきたが、カーソルは画面上に常に見えていて、ミニマルセルフを情報的に拡張可能にする媒介的存在だった。しかし、タッチパネルになるとカーソルは画面から消えてしまった。渡邊はiPhoneではカーソルがなくなったが、「自己帰属感-所有感」は引き続き残っているとしている。そして、カーソルの代わりにヒトと連動するようになったものとして「画面」を挙げている。

それは「画面全体」である。たとえばiPhoneのホーム画面は指に追従し、アプリケーションリストが左右に移動する。ウェブブラウザでは画面全体が指に追従しスクロールする。カーソルはないが、カーソルと同じレベルでiPhoneの画面は非常になめらかに連動している。この連動が画面の中と指を接続し、自己帰属感が生起して身体の一部となり、ハイデガー的に言えば、道具的存在になるのだ。
渡邊恵太『融けるデザイン※32

確かにiPhoneの画面に表示されているデジタルオブジェクトは指によく連動している。しかし、私の手は「私の手」であってカーソルではないし、画面全体もまたカーソルではない。ミニマルセルフの情報的現れだったカーソルがなくなっているのだから、ヒトとコンピュータとのあいだに現れるミニマルセルフにも変化があるはずである。第一、iPhoneなどのタッチパネルに触れる手と画面との連動は、手とカーソルのような思い通りの連動ではない。手と連動してカーソルが情報空間を縦横無尽に動くのに対して、スマートフォンで手と連動する画面はその自在な動きの全てに連動するわけではない。

例えば、iPhoneのホーム画面に現れる指と画面との連動を記述してみよう。右にスワイプすると半透明なレイヤーに載ったかたちでウェジェットが現れ、左にスワイプするとアプリリストが移動する。さらに左にスワイプすると半透明なレイヤーと共にアプリライブラリが現れる。上から下にスワイプすると通知センターが現れるが、下から上にスワイプしても何も起きない。しかし、ディスプレイの下端から上にスワイプすると開いているアプリケーションが画面を埋めないかたちで現れて、左右にスワイプできる状態になる。スワイプの位置と方向とで何が起こるのかが変わってくる。何度かスワイプすれば何が起こるか把握できるが、マウスとカーソルとの連動のようなシンプルさはない。同じジェスチャが異なる状況を引き起こすこともある。ジェスチャに対する連動の決定権は、コンピュータ側にあると言わんばかりである。このことを後押しするかのように、画面から放射される光によって、画面に触れる指の影は消去されて、いつもとは異なる様相になっている。

さらに、スワイプという同一の行為で、画面全体を一つのデジタルオブジェクトとして移動できたり、画面の一部に現れているウィジェットの切り替えたり、アプリウィンドウを引き寄せたりできる。スワイプして移動するデジタルオブジェクトの大きさに関わらず、スワイプをしている行為の感触が変わらない。これは、渡邊が「情報的に拡張する方が質量を伴わないため、柔軟な身体拡張が期待できる」と書いていたことに関係するだろう。何をスワイプしても質量を感じないのである。私がスワイプに感じた不安の一つはここにあった。小鷹は私のスワイプに対する不安な感じを受けて「例えば、僕は8年前に初めてiPadを買ってマップで地表面をフリックしたときに無茶苦茶感動したのを覚えてるんだけど、あれは正に「質量ゼロの超弩級の球体を指一本で転がしてる」体感によるものだったと思う※33」というツイートをしている。いかなる大きさのデジタルオブジェクトであっても、指一本で常に同じ感触でフリックしたり、スワイプできてしまうということが「質量ゼロ」の感触をつくるのではないだろうか。

影を消去された指に対して画面全体が連動しはするけれどカーソルほどの連動性はなく、「質量ゼロ」という感触がありながら、スワイプはタッチパネル操作の必須のジェスチャとして受け入れられ、何十億の人たちが日常的に行うものになった。スワイプはカーソルの情報的に拡張されたミニマルセルフという感じではなく、指は指であり、画面が画面であるということ前提にして、多くの人に受け入れられている。だとすれば、スワイプはカーソルとは異なるかたちで「からだ」をうまく使って、ヒトとコンピュータとの連動をあらたにつくっていると考えられる。そこで、スワイプを分析するために、小鷹研究室が考案した「スライムハンド錯覚」を取り上げたい。「スライムハンド錯覚」から生じる皮膚に対する感覚の変化が、スワイプに影響を与えていると考えられるからである。小鷹はこの錯覚について次のように説明している。

スライムハンド錯覚は、一般的なラバーハンド錯覚と同様に、机に向かい合って座る(実験者と体験者の) 2人1組で体験することができます。体験者の前に置かれた鏡の手前側にスライムを、鏡の奥側に体験者の一方の手を添え、体験者は鏡に映るスライムを、ちょうど自分の奥側の手と重なるようにして直視します。この状態で、対面する実験者が、スライムと体験者の手の甲を同時に摘んだり引っ張ったりすると、体験者自身の手の素材感がまるでスライムのような伸縮性のある質感に劇的に変化します。スライムハンド錯覚は、なんといっても、筆者の経験した錯覚の中で最大級に衝撃的な体感を与えるものです。
小鷹研理『からだの錯覚※34

ラバーハンド錯覚系の実験と同じ構成を持つ「スライムハンド錯覚」は、被験者のほとんどが錯覚を感じると報告されている。私自身も「スライムハンド錯覚」を体験したときに、手の甲の皮膚が思った以上に引っ張られているのを感じたし、鏡に映るスライムという視覚情報にいとも簡単に感覚が騙されてしまうのかと感じた。小鷹は「スライムハンド錯覚」を「人を選ばない錯覚」と呼び、その理由を皮膚にターゲットを絞っているいるからではないかと推測している。「従来のラバーハンド錯覚は、人間の身体を「骨格としての身体」として捉えていた一方で、スライムハンド錯覚は「皮膚としての身体」に照準を合わせます」と述べた上で、小鷹は次のように書く。

人間の身体の空間的な認知のための主要な材料を提供するのは、関節に受容器が存在する固有感覚の仕事でした。ところが、固有感覚は「骨格としての身体」の所在を同定するものの「皮膚としての身体」の所在に関しては、あくまでも無頓着です。この固有感覚の怠慢は特別に責め立てられるべきものではありません。というのも、人間の皮膚が身体の骨格にぴたりと張り付いている限り、皮膚の空間認知は、固有感覚からの情報で代替可能であるからです。
小鷹研理『からだの錯覚※35

小鷹の指摘は、マウスとカーソルと組み合わせた体験とスワイプなどの指のジェスチャを組み合わせたタッチパネルの体験が、単にデバイスの違いだけでなく、デバイスを使う際に「情報としての身体」で生じる感覚情報の組み合わせも大きく変更されている可能性を示している。マウスとカーソルとの組み合わせでは、「骨格としての身体」が示す固有感覚の曖昧な位置情報と画面上のカーソルが示す正確な位置情報とが「情報としての身体」で重なり合うというものであった。ここで「皮膚としての身体」はマウスを持つ手というものであり、マウスの感触などは単調化されて意識に上がらないものになっていた。しかし、スワイプはカーソルのときには見えていなかったり、見えていたとしても周辺視にあった「骨格としての身体」が視界中央部の画面の上に現れることになる。「骨格としての身体」の固有感覚と視覚による位置情報が視界で重なり合うようになる。ここでは「情報としての身体」における感覚信号の組み合わせの変化は起こりようがない。ここで重要になっているのが「骨格としての身体」と画面上のデジタルオブジェクトのあいだに「皮膚としての身体」が挟まっているということである。「皮膚としての身体」はガラスに触れつつ、コンピュータのための位置情報を生成していく。

皮膚認知を有しながら、空間認知を持たない皮膚は、自己と非自己の中間にある、神経系にとっては半ば「モノ」のような存在であるといえます(筆者は、最近「半自己」という言葉を使っています)。
小鷹研理『からだの錯覚※36

デジタルオブジェクトとのあいだに半ば「モノ」であり、「半自己」と言える皮膚がある。これらモノでも自己でもないないような中途半端な存在が、視界のなかでデジタルオブジェクトと絡み合うことで「質量ゼロ」のような情報的感触が生まれるのだろう。「皮膚としての身体」を介して生まれる「質量ゼロ」の感触は、「Visual Haptics」が「骨格としての身体」の位置情報と視覚情報とのズレによって、「重さ」や「鈍さ」という感触をつくり出すのとは対照的である。視覚情報と「骨格としての身体」からの固有情報は重なり合って正確な位置情報を意識に入力し続けているとき、「皮膚としての身体」は上記二つの情報から正確に位置を把握されつつ、同時に、タッチパネルに対しても位置情報を入力しながら、それ自体の位置感覚が希薄な状態にある。皮膚が視覚と固有感覚とデジタルオブジェクトとの位置関係を不安定な状態にしていく。この不安定な状態がデジタルオブジェクトに対する「質量ゼロ」の感触を生成すると考えられる。

小鷹は皮膚がつくる不安定な状態において、自己の境界の揺らぎが起こっていると次のように指摘している。

錯覚の個人差は一般に、「自分」に本来属していないものを「自分」として受け入れるか否かに関わる感受性の差異によって説明されています。ところが、皮膚は、そもそもが非自己としての性質を兼ねているため、皮膚を舞台に繰り広げられる奇怪な演出に対して、「それが自己のものか否か」を判定する審査が、ギリギリのところで免責されているのです。
小鷹研理『からだの錯覚※37

デジタルオブジェクトと私という「自己」のあいだに皮膚という「非自己」があることで、指とデジタルオブジェクトの連動が「自己のものか否か」という判定が免責されていると考えてみるのは、とても興味深いことである。小鷹の皮膚に対する考えに基づいて、ホーム画面のスワイプに対しての「勝手な」連動や何をスワイプしても「重さ」や「感触」が同じで「質量ゼロ」を感じしまうことを改めて分析してみると、スワイプと画面との連動が自分に帰属しているのか、それともコンピュータに帰属しているのかを、皮膚が曖昧な状態のまま処理していると言えるだろう。

スワイプする指は影を失っているという不自然な状態ではあるが、常に見えていて、思い通りに動いている。しかし、指が連動するデジタルオブジェクトの動きは、「自己」とは関係なくコンピュータが決めていく。スワイプでは連動の主導権が曖昧になっているにもかかわらず、そこにあたかも「自己帰属感-所有感」があるかのように感じてしまう。それは、皮膚がスワイプという行為を「自己のものか否か」を決定することなく受け入れ、私も意図してしない連動を受け入れていくからである。スワイプはカーソルのように「皮膚としての身体」の存在を周辺に押しやり、皮膚の感覚を無効化していくのではなく、皮膚感覚の曖昧さを活かして「皮膚としての身体」を媒介として機能させる。その結果として、「情報としての身体」は「物質としての身体」だけでなく、コンピュータが制御する画面とも統合してしまうのである。このように考えると、私がiPhoneのホーム画面のスワイプに感じた違和感と不安は指と画面との連動から生じる「自己帰属感-所有感」が私に帰属するものなのか、コンピュータに帰属するものなのかが曖昧な状態なままで行為が行われ続けることにあったと言える。

ここで興味深いのは、インターフェイスデザインの側からスワイプを見てみると、スワイプによる意図しない連動はインターフェイスの操作感に「ヌルヌル」というあたらしい言葉をもたらしたかもしれないということである。渡邊は次のように書く。

さらに最近では、「ヌルヌル」といった操作感覚もネット上ではよく見かける。これもまた興味深い表現だ。「ヌルヌル動く」という表現は、サクサクより上の評価として使われることが多い。この表現はおそらく、動きの連動が高いことが前提のうえで、自分で操作しているのとは若干違う「すべり」を感じている様子と筆者は考えている。つまり、自己帰属感はあるのだけれど、自分が動かす以上に、より素晴らしく補正されたかのように動いてくれる感触表現ではないだろうか。
渡邊恵太『融けるデザイン※38

「ヌルヌル」が示す「すべり」は「自分で操作しているのとは若干違う」とされている。自分とデジタルオブジェクトとのあいだに皮膚という自己でもあり、モノでもある存在を介在させることで、自分ではない異物としてのコンピュータを受け入れるための空白ができ「すべり」が生じる。皮膚がつくる「すべり」において、私がこれまで慣れ親しんだ「からだ」の感触と「皮膚としての身体」を利用してコンピュータの情報処理で補正される感触とが組み合わされていく。その結果として、「自己帰属感はあるのだけれど、自分が動かす以上に、より素晴らしく補正されたかのように動いてくれる感触表現」という奇妙な体験をすることになる。

渡邊は「自己帰属感はあるのだけれど」と書くが、スワイプでは主体感、所有感ともに「自己帰属感」がなくなっているのではないだろうか。スワイプでは「皮膚としての身体」がヒトと画面との連動に介入して、「情報としての身体」が画面を統合した瞬間に、連動の主導権の割合がヒトに100%割り当てられなくなり、画面を自在に動かすコンピュータ側にも割り当てられるようになる。だから、ヒトがそうしたいからというのもあるが、画面が「ヌルヌル」と動くから、スワイプを余計に速くしてしまったり、何を意図することもなく何回もしてしまったりするということが起こるようになる。つまり、スワイプは行為の始まりは「自己帰属感」から始まるけれど、知らないうちに「画面帰属感」からも生じるようになっているのである。

「画面帰属感」では連動の主導権がコンピュータに移り、私が行為を起こすから画面が変化するのではなく、画面が変化するから行為が起こるようになる。そして、この連動の主従関係の変化を曖昧にするのが皮膚という「半自己」である。カーソルとの連動とは異なり、画面が自己に帰属するのではなく、自己が画面に帰属するという大きな変化を皮膚という「自己のものか否か」の決定を免責された存在が連動の主導権の割り当ての変化を覆い隠してしまう。だから、ヒトはスワイプにあたかも「自己帰属感」があるかのように感じてしまう。

しかし、「ヌルヌル」と気持ちよく行為と画面が連動しているときに、そこで生じているのは「画面帰属感」であって、スワイプで生じる画面の動きがヒトとコンピュータとを構成要素とするミニマルセルフの輪郭をつくるということが起きている。思い通りに動く影なきヒトの指とコンピュータに制御された画面とのあいだに生じる同時多発的な連動が、自己を画面に帰属させたあたらしいミニマルセルフをつくるのである。

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イメージと詩の精神 https://ekrits.jp/2023/11/8147/ Fri, 24 Nov 2023 05:42:10 +0000 https://ekrits.jp/?p=8147 見出される時を求めて

生命は、いましがた、ひきさがるときに、人生の幻滅をもっていってしまった。ある微笑が祖母の唇の上に浮かんでいるように見えるのであった。この喪のベッドの上に、死はすでに、中世の彫刻師のように、彼女を乙女の姿で横たえていた。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて※1

自分のなかに、いつまでも消えることのない痕跡を刻みつけるような一葉の詩、一枚の絵画、あるいは一編の小説と、これまで幾たびか出会ってきました。『失われた時を求めて』は、そのような作品のひとつであるのですが、この長い長い物語のなかで、わたしはかつて感じたことのないような、不思議な感覚を体験しました。

それは、話者である主人公の祖母が、病いによって亡くなる場面でのことでした。より正確には、息を引き取った祖母の亡骸を話者が見つめている、わずかな時間についての叙述を読んでいたときのことです。わたしはそのとき、文庫本のページに印刷されたその言葉の連なりが、まるで一枚の絵になったかのように、そこから目を離すことができなくなりました。そのページに視線を奪われたまま、しばらくの間それを茫然と見つめ続けていたのです。

それは、言葉で描写されたイメージをありありと思い描くという、よくある体験とは、まったく異なる出来事でした。ページの上に綴られた文字そのものが、描写的なイメージという別の表象を経由することなく、ありのままの姿で感覚された、と言えばよいでしょうか。

なぜこんなことが起きたのだろうと、わたしは考えました。プルースト研究に生涯を捧げた井上究一郎氏の翻訳による、典雅でありながら魂のふるえを感じさせる日本語の魅力は、もちろんその原因のひとつであるはずです。しかし、それだけでは、言葉がイメージに転換されるのではなく、言葉そのものがイメージとして立ちあらわれたかのような、あの不思議な現象がなぜ生じたのかを、説明できないように思えました。

視覚を超えるイメージ

そのとき思い出したのは、 詩の世界でモダニズムを追求し、「イマジズム」の思想を提唱したエズラ・パウンドが、シェイクスピアの詩について語ったこの言葉でした。

シェイクスピアが「朽ち葉色のマントをまとった夜明け(Dawn in russet mantle clad)」について語るとき、彼は画家には表現できないなにかを表現している。このシェイクスピアの詩行には、ひとが記述と呼ぶものはなにひとつない。彼は表現しているのだ。
Ezra Pound “A Retrospect” and “A Few Don’ts※2

ここで問題となっているのは、「記述(description)」と「表現(presentation)」との違いであることがわかります。

英語の ”description” という単語を日本語に翻訳する場合、それが文字によるものならば「記述」、絵によるものならば「描写」とすることが多いでしょう。しかし、そのいずれも、ものごとのイメージをありありと提示することを意味するという点では同じです。パウンドは、ものごとを記述/描写することにかけては、言葉を扱う詩人よりも、画家のほうがずっと優れていると考えました。彼は「風景ならあなたがたより画家の方がずっとよく描ける」とも述べています。

記述/描写というものを、なんらかの具体的なイメージを顕現させる「具象化」とイコールなものとして捉えるなら、パウンドが絵画的な「具象化」に対抗する言語的な「抽象化」を目指したように思えるかもしれません。しかし、彼は若い詩人たちに向けて「抽象におちいることなく進め」とも呼びかけるとともに、具体的なものと抽象的なものを安易に混淆することを戒めています。

では、具象と抽象という二分法では捉えきれない、パウンドの意図する「表現」とは、どのようなものなのでしょうか。奇しくも『失われた時を求めて』の刊行開始とほぼ時を同じくして、パウンドは1912年に、同志とともに「イマジストの三原則」を掲げました。

  1. 主観/客観を問わず、「もの(thing)」をじかに扱うこと
  2. 表現に寄与しない言葉を決して使わないこと
  3. リズムについては、メトロノームのシーケンスではなく、音楽的な調べに乗って構成すること

パウンドはこれらの原則を踏まえ、イマジズムという思想がその名のもとにつくり出そうとする「イメージ」について、こう説明します。

「イメージ」とは、瞬間のうちに知的・情緒的な「複合体(complex)」を表現するものである……一瞬にしてこのような複合体を表現することが、不意の解放感を与えてくれるのだ。それは、時間的/空間的な限界から自由になる感覚である。そしてまた、それは最高の芸術作品に接したとき経験する、思いがけない成長の感覚でもある。

パウンドにとっての「イメージ」とは、辞書的な意味での「心の中に(絵のように)思い描く姿や像」という、視覚的なものに限定されていないことが伝わってきます。わたしがプルーストの文章から受け取ったイメージは、まさにそのような、「視覚を超えるイメージ」であったように感じました。

fig1J・J・グランヴィル「罪と罰の夢※3

イメージを探究する試み

かつてアリストテレスは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という「五感」として人間の感覚をカテゴライズしました。これは目・耳・鼻・舌・皮膚というわたしたちの感覚器官にそれぞれ対応している、とてもわかりやすい分類です。しかし、それらの感覚器官は、同じひとつの「わたしの身体」のうちに密接につながり合って働いているものであり、本来はそれらが受容する感覚をくっきりと分割することはできないのかもしれません。

それを証明するかのように、現在では五感の他にも多くの感覚があることがわかっていますし、人間以外の生物に目を向ければ、同じ感覚が人間とは異なる原理で働いていたり、人間が持たざる感覚を備えていたりする場合があることも明らかになっています。音を聞くことで色を感じる(=色を「見る」)といった「共感覚(synesthesia)」についての研究も進んでいます。しかも、共感覚は少数の限られた人びとだけが持つ感覚ではなく、生まれたばかりの赤ちゃんにおいて見られることも珍しくないようです。

パウンドが詩によって生み出そうとしたイメージは、わたしたちの身体が根源的に宿している、ひとつの未分明な感覚を揺り動かそうとするものだったように感じられます。文学研究者の小泉純一氏は、「言葉でなければ作れない非現実の創像的イメージ」という、きわめて的確な表現によって、その価値を語っています。

派手な言い方をあえてするなら、パウンドの言うイメージとは、現実に存在する外の風景を言葉でなぞっただけの視覚的なイメージではなく、言葉に内在するイメージの喚起力を引き出すことにあった。言葉でしかできないような力を引き出すことがイマジズムの本質であったと言える。イメージとは一見視覚的、絵画的なものに思えるが、「朽ち葉色のマントをまとった夜明け」には言葉だから表現できる力がある。絵画での視覚的なイメージに対して、言葉でなければ作れない非現実の創像的イメージとでも名づけてみたくなる。イマジズムのモダニティはこの点に求めるべきである。
小泉純一「戦略としてのイマジズム ─ パウンドが求めた〈探求の言語〉とは※4

パウンドの盟友であった哲学者トーマス・アーネスト・ヒュームは、「イマージュ」の概念を提示したアンリ・ベルクソンの影響を受けていたと言います。また、先ほどのパウンドの発言にある「複合体(complex)※5」という言葉は、当時の最新の心理学用語として知られるようになっていました。この用語を広めたのは、集合的無意識の概念を通じて心的イメージを探究したカール・ユングであると言われていますが、彼もパウンドとほぼ同時代を生きた人物です。

またその頃、芸術の分野では、画家ワシリー・カンディンスキーが新たな芸術集団「青騎士」を結成するとともに、より抽象的な作風への変化を見せていました。当時のカンディンスキーの作品を観ると、そこには具象/抽象という二分法が意味を失うほどに圧倒的な色彩に満ちあふれた、まさにひとつの「複合体」がありありと描かれています。文字と絵という手段の違いはあれど、それはパウンドが目指していた、具象でも抽象でもない —— むしろそのどちらでもあるような、「描写」を超える「表現」に通じていたように感じられます。

fig2ワシリー・カンディンスキー「即興 VII※6

このように、20世紀初頭という時代にさまざまな領域で「イメージ」を探究する試みが沸き起こっていたのは、おそらく偶然の一致ではないでしょう。ヴァルター・ベンヤミンがのちに「世界史のなかでも最も恐ろしい出来事のひとつ」と述懐した第一次世界大戦が、イマジズムや青騎士の活動開始から数年後に始まった事実を考えると、当時の思想家や芸術家たちが、目の前にある現実から生じる不信感や虚無感に打ち克とうとして、自らの内なるイメージをよりどころとしたようにも思えます。それは単なる形象ではない、精神的な価値を吹き込まれた概念としての、新たなイメージだったのではないでしょうか。

イマジズムからヴォーティシズムへ

芸術とは、単に見えるものの形をそのまま象る(かたどる)ことではなく、見えるようにすることなのです。
—— パウル・クレー

大戦勃発からわずか二ヶ月後、パウンドは “Vorticism※7” と題する論考を発表します。彼自身はこれを一種の自伝と位置付けていますが、実質的には、イマジズムの精神を見つめ直す、新たなマニフェストと呼びうるテキストでした。彼はそこで、カンディンスキーが1912年に発表した『芸術における精神的なもの※8』に対する深い共感を示すとともに、自らが抱くイメージのありさまを、こう述べています。

イメージは観念ではない。それは光り輝くひとつの結節点、もしくは群体であり、わたしが「渦巻(vortex)」と呼びうるもの、そう呼ばねばならないものである。それを起点とし、通過点とし、また到達点として、観念はたゆまず奔流している。慎ましく言って、それは「渦巻」としか名づけようがない。そして、その必要性から「ヴォーティシズム(Vorticism)」の名が生まれたのだ。
Ezra Pound “Vorticism”

それ自体がひとつの鮮烈なイメージである「渦巻」という言葉。それは、「もの」をじかに扱うことを目指して、因襲的なフォーマットや余分なレトリックを捨て去り、ひとつひとつの言葉を自立させることで、言葉そのものの強度を最大限に集約しようとしたイマジズムの精神を、生き生きと表しています。

そして、ヴォーティシズムの新しさは、イマジストたちの詩だけでなく、同時代の絵画や彫刻、また音楽といった、言葉以外の手法による芸術まで視野に入れたものであるところにありました。あらゆる芸術において、色は色として、音は音として、それ自らの力で光り輝くものであると感じたパウンドは、それを「イメージという言葉」を通じて実現しようとしたのでしょう。彼にとって、イメージとは自ら語りかける言葉なのです。

実在するイメージ

「イマジストの三原則」には、「もの(thing)」をじかに扱うこと、という原則がありました。シェイクスピアの「朽ち葉色のマント」の詩からわかるように、パウンドにとっての「もの」とは、身の回りにある物質的/実体的なものだけを意味しているのではないはずです。自らの外ではなく内にある対象、すなわちイメージこそが、彼にとってむしろ重要な「もの」であったと言えるでしょう。さらに彼は、ヴォーティシストにとってイメージは実在している、なぜなら自分たちはそれをじかに知っているからだ、とも述べました。

イメージが「もの」として実在するという主張には、すんなりと納得できないひともいるかもしれません。「もの」の実在性(reality)は、しばしば物質性(materiality)を伴うものとして捉えられがちだからです。わたしたちの脳髄を切開したり、胸部のX線撮影をしたりして、そこに物質としてのイメージを見つけようとすることが無意味なのは、言うまでもありません。非物質的なイメージは、わたしたちの頭や心のなかにあると思えばあるし、ないと思えばない。したがって、それが認識に左右されない実在性をもっているとは言えない。そう考えるひとは少なくないでしょう。

しかし、その存在を物質的に見出すことはできなくても、わたしたちはそれが認識を超えた「もの」として、確かに自らのうちにあることを ── イメージの実在を信じたヴォーティシストたちと同じように ── 知ることがあります。自分の目の前から隠れ去った何かのイメージが、その不在ゆえにむしろ一段と生々しく残り、決してなくすことができないという経験をしたことはないでしょうか。そのようなとき、「もの」の実在性が物質性に依存してはいないことを、自ずと実感できるはずです。

カンディンスキーの『芸術における精神的なもの』にも、このような一節がありました。

言葉は内面の響きである。この内面の響きは一部分(大抵は大部分)対象から発し、言葉はそれの名称の役を果たすのである。しかし、もし対象自体を見ずに、その名称だけを耳にする場合には、聴くひとの脳裡には抽象的な表象、すなわち、非物質化された対象が浮かび、それが「心」のうちに直ちに感動をよびおこす。
ワシリー・カンディンスキー『芸術における精神的なもの』

詩人ではなく画家であるカンディンスキーは、この本のなかで「言葉」についても驚くほどの深い洞察を示しており、パウンドに讃えられた理由がよくわかります。先の引用では、「もの」の代わりに「対象」という言葉が使われていますが、そこでカンディンスキーが語っているのは、物質的な「もの」が身の回りに実在する一方で、非物質的な「もの」も内なるイメージとして実在するということです。そして、それぞれの「もの」は、ひとというもう一つの実在において、言葉との相互作用(インタラクション)を生み出していく可能性を秘めています。

詩における「客観主義」の矛盾

第一次世界大戦という惨事は、パウンドにも大きな打撃を与えました。彼は次第に政治や経済に傾倒し、一時期は反ユダヤ主義を支持したことで、後に多くの批判を浴びることになります。しかし、詩の世界において「もの」をじかに扱うことを目指したその精神は、その作品や詩論を通じて、多くの詩人たちに受け継がれていきました。また、パウンド自身も、有名無名を問わず志のある若き芸術家たちと親しく交流し、彼らを惜しみなく支援したのです。アレン・ギンズバーグは、1972年のパウンドの死去に際し、彼のことを「賢明で、立派な教師 —— いや、最後は立派な導師で、立派な寡黙のひとだった」と語りました。

二度の大戦のほぼ中間地点となった1927年、イタリアに移住していたパウンドの元に、19歳年下のユダヤ系アメリカ人の詩人、ルイス・ズコフスキーから一編の詩が送られてきました。T・S・エリオットの『荒地』のパロディを目論んだその野心的な作品と、追って書かれた「詩篇(Cantos)」への批評は、パウンドに深い感銘を与えました。1931年、パウンドは自らも深く関わってきた雑誌『ポエトリー』の創設者ハリエット・モンローを説得し、ズコフスキーの編集によって「オブジェクティビスト(Objectivists)」と題した特別号を出版させることに成功します。

fig3雑誌『ポエトリー』1931年2月号表紙

ズコフスキーが生み出した「オブジェクティビスト」という言葉は、日本語では「客観主義者」と訳して良さそうに思います。哲学の世界では、昔から主観主義(subjectivism)と客観主義(objectivism)をめぐるさまざまな議論が行なわれてきました。詩の世界でも、パウンドというモダニストが、旧来の主観主義的な詩作のあり方に対抗する態度を示したという意味で、詩における客観主義の可能性を切り拓いたと言えるでしょう。そして、パウンドの志を受け継ぐズコフスキーは、オブジェクティビストの詩が、“sincerity”と“objectification”という二つの特徴をもつと考えました。

ズコフスキーの“sincerity”とは、詩人が言葉そのものにひたすら没入することで生み出された詩的表現のあり方を示すものです。そのように、何らかの対象を志向し、それに真摯に対峙することで生じる直接的かつ無媒介的な接触のことを、哲学者グレアム・ハーマンは「真率(sincerity)」と名付けています。かつてズコフスキーが掲げた”sincerity”も、その「真率」のひとつの現れだったと言えるでしょう。

「真率」のうちにおいて、形状(shape)は言葉の組み合わせの付随物に、(そこに持続が見られるなら)完成された音や構造、メロディや形(form)に見える。そのとき書くということは、蜃気楼ではなく、見ること、ものの存在をありのままに考えること、それらをメロディの流れに乗せていくことのディテール(細部)として生じる。形状が自らを示し、精神は意識を感知し受けとめる。
Louis Zukofsky “Sincerity and Objectification※9

ズコフスキーの”objectification”とは、「もの(object)」としての芸術的形式の現れ(appearance)が完全な形でつくり上げられていることを意味します。彼はそれを「安息なる全体性(rested totality)」と呼びました。

英語で「もの」を意味する言葉はいくつもありますが、“object”と“thing”の違いをどう捉えるかは、対象領域の違いや、個人的なものの見方の違いによって、さまざまに変わってきます。哲学のように厳密な定義を必要とはしない、日常的な会話では、視覚や触覚などで感知できる物体が“object”、より抽象的で形のないものまで含む事物一般が“thing”と呼ばれることが多いようです。

マルティン・ハイデッガーは、身の回りにある「もの」が、普段の生活で用いられる「用具的存在=手許にあるもの(zuhanden)」として存在していると考えました。しかし、たとえばハンマーのような道具が壊れてその用具性を失うと、それはハイデッガーが「ただそこにある/役に立たないもの」と呼ぶ、「客体的存在=手前にあるもの(vorhanden)」として現れるとされました。ハイデッガーは、単に客体性のみを持つ対象(object)よりも、用具性を備えた事物(thing)を、より肯定的に捉えていたのでしょう。

しかし、ハーマンはその区別を乗り越えて、「対象とは、それが置かれたより広い文脈からも、またそれ自身の部分からも自立した、統一的実在性を有するすべてのもののことである」と述べました※10。つまりは、便利なハンマーも役立たずのハンマーも、見たり触れたりできるものもできないものも、一つの「もの」として実在する限りにおいて等しく対象であり、その存在の根源性に格差はないことを示したのです。

時を超えるポエジー

たとえば、今わたしの目の前に、一羽の小さな鳥という「物質的対象」がいるとします。それは日本語を母語とするわたしにとって、瞬時に「小鳥」という名称をまとった生きものとして見えます。英語なら「bird」、ロシア語なら「Птица」というように、見るひとの用いる言語によって、それは「小鳥」とはまた別の名称をまとっているように見えるでしょう。しかし、いずれの場合も、現前している個別具体的なものに散りばめられた名称という言葉を、見る者が受け取って認知するという行為が行われていることに変わりはありません。

ほぼ無意識のうちにしている「名指す」という行為によって、普段のわたしたちは、身の回りにある無数の物質的対象に言葉を重ねて見ているのです。ですから、かつて見たことがないもの、名づけえぬものを目にすると、「もの」自体がいわば剥き出しの存在として見えることになり、わたしたちの意識を強く揺さぶるのでしょう。

では、その反対に物質的対象を見ることなく、言葉だけを見聞きするとしたらどうでしょうか。夏目漱石が「夢十夜」と同じ頃に書いた「文鳥※11」という美しい短編小説には、このような一節があります。

夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壺の縁へ懸けて、小さい嘴に受けたひとしずくを大事そうに、仰向いて呑み下している。この分では一杯の水が十日ぐらい続くだろうと思ってまた書斎へ帰った。晩には箱へしまってやった。寝る時硝子戸から外を覗いたら、月が出て、霜が降っていた。文鳥は箱の中でことりともしなかった。
夏目漱石「文鳥」

平仮名で記された「ことり」という擬音語。それは、主人公が飼う小さな文鳥が生きるさまを伝える言葉として現れます。それは、同じ音をもつ「小鳥」という名称に重なり、作品を通じてわたしの心のうちに生まれていた「非物質的対象」としての文鳥のイメージを、ひときわ鮮やかに彩ります。かつて思いを寄せた女の姿を主人公に想い出させる小さな鳥が、その名の通り、ことりことりと微かな音を立てながら、生きて動くということ。その時間と空間を包みこんでいる静けさと淋しさ。小鳥の姿かたちとは直接関係のない、言葉そのものの「純粋な響き」が、そのような感興を呼びさまします。

カンディンスキーは、それを魂が起こす「超感覚的」な印象と語りました。「文鳥」という作品でも、そのような印象が自分のうちに生まれるとき、漱石からわたしへと、百年余りの時を超えてひとつのポエジー(詩の精神)が伝えられたことに気づきます。

そして、その「超感覚的」な印象とは、カンディンスキーやパウンドより少し前の時代を生きたマラルメが記した、この言葉にも通じているように思えるのです。

詩句、——数個の単語を、一つの自己完結的な、まったく新しい、国語には属さない謂わば一つの呪文を形づくっているような語に作り変える詩句というものが、意味と音響性とに交互に加えられた用語の焼き入れ直しの技巧にも関わらず用語に残存する偶然性を、至上のひと息によって否定しつつ、言葉のこの孤立を完成する。そして、人々の上に、通常の語法の断片なのにこのような断片はかつて耳にしたことがないという驚きを惹起し、それは同時にまた、名指された対象の微かな記憶が、まったく新しい雰囲気の中に涵って(ひたって)いる、という驚きなのである。
ステファヌ・マラルメ「詩の危機※12

ポエジーを伝えるのは、詩人だけではありません。詩人(poiētḗs)という言葉を初めて用いた古代ギリシアの人々にとって、それは「つくる者」を意味する言葉でした。ポエジーという言葉も、やがて詩だけではなく、文学や美術、音楽、建築といった形式の違いを超えて、あらゆる芸術の精神を意味するものとされてきました。

すぐれた芸術はその作者の内なるものの表出(ex-pression)であり、それがいわば反射/反転するかのように、深々たる印象(im-pression)となって見る者や聴く者のうちに刻まれます。そこでは、決して一方向的な鑑賞という行為ではない、つくられた「もの」を通じて送り手と受け手の魂が響き合うような、ひとつのコミュニケーションが生まれるのです。

芸術の力、それは同じ事物を〈相ともに〉眺めるべきものとして、われわれに差しだすことである。
一枚の絵、一本の映画、一冊の本は、それ自体としては何ものでもない。それらは分かち持たれる瞬間からしか存在しないのだ。そしてそれらが可能ならしめる伝達(communication)は、言語の(あるいは記号の)伝達であるよりは、生命のさまざまな動きの交流(communion)なのである。
ル・クレジオ『物質的恍惚※13

ここで再び、詩の言語とはどのようなものかを考えてみます。きっとそれは単なるコミュニケーションの道具や媒体を超える可能性があるはずです。詩人ではなくとも、ひとが誰かに心から伝えたいものを言葉にするとき、それは常識的な意味や既存の定義を超えた、生まれたての言葉になりうるからです。

イマジズム/ヴォーティシズムの詩人たちは、そのような形で従来の象徴主義を乗り越え、「もの」としての言葉そのものの力をひたすら表現しようとしたのではないかと感じるのです。

fig4ロベール・ドローネー「生きるよろこび※14

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Uncreative Quantum Coding / アンクリエイティブ・量子コーディング https://ekrits.jp/2023/10/7990/ Thu, 12 Oct 2023 05:51:54 +0000 https://ekrits.jp/?p=7990 ChatGPTと一緒に量子コーディングする

量子コンピュータアート※1の習作として、Open AIのChatGPT※2(GPT−4)を用いた、Uncreative Coding※3を行ってみる。

まず初めに、ChatGPTに以下のようなコードの生成を依頼する(実際のChatGPTとの対話は英語で行った)。

すると以下の前置きと共にQiskitのコードが提示された。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile
from qiskit.visualization import plot_histogram
from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Define the number of qubits
n_qubits = 10  # You can change this number

# Create a quantum circuit
ghz_circuit = QuantumCircuit(n_qubits)

# Create a GHZ state
ghz_circuit.h(0)  # Create a superposition on the first qubit
for qubit in range(1, n_qubits):
ghz_circuit.cx(qubit-1, qubit)  # Create entanglement with the previous qubit

# Measure the qubits
ghz_circuit.measure_all()

# Visualize the circuit
ghz_circuit.draw('mpl')

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(ghz_circuit, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()

# Get and display the histogram of results
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)
  1. まずQiskitから必要なライブラリをインポートします。
  2. 次に、もつれ合わせたい量子ビットの数を定義します。
  3. 指定された数の量子ビットで新しい量子回路を作ります。
  4. 最初の量子ビットにアダマールゲート(h)を適用し、重ね合わせ状態を作ります。
  5. 次に、ループを使って一連のCNOTゲート(cx)を適用し、後続の各量子ビットを前の量子ビットにもつれさせ、GHZ状態を作ります。
  6. すべての量子ビットを測定し、回路を可視化します。
  7. 最後に、QiskitのAerSimulatorを使って回路をシミュレーションし、結果のヒストグラムを表示します。

このコード IBMのQuantum Lab※4で表示、実行する。まず、コードを図で表現すると、以下のような10個の量子ビットが一様にもつれ合わせるものであることがわかる。

fig1

このコードをシミュレータで1024回実行すると、以下のヒストグラムが得られる。量子ビットが一様にもつれ合っているため、その測定結果はすべて000000000)あるいは、すべて111111111)のいずれかとなり、両者がほぼ均等に現れる。

fig2

もつれ合いによる構造の生成

次に、ChatGPT-4に以下のような依頼を行った。

すると以下のようなコードが提示された。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile
from qiskit.visualization import plot_histogram
from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Define the number of qubits
n_qubits = 10  # You can change this number

# Create a quantum circuit
circuit = QuantumCircuit(n_qubits)

# Create a more complex entanglement structure
circuit.h(0)  # Create a superposition on the first qubit
circuit.cx(0, 1)  # Entangle qubits 0 and 1
circuit.cx(1, 2)  # Entangle qubits 1 and 2
circuit.h(3)  # Create a superposition on the fourth qubit
circuit.cx(3, 4)  # Entangle qubits 3 and 4
circuit.cx(4, 5)  # Entangle qubits 4 and 5
circuit.cx(2, 6)  # Entangle qubits 2 and 6
circuit.cx(6, 7)  # Entangle qubits 6 and 7
circuit.h(8)  # Create a superposition on the ninth qubit
circuit.cx(8, 9)  # Entangle qubits 8 and 9

# Measure the qubits
circuit.measure_all()

# Visualize the circuit
circuit.draw('mpl')

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(circuit, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()

# Get and display the histogram of results
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)
  1. まずQiskitから必要なライブラリをインポートする。
  2. 次に、もつれ合わせたい量子ビットの数を定義する。
  3. 指定された数の量子ビットで新しい量子回路を作成する。
  4. 一連のアダマールゲートとCNOTゲートを適用し、量子ビット間でより複雑なエンタングルメント構造を作ります。
  5. すべての量子ビットを測定し、回路を可視化する。
  6. 最後に、QiskitのAerSimulatorを使って回路をシミュレーションし、結果のヒストグラムを表示します。

fig3

このコードを詳しく見ていくと、 q[0] から q[2] までと q[6]q[7] がエンタングルし、加えて q[3] から q[5] まで、そして q[8]q[9] がそれぞれエンタングルしていることがわかる。したがって、その測定結果は、10ビット1024種類の中から、以下のような8つのパターンだけが、それぞれほぼ同じ確率で現れる。

fig4

もつれ構造を作り出す別の方法

次に、こうしたアダマールゲートとCNOTゲートを用いる以外の方法について質問してみる。

すると以下のような、10通りの方法が示された。

  1. 別のゲートの使用:
    CNOTゲートやアダマールゲート以外にも、トフォリゲート、フレドキンゲート、コントロールUゲートといった量子ゲートを用いて複雑なエンタングルメント構造を作ることができます。マルチ量子ビット・ゲートは、複数の量子ビットを自明でない方法で同時にもつれさせることができます。
  2. 量子回路設計:
    異なるトポロジーやゲートシーケンスで回路を設計することで、さまざまなもつれ構造を作り出すことができます。例えば、量子ビットを格子状に配置し、幾何学的パターンに基づいたゲートを適用することで、複雑なもつれ構造を作り出すことができます。
  3. 量子アルゴリズムの利用:
    ある種の量子アルゴリズムは、その動作の一部として複雑なエンタングルメント構造を自然に作り出します。例えば、ある組合せ問題を解くための量子アルゴリズムや、量子システムをシミュレートするための量子アルゴリズムは、複雑なエンタングルメントを生成する可能性があります。
  4. パラメータ化された量子回路(PQC):
    PQCは、ゲートのパラメータを最適化できる変数とした量子回路です(それゆえ量子ニューラルネットとも呼ばれます)。PQCのパラメータを最適化することで、さまざまなエンタングルメント構造を作成・探索することができます。
  5. 量子コンパイラとオプティマイザ:
    量子コンパイラとオプティマイザは、量子回路の再配列と単純化を行うことができ、その過程で複雑なエンタングルメント構造を作り出せる可能性があります。高度なコンパイル技術により、目的の量子計算を実現する、自明でないエンタングルメント構造を発見できるかもしれません。
  6. アンシラ量子ビットの使用:
    アンシラ(ancilla)量子ビットは、量子計算を容易にするために使用される補助的な量子ビットです。この追加の量子ビットをマルチ量子ビット演算の仲介役として使用することで、より複雑なエンタングルメント構造を作り出すことができます。
  7. ハイブリッド量子ー古典アルゴリズム:
    変分量子固有値解法(VQE)※5や量子近似最適化アルゴリズム(QAOA)※6のようなアルゴリズムは、量子処理と古典処理を組み合わせて問題を解きます。これらのアルゴリズムの量子部分は、複雑なもつれ構造を作り出すことができ、それを古典最適化ループで使用します。
  8. 誤り訂正符号:
    量子エラー訂正符号※7は、エラーの検出と訂正に複雑な多量子ビットのもつれを必要とすることが多くあります。誤り訂正符号を設計・実装することは、複雑なエンタングルメント構造を作り出すことにつながります。
  9. モジュラー量子回路:
    量子回路をモジュール方式で設計し、より小さなもつれのサブ回路を組み合わせて、より大きな回路を形成することで、複雑なもつれ構造を作り出すことができます。
  10. 量子グラフ状態の探索:
    量子グラフ※8状態は、数学的なグラフに対応するもつれ状態の一種で、頂点は量子ビットを、辺はもつれを表しています。特定のグラフ状態を作り出す回路を設計することで、さまざまかつ複雑なエンタングルメント構造を作り出すことができます。

実際にこれらの方法のいくつかをコードで示してもらった。

1. 別のゲートの使用:

トフォリゲート(CNOTゲートを3量子ビットに拡張したもの)とフレドキンゲート(制御SWAPゲート)を使って、より複雑なエンタングルメント構造を作る例です。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile
from qiskit.visualization import plot_histogram
from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Create a quantum circuit
circuit = QuantumCircuit(5)

# Apply Toffoli and Fredkin gates
circuit.h(0)
circuit.ccx(0, 1, 2)  # Toffoli gate
circuit.fredkin(1, 3, 4)  # Fredkin gate

# Measure the qubits
circuit.measure_all()

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(circuit, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

fig5

この量子回路は、一見複雑に見えるが、q[0]だけが重ね合わせ状態なので、01が半々の確率で現れ、それ以外は常に0のままである。

fig6

2. 量子回路設計:

別のトポロジーを持つ回路を設計してみます。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile
from qiskit.visualization import plot_histogram

from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Create a quantum circuit
circuit = QuantumCircuit(4)

# Apply a sequence of gates
circuit.h(0)
circuit.cx(0, 1)
circuit.cx(1, 2)
circuit.h(2)
circuit.cx(2, 3)
circuit.h(3)

# Measure the qubits
circuit.measure_all()

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(circuit, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

fig7

この量子回路は、q[0]からq[2]までがエンタングルしたにもかかわらず、その後q[2]とq[3]が重ね合わせの状態になるので、この2つの量子ビットの測定結果(上位2ビット)には01がほぼ均等に現れる。

fig8

3. パラメータ化された量子回路(PQC):

可変ゲートパラメータを持つPQCを作成してみます。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile
from qiskit.visualization import plot_histogram
from qiskit.providers.aer import AerSimulator
from qiskit.circuit import Parameter
import math

# Define parameters
theta = Parameter('θ')
phi = Parameter('ϕ')

# Create a parameterized quantum circuit
pqc = QuantumCircuit(2)
pqc.rx(theta, 0)
pqc.ry(phi, 1)
pqc.cx(0, 1)

# Measure the qubits
pqc.measure_all()

# bind the parameters after circuit to create a bound circuit
bc = pqc.bind_parameters({theta: math.pi/4, phi: math.pi/2})

# Simulate the bound circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(bc, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

Rxゲート(x軸回転ゲート)とRyゲート(y軸回転ゲート)の回転量(thetaphi)をパラメータ(変数)とし、実行前にパラメータを束縛する(変数の値を決める)ことで、ダイナミックな量子回路を設計することができる。

パラメータの束縛前(pqc

fig9

パラメータの束縛後(bc)[theta=π/4, phi=π/2

fig10

測定結果は以下のようになる。

fig11

以下の1行でパラメータを変化させる[theta=3π/4, phi=π/3]ことで、確率分布を変化させることができる。

# bind the parameters after circuit to create a bound circuit
bc = pqc.bind_parameters({theta: 3*math.pi/4, phi: math.pi/3})

fig12

測定結果は以下のようになる。

fig13

4. モジュラー量子回路:

小さな回路を組み合わせて、より大きな回路を形成します。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile
from qiskit.visualization import plot_histogram
from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Define two smaller circuits
sub_circuit1 = QuantumCircuit(2)
sub_circuit1.h(0)
sub_circuit1.cx(0, 1)

sub_circuit2 = QuantumCircuit(2)
sub_circuit2.h(1)
sub_circuit2.cx(1, 0)

# Combine the smaller circuits to form a larger circuit
combined_circuit = QuantumCircuit(4)  # Create a new circuit with enough qubits
combined_circuit.compose(sub_circuit1, [0, 1], inplace=True)
combined_circuit.compose(sub_circuit2, [2, 3], inplace=True)

# Measure the qubits
combined_circuit.measure_all()

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(combined_circuit, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

sub_circuit1

fig14

sub_circuit2

fig15

この2つのサブ回路を組み合わせた量子回路(combined_circuit

fig16

サブ回路の組み合わせ方は自由である。以下の部分を変えると2つのサブ回路が互い違いに結合する。

# Combine the smaller circuits to form a larger circuit
combined_circuit = QuantumCircuit(4)  # Create a new circuit with enough qubits
combined_circuit.compose(sub_circuit1, [0, 2], inplace=True)
combined_circuit.compose(sub_circuit2, [1, 3], inplace=True)

fig17

この回路の測定結果は以下のようになる。q[0]q[2]q[1]q[3]がエンタングルしている。

fig18

こうした複合ゲートや、パラメータ化された回路については、Qiskitのチュートリアル「高度な回路※9」により詳細な解説がある。

エンタングルメントと測定の繰り返し

さらに、本稿で紹介した量子テレポーテーションのように、エンタングルメントと測定が交互に現れる例について聞いてみる。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.providers.aer import AerSimulator
from qiskit.visualization import plot_histogram

# Create a quantum circuit with 9 qubits and 3 classical bits
circuit = QuantumCircuit(9, 3)

# Initial entanglement
circuit.h(0)
circuit.cx(0, 1)

# Measurement and conditional operation
circuit.measure(1, 0)
circuit.x(2).c_if(circuit.clbits[0], 1)

# Further entanglement
circuit.h(3)
circuit.cx(3, 4)

# Measurement and conditional operation
circuit.measure(4, 1)
circuit.x(5).c_if(circuit.clbits[1], 1)

# Further entanglement
circuit.h(6)
circuit.cx(6, 7)

# Measurement and conditional operation
circuit.measure(7, 2)
circuit.x(8).c_if(circuit.clbits[2], 1)

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(circuit, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

fig19

この回路の q[1] q[4] q[7] の測定結果は、以下のようになるが、エンタングルによってq[0] q[3] q[6]の値も同時に決まる。これらの測定結果によって、q[2] q[5] q[8]の量子状態(Xゲートの適用の有無)が決まる。

fig20

同様の例として、以下のようなものも示された。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.providers.aer import AerSimulator
from qiskit.visualization import plot_histogram

# Create a quantum circuit with 6 qubits and 3 classical bits
circuit = QuantumCircuit(6, 3)

# Initial entanglement
circuit.h(0)
circuit.cx(0, 1)

# Measurement and conditional operation
circuit.measure(1, 0)
circuit.x(2).c_if(circuit.clbits[0], 1)

# Further entanglement
circuit.h(2)
circuit.cx(2, 3)

# Measurement and conditional operation
circuit.measure(3, 1)
circuit.x(4).c_if(circuit.clbits[1], 1)

# Further entanglement
circuit.h(4)
circuit.cx(4, 5)

# Final measurement
circuit.measure(5, 2)

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(circuit, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

fig21

先の例が、3つのサブ回路が並列に結合していたのに対し、この例では「アダマールゲート→CNOTによるエンタングルメント→測定→測定結果によってXゲートを適用」というパターンをずらしながら直列に繋いでいく。このコードの内容をChatGPTにも尋ねてみた。

なお、q[1] q[3] q[5] の測定結果は以下の通りである。

fig22

量子回路のパラメトリックな生成

先ほど、パラメータ化した量子回路の例が示されたが、さらに量子回路のトポロジーそのものを、パラメータ化することもできる。例えば、以下のように乱数によってCNOTCZゲートのトポロジーを決めてみる。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.providers.aer import AerSimulator
from qiskit.visualization import plot_histogram
import numpy as np
import random

qc = QuantumCircuit(5)

for k in range(3):
    i = random.randint(0, 4)
    j = random.randint(0, 4)
    if (i!=j):
        qc.cx(i, j)
    qc.h(random.randint(0, 4))
    i = random.randint(0, 4)
    j = random.randint(0, 4)
    if (i!=j):
        qc.cz(i, j)

# Measure all qubits
qc.measure_all()

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(qc, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
    counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

このコードの内容は、

で、例えば以下のような量子回路を生成する。

fig23

なお、測定結果はすべて00000となる。

こうしたランダムなトポロジー生成を繰り返せば、いくらでも複雑な量子回路が生成できる。例えば、プログラムの繰り返し回数を20回にすると、以下のような量子回路が生成される。

fig24

この測定結果は、以下のような特徴的なパターンを持っている。

fig25

さらに100回繰り返せば、(当然のことではあるが)長大な量子回路が生成される。しかし、こうした量子回路の視覚的インパクトは、人間の知覚や素朴な直感、美しさに回収しない(真正)量子コンピュータアートの趣旨には、反しているように思える。

fig26

fig27

20回の繰り返しで生成されたQiskitコードを実機(ibm_lagos)で実行してみる。

fig28

シミュレーションによる実行結果は以下の通り。

fig29

それに対して、実機による実行結果は

from qiskit import execute, IBMQ

provider = IBMQ.load_account()

backend = provider.get_backend('ibm_lagos')
job = execute(circuit, backend)
results = job.result()
print(results.get_counts(circuit))
plot_distribution(job.result().get_counts(circuit))
plot_histogram(job.result().get_counts(circuit))

fig30

となり、実行時のエラーによって測定結果は大きくばらついている。実行した ibm_lagosのエラーマップを出力すると、アダマールゲート(H)のエラー率が平均0.046%、 CNOTゲートのエラーレートが平均1.946%であった。

from qiskit.visualization import plot_gate_map, plot_error_map, plot_circuit_layout
display(plot_error_map(backend))

fig31

Qiskit独自のコード生成の機能として、ランダムな量子回路を直接生成することもできる。

circ = random_circuit(5, 5, measure=True)

この1行だけで、5量子ビットと5古典ビットのランダムな量子回路が生成される。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.providers.aer import AerSimulator
from qiskit.visualization import plot_histogram
from qiskit.circuit.random import random_circuit

circ = random_circuit(5, 5, measure=True)
circ.draw(output='mpl')

fig32

測定結果は以下のようになる。

simulator = Aer.get_backend('aer_simulator')
circ = transpile(circ, simulator)

# Run and get counts
result = simulator.run(circ).result()
counts = result.get_counts(circ)
plot_histogram(counts)

fig33

量子ビットの美的な状態

最後に、ChatGPTに以下のような問いかけをしてみた。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.visualization import plot_histogram, plot_bloch_multivector
from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(5)

# Create a symmetric pattern of superposition and entanglement
qc.h(0)
qc.cx(0, 1)
qc.cx(1, 2)
qc.cx(2, 3)
qc.cx(3, 4)
qc.barrier()
qc.h([1, 3])
qc.cx(1, 2)
qc.cx(3, 4)
qc.barrier()
qc.h(2)
qc.barrier()
qc.cx(2, 3)
qc.barrier()
qc.h(2)

# Measure all qubits
qc.measure_all()

# Visualize the circuit
qc.draw('mpl')

fig34

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(qc, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

fig35

続けて、以下のような問いかけをした。

すると、以下のような答えが返ってきた。

  1. 対称性:対等な重ね合わせや、ある変換のもとで不変な状態など、対称性を示す量子状態は、ある種の美的性質を持つと考えることができます。
  2. もつれ合いの最大化:最大のもつれを示すベル状態やGHZ状態のような状態は、最大相関を持つという性質から特別なものと考えられます。
  3. フラクタル構造:状態や回路のパターンが複数のスケールで繰り返されるフラクタル構造を示す量子状態や量子回路は、一種の美的性質や面白さを持っていると考えられます。
  4. 単純さと優雅さ:最小限の操作や資源で特定の結果を達成する量子状態やアルゴリズムは、ある意味でエレガントで美しいと考えられます。
  5. 調和とバランス:複数の状態の等しい重ね合わせのような、ある種のバランスを示す量子状態は、調和のとれた性質を持っていると考えられます。
  6. 複雑さ:高度な複雑性や情報を持つ状態は、ある意味で興味深いもの、あるいは特別なものとみなされます。
  7. 普遍性:他の状態や操作を構築するために使用できる状態や操作(量子コンピューティングにおけるユニバーサルゲートセットのような)は、ある種の生成的な美しさを持っていると考えられます。
  8. 自己相似性:ある操作や変換の下で自己相似性を示す量子状態は、ある種の再帰的な美しさを持っていると考えられます。
  9. 最適性:特定のタスクに最適であったり、特定のリソースを最大化するような量子状態やアルゴリズムは、特別であったりエレガントであったりすると考えられます。
  10. 幾何学的な美しさ:状態空間における興味深い幾何学的構造やエレガントな幾何学的構造として可視化できる量子状態は、一種の幾何学的な美しさを持っていると考えられます。

1. 対称性:

すべての可能な状態の等しい重ね合わせ状態を作成します。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.visualization import plot_histogram

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(3)

# Apply Hadamard gates to create equal superposition
qc.h([0, 1, 2])

# Measure all qubits
qc.measure_all()

# Visualize the circuit
qc.draw('mpl')

fig36

fig37

2. もつれ合いの最大化:

Greenberger-Horne-Zeilinger(GHZ)状態を作ります。

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(3)

# Create a GHZ state
qc.h(0)
qc.cx(0, 1)
qc.cx(0, 2)
 
# Measure all qubits
qc.measure_all()

# Visualize the circuit
qc.draw('mpl')

fig38

fig39

3. フラクタル構造:

一種のフラクタル構造を形成する、ゲートの繰り返しパターンを持つ回路を作成します。

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(3)

# Repeated pattern of gates
for _ in range(3):
    qc.h([0, 1, 2])
    qc.cx(0, 1)
    qc.cx(1, 2)
    qc.barrier()

# Measure all qubits
qc.measure_all()

# Visualize the circuit
qc.draw('mpl')

fig40

fig41

4. 単純さと優雅さ:

最小限のリソースで量子テレポーテーションを実装します。

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(3, 1)

# Create initial state to teleport
qc.x(0)
qc.barrier()

# Create Bell pair
qc.h(1)
qc.cx(1, 2)
qc.barrier()

# Perform teleportation
qc.cx(0, 1)
qc.h(0)
qc.measure(0, 0)
qc.cx(1, 2)
qc.cz(0, 2)

# Visualize the circuit
qc.draw('mpl')

fig42

fig43

この量子回路は量子テレポーテーションの基本原理を示していて、q[0]の状態を、もつれたペア(q[1]q[2])を使ってq[2]にテレポートしようとしています。

5. 調和とバランス:

別のゲートを交互に並べた回路を作ります。

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(3)

# Alternating pattern of gates
for _ in range(3):
    qc.h([0, 1, 2])
    qc.barrier()
    qc.cx(0, 1)
    qc.cz(1, 2)
    qc.barrier()

# Measure all qubits
qc.measure_all()

# Visualize the circuit

fig44

fig45

これは、「フラクタル構造」のコードのCNOTゲートの一部を、SWAPゲートに置き換えたものになっている。

測定と演算のインタラクション

こうした例を見ていると、測定と演算の関係が再び気になったので、もう一度質問してみた。

ポスト・セレクション:

この例では、もつれた状態を準備し、その後測定を行う回路を作ります。一方の量子ビットの測定結果に応じて、もう一方の量子ビットの状態が影響を受けます。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.visualization import plot_histogram, plot_bloch_multivector
from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(2, 2)

# Prepare an entangled state
qc.h(0)
qc.cx(0, 1)

# Measure qubit 0
qc.measure(0, 0)

# Depending on the result, apply X gate to qubit 1
qc.x(1).c_if(qc.clbits[0], 1)

# Measure qubit 1
qc.measure(1, 1)

# Visualize the circuit
qc.draw('mpl')

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(qc, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

fig46

fig47

q[0]の測定結果が0であれば、エンタングルしているq[1]0になり、そのときはq[1]は変化しない。q[0]が1であれば、q[1]1になり、その場合はq[1]を反転させる。いずれにしても、q[1]は常に0になる。せっかくなので、もう少し他の例を挙げてもらうことにする。

条件演算とフィードバック:

この例では、3つの量子ビットを持つ回路を作成し、一連の演算と測定を行います。この場合、後続の演算は以前の測定結果を条件とし、回路内に一種のフィードバックループを作成します。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.visualization import plot_histogram
from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(3, 3)

# Prepare a superposition on qubit 0
qc.h(0)

# Entangle qubits 0 and 1
qc.cx(0, 1)

# Create a superposition on qubit 2
qc.h(2)

# Measure qubit 0
qc.measure(0, 0)

# Conditionally apply X gate on qubit 1 based on measurement of qubit 0
qc.x(1).c_if(qc.clbits[0], 1)

# Measure qubit 1
qc.measure(1, 1)

# Conditionally apply Z gate on qubit 2 based on measurement of qubit 1
qc.z(2).c_if(qc.clbits[1], 1)

# Measure qubit 2
qc.measure(2, 2)

# Visualize the circuit
qc.draw('mpl')

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(qc, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

fig48

fig49

これは、先ほどの例に加えて、重ね合わせの状態にある第3の量子ビットq[2]が、q[1]の状態によって変化する。ただしq[1]は常に0なので、Zゲートは適用されず、q[2]の測定結果には、01が等しく現れる。ただし、Zゲートは位相反転ゲートなので、適用されても測定結果の確率分布に変化はない。

条件演算とエンタングルメントによる複雑な量子回路:

この例では、4つの量子ビットを持つ回路を作成し、一連の演算と測定を行います。後続の演算は、以前の測定結果を条件とするため、回路内に複雑なダイナミクスが生まれます。

from qiskit import QuantumCircuit, Aer, transpile, assemble
from qiskit.visualization import plot_histogram
from qiskit.providers.aer import AerSimulator

# Create a quantum circuit
qc = QuantumCircuit(4, 4)

# Prepare a superposition on qubit 0 and qubit 2
qc.h([0, 2])

# Entangle qubits 0 and 1
qc.cx(0, 1)

# Entangle qubits 2 and 3
qc.cx(2, 3)

# Measure qubit 0
qc.measure(0, 0)

# Conditionally apply X gate on qubit 1 based on measurement of qubit 0
qc.x(1).c_if(qc.clbits[0], 1)

# Apply a Hadamard gate to qubit 1 and qubit 3
qc.h([1, 3])

# Measure qubit 2
qc.measure(2, 2)

# Conditionally apply Z gate on qubit 3 based on measurement of qubit 2
qc.z(3).c_if(qc.clbits[2], 1)

# Entangle qubits 1 and 3
qc.cx(1, 3)

# Measure qubit 1
qc.measure(1, 1)

# Conditionally apply X gate on qubit 3 based on measurement of qubit 1
qc.x(3).c_if(qc.clbits[1], 1)

# Measure qubit 3
qc.measure(3, 3)

# Visualize the circuit
qc.draw('mpl')

# Simulate the circuit
simulator = AerSimulator()
compiled_circuit = transpile(qc, simulator)
result = simulator.run(compiled_circuit).result()
counts = result.get_counts()
plot_histogram(counts)

fig50

この回路はq[0]q[1]q[2]q[3]がもつれ合った状態から出発する。q[0]の測定結果によってq[1]Xゲートを適用するかが決まる。q[2]の測定結果によって、q[3]Zゲートを適用するかどうかが決まる。q[0]q[2]も測定結果が01になる確率は等しい。q[2]の測定によって、q[3]の値も01のどちらかになるが、q[1]q[3]にアダマールゲートが適用されて、重ね合わせの状態になっているので、Zゲート、CNOTゲート、あるいはXゲートの適用の有無にかかわらず、測定結果には01が等しく現れる。最終的には、0000から1111までが(ほぼ)等しく現れる。

fig51

(つづく)

参考:以上のQiskitコードと実行結果は、Jupyter notebookファイル※10にまとめられている。

]]>
量子コンピュータアート序論 https://ekrits.jp/2023/09/7897/ Tue, 19 Sep 2023 05:28:57 +0000 https://ekrits.jp/?p=7897

コンピュータ・アートとは何か?それはコンピュータの芸術である。芸術活動の主体はコンピュータである。……我々の目指すコンピュータ・アートとはコンピュータを芸術創造の主体とするコンピュータのアートであり、コンピュータが芸術するのであって、コンピュータを利用する人間芸術とはその理念を異にするものである。

コンピュータはプログラムなるものを記憶内蔵し、その内なる指令を解釈して自動的に情報を処理(計算)をする、言うなれば脳を模した機械であり、その一切の動作はプログラムによって実行される。ゆえにこの内蔵プログラムの中身が芸術創造に関する指令系をなしているならば、コンピュータはこのプログラムに従って自発的自律的に芸術活動ができ、その結果作品を創り出すことになる。このようなプログラム主導の芸術を我々は真正コンピュータ・アート(コンピュータの芸術)と呼ぶ。
川野洋「コンピュータ・アートとは何か」※1

はじめに

コンピュータを芸術活動の主体とする「コンピュータアート」にとって、量子計算、そして量子コンピュータの出現はどのような意味を持つのだろうか?

コンピュータアートの中核にあるのは、数と計算やアルゴリズムの振る舞いである。コンピュータの計算の手続きをアルゴリズムといい、そのアルゴリズムをコンピュータが実行できる形式で記述したものがプログラムコードである。プログラムコードが実行するアルゴリズムの出力を人間が知覚し、アルゴリズムそのものと相互作用することによって、芸術的な鑑賞体験が生まれる。古典コンピュータアートにおいて、計算は確定的な数によって記述され、アルゴリズムはその明示的な演算を記述したプログラムコードによって表現されていた。同様に、アルゴリズムとその出力は、形状や色彩、あるいは動きや音響のような、人間が知覚可能なものとして提示されていた。

数とビット

古典デジタルコンピュータが扱うデータの最小単位を「ビット」という。1ビット毎に、通常は「0」と「1」の2通りの状態を記述できる。古典コンピュータは、この2状態系のビットが表現する情報の枠組みの中で数と計算、アルゴリズムやコードを考えてきた。そこで仮定されていたのは、以下のような古典的な素朴実在論に根差した物理量の概念である※2

  • すべての物理量は、どの瞬間にも、各々ひとつずつ定まった値を持っている。
  • 測定とはその時刻における物理量の値を知る(確認する)ことである。
  • ある時刻における物理状態とは、その時刻におけるすべての物理量の値の一覧表のことである。
  • 時間発展とは、物理量の値が時々刻々変化することである。

この物理量の値をビットで表現された数値に対応させれば、それはそのまま、今日普通に了解されているコンピュータ内の状態や計算に対する仮定となる。この人間スケールの素朴な直観に合致し、迷わず数値化できるビットの枠内で表現できる、芸術作品の形式や意味、可能性や限界を議論してきたのが、これまでのコンピュータアートの創作と批評であった。

量子論における実在

しかし20世紀に生まれ、今日広く発展した量子論は、こうした古典的実在論とは大きく異なる世界観を提示する。それは具体的には、以下のようなものである※3

  • すべての物理量が、各瞬間瞬間に定まった値を持つことはない。
  • 各々の物理量は変数ではなく、演算子(線形変換)で表される。
  • 物理量の測定とは、観測者が測定値をひとつ得る行為であり、一般に測定の度にばらつく。
  • ある物理量の測定値の確率分布は、あるひとつの物理状態から一意に定まる。
  • 物理状態とは、各物理量に対して、それを測定したときの測定値の確率分布を与えるものである。物理状態は物理量から確率分布への写像である。
  • 時間発展とは、測定を行う時刻によって、異なる確率分布が得られるということである。

つまり量子論において、物理量とは測定可能な可観測量のことであり、その状態は測定値の確率分布として与えられる。

ここで、

  • ψ:物理状態
  • A:物理量
  • a:測定値

とすれば、ボルンの確率規則により測定値の確率分布 {P(a)} は、

{P(a)} = ψ(A)

と物理状態 ψ と物理量 A の関数として表すことができる。量子論とは、これが自然の本性であるという立場から、 {P(a)}ψA から計算する理論体系のことである。

量子ビット:重ね合わせともつれ合い

量子論によって得られた、古典論に替わる自然の描像から、新たな計算の概念が生まれる。それは、前述の古典的な2状態系であるビットを、量子ビット(キュビット)と呼ばれる、量子状態系に置き換えたものである。従来のビットが

  • 0」あるいは「1」のどちらかの値をとる。
  • それぞれのビットの値は、他のビットの値とは関係なく定められる。
  • ビットの値を他のビットにコピーすることができる。

という特徴を有しているのに対し、量子ビットは、2つの独立な量子状態から構成される、以下のような系として定義される。

  • 2つの独立したビットの量子状態(基底状態ベクトル)を |0⟩|1⟩で表す。
  • 1つの量子ビットは |ψ⟩ = α|0⟩ + β|1⟩ という状態ベクトルの線形結合で表される。
  • ここで αβ は、|α|2 + |β|2 = 1 を満たす複素数である。
  • 観測の結果、 |0⟩|1⟩ のどちらかの値が得られる。
  • 観測することで、|0⟩ が得られる確率は |α|2|1⟩ が得られる確率は |β|2 である。

重要なのは、量子ビットにおいて、観測するまでは |0⟩ の状態と |1⟩ の状態とが「同時に重なりあって存在し得る」ことである ※4

量子ビットの第一の特徴は、この重ね合わせの状態が存在することである。同時に、未知の量子状態を複製(増殖)する事が出来ないという「量子複製不可能定理」が導かれる(その逆演算である、未知の量子状態の消去も不可能である)。古典ビットによるデジタルデータの第一の特徴が、劣化なき複製にあったことを考えると、ここに量子情報と古典情報の大きな違いがある。

さらに重ね合わせの状態にある量子ビットは、互いに独立でない(個別の量子状態に分離できない)ペアを作ることができる。これを「量子もつれ(エンタングルメント)」という。もつれ合いの状態にある量子ビットは互いに強い相関をもち、ある一方の量子ビットを観測すると、もう一方の量子ビットの状態が、たとえ空間的にどんなに離れていたとしても、ただちに影響を受ける。量子もつれの関係にある2つの量子ビットを用いれば、量子状態を離れた場所に転送することができる(量子テレポーテーション)。

「ある地点で行われた行為や起こった現象によって、遠くの実験結果がただちに変わることはない」古典物理学では説明不可能な、この量子ビット間のもつれ合いによる相関のことを「量子力学の非局所性」という。古典ビットによる従来のコンピュータが、先述の素朴実在論と局所性を仮定した物理学にもとづいていたのに対し、確率的で非局所的な量子論による量子ビットを用いた計算を実行する計算機が、本稿が対象とする「量子コンピュータ」である。

量子回路

量子コンピュータが計算を実行するときに用いる手続きの代表例は、量子ゲートとそれらを組み合わせたゲート型と呼ばれる量子回路である※5。量子回路とは、どの量子ビットにどの量子ゲート(古典コンピュータにおける論理ゲートに相当する)を、どのような順序で適用するか、という手順を示すもので、この量子回路が量子ビットを操作するプログラム、つまり量子アルゴリズムを記述したものになる。

量子ゲートの特徴は、その入力数と出力数が常に等しいことにある。量子計算は、|0⟩|1⟩ という2つの基底状態を持つヒルベルト空間(任意次元の複素線型空間)内の操作に限られるので、その計算は可逆でなければならない。

1量子ビットに対してユニタリ変換(2つのベクトルの内積の値が変わらないような変換)を施す「ユニタリゲート」にもさまざまなものがあるが、重ね合わせの状態を作り出す「アダマールゲート(H)」と、位相を π/4(45度)回転させる「Tゲート(T)」、そして2量子ビット操作の「制御NOTゲート(CNOT)」があれば、いかなる量子計算も可能になる(万能量子機械)。CNOT は、ある一方の入力(制御ビット)が |1⟩ のときのみ、もう一方の入力(標的ビット)を反転する。ここで反転とは、「NOTゲート(X)」の操作をすることに相当し、この操作によって2つの量子ビットのもつれ合いを作ることができる。

  • アダマールゲート(H):重ね合わせを作り出す(X-Z 軸周りに π 回転)
  • Tゲート(T):位相シフト(Z 軸周りに π/4 回転)
  • NOTゲート(X):ビット反転(X 軸周りに π 回転)
  • 制御NOTゲート(CNOT):もつれ合いを作り出す(制御ビットが |1⟩ のとき、標的ビットをビット反転)

これらの量子ゲートによって操作された量子ビットに対して、測定ゲートを適用することで、量子情報を古典情報にして観測する。量子コンピュータは、こうしたさまざまなゲートを用いて、

  • 量子ビットという複素数で表現される物理状態を用意する。
  • 量子ビットにゲート演算を施して以下のような操作をする。
    • 量子ビットの状態を変化させる(重ね合わせ状態を作り出す)。
    • 複数の量子ビットがもつれ合う状態を作り出す。
  • 量子ビットを測定することで、計算結果を確率的に得る。
  • 計算と測定を繰り返し実行することで、測定値の統計的な分布を得る。

という手順で量子計算を実行する。従来のコンピュータアートが古典計算による計算芸術であったとすれば、多くの情報を重ね合わせた状態のまま計算する量子計算とそのアルゴリズムによる計算芸術が「量子コンピュータアート」である。

量子プログラミング

次に具体的な量子プログラムを見ていきたい。量子アルゴリズムを記述する量子プログラミング言語にもさまざまなものがあるが、ここでは、IBMが開発しているオープンソースのPythonライブラリである「Qiskit(キスキット)」と、それを実行できる「IBM Quantum Composer」を用いる※6

量子コンピュータの「Hello, World!」プログラムと呼ばれているのが、次の量子回路である。

fig1

この量子プログラムは、q[0]とq[1]という2つの量子ビットを用意して初期化したあと、 q[0] にアダマールゲートを適用して重ね合わせ状態(Bell状態)にする。次に q[0] を制御ビット、 q[1] を標的ビットとして、制御NOTゲートを適用する。すると、 q[0]q[1] がもつれ合い状態になる。

この重ね合わせともつれ合い状態にある2つの量子ビットを1024回測定すると、以下のような結果になる。

fig2

横軸は2つの量子ビットを測定した結果で、左側の最初の桁がq[1]、右側の桁がq[0]の測定結果である。重ね合わせの状態にあることから、それぞれの量子ビットの測定結果は、01>が半々、つまり等しい確率で現れる。さらに2つの量子ビットがもつれ合いの状態にあることから、q[0]0であれば、q[1]も必ず0になり、q[0]1であれば、q[1]も必ず1になる。この短いプログラムの中に、重ね合わせともつれ合いという、量子計算の2つの核心が含まれている。

例えば、以下の量子プログラムは、 q[0] を重ね合わせ状態にせず、 |0⟩ のまま制御NOTゲートを適用したものである。

fig3

この場合は、単純に制御ビット q[0] の測定結果は常に0で、標的ビット q[1] には何もしないので、同じく常に0となる。これは2つの古典ビットを用いた論理計算の結果と同じである。

fig4

次に、2つの量子ビットを共に重ね合わせの状態にしたあと、制御NOTゲートを適用せずに、つまりもつれ合わせずに測定してみる。

fig5

その場合、 q[0]q[1]が独立に、それぞれ50%の確率で01の値をとる。すなわち00, 01, 10, 11が(多少のばらつきがあるが)それぞれ25%の確率で現れる。これも古典ビットを用いた2ビットの乱数生成と同じ結果である。

fig6

実機による計算(ミス)

以上は、量子コンピュータのシミュレータを用いた理論的な計算結果であった。次に量子コンピュータの実機を用いてプログラムを実行する。プログラムの実行には、IBM Quantum Lab からアクセスできる量子コンピュータを用いる※7

まず最初に、前述の「Hello, World!」ならぬ「Hello, Quantum!」プログラムを、2020年に開発された5量子ビットの「ibmq_quito」で実行してみる。IBMの量子コンピュータには、世界中のIBMの所在地にちなんだ名前が付けられていて、quito(キト)はエクアドルの首都の名前である。ただし、この地名は実際のコンピュータの所在地とは関係がない。なお、IBMは量子コンピュータの速度を表す指標としてCLOPS(1秒あたりに実行できる量子回路層の数)を提案している。その指標によると、このbmq_quitoの速度は2.5K CLOPSである。

このプログラムの4000回の実行には2.77秒を必要とした。一回あたりの実行に必要な時間は、約0.7msである(1秒間に約1444回プログラムを実行できた)。1946年に開発された世界最初期のコンピュータENIACが、10桁×10桁の乗算に約2.8ms必要とした(1秒間に約360回の乗算ができた)こと、そして1971年に発表・生産された、世界初の民生用1チップの4ビットマイクロプロセッサである「Intel 4004」(最大クロック周波数750KHz)が、符号なしの16桁の加減算の演算を実行に約1.6ms必要とした(1秒間に約625回の乗算ができた)ことを考えれば、この量子コンピュータが、すでにかなりの性能を持っていることがわかる※8

fig7

実機による計算結果(全4000回)を見ると、半々の確率で得られる0011の割合が少し偏っていることに加えて、0110という、理論的には得られない結果も測定されている。

  • 00:1935回(48.4%)
  • 01:116回(2.9%)
  • 10:154回(3.8%)
  • 11:1795回(44.9%)

これは、実機の計算エラーによるものである。量子状態は非常に壊れやすく、ノイズにとても弱い。現在の量子ビットや量子ゲートは、1000回に1回程度の確率でエラーを起こす。これは量子の不確定性(確率性)とは別の要因によるものである。このように、量子状態という物質の状態を基礎とする量子コンピュータにとって、実行時のエラーは不可避のものであり、このエラーを制御していかに小さくしていくかは、量子コンピュータのハードウェア開発における重要なテーマとなっている。

同じプログラムを、同様の性能を持つ別の実機である「ibmq_belem(ベレン:ブラジル北部のパラー州都)」で実行してみると、以下のような結果になった。

fig8

測定結果は

  • 00:1975回(49.4%)
  • 01:207回(5.2%)
  • 10:120回(3.0%)
  • 11:1698回(42.4%)

であり、やはり数%オーダーのエラーが発生している。今日の古典デジタルコンピュータにおいては、実行時のエラー、つまり計算ミスの対策が進んでいて、ほとんど考える必要がないのに対し、量子コンピュータの場合、この物理的な「計算ミス」が大きな影響を与える。正確さを第一とする量子コンピュータの理工学的な利用とは異なり、量子コンピュータアートにおいては、この計算ミスの意味や役割を、正確さとは別の観点から考える必要がある。

量子計算とはどのような計算か?

ここまで量子計算の理論と実際の簡単な例を見てきたが、これらを踏まえて量子計算とは、いったいどのような計算なのかを簡単にまとめておきたい。

まず初めに、量子計算は量子ビットという「物質」を用いた計算である。ゲート型の量子コンピュータは、量子ビットの物理的な状態を量子ゲートによって変化させることで計算を進めていく。量子計算は電子回路を用いた計算のように、量子ビットの連続的(アナログ)な状態を用いて計算を実行する。こうしたアナログ計算は、今日広く自然計算と呼ばれている※9

しかしながら最初に述べたように、複数の状態を同時に持つ量子ビットの重ね合わせ状態は、何かひとつの定まった値を持たず、ひとつの値を得るためには、量子ビットを測定するしかない。同じ量子状態においても、その結果は測定毎にばらつき、測定値の確率的、統計的な分布しか得られない。しかも、測定によって知り得る情報は、量子ビットの状態そのものではなく、古典ビット同様の01のバイナリデータである。最終的な計算結果は、測定による古典デジタル値としてしか得られない。量子状態はアナログ値で、測定することでデジタル値となる。量子計算は、自然計算であると同時に、測定というインターフェイスによって、アナログとデジタルを結びつける、ハイブリッド計算のひとつである。

最終的な測定結果がデジタルであったとしても、アナログな量子状態はノイズに弱く、常に少なからぬ誤差やエラーが存在する。量子状態がアナログであるがゆえに、測定結果には必ずエラー(計算ミス)が発生する。これも、計算ミスが(ほとんど)問題にはならない古典コンピュータとの大きな違いである。量子コンピュータには、量子状態そのものが持つ本質的な不確定性と、実機が持つエラーという現実的な不確実性の両者が存在する。

もつれ合いによって構造を与える

4量子ビットの系(4量子ビットコンピュータ)を考える。4つの量子ビットをアダマールゲートですべて重ね合わせの状態にしてから測定すると、0000から1111までの16通りの状態がすべて(ほぼ)均等に現れる。これは、古典コンピュータによる4ビットの一様乱数と同じ計算結果である。

fig9

fig10

ここにもつれ合いによって、量子ビット同士に関係を与えると、測定結果に構造=パターンが出現する。例えば、最初の2つの量子ビットをエンタングルさせると、以下のような測定パターンとなる。

fig11

fig12

その他の2つの量子ビットをエンタングルさせると、別のパターンが出現する。

fig13

fig14

3つの量子ビットをエンタングルする(GHZ状態)と以下のようなパターンが生まれる。

fig15

fig16

4つの量子ビットをすべてエンタングルさせると、00001111のいずれかしか出現しなくなる。

fig17

fig18

エンタングルさせる関係を変えても、結果は同じになる。

fig19

fig20

さらに、エンタングルした4つの量子ビットそれぞれに、再びアダマールゲートを適用してから測定すると、以下のような面白い結果になる。

fig21

fig22

測定される結果は、1あるいは0の数が偶数(0, 2, 4)個のものだけとなり、すべての結果が等しく現れるもつれ合いなしの状況とは、大きく異なっている。

このプログラムを実機の「ibmq_manila(マニラ:フィリピン共和国の首都)」で4000回実行した結果が以下のとおりである。全体で17%程度のエラーが発生しているが、1あるいは0の数が偶数個の結果が多数を占めている。

fig23

以上のように、量子プログラミングは、量子特有の重ね合わせの状態に、もつれ合いによってトポロジカルな構造を与えることで、測定結果の確率パターンを生成していくことと考えることができる。重要なのはもつれ合いと測定の構成にある。この、もつれ合いという関係によって重ね合わせ状態とその測定結果に構造を与えていく方法を、量子コンピュータによる「もうひとつの構成主義」と位置付けることもできるだろう。

作品の存在論:実行と鑑賞のもつれ合い

量子コンピュータによる芸術制作を考えるときに、次に検討しなければならないのは、その量子論的な実在と芸術活動の関係、すなわち量子コンピュータアート作品の存在論である。量子コンピュータが内蔵する量子ビット=作品の状態は、人間が直接知覚することができない、不可知の存在である。量子ビットを測定することによって、それは初めて人間にとって可知のものとなると同時に、量子ビット=作品の状態に影響を与える。

芸術活動において、この測定は鑑賞行為と関係がある。量子計算における測定行為を量子コンピュータアート作品の鑑賞行為と仮説的に対応させれば、作品制作とは、この測定=鑑賞にどのような確率分布を与えるか、すなわち多数の測定=鑑賞の統計分布をコントロールすることとなる。通常の鑑賞行為においては、その変動は鑑賞者と作品の関係によって決まるが、量子コンピュータアートの場合は、作品の存在そのものが量子の不確定性と、計算の不確実性を持つ。しかしながら、デジタルデータとして示される測定結果だけを問題にするのであれば、それは古典コンピュータでもシミュレート可能なものとなり、古典コンピュータアートと同等のものになってしまう。

そう考えたときに問題としなければならないのが「その測定=鑑賞行為をいつ誰が行うのか」ということになる。前述の事例では、各量子ビットに量子ゲートを適用した後、順次測定を行ったが、一部の量子ビットを測定して、残りの量子ビットをさらに量子ゲートで操作することも可能である。計算の実行プロセスと測定=鑑賞プロセスは明確に分けられるものではなく、両者の境界は曖昧であり、不可分である。なぜなら、測定=鑑賞は、計算する対象=作品に影響を与え、最終的な測定結果にも影響を与えるからである。カメラを向けると人の行動が変化したり、物音を立てると動物が逃げたり、日常生活の中でも観測が対象に影響を与えるのは当たり前のことであるが、量子コンピュータアートの場合、それが作品の存在そのものに対して、本質的な影響を与える。

例えば、先ほどの4つの量子ビットをすべてエンタングルさせたプログラムにおいて、4つ目の量子ビットに制御CNOTゲートを適用する前に、すなわち q[3] (一番左側の桁)がもつれ合う前に測定すると、以下のように最終結果が変化する。

fig24

fig25

今回紹介したのはゲート型と呼ばれる、最も一般的な量子計算だったが、最初にまずエンタングルした量子状態を準備しておき、量子ビットをひとつずつ測定していくことで計算を進めていく「測定型量子計算」という計算方法もある※10。このように、量子コンピュータアートにおける測定=鑑賞行為については、さまざまな観点から議論を深めていく必要がある。計算の実行と観測が相互に影響を与えるという意味では、鑑賞は内在的な行為であり、量子状態にある作品そのものが、鑑賞者の存在抜きには存在しない。完成して変化することのない対象に対して、さまざまな視点や方法で体験したりや批評を行う古典的鑑賞に対して、量子コンピュータアートの鑑賞行為とは、作品と鑑賞者のインタラクションのプロセス自体を実践、記録、考察し、そこから何が生まれるのかを見極めていく「生成型鑑賞」といえるだろう。

「量子テレポーテーション」という、もつれ合った2つの量子ビット q[1]q[2] を利用して、量子ビット q[0] の状態を q[2] に転送するプログラムを考える。 q[0]q[1] の2つの量子ビットを測定によって古典ビット化してから、その値に応じて( q[1] と離れた場所にあってもいい) q[2] に適切な量子ゲート処理を行うと、 q[2] の量子状態が測定前の q[0] と同じものになる。これは作品の一部を鑑賞(測定)することによって、新たな作品(量子状態)を別の場所に生成する、計算と測定が密接に関わり合うアルゴリズムの一例である。

fig26

fig27

最も左側の桁が q[0] を転送した q[2] の測定結果である。NOTゲートによって |1⟩ となった量子状態を転送したので、最も左側の桁の値はすべて1となっている。

エンタングルメント・セレンディピティ

こうした、量子コンピュータアートにおける計算の実行と測定、すなわち作品(量子コンピュータ)と鑑賞(測定者)、さらには測定装置に相当する「鑑賞の場」の不可分性について考えていくと、それを相互作用に先立つ独立した個体要素を前提とするインタラクションではなく、むしろカレン・バラッドが提示した「イントラ−アクション(intra-action)」、すなわち測定結果という個体要素が生まれる以前の相互関係と捉える方が適していることがわかる※11

バラッド自身は、この「イントラ−アクション」という概念を、もつれあうエージェンシーたちの相互的構成と捉え、この概念を表象主義を乗り越えるための、ものとひとがもつれ合ったポスト人間主義的なフェミニズム理論へと繋げていった。その一方でこの概念をHCI(Human-Computer Interaction)の基本的な前提に対する、批判的問い直しに適用しようとする動きもある※12

バラッドの発想の源となったのは、物理学者ニールス・ボーアの量子論であり、量子コンピュータが、バラッドが強調する「物質の能動的な役割」を中心に置いた装置であるのは、いわばあたりまえのことかもしれない。だから、すでに存在している実体に主体性を帰さない「エージェンシャル・リアリズム」の概念は、量子コンピュータアートの中核を成している。量子状態の系(量子ビット群)に「もつれ合い」という関係を設定することで生まれるこのエージェンシーこそが、測定という「エージェンシャル・カット」をもたらし、この切断によって量子コンピュータに内在する存在論的な不確定性が解消される。インタラクティブアートにおける「わたしたちはわたしたちが鑑賞しようとする作品の一部である」という考え方を、作品の存在や鑑賞という行為そのものにまで拡張するのが、イントラ−アクティブな量子コンピュータアートであるといえる。

学芸員のヤシャ・ライハートは1968年に、ロンドンのICA(Institute of Contemporary Arts)で「サイバネティック・セレンディピティ」と名付けられた展覧会を企画・開催した※13。数学者ノーバート・ウィーナーのサイバネティクスと「偶然に出会ったり、予想外のものや別の価値があるものを発見すること」という意味を持つセレンディピティという語を組み合わせたこの展覧会名と同等の期待を、今日の量子力学や量子コンピュータに対しても掲げてみたい。サイバネティクスの概念が、その後の古典コンピュータアートやインタラクティブアートにつながっていったように、量子のもつれ合い状態―エンタングルメントは、芸術の存在論、創作行為と鑑賞行為に対して、人間スケールの素朴実在論では得られない非直感的な視点を投げかける。それはさらに、世界の動的かつトポロジカルな再構成や再分節をもたらす、未来のイントラアクティブアートへとつながっていく可能性がある。

量子コンピュータアートとはどのような芸術か?

量子コンピュータがもたらしたものは、素朴実在論の常識を超える、エンタングルメントによる人間の認識の飛躍である。さらに量子の複製不可能性は、コンピュータアートや量子情報に本質的な唯一性を与え、非常に壊れやすい量子状態は、計算エラーを生み出すだけでなく、保存、再現不可能な一回性を生み出す。加えて、作品の不確定性=測定の確率的ばらつきは、一回、あるいは少数の計算結果を作品〜鑑賞対象としてきた古典コンピュータアートから、多数の測定結果の統計値を得るプロセス自体を鑑賞行為とすることへのトランジションと、その意味の問いかけをもたらす。

こうした量子コンピュータアートの特徴を踏まえて、冒頭の川野洋のステートメントを量子コンピュータアートのためにリライトすることで、本稿を締めくくりたい。

量子コンピュータアートとは何か?それは量子ビットという量子状態にある物質を素材とする芸術である。芸術活動の主体は量子コンピュータとそれを測定する人間が深く結びついたハイブリッドな系である。……我々の目指す量子コンピュータアートとは量子状態という人間には不可知の実在を芸術創造の素材とする量子コンピュータのアートであり、局所的な古典コンピュータによる芸術とも、素朴実在論に根差した人間芸術ともその理念を異にするものである。

量子コンピュータは量子ビットという量子状態の物質を内蔵し、その物質を操作することで自動的に情報を処理(計算)をする、言うなれば自然を模した機械であり、その一切の動作はプログラムによって実行される。しかしながら、量子コンピュータがこのプログラムに従って自発的自律的に動作するだけでは不十分である。重ね合わせやもつれ合いの状態にある量子ビットを計測装置+人間系が何回も測定することで、初めて人間が知覚可能な作品が統計的に現出する。このようなコンピュータと人間を含む、実在レベルでのイントラ−アクションの芸術を我々は真正量子コンピュータアート(量子コンピュータの芸術)と呼ぶ。

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書体の歴史と分類 https://ekrits.jp/2023/09/7697/ Mon, 11 Sep 2023 10:17:52 +0000 https://ekrits.jp/?p=7697 はじめに

本稿は3部構成である。第1部「書体の歴史と分類」では前半でゴシックという言葉の由来や発生展開の概要をまとめ、後半ではブラックレターの分類を基に特徴を眺めてみる。第2部「ブラックレターとローマン体」ではブラックレターが選択使用された様子をローマン体と比較し、さらに工芸としての文字の視点からも眺め、第3部「近代ドイツ社会でのブラックレター」では近代ドイツに絞ってブラックレターの特異な扱われ方の様子とその背景にあるものを探りつつ、主要参考文献からの引用を案内として紹介する。

専門家の言葉から

ブラックレターという活字書体についての本格的な記述は、タイポグラフィ上の他のテーマと比べて格段に少ない。雑誌や書籍でもブラックレターをテーマにした発行物はあまり見かけない。以下はタイポグラフィについての専門家たちからのブラックレターについての数少ない言葉である。

神聖なる目的を持った勤勉さを証明するものとして、簡単なことを難しく言いくるめるときの、ある種の喜びの表現です※1
——ハリー・カーター(Harry Carter)

ブラックレターは18世紀末に事実上死にました。……ブラックレターはその限界がどうであれ、中世の工芸人たちの創造的な能力の証拠となるある種の記念物を残しているのです。最も威厳があって、後の世に進化してきた最も理詰めのミナスキュールです。現在我々は、残念ながらイングランドとアメリカで衰退と俗悪化を見ているのです※2
——スタンリー・モリスン(Stanley Morison)

現在、ブラックレターはドイツ以外の国々では「ある時代の書体」であり、そのために誤って使われていることが多い。つまり、使用者はこの特定の「タイポグラフィ上の遺産」の歴史的背景を知らないのです※3
—— 『モノタイプ・レコーダー』の匿名エッセイ

当初からブラックレターとローマン体との間の対立は、重大な対照性で色付けられてきました。つまり中世主義対近代性、カトリック対プロテスタント、ルター派の経験主義対イタリアの人文主義、ドイツのロマン主義対フランスの啓蒙主義、国家の権威対個人の自由と民衆の主権、国家主義対世界主義、神秘主義対合理主義、これらの対比はドイツとイタリア、それに長年の相手であるドイツとフランスの間の古い敵対に源があります※4

セオドア・デヴィヌはPlain Printing Typesの中で「ブラックレターはローマン体の造形の退化だ」と宣言しました※5
——ポール・ショー、ピーター・ベイン (Paul Show and Peter Bain)

ブラック・レターの識別や特定は、常に印刷人だけでなくタイポグラファの間でさえも大いに迷う問題なので、ガウディは過度に関わる必要がないとしていました。活字の分類は不正確なことであり、ブラック・レター活字は曖昧で、ほとんどのタイポグラファにとって容易に近づけない情報源ですし、それに対して集中的な研究が必要です※6
——アレキザンダー・ロースン (Alexander Lawson)

言語と活字は、人口の大部分にとって文化的な自己確認の基本的手段でなくなってきています。その代わりに国家主義者の神秘的な象徴、民族主義者の幻想、非合理的信心、そして神話がそれにとって代わっているのです。この誤った自己確認は、危険な武器となっています※7
——イヴォンヌ・シュヴェーメル・シェダン (Yvonne Schwemer-Scheddin)

ブラックレターは強調やコントラストを演出するために、ローマン体やイタリック体が席巻する世界の多くの場面で使われます。また、新聞の題字あるいは宗教用の小冊子のタイトルに限定される必要はありません。活字設計者たちも諦めてはいません。優れたブラックレターは20世紀でも作られています。ドイツ人のルドルフ・コッホや、アメリカ人のフレデリック・ガウディなどです※8
——ロバート・ブリングハースト (Robert Bringhurst)

上に引用した記述のうち最後のブリングハーストの寛容で楽観的な記述を除けば、そのどれからも独特の含みや複雑さが滲み出ている。ブラックレターについて、カーターは「歪んだ喜び」としてその使用における屈折した複雑な心情を、モリスンは歴史的には「記念物」として過去のものとの認識を示し、匿名氏はこの書体についての使用者の誤用と知識不足を指摘し、ショーとベインは「ローマン体との二項対立」を示して宗教・文化・政治・思想が絡むと指摘し、ロースンは「近づき難く迷う対象」だと述べてその曖昧さと複雑さを問題視し、シェダンは「偶像と神秘への回帰」「危険な武器」としてその使用における背景に注目し、警告している。

どうもイデオロギー的色彩を帯びた記述や厄介な対象であることが目立つと言わざるを得ないし、一般的な理解不足も絡んでいるようだ。ブラックレターを知るには、そこに複雑な課題が横たわっていることがわかる。その課題とはブラックレターの造形に現れている諸国の歴史、言語、民族、宗教などの一筋縄ではつかみきれない要素が絡んでいるという事実にある。その理由は、文字書体に対する精神性が絡むこと、あるいは心情や気分という説明を拒むような退っ引きならない深層に答えのヒントがあるという事情を示唆するからだ。

さらに我々日本人にはとりわけ簡単には理解しがたく、思いもかけない対象だ。ブラックレターを単なる装飾的な文字として見るだけで、ロゴのような単独の使用目的以外でほとんど使うことがないからだろう。知らないで使うことは幸福で、うっかり火傷程度で済むくらいならばまだマシなのだろうが、政治や宗教などに絡むとなると、軽い傷の程度では済ませられないこともありうる。ともかく食らいつくことでしかこの門は開けられない。

この書体の背後には、接近を拒む何かがありそうだが、欧文タイポグラフィの歴史を覗き見している探偵気取りの私には、なんとかして一定の理解の段階には達したい。そこで、これはその理解のための手探りの試みとなる。なるべく単純化して骨格だけでも掴みたいと試みることにする。

参考文献について

ブラックレターについて英語で紹介された参考文献は限られている。内容が詳しい本格的な文献は、スタンリー・モリスン著『Black-letter text※9』だと言われている。これは活字化する以前のスクリプトつまり手書きの文字について、その変化の痕跡を丹念に辿って詳述されており、図版も多く、理解を助けている。

また、ハリー・カーターは、先に紹介した著作の中で、ヨーロッパ各国の活字化しはじめたブラックレターの諸相を紹介している。その中でカーターがブラックレターに触れているタイトルは「共通する地域的特質の確立(The Establishing of Common Idioms※10」の章で、これは特定の人々が特定の時代と土地で使われていた典型的で特徴ある書体の出現についての解説である。そのほか書誌学者で大英博物館の印刷本担当者A・F・ジョンスンの記述などがある。

そして20世紀末に『ブラックレター:活字と国家の自己確認(Blackletter: Type and National Identity※11』という刺激的な小論集が発行された。序文を含めて8つの小論文が豊富な図版とともに掲載され、いずれも問題意識が強い意欲的な論考である。分類については、カリグラフィの分野と活字書体では多少の違いが見られる。そのことは後の分類の項で若干触れることになる。ここでは活字書体を中心とする分類に限定する。

1. ゴシックの由来

ゴシックとは

ブラックレターという名称は、本来はゴシック体と呼ばれている書体のことである。ゴシックとはイタリア・ルネサンス期の15世紀頃に、人文主義者が特殊な感情を込めて「ゴート的」と蔑称したことに始まる。その呼称の源は「ゴート(Goth)」であり、ゲルマン部族のひとつであるスウェーデン人を指すという。またゴートはゴシック(Gothic)としてゴート語やゴート人という意味になる。

だが、名指しの元はむしろ人文学主義者が嫌う以前から存在したゴシック建築に関係していた。ゴシックは、フランス様式とも呼ばれていた教会建築の流行に対して、イタリアの文化人たちがゴート人の(gotico)様式を侮辱・嫌悪したことから広まったという。つまり11世紀後半から生まれ、12世紀に本格的な広まりを見せた北フランス発祥の独特な教会堂の姿を指していた。

また手書き文字(スクリプト)の書体としてのゴシックとは、建築との類似性にも通じる。それは神のおわす天上への憧憬からの感情に基づく昇天性、また堂内の装飾における森閑さと壮麗さなどの演出と呼応する、装飾の過剰気味な追加が基本的な特徴である。ゴシック体の上方へ突き出す鋭いストロークや、左右から圧縮された形状に見られる緊密性と重々しさが、流行した教会建築の威圧感と権威性に共通するからであろう。だがそれゆえ、ルネサンス期という中世の空に重く暗く垂れ込めていたカトリックの厚い雲を振り払おうとして登場した人文主義思潮にはそぐわなかった。

例えば初期人文主義の代表的存在であるキリスト教人文主義者はエラスムスである。彼は1521年にはバーゼルに住んでいて人文主義の印刷者フローベンと深く付き合っていたが、明快なローマン体をラテン語にふさわしいとして要求したことが伝わっている。ゴシック体を読みにくいとして嫌ったことは有名であり、同時代や後続の人文主義者への影響力も少なくなかったであろう。

そのことはエラスムスの行動からもうかがえる。彼が自著出版のためにヨーロッパの名のある印刷所がある国々を巡った先の土地には、ヴェネチアのアルダス・マヌティウスやバーゼルのヨハン・フローベンなどローマン体を主要な活字書体として活用した印刷者がいた事実もわかる。エラスムスについては次の2部で触れることになる。

逆に言えば、ゴシックは手書き書体の種類と教会建築様式で呼称が重なる。さらに両者には時代的に共通性がある。この特殊なスクリプトも同じ頃に生まれたとされるからだ。ゴシック体の書法の直接の起源は8〜9世紀のフランク王国のカロリング朝にアルクインが整理したカロリング朝の小文字主体の文字にある。それはやがて洗練を重ねて、規範的な読みやすい文字として11世紀末から12世紀にかけて広まりはじめたが、この時期はゴシック建築の発生展開と時代をほぼ同じくする。

また、近代に至って多少の混乱が生じた。ゴシック・スクリプトの黒々とした均質性のもたらす重量的なテクスチャが、近年に至って活字化されはじめた頃の太いウェイトのサンセリフ体と重なるように感じられていたことが想像される。おそらくそこからサンセリフ体をゴシック体と呼ぶ習慣が主に北アメリカで生じたのだろう。さらにサンセリフ体は、欧州では別にグロテスク体とも称された。肯定的な響きではないことが特徴であり、ゴシック由来の名称が当初からある種の特殊性を宿命的に孕んでいたことを暗示するようである。

ゴシック建築

ゴシック建築は、12世紀前半にフランスで生まれた。ゴシック大聖堂の登場である。だが、「森林としての内面も外面もない」「奇怪な透明性」などと評されることもあった。この「大聖堂」とは元来は複数の建築物の集合体だったが、司教の教会堂へと変質し、8世紀には司教の座る椅子である司教座となった。その大聖堂がひとつの様式へと整理され改築されていったのは12世紀からだったという。

この大聖堂についての評で「森林」という語が使われたことには説明が必要だ。これはキリスト教の勢力拡大戦略と関わる壮大とも言える執拗で策略的な異教改宗への促進運動と関わる。

その過程を図式的に大雑把にまとめると次のようになる。11世紀の北フランスでは森林と原野の中に集落が点在していたが、常に異民族の侵入・侵略への恐怖の中で暮らしていたという。彼らは多神教という自然界の事物や現象を神として捉えており、また身近な森は聖なる場でもあったという緩やかな信仰形態であった。

あるいはまた多産と豊穣を象徴する女神と母なる大地を崇める地母神信仰もあった。生存の危機と恐怖を克服するため、そして豊かさを実感するために自然の大地にすがることにより、精神の平安を求めたのだろう。人間より大きな包容力の中にひとときの安寧を保ったのだと想像できる。

ちなみに、地母神については、次の言葉がわかりやすいだろう。

地母神とは大地の生命力を人間に付与する存在への信仰から生まれた女神である。人類史上最古で、普遍的な宗教活動の一つであり、後世に擬人化された女神である。
小林登志子『古代オリエントの神々:文明の工房と宗教の起源※12

さらに地母神には3つの属性があるという。1つ目は処女性で、母体は清純であるべきだからであり、2つ目は愛欲で、生命力の付与の原動力だからと考えられ、3つ目は戦闘で、憎悪や暴力の発動の中で善悪を超越した存在とされるからだ、との解説が続く。つまり、地母神は生命と直結する大地と人間との間での心身の均衡を保つ存在だったと言えよう。

そのうち11世紀中頃から大開墾運動が発生する。以後250年続いて地勢的および生活上の形態に大きな影響を与えた。森林を切り拓いて農業改革が始まる。これは農具や農法の改良と馬などの活用により穀物生産高の向上を図るものであった。

この運動の中心にはキリスト教信者である修道士たちの指導があった。「禁欲、学習、労働」を価値として広める中で、開墾作業を農民とともに進めた結果、11世紀にはフランス全土の60%だった森林が、12世紀末頃には20%にまで減少したという。いかに大規模で組織的な動きだったかがわかる。

その動きは人口の増加を意味した。人口の90%を占めていた非キリスト教徒の中から、開かれた土地に築かれた都市集落へと流れる人々が次第に増えてくる。この人々の流入は農村から一種の異界への移住でもあり、そこにはあらゆる地域から人々が集まったようで、ある意味で都市という様々な種類の地母神的宗教と、進出しはじめたキリスト教とが混じり合う場所でもあった。異郷の地で地縁や血縁から離脱した人々は、その不安を解消したくなる。

酒井健『ゴシックとは何か:大聖堂の精神史※13』の中で、上のような解説と以下の貴重な記述に出会う。

失った巨木の聖林への思いは強く、母なる大地への憧憬を募らせるばかりだった。巨木の森と母なる大地にもう一度まみえたい。深い左極の聖性のなかで相互の、自分と自然との連帯を見出したい。このような宗教的感情を新都市住民が強く持っていたことにゴシック大聖堂の誕生の原因は求められる。
酒井健『ゴシックとは何か:大聖堂の精神史』

そこに教会を建てて聖母マリア信仰を唱えて異教との共通性を演出し、地母神信仰の多様さを普遍性へと高めるような意図を伴って、異教徒の不安を吸収する運動が実行された。この「左極」とは恐怖感覚や不吉さを表す語彙だとのことである。ちなみに右極とはその反対の歓喜の感情だという。

そのとき、教会という聖堂は異教徒だった人々との融合を図る場として機能した。聖堂内は深い森の記憶を呼び覚ましただろうと想像される。聖堂の内部では大開墾時代で消えつつあったブナ、ナラ、カシワなどの高木の形象化が図られる。高木のしなやかな枝は聖なる曲線などに代わり象徴扱いされる。

また薄暗く不気味な堂内は、昼でも暗い森の記憶を呼び覚ましただろうと推測されている。ステンドグラスから差し込む光は、森の木漏れ日の清冽な光に見えた。この種の工夫が込められたゴシック建築は、見事に異教徒を融合させ、信仰心ある人々を親しみのある広い空間内で抱擁するような安心感で惹きつけ、強く結びつけたようだ。

なるほどこの説は分かりやすい。つまりキリスト教は土着信仰を見事に融合する装置として、内部に象徴性を塗り込める形でゴシック建築を活用したと言える。大聖堂の中で人々は個としての存在の矮小化を痛感したかもしれない。

ゴシックにおけるこの狂的な上昇志向は、死すべきものとしての人間の卑小さ・脆さ・有限性への深い自覚と同時の出来事だった。ゴシック大聖堂の天井の高さは、人間の力を超えたカリスマ的な力への強い憧憬と、この超人的な力によって救われたいとする切羽詰まった願望の合わさった表現である。
酒井健『ゴシックとは何か:大聖堂の精神史』

キリスト教はゴシック建築により各地の原始宗教を飲み込み、その地盤を強固にした。しかし、フランスにとどまらずドイツなどにも広まって各地で盛んに建てられた聖堂の内側は、やがて強固な無言の圧力として機能し、ますます壮麗化と権威化によりその象徴的な地位を確固たるものにした。

だが、教会組織は世俗化する。巨大な組織的膨張による権威の安定という伝統に包まれて思考の固定化とともに習慣化と保守化が進み、教会の役割が硬直化して堕落とともに世俗化が顕著になった。そのような教会運営に対する基本的な疑問が湧き起こり、ついに新教・プロテスタントを生む下地ともなった。

2. ブラックレターへの道

ラスティック

ブラックレターという書法の起源には2つの流れがあった。大雑把に言えば、ローマ帝国末期に生まれた(英語読みでは)「ラスティック(Rustic)」という大文字だけの書体と、カロリング朝に生まれたカロリング・ミナスキュルという小文字との合体に由来する。「ラスティック」とは「ルーラル(Rural)」と同じ語源をもつ「田舎の、素朴な」という意味である。

ラスティックはおよそ1世紀から6世紀の間に使われた。当初は二流の書体の扱いであって、3〜5世紀が最盛期だろう。また3世紀頃から「アンシャル」が生まれ、その変種の「ハーフ・アンシャル」も同じ頃に書かれはじめ、5〜8世紀にかけて盛んになった。「ハーフ・アンシャル」はむしろ「ハーフ・ミナスキュル」と呼ぶ方がわかりやすいだろうとモリスンは言う。同意見だ。やがて8〜12世紀の「カロリング朝」に案出された小文字へと変化した。そしてラスティックの俗性が公式性を獲得する。

大文字で書かれるラスティックは左右から圧縮されている。だが、長文用として書かれる習慣が衰え、使用される機会は主に見出しや重要な語や短い文章の強調などに限られつつ生き延びた。その理由のひとつに、スペースの節約に難点があるというのだが、文字幅ではなく、大きめのサイズで文字の高さが作用したのではないか。

ラスティックの圧縮は、9世紀の終わりから10世紀の間の聖ゴールで書かれたスクリプトで顕著になった。この流れの後期の11世紀後半に、大文字の見出し語がラスティックで、小文字の本文がやや圧縮の始まったカロリングにと使い分けが見られるようになる。

左右にやや圧縮されたラスティックの大文字に、カロリング朝の小文字が調和しつつ混じる書かれ方が見られる。12世紀初頭あたりから、整いはじめてその特徴が顕著になった。なおこの文字は「ラスティック・カロリンガ」とも呼ばれた。

fig1[図1]ハーフ・アンシャル

fig2[図2]ラスティック(大文字)

カロリング朝の小文字(ミナスキュル)

上にあげたカロリング朝の小文字(Carolingian minuscules)は、8〜9世紀に登場した。現代のラテン・アルファベットの起源と言われ、カロリング朝における改革で整えられた書体である。この書法の改革は後世に「カロリング・ルネサンス」と呼ばれた試みのひとつであるが、この発案者はシャルルマーニュ(カール大帝)だった。

改革の目的は、キリスト教の熱心な信者だったシャルルマーニュの野望にあった。彼はキリスト教を広げるために領土拡大を続け、今日のフランス、ドイツ、イタリアなど現代のヨーロッパの地理的基盤をなす国土を統治していった。キリスト教の普及には、言語と書字の統一が優先されると考えたシャルルマーニュは、ラテン語とその記述である正書法の確立を目論んだ。具体的には文法の改訂、聖書類の確定、権威ある聖さん式や教会関係の出版を含む広範囲な教育施設計画であった。これらの試みが長く守られるために、丁寧に書かれるスクリプトを標準化することが決められた。

アルクインの文字改革

780年にその計画のもっとも重要な役目を指導すべく任命された人物がいた。アングロサクソン人のアルクイン(735–804)である。アルクインはイングランドのノーサンブリア王国ヨークのベネディクト派大修道院付属の教養ある書記官室長で学者だった。

シャルルマーニュは781年にアルクインとパルマで出会った。アルクインはヨークの大司教の使命を帯びており、そのローマに行く旅の途上でシャルルマーニュと会った。その際に再会を約束して、アルクインは一度イングランドに帰国する。

アルクインは後年、約束通りシャルルマーニュと再会した。そこで彼は今日でいえば文部科学大臣かそれ以上の権限を与えられた。彼の主な仕事場は、ツールの聖マルタン修道院だった。そして後年「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる改革の主要人物となったことで名を残した。アルクインはラテン語とその発音・綴りに精通した学者だったという理由から、彼に白羽の矢が立ったことには、十分な理由があったわけだ。

スタンリー・モリスンによれば、アルクイン自身が直接に書法や書体の手本を示したわけではなさそうだ。いわばこの事業の総括指導者として名が残っているということだろう。アルクインの責任の範囲は、承認された新しいテキストの編集作業だったと言われる。

匿名で書かれた『モノタイプ・レコーダー』の解説には次のようにある。

8世紀の最初の四半世紀にシャルルマーニュの大規模な公共施設、道路、橋など建築計画は、教育施設の提供へと変わり、文法、聖書の文章、教会関連の書物を改定しました。この計画に必要とされた膨大な量の文書をより有効に発信するために、シャルルマーニュは新しく設計された文字を標準化する決定を下しました。

アルクインの支援を受けてツールの聖マルタン聖堂は、豪華な書物を大量に作成しました。その書物の文章は、現在ではカロリング小文字、印刷ではローマン体小文字、と呼ばれている新しい文字で書かれたのです。
‘Black Letter: Its History and Current Use’

いわゆるカロリング・ルネサンスの基本はラテン語とその正書法の統一であった。そこに2つの大きな柱があったこと。第1は、ラテン語による聖書類の理解を促すという正書法の確立である。第2は、社会環境の整備のための技術上の記述やその種の作業を遂行するための意思疎通、つまり情報の伝達や交換という手段の確立であったことがわかる。

やがて文字の分節化が行われた。つまり書き分けであるが、だがそれは新しいことではないという。匿名氏の言葉を続ける。

タイトルに碑文調の大きなサイズの大文字、サブタイトルには大きいアンシャル、章の最初の語句にはハーフ・アンシャルを使うことは新しいことではありませんでした。つまり、それが公的に組織化されただけだったのです。

聖マルタン修道院で書かれた優れた書字があり、それはアルクインが修道院長になる前であり、シャルルマーニュがハドリアヌス教皇から原本として使うよう聖典の新しい典型を保管する前でした。
‘Black Letter: Its History and Current Use’

fig3[図3]カロリング・ミナスキュル

fig4[図4]カロリング・ミナスキュル

すべての書物の本文には1種類の手書き文字が必要だった。またその文字はタイトルでは様々ありえてもただ小文字であればよかった。アルクインの指導の下で大量の文字が、現在「カロリング小文字(Carolingian minuscule)」と呼ばれている新しく標準化されたテキストで書かれた。

モリスンの説明を次に引用する。その文字は「まったく新しい文字造形の発明ではなかった」と結論づけられている。

このカロリング小文字は実をいうと保守的な修正であって、それ以前に行なわれていた書字を決して過激に改革したものではありません。それは中身としてはそれほどの発案でもないのです。もっともカロリング・ルネサンスという言葉で現在要約されているほとんどすべての偉業の特徴としてみた場合の話です。しかし、この特徴ある小文字がひとつの発明でなかったとすると、見出し語に碑文の大きいキャピタルと一緒に使うことや、小見出しに大きいアンシャルを、そして段落の最初の語句にハーフ・アンシャルを用いることは、オリジナルだった書物製作のひとつの様式を確立したことになります。

慎重に作成されたタイトルの序列化は、小文字それ自体というよりは聖書や聖典などの第一級の典型的なカロリング朝の書物の顕著な要素です。当事者たちは急いで小文字を書くという望ましくない習慣を抑制することを慎重に工夫したかもしれないのです。
タイトル用文字のデザインもまた新しくはありませんでしたが、その秩序化は独創的でした。アルクインはスクライブ(写字生)たちに最も重要な見出し語の手本として、ローマ時代の碑文とその効用を思い出させました。
Stanley Morison, ‘Black-letter’ text

文章の内容に応じた分節化、つまり役割上の書き分けが始まったという。またカロリング朝の小文字は公式性を求められ、その通りに書かれた。だが、非公式に速く書くという要請も他方にあり、そこで文字はやや傾きを生じた。この傾きは手の動きから自然に生じる身体性の結果である。大文字は権威あるローマの大文字であることから雑に書くわけにはいかず、そこで目をつけられた書体が同じローマの「ラスティック」であった。ラスティックは左右から圧縮され縦長になった独特の形状で、やや速めにそして左右のスペースを節約気味に書くというインフォーマル性を見せはじめる。カロリング小文字は、二流だとモリスンが評する「ラスティック」と一緒に書くには相応しかったのだろう。

この「ラスティック(rustic)」とは、先述の如く「田舎風の、素朴な」という意味であり、洗練されてはいないが、普段着風の味つまり親しみを幾分かは醸し出していたのだろう。また、カロリング朝小文字にはフォーマルとインフォーマルが存在したことがわかる。モリスンは次のように教えてくれる。

小文字の計画全体は、初期の形では四角で開放的なデザインを維持しようとの意図を示しています。

レタリングの一例としてのカロリング小文字は、その最盛期においてさえも公式と非公式の要素が矛盾して残っている混合したデザインだと認められたに違いないのです。

カロリング・スクリプトの元来の形では、より公式な性格とより非公式な性格との間に線引きをして区別するものがあるとみられます。つまり、古い文字に起源がある公式な文字と古い行書的な文字に起源がある非公式な文字との区別です。
Stanley Morison, ‘Black-letter’ text

fig5[図5]見出しと本文との書き分けの例

カロリング・スクリプトの2つの流れ

その後「イタリア式のカロリング小文字」が登場する。北イタリア式の小文字もまた、四角の中に行儀よく収まる柔らかめの小文字が12世紀後半に現れる(図6)。その後すぐに「プロト・ゴシック」というブラックレターが12世紀中頃には登場する。つまり、カロリング小文字からブラックレターと人文主義者書体であるプレ・ローマンに枝分かれするという状態が生じた。そして後者はやがて北イタリアのルネサンス最盛期にローマン体という活字書体のモデルへとつながった。以下ではこの辺りをもう少し具体的に記すことにする。

fig6[図6]北イタリアのカロリング小文字

2つの流れ:その1(ブラックレター)

9世紀後半から10世紀にかけて、ノトケルという人物がいた。彼はフランス聖ゴールのベネディクト派の修道士で、さらにヨーロッパの中世まで忘れ去られていたアリストテレスのテキストに初めて注釈を施した学者であり音楽家でもあった。その彼が書き残した旧約聖書の翻訳文(図7)には、興味深い書法が見られる。

図7に見られる特徴は、新しい試みと思える。全体としてはラスティックであるが、上部の4行は公式のカロリング小文字であり、イニシャル・レターで始まる5行目以下では小文字を速めに書き、圧縮してやや傾けてスペースの節約を試みていることが見て取れる。これをモリスンは「時代を反映した小文字と永続する影響力を行使するよう運命づけられた文字の原型だ」として、気取らない一般的書法だという。つまり、この文字が以後の書法の一方であるゴシック体への傾斜の出発点だという認識である。

fig7[図7]ノトケルの書き文字

次に11世紀に圧縮されたカロリング小文字とラスティックの大文字の混合が生じる。それは11世紀後半の、ラスティックの大文字とカロリングの小文字の混合の図7と同じく聖ゴールで書かれた文字である。大文字の見出し語がラスティックで、小文字の本文がやや圧縮の始まったカロリング文字と、使い分けが見られるようになる。12世紀初頭になると図8の「プロト・ゴシック」のように、重くフォーマルな最初期のブラックレターが北イタリアで見られる。ロンバルディア地方で書かれた聖句集の文字である。

fig8[図8]ラスティック大文字と、カロリング小文字の混合例

図8は12世紀後半の同じくロンバルディア地方で書かれた初期のブラックレター化した書体であり、ここにいくつかの変化を見てみる。ラスティックの小文字がセミフォーマルとして書かれていた例がある(図9)。そして12世紀中頃では(図11)、左右からの圧縮が強まったフォーマルの文字が見られ、これはラスティックを受け継いだカロリング小文字という位置付けである。そこにはミーンラインとベースラインに明確な意図を持ったセリフがわずかに見られるが、それは文字の連続性と単語の一体感の保持のためだろうか。

アレキサンダー・ロースンは『活字書体の構造※14』の著作中の「ガウディとそのブラックレター活字(Goudy and The Black-Letter Types)」の章で、ブラックレターの圧縮の原因について、納得のいく説明をしている。

13世紀までには、そのスクリプトは大学のスクライブたちがスペースと材料の節約のために、短縮語や合字それにテキストを書く時間を減らす方法を考案することが習慣化していました。文字自体では太い終筆は先細りのストロークに変わりはじめていたのです。

14世紀までには多くの文字の終筆部は控えめな菱形で終えられました。
Alexander Lawson, Anatomy of a Typeface

また、ブラックレターへの変化と衰退を略述している「手書きゴシック書法の出現(Leonard E. Boyle, ‘The Emergence of Gothic Handwriting※15’)」という短文がレオナード(レナード)・ボイルによって『タイポグラフィ研究誌』(The Journal of Typographic Research) に発表されている。イギリスを中心に見たボイルのこの文章によれば、「西暦1200年は、カロリング書体と呼ばれている400年の時代の終焉を示している。そこではヨーロッパの優れた文字が優雅で唯一の書籍用の文字であったものの終わり」だと断言されている。快適で管理されてしかも短縮されないカロリング朝の書字は、実際にローマ帝国後期のわかりやすくしかもつながりのない書籍用の小文字(セミアンシャル)であったが、例えばイングランドではついに変化の兆候が現れる。

カロリング朝の標準的な書法からの明らかな離脱は、1050年頃のノルマンディに最初に現れました。おそらくですが、鋭い先端から幅広くかなり急に止まる終筆のストロークへの以降は、斜めに切り取られたペンであるノルマンディ(その後はそのほかの地域)で採用されたことによるもので、それはイングランドとアイルランドの写字生たちがインシュラー文字用に使っていたものです。

1150年以降に決定的な兆候がありました。書籍用への需要の増加、読者層の拡大、商取引がゆったりしたカロリング書法からの乖離を広くもたらしました。12世紀のルネサンスは、物事の起源と科学的方法への探求がグレゴリアン改革(1050〜1100年)の間に始まりましたが、教育機関、学者、論文の増大が見られたのです。

書かれた言葉への高まる需要に沿うためにこれらの写字生が必要としたものは、速くて利益もありしかも読みやすい書法であり、出来るだけ狭い地域で可能であったのです。
Leonard E. Boyle, The Emergence of Gothic Handwriting

fig9[図9]カロリング小文字(11〜12世紀)

fig10[図10]カロリング小文字(12世紀)

ノルマンディといえば、イギリスが歴史上で受けた2つの大きな侵略をを想起する。1つ目は紀元前55年のローマ人の侵入であり、法律・政治・道路網・町づくり・ラテン語の読み書きが紹介されたということ、2つ目は1066年のノルマン人の侵略によりイングランドとウェイルズが征服されたことだ。それ以来、支配層ではフランス語が公用語となり、ラテン語と共に後の2世紀間使われる状態が続いた。上の引用は、大陸でカロリング書法の規範からかなり離れた兆候が現れたのが11世紀中頃のノルマンディにおいてであり、その新しい書法がイングランドへの侵略と同時に飛び火した、ということを指している。

ボイルによれば、そこで行われた書法の変化の特徴は、時間とスペースの経済性であり、それが略語の使用と関係していると、ロースンと同じ指摘がある。その工夫がカロリング文字からの離脱となり、150年ほどで完全にブラックレターが姿を現したとされている。その裏には斜めにカットされた幅広のペンの使用も重要な要素だった。

その略語・略字は、「対向曲線との融合」という現象である。それにより文字の太さ(ウェイト)と安定感という印象を与えるようになった。文字の曲線部や湾曲部との接合というスペースの経済性を優先した書法が新しいスタイルを生み出したとされる。

写字生はスペースの節約のためになるべく反対側の曲線を溶け込ませはじめたのです。このようにしてoのような文字が、pのような文字の後にある場合、あるいはcの文字が続く場合には、一つの文字の湾曲部や曲線は、向い合う他の文字の湾曲部と同化されました(po、ocそれにbc、bd、bg)。1220年までの書籍用の新しい書法の特徴でした。
Leonard E. Boyle, The Emergence of Gothic Handwriting

このような試みは、古代の中国での隷書体の文字における縦方向の圧縮という特徴にも通じるだろうと考えられる。木簡や竹簡で見られるように、1世紀に蔡倫が紙の製法を編み出す以前は、木簡や竹簡に文字を書いた。木や竹の表面を削り平らにした状態の上に筆で文字を書き記すには、文字の形状を扁平にすることが求められたと想像できる。木片や竹片を削る作業は時間を要しただろうし、その制作物は貴重であったと思える。そうであれば、一片の木や竹になるべく多くの文字を書き込むことが当然ながら求められたことは想像に難くない。

fig11[図11]ブラックレター化したカロリング小文字(13世紀)

文字同士の結合(合字化)が見られる。

fig12[図12]角張ったブラックレター (15世紀)

fig13[図13]ラスティックの小文字

fig14[図14]ラスティックを受け継いだカロリング小文字

また11世紀前半に明らかな圧縮化の傾向が出現する。以下ではスタン・ナイト著『西洋書体の歴史※16』をもとに略述する。ここではブラックレターという呼称ではなく「ゴシック」を用いている。ナイトは11世紀中頃の「コンプレッスト・イングリッシュ・ミナスキュール」を紹介している。圧縮型の英国版小文字であり、「強固な構造、リズムのある動き、ウェイトの軽重はそのまま維持されている」と指摘している。これはアセンダーもディセンダーも共に長めでのびのびと書かれている。ナイトは書く。

ゴシック書物体の特徴は、並行した圧縮、重々しいウェイト、鋭角性にある。圧縮の始まりはエアドヴィウスの書体に見られるが……。
スタン・ナイト『西洋書体の歴史: 古典時代からルネサンスへ』

12世紀の例では、イングランド南部のイギリス国教会の中心地カンタベリーのクライスト・チャーチで書かれた「プロト・ゴシック」、つまりゴシック原形体が紹介されている。カンタベリーは写本制作の中心地でもあったことで、ここにいうエアドヴィウスとは11世紀前半の英国クライスト・チャーチの筆頭写字生の名前で、英語名でエドウィンという人物である。また同じ12世紀の「プロト・ゴシック」としてベルギーのヘントで角張ったゴシック体へと変化する途上段階の書体も見られる。盛んに書かれたようだ。

イギリスではこの頃に「初期ゴシック体(アーリー・ゴシック・キャピタル)」も現れた。この大文字の特徴は、極端に縦に短めに伸びる極細のセリフ、下に伸びる蔓状のディセンダーである。一種の装飾性の付加とも言える。この装飾性は注目に値するだろう。書字上の利便性の点では不要だが、新たな余分のペンの動きを意図的に付加することに、書字作業の単調さを回避するある種の「余裕」と「遊び」あるいは「特徴付け」や、禁欲を承知の上での「自己表現的な演出」が意図されたかもしれない。

次に特徴ある書体も紹介されている。それは縦画の終筆のベースラインに施す「プレスキッスス」である。

やがて13世紀初頭には、黒々と重いラスティックが登場する。縦画の終筆部がベースライン上で次の文字へつなげるために軽く跳ねるセリフがなく、明確にカットされた独特の書法であり、これは「切り落とされた」という意味の「プレスキッスス(prescissus)」と呼ばれている。

型にはまった終わり方のために余計な労力を必要とするので、この書体はもっとも贅沢な写本にのみ似合っていた。
スタン・ナイト『西洋書体の歴史: 古典時代からルネサンスへ』

14世紀初頭には「ゴシック・クォドラータ」つまり四角形のゴシック体が書かれる。12世紀から始まったバイディングという2つの文字が「噛み付く」ことで一体化した形状が見られる(活字の「合字」と呼ばれる一対の結合に似ている)。また、意図的にアセンダー方向に伸びる蔓状の筆跡が、装飾性を帯びて行中にアクセントを加える。

14世紀末から15世紀初頭にかけて書かれた例としては、「ゴシック・テクストゥーラ」が紹介されている。テクストゥーラとは織物であり、まさに糸が縦横に織られて独特のテクスチャを現す書体となる。フォーク状に先端が割れたアセンダー、そして意図的につまり不自然に菱形に止められたベースラインが特徴である。

以上のような変化が地域を越えて広まった。つまりラスティック系の小文字がカロリング小文字の圧縮を引き起こし、ここからやがてゴシック体つまりブラックレターの数々の種類が登場したことになったとまとめられる。

後に分類の項で紹介するテクストゥーラやロトゥンダなどはここで示した書法の発展型であり、それぞれの地域での特徴が色濃く反映する書体として長く書かれ、15世紀中頃のグーテンベルクの印刷術と活字の発明において登場する「テクストゥーラ」のブラックレター体の活字化へと至る。

fig15[図15]バスタルダ、グーテンベルク印刷の「免罪符(贖宥状)」(1455)

なお、ここでは記述を省略した部分がある。それは書法における筆記具であるペンの種類やその書き方におけるペンの角度、それに加えて筆記具が直接書く対象・材料である支持体についての実際である。それに加えて、どのような姿勢でどのようなペン先でどのように書いたかなども含む。これらは、各書体を特徴付ける決定的な要素であるが、文字と書法のことを記すとなると多くの紙面を要するし、筆者の専門外であるために、ここでは書字の結果としての文字の形状だけに注目したことをお断りする。

以上をまとめれば、11から12世紀に新たに様式されたラスティック様式のカロリング書法は、各地の特徴を加えられて圧縮を基本とした新たな特徴を生み出したことになる。

15世紀には教会専用書体として「レットレ・フォルム」あるいは「レットレ・ミサ」と呼ばれる点画の先が尖っている書体が生まれた。典礼用または祈祷書用に使われたが、ここからさらに丸みを帯びた非公式書体の「レットレ・ミサ」が、また「レットレ・フォルム」からは後の「テクストゥーラ」という公式書体が、それぞれ派生した。このテクストゥーラは文字幅が圧縮され、小文字のストロークは折れて、ベースライン・セリフはカギ型で、アセンダーの先端はカギ針型である。ドイツ、フランス、オランダで多く使われた。

また、「レットレ・スンマ」という公式文書用の折衷円形書体もイタリアを中心に書かれはじめた。いわゆるラウンド・ゴシックとも呼ばれる、丸みを帯びた書体である。極端な尖りを廃した書体で、これが「ロトゥンダ」として活字として確立する。この書法を基に後のヒューマニスト書体が生まれた。

また折衷書体として「レットレ・バスタルダ」あるいは「バタルダ」が派生した。これはフランスの書記局で法令用の書法として使われていた。手早く書かれた書体だが、草書体ではなく、この系統からシュヴァーバッハやフラクトゥールという書体が登場した。

スクリプトから活字へ

ここでは若干の補足として、ブラックレターがその後どのように辿ったかを、大雑把に眺めてみる。先にも引用した『モノタイプ・レコーダー』の記事「Black Letter: Its History and Current Use」がその辺りを略述していることから、これを参考にしてみる。例えばフランスからイングランドに渡ったことに関して、次のような記述に出会う。

12世紀の終わり頃から、この同じブラックレターはより軽めで丸みのある「ローマン体」の様式(不正確だが、我々はそう呼んでいる)にとって代り300年間使われ、15世紀の中ごろまで、つまり印刷が発明される頃までには、ローマン体はすっかりブラックレターをしのいでいました。ブラックレター様式は、12世紀にフランスからイングランドに上陸しました。

新しいスクリプトは傾いたペンで書かれていました。……また、シャルルマーニュの命令で必要とされた膨大な量の写しを見ると、傾斜型ペンは新しい小文字に使われたと考える人がいたのです。
‘Black Letter: Its History and Current Use’

さらにはフランスのツールのスクリプト、つまりカロリング小文字は、デザインの意図と製法(書法)との矛盾があったという。そして、「傾いたペンの使用は常に文字の圧縮を強める傾向にある」ために、必ずしも傾ける必要はない場合でも、その圧縮によって文字幅が狭くなる。そして「12世紀の終わり頃には、スクリプトはすでに圧縮されて、建築や彫刻などと結びついた書字工芸の影響下にあった」し、「古いプロポーションとのつながりは無視された」という。

ブラックレターの欠点としては、それが書字でも活字でも同じことが言える。それは大文字だけで(つまりオール・キャップ)組まれると極めて読みにくいことが挙げられる。そして、先の匿名氏によれば「タイトルで使われることはない」ことから、「ディスプレイ用としてはローマン体に劣る」とされている。

ローマン体では16世紀初頭に小型大文字(スモール・キャップ)が使われはじめ、大文字との組み合わせが試みられて、ディスプレイ用としての使用を有利にした。マーガレット・スミス氏によれば(The Pre-history of Small Caps; from All caps to Smaller capitals to Small Cap)小型大文字は、1515年から1520年の間にバーゼルの印刷者フローベンがその使用法を確立したとされている。さらにイタリック体も小型大文字よりも20年ほど前にヴェネチアのアルダス・マヌティウス(アルド・マヌーティオ)によって活字化され、16世紀にはフランスでローマン体と一対となって習慣的に使用され、発展する。

中世の中心的な読者層は聖職者たちや神学者、それに大学の教授陣などであった。イタリアではボローニャ大学とパドヴァ大学が13世紀には開校していたことから、早くからブラックレターで書かれた写本を読んでいたことになる。ローマン体につながる書体はまだ書かれていなかったからだ。

現代のローマン体につながる書体が書きはじめられた時期は、14世紀になってからだ。ボッカッチョやペトラルカさらにはサルターティらがカロリング朝の文字スタイル(彼らはそれを古い文字、「アンティカ」と呼んでいた)を手本として書き、改良を試みはじめた時期は、まさに14世紀になってからだった。

その後に時代を画するような影響を与えた人文主義者たちが書字に注目した。彼らは独自の文字を用いてテキストをものし、彼らがルネサンスを牽引した北イタリアでは、やがてギリシャとローマの時代の思想や文芸に関する古典書の復刻や解釈本が、続々と印刷出版社から発行された。

印刷人のお得意先は人文主義者だった。さらに読者層の中心は、神学者や聖職者だけでなく、別の新しい読者層として人文主義を唱道する一団が生まれ、それが加わって新たな知的世界の展開が始まった。そして近代の個人主義的な発想の芽が出て、ローマン体の使用が諸所に見えはじめた。匿名氏の説明が続く。

フィレンチェの知識人は、ラテン語やギリシャ語の古典への興味の復興に向けて、運動を指導した者たちでした。このように、この種の人々が購入するための世俗の印刷は、イタリアで組まれた例を踏襲しました。このイタリアは、すでに指摘した通り、尖ったブラックレターを決して心から受け入れてはいなかった国です。
‘Black Letter: Its History and Current Use’

イタリアでは尖ったブラックレターは「決して心から受け入れてはいなかった」という通り、イタリアでは異なるブラックレターが書かれていた。それがロトゥンダであった。このロトゥンダがローマン体の基となる手書きスクリプトに変化した。陽気で明るいラテン系の人種には、同じブラックレターとはいえ、ヨーロッパの北方で流行していた隙間なく詰まって緊張感を醸し出すブラックレターは肌に合わないのであろう。

そして、ローマン体活字が生まれ、ローマン体に付随する役割が確立されたイタリック体の登場によりローマン体の長所がいっそう有利に活用される現象が広がった。

次にやや遡りながら、この文字がやがてブラックレターとは異なる活字の書体として新しく確立するまでを略述してみることにする。

2つの流れ:その2(人文主義者の文字)

「リテラ(レットレ)・アンティカ」つまり「古い(昔の)文字」と呼ばれて模範とされた文字がある。14〜15世紀に初期イタリア・ルネサンス発祥の地であるフィレンチェには学者を育てる学校があり、そこで書かれたスクリプト(手書きの文字)は、「古い文字」とされていたカロンリング朝の文字である。その復活を積極的に推し進めた人物は、イタリアの人文主義者の祖とされる詩人ペトラルカや、詩人で小説家のボッカッチョである。

フランチェスコ・ペトラルカ (1304–74)

ヨーロッパの抒情詩人の模範とされたペトラルカの筆跡は「リテラ・アンティカ」を模範としていた。ウルマンの著『人文主義者の文字の起源と発展(The Origin and Development of Humanistic Script※17』によれば、昔の文字を選んだ理由のひとつに、60歳を過ぎたペトラルカは視力が衰え、それまで読んでいた書体であるブラックレターを読みにくいと感じたからだ。それに比べてリテラ・アンティカは明快さを増して、明るくて読みやすいと判断したという。そして自らこのリテラ・アンティカを手本にして文章を書いた。それは彼の進取の精神とともに、フィレンチェの人文主義者たちに受け入れられた。

fig16[図16]ペトラルカの書字

ジョヴァンニ・ボッカッチョ (1313–75)

ダンテの熱烈な信奉者であり、またペトラルカをも尊敬して、ペトラルカの「追っかけ」とも称されたほど積極的に接近した人物である。またボッカッチョの家には、フィレンチェの高名な書記官で名文家のサルターティも集まり、議論を交わした時期があったとも言われている。ボッカッチョもまた明るい文字を書くという流行の影響を受けたようだが、その筆跡もまだどこかブラックレターの味を濃厚に残している。

fig17[図17]ボッカッチョの書字

コルッチョ・サルターティ (1331–1406)

桂冠詩人ペトラルカの文字を最初にモデルとした人物である。彼は外交文書や国内の法令に使用するために洗練されたラテン語の文体を磨いた。彼はフランスのバスタルダ体を嫌っていて、当初はロトゥンダ系の丸いブラックレターを書いていたが、視力が衰え、「リテラ・グロッサ(littera grossa)」(大きい文字?)で書かれたキケロの書物を入手したいと思ったのは1392年で、61歳のときだった。多読のために目を悪くしたからだと言われる。

サルターティは60歳を過ぎて視力の衰えとともに、メガネを改良するよりも書法を変える方を選び、リテラ・アンティカを積極的に書きはじめた。その際、ペトラルカの書く文字をモデルとしたほどである。彼はまた名文家として知られ、「彼の書く文章は千人の兵士に匹敵するほどの力と影響力がある」と言われていたという。サルターティの弟子には2名の有名な人物がいた。ブラッチョリーニとニッコリである。

fig18[図18]サルターティの書字

ポッジョ・ブラッチョリーニ (1380–1459)

ヴァチカンの教皇庁書記官だったが、彼の書法はのちにパドヴァやヴェネチアなどの北イタリアの人文主義者に影響を与えた。その書法はリテラ・アンティカを模範とした丸みを帯びた文字だった。つまりロトゥンダからの影響が見られる。その文字を写すうちにローマン体が生まれた。それは「プロト・ゴシック」と呼ばれ、活字化されはじめた頃の書体で、「プレ・ローマン体」として知られている、ブラックレターからローマン体への過渡期書体でもある。

fig19​​[図19]ブラッチョリーニの書字

彼はまた、古代のラテン語の綴りの一部を復活させた。例えば、大文字のIを発音上の区別のために他の大文字よりも大きく(高く)書くi-longaを復活させたり、語間に中黒の点を用いたりしたのだ。プレ・ローマン体とローマン体との違いは、明瞭なセリフの有無にあるが、ブラッチョロリーニの書く文字には明らかにセリフを意識した痕跡がある。

つまり、古代ローマの大文字に見られるセリフを小文字にも採用したことだ。とりわけ小文字の縦画ステムのベースラインにおける、左から右へ伸ばす横画としてのセリフが特徴である。それは手で意図的に書くことで生まれるストロークの痕跡であり、それゆえに自然に流れる筆跡の上で生じる線ではない。これはハリー・カーター説であり、彼がローマン体の定義を試みた際の基本的な特徴だった。

ただし、大文字のセリフの起源は、このローマン体とは異なる。エドワード・カティクというカリグラファの説によれば (Edward M. Catich, The Origin of Serif: Brush writing and Roman Letters)、それは碑文を石に彫る前に平筆で石面に書く際に、起筆で縦画を書きはじめるには筆を左から少し直線を引きながら穂先を整え、そのまま縦のストロークへと書き進むことで生じた起筆部の痕跡である。

いきなり筆先を縦に引いて書くと、穂先を揃えないことで、起筆の上部の線が不揃いになる。それを避けるために左から右へと横に引く必要があった。また、同じことを右からも書き加えることで文字の縦画上部のセリフが左右に出来上がる。またベースラインなどのセリフは、左上からのストロークをベースライン上では右に(途中で筆が紙面から離れることはあるが)伸ばすことで終筆に至る。そして右上からのストロークはベースライン上の左へと伸ばして、それぞれ平筆の穂先を整える。そこでベースライン・セリフが生まれる。

ニッコロ・ニッコリ (1364–1437)

公職にはつかずに優雅な生活を送ったという、謎の多い人物だ。メディチ・サークルの一員で、写本の収集、古典の編集、書字、翻訳など多彩に活動し、さらにメディチ銀行から無制限の融資を受けていた。信用と実績が生きたのであろうか。

彼の書いた文字はやや神経質で弱々しく、速く書くことで生まれたいわゆるイタリック体となった。ただし、ニッコリは傾かせることは意図していなかったし、垂直性を保とうとした形跡がうかがえるそうだ。これが後のアルダスのイタリック体活字へと間接的につながるわけだが、ヒューマニスト・カージヴとなって洗練されたものを元にフランチェスコ・グリフォがアルダスの依頼で、おそらく当時の数人の所持を参考にさせて父型彫刻したことで知られている。これが活字のイタリック体の出現の経緯である。

fig20​​[図20]ニッコリの書字

ニッコリはヴァチカンの尚書院に弟子や書写の才能ある者を派遣する斡旋も担ったとされている。イタリック体がヴァチカンの書記官や写字生が小勅書、通信文、重要度の低い文書など、非公式性の強い文章を書く際に使われたということは、イタリック体の基本について重要な事実を語っている。つまりモリスンの説によれば、「速く書かれたから、その結果として文字が傾いた」ということである。和文でも同じだが、やや速く雑に書くことで文字は必然的に連綿体とか草書体になる。いわば普段着的な書法と言える。

なおここで書かれたヒューマニスト・カーシヴは、「チャンセリー・カーシヴ」とも呼ばれた。書記官らが詰めていたヴァチカンの尚書院つまりチャンセリーで書かれていた書法がその部署の名として被された。カーシヴcursiveはラテン語のcorsoやcurrereの「走る」またはcursus(running)、corsor(runner)などという語に由来すると言われる。

ローマン体へ

フィレンツェでの書字の流行と反映は、やがてローマン体の誕生へとつながった。ブラッチョリーニやニッコリ派の人物アントニオ・マリオなどの試みていた書法と文字は、北イタリアのバドヴァやヴェロナなどに広まり、そしてフィレンツェに始まるルネサンスの中心地となったヴェネツィアにも伝わった。

その書法による書体は「非カロリング文字」として定着し、ルネサンスを先導した人文主義者たちは明るい書体であるローマン体を書き、それが活字化されてニコラ・ジェンソンが印刷で用いたローマン体が1470年頃に使われはじめた。ジェンソンの用いたローマン体はのちに分類上で「ヴェネチアン・ローマン」や「ヒューマニスト」と呼ばれている。

fig21[図21]ルシュのローマン体活字

fig22[図22]スピラのローマン体活字

fig23[図23]ジェンソンのローマン体活字書体の特徴:①大文字の字幅が広い ②大文字はアセンダーと同じ高さ ③小文字のeのバーが右上がり ④ピリオドや1のドットが菱形 ⑤ベースライン・セリフが強固

ニコラ・ジェンソンのブラックレター

15世紀後半にフランスからマインツへ、そしてヴェネチアに移住した印刷者ニコラ・ジェンソンは、完成させたローマン体活字を使用して印刷者としての地位を確立したとされる。
そのジェンソンには注目すべきことが見られる。マーティン・ローリー著『ニコラ・ジェンソンとルネサンス期におけるヴェニスの出版の勃興(Nicholas Jenson and the Rise of Venetian Publishing in Renaissance Europe※18』によれば、興味深い事実が見て取れる。それは、分類上で「ヴェネチアン・ローマン」または「ヒューマニスト」として知られる代表的なそして最初の完成されたローマン体をジェンソンは1フォントしか使っていなかったことだ。

ジェンソン使用のローマン体活字は誰が設計したのかは不明ではある。だが商売上のつながりのあったヨハンとウェンデリンのスピラ兄弟が関わったこともあるかもしれない。この活字は書誌学上では115Rとされる書体で、その呼び名はサイズを表す。

活字のサイズが各国で統一されていないことと、行間のインテルが使用されていないという条件の下で設定された「20行法」という活字サイズの計測による便宜的な方法で、115Rとは20行で115ミリの長さに相当するということになる。

そして興味深い事実は、先にも述べた通り、その有名な1470年頃に使われはじめたローマン体は1種類しかなかったということである。ローリーの資料をまとめると、さらにその他の書籍はブラックレターの使用で組版されていたという事実がある。

ブラックレターの使用は49%の45点であり、法学と神学というジャンルに限定的に選ばれていた。ちなみにローマン体はジェンソンの92点の全出版物のうち51%にあたる47点である。ローマン体は古典、礼拝、政治、人文主義関連などに使用されていた。

ジェンソンが使用したブラックレターを整理してみる。彼が使用した本文用では93G、106G、104G、83G、84Gの全てロトゥンダ系の5種類だった。このうち30点の書籍に93Gが使われている(このGとはゴシック体つまりブラックレターである)。この5種類のブラックレターだけで、市民法には15、教会法には15、神学には8、典礼には3、聖句には2、ドイツ法には1、広告には1という点数の書籍を印刷発行していた。

この事実はすでにブラックレターの使用について、ジェンソンには一定の基準があったということを示すだろう。あるいはまた習慣上ふさわしいと思われたのだろう。つまりブラックレターは法律と宗教に関係する内容に集中して使われた、とまとめられる。これは興味深い事実である。

そしてこの事実は当時の北イタリアの流行についてのひとつの事実を投げかけている。つまり、ローマン体は哲学や文学など人文主義者の好むジャンルであり、ブラックレターは人の行動を規定する規範的な内容、あるいは一種の権威的な言葉で人の行動を律する、いわば託宣的な内容に絞られていた傾向が濃厚である、という興味ある現象である。

fig24[図24]ジェンソンのブラックレター活字 (1481)

ローリーの記述からうかがえることは、ジェンソンの特異性だ。ジェンソンは自己の地位を有利に導くために自らを由緒ある人物として自分の過去を粉飾するなど手練手管の戦略を労し、また支配層の情報獲得のため、そして自己の仕事を書籍市場で優位に保つために積極的に動いた。例えば「ジェンソンの成功は、教会や宮廷や大学など特典ばかりが幅を利かす社会に、新しい商業の力による勝利の役割としてみられる」という説明もあるくらいだ。ジェンソンは人文主義者ではなく純粋な商売人であり、時流に乗ることで印刷物を供給して大金を手に入れた。彼の遺言に記された身内以外への金額と寄付先のリストから、交流の特徴がわかる。

ジェンソンの活字使用状況からは、特徴ある別の動きが見られる。1470年から1473年までは、ローマン体のみで32点の書籍を出版し、ブラック・レターは未使用である。だが1474年からブラック・レターの使用が始まり、彼が死去する1480年までは、45点の書籍(この間、ローマン体では15点)を出版し、印刷の危機を乗り越えた。この危機の要因はいくつか挙げられるが、ローマン体使用になる書籍出版が飽和状態になったことが挙げられる。そのほかは当時のヴェネチアをめぐる経済と政治、それに彼の広い交流などの様々な事情が絡んでいた。

要するにジェンソンは活字書体を巧みに使い分けることで10年間の出版活動で財をなしたと言える。彼が使用した活字類の父型を彫った人物の名が不明状態であることで、ジェンソンの名前だけが後世にそのローマン体とともに高い評価が残された。

およそ500年以上を経て、ジェンソンのローマン体は例えば20世紀の高名な書体設計家のアドリアン・フルティガーの字間の設定などの基本に決定的な影響を与えた。これはフルティガー氏の口から直接聞いた事実でもある。

とはいえ、モリスンの厳しい指摘もある(’Towards an Ideal Type’)。それは、ジェンソンのローマン体の大文字の高さはアセンダーと同じであり、現在の読者の目から見れば際立っており、そのためにそのプロポーションは小文字に対してバランスを欠いているという。

ブラックレターへの打撃

イタリアではローマン体活字は、ブラックレターを次第に駆逐していく。ジェンソンが使ったローマン体は、歴史的視点ではその確立を示しており、その後のアルダスのローマン体は別の分類つまり「オールド・ローマン」の始まりと位置付けられている。そして、アルダスとグリフォの共同で設計されたローマン体はそれで本文が組まれた書籍と共にヨーロッパに広まり、パリのクロード・ギャラモンらに影響を与えた。

ギャラモンはアルダスとグリフォのローマン体を調べて参考にしたことが、ギャラモンが残したラテン語の文章によって分かっている。そのギャラモンのローマン体こそ、その後のヨーロッパの印刷人によって模倣され、およそ200年にわたり影響を与え、さらに多くの人に模倣された。それは同時に、ブラックレターに終止符を打ったことに等しいと言える。アップダイクはその著(Printing Types: their history, forms, and use※19)において次のように書いている。

ギャラモンのローマン体とイタリック体はゴシック体の文字に致命傷を与えました。それは供給されたフォントと母型が売られ、あるいは模倣されても、イタリアとイングランドとオランダで多く使われたのです。
Daniel Berkeley Updike, Printing Types: their history, forms, and use

ギャラモンはギリシャ語の活字の設計と鋳造で名を成したが、彼のローマン体活字の方が一層の影響を誇った。ギャラモンはジョフロア・トリーの下で働いた時期がある。ルネサンスの思想がやや遅れてジョフロア・トリーらによりイタリアから伝えられたのち、ギリシャ語の出版物用にトリーがギャラモンにギリシャ語活字の設計と父型彫刻を依頼した。そして「王のギリシャ語」活字が生まれた。ギャラモンのローマン体を評価して積極的に書籍印刷で使った人物は、プロテスタントだったロベール・エティエンヌだった。それによりギャラモンの名声が一気に広まった。エティエンヌはカトリックからの攻撃から逃れるために、ジュネーヴに逃亡した。

ギャラモンの死後その活字類(つまり主に父型または母型)はヨーロッパの三つの地域に分散したが、最も影響を与えた先は、アントワープにあった当時のヨーロッパ最大の規模を誇ったプランタン印刷・出版所である。ただし、彼のイタリック体の評価はやや遅れて登場しリヨンから仕事を拡大したロベール・グランジョンのイタリック体には及ばない。

グランジョンはローマン体(アップライトのローマン体)よりもイタリック体の方を多く設計したほど、アルダスのイタリック体を一層洗練し、完成した職人と言える。そのことは、20世紀になってギャラモンの活字が復刻された際に、ギャラモン書体のローマン体に付随するイタリック体の多くがグランジョン作をモデルとしたことでも知られよう。

ついでながら、グランジョンのイタリック体への取り組み方の進展は、『フランスのルネサンス期の古いタイポグラフィ(The Palaeotypography of the French Renaissance: Selected Papers on Sixteenth-Century Typefaces※20』によれば、4期に分かれるそうだ。第1期は1543年以降の数年で、実験期とされ、大文字の傾斜の問題を解決し、アルダス様式を学び終えた頃。第2期は1551年以降に品格が増した頃で、趣ある書体を多く製造し、イタリック体がローマン体に付随することを決定づけた。第3期は1565年以降で圧縮期とされ、傾斜が少なくなり、同時に圧縮型(コンデンスト)が主流となる。第4期は1571年以降の大胆化された頃で、バロック式で自由快活になり、オランダ風の力強さが現れた頃である(ちなみにグランジョンは、確認されているだけでその生涯に83フォントを設計し、そのうちイタリック体は28(33.7%)、ローマン体は21(25.3%)のフォント数となる)。

ここまででブラックレターが生まれた経過をたどってきた。その基は、大文字ではラスティックにあり、小文字ではカロリング小文字にあった。圧縮気味のカロリングの大文字とともに使用する機会を得て、その特徴に沿うような小文字が書かれはじめて、書法が統一されてきたことが見て取れた。その後いくつかの地域とそこで生じた特有な形状が見られ、多様なスタイルへと発展した。やがてそれらは活字化されて印刷物に現れた。

また、同じカロリング小文字からはやがて今日ローマン体として知られている活字書体も生まれた。その際の大文字は、ローマの碑文に刻まれた大文字が採用された。大文字と調和するように小文字にはセリフが施され、その特徴を決定的にした。

以下では、これまで見てきた様々なブラックレターを分類することによって特徴を整理してみる。ここでもまた何を基準にするかという基本点の違いによって、分類方法も異なる。タイポグラフィの専門家の分類を中心に、その特徴を概略する。

3. 分類:歴史と特徴

分類概観

活字書体に関する古典的な著作のひとつに、アップダイク著『印刷用活字(Printing Types: their history, forms, and use, a study in survival※21』がある。それによれば、印刷術が発明された頃のくだりで、フストとシェッファーが印刷した書籍では「大きいサイズの活字は、印刷コストを節約するために(父型が)彫られた。それは免罪符のように派手に見せる必要がある行を2色刷りで印刷する代わりだった」との解説がある。色刷りは1色増えるごとに印刷費が高くなるからだ。

最初の活字書体であるブラックレターでも、人の目を引くために大きいサイズが製造されたことがわかる。現代でいうディスプレイ用活字である。

またアップダイクはブラックレターの起源的な特徴を次のように簡潔にまとめている。ブラックレターは「カロリング朝小文字の後を継いで崩れた書法に基づいていた」と、次にローマン体は「カロリング朝小文字のかなり忠実な回帰」という基本を示している。それぞれの起源がカロリング朝に考案された小文字にあることを指摘している。

活字のブラックレターはそもそも写本に書かれた手書きの文字のスタイルを忠実に再現した。グーテンベルクの活字も、印刷術が秘密にされていた時期には、「我が聖書は手書きであるが早く制作できる」という触れ込みで注文の予約を取り付けた、という話が伝わっている。

以上のことを鑑みれば、まずは書字の時代のブラックレター(ゴシック体)を眺めることは必要であろう。以下では、基本としていくつかを探してみる。ただし、ブラックレターという語は、イギリス由来の名称である。元々はゴシック体と呼ばれていた。そのイギリスでは当初は「オールド・イングリッシュ(Old English)」という名称を与えられてもいた。ただし、この「オールド・イングリッシュ」は英語の歴史を語る際の「古英語」という分類用語でもあることから、混乱は避け難くなる。

書体名の表記について

なお、今後に現れるブラックレターの種類の名称について、ここに統一しておく。アレギザンダー・ロースンは『活字書体というものの構造(Anatomy of a Typeface)』中の「ガウディーとブラックレター活字(‘Goudy and The Black-Letter Types’)」の章で、英語でも呼称について不統一のままであることを、次のように指摘している。

古文書学者や書誌学者でさえもこの件では反目し合っているために、ブラック・レターの命名に関しては現代の一般の印刷者には、その種の活字をめったに目にできない場合もあって、満足のゆく結論にたどり着くとは思えません。文字造形に与えられる無数の呼称について同意がないために、ゴシック、テクスト・レター、テクストゥア、テクストゥーラ、イングリッシュ、オールド・イングリッシュと呼ばれてきています。
Alexander Lawson, Anatomy of a Typeface

これらはどの言語をもとに表記しているかによって異なる。カタカナの名称についても、それにほぼ従いつつ複数見られる。例えばテクスチューラ/テクストゥーラ/テクストゥラ、バタルダ/バスタルダ/バタルドゥ/バスタルド、ルダンダ/ロトンダ/ロトゥンダ/ロウタンダ、シュヴァーバッハー/シュヴァバッハー/シュヴァバハー、フラクチュア/フラクチャー、フラクトゥーア/フラクトゥールなど、多彩かつ微妙である。

ここではとりあえず、主観的だがより多く目にする表記を選んで、テクストゥーラ、バタルダ、ロトゥンダ、シュヴァバッハー、フラクトゥールに統一して、以後この表記で綴ることにする。以下では各国語が混じるようであるが、ご了承願いたい。

カリグラフィから見る分類(手書き時代の種類)

そのブラックレターは専門家の間ではどのような姿で捉えられているのだろうか。その種類を分類した説を調べてみるが、ここでは写字生つまりスクライブたちの手書き文字の流れを理解することが基礎となる。ブラックレター体の種類としては、次のような用途と地域を基に区分けされた名称が一般的な把握であろう。

  • レットレ・フォルムまたはレットレ・ミサ
    これは公式用として書かれたことが始まりで、12世紀初頭には見られた祈祷書や典礼書のための書体。
  • テクストゥーラ
    レットレ・フォルムのアセンダーの先端がカギ型に変化して洗練を遂げた書体。これも公式用書体。
  • レットレ・スンマ
    礼拝用として教会で使われ、折衷円形書体とも呼ばれ、丸みを帯びた書体。
  • ロトゥンダ
    レットレ・スンマから発展した、イタリア生まれの折衷円形書体。
  • バタルダ
    フランス生まれの雑種体で、法令用として主に使われた書体。

知人からの紹介 1

カリグラフィの分野でのブラックレターの分類を覗いてみる。この分類の紹介は大学でカリフラフィを教えておられブラックレターを実際に書く方にかつて尋ねた際に、「細かくは分かれておらず」との断りがあるが、大まかな案として次の分類を紹介いただいていたので、参考までに記してみる。

  • 初期ゴシック(Early Gothic、Protogothic)
  • クァドラータ(Gothic Textura Quadrata、Gothic Textura or Gothic Quadrata)
  • テクストゥーラ・プレスキッスス(Gothic Textura Prescissus)
  • バスタルダ(Gothic Bastarda)
  • ロトゥンダ(Rotonda)
  • キャピタルズ(Gothic Capitals)
  • シュヴァバッハー(Schwabacher)
  • フラクトゥール(フラクトゥーラ、Fractur)

断りがあるように、確かに系統立っているとは言えない分類である。だが、主だった重要な種類が選ばれており、書法や種類分けの意味合いが濃いと言えるだろう。

知人からの紹介 2

カリグラファの三戸美奈子氏への質問で得られた基本分類を、許可を得てここに記す。実践教室で教える場合の受講生への注意事項も親切に注記されている(なおカタカナ表記は英語読みのようであり、三戸氏の綴りのままで記す)。

  • Textura(テクストゥーラ)
    文字が織物の目の様で縦線が強調されていて可読性は低い。セリフがダイヤモンド型のものは縦線と爪が目立つ。模様のように縦線のスペースを揃えて書くことが大事。
  • Quadrata(クァドラータ)
    アーチやセリフにカーブがあり、texturaより柔らかな印象。セリフとアーチの形、ペンの出る方向を揃えてテクスチャを作る。
  • Prescissus(プレスキッスス)
    texturaに比べると文字幅が少し広く、全体的に丸みがあり、ステムの下の部分が真っ直ぐになっている(はさみで切ったような形のためこの名前)。平らにするためにペンを回転させるので、ゆっくり書く。
  • Batarde(バタルダ)
    ゴシック体の筆記体(cursive)という位置づけ。文字同士がつながっていて、他のゴシック体よりも速く書ける。筆記体なのでリズムを大事に。
  • Rotunda(ロトゥンダ)
    丸みがあって文字自体のスペースが広く大きく書かれていた。小さなサイズのペンで書くことはあまりない。文字の形や傾斜が揃わないと目立つので注意。
  • Fractur(フラクチャー)
    近代に書かれていた書体。本や新聞のテキストの印刷の文字としても使われていた。オルタナティブの形を使って生き生きとしたテクスチャになるように書く。

また、三戸氏からは次のようなブラックレターの変遷のメモも追加していただいた。そこには「実際の歴史ではCarolingianから移行していきましたが、わかりやすくするために、Edward JohnstonがEnglish Carolingianを元に作ったFoundational Handを使います」と親切な注意書きが見られる。ちなみにエドワード・ジョンストンとは、その主著『書字法、装飾法、文字造形 (Writing & Illuminating & Lettering)』で有名なカリグラファである。この本はカリグラフィと現在総称される分野の先駆的な解説書であり、とくに20世紀前半の活字設計者たちにも影響を与えたとも言われ、バイブル的な位置付けがなされている。

Foundational
基本のOの形は正円、nのアーチはOのカーブ。

Narrow Foundational
文字幅が段々狭くなって基本のOの形は楕円。nのアーチは楕円のOのカーブ。

Tramsitional Gothic(Proto Gothic)
Oは上下のアーチのみカーブ、左右のラインは直線(陸上のトラックのような形)に変化。nのアーチはカーブだが、ステムに入る部分の丸みが徐々になくなって角が出来てくる。

Gothic
アーチにカーブがなくなり、すべて直線で構成されたOになる。nのアーチも直線で構成される。

三戸氏個人のメモも貴重なため、ここに略しつつまとめる。

  • 形を使って生き生きとしたテクスチャになるように書く。ゴシック体(ブラックレター)は真っ直ぐな線で成り立っているので、揃えて書くのは難しい。
  • 形に特徴がありすぎるので、それにふさわしい文章や表現を選ぶ必要がある。
  • ある意味隠れた人気がある。最近では、ストリート系のグラフィティに使われることが多く、そういう意味では新しく感じるようで若い男子に人気がある。学問的な位置づけとはかなり異なる。

使用にあたっては、語意・文意を選ぶということが指摘されている。また「学問的な位置づけとは異なる」は、歴史的経緯などが考慮されていない使われ方がされているという意味だろう。

ユニヴァーサル・ペンマンより

スクリプトの紹介とカリグラフィに関して図版と解説がある『ユニヴァーサル・ペンマン(The Universal Penman)』を参考にする。ここにはカロリング朝以降ルネサンスまでの間の時代に書かれていたブラックレターの種類が24の図版例と簡単な解説文によって紹介されている。それによれば、この時代のスクリプトは以下の7種類にまとめられる。簡単なメモをそこに付す。

  1. ベネヴェントン(Beneventon)
    11世紀頃に北イタリアの書字。判別性に難がある。
  2. ロマネスク・ブックハンド(Romanesque book hand)
    12世紀頃にネーデルラントの南部の書字。語間が明瞭。
  3. ゴシック・ミナスキュルズ(Gothic minuscules)
    13〜14世紀の書字法。垂直性に特徴あり。字間が明瞭。
  4. テクストゥーラ(Textura)
    14〜16世紀にかけての書字。横からの圧縮が強く、字間が詰まり気味で判別性に難がある。
  5. ロトゥンダ(Rotunda)
    13〜16世紀に多く見られる北イタリア発祥のセミフォーマル書体。
  6. バスタルダ(Bastarda)
    15〜16世紀に見られるカーシヴへの傾向が強いセミフォーマル書体。傾きがある。
  7. ゴシック(Gothic)
    15世紀の先端が尖っている書体。

これらはほぼ時代順であることが特徴であろう。最後の7の「ゴシック」とは、一般的にはフラクトゥールのことであろう。

活字としての分類概観

ここでは基本分類を示し、各分類内の歴史と特徴を紹介する。先にも述べたように、この分類はA・F・ジョンスンが提案し、S・モリスンも同意した以下の4分類である。

なお、ここに紹介する分類では、ブラックレターではなく「ゴシック」の方をふさわしいとして採用している。ブラックレターは主にイギリスでの呼び方として定着しており、他のヨーロッパ諸国では一般的ではなかったからだろう。現在ではブラックレターが通俗的で一般化されていることと、ゴシックを選べば日本ではサンセリフ体と混同されかねないことから、ここではブラックレターの方を選ぶ。以下の4分類を基にまとめてみる。

  1. テクストゥーラ
    グーテンベルクが使用した書体であり、典型的でフォーマルな造形。手書きの「レットレ・フォルム」という典礼用や祈祷用の書物で使用された書法の活字化された書体。
  2. フェレ・ヒューマニスティカ
    人文主義者が書いていたローマン体へ至る過渡期的書体を基に活字化された書体で、「近似(凖)人文主義書体」と和訳できる。
  3. ロトゥンダ(またはラウンド・テキスト)
    「円形書体(Round Texts)」とも訳されるイタリア様式で、丸みを帯びた書体。手書きの礼拝用や公式文書用の「レットレ・スンマ(Lettre Sunma)」つまり「折衷円形書体」の活字化された書体。
  4. バスタルダ
    元来はフランスの法令文書用の非公式書体として使用された草書体。「雑種体」とも訳される。非公式で地域的・土着的に発展し、活字化された。以下の2種類に下位分類できる。

    1. シュヴァバッハー
      「アッパーライン文字(Upper Rhine)」と呼ばれて、ライン川上流地域のドイツ北西部やオランダで生まれた地域特有の書体。その後、流行は南下した。
    2. フラクトゥール
      「ヴィッテンベルク文字(Wittenberg Letter)」とも呼ばれて、ドイツ北東部で発生した書体。20世紀に入りドイツで盛んに製造された代表的な近代ドイツのブラックレター。

なお、以下の歴史に関する記述は、主にハリー・カーターの解説(The Establishing of Common Idioms)を主に引用している。

1–1 テクストゥーラ:歴史

手書きの「レットレ・フォルム」は典型的なフォーマルな造形である。典礼用や祈祷用の書物で書字されたが、そのスクリプトが活字化された書体で、「ドイツ型、フランス型、オランダ型がある」とはいえ、その識別には相当の経験が必要となるだろうから困難である。

初期ドイツの造形は、フランスでは生き延びなかったが、一般の「ブラックレター」として手動印刷機でイギリスの印刷者たちによって使われた。このテクストゥーラからブラックレターという名称が生まれた。

ジョンスンは絵画的な文字だと捉えている。いわく、「全く曲線のない特徴を持つ、垂直で角張った文字である。書かれたというよりは、描(えが)かれたと言ってもよい」と。確かに起筆や終筆および止めの部分に特異な形状が追加される工夫が際立つ。

1490年頃ドイツ人はドイツ語に際立った活字を用いた。ドイツのテクストゥーラの大文字は「オランダあるいはフランスの似た書体よりも重苦しいし、無様な文字さえある」とする見解もある。ドイツ人がアルファベットを日常用にもっと親しみあるものにする必要を感じていたらしく、1520年代まで見出し用に古いテクストゥーラ活字を使っていた。その後に新しい様式に変えた。

ウォルフガング・フッゲルは1553年に書法の手引きに関する著作の中で、テクストゥーラを「美しく、しかも威厳があり、努めて念入りに書けば、絵画的である」と述べているそうだ。

カーターによれば北方のテクストゥーラは「信仰から発する賛美で心の高ぶりを表現している」ことが特徴であるとしている。そして、ラスキンの言葉として「厳格さと過剰さ」を紹介している。また「北方の自意識」とも称して、ドイツやオランダのテクストゥーラを南ヨーロッパのブラックレターと区別している。この「過剰さ」という捉え方は、テクストゥーラの特徴だけでなく、広く種々のブラックレターの印象と共通しているだろう。

ドイツ人のゴシック好きは、「部分的には美的な要素への傾斜だと考えられるが、それは書法の美しさへの強い忠誠心のせいである」とはカーターの感想だ。彼らの「美への忠誠心」の現れとして受け止められたということであり、文字の造形にまである種の感性が強く働くという意味で、これは貴重な指摘だ。

fig25[図25]グーテンベルク印刷の『四十二行聖書』

1–2 テクストゥーラ:特徴

  1. 曲線をもっとも少なくして書かれた公式の書籍用書法から生まれた。
  2. 文字の特徴
    1. 垂直で幅狭く、角張っている。
    2. 屈曲した(カギ型の)脚で立つ。
    3. アセンダーはふつう髭状のものかツノ状のもので飾られている。
    4. fや∫(ロングs)はベースラインより下に下がっていないのがふつう。
  3. フランス、イギリス、オランダの3つの伝統形があった。
    1. ドイツの初期造形。15世紀以前。(15世紀以降には見られない)
    2. 15世紀後半のフランスの造形。フランスでは生き延びられなかった。イギリスの印刷者たちにより使われた。
    3. 15世紀後期のオランダの造形。低地帯地域で生き延びた。

2–1 フェレ・ヒューマニスティカ:歴史

これは「近似人文主義書体」あるいは「準人文主義書体」とも訳せる一時期の書体を指す。A・F・ジョンスンは「ゴティコ・アンティカ(Gotico Antiqua)」とも呼んでいる。ここでいうアンティカとは、ドイツ人が呼ぶ場合と同じように今日のローマン体(セリフ体)を指し、その呼称は「ローマン体化したゴシック」という意味になる。

この過渡期的書体の持つ意味は大きいだろう。それは現在我々が目にするローマン体の初期の形状を示しはじめて、最初期のローマン体であるヴェネチアン・ローマンへとつながる決定的なある工夫が試みられたことが見えてくるからだ。ここではあくまでもブラックレターの分類であることから、ブラックレターがローマン体化する以前の過渡期に現れた比較的に「明るいテクスチャと明快な造形」と変化している様子を示す意味で重要だ、という理由から分類に加えられたのだろうと推測する。

正確に言えばブラックレターとローマン体による混種であった。この混種はドイツで生まれ、ローマン体活字が南ドイツで知られるようになった1472年から1500年の間(つまりインキュナブラ後期)に見られる。それが開放的なラテン語が使われていた地域で受け入れられた。ブラックレターの小文字をほぼローマン体の大文字と調和させたり、時としてその逆の現象も起こったりした。フランス、イタリア、ネザーランド(ネーデルラント)の例はその典型だという。

ほぼ同じ時期にイタリアの人文主義者がヨーロッパ北部の活字に与えた影響が見えはじめる。それはアウグスブルクのギュンター・ツァイナーが修道院でローマン体を使って印刷をはじめた頃だとされる。アウグスブルクはイタリアと最も結びつきのあったドイツの都市であり、ドイツの女子修道院は「イタリアの思想を北方へ伝える廊下」のようなものだった。南からの知的な流れは、必ずしも人間に関する学問とは限らなかったようだ。つまり、ローマの本山と教会との関わり、男子修道院が属するベネディクト派の体制との関わりが見られた。

さらに市民法に加えて聖職者の多くが習得しなければならない教会法典は、アルペン・ルートの北側にいた僧侶たちにとって、ボローニャやパドヴァやローマで書かれた文書や書物をより身近なものにした。イタリア北部の書籍用スクリプトは、ヨーロッパの多くの地域に知れ渡っていた。

このフェレ・ヒューマニスティカは過渡期の混種書体として、ローマン体活字の特徴と完成度を一層際立たせる。そしてカロリング朝の文字が活字化される直前の数年間に現れた、貴重な存在である。例えば1464年頃からスヴァインハイムとパナルツ、ウェンデリンとヨハンのスピラ兄弟、アドルフ・ルシュなどがジェンソンが活躍する直前また同時期にローマン体の完成を試みていた。

また、追随者も当然ながらいた。ケルンのウルリヒ・ツェル、シュトラスブルクのヨハン・メンテリン、パリに移住したウルリヒ・ゲアリングらだ。だが彼らの活字はまだブラックレターの書風からは完全に脱していない書体であった。その元はロトゥンダ系のブラックレターの名残と言える。この書体が使われた時期はわずか10年ほどであり、その年代は日本の歴史では、京都市の中心が争いで荒れ果てた応仁の乱の時期と重なる。

ハリー・カーターもこの時期の活字を当然ながらローマン体とは呼んでいない。その大きな理由は、カーター独自のローマン体の定義に反するからである。

その定義とは「古典的な碑文のモデルを再生した大文字と、その大文字の様式または構造を借りて、その大文字と合うように作られた小文字である」こと、さらに「ベースライン・セリフが意識的な筆さばきであること」というくくりがある。

そして明快であることも重要な特質だとして追加されている。例えばペンで文字を書くとすれば、縦画(ステム)は下のベースラインで一度止められ、セリフを書くためにペンは紙から一度離れ、次に左へ動き、そこから紙に接して右へとペンが引かれることでベースライン・セリフが描かれる。カーターはそのペンが一度離れることを重要視している。つまりそれは意識的な動きであり、ベースライン・セリフを生じさせる意図があるからだという。そのように見ると、完成したローマン体と比べると、確かにフェレ・ヒューマニスティカのベースライン・セリフはペンを止めてはいるが、まだ曖昧である。

fig26[図26]スヴァンハイムとパナルツの「スビアコ文字」

fig27[図27]メンテリンの活字

fig28[図28]フェレ・ヒューマニスティカの活字

fig29[図29]フライブルガー、クランツ、ゲアリングの活字 (1470)

fig30[図30]ゲアリングの活字 (1478)

2–2 フェレ・ヒューマニスティカ:特徴

ローマン体活字の誕生期に現れたヒューマニストに分類される特徴を含む。

  1. 15世紀後半に北イタリアで書かれた文字が基になっている。
  2. 大文字はローマの碑文文字を基本とする。
  3. 大文字のアクシス(軸)は傾いて、円形の内側部分であるカウンターを囲む曲線の最も太い部分(ストレス)は左下と右上にあり、曲線の太さの変化(シェイディング)は緩やか。
  4. 小文字にはローマの大文字にあるセリフを施してあるが、明快さに欠ける。
  5. ベースライン・セリフ(フット・セリフ)は曖昧。

3–1 ロトゥンダ:歴史

「円形書体(Round Texts)」とも訳されるイタリア様式であるロトゥンダについて、カーターは「勤勉さを欠いた」としている。その丸みのあるカウンターなど、全体としておっとりした印象を受けることから、北ヨーロッパのテクストゥーラの放つ緊張感と行儀の良さとの差異が際立つことで、いわれなき「勤勉さを欠く」という評価となっている。以下もハリー・カーター説の紹介となる。

ロトゥンダは手書きの礼拝用や公式文書用であった。フランス語の「レットレ・スンマ(Lettre Sunma)」つまり「折衷円形書体」の活字化された書体である。テクストゥーラよりも圧縮が少ないロトゥンダは、その名が示す通りc, d, eなどの曲線部に膨らみがある文字で際立っている。この書体の重要性は、ここから人文主義者たちが洗練して、やがて彼らのうちの印刷業に乗り出した者が活字体として積極的に使用した、いわゆるローマン体活字の基になったスクリプトだという点である。

fig31[図31]ロトゥンダ(スンマの活字版)

fig32[図32]レットレ・スンマ(折衷円形書体)

ジョンスンによれば、ロトゥンダという名称はドイツ人のアルフレッド・ヘッセルという博士が最初に用いた語であるという。この書法ではアセンダーもディセンダーも短く、窮屈で読みにくい文字とされている。これは、本稿の歴史1「書体の歴史と種類」で触れた「テキストゥス・プレスキッスス(Textus Precsissus)と呼ばれるスクリプトのファミリーである。

縦画の終筆部がベースライン上でセリフがなく、余分な労力を加えてカットされた独特の書法であり、「切り落とされた」という意味の「プレスキッスス(prescissus)」と呼ばれている。基本的には書籍用書体として使われた。

また、それほど当時の印刷者のゴシック体活字はロトゥンダを中心として活字を揃えたと言える。パレオグラファ(古書体学者)は、ボローニャ大学の法科で使われていた丸い文字を「ボローニャ文字」と呼んでいた、とジョンスンは教えてくれる。

フランス人はこのファミリーを「レットレ・デ・スンマ(lettre de summe)」と呼び、テクストゥーラに次ぐ公式の順位に位置づけた。フランスのリヨンでは、1482年にロトゥンダ活字の使用が見られるという。リヨンは印刷人が誇りを持って働いていた都市で、その労働者としての自覚はかなり高かったと言われ、一種の知的労働者だという自覚を持っていたようだ。印刷が新しいメディアとして捉えられていたという息吹を示すだろう。

レットレ・デ・スンマは、中世にはめずらしく15世紀までには形がすでに固定していた。大文字でも北方のゴシック体よりは変化が少ない。その特徴は印刷者に愛されていた。つまり、印刷に理想的なほどに向いていた、とされる。

人文主義者の小文字はロトゥンダから発展した。ロトゥンダはロマンス語(ラテン語からの派生のインド・ヨーロッパ語族で、イタリア語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語など)圏諸国で好まれたゴシック体活字の変種であり、他方でマジャスキュールはローマの大文字の末裔であった。活字としてはアウグスブルクの印刷者ラッドルトが1486年に祈祷書の印刷で使って以来、テクストゥーラを凌駕したと言われている。1470年に生まれたジェンソンが使用したローマン体活字は、イタリアの書籍印刷でロトゥンダと共に現れた。

イタリア以外でのロトゥンダ活字の最初の使用は、1472年のドイツのケルンであった。簡単なドイツ式ロトゥンダあるいはイタリア様式の書体は、携帯用の聖務日課、祈祷や学生向けの教科書にふさわしいとされた。中部および北部のヨーロッパでイタリアのロトゥンダが受け入れられたのは、その地方で生じていたイタリアへの賛美の感情にあると言える。「それは人文主義とは限らない」との指摘があるが、おそらくイタリアのおおらかさが好まれたのだろうか。文字の形状がそれを見る者の浅い意識下に、ある感覚を起こさせるようだ。

新しい学問が広がるにつれて、ロトゥンダ活字は学問を伝えるために共通して使われた。自由で洗練されていたとみなせるだろうし、それと結びついたスクリプトは人間的で暖かいと思われたのだろうか、カーターは「おそらくボローニャから広まった市民法が、フランク王国やゲルマン民族の慣習法と比べて暖かい」と述べるが、それがスクリプトと関連があるのだろう、と思わせる。

北方の学者たちはギリシャ語とヘブライ語を学んでいたそうで、同時にイタリアのゴシック体活字を好んでいた。ベルギーのルーヴァンやアウグスブルクの有名な印刷者エアハルト・ラッドルトは完成度が高いロトゥンダを使い「洗練されていて最高の文字だ」との称賛があったと伝えられている。

ロトゥンダはローマン体で組まれた本文に対する見出し語に使われた。古典的な趣の装飾でロトゥンダのまわりを囲うような試みも、調和を乱すとは思われなかったという。やがてラテン語で組まれるものは何でもロトゥンダが受け入れられ、典礼書にもロトゥンダが使われた。

だが、北部ヨーロッパの言語の印刷にはロトゥンダはめったに使われなかった。ロトゥンダはラテン語にはふさわしくなかったと捉えたのだろう。北部ヨーロッパの人々の間で、ラテン語と土着語との溝は、我々が想像するよりは当時では広くまた深かったようだ。要するにロトゥンダ体は、日常生活の言葉にはふさわしくなかった。ヴァチカンの尚書院(外交も含めた各種の文書類を扱う部門で、保管、清書などの業務も含めた)で公式書体としてロトゥンダが書かれたことは、やはり地域の慣習が大きく関係していると思える。

ロトゥンダはロマンス語諸国と北欧諸国で別々の発展の道を辿ってきた。14世紀の初頭にロトゥンダはイタリアで地盤を得て、ローマン体とともに丸型ゴシック体としてかなり長い年代にわたって共存し、先述した通り、ロトゥンダは過渡期を経て現在のローマン体へと展開した。また、スペインで20世紀になっても生き残った。

3–2 ロトゥンダ:特徴

丸みを帯びた書体。「円形体(Round Texts)」とも訳されるイタリア様式。
テクストゥーラよりも圧縮が少ないロトゥンダは、その名が示す通り曲線のある文字で際立っている。公式性をゆるめたロトゥンダ活字はマインツのペーター・シェッファーが1459年に使った。

  1. テクストゥーラよりも圧縮が少ない。
  2. 15世紀のもっとも公式の本文(ヴァチカンの教皇庁尚書館)以外でも広く使われた。
  3. 16世紀の間に流行が廃れ、とりわけスペインで長く生き残った。
  4. 文字の特徴
    1. c, d, eなどの曲線のある文字で際立っている。
    2. ストロークの太さの差が大きいことで、これらは真のブラック・レターである。
    3. セリフには太さがまったくない。
    4. fや∫(ロングs)にはディセンダーがない。
    5. 小さめで公式性変種(とりわけ「準人文主義性」)は、太めのローマン体と似ている。もっともこの太めのローマン体の造形は、ゴシック体の大文字と一緒に使われた。

fig33[図33]ロトゥンダ活字

fig34[図34]ロトゥンダ活字

4–1 バスタルダ(バスターダ、バタード、Bastardas, Batard):歴史

素早く書かれた連綿体の草書体的で「雑種体」とも訳される、手書きスクリプトとしてはトリアわけ各土地に固有の物語・詩歌などの文学で使用される書体であった。つまり元来は流行書体として使われて、非公式で地域的・土着的に発展したとされている。元はフランスの法令文書用の非公式書体として使用された。

バスタルダは、これまでの分類とは異なる例外的存在という意味合いを帯びている。活字として最も古いバスタルダは、1454年と1455年にマインツでの免罪符の印刷で使用された。続いてアウグスブルクで1458年にシェンスベルガーが、翌1483年にはニュルンベルクのコーベルガーが、それぞれ使ったことが記録されている。

バスタルダは下位分類として、シュヴァバッハーとフラクトゥールの2種類に分けられる。シュヴァバッハーはヨーロッパのライン川上流、特にオランダ北西部に、フラクトゥールはドイツ北東部ヴィッテンベルクで、それぞれ発生した。その後の使用状況も、アルプス山脈の北の国々に限られていた。

バスタルダ関連の歴史については、総括的なまとめとして、ウィルバーグの「フラクトゥールと国家主義(’Fractur and Nationalism’)」が参考になる。それによれば、次のようになる。

テクストゥーラとロトゥンダは、カロリング・ヨーロッパの活字であり、それは特定の国家ではなく、ラテン語聖書と同一ですが、バスタルダというタイポグラフィの変種であるシュヴァバッハーは、1522年発行のルター翻訳のドイツ語訳聖書とつながっています。このドイツ語訳聖書はプロテスタントをローマから、そして結果的にはテクストゥーラとロトゥンダから、共に分離させました。さらにルターが1525年にエラスムスと袂を分けた時、それはヒューマニズムとそのローマン体活字からの分離を意味しました。ルターのドイツ語訳聖書はまた、ドイツ語圏の小さな州の緩やかな合併の始まりでした(ヴィッテンブルクやバヴィアのドイツ国家への合併など。1513年の皇帝マクシミリアン1世が指導した活字設計であるフラクトゥールの起源は、純粋にドイツです)。
‘Fractur and Nationalism’

ルターがエラスムスとの仲を離れたことは、活字書体にも反映しているという興味深い事実である。ルターの翻訳版聖書がブラックレターで印刷された事実と、人文主義者のエラスムスがローマン体をブラックレターよりも優れているとして選んだ行動が、そのままこの二人の基本的な思想の違いあるいは時代への態度を映している。この2名については、本稿2部でも触れる。

4–2 シュヴァバッハー(Schwabacher)(アッパー・ライン)

この書体は、アウグスブルクでの1472年とニュルンベルクでの1493年の間に際立つようになった。頑丈なストロークがあり、そのために木版印刷に理想的だった。ローマン体活字が似合わないとした人々の間に数世紀後まで、そしてヨーロッパの他の国々でも人気を得た。

ジョンスンの『活字設計(Type Designs: Their History and Development)』中の「ゴシック活字(Gothic Types)」によれば、シュヴァバッハーという語は1485年に生まれたという。ニュルンベルクのフリードリヒ・クルースナーという印刷者がバスタルダ書体を称したが、「その土地での最も人気の高いドイツ語活字」となり、「シュヴァバッハー」と名付けられたそうだ。

シュヴァバッハーとフラクトゥールは、ルターの時代からドイツ国家の自己確認を視覚的に具現化したものである。「このことからビスマルクがラテン語つまりローマン体活字で組まれた書物を決して読まなかったことが容易に理解できる」というポール・ショーとピーター・ベインの指摘(’Blackletters vs. Roman: Type as Ideological Surrogate’)がある。

fig35[図35]シュヴァバッハー

fig36[図36]バスタルダ (1485)

fig37[図37]シュヴァバッハー活字(アッパーライン)(1485)

フランスではバスタルダが国家書体とされていた。1476年頃にブルージュのコラード・マンションが数点で使用し、15世紀後半から16世紀前半にかけて数人の印刷者が使っていた。また、フランス語を話すジェノバやアントワープなどでも使われた。さらに一部のドイツでも使われた痕跡があるという。だが、パリと並んで印刷の盛んだったリヨンでは、ジャンヌ・トルヌらはローマン体を使用した。いかにも進取で意識の高い職人がいた印刷産業の都市である。

イギリスでは、1476年という早い時期に印刷術を初めて持ち込んだとされているキャクストンがいた。外交官(英国商人)、資産家、翻訳家という肩書きの彼は、現在のドイツのケルンで印刷術を習得し、ベルギーのブルージュ(ブルッへ)で印刷所を開設して出版業をはじめ、その後ウェストミンスター寺院内に印刷機を持ち込んだ印刷者でもあった。『トロイ戦史』の翻訳でも有名だ。

ブルージュはドイツのライン川上流と緯度が同程度とあるため、「アッパーライン」の影響下にあったのだろう。その証拠に、キャクストンがその死の年の1491年までに使った活字書体は8種類のブラックレターだったが、そのうちの4つはバスタルダであり、判別性の低い未熟なシュヴァバッハーだった。

もっともキャクストンには当時の英語の表記や綴りを統一させようという意図があった。その実現に印刷を利用したと言われており、根っからの印刷者ではなく、その技術を別途に活用する方に意を用いた。

ちなみに、キャクストンの助手で後継者となったウィンキン・デ・ウォルデもキャクストンから引き継いだシュヴァバッハー書体などを使い、イングランドでイタリック体を初めて使用したことで知られている。時に書籍の一部分でローマン体も使ったが、本格的にローマン体を使用した印刷者はリチャード・ピンスンだった。その当初のローマン体は、おそらくスイスのフローベンから入手したのだろうと言われている。

4–3 フラクトゥール(ウィッテンベルク文字)

フラクトゥールは20世紀前半にドイツで盛んに製造された代表的な近代ドイツのブラックレターである。その草書的な起源と矛盾する計画的な公式性を狙って彫られたが、すべてのゴシック体のうちでもっとも成功を得て、20世紀中頃までドイツで書籍用書体として生き残った。活字書体は1514年に神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世が祈祷書の制作を依頼したことにより生まれた。

fig38[図38]フラトゥール活字

fig39[図39]フラクトゥール活字、ニュルンベルク (1528)

ここでジョンスンの「ゴシック・タイプ※22」の中のフラクトゥールに関する記述で、これまで理由が不明だったことがひとつ明らかになった。それがオランダのローマン体活字の黒味の強さと強めのセリフの理由である。

フラクトゥールにおけるジョンスンの解説には「抑制の欠如」という言葉がある。彼は「小文字の圧縮化と大型化の実験対象となった」「それと全く同じ流行は、ローマン体でオランダ人によって取り入れられた」と書いている。

日本の九州程度の広さを有するオランダの国土の4分の3は、埋め立てられた国土であった。その土木工事を得意とするオランダ人は、数学的に高い才能を持ち、その体格は頑丈そうであることから、私はそこにオランダ製ローマン体活字の特徴を漠然と重ねていた。だがそれ以上に明確に、フラクトゥール書体というブラックレターの影響が影を落としていたという見解に出会ったことになり、ローマン体の黒みと力強さに納得が得られた。

オランダのフラクトゥール書体の特徴は、その後イギリスにも大きく引き継がれた。イギリスの活字はキャズロンが現れるまでの250年間は、オランダ製活字の輸入または模倣によって特徴づけられていた。そのため、やや黒みの強いイギリス製のローマン体活字は、オランダ活字の形跡を忠実に残していた。キャズロンにしても、大きいサイズの活字では、例えばオランダのファン・ダイクの活字を彷彿とさせる特徴とテクスチャを生み出していた。

4–4 バタルダ(バスタルダ、バスターダ、バタード、Bastardas, Batard):特徴

バスタルダは、手早く書くが、書籍用の十分に草書的でない書法の変種に基づいている。公式性の程度がかなり異なっている。

  1. イングランドやフランスや低地帯地域の未熟なバスタルダの特徴
    1. 公式性が弱い。
    2. 一般的にエックスハイトが低く、丸みのある文字。
    3. 前のめりになる傾斜の傾向が多く、たとえば一層のa、飾りのついたアセンダーをもつd、開いた尾をもつg、全グループでもっとも特徴的な尖ったディセンダーをもつfや∫(ロングs)など、たくさんの草書的造形が散在している。
  2. ドイツのシュヴァバッハー
    1. ドイツのバスタルダのグループ(およそ1485–1540年)。
    2. ロトゥンダに近づく傾向にある。
  3. フラクトゥール(およそ1540年以降)
    1. テクストゥーラに近い気風(雰囲気)。
    2. その草書的な起源と矛盾する計画的な公式性を狙って彫られたが、すべてのゴシック体のうちでもっとも成功を得て、20世紀中頃までドイツで書籍用書体として生き残った。
  4. イギリスやフランスやオランダのバタルダ
    1. 16世紀中頃までに使われなくなった。
    2. シヴィリテ書体(16世紀のフランス人ロベール・グランジョン作)は非公式な書法に基づいており、イギリスの「セクレタリー書法」と強い関連がある。

次の第2部では「ローマン体との比較」と題して、ブラックレターとローマン体とのいくつかの視点からの比較を試みる。歴史的には、ブラックレターとローマン体のどちらを好み選択したかによって、人々の職種や階層が明快に分かれていたという現象が見られた。また、それぞれに使用される分野も異なる傾向が見られる。その両者の比較から、ブラックレターの特殊性が浮き彫りにされることで、我々はやがては3章(3部)の「近代国家におけるブラックレター」のとりわけフラクチュール書体の特異な使用への基礎的な理解を得られるだろう。

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若いアメリカの台頭 https://ekrits.jp/2023/04/7582/ Mon, 17 Apr 2023 07:25:51 +0000 https://ekrits.jp/?p=7582 この連載は、フィールドワークしながら書き進めるスタイルでやってきた。第1回目に書いたとおり資料だけで書き始めることができなかったのだ。しかし、COVID-19のパンデミックで日本から出ることが難しい日々が続いた。それでも前回はなんとかこれまでのフィールドワークを基に書くことができたが、とうとう集めた資料だけで書かなくてはならなくなった。

さて、どうしよう。ワクチンは打ったし、PCR検査も陰性だ。もうしばらく書くのを待って、なるべく早い時期にブラックマウンテンに行こうか。しかし、入国後、帰国後の隔離が行動を躊躇させる。アメリカ南部の状況も心配ではある。

2021年秋、感染が収まりかけたのをみて12月渡米の手続きをした。航空券も手配した。しかし、突然のオミクロン株の蔓延で渡航を断念せざるを得なくなった。ひと呼吸おいて、折に触れ書いていた書きかけの原稿に目を通した。状況を受け入れてこのまま書き進めてもいいのではないか、そう思えた。

今回の文章は、2020年春から2022年秋までのパンデミック下で書きためた原稿を整理したものだ。探せば資料はたくさん眠っていて、ちょうどいい時間だったのかも知れない。

フラーがつくった夏期講座

アルバースとドレイアーが去った1949年春学期の終わりは、ライスが見たBMCの夢の終わりでもあった。しかしその後もカレッジは続き、その年の夏期講座のディレクターには、かねてからのアルバースの指名でバックミンスター・フラーが就いた。彼が考えた講座のプランが残っており、それを見るとかなり力を入れていたようだ。

フラーがつくった教育プランは体系立った設計がなされている。あたりまえといえばそのとおりだが、これまでのBMCの夏期講座は教員なりというか、集まったメンバーでできることをやろうというプログラムだった。しかし、49年の夏はそうではなかった。誰もいなくなった夏にフラーがいたことは、満身創痍だったBMCにとってことのほか大きかった。

まず、このリスト(図1〜2)を見てほしい。メモ書きなのでフラーが書いたものかどうかわからない。しかし、そこにはサマースクールのプランが書かれている。

fig01[図1]書類を挟んであったらしい49年夏期講座のラベル。humanitiesは(theがついていないが)人文学のことだろう

fig02[図2]49年夏期講座のプラン。たぶんフラーが書いたものではないと思われる

授業内容の大項目があり、さらに小項目に分かれ、それぞれに候補の教員の名前があり、そしてその進捗を記す欄がある。教員名に空欄があるのは、授業内容が優先されていた証しだろう。

大項目には、音楽、美術のほかに科学、社会科学、言語学、英語、ダンス、工芸があり、これまでの音楽(music institute)、美術(art institute)といった芸術分野に特化した夏期講座ではなく、BMC本来の総合的なリベラルアーツのプログラムが組まれている。これがアルバースとドレイアーのアートスクールの企て※1に対する返答だとすると、フラーだけで考えたものではないのだろう。

音楽勢は相変わらずドイツ移民のクラシックメンバーが占めている。美術はアルバースの去ったあと、人選に苦労したようにみえる。ペインティングとドローイングは、フラーからの推薦でエマーソン・ウォルファー※2が担当している。49年秋からアルバースの後継としてペインティングの教員になるジョセフ・フィオーレ※3の名前はまだない。

彫刻にはレオ・アミノが入っている。アミノは1911年に台湾で生まれ、一度日本に戻ってから1929年(18歳のとき)にアメリカに移住している。いわゆる日系アメリカ人一世だ。第二次大戦中は米海軍で通訳を務め、終戦翌年、46年秋からBMCで教え始めた。これまでBMCに日本人はいなかったとされているが、ぼくはアミノがいたと思っている。

最後のPraticalと読めるところは小項目からPractical(実習)の間違いだと思われる。上から、織、陶、印刷、農、写真、製本、建造とあり、実用技芸(工芸)をひとつの分野として立てている。のちに陶芸の工房ができ、52年秋にバーナード・リーチとともに柳宗理と濱田庄司が訪れ、53年には陶芸の学生としてM. C. リチャーズがBMCに戻る、そういった一連の流れの水源をここにみることができる(このあたりの話しは次回に)。「農(farming)」は農場管理の実働、美術分野の「建築(architecture)」と別に立てられた「建造(Building)」は、まだまだキャンパス建設が続いていたことが伺える。

これがアルバースもケージもカニンガムもエレイン・デ・クーニングもいないフラー夏期講座の陣容だ。一見地味なようにみえるが、戦後アメリカが長いヨーロッパ支配から脱するひとつの転換事例としてみれば、堅実な地歩固めの時期とも思える。50年代になればラウシェンバーグやケージが戻り、ベン・シャーンらも講師陣に加わって、またにぎやかな夏が戻ってくるのだ。

何度も書くが、49年夏にフラーがブラックマウンテンにいたことは、BMCにとってもフラーにとっても、そしてその後に起きるさまざまな出来事にとっても、最良の選択だった。

ジオテックドームの完成とテンセグリティの発見

この49年の夏期講座は、フラーのジオテックドームが完成したことでも知られている。失敗した48年のベネチアンブラインド素材ではなく※4、細長いパイプに貼り付けられたポリエチレンフィルム製のドームは、荷重に対しても申し分ない仕上がりになっている。フラーは当時勤めていたシカゴデザイン研究所からたくさんの学生を連れてきており、彼らの手によってドームは完成をみた。その制作過程は、マサオ・ナカガワ※5によって撮影された多くの写真に残っている。

fig03

fig04

fig05

fig06[図3〜6]マサオ・ナガカワによるジオテックドーム建造の写真

fig07[図7]左がマサオ・ナカガワ(49年の夏期講座にて。写真:イヴリン・ブロック)

成功より失敗の方が皆の記憶に残っているらしく、成功したドームのことはあまり誰も語っていない※6。そのため、これらナカガワの写真は単なる記録に留まらず、貴重な成功の証にもなっている。このドームはコーネル大学のジオスコープに応用されたのち、1967年のモントリオール万博アメリカ館のドーム建築となり、ドームで覆われた都市構想にまで発展する。フラーの経済的成功とユートピアの夢を紡ぐ礎となるのである。

ドームの開発中に発見された原理がある。車輪のワイヤーホイールから導き出された「テンセグリティ」だ。テンセグリティ(tensegrity)は張力(tense)と統合(Integrity)を合わせたフラーによる造語である。しかし、この原理を発見したのはBMCの学生のケネス・スネルソン※7だった。

スネルソンは、GIビルを利用して入学した一人だ。アルバースから絵画を学ぶために48年夏期講座に参加した。彼はアルバースの色彩コース(基礎コース)を履修し、そこでアルバースからフラーのドームプロジェクトを手伝うよう頼まれる。48年のドーム建設は失敗に終わったが、49年に今度はフラーから声がかかって夏期講座に参加し、ドームプロジェクトに携わることになった。

スネルソンは張力だけによって構造体が成立することに気づき、48年からそれを応用した作品に取り組んでいた。しかし、そのアイデアをフラーが展開したことで、スネルソンは長く苦しむことになる。スネルソンのインタビュー※8が残っている。([ ]は筆者註。以下同様)

私はもう81歳ですが、バッキーがこのアイデアを自分のものだと主張することは、私の生涯を通じての悩みでした。それは決して消えることはないと思っています。……1949年12月23日、彼は私にこの手紙を書きました。きっとクリスマスを前に罪悪感にさいなまされていたのだろうと思います。そこには、もし当時の私[スネルソン]がこの作品を美術関係者に見せていたとしても、彼らは彼[フラー]のように理解することはできなかっただろう、とあります。きっと世界はケネス・スネルソンの名前をずっと覚えているだろうとも。彼はこの作品の深い意味を見抜いていた。だから、私はずっとこの手紙を持っています。この手紙は、唯一の、本当の証拠なので、宝物です。……バッキーは昔、若い頃に、何かに名前をつければ、奇妙な名前をつけてその名前が定着すれば、何度も話しているうちに、その名前がその物になり、その名前が自分になることを学びました。……つまり、これが最大の呪いなのです。人々は「ああ、テンセグリティだ」と言い、ウェブにはバッキー・フラーがテンセグリティを発明したと書かれています。しかし、彼が発明したのは「テンセグリティ」という名前なんです。
Kenneth Snelson Interview by Connie Bostic

BMC関係者でフラーを悪く言う人はいない。BMCを離れてからも、国家プロジェクトからカウンターカルチャーのバイブル『Whole Earth Catalog※9』まで、フラーは20世紀アメリカのオルタナティヴ・デザインを代表する人物だった。しかし、スネルソンにはフラーに対して納得いかない気持ちがあった。フラーは学生のアイデアであることを認めてはいたが、積極的に自分の発明だという誤解を解くこともなかった。現在、スネルソンのテンセグリティの作品は、アッシュビル美術館のロビーに飾られている。

fig08[図8]アッシュビル美術館のケネス・スネルソン作品。キャプションを撮影し忘れたため、タイトル・制作年未詳

1952年のハプニング

1949年の資料が豊富なのに対して、50年夏期講座のものはあまり残っていない。夏のみ、夏と秋学期などと記された教員引き継ぎのメモがあるので、50年はディレクターを立てられなかったのかもしれない。いや、中央集権的なシステムを嫌って意図的に立てなかったとも考えられる。

翌51年夏期講座(この年から名称がSummar InstituteからSummar Sessionに変わっている)のリストには、総務係(registrar)にアルバース時代からの学生だったヘイゼル・ラーセン※10、会計係(treasurer)にのちにオルソンを支えBMC運営を担うウェスリー・ハス※11、そして教員のチェアマンにM. C. リチャーズと、まさに過渡期を支えたメンバーが名を連ねている。このリストを見ると、たしかに誰がリーダーということでもなさそうだ。一方で、ベン・シャーンを講師に迎え、元学生のロバート・ラウシェンバーグやジョナサン・ウィリアムズ※12にも声をかけ、BMCの美術教育継続に力を尽くしていたことも読み取れる。チャールズ・オルソンがユカタン半島でのマヤ文字研究から戻ってきたのもこの夏だ。

そんな51年のトピックといえば、ダンサーで振付師のキャサリン・リッツ※13の代表作とも言える「グリフ(The Glyph)」の初演があったことだろう。「グリフ」はタイポグラフィ分野の「ひとつの文字や記号」を表す言葉として親しいが、一般には「古代の絵文字や象形文字」のことを意味する。ここではオルソンが研究していたマヤ文字のような絵文字のことと考えていいだろう。このダンス作品の「グリフ」は、オルソンとベン・シャーンの「グリフチェンジ※14」がきっかけとなって、リッツがダンスを振り付け、現代音楽家のルー・ハリソン※15がそれに曲を書いた、4人のコラボレーション作品ともいえるものだ。衣装をジョアンナ・ジャロウィッツ※16が手伝ったことも付記しておかねばならない。

fig09[図9]BMCでのキャサリン・リッツ

fig10[図10]キャサリン・リッツによる「グリフ」初演、1951年、BMC。Hattie McLean, “Glyphing” at Black Mountain College: New Artistic Languages in the work of Anni Albers, John Cage and Charles Olson, 2016より

fig11[図11]2022年7月の「グリフ」再演、BMCM+AC。ディレクター:リチャード・コルトン、ダンス:ポリー・モトレイ、ピアノ:ユキコ・タカギ。背景の絵は、グリフチェンジでベンシャーンが描いた「A glyph for Charles」(再制作だと思われる)。記録映像より

また、リッツはM. C. リチャーズとともに「光・音・動きのワークショップ(the Light-Sound-Movement Workshop)」を復活させている。「光・音・動きのワークショップ」は、学生だったダンサーのエリザベス・“ベティ”と彼女の夫でアーティストのウォーレン・“ピート”・ジェナーヤーンによってコーディネートされた学生主導のプロジェクトで、正式な授業ではなかったが、52年にジョン・ケージらが上演した「シアターピース No.1」の前触れとも考えられている。

さて、ここで「シアターピース No.1」について話そう。先に書いたとおり52年夏期講座においてジョン・ケージ主導で行なわれた、音楽、ダンス、詩の朗読、舞台美術によるパフォーミングアートだ。アラン・カプローやフルクサスなど、その後のアメリカ美術に興る「ハプニング」や「イベント」の先駆とされている。シアターピース(Theater piece)とは、舞台作品というような意味合いだろう。No.1と付くのは、ケージの最初のシアターピースとして後になって位置づけられたからだ。なので、当初は題名も何もなかった。記録も残っておらず、BMCにしては珍しく写真もない。のちに書いたM. C. リチャーズのスケッチとケージが記したステージ図があるだけだ。あとは、演者と目撃者の記憶だけなのだが、それがどういうものであったのかイメージできる程度には話されてきた。まずは当事者のひとり、マース・カニンガムの文章※17を引用しよう。

1952年、ケージは、ブラックマウンテン・サマースクールで新しいジャンルの演劇的な事件を組織した。デイヴィッド・テューダー※18がピアノを弾き、M. C. リチャーズとチャールズ・オルソンが詩を朗読し、ロバート・ラウシェンバーグの白い絵が天井に重ねられていた。レコードがかけられ、ケージが語り、私が踊った。舞台は45分ほどの長さで、もし私の記憶が正確ならば、その45分の間で、われわれ二人には自分がなさねばならぬことを成し遂げるための時間的なセグメントがあったと思う。聴衆は「舞台」中央と相対して座っていて、観客のだれも、そこで起こっていることの一部始終を直接には観察できなかった。私が踊っている間中、つきまとっていた犬がいた。事態はそうなるであろうように展開するだけであり、それ以外の何も予測されてはいなかった。つまり、そこに存在したのは観客の一人ひとりが自分の気に入ったように理解するに違いない一連のできごとにほかならなかったのである。
マース・カニンガム「音楽とダンスのコラボレーション過程」

設えられた「舞台」があり、そのなかでそれぞれが即興で演じ、音楽、ダンス、文学、絵画が入り交じって、偶然のできごとが表出する。この証言にM. C. リチャーズが書いた図を重ね合わせればおおよその様子はわかる。

fig12[図12]M. C. リチャーズによる「シアターピース No.1」の舞台スケッチ

しかし、どこか物足りない。ケージ本人の言葉はないかと探したら、あった。ケージの舞台作品についてなされた1965年のインタビューをMITプレスが公開していた※19。インタビュアーはニューヨーク大学で演劇の教鞭をとったミッシェル・カービーとリチャード・シェクナーである。該当部分をみてみよう。

ケージ:1952年のブラック・マウンテンでの座席配置は、四つの三角形からなる正方形で(図13)、それぞれの三角形の頂点は中心に向かっていて、ぶつかることなく合流します。中央は動きのための大きな空間であり、四つの三角形の間の通路も動きを受け入れます。円形劇場の特徴として、観客は自分自身[観客という総体]を見ることができます。また、四角の“外”でもより大きなアクションが繰り広げられました。各座席にはカップが置かれていて、そのカップをどう使うのかは観客には説明されていませんでしたが——灰皿にする人もいました——それぞれのカップに儀式のようにコーヒーを注ぐことでパフォーマンスは終了しました。

fig13[図13]ケージの書いたステージ図。M. C. リチャーズのスケッチとずいぶん違う

カービー:パフォーマンスの全体像を教えてください。

ケージ:長方形のホールの一端、長い方の端に動画像があり、もう一方の端にスライドがありました。私は脚立※20に上って沈黙を含む講義を行ない、もうひとつの脚立にはM. C. リチャーズとチャールズ・オルソンが別々のタイミングで上がりました[それぞれが詩を朗読したと思われる]。
私が「括られた時間※21——区画と言えばいいでしょうか——と呼んでいる時間、パフォーマーたちは制限された範囲内で自由に演じていました。その時間が始まるまで演じることはできませんが、いったん始まるとその区画のなかでは好きなように演じることができるのです。ロバート・ラウシェンバーグは、犬が耳を傾けているようなホルン型拡声器の古風な蓄音機をかけ、デイヴィッド・テューダーはピアノを弾き、マース・カニンガムをはじめとするダンサーたちは、客席のなかやまわりにまで出て踊っていました。そして、ラウシェンバーグの絵が観客の上に吊り下げられていて……

カービー:それは「ホワイトペインティング」ですか?

ケージ:そうです。彼は当時、黒い絵(painting black)も描いていましたが、私たちは「ホワイトペインティング」だけを使いました。観客の上にさまざまなアングルで吊り下げました。
儀式的なコーヒーカップのこと以外何も覚えていませんが、最初に来た女性が、以前音楽部の部長だった人の未亡人だったことは覚えています。彼女は一番いい席をとるために早くから来ており、一番いい席はどこかと私に尋ねたので、私はどの席も同じようにいい席ですと答えました。

シェクナー:彼女はあなたの言うことを信じた。

ケージ:そうですね、彼女は質問に答えがないことがわかったので、自分の好きなところに座りました。彼女にも私にも、どこが一番いい席なのかわからないのです。誰からも違うものが見えるのですから。

この対話は、プロセニアムステージ、つまり額縁のような正面性のある舞台への疑問から展開されている。もっと自由な舞台芸術の例として、ケージは52年のBMCでのシアターピースを挙げた。それほど印象深いできごとだったのだろう。何か突き抜けた感があったに違いない。それは、“以前音楽部の部長だった人の未亡人”のことを持ち出していることでも明らかだ。48年のサティ・フェスティバルのトラブルを思い出していただきたい※22。話はこう続く。

シェクナー:中心を排除したことによる結果のひとつに、通常のテキストをすべて排除してしまうことがあります。非常に古典的な劇、たとえば「オレスティア(Oresteia)※23」のようなものを考えてみましょう.多焦点ということは、もはや「オレスティア」を作ろうとはしない、つまり再構築しなければならないということなのでしょうか。

ケージ:アーティストとしての私たちの状況は、私たち以前につくられた作品のすべてが存在しているということです。私たちは今、作品をつくる機会を与えられているのです。私は過去のものには、ただそれらを提示するのではなく、これからやろうとしていることの材料としてアプローチするつもりです。……過去を美術館のように考えて、それに忠実であろうとする人は山ほどいますが、私の態度はそうではありません。……それは、私たちが理解しているようなアートとは結びつかないものである可能性があります。都市で起こる普通のできごと、田舎で起こる普通のできごと、あるいは技術的なできごと、つまり技術が変わったからこそ実用化されたもの。これらは、アートというものの本質を変えているのです。

インタビュアーのリチャード・シェクナーは「中心を排除する(eliminating central)」と表現したが、まさに中心を排除し「誰からも違うものが見える」行為を行なったのだ。いや、実際は結果としてそうなり、終わってから気づいたということだろう。経験(experience)とはそういうものだ。それは当時のBMCの状況とも重なっており、その後に展開されるアメリカ美術のみならず、60年代の野外演劇やテント芝居などの日本のアンダーグラウンド文化にも繋がっていくのだが、ここでは提示するに留めておこう。ともかくここから「何か」が始まったことは間違いない。

ロバート・ラウシェンバーグとスーザン・ヴェイユのこと

BMCのことを話す際にどうしても避けて通れない、ロバート・ラウシェンバーグ※24のことをこのタイミングで書いておきたい。「シアターピース No.1」では、古典的な蓄音機でレコードを演奏し、「ホワイトペインティング」を天井に吊した。白く塗られただけの絵画「ホワイトペインティング」はケージの無音の音楽「4分33秒」(1952年)を誘発したとされる。沈黙に関する考察はケージのなかで以前からなされていたが、沈黙を表現する確信を持った、“背中を押した”作品であることは間違いない。

ラウシェンバーグは、父方がドイツ系とネイティブアメリカン(チェロキー族)の血を引き、母方はオランダ系で、南部テキサス州ポートアーサーの出身である。テキサス大学オースティン校(薬理学専攻)を中退し、44年に徴兵。海軍に配属され、海軍病院で神経精神科の技術者となった。除隊後、GIビルを利用して46年からカンザスシティのアートスクール(現 The Kansas City Art Institute)で学び、パリのアカデミー・ジュリアン(The Académie Julian)のサマースクールを経て、48年秋にBMCに入学する。BMCへはアカデミー・ジュリアンで知り合ったスーザン・ヴェイユ※25を追って入った。ラウシェンバーグはアルバースの厳格な教育に惹かれたと言っているが、「アルバースクラスの劣等生ダントツ1位。何を言ってるのかもわからなかった」とも回想している※26。アルバースのドイツ的(バウハウス的)教育よりケージらとの協働の方が性に合ったのだろう、学生としては7ヶ月で退学している。その7ヶ月間のBMC生活はスーザン・ヴェイユのインタビューに詳しい。BMCでの生活が垣間見える数少ないインタビューだ。話はあちこちにとんでいるので、編集してお届けする。このインタビューは2014年にコロンビア大学のメアリー・マーシャル・クラーク※27によって行なわれた※28

ヴェイユは、NYに生まれ、裕福で進歩的な考えを持つ両親のもとで育つが、幼少のときに火事に遭い身体に障害を抱える。美術に親しんで育ちアーティストに憧れるが、進学校のドルトン・スクールに進み、そこで美術教員をしていたアーロン・カーゼン※29からBMCのことを知る。見学にも行ってとても気に入るのだが、大学進学を希望する父親の勧めでパリのアカデミー・ジュリアンに留学することになった。そこで、ラウシェンバーグと出会う。

高校卒業の1週間ほど前に、改造された軍艦に乗せられて、海を渡ってパリに行くことになったんです。私はとても怖かった。本当に怖かったんです。どうしたらいいんだろう?どうしたらいいの?それまで家族から離れたことはありませんでした。高校で2年間フランス語を勉強しましたが、フランスに行くというのは、とてもとても戸惑うことだったんです。
私はアカデミー・ジュリアンに入学して、絵画を勉強することになりました。そして、引っ越した先の下宿屋には、GIビルを利用して同じアカデミー・ジュリアンで美術を学んでいたボブ・ラウシェンバーグがいたんです。彼の大きな笑い声。それに気づかないわけがない。下宿のどこにいても聞こえるような、まるで楽器のような笑い声。本当にびっくりしました。結局、私たちは毎日いっしょに学校に行くようになったんです。

家を初めて出て一人外国で学ぶ18歳の少女が、同じ美術を志す青年に一目で恋をしてしまった、そんなようすが伝わってくる。

二人にはアカデミー・ジュリアンの授業は退屈だった。まず、フランス語の授業がわからなかったし、毎日同じモチーフを描く実習もつまらなかった。それでも美術への情熱は衰えず、モデルと話したり、屋外にイーゼルを立てて絵を描いたり、美術館に行ったり、二人で過ごした日々のことをとても楽しそうに話している。でも、恋は実らなかった。

その頃、わたしはボブの肖像画を描いていたんですよ、きっと。でも、消えてしまった。どこにいったのかわからないけど。より自由な手つきで、より鮮やかな色彩で、実物を描いていた。そんな感じでした。で、とにかく、ボブにはブラックマウンテンに行くことを伝えました。それで彼もBMCに行くことにしたんです。それは私が招いたと言わざるを得ません。

失恋の事情がパリを引き上げてBMCに行くことを早めたのかもしれない。インタビュアーはパリでのマッカーシズムの影響について質問をした。

おお、そうだ!そうですとも。マッカーシーには破壊的な要素があった。アメリカから来る人の多くは同性愛者でした。マッカーシーは同性愛者に対してとても手荒で、とても恐ろしかった。私たちはそれを強く意識していました。
リベラルな人、右翼でない人は誰でもマッカーシーとトラブルになったんです。私の父は作家で、父の知り合いの多くは仕事も何もかも失ってしまいました。本当に恐ろしい時代でした。

少女は青年が同性愛者(あるいは両性愛者)であることを知っていた。当時のボブとの関係についてこう答えてる。

私は彼にとても心を奪われていましたが、もちろん彼はそうではありませんでした。彼は私をとても大切な友人とみなしていました。私たちには芸術に対する熱意がありましたから。私たちはお互いに励まし合っていた、そんな感じでしたね。私がブラックマウンテンに行き、続いて彼が来たときも、私たちはとても良い友人であり続けました。アルバースは私たちを「ボブシー・ツインズ[the Bobbsey Twins=当時の子ども向けの双子のキャラクターで、いつも一緒に行動している似たもの同士の例えで使われる]」と呼んでいました。だから、いつもそんな感じだったんです。私たちは親友でした。

ここからBMCの話に移ろう。

まず第一に、この場所は、可能性に関するあらゆることを理解しようとする、目を見開いた人々※30でいっぱいでした。とても小さな学校で、学生とほぼ同数の教員がいました。わたしたちは授業だけでなく学校の世話もしなければならない、ワーカースタディのようなものでした。わたしはいつも、BMCで最も重要なのは授業ではなく、夜の食堂で詩人や科学者や音楽家と話をすることだと考えていました。そうすることで、私たち[BMC]の全体像がわかり、自分もそこに巻き込まれていることがわかる。私たちはクリエイティブな生活を幅広く体験することができたのです。

最初、ヴェイユにあてがわれたのは6〜7人の相部屋だったが、同室者とのトラブルから、アフリカ系アメリカ人のデロレス・フルマン※31に同室を申し出た。ノースキャロライナではまだ人種統合政策は採られておらず、人種隔離の背景もあってフルマンは個室を持っていたのだ。フルマンは最初渋ったようだが折れて、二人のルームシェアが始まった。二人はすぐに仲良くなった。

アッシュビルに行くととても居心地が悪かった。すべてが隔離されていたんです。デロレスと一緒に店に入ると、みんな私たちを分けようとする。映画にも行けないし、教会にも行けない。彼女は教会に行くのが好きだったんです。音楽を学ぶ学生で歌うのが好きだったから。
あるとき両親が遊びに来て、休暇中に私を旅行に連れて行きたいと言うんです。それで私は「なら、デロレスも一緒に行こう」と提案しました。でも母は「スーザン、それはいい考えじゃないわよ。デロレスはシカゴ出身だから、シカゴは人種隔離されていないの。けれども、もし私たちが旅行するなら一緒にレストランにも行けないし、ホテルにも泊まれない、何もできない、みんな悲惨なことになる」と言いました。
隔離された街でのひどい状況を経験しました。黒人のルームメイトを持ってとても多くのことを経験しました。

NY育ちでまだ19歳のヴェイユにとって、BMCはまさにユートピアだったに違いない。そこではゲイの恋人も、黒人の友人も、ドイツからの亡命者である師も、皆同じように生活していた。そして、外ではそのことによるトラブルが渦巻いていることも同時に知った。

そう、ソウルメイトです。芸術でお互いを励まし合いながら、思ったことがそのまま出てくるような関係でした。そして、アルバースが学校を去ったとき、私たちも学校を去りました。

fig14[図14]BMCでのスーザン・ヴェイユとロバート・ラウシェンバーグ(1949年)

ラウシェンバーグは、49年にヴェイユとともにニューヨークに移りアートスチューデンツ・リーグ(The Art Students League of New York)に入学、サイ・トゥオンブリー※32と出会う。トゥオンブリーはラウシェンバーグに勧められて51年と52年のBMC夏期講座に学生として参加している。このころのBMCのアートコミュニティには、いわゆるニューヨーク・スクールと称されるNY拠点のアーティストも多く、NYで活動し夏をブラックマウンテンで過ごすパターンができていたようだ。BMCからNYアートシーンへの参入もあり、2010年にはその関係を捉えたレイ・ジョンソン※33の展覧会「from BMC to NYC」(BMCM+AC)が開かれている。

ラウシェンバーグは、64年にアメリカ人アーティストとして初のヴェネツィア・ビエンナーレ国際絵画大賞(The International Grand Prize in Painting)を受賞。それは、戦後の美術界の中心がヨーロッパからアメリカに移る号砲となった。同年にカニンガムの舞台美術監督として世界ツアーを巡るが、途中トラブルがあり、以後しばらくケージ、カニンガムとの協働はない。日本でも草月会館で公開制作を行なったが、このときのできごとが日本で人気が出なかった原因となる。いずれにしてもいいことばかりではなかったようだ※35

1966年、ラウシェンバーグはアーティストとエンジニアのコラボレーションを促進するための非営利団体「E. A. T.(Experiments in Art and Technology=アートとテクノロジーの実験)」を立ち上げ、アートとテクノロジーの融合に先鞭をつけた。84年には国連で「ラウシェンバーグ海外文化交流」の開始を発表し、90年に「ロバート・ラウシェンバーグ財団」を設立。世界平和、環境、人道問題など、彼が関心を持っていた分野へのアプローチをはじめている。

くだらない話しで恐縮だが、ラウシェンバーグとぼくは同じ誕生日だ。中学生のとき、70年大阪万博で何度も繰り返し通り抜けた自動ドアのモンタージュ作品「支点」の作者としてラウシェンバーグを知ってから、自分にとって特別な作家となった。

fig15[図15]支点(国立国際美術館蔵)

さて、この章はラウシェンバーグをBMCに導いたパートナー、スーザン・ヴェイユの証言で締めくくろう。彼女も「シアターピース No.1」を目撃した一人だ。

そうですね、彼[ラウシェンバーグ]はその一員でした。そのハプニングについては、興味深いことがあります。誰もが異なる報告をしているのです。みんなが違うものを見て、違う表現をする、とても面白いことです。……ですから、何に注目するかは、見る人の視点次第でした。

まさに、ケージのいうとおり「誰からも違うもの」が見えたのだ。だからのちにそれを「ハプニング(happening=偶発的な事件、不思議なできごと)」と呼ぶようになったのだろう。

でも、私はハプニングのことはあまり知らないのよ。

ヴェイユは、そう付け加えるのを忘れなかった(たぶん、いたずらっぽい笑みと共に)。

アルバースが去ったBMCに、若いアメリカ美術の芽が育っていった。エマ・ハリスはアルバースが主導した48年の夏期講座について「カレッジにおけるヨーロッパの芸術家たちによる支配の終わりと、次の25年間においてアメリカ芸術の創造的リーダーとなる若いアメリカ人の台頭を示した※35」と述べた。戦いに疲弊した老練な欧州と、勝利に沸く若いアメリカ……。戦争の痛みを経て、ようやくアメリカはヨーロッパから離脱することができたのだ。そのドラマの典型をBMCにみることができる。

さて、2022年10月29日、長い自粛期間を経て、ようやくぼくはブラックマウンテンに発つことになった。ワクチン接種の証明書など煩雑な手続きはまだ残っていたが、入出国時の隔離はもうなくなっていた。次回は再びフィールドワークに戻ったところからお話ししたい。

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ベルクソンで考える動きのデザイン https://ekrits.jp/2023/03/7534/ Tue, 07 Mar 2023 08:32:31 +0000 https://ekrits.jp/?p=7534 運動共感の撓(たわ)み

三好:
ぼくはデザインにおける運動共感を研究してきたのですが、平井さんの『世界は時間でできている※1』のなかにも運動共感について書かれていると感じる部分がありました。実際にぼくが展開したような動きとデザインの話が、平井さんの理論の中でどういう位置づけになるのか、とても興味があります。またその話を踏まえて、自分のこれまでの研究が、デザイン哲学や方法論として、今後どのように展開し得るかというのは、楽しみなところです。

ぼくは最初、フランスの美学者であるフランク・ポッパーの『Origins and Development of Kinetic Art※2』を読んで、ベルクソンを知りました。これはぼくがキネティックアートを勉強した本で、文献の輪を広げるきっかけにもなったものです。たとえばこの本をハブにして辿り着いたポール・スリオは、おそらく動きの描写的な美学を探求した最初の人物なんですが、彼の『運動の美学※3』という本にも何度もベルクソンが登場します。

フランク・ポッパーは、1910年代あたりから始まったキネティックアートが当時重要な作品を多く残しているのは、同時期に時間哲学に関するテキストが生まれたこともきっかけとしてあるのだろうと書いています。その時間哲学のひとつとしてベルクソンが出てきます。1910年代というと、デュシャンの「自転車の車輪(Bicycle Wheel)」が出てきた時代です。ぼくが博士の学生として運動共感の研究をしていたときは、そこまでベルクソンの存在を意識できていなかったのですが、平井さんの本を読んで感銘を受けて振り返ったときに、自分自身の研究の原点にも関わるような実感がありました。

動きの芸術性について、ベルクソンはどのような言説や問題意識を持っていたのでしょうか。

平井:
芸術論としてまとまった形ではないのですが、芸術についての言及は、ベルクソンのほぼすべての著作に散りばめられています。テクストの分量が少ない代わりに、印象的なところで使っていると思います。その中でも動きに関わるもので思いつくのは四つぐらいあります。

ひとつは彼の処女作である『意識に直接与えられたものについての試論※4』の冒頭で美的感覚というものに触れているところです。芸術が運動共感による催眠を用いて印象づけを行うのだ、という話をしています。三好さんの著書『動きそのもののデザイン※5』で引かれているレイノルズとリーズンの著書※6にアメリア・ジョーンズが巻頭言を寄せていて、そこでもちょうどこの箇所が引用されていましたね。このくだりでベルクソンは、芸術は感情を“express(表現)”するのではなくて、“impress(印象付ける)”すると言っています。そこで運動共感を使うというんです。人はつい頭で見てしまうから、まずは頭を眠らせるために、身体的な共感を使って一種の昏睡状態に持っていくのだと。すると精神は一旦フラットになって敏感になるから、アイデアをくどくど表現せずとも、ほんのすこし示唆するだけで一気に感化されるというわけです。数行ぐらいですが、そんなテクニカルな話が書いてあります。

二つ目として、『試論』の中では「優美さ」についても話していました。これも実は運動と時間の中で美的なものを説明するという話になっています。例えばバレエダンサーの動きの優美さとは、運動によって未来を先取りすることでわれわれの身体が動かされるようになることだ、という具合に時間で捉えることができるんです。『試論』は1889年に刊行された彼の処女作ですが、こういった話を特段の説明なしに、息をするようにしているので、運動共感のアイデアは前提としてあったように思います。

三つ目に、別のところでダ・ヴィンチの絵画論※7を参照しながら、蛇のくねりみたいな動きがアートにとって大事なんだということも言っています。これはコレージュ・ド・フランス講義でも言っていました。

そしてもっとも重要な四つ目は「キネステジック(kinésthesique)/キネステティク(kinesthetic)」という言葉の使用ですね。この言葉の生みの親はチャールストン・バスティアンという人なんですが※8、そのバスティアンを引用して議論しているのが『精神のエネルギー※9』という1919年に出た論文集です。この本にある「知的努力」という論文の中で、たとえばワルツのような複雑な運動を習得するときに「キネステティク・イメージ」からつくっていくという話を、バスティアンに言及しながらしています。

ちょっとそれが出てくる文脈のお話をしておくと、“le schéma dynamique”という、ベルクソンの哲学全体にとっても枢要な概念があって、今だと「力動的図式」と訳されているのですが、ぼくはこのschémaは「構想」と訳した方が適切かなと考えています。なぜならこれはアクチュアライズされた運動ではなくて、「動き」をクリエーションするその背後にあって、それを参照しつつ、それによって突き動かされながらも、それ自体は背後に留まり続けているような、そういった潜在的な動きの「種」みたいなもの。それを“le schéma dynamique”と名づけて、論文を通じて概念を彫琢しています。

“le schéma dynamique”には、ギリシャ語の“dynamis”、「力」という意味の単語が入っています。だから単に「動的」だけではなく「潜勢的」という意味合いが含まれています。アリストテレスの言う潜勢態のような意味で、「潜勢的な力」です。だから現実化されている運動ではなく、背後にあって「動き」を「動き」たらしめる「動き」と考えています。こう聞くと形而上学的な概念に感じられるかもしれませんが、それを心理学的な文脈で議論していたというのが、今見ると逆に新鮮でおもしろい。

この論文は「知的努力」というタイトルの通り、われわれがなにか知的な発明をするときに、その現象の核になる概念を指すアイデアになります。知的努力における動的図式の概念をつくる前のひとつの参照項として、バスティアンのキネステティク・イメージという概念が出てくるのです。

この「キネステティク」というのは、大事な概念のひとつです。1960年ぐらいの哲学心理辞典に遡ると、バスティアンが語源という話は書かれているんですけど、同じ頃にウィリアム・ジェームズとかも出てきていて、彼は“kinesthetic sensation(運動感覚)”において “immediate”なものと“remote”なものを区別しています。immediateは自分の身体の自己受容感覚みたいなもののことで、もうひとつのremoteというのは、三好さんが問題にしているような、視覚や聴覚を経由して外にあるものから間接的・遠隔的に惹起される運動感覚のことです。そして、非常に重要なことに、そうした動きの感覚の「記憶」があるという議論をしているんですね。それのことをキネステティク・イメージ(kinesthetic image)というんです。運動記憶とその記憶が重要だということは、当時よく議論されていたけど、現代ではそこまで注目されていないかもしれないですね。

自分が何かをするとき、最初にしたい「動き」のイメージがあって、それが筋肉運動によって模倣されて実現するわけです。子供が発声を獲得する場合などが例に挙げられますが、そもそもどうやったら狙った声が出るのかという文脈で、キネステティク・イメージが導入されたみたいで、哲学的に豊穣なポテンシャルを持った概念だと思います。こんな感じで、ベルクソンのアートに関する言及には今も埋もれていて、あまり主題化されていない論点がまだまだありますね。

ついでに言ってしまうと、全部は調べきれていないんですが、もう少し掘っていくと“innervation”という単語も見つかります。“nerve”という単語が入っていて、中枢から運動系への、遠心的な方向の神経発火を伴うような感覚のことを指して用いられていました。これがキネステティクの系譜を遡ったところにあるようです。

三好:
ありがとうございます。つまり「感覚が芽生える可能性がある」みたいな状態ですかね。

平井:
そうですね。三好さんの話は、リモートな“kinesthetic sensation”にあたると思うんですけど、リモートに作用されるためには、こちら側にある種の雛形が必要になります。手持ちのカードがない見知らぬ動きには、どうやっても共感しようがないわけです。

ベルクソンは、キネステティク・イメージという要素について「撓(たわ)める」という言い方をしています。新しい動きを学ぶとき、相手の動きそのものは手持ちにはないけれど、既に持っている歩行やつま先立ちのキネステティク・イメージを素材として持ち込んで、それを撓めて、新しい形の方に沿わせていって動きを学ぶという話をしています。なので、“kinesthetic sensation”の前後には記憶があって、そこでつながってくるんだと思います。

三好:
たしかに、人が物の動きに共感するときは「撓みまくっている」と思います。他の人の動きを真似るときには、もちろん自分の運動感覚を撓めなければいけませんが、人間と同じ身体すら持たないものの感覚を想像するときには余計に撓ませる必要があるわけです。だけど、それをいとも簡単にやれてしまうときがあるのが運動共感の不思議なところだと思っています。

撓ませようと思って撓めるのではなく、勝手に撓んでいるんですよね。能動でも受動でもなく反射的にすることもあるわけです。さらに不思議なのが、意識的に運動共感をしてみようと思えば、想像力を駆使して能動的に自分をその対象物に入れ込むということもできるんですよ。一口に運動共感と言っても、色々なレベルのものがあると思っています。

平井:
運動共感が中動態的に発生するという点には、ぼくも関心があります。ぼくの今回の本の話で言うと、もう「水路づけ」ができあがっていて回路が流れるだけの「未完了相(〜しつつある)」の場合は、ゾンビ的というか反射的な反応になっていますよね。

時間アスペクトとしては「アオリスト相(点的・完結的に捉えられた動作)」のように閉じてしまう。これに対して撓める、つまり新しい組織化が必要なときには、リアルタイムで改変していかなければいけません。そうすると、この状態で生じる時間相は、前後がまだ決まっていない「未完了相」という特殊な時間相が開いて、そのときにキネステティクな感覚成分が、とくに意識として体験される側面が際立つんじゃないかと整理しています。「水路づけ」というベースラインと、それがどれぐらい未完了方向に撓むかによって、ベルクソン的な枠組みの中に運動共感の生じる様態みたいなものが、すこし整理できると思っています。

この辺りは三好さんがどう思われるのか気になるところで、せっかくなので引用してみます。訳の中で「図式」というのは「シェマ」、つまり「構想」のことです。

この図式が完成したと見なされて、その図式の中に模範が見いだされる運動を、体が連続的に生み出すようになったそのときに、私たちは踊りはじめることができる。言い換えればこの図式、すなわちおこなうべき運動をだんだん抽象的に示すようになるこの表象は、おこなわれる運動に対応するすべての運動感覚で満たされていなければならないということである。それができるのは、そうした運動感覚のイメージ、バスティアンの言葉を借りれば全体の運動を構成する部分的要素的な運動の「運動感覚的写像(キネステティク・イメージ)」を、つぎつぎに呼び起こすことによってだけだ。それら運動感覚の記憶は、呼び起こされるにつれて現実の運動感覚に、つまり実際の運動に変わっていく。
アンリ・ベルクソン『精神のエネルギー』

このあと具体的に、たとえばワルツを覚えるときには、そのまま既存の運動感覚を用いるわけにはいかないという話が続いていきます。

それらを多少なりとも変化させてワルツの一般的な運動の方向へ撓め、とりわけそれらを新しく組み合わせなければならない。すなわち、一方には新しい全体的な運動の図式的な表象があり、他方にはその全体的な運動を分析して得られる要素的な運動と同一な、または類似した古い運動のキネステティク・イメージがある。ワルツの習得とは、そうした古い諸々のキネステティク・イメージを図式の中へ一緒に入りこめるように新しく組織づけてやることである。
アンリ・ベルクソン『精神のエネルギー』

古い要素のキネステティク・イメージを新しい体制に入れると、そのままではいられないから、それぞれが撓んでお互い掣肘し合いつつ調整してすり合わせて、ひとつの全体的な新しい運動が獲得される。これが「未完了相」と記述できるわけです。

三好:
「未完了相」という概念を使っていたら、ぼくの博論ももうすこし簡単に書けていたかもしれませんね。ここで「未完了相」のことを「生まれつつある」状態とまでいってしまうと、多分もう既に「生まれてしまっている」んだと思いますが、どちらかといえば「生まれようとすればいつでも生まれそうだけどまだ待機している」という状態ですよね。この「待機中」というのは、未来にならないと存在しないわけではなくて、現にそれがその人の中にあるという状態じゃないか思います。人工物と空間と人の関係の中で、この状態をどう書き表せばいいのか難しくて悩んでいました。ぼくの研究の場合は、簡単にいえばまず対象の動きがあって、それに共感するということです。

マルチタイムスケールの中で起きていること

三好:
ところで、その動きを見ずとも共感が芽生えるみたいなことすらあるといったときに、これをどう解釈すればいいのでしょうか。

ぼくの本の後半で事例として、「カーリング・ベッドランプ」という作品を紹介しました。夜になるとランプシェードがねじれることで光を遮断して、だんだん暗くなるというものです。これを細かく時間を切って考えると、ランプシェードがまず動く、そしてその動きを見て運動共感を感じた結果、同じような身体感覚が芽生えたというような時系列のように思えます。だけど、何回か使っていくうちに、おそらくこのランプを見なくても、音を聞いただけでそういった感覚を得るでしょうし、そろそろこのランプが動くんじゃないかなという予測だけで運動共感が芽生えることもあるんだと思います。

このときに、抽象的な時間で区切れないような、何かが起こる可能性と、実際に起こったイベントがネバネバとひとまとめに存在していて、実際に起こった/起こらないといった前後関係すらも緩い状態があるように感じます。平井さんが本で触れられていたマルチタイムスケールの中にある遅延の概念が、事後的な方向だけでなく、同様に未来方向にも延びているのではないかというのが、研究の実践を通じて掴んだ感覚でした。

平井:
まさにマルチタイムスケールの話だと思います。ベルクソンは、可能性という概念すらも時間でつくっているんです。一般的に考えられている時間は現在−過去−未来があって、様相はそうしたタイムラインが何本もある、つまり次元数をひとつ上げるようなイメージだと思うんです。だから様相というのは時間超越的と考えられるんですよ。でもベルクソンはその様相概念も、ぼくが今回取り出した拡張記憶と運動記憶のかけ合わせの中でつくっていくと考えているんです。

たとえば、実際に生物が空間を運動記憶でなぞっていく中で、運動可能な水路ができていくと言っています。これはデイヴィッド・ルイスが言う可能世界のようにこの現実と別個に実在しているものでもなければ、単に観念的だったり抽象的なものでもない。この世界にグラウンディングしていて、どこに道があってどこに道がないかという具体的な感覚で、空間がデザインされているという話をしています。それは過去の反復によってそうなるわけなんです。こうして可能性というのも時間によって世界内に実装することができて、そうすると可能性の変化みたいなものが語れるようになるわけです。

先ほどのベッドランプが家に来るまでは、そんなエコロジーは自分の家にはなかったわけじゃないですか。だけど、それが導入されることによって、可能性空間が変わってくる。この可能性空間も理念的なものではなくて、実際に空間を行動することで身体の形が変わるということです。それを毎回の運動のスケールで見ると、ただカサカサと音を立てる動きだったりするけれど、それは運動記憶によって折り畳まれるし、拡張記憶によって凝縮されるし、そのダイナミクスの中で予感を感じながら接しているということが起こってくるわけです。

三好さんが紹介されている作品群はどれもおもしろくて、ベルクソンだったらどう考えるのか解きなさいと問いかけてくる例題集のように、想像を刺激されながら本を読んでいました。

三好:
運動記憶のところで、一見するとその遅延の中で過去に伸びるような水路づけがされるというのも、何か起こったあとでその人や動物の中でつくられるということですけど、それが同時にその未来方向への行動の可能性をつくっている。実は両方向に延びているということなんですね。

平井:
本では「システムの時間」というところで言いたかったことなんですけど、一定以上のスケールの生物であれば感覚運動入力には幅があるわけです。それがひとつの単位となって反復されて、つまり折り畳まれるので、そのひとつ分が空間になっていて、空間の中にある幅が埋め込まれています。これを時系列でプロットすると、未来という言い方になりますが、正確に言うと「もう感じ取っている」ので、未来ではなくて現在なんです。折り畳んで空間をつくって、その空間の中に先取りされた未来と言いたくなるものに撓みがあるからこそ、ぼくたちは豊かな感情を抱けると思うんです。

運動についての三好さんの考えと共鳴するなと思う点は、まさに運動に寄り添う形でオンタイムで生じるクオリア的なものへの眼差しがあるという点ですね。認知科学でも現象的な質や内的なものをすべて還元していくやり方があるわけなんですけど、一方で見落とされているものもあると思います。運動はすごく懐が深くて、繰り返しによって人間をゾンビ化するというか、パターン化すると思うんです。そういうタナトス的な側面を持つと同時に、その都度新しいくねりや撓みによって、ぼくたちを逆方向にも持っていってくれる。その動きの振れ幅がわれわれのクリエイティブな活動を支えているというのは、ベルクソンの思想の根幹に通底するテーマだと思います。

ベルクソンの記憶の逆円錐図はまさにそれを言っていて、上に行くだけだとただ夢を見ている人になってしまうし、下の先端に行くとただ反射している人になるから、その中間を動きながらしなやかな感受に開かれた知性をつくっていくという話なんです。

三好さんの本では、その態度がそこかしこで表明されている気がして、繊細に見てらっしゃる方という印象を持ちました。とくにおもしろかったのは、アレグサンダーの「名のないクオリティ(無名の質)」を挙げていたり、アフォーダンスだけじゃないみたいな話をされていたところで、改札機の痛みを感じるという話もありましたね。

三好:
ありがとうございます。デザインの中でアフォーダンスは市民権をやや得すぎているともいえて、それはいいことでもある反面、すこし過剰に感じるところもあります。アフォーダンスから見ると、簡単にいえば、自分の身体と改札機がどう接し得るか、そしてそのときどんな身体感覚が生じるかという側面しか記述できない。だけど、改札機の痛みを、共感的に自分の痛みとして知るというチャンネルもあるわけで、本ではアフォーダンスをオントゥ(onto)、運動共感をイントゥ(into)というように整理しました。

デザインのなかで身体性について初期に語られていたのは、おそらくエルゴノミクスの理論あたりですけど、たとえばパソコンの画面は顔のどの高さにあるといいとか、この身長の人にはこれくらいの椅子の高さがいいといったような、直接的かつ機能的な意味での身体性だったと思います。アフォーダンスも、「物を触る」とか「ボタンを押す」といった実用的なレベルでの身体の話になるじゃないですか。それに対して運動共感は、機能性や実用性というよりは、何をどう感じるか、という高い次元の話ができる議題だと考えています。

なので、リアルタイムに生まれつつある運動感覚の中にもチャンネルが違うものが複数混ざっていて、そこにはアフォーダンスだけでは読み解けないものもあるんだということを、今回の本では書く必要があると思っていました。

平井:
ベルクソンも進化論を踏まえて哲学をつくり、知覚論もつくった人です。われわれが文化的に活動できるのは、純粋に思弁的な認識で世界をコピーしているからではなくて、有用性による古いフィルタリングに余剰が入ってくるからです。反復によって機能的な知覚システムがつくられていくんですが、そうした自動運転だけでは意識にならない。われわれはそこに拡張をかましているから、余計なものをいろいろと感じてしまうんです。

そういった経験は役に立つから起きるわけではなくて、余剰なんです。そして自然はそうした余剰をまた刈り取っていくんだと思うんですよ。やがて有用性に回収される日が来て、回収されないものは単に回収されないわけなんですけど、その間、まだ役に立つか立たないかがわかっていない狭間に、われわれの意識というのはあるんじゃないかと考えています。

ぼくの本の第6章「創造する知性」では、意識が発生する部分だけではなくて、意識が終わっていないことも問題だと書いたんですね。有用性に収斂して、反復による運動がすべてを機能的に回収していくなら、理論的に考えて、われわれの意識はなくなっていくはずなんです。そうならないでいられるのは、改札機の痛みに共感してしまうような、現時点では進化的に何の有用性も持っていない、溢れかえった自然の豊穣さをわれわれがまだ抱えているからで、その限りにおいて意識が遅延し続けているという感覚があります。

広大な身体とその水路

三好:
なぜ運動共感するのかについては、ミラーニューロンに関する研究などを見ると、模倣学習や社会形成のために必要だったのではないかという話もあります。それだけだと、やや機能的なというか、機械的な説明にしかなっていませんが、おそらくそれとは異なる解釈や説明の仕方もあるだろうと思います。

運動の反復の中で、もう意識しなくてもいいものとして無意識下に捨てられそうだけど、まだずっと残っている感覚を持って人は生きているんだと思いますが、これは進化が追いついていないという感じなんでしょうか。

平井:
そうですね。「まだ遊んでていいよ」と言われているのかなと思います。その意味で、人ではないものへの運動共感というテーマ自体が、すごく大事だと思うんです。人に対する共感は当然必要にして有用だけど、実際は人に対しても必要以上のものがあるはずなんです。改札機の痛みのような有用性がないとされるものへの共感がが起こっていることにこそ意味があると思いますし、その理論を組み立てられていくことで、翻ってわれわれが人間に対する共感についても深く考えられるようになってくると思います。

三好:
平井さんの本の中では、ベルクソンが環境に拡がる知覚システムとして定義した「広大な身体」に触れていましたが、そこにもつながる話だと感じました。身体が広大になって知覚が空間全体に及ぶというのは、身体が空間と「同一化する」と捉えることもできるし、また「同一化」というよりはあくまで「同伴している」と捉えることもできるのではないかと思います。これは運動共感を考える際にもとても重要な視点です。この「広大な身体」を平井さんがどのように考えて書かれたのかをお聞きしてみたいです。

平井:
「広大な身体」のところは、身体を張り巡らせている知覚システムの話で、有用性に従って水路が掘られるというより、むしろできあがった水路が有用性を定義することになります。運動の繰り返しによって知覚空間を掘り進めて水路があるランドスケープを開く。それが生物の知覚になるという話だったんですけど、お話を聞きながら考え直してみて、やっぱりそこにもずれはあるわけですよね。

もし完全に盲目的に、つまり没入的に「広大な身体」を生きている生物だとすると、それは既にリモートとは言えないじゃないですか。だから、「距離はあるが分割されない」※10空間というのは、通常の意味での身体と「広大な身体」にギャップがあって、それがぼくたちの時間スケールのギャップに対応していて、この身体を使って運動階層もつくられている。進化レベルで繰り返されているものだけじゃなくて、その都度の撓みがあるということですよね。

ギターを何度も弾くという行為を例にすると、新しく聴いたことのないフレーズを生み出すには、手ぐせを土台としつつもそれを撓めることが必要なわけですよね。「広大な身体」は、これから広がる音空間に対するセンシングとして必要なので使われるけど、それをただ擦(なぞ)っているのではない。これまで培ってきた「広大な身体」があるからこそ、運動を新しい方向に水路づけていくことができる。そのギタープレイヤーは、初めて新しく挑戦するプレイに対して、「まだ踏んでないけど踏めばそこにある」という感覚を持っていると思います。進化は、基本的には数撃ちゃ当たる戦法でランダムにやっていって結果が絞ってくれるという話です。それに対してわれわれが限られた時間の中で、こんなにもクリエイティビティを発揮できるのは、方向づけの感触を持てるからではないかと思います。

第3章あたりに書いた、記憶の中の色合いやニュアンス、時間徴表などにも通じそうな話です。まだやっていないけどなんとなくこっちの方がいい気がするとか、まだ思い出していないけど記憶がこの辺にあるみたいなことが、「方向づけ」としてわかることがありますよね。記憶を思い出すときに、まだ思い出していないけどこっちの方にあった気がすると探っていく、オリエンテーションの感覚があるわけです。盲目的にやっているわけでもないし、神秘的に直観したわけでもない。ちゃんと根拠があって、さまざまな体験質のネットワークが持っている関係自体が質に織り込まれているから、それを頼りに探ることができる。その探索のヒントになるものがそこにあるから、われわれは無目的にランダムに無限回繰り返さなくても、学習しながら新しいことができてしまうんだと思います。

三好:
記憶の質を頼りに時間を見つけていくときのように、クリエイションにおいてもオリエンテーション感覚があって、構造としてほぼ同じようなことが起こっているわけですね。

平井:
ベルクソンは、冒頭で話した“le schéma dynamique”の発動ケースを三つ紹介していて、そのひとつ目が「想起」になります。そのときにオリエンテーションを使うわけです。そのあとに「解釈」とか、実際のアイデアを「発明」する例も出てきて、彼の中では地続きになっていると思います。

三好:
空間の中で運動共感の研究をしたとき、明らかな法則としてあったのが、自分の身体に近すぎるものに対しては、運動共感をする余裕が持てずに、アフォーダンス的なチャンネルになるということだったんです。たとえば、まさに今改札機を通ろうとする人にとっては、改札機自体の痛みよりも自分がそれに当たったときに感じるであろう痛みの方が当然重要なわけです。そこを左右するのは空間的な近接なんですね。逆に遠いと運動共感への余裕ができる。遠くを飛んでいる鷹を見て、「ああやって飛べたらこんな感じかな」と想像することはできますが、目の前に鷹がいるときには、その余裕はありません。

だから、われわれと対象物の距離によって、チャンネルが変わるんじゃないかと思います。アフォーダンス的な知覚と運動共感的な知覚で、記憶の方に行くか想像の方に行くかが違うというのは、先ほどの「広大な身体」のトピックにも通じそうです。

平井:
どうしてチャンネルが変わるんですかね。

三好:
自分の身体を守らなくてはいけないという、かなり基礎的な本能によるものだと思います。逆にそこが緩い人は、目の前を通り過ぎる鷹にも運動共感ができるのかもしれないですけど。ただおそらく、どちらかではなく両方があって、そのバランスなのかなとは思います。

平井:
おもしろいですね。ベルクソンは想起できるための条件として、「無用なものに価値を与えることができないといけない」と言っているんです。裏返すと、過去を現在に役立てることに想起は必要ないということなんですね。

たとえば、過去にある動物がこのルートを通ってヒヤリ体験をしたから、ここではなくてこっちを通りたいというときに、われわれは何らかの感情移入して、そいつが想起したからその判断をしたと思ってしまいますが、もっとインパルス的なものでもいいわけですよね。過去の体験自体をイメージとして想起するといった高度なことは必要なくて、とにかく結果だけわかればいいから、今何をすべきなのかというファンクショナル(機能的)な答えだけがあればいい。フェノメナル(現象的)な想起体験は、むしろ余剰なんですよね。有用性に切り詰められた生の状態では、どんどんフェノメナルなものは削られていって、ファンクショナルな答えを出せるものだけが残っていくんでしょうね。

三好:
運動共感について考える前は、どんなマテリアルを使ってどういったリズムにすれば美的な動きは可能なのだろうかと考えていました。つまり、どんな方程式があるんだろうと考えていたんですね。しかし、それでは解くことができず、問いそのものの破綻に直面してしまいました。そこで、ふと一段階ステップバックして、なぜ自分はこの動きの感覚を得ることができるんだろうと考えたときに、自分の運動感覚があるからだということに気づいたんです。

クオリアの材料を物理的に見つけようとしても見つからないけど、魔法のランプがあるわけでもなくて、そこで時間を見なかったからクオリアの現出を説明できなかったと平井さんが書かれていたところを読んだときに、その運動共感の研究をしていたときの自分と通じるものを感じました。クオリアに関する話は、ベルクソンの言説の中でどんな位置づけなのかについてお聞きしたいです。

平井:
ベルクソンが使う「凝縮」という用語があって、フランス語では“contraction”と言うんですが、これ自体が彼のクオリアを説明するときに道具立てとなる理解は、教科書的にシェアされています。問題は「凝縮」の中身なんですよ。彼が表面上で言っていることは読めばわかるんですが、これを理論的に解剖して実際に「それが何をやっているのか」という部分には、あまり理解が進んでいませんでした。

僕個人の「凝縮」の理解は、むしろ現代の科学における発見からヒントをもらいました。実際に脳内の時間がマルチスケールになっているとかですね。そうやって何本も凝縮を扱った論文を書いて少しずつブラッシュアップしてきたのですが、今回の本で決め手となった識別可能性空間の変形の話は、ぼくの貢献にあたるものです。もちろん多様体概念に基づいているので外から持ってきたわけではありません。それでも、凝縮においてなぜ量が質になるのかが一番のミッシングリンクで、ここをつなげられた人は今までいませんでした。

ハードプロブレムというのは解けない問題とされていますよね。そこをベルクソンが時間によって打開しようとした。でもそれは、哲学者による鍵括弧つきのメタフィジカルな「学説」ではないんですよ。むしろ解決に向けて検討可能な素案、構想を提示してくれていると思うので、それを今回の本ではできるだけフラットな表現で示そうと意識していました。こんなアイデアがあるんだと感じてもらえて、さらにそこからアイデアが派生したりバージョンアップできるきっかけになればいいと思います。

静止物の時間と動き

平井:
キネステティクな運動共感の話が、鑑賞者が対象に対して持っているものと考えられてしまうように、どうしても認識論として二元論的に乖離しがちですが、時間についても同じようなことが起こっていると思います。まず客観的な時間というのがあって、それを長く感じたり短く感じる経験が主観であるといったようなモデル化がされてきました。

三好さんの本でも、最初の方で二階のサイバネティクスの話をされてましたよね。感じているものも主体の一部で、それはインタラクションによって起きているわけだから、どう感じるかも含めて記述の中に入れてあげるべきなんです。そうすると作品のような対象とその鑑賞者自体を含めたインタラクション自体を同じゾーンで観測することができて、そのスケールで物事を語れるようになるんだと思います。ぼくの本ではこういった話を序論に書いてますけど、三好さんも同じように意識されている印象を受けました。

ある対象の使い勝手を感性工学的にデザインするだけではなくて、エージェントも含めたデザインを考えられるのは、理論に対するスタンスが違うからではないかと思います。主観やクオリアみたいなものを前提にするやり方では、それらを世界の外に特権化してしまうということになります。もちろんそういった記述によって得られるものはあります。でも逆に、すべてをグラウンディングするなら、身体だけではなく記憶もグラウンディングさせて、スケールが違うところまで視野に入れれば、すべて世界に与えられている道具立てでできます。

その意味で、世界は神秘的なものでもないし、理解できるはずだと考えられるようになります。だから、そこまで視野に入れて見せてあげる。それがぼくだとマルチスケールの組み立てだったわけで、三好さんの場合は運動共感によるデザインというアイデアになったのではないかと思いました。

三好:
そうですね。「私自身」という要素を含めてメタな系として捉えないと、そもそも運動共感の研究プロセスが説明できないと考えていました。感性工学では、正面から見た車をどう感じるかというのを、質的な評価だけじゃなくて、脳波などで量的なところも見ようとしていますよね。これから発展していくアプローチではあると思います。一方で、学生時代に聞いた感性工学の講義のなかで、車を見たときの人の脳波を分析すれば、みんながかっこいいと思う車がデザインできるようになるという話をしていたんですけど、脳がそう言っていても、本当にその人がかっこいいと思っているかというのは、かならずしもそうは言えないんじゃないか、と感じたのを覚えています。

平井:
それだと迎合的なデザインにしかならないし、新しい水路をつくっていく方がクリエイティブですよね。ただ他方で、量的な尺度が入ることも大事だと思うんですよね。ベルクソンの『試論』の段階では量を敵視している論調が見えます。でも『物質と記憶※11』ではそうした考えをアップデートして、量と質の間を真面目にブリッジさせようと考えた結果、記憶の議論になって、さらにマルチスケールの議論になったわけです。

ただ主観的な流れの時間があるというので終わりではない。その先があって、われわれが流れる時間を感じているのも身体の感覚運動が実際に持っている0.5秒から3秒というスケールの回路があるからで、これは実際に計測できるものです。ただしそこに計測できるところだけではなく、計測できない面もあるわけで、その間の相互作用を捉えてあげることが必要になります。なぜなら、ぼくらの識別可能性空間は、その両方がないと変形にならないので、その意味では質か量かの片方だと出てこない論点だと感じます。そう考えられれば、感性工学もベルクソン的におもしろい成熟の方向があるかもしれません。

三好:
運動共感もそのまま物体や空間のデザインに応用できるまでには至っていないと思います。動きの研究で言うと、最初にロバート・フィッシャーが運動共感の原石みたいなものを昔の哲学的なスタイルでつくって、それを受けてかはわからないですけど、ポール・スリオが動物の歩行をストロボ写真で撮ったりしながら、科学的な分析と合わさった美学というものをつくろうとしました。その頃からサイエンティフィックなアプローチとフィロソフィカルなアプローチが一体になった流れができてきたんだと思います。

ディー・レイノルズが運動共感を論じる頃には、ミラーニューロンの理論を参照しつつも、それに縛られない形で、アーティスティックなリサーチを独自に組み立てていきました。さらに昔の生態心理学でも、人間の知覚を物理学的に対応づけして、感覚的な部分と科学的な部分を結びづけようとしていたと思います。

本を読んで平井さんが大切にされていると感じたのも、そういった点でした。哲学書ではあるけども、スピリチュアルに展開されていくわけではなくて、最近の科学的な文献を参照したり、その一方で盲視の話が出てきたりするところが、読みやすいと同時に説得力がありました。

平井:
ありがとうございます。運動共感の話で、人だけではなく物も含めると言いましたけど、動かないものへの運動共感はかなり大事だと思っています。ぼくの本の4章で「運動図式」という概念を説明しているんですが、この運動図式は通常の意識的認知で用いられるものなので、対象が動いていなくてもその輪郭をたどり、動きとして捉えるんですね。静止物にも動きがあるというのは、ある人々にとってかなり自明なことです。だけど、説明してもなかなかピンと来てもらえないことも意外と多い。

ぼくは美大出身なんですが、最初デッサンを習っていたときに、ここの動きが描けていないというフィードバックをもらうことがよくありました。対象はずっと静止しているのに、その動きを捉えろと言われるんですね。自分の中ではそのときにアップデートされて自明なものになったのかもしれません。逆にそういう訓練を受けていない人にとっては、動きという言葉ではピンとこないのかもしれないですね。

三好:
デッサンの練習を繰り返す中で、静止物の中に動きが入っていないと思うことができない知覚になっているのかもしれませんね。

平井:
三好さんの本の中でも動きの“aesthetic”の部分が大事だと書かれていましたよね。実際に動いているかどうか、つまり計測量的に対象物が動いているかどうかではなくて、動いていなくても、動きの感じというのは起こりうる。これは僕の本の序章で述べた「静止にも時間がある」という論点につながります。対象世界からそれを観察している自分を外に出してしまえば、あたかも絶対静止みたいなことが言えそうになるんですが、実際には「さっきから止まっている」ことを経験しているので、止まっているという状態が成り立つためには時間が絶対必要になります。それはエージェントが対象と相互作用しているから可能になるので、それも埋め込まないとできません。むしろそれを埋め込み忘れると主体が虚焦点みたいになってしまうんです。

だからこれは根本的にベルクソン的なアイデアだと思うんですよね。世界が動いていると言っているのは、ヘラクレイトスのようにすべては流動であるみたいな意味ではないんです。時間はマルチスケールの中でその形をとるので、その時間のギャップを外に出して、同質的な時間だけで何かが運動しているという状態を生み出せると思ったら大間違いなんですよ。

三好:
ぼくが静止を動きのエレメントのひとつと捉えたのも同じで、静止を観測しているオブザーバーの存在を入れると、そこにも時間が流れているからでした。

平井さんの本では、何か決断するのに時間がかかるのではなくて、決断できる状態になるのに時間がかかることについて、「時間を稼ぐ」という言葉で説明していましたよね。あとは瞬間的に反応する物質のレベルじゃなくて、人間の中に入力があったときの反応にすこし遅れがあるのは、入力に対する反応や選択肢をつくるためのラグがあるからだという話もありました。

Research through Designという実践を通した研究でも、「時間稼ぎ」をしている部分が大いにあるんですよね。自分が作っているものがどういうものなのか、そのときには理解しきれなかったとしても、つくり出しながら研究を進めているときがあります。そうしていると、最初につくったものが、あとになって時間差で効いてくることがあったりします。

自分の本では、ラナルフ・グランヴィルという人を何度か引用したんですけど、彼が中心的な役割を果たしたデザイン・サイバネティクスの領域に“willfull unknowing”という言葉があります。「意図的に知らない」という意味なんですけど、先ほどの決断に時間がかかるのは決断できるようになるための時間を要しているからだという話に通じると思いました。個人的にも、静止に運動共感があるということはわかっていたけど、そこでわかったことにせず、ちゃんとわかるまで待つということをしていたんじゃないかと思います。

平井:
それは本当に大事ですね。ぼくも「答えで蓋をするな」という言い方をするんですが、情報が溢れていて答えがいくらでも手に入る世界だと、それを取り入れすぎてしまって、すべてが俯瞰的になって受動的になるんですよね。ぼくはそれを恐れているんです。問いのアンテナが立つのは、それがオープンな間、解けていない間だけじゃないですか。だから、遅延された問いが開いている状態こそ、われわれの感受性が一番敏感な状態じゃないかと思います。

「美大にいたのに今なぜ哲学をしているのか」とよく聞かれるんですけど、そこまで変わったことをしているつもりはないんです。でも基本的には何をしている人でも同じじゃないかと思います。自分が世界と出会う中でいろんな問いが起こる。デザイナーやアーティストも、それを形にする作業をしていて、哲学では論文や本のような道具で形にしている。だけど、それはいずれの活動においても、いつも暫定解なんですよ。

あえて妥協して答えにする必要はないし、むしろこれぞファイナルアンサーと思って出しても、結果として暫定解にならざるを得ないことばかりです。それは問いというものが、こちらが手を抜けるほど簡単なものではないということなんですよね。むしろ安心して全力の答えを出せばいい。問いはまたその答えを超えてくるから。その時間スケールギャップを楽しめるようになってくると、どんなこともおもしろく取り組めるようになる気がします。

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デザインと哲学、その未分の源流で https://ekrits.jp/2022/12/7493/ Wed, 14 Dec 2022 22:39:00 +0000 https://ekrits.jp/?p=7493 オブジェクト指向の哲学とデザイン

清水高志:
最近僕は概念を造形的に考えることが多くて、それが哲学とデザインに共通する話につながってくるんじゃないかと思っています。

ドゥルーズは『ベルクソニズム※1』などの書物で、概念は最初から複数の概念対が複合したものとしてあると語っています。たとえばプラトンは『パルメニデス※2』で、「一」とか「多」とかいうバイナリーな概念の対を単独で語るのではなく、それを別の概念の対と結びつけてより具体的に語っています。つまり、「一」というのは「ある」とか「ない」という概念の対と結びついて、「一」が「ある」とはどういうことか、また逆に「多」が「ある」とはどういうことかを考える。最初から哲学はこうした操作としてあって、その中で似たような概念対同士の違いも明らかになってくるわけです。

これは哲学の概念の話ですが、最近僕はどうも人間が世界を認知する局面でも、すでに似たようなことをしているのではないか、つまり色や音の知覚でも同じようなことが言えるんじゃないかと思っているんです。「光の三原色」では、青に対して残りの赤と緑を混ぜると、青の補色の黄に近いものが出てきますよね。バイナリー要素をいくつか組み合わせたものを分解したり混ぜ合わせたりすると、また二項性が現れる。しかし、それらを元に限りなく多様な色彩が生み出されたりもする。実はそういったことを概念のレベルでメタ的に考えているのが哲学なんじゃないかと思います。「光の三原色」のような、普遍的でシンプルなものを概念として提示し、操作しているわけです。

むかし僕の曾祖父はピクトリアリズムという写真美学に凝っていました。カメラを通して写真を撮るときに、われわれが見たままには再現できないじゃないですか。情報が多すぎるので、消して白っぽくしたりして、生態的な視覚を再現しようとネガに小細工をする研究をしていたんです。こうした白黒の写真では、白と黒はそれなりに分離していますけど、色というのは混合した状態では白色光です。しかし分解すると、先ほど言ったような三原色があり、さらには色々な補色関係がある。光学的には光がただ規則正しく屈折しているだけなのに、なぜ認知ではコントラストが違うのかを考える必要性があるんです。

青と黄色が補色だという話は、インドの論理学の経典『ニヤーヤ・スートラ』にも出てくるらしく、仏教学者の師茂樹さんによると、「なぜ青なのか」というと「黄色でないがゆえに」といったことをわざわざ述べるらしいです。瞑想しているときに互いの反対色を同時に思い浮かべているらしく、「紺地金泥」とも言いますが、紺の地に金色でお経を書いたりするのも、それが補色だとはっきり意識しているからだと言いますね。

ウクライナの国旗は黄色と水色ですけど、あまりにも空が青いので、穀倉地帯の麦が黄色に見えるらしい。はっきりとした刺激を知覚すると、反対の方向でも刺激を感じたくなる。そんなバイナリー志向がどうも人類には普遍的にあるみたいです。

上野学:
そういうのって不思議ですよね。音階がなぜそう聞こえるのかとかもすごく不思議です。

清水:
鍛冶屋が仕事をしている音を聴いて、ピタゴラスは四度と五度の和音を発見したと言いますね。

上野さんのお仕事はユーザーインターフェイスのデザインなので、可視化ですよね。ユーザーの側から見ても、たとえばあるデザインの対象がわかりやすく可視化されていると、それにいろんなアプローチができるので、事後的にタスクや選択肢が見えてきたり、フィードバックループの関係で局面が変わってくる。そうやって発見があるのが理想的だと思いますが、人間が知覚していることをモデル化してコンピューターとの関係をデザインしていくことは、昔から哲学がやってきたことに案外近いんじゃないかと思います。

実際に哲学もそうやって概念を作っているわけで、わかりやすく作っていると考えられがちなデザインやアートの現場にも、哲学が踏み込んでいけそうな気がしています。だからこそ上野さんのデザイン思想はすごく面白く感じられる。

オブジェクト指向デザインでは、可視化されるモノの用途やさまざまなアプローチが、事後的に見えてきますよね。そこからまたオブジェクトの別の局面に収斂していくフィードバックループがある。こういったことは、認知の問題を可視化しようとしてきたユーザーインターフェイスの歴史において、自覚されていたものなのでしょうか。

上野:
たしかにオブジェクトという概念だけ見ると、哲学で使われる意味と変わらないですけど、ユーザーインターフェイスで使われる場合は、それをたとえばスクリーンに表示するといったやり方で、目に見える形にします。

パソコンの画面は、大体絵でできていますよね。だけど、コンピューターの歴史の初期段階では、まだスペックやリソースが足りなくて、アニメーションをリアルタイムで表示することが難しかったんです。それが段々できるようになっていくなかで、改めてオブジェクトを表すには、絵が適していることがわかってきました。コンピューターのプロセッサーは逐次的で線形的に処理をしていくモデルですけど、それをわれわれが実際に生活したり仕事したりするプラットフォームとして考えると、やっぱり空間が必要になるんですよね。その方が作業をするのにわかりやすい。だから絵が適しているわけです。

空間というのは、複数のものが同時に存在可能じゃないですか。オブジェクトのような概念がプログラミングに持ち込まれたのは、線形的な処理が必要な言語的なものではなくて、空間的なものとして表すためだったんだと思います。画面に見えているものが複数あっても、そのひとつひとつに処理がプログラムとして記述されていて、処理が実行されるときも実際にはプロセッサーの中で逐次的に行われます。だけど、コンピューターの処理速度が早いと、同時に存在しているように見える。

同時に存在しているように見えると、われわれは子供が粘土遊びをするような感覚で、好きな順序で触ることができると感じます。つまり、選択肢が増えるということです。オブジェクトは順序や方法が無限にあるように見せるものなのだと思います。そうやって選択肢があるような空間を作ってきたことが、オブジェクト指向のプログラミングが発達してきた背景にあると思います。

コンピューターシステムは、基本的に決まった仕事ができるようにする仕組みとして作られるわけですけど、その決まった仕組みに合わせて順番にやらせるだけでは、思うように使えないということがわかってきたんです。コンピューターでは、いくらでも複雑な仕掛けを作れますけど、そうするとやり方がわからなかったり、その手順を覚えきれない。作る側の観点からも、やることが複雑になってくると、どういう手順になるのか予測できない。そのやり方を決めてしまうと、ある人にはいいけども、その他の人にとっては使いにくいものになってしまいます。

われわれの使っているパソコンの画面なんかがいい例ですけど、オブジェクト指向UIは何かをするためのやり方を固定しない。そういう思想で作られています。使う人は自分なりに触って反応を見ながら、オブジェクトとインタラクトするなかで学習していきます。そこでやり方を工夫をして、自分の仕事を組み立てていく。そういった世界を作ったんだと思います。

清水:
すごく面白いですね。使う側に選択肢がたくさんあって、それを空間的に可視化するものとしてオブジェクトがあって、それを触るためにインターフェイスがあるということですよね。

上野さんの『オブジェクト指向UIデザイン※3』には、タスクを優先してリニアにつないで、その入り口を誘導的に用意することが不合理だと書いてありました。ある人がトイレに行ってご飯を食べて寝ようと考えていたとしても、玄関を開けると、その順番で空間的に並んでいたら非常に不便で不合理なんだという話は、とてもわかりやすかったです。

それは、局所的に適応してリアクションするのではなくて、いくつもの違うリアクションを留保することで、自由度が増していくということだと思うんです。しかも、同じ対象に対してだけじゃなく、違う局面の違う対象に対しても、横並びの自由度が波及していくようなものではないでしょうか。生物が進化していくときにも、局所的に適応するだけではない潜在性があって、それでいろんな進化の仕方をしてきたわけですが、同じ構造のように感じます。

哲学では、最近はベルクソンについての本が多く出版されていて、皆さん送って来てくれるんですが、そこから興味を惹かれてさらに前のダーウィンなんかに遡ってみると、進化論だけじゃなくて心理学のようなことも書かれています。過去の記憶を横並びにストックして、そこから人間の精神がどう自由度を確立していくのかという話と、進化の話が類比的に考えられている。オブジェクト指向デザインの話も、われわれがさまざまな社会の機構を人工的に再実装しないと可視化されないような世界に生きているから、その必要に迫られているんじゃないかと思います。

一方で、いろんなレベルの社会構造において、玄関を開けるとトイレのドアがあって、その先にご飯の部屋があって寝室があるといった、古いデザインがたくさん残っていますよね。そういったものはリデザインされていかないといけない。そうした認知や進化の問題も、おそらくオブジェクト指向デザインの話とつながっているし、ベルクソンより前の人たちは、認知も進化も哲学も混ざったところで話をしているんですよね。

西田幾多郎は、そうした地続きの世界でヨーロッパのテキストを換骨奪胎して、オリジナルなことをやっていました。そんな風に昔のフラットな場所に戻っていく必要があると考えています。そこにはデザインや認知や進化や哲学といった、さまざまな分野が渾然とした源流があるわけです。

哲学はどうしてもタスク指向で決まった系譜を繰り返し引用している節がある。それよりも、コンピューターを実装するようにモデル化したり、日常的にデザインを美しいと思ったり、便利で汎用性があると思ったりする方が、よっぽど重要でヒントになるんじゃないかと感じます。だから、上野さんが言われているようなことは、すごく示唆的だと思うんですね。

オブジェクト指向の哲学を、中途半端にテキスト解釈するよりも、オブジェクト指向デザインから入っていく方が絶対に面白いんですよ。その方が本質に近いし、グレアム・ハーマンもそういったことを意識して書いています※4

上野:
グレアム・ハーマンの本に書かれていることは、われわれがやっているプログラミングのオブジェクト指向とほぼ同じ考え方なんですよね。

清水:
同じですよね。たとえば彼が「緩衝因果(buffered causation)」なんていうときの「バッファ」はさっきの同時に横並びにしていくという話だし、オブジェクトの断絶を表す「脱去(withdrawal)」はプログラミングで言う「カプセル効果」のことですよね。

上野:
そうですね。オブジェクトは自律的な存在なので。

清水:
どうしてもオブジェクトと言うと、モノが隔絶していると捉えて、相関主義の向こう側みたいなことを素朴に唱えてしまいがちで、そうすると余計に二元論をこじらせてしまう。そうではなくて、「脱去」は二元論的相関性の中に別の二元論的相関性が残留するとカプセル効果が起こるということなんですよね。オブジェクトは、要素から構成されるというかたちにも一方的に還元されないし、それが持つ外的関係にも還元されない。また原子もさまざまな性質を含み持っているし、最小単位から合成されるというような構図を採らず、すべてが重層的に含み合っている。原子が小さいわけでもないし、集合体が大きいわけでもない。

上野:
大小の問題じゃないんですよね。

清水:
そうなんです。たぶんハーマンが言っていることは、上野さんのようなデザイナーたちには直観的にわかっていることなんでしょうね。

上野:
そういう意味では、アクターネットワークセオリー(ANT)※5も似ているかもしれませんが、あの世界観はプログラミングやデザインをしている人の頭の中で、ずっと前から普通にやってきたことで、彼ら自身もそうやって世界を見ているんだと思います。

合目的性から選択肢へ

清水:
一方で、アテンションエコノミーと言われるように、サービスプロバイダーが消費者の行動から情報を抜いて、そこからまた次の行動に対して方向づけをしているという状況もありますよね。誘導的にして選択肢を狭めて、局所適応の方に導いているのは、オブジェクト指向デザインの思想とまったく違うと思うんです。しかし、こういったアテンションから考える可視化も、リデザインの一形態だとは思います。

20世紀中葉のサイバネティクスは、たとえば飛んでくるミサイルを迫撃砲で落とすとき、蛇行するミサイルに照準を合わせながら機械を有効に動かすといった技術ですね。当初のサイバネティクス的対象は単純で、この例で言うなら、ミサイルと迫撃する機械による一対一関係のフィードバックループだったんですけど、それが20世紀後半に入って変化しました。一つのミサイルに対して、追撃砲がいくつもあるような状況、フィードバックループの対象が被っていて、複数のアプローチが重なる状態が生まれて、かつそれが可視化されるようになった。これが20世紀の終盤にでてきた第二世代のサイバネティクスです。フィードバックが一対一ではなく、一対多になってきたんです。

アテンションエコノミーは、そういった状況を第三者的に俯瞰しているシステムであると言えます。西垣通さんが、第二世代のサイバネティクスは、自分たちを別格だと考えて誘導的に社会構造をデザインすることではないかという整理をされていて、とても腑に落ちました。

こういった話は、オブジェクト指向のUIデザインも含めて、今の社会の構造自体がフィードバックループによって複数の主体的アプローチの可能性を共存させて、オブジェクトを際立たせるということをやっている、その現われですよね。もっともアテンションエコノミーはそれを誘導的に、いわば悪用しています。これらはミシェル・セールの準-客体論やラトゥールのANTと同じ構造の話をしているんだと思います。

ただこれは第二世代の話で、その構造をメタなポジションで俯瞰して一方的に誘導するGAFAのような存在がいるので、できればそれをもう一度フィードバックループの中に入れるようにしないといけない。デザインの例で言ったら、オブジェクトが示す局面と選択肢が、自在に切り替わっていくような仕組みを考えないといけない。それができれば、おそらく社会として総合的なネットワークを作ることができるんじゃないかと考えています。

僕はこういうことを仏教や他の回路でも考えたくて、今もテキストをいろいろ書いているんですけど、これを一番わかりやすく社会に実装したかたちで提示できるのは、デザインの人じゃないかと思っています。

上野:
どこまで社会構造やシステムの話に通じるかわかりませんが、元々コンピューティングパワーは一部の特権階級が持っていました。それから1960〜70年代のアメリカ西海岸のカウンターカルチャーの中で、パーソナルコンピューターみたいなものが発想されたという経緯があります。しかし依然として、テクノロジーを使って、より大きなものを組織化して統制しようとする思想は根強くあって、複雑な仕事を合理化する考え方として残っていると思うんです。

こういった流れの中では、ある目標へのプロセスを線形で定めます。それに基づいて、人々に使役的に仕事をさせるための仕組みとしてコンピューターを使うわけです。たとえば会社の業務システムでは、社員にそれを使わせることで、経営者は経営に必要な情報を手に入れることができる。でも日報を書かなきゃいけない社員からすると、仕事するだけでも大変なのに、自分の仕事の内容を書き出すために1時間かかるといったことが起こります。

現実世界においては、線形でプロセス化できない問題や目標というものがたくさんあって、むしろそれが本来の姿だと思うんです。だけど、これもある種の近代の誤謬というか、「何かをデザインをすること」が「何かを線形化すること」であるという発想として固定化されていて、そこから抜け出せない人が多いんだと思います。だから、清水さんが想像されているような、フラットで複合的なネットワークになった社会構造のデザインに取り組めている人は、なかなかいないんじゃないかと思います。

こういう話をするときに、よく「リンゴの皮むき機」を例に出すんですが、これはリンゴの芯に刺して回すことで皮が早くきれいに剥くことができる道具です。デザインをするときに、リンゴの皮が剥かれていない状態から剥かれた状態までを効率的かつ合理的にプロセス化して設計すると、このリンゴ皮むき機が生まれるわけです。ただこれはかなり大きな機械で、リンゴの皮を剥くこと「しか」できません。工場でジャムを作るのにリンゴを何百個もむくならまだしも、一般の家庭にあると邪魔でしょうがない。

なので、どうやってリンゴの皮が剥かれた状態を獲得するかという目標から抽象化して、リンゴの皮を剥くとはどういうことかを考えるんです。手に持てるような小型の食材があったとして、それに対して何か細工をするのに必要な鋭利性や手元性があれば、リンゴの皮だけでなくキュウリやトマトを剥けるかもしれない。そういった発想をすれば、果物ナイフを作ることができる。

それに合目的性から設計してしまうと、「料理をすること」や「食材を加工すること」への感覚がどんどん鈍っていくと思うんです。だけど、果物ナイフが一つあったら、最初は指を切るかもしれないけども、使うために練習しますよね。その道具を使えるようになるということは、それによって自分自身が食材とのよりよい関係を作れるとか、食事とか料理においてより豊かな体験を得られることにつながるんだと思います。

デザイナーとしては、果物ナイフのような道具を作ることを意識しないといけないんですが、世の中の流れとしては、リンゴ皮むき機をどんどん作ろうという方向に向かっているようにも見えます。

清水:
ミシェル・セールの弟子のピエール・レヴィが「ヴァーチャル化(virtualisation)」ということを語っています※6。これはアクチュアルなものをニュートラルな状態に戻すという意味です。あえて解像度を下げて、局所的に適応する前の抽象的な状態に戻すということですね。これは記憶と行為の関係だけじゃなく、道具でも同じことが言えると思います。

ライプニッツは「物質は瞬間における精神である」という言い方をしていますが、なぜかわれわれは逆に「精神は瞬間における物質である」と捉えてしまう。ベルクソンが言うように、物質は持続のスパンが非常に短いものです。色や音のような「現われ」にしても、物質的現象は非常に短い間隔でのパルスの反復などによって維持されている。

これに対して精神は物質との相互作用の中で自らを持続させ、その働きは形を変えて持続し、さまざまな姿をとって現れる。そもそも記憶のような過去のものはもうアンタッチャブルなので毀損されない。物質的でアクチュアルなものにも精神は働きかけるが、その結果も次々と過去に送られる。だからベルクソンは、精神の方がより持続のスパンが長いと考えました。

そう考えていくと「脳とは何なのか」という問いが出てきます。われわれは脳を記憶が刻まれている場所のようにイメージしているけど、実際はモグラ叩きのように次々と過去に送り出される身体の瞬間の状態にすぎません。つまり身体や脳は、いろんな使い方ができる、非常にニュートラルな道具の一つだと思うんですね。

道具を作ったりデザインするということは、精神と外界の間で起きている相互作用を可視化し、自在に操ることですね。道具をデザインしている人は、精神と物質の世界の関係を考えているわけなので、それを自覚的にやることはまさに哲学です。道具を作る職人にも、無知の知があるわけです。

デザインと美の価値

清水:
オブジェクト指向のUIデザインでは、さまざまな選択肢が水平的に用意されていて、進んだ先にまた選択肢が広がっていく、そしてオブジェクトも多様に切り替わっていくような局面が展開することを目指していますね。そうした選択肢の種類を増やしていくことが公正であることだし、その数値化にも興味があります。

これまでよく見られたのは、逆にオブジェクトが固定されてしまう状況で数値化を考えるというものです。たとえば経済学でも、貨幣というオブジェクトが特権的に作用する状況をわざわざ想定して、それだけで数量化が行なわれるということがありました。近年ラトゥールやドゥルーズによって再評価されている社会学の祖の一人であるガブリエル・タルドは、そうした態度が人間にとっての「価値」のあり方を画一化してしまうと批判していました。

マルクスは「物象化」とか「疎外」というキーワードで数量化を考えていましたが、タルドは「競合」や「模倣性」という概念から考えました※7。社会においてさまざまな人が競合するなかでは、結節点的にいろんなものを集めた人がクリエーションをしますが、そこで生まれた生産物が堕落していくとただ模倣されるだけのものになってしまう。

大事なのは新しい結節点を次々生み、状況を切り替えることなんです。ここで言う「結節点」は、まさしくオブジェクトですね。彼はそんなモデルを作っていて、何種類もある価値や競合のシチュエーションを数値化するシステムを作るべきだと言っていました。

タルドは社会学や集団心理学など、まだいろんな分野が混ざっていた時代の人ですけど、社会学というジャンルを分離して確立しようとした当時のライバルであるエミール・デュルケームのような人の方が、制度的にどうしても後の時代まで残りやすい。われわれはその後の世代として育ったので、その前の混沌とした世界観はわからなくなってしまったし、それでタルドの存在も隠れてしまいました。

でも現実として、多くの人が採る典型的なチョイスをすればするほど袋小路に入ってしまうことはよくあります。先にいろんな選択肢が広がっていない構造になってしまい、過当競争の負荷も重くなってくる。今では誰もが、グローバルな競争の激化とその画一性に苦しんでいる。オブジェクト指向デザインの考え方は、タルドのような100年ぐらい前に生きていた人が夢想した社会を、現在にリデザインする可能性を持っていると思うんです。

上野:
そうですね。社会の制度については、どうしても手続き化するという方向で考えてしまうのかもしれません。手続き化することで局所的に合理化されても、他の選択肢がなくなったり、正解が一つでそれ以外が不正解という想像をしてしまう。不正解が発生する機会をわざわざ増やしているとも言えそうです。

線形化したり階層化したり、ゴールやその出発点を一つにしたりと、プロセスを固定化してしまうことで、当然人々の行動はそれに引きずられてしまいます。そうすると、自然と局所最適の発想になったり、正解や不正解が第三者的な尺度で決まるような境界付けが生まれてしまう。そういったケースはたくさんありそうです。

オブジェクト指向の考え方では、何をしてもいいように作ってあるので、たとえばパソコンの操作をするときにも正解や不正解がありません。オブジェクト指向というのは、どうすれば「何をしてもいいように作れるか」という発想で考えることです。ひとつひとつのオブジェクトがちゃんと自律していれば、それを使う人がどう操作しても、全体として壊れることはありません。そういった考え方を、社会制度や手続きに適用していくことは有意義だと思います。

清水:
オブジェクトがひとつひとつ自律、または独立しているというのは、もうすこし掘り下げるとどういうことなんでしょうか。

上野:
アラン・ケイあたりが言っていたことの受け売りなんですが、「一つの装置の中に複雑な処理がプログラムされているコンピューターを作る」のではなく、「小さいコンピューターの集まりで大きなコンピューターを作る」という発想なんですよね。

だから、物理的なコンピューターがつながってネットワークになることもありますし、画面の中に並んでいるファイルのアイコンひとつひとつがコンピューターだとも言えます。ひとつひとつがコンピューターというのは、それぞれにメモリー空間があって、何か処理が記述されたプログラムが入っているとしたときに、そのオブジェクト同士は入れ子にすることもできるし、ネットワークのようにゆるい関係を持たせることもできる。大きなオブジェクトも小さなオブジェクトも仕組みとしては全部同じで、再帰的なフラクタル構造になっている状態です。

清水:
まさに先ほどのオブジェクト指向存在論の「脱去」がカプセル効果だという話ですね。ひとつひとつのパソコンの中でもそうだし、全体もそうでないといけない。だけど、ただ全体をマス単位で見ると、あまりうまく機能しない印象はありますよね。たしかにSNSなんかを見ても、誘導している方の流れが強いように感じます。

上野:
アテンションエコノミー的な発想で、人々の行動の統計をコンピューターが自動で算出して、さらに行動を誘導するような技術が、ものすごい勢いで発達していますよね。もう作っている側もコントロールできなくなっているかもしれません。その状況を、前に清水さんが「黒魔術」と言われていましたが。

清水:
ヴィリエ・ド・リラダンというフランスの作家が、かつて「栄光製造機※8」というシニカルな短編を書いたんですが、芝居のサクラが拍手をするという行為自体が機械化される未来を妄想してリアルに描いています。サクラ行為や八百長批評に対する痛烈な当てこすりを意図した小説だったのですが、今はそれがSNSの世界の現実そのものになっているように感じます。

ところで上野さんに聞きたかったことがあるんですが、たとえば先ほどのガブリエル・タルドは、価値というのは、富のように蓄積するフェティッシュな数量化ばかりではないのに、オブジェクトが固定化されていきがちだと述べています。

ブリュノ・ラトゥールも、みずからが作った偶像を崇める偶像崇拝を否定して、西洋人が人間を超越したものとしての神を想定したり、科学者が多様なアプローチで介入したり、そこからフィードバックが繰り返し起こったりする前に、科学の対象があることを想定したりするのは、同じ種類の欺瞞だと語っていますね。価値を一つに絞ってしまうことは、高級で文明的なことのように思えるんですが、現代文明が陥っているあらゆる危機はまさにここから生じている。

タルドは、事象を細かく切り離して客観的にするという発想で、経済学はむしろフェティッシュや疎外を作り出して安心しているけど、それは間違っているといった言い方もしています。タルドによると、価値というのはいくつかあって、「美についての価値」「有用性についての価値」「富についての価値」と三つに分類できると言うんです。

UIデザインの話をするときに、「有用性」や経済価値である「富」についての価値は考えやすいと思うんですが、「美」についての価値の定義は、どのように考えられていますか。

上野:
あまり「美」という観点から考えたことはありませんが、UIデザインでは道具をデザインしている感覚があります。だから、道具の機能美についてのフェティッシュはあるかもしれません。

人が道具を使うときには、そのインタラクションの中で何かが生まれます。何かが生産されたり、自分自身の価値観が変わったり、その道具を自分で作り直したり、いろいろな相互作用が起こる。われわれは普段からいろいろなモノに囲まれて生きていますが、モノとの相互作用が起こったときに、自分がモノと「接続した経験」が、生活価値のような「美」として記憶されているようなことはあると思います。

清水:
それは、たとえばスムーズさみたいな経験ですか。

上野:
スムーズさそのものではなく、道具を使って何かを作ったときの情景が記憶されて、別の環境に身を置いたときに思い出されたりするようなことでしょうか。われわれは身の回りのモノをなんでも道具的に捉えてしまうので、モノとの関係性がわれわれの世界観や経験や記憶を形作っていると思うんです。そういう意味で、モノと接することで自分が変化をしたり、身の周りのものとのコミュニケーションが発生したこと自体に価値を感じることはあるんじゃないかなと思います。

清水:
なるほど。今二つぐらい連想したことがあって、一つはエリー・デューリングという哲学者が語っている「プロトタイプ※9」の話です。「プロトタイプ」というのは、概念的に作ったモノの用途は、形や構造ができてから事後的に生まれてくるという考え方です。熱を逃がすための熱機関の弁があったことで、それを使った圧力釜が発明されたように、道具の形ができあがってから、そのポテンシャルがさまざまに生まれてくる、そうした完結性のあるものが美しいという考え方です。

たとえば桂離宮に行ったとして、そこにある一つの石は借景の中で遠くから眺めることもできるし、腰掛けてみても実に感じがいい。茶室にもそうした多義性をもった要素がいくらでもありますね。新しい形を生み出す結節点であるオブジェクトはたくさんあって、それが「美」の要素になっているというわけです。上野さんが言われている「美」は、そういった体験のことを言われているんじゃないかと思いました。

柳宗悦が「用の美」ということを提唱したのは有名ですが、これはただの局所適応ではなく、いくらか汎用的な可能性が見出されるようなものがあれば、それが道具の便利さだとして、いかにも「美」であるという定義ですね。

もう一つ思いついたのは、「記憶」についてでした。理想の道具は、「記憶の中で美しい」ということがあるのかもしれません。あるモノと向き合ったときに広がる選択肢の中に、そのポテンシャルが一つの形としてあって、さらにそれが新しい形へとつながっていく、そんな可能性の話をされているのかなと思いました。

西田幾多郎は、「物を作るということは、物と物の結合を変ずることでなければならない」「物と物の結合を変ずること、すなわち形を変ずることでなければならない」そしてそれは「形が形を限定する」ことであると述べていますが※10、これは彼の道具論です。そんな話ともいかにもつながっていそうです。

上野:
そうですね。記憶というと、クリストファー・アレグザンダーのデザインパターンにある柱の話を思い出します※11。柱は基本的に天井とか屋根を支えるために作られていますが、その存在性を観察すると、そこで誰かと待ち合わせをするとか、その近くにテーブルが置かれるとか、環境の中で個別の意味を持ってくることがあります。

つまり、人と柱の関係は一定ではなく、柱を作った人にも決めることができません。柱を作った人は、あくまで天井を支えるために作っていますが、実際の柱はそういった存在に限定されないわけです。でも柱は、人が待ち合わせをしたり、近くにテーブルが置かれたりすることを受け入れているじゃないですか。そういったモノのあり方を美しいと感じます。

しかも、そこで待ち合わせをした人は、そこに柱があることを意識しないですよね。モノの助けを借りて違う何かを作り出したり、自分自身が変化するといった相互作用が日常でずっと起こっていくなかで、わざわざ思い出しはしないけど、経験や記憶のようなかたちで後から内省されていくことはあると思います。そういった存在の美があるのではないかと思います。

清水:
それはベルクソンが言う「無意志的記憶」ですね。記憶は、過去の方から選択肢を持って後に向かっていくものだと思うんですが、上野さんがおっしゃっているのは、モノに触発されて想起される、物と記憶の間にあるような道具ということですよね。

上野:
そうですね。

清水:
ベルクソンは、現在というものがすぐ過去に送り込まれてしまうといった話をしているんですが、過去や記憶は触れることができないから、なくならずに残っている。つまり、過去は選択肢として残っていて、現在へは結節点的なかたちで合流してくる。それで及ぼした影響は、さらにモグラ叩きのように過去にまた送り込まれて記憶になる。それがまた選択肢になるんですが、また結節点的にアクチュアルな影響も及ぼして、というのを繰り返す。これがベルクソンの哲学なんですね。

こう考えると、ベルクソンの議論とオブジェクト指向デザインの共通点が見えてきます。ベルクソンは、人間が進化していく未来を見ているけど、到来した未来をモグラ叩きの踏み台にして、また過去にそれが戻ってきて、そうやって追いかけっこしている状態を、世界のデフォルトだと考えているんですよ。これはすごくUIデザイン的ですよね。

このあたりは進化でも認知でも哲学でも同じように考えられているし、発展史観的に捉えるとそれも線形的になってしまうきらいはあるけれど、ライプニッツやラトゥールのネットワーク的な構造についても、普遍化した議論ができる。線的に説明するより、実践的なデザインの観点で、道具に現れる「美」の話にした方がわかりやすい。

アレグザンダーの話も、自分の家を建てるときに、よく建築家の柄沢祐輔さんとしていたので、実感を持って共感できるところがあります。

上野:
階段は段差があるところに登り降りするための機能を提供するものなんですけど、美術館の前に大きくて平たい階段があると、みんなそこに座ります。そうやって人が好きに座っているのがいいという話を、アレクサンダーはしていました。

これって、目的やタスクのために局所最適化の方向でテクノロジーを駆使するのとは、別世界の話じゃないですか。階段を作る人が、本来の機能以外の部分をどこまで想定しているかはわかりませんが、結果的に座れる階段の方が座れない階段よりいいということだと思うんです。

目的に特化したものを作っても、実際にはその環境や人々の行動にフィットせず、邪魔なものになってしまうこともあるところが、デザインの難しさです。なので、すこし遊びを持たせて、あえてそれが何であるか決めないでおくことも必要になります。

でも、単に何も考えず、よくわからないものを作るのがデザインとも言えないので、目的とする機能を提供しつつ、ちゃんと余裕があって、実際に環境や人々の行動にフィットして、何かしら活用されるにはどうするかという発想で考えないといけない。そのための形式的な経験則がオブジェクト指向なんだと思います。

私はよく「モードレスデザイン※12」という言葉を使うんですが、特定のモードに縛られない、モードから解放された作りにあえてしておくということが重要だと思っています。

清水:
モードレスというのは、要するに「無用の用」みたいなものですよね。

上野:
そうですね。

清水:
「無用の用」と言えば、前に海外の学会で、「車輪の中心にある轂(こしき)のような、一見無用な遊びの部分があってこそ、車輪の用が果たされる」という老子の喩えについて話していて、「遊びの部分」を英語でどう表現しようかと悩んだんですが、考えたら「play」でいいんですよね。

上野:
そうですね。不思議ですよね。

清水:
いかにも不思議です。しかもどこの国でもそうで、フランス語でも「jeu(遊び)」でいいんです。こういった「無用の用」は、AIが使われる世界にも実装されるべきなんでしょうか。

上野:
30〜40年前の人工知能は、人の精神的活動や認知をどのようにシミュレーションするかに関心が向けられていたと思うんですけど、今は深層学習の技術がかなり進んで対象も変わってきましたよね。

われわれもクリエイティブな行為をするとき、全ての段階を計画してから手を動かすというよりも、自分が深層学習したものを手がかりになんとなく手を動かしています。線を引いている途中で、あと1ミリ右にずらすか、左にずらすかは、描いている本人もなぜそう描いているのか言語化できないようなレベルで、その都度経験的に判断していると思うんです。

最近はお絵描きAIが話題になっていますけど、おそらくコンピューターにもそういったことができるとわかってきました。むしろコンピューターの方が計算が速いので、「なんかわからないけどうまくできる」という状態に早くたどり着くんだと思います。なので、人間らしい行為や創作は、実はコンピューターの方が得意だと言えるところまできていると思います。

清水:
モデルを作るわけですもんね。ニューラルネットワークの構造をみると、入力層というのがいくつかあって、その次に隠れ層というのが来ます。この隠れ層はノード(結節点)とも呼ばれるんですが、これもいくつかあって、入力層からの情報がすべてのノードにそれぞれ集中するようになっている。ちょうど、オブジェクトに複数の選択肢、アプローチが結びつくようにです。

入力層から隠れ層のノードに入ってくる情報の重みはそれぞれ微妙に違うので、ノードはなんらかの特性について1か0か、脳でいうとシナプスが発火するかしないかという、要するにバイナリーな判断をして、出力層ではそれらのバイナリーが複数種合流して混じったものが結果として出てくる。この構造に出力層から逆に答えを教えてやって入力層の重みづけの調整をしたりするのがディープラーニングの構造なんですが、これはアクターネットワークとか、オブジェクト指向UIデザインとかのあり方を、組体操みたいに多重にしたかたちになっていますね。

もともと脳がこういう認知の仕方をしていたのを模したわけですが、これは紛れもなく、自分が哲学で考えていることやオブジェクト指向UIデザインがやっていることと同じです。概念というのは、この場合の出力項と同じで、最初からいくつかのバイナリーが複合しているものなので、結果が違う場合はその組み合わさり方が別のかたちでツイストしていたりするわけです。哲学は、この構造そのもののうちで、一と多がどう関係しているかとか、認知主体と対象がどうなっているとか、そこで見い出される複数のバイナリーと、その組み合わさった形を自覚的に考察することで、普遍的な知を得ようとする試みです。

われわれは認知を身体的に処理しているんですが、その過程のもつ意味をさらに解明すれば、世界そのものがあらゆるものをどう弁別しているのかということまで考えられるはずです。哲学はそれを言語化するものですが、それが認知の問題でもあるのだとすると、デザインの実践によってもっとも可視化されるのかもしれません。シンプルに抽象化していく部分と、そこから複雑さを生み出していく部分は実は同じであって、ベースとして共通するところがあるという実感があります。

上野:
私は元々グラフィックデザインをしていて、それからソフトウェアやUIのデザインに移行したときに、対象がすごく複雑で大きいことに気が付きました。全体を一気に計画できないし、細かい部分をひとつひとつ作って集めても、全体性が成立するものではないのがすぐにわかりました。一方で、技術的な実装の仕組みがあれば、大きなものを作るのも小さなものを作るのも同じ行為として取り組める気がしたんです。

プログラミングでは、単純な動きをするものを作って、それを複製することで全体を作っていきます。全体の構造についても、ある型をベースにしてインスタンス化していけば、大きなところから小さなところまで同じ仕組みで動くものを作ることができる。そんなイメージをしながらなんとなくやっていたら、ソフトウェアを作る人たちが既にそれを「オブジェクト指向」と呼んでいるのを知りました。そこでようやく、その着眼点が普遍的な発想だと知りました。

清水:
それは日本的な美学に通じる話かもしれませんね。演劇や歌舞伎でも、全体には間と遊びがあって、ストーリーからするとどうでもいいような愁嘆場が細部に無限にある。名優は、そこを自在にクローズアップして引っ張ったり、そこで登場人物の葛藤を描きだして観客の眼を釘付けにしたりするわけです。職人が重箱の隅をこだわって突っついていると、かえって仕事が増殖していくようなもので、どんどん細部に仕事を作っていくのが面白いという考え方ですよね。浄瑠璃のような楽曲でも、ピタッと全部の間が合うのは面白くないとか、ずれがあって独立してないと面白くないとか。スケールフリーなんです。最初に話していたハーマンのオブジェクトの話とも通じます。

松岡正剛さんも語られていましたが、伝統的に日本人は、内側のものが外側にねじれて出てくるようなことも好みますよね。着物は帯で留めたものを、さらにもう一度紐で縛っていますよね。元々着物を留めるための一部分だったものがいつの間にか形式化して、全体のように大きくなって、あの帯の形ができたというんです。温泉旅館で出てくる頭の表だけを残した刺身のお造りとか、全部そんな感じです。

トライコトミー(三分法)の布置

上野:
すごく素朴な疑問なんですが、今日も話に出たセールの準-客体論や、ラトゥールのANT、ハーマンのオブジェクト指向存在論、ライプニッツのモナドといったものが、私にはすごく似たものに感じるんですけど、これらは構造的にどのような同一性があるんでしょうか。

清水:
セールの準-客体論とラトゥールのANTは近いですし、セールはライプニッツを援用しています。

ライプニッツの場合、扱われる二項対立の種類が「質料/形相」と「一/多」の問題で二種類あります。二項対立を近代モデルにすると、多様な自然があって、一なる統一的原理である精神にそれらが回収されるというパターンを多く見かけます。しかし、ライプニッツは独特の質料形相論を展開していて、人間精神が見いだす形相性はもともと質料性の中にあって、そこから切り出してくるという考えを最初から持っていました。

これはスコラ学ではスコトゥスとかアルベルトゥス・マグヌスなども、たとえば数学の対象は知性的質料と呼ばれるもので、そこから形相性を引き出してくるという考え方を持っていたし、わりとよく見られたものです。むしろ特別なのがデカルトの場合で、コギトを出発点として、形相性と形相性を正しく鎖のようにつないで、最後に質料的な対象にアプローチする。その鎖がちゃんと長くつながっていれば、それはよく考えられた対象で、実在的だと考える。形相性に質料性を回収するわけですね。

一方でライプニッツにとっての形相性は、学問の対象に対するアプローチが、その対象に向けて複数あって、質料的な対象がそれらを含んで合流させていると考えると理解しやすいんです。対象へのアプローチが複線的であることが、よく考えられているということなわけです。彼はデカルトより代数的な数学観ですから、ある物的な全体があると、それを二等分するとかの代数的操作はいくらでもできる。微積分などの操作もまたそうです。円錐があったら、そこからさまざまな円錐曲線を取り出せる。複数種の異なった形相が質料的対象のうちに含まれていて、モノがそれらを合流させている。

ライプニッツは形相性を線形的にはつないでいないし、アプローチがオブジェクトにいくつも並存的に含まれているわけです。こういった構造が、オブジェクト指向UIデザインにもかなり共通していると思います。

このライプニッツの哲学をさらに準-客体モデルとしてまとめ直したのがミシェル・セールです。準-客体モデルは、中心にオブジェクトがあって、そこに複数のアプローチが合流し競合するあり方を、ボールゲームに喩えたものです。さらにそれを科学の対象への複数のアプローチと、そこからのフィードバックループを分析するメソッドとして理論化したのが、ラトゥールのANTですね。

ハーマンはすこし違っていて、さまざまなオブジェクトを、お互いに非還元的な相互の入れ子構造として考えています。ライプニッツも複合的にモナドを集めたり、相互入れ子を考えたり、晩年には実体間紐帯といって、集合体的なモナドのことも考えているので、本来は似たような議論のはずなんですが、ハーマンはライプニッツがモナドをただ単独的にのみ考えていると解釈しているようで、その点を批判しています。もっとも、彼自身が多くの場合まさにそう誤解されています。

一方でハーマンはラトゥールを強く意識していて、なんとか違いを出そうと腐心しているところもあったりして、基本的には似ているのですが、経緯は複雑ですね。

上野:
ありがとうございます。準-客体というか、主客の区別が曖昧であるというのは、日常的にプログラマーの人が持っている観点じゃないかと思います。

オブジェクト指向プログラミングをするときに、オブジェクトの名前や振る舞いを定義として記述するんですが、そのオブジェクト自身を「セルフ」と呼ぶ慣習があります。つまり、プログラミングしている主体もオブジェクトになっているんですよね。自分自身がオブジェクトになったつもりで自分の振る舞いを書いていく。そのときにオブジェクトは客体的に扱われるけれど、プログラミングする人は主観的なんです。そうやって主体と対象が共存する感覚を、プログラマーは自然に持っていると思います。

清水:
それをまた俯瞰しているわけですよね。

上野:
そうなんです。それを俯瞰しているんです。

清水:
たとえばハーマンも「人がいて木がある」という状態、それらがおのおの感覚的対象として現れている状態を考えるんですが、その状況を第三項的に見る者について考えています。つまり、主体と対象の相関関係に、さらにカプセル効果が働く状況を考えるわけです。またこの第三項の位置が「幽霊列車のように連結したり変わったりするのはなぜか」という話をするんです。

三項論理で主客があって、それをまた内側に入れて俯瞰して、その構造のユニットがまた別の三項構造の中に入って相互包摂し合い、一なるものが間接的に多なるものに含まれ、多もまた一を含むというように、トライコトミー(三分法)の哲学をやっていると、だんだん仏教の世界観に似てきます。

唯識仏教の構造がそうなんですよ。「識」と呼ばれるものは、古くは「三分」と言って「相分」「見分」「自証分」の三項から成り立っているとされています。「見分」は知覚している側で、「相分」は対象のアスペクト、つまり「現われ」ですね。実際は「見分」には「眼識」「耳識」「鼻識」などの五感が全部あって、「相分」を合流点として主体的なアプローチが複数つながり、フィードバックループがあるわけです。そしてさらに、それを自覚している私、すなわち「自証分」がある。これが「識」の構造です。

しかもこうした「識」の構造は他の「識」にも知覚される。先ほどのサイバネティクスの話ではないですが、フィードバックループごと、お互いに被りあってどこまでも相互入れ子になっている。これら全体を一方的に包摂する唯一の「識」はない。客観的で唯一の世界が外在するという近代西洋の考え方とは違って、無数の仏世界がそのようにして生まれ、行けども行けどもどこまでも「識」であると考えるから、「唯識」なんです。

西洋的な世界観が唯一客観的なものであり、その合理性にみんながやがて従ってくれるだろうというかつての前提は崩壊し、世界を捉える複数のパースペクティヴが乱立する状況に現代はなっています。そうすると無数の世界を語っていた仏教の考え方にどうしても近付いていくわけですが、これは東洋だけの話ではなくて、たとえばレヴィ=ストロースが「野生の思考」と呼んだような、非西洋の文化圏のものの捉え方すべてに通じてくるんです※13

複数の二項対立の組み合わせがツイストするように変わるという話が今日は度々出てきました。このツイストというのはたとえば「丸と四角」という二項対立、「白と黒」という二項対立があった場合に、「白い丸」であったものが「黒い丸」になり、「黒い四角」が「白い四角」になるといったようなことです。

このとき「丸」は、「白と黒」という二項対立に関して言うと、両方をつなぐ第三項的な土台になっている。『親族の基本構造※14』でカリエラ型婚姻法則の研究をやっていた頃から、レヴィ=ストロースはこういう構造が非常に重要な意味を持っていることに気づいていました。この第三項的な位置は、「丸」であれ「白」であれ「黒」であれ、すべてが担うようになっていて、一巡するようになっている。

『神話論理※15』ではこの構造がもっと複雑化しますが、基本的には「二項対立を媒介する第三項」の役割がそれぞれの項で一巡するというあり方が神話の構造なんですね。これはオブジェクトが複数のアプローチの合流点になっていて、そのうちのどれかを選ぶとまた新たな合流点としてのオブジェクトに切り替わり、線形的に誘導するのではないかたちで、さまざまなオブジェクトが実質的に並存してあるUIを作るというオブジェクト指向UIデザインの美意識にすごく近い。デザイナーが可視化しているのは、世界を複雑に弁別するこういう「無意識」でもあるんじゃないでしょうか。

複雑性を考えるときに、一度バイナリーに戻して組み合わせ直すと多様性が出てくるというのは、あらゆる面から見て真理なんですよ。コンピューターだったら0と1でやりますけど、それがさらに何種類かあるという違いだけかもしれません。

哲学には何種類かの基本概念、根源的なバイナリーがあって、その再解釈を延々とやっている面もあります。その組み合わせはある程度固定される傾向があるんですけど、それを動かすヒントを得るには、認知や推論のための論理学、進化論、プラグマティズムなどが地続きだった時代に遡る必要がある。あるいは、現代のデザインの現場でまさに実践されていることから、ヒントを得なければならないと思います。

やはり諸学問が渾然と同じステージで考えられていた、ベルクソン以前の時代に回帰するべきですね。同時代的な人としてグレアム・ハーマンやカンタン・メイヤスーがいますが、半ば無自覚にではあっても、彼らも他のサイエンスやデザインの動きにリンクしている気がします。

《発現しやすい形》という希望

清水:
変な質問かもしれませんが、すこし前の時代のデザインに関する思考で、古くて我慢ならないといったものはあったりしますか。

上野:
これまで話したことの繰り返しになるかもしれませんが、デザインの一般的な方法論として言われているものに感じるところはあります。つまり、ユーザーの要求を調べて定義して、それを満たすソリューションを提供するというプロセスがあって、それを実践すれば役立つものや売れるものができると考えてしまうことです。

というのも、ユーザーは要求を持っていないことが多いんです。何もモノがない状態で「あなたは何が欲しいですか」と聞かれてもわからない。われわれは、自分が今足りなくて必要としているものはほとんど意識していなくて、モノが現れてから初めて自分との関係性やその必要性を知るわけです。

でも、世の中のプロダクト企画や設計のプロセスでは、人々が自分の要求を知っていることが前提になっています。そして、それが仮に定義されたとして、要求さえわかればそれを満たすソリューションが半ば自動的に設計できるという楽観的な感覚があるんです。だけど、要求がわかっても、それを満たす最適な形はわからないですよね。

あともう一つ、仮に今の生活や仕事の課題が顕在化されていて、それを解決するための道具を作るとします。だけど実際に作ってみると、道具がその人の生活や仕事に導入されたことで、これまでの生活や仕事の仕方、もっと言うと物事の捉え方が変化してしまいます。すると、最初に想定していた要求とソリューションの関係が成立しなくなる。作るところまではできたけど、実際にそれを使ってもらう段階で役立たないということはすごく多いんです。

道具のデザインには、抽象度と遊びがもう一段階必要で、それを手にした人が工夫を働かせて、自分なりにその道具との関係性を築いていけるような余地を残す必要があるのだと思います。

清水:
作られるべきものについて社会的な合意があって、それがあらかじめ認知された上で、そうしたものが作られるというのは、科学社会学などで社会構築主義と呼ばれている考え方ですね。でも、ないと思われていたニーズを満たすものができてしまったり、違うニーズが後で出てくることもある。これはANTで分析されたりしていますが、事後的に最初からニーズがあったように錯覚してしまうんですよね。

上野:
何かモノが目の前に現れて、それをみんなでいじくり回していたら、後から想定されていなかった使い方や役立て方が発見されるということは普通にあると思います。だけど、デザイナーである以上は、自然発生的な価値の創出を待つだけではなく、「発現しやすい形」があるのではないかという希望を持ってデザインをしています。それを作ることができて、自分がデザインしたものが、どう使われるかはわからないけれど、いいかたちで使われやすいものになればすごく嬉しく思います。

清水:
先ほどピエール・レヴィの「ヴァーチャル化」の話をしましたけど、そうやって解像度を下げるというのは、認知におけるクオリア的なものに戻していくことかもしれませんね。アレグザンダーの話もそれに近い。

ライプニッツの哲学も同じで、基本要素の組み合わせによって世界を記述する普遍言語を生み出すことが彼の理想でした。こうした基本要素というのは、時間が経っても使えるような強度のあるシンプルな概念で、新しいものが出てきたときに立ち返れる場所であるべきなんですよ。そこに戻れば、全然違うものが出てきても、読み換えられるようになる。僕自身も、哲学はそういうものでなければならないと思っています。だから、概念は知って終わるものではなくて、材料なんです。どんな道具をいかに使うかという問題です。

たとえば世阿弥は『風姿花伝※16』で、「離見(りけん)の見」ということを言っています。自分が観客の前で舞っている姿を俯瞰するのが「離見の見」で、そういうものの捉え方が能には大事なんだと。反対に、自分の側からの見方に捕らわれているのは「我見(がけん)」と呼ばれ、要するに唯識の「三分」と同じような構造を世阿弥は意識して、自分の舞というものをニュートラルな状態に置こうとしていたんだと思うんです。記憶の中の道具もそうですけど、物質と記憶と精神が混ざっているような、ニュートラルな状態に「美」があるというのはわかります。

以前対談した折に、松岡正剛さんが人形浄瑠璃の話をしていたんですけど、とりわけ人形を三人で操っていることに感心していたのが印象的でした。あれは多くの人間のアプローチが合流する依代みたいなオブジェクトなんですよね。そうした人形に擬えてストーリーを見る。物語や人生そのものを俯瞰するわけですね。

デザインをテーマにすると、オブジェクトによる可視化やユーザーのさまざまなアプローチ、そして使い勝手の話になりますが、実は歴史的な芸能のうちで生き生きと躍動していたものにも、案外血が通ってくるところがあるように思います。

上野さんと話をすると、これからの未来の話になって面白いですね。技術的で明解だし、デザインの思想はさまざまな美学に連鎖していく。そういう意味で、非常に議論がクリアになることに本当に驚きました。

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2022年8月22日

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アテンション過負荷(Kafka)/革命前夜🗽 https://ekrits.jp/2022/09/7410/ Thu, 08 Sep 2022 03:24:50 +0000 https://ekrits.jp/?p=7410

“どんなグループ(ラディカルなものや虐げられたものでも)に入るのにも自己の一部には目をつぶらなければならないが、それは少なくとも、そのグループが立証してくれるのと同じくらい、重要なものなのだ”
パトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ』※1

フィアットエコノミー最後の夏💸

通りすぎてく夏 a.k.a. デンジャーシーズンのDOOM。そいつはメタルフェイス。いや、MOOD。寝ても待ってもやって来ない果報。うだつの上がらないフィアットエコノミーをよそに、今日も男を削っていく。生死を問わず請求し続けるサブスクリプション。SNSを断つために指を断つ。MAKE INSTAGRAM INSTAGRAM AGAIN.

心電図と新生児室のsynthesis。心霊スポットでパウル・ヒンデミット聴きながら心停止。グレーゾーンのレゾンデートルを冷蔵。過酷な幽霊。気狂いじみた連中。光の進路が変わる。永続する映像。没入するためだけの視覚。映画的な快楽。遠近感のない夢。自動的に切り取られる世界のノイズすべて。わたしの前にそれだけがあり続ける。

内臓があることへの違和感と内臓がないことへの違和感が対消滅して、わたしはわたしの器官なき御神体。大きな、あるいは、小さな。粘菌が思考する。暴動するガール、スピットするボーイ。快楽原則のパラシュートで死ぬまでclubbin’してるのにもうずっとcravin’. 彼女はあなたをstimulateした?それともsimulateした?

尼崎ダークウェブ。神様だけがフォーエバーヤング。その人のスタイリングが好きということこそが恋なのだから。でもティモシー・シャラメはマダムキラーだから。関係を手触りで確かめる。熱いものの痕跡。誰にもわかられたくない。何も見えない静かで透明な夜。ノンファンジブルな気持ちでずっと後を付けてる。想像上の彼とわたしの境界線が消える。送らなきゃよかったメッセージ。

ここは試着して鏡を見ても、数字でサイズを知りたくなるような世界。ラディカルなECのスタイルズ。「わたしたち間違ってないよね?」振り返った友達が不安そうな顔で言ってる。マンブルコアでもマントル突き抜けコアまで届いて、ブラジルの人聴こえますかー?

植物、代名詞、鏡、時間🪷

抑鬱。世界と融け合う植物。ホールフーズのエコバッグの中の存在論。物理身体を土着の分子的ネットワークに埋める。わたしはわたしを周縁化する。わたしがわたしの突端であるように。あなたはスーパーマーケット。「ここを抜け出して二値化しようよ」って耳元で囁いて、喰い合うバウンスで失神する。Let’s get digital.

世界をガラス面に横たえてXeroxして置き去りにする。非網膜的な純粋視覚平面に叩きつけられる。解釈による自己投影の向こう側にあるすべてのものに、生きてることを詰められてる。廃墟の「墟」が「嘘」に見えてクソ潜れなかった朝に、生きてきた全部の瞬間が整然と並んで見える。細部への執着が重畳的に細分化されフラクタルにズームインし続ける最中のホワイトアウトだけがカタルシスだよなあ。

ブライアン※2みたいにriot queer. grrrlみたいにqueerrr / qqqueer / queeeeer. 綴りを変えると混じり合ったspellがmagic spellに変わる。わたしを指し示す代名詞を探す。she/her, he/him, they/them, eeasfggaww2.aasfq-e\\^–e..fas.a.s___/sfl;calsfag.safaa. 不可算名詞で負荷分散しても、わたしのアテンションは過負荷(Kafka)。ふかふかのベッドで眠る夢を見ている。夢の中で夢にまで見た夢。ワイヤードから抜け出しても合わせ鏡みたいにレイヤード。あなたのブラウズを映し返す。

親指を使って生地-表皮の上に均質空間を刻みつける。タトゥーを入れて傷をつけて、どこまでも続く身体平面が立ち現れる。表皮に配置されたオブジェクトが均質空間を浮き上がらせる。スケールフリーな身体の拡張のために、わたしだけのグリッドがわたしの拠り所になる。全身を隈なく覆う非-静止都市※3。格子に包まれたわたしの身体(死体)は艶めくクロームの外骨格。

Hey, Joe. 買ったばかりのボトムスをモンペと揶揄した男をさっき殺した。作り笑いとヒソヒソ話が花と水になる風の時代。マルチプルオーガズムなき人生訓には余剰がない。代入すべきは時間。人間以外のすべての時間の愛おしさ。トラルファマドール星での優雅な幽閉。惑星ソラリスのエルミタージュ幻想。態度が形になるとき。もう取り残されることを恐れていない。自助≒自叙の迷宮でチルなんてできやしない。

法廷のマルセル・デュシャン👩‍⚖️

気づけばキッズのBADモードで剥がすキズパワーパッド™。血便のモルモットとシケ込む節電中のパロアルト。喫煙の場所もっと。わたしのわたしによるわたしのためのカーゴカルト。「死んでみる?」と言いつつ生きてる感覚がゴーカート。その地下道壁面に反射するパトランプと水槽のサーモスタットをランドサットの目で見るウパニシャッド。ロードサイドのガスステーションで給油するキム・カーダシアン。

「あなたには黙秘権がある。あなたの供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる場合がある。あなたは弁護士(マルセル・デュシャン)の立会いを求める権利がある。もし自分で弁護士(マルセル・デュシャン)に依頼する経済力がなければ、質問に先立って公選弁護人(マルセル・デュシャン)を付けてもらう権利がある」。

コモンローなしのコーンロウ。プルオーバーなしのスリープオーバー。建築家なしの建築。自由なしの自由落下。窓の外の天使と目が合う。全部見えてるのになにひとつ手出しできない者の顔をしている。性懲りもなく溶け出している本当のことを、その透明なものの中心に。水には匂いがある。ねえ、今すぐ純白模造であらゆるオブジェクトを包んで飲み下して。

この会話はサステナブル。みんなが寝ても終わらない。わたしはしゃべり過ぎだと誰かが言う。わたしはずっと黙っていると誰かが言う。全世界が自己開示を強要する。ひとりで死ぬときの会話を推測(dialogues / die-alone-guess)している。朝に鏡を覗き込んでも、必要なものすべてが認められない。あらゆる違和感に同一化していく。dysphoria forever😇😇😇

小説はもう読めない。わたしではないから。映画はもう見ない。わたしではないから。音楽はもう聴かない。わたしではないから。誰でもないのではなく、私であるのだ。圧倒的に、絶対的に。細胞が入れ替わっても記憶が残るなら、わたしは記憶。手を出すな。それはわたしだけのもの。それ(gray matter)な。

バイカーたちのアンセム🏍

Ruff Ryders’ Anthem. メイカーズからバイカーズへ。2ケツするオーバーサイズ・フォーエバー。still Y2K 2022。2という数字を並べて閉じるファスナーもY2K。パリス・ヒルトンのtacky-chicスタイルをリコールしながら、2つに分かれていく。現実の速度を限りなく0に。Why you care? Rage against Rage?

下腹部をえぐるエンジン音。国道をどこまでも南下する。光沢のある金属の輪が連なる。乾いたチェーンの音が水滴のように感じられる。アスファルトをこする金属バットは神社で鈴を鳴らすみたいな音がする。すべての中毒者に永遠を。すべての中央分離帯に花束を。そのすべてに光り輝く都市が、小さく、映り込んでいる。

退化していく。ずっとドラッグなしでエゴ・デスしてる。あらゆる視点を脱主体化する。「内的感覚をストレートに表現せよ」と命じる者を言語で拒否する。わたしというダクトの中で震えるかわいそうなジョン・マクレーン。誕生の瞬間からあらゆる存在に蹂躙されて猪木アリ状態。生きづらさとわかりあえなさが高山フライ状態。ルールは物理法則のみ。

片耳だけ、いつも、陶片のように白い首筋に耳から垂れた血がラインを引く。巻貝の奥底に海が聴取され、蝸牛がいななく。教科書で見た脳の写真。幽霊の果実。他者なき暴力。Who Shot Ya? 誰があなたを撃った?バンバン、あの悲しい音。シナトラみたいにmob ties. モブだと思った?あなたのベイビーがあなたを撃った。

“But I swear it was in self-defense.”
He said “kill it before it grow.”
He said “kill them before they grow.”

オーケー、リロードした。95だ、マザーファッカー。GorgeはGorgeだ。フロントローはフリークショーだ。京都から東京に向かうアレン・ギンズバーグよりも速く通り過ぎる雷雨。弾丸列車とすれ違う。スマートフォンからワイヤーを伝ってきたDa Bratが言う。That’s what I’m looking for.

再動物化/再セカイ化するポストモーダル/歯列🦷

海の見えない駅前でエナジードリンクを飲む。おどおどしながら電車に乗る。適切な行動は不可解(FU-Kakai)。明文化されたルールに従うだけでは不十分。隠された行動規範は明言されない。異なる行動規範に基づいてアクトする無数のトライブがひしめき合う。電車ではパーソナルスペースが狂った連中と呪詛を吐き続ける人が拮抗したムード。

わたしたちは自分の身体が在ることの意味を甘く見ていた。わたしたちに電車は早すぎた。わたしたちに街は早すぎた。わたしたちに歩行は早すぎた。わたしたちに肉体は早すぎた。わたしたちに存在は早すぎた。ウイルスが情報ではなく、情報がウイルスだった。

パンデミックが変えたエロスの意味。非接触でラストオージー。視線よりもWi-Fiみたいに、意識のバックグラウンドで行き交う不快と憎悪の交感。身体を叩き潰して関節を全部外して、イメージの上でわたしを分子化する。目を閉じて音量を最大にすると、わたしの加害性が増大する。そして目の前に空席が現れる。

7分割されたシートがあって、

Seat01

このようにひとつ置きに座れば成員が等間隔で並ぶことができるが、

Seat02

このように真ん中に座る者は憎悪される。

埋まっていく座席の小さな隙間に入り込むのは必ずニキあるいはネキであり、無徴者でありながら体積をコントロールせず、境界を侵犯し続ける。車椅子とベビーカーと有徴化されたすべてのもので車両を満たそう。彼ら/彼女ら、均一な無徴者らの居場所のすべてを塗り潰そう。よく動く指先と肩の間で遊動する肘がわたしの可動域を制限する。実際の接触ではなく、動作の可能性を侵犯することが罪悪になる。

感情はもういい。さよならエモーショナルという空気感が漂っている非エモの極北。感情がないということは決断をしないということ。現実を倍速視聴しながら違うこと考えるポストモーダル。そんな渦中のエモーショナル・リバイバル(再動物化)。でもつらすぎておじやしか食べられない(再セカイ化)。

空気と塩水とわたし🤱

メールボックスの底からセイ・ハロー。チャイニーズ・ヒップホップとデューク・エリントンのシノワズリが交錯する。蝉の鳴かない真夏日の気温計のように、細くて透明な管の中を赤い液体が、喉を這い上がってくる。嘔吐によって内側が外側になり、外側が内側になる。でも表面がずれただけで、中にあるものは依然として中にある。nuh sayin’?

風もないのにかき氷の旗が揺れている。リアルタイムレンダリングされる氷菓の透過光が、あなたを非文化まで余さず盗用する。軒先の簾の陰影は嘘のよう。あるシーンを起点に世界がすっかり切り分けられてしまう。アテンションがオーバーロードした果てに、全人類が同時にエクスタシーに達する予感。He says “大抵松戸にいる”.

Stitches get snitches. 徴のあるものを見つけたらオフライン/オンラインでdoin’ it. doin’ it. doin’ it. でも「カスりカスりなら平気」な多層構造。際限なく増殖しては自律的にテロルをミントし続ける。ハッシュタグ・アクティヴィズムから純粋視覚による動員へ。記号から灰色の表層へ。視覚中心主義者たちの群れがスコールの中で霧消する。でも大丈夫。どこにいたって見つけられる。We gonna make it all! というより、Brother gonna work it out!

夜半、放置された外壁。窓から見える部屋。四辺を埋め尽くす遺影が空間を上下に分割する。さっきの徴を搔きむしる。リアルは表層に凝集する。綿布を燃やす匂い。キラキラしてるものだけが正しい。蟻の戸渡りを這うクリプト。歩行者の天国。街をハックするより発掘する。

革命前夜。乗れるゲームがひとつもなく、わたしのためのことばはどこにもない。理解可能な世界で神経が萎縮していく。だから複数のチャットツールで地獄を共同編集する。外骨格の表面の微細突起。構造色の皮膚。空気と塩水とわたし。それを疑-太陽が毒する。何をするでもない。何を見るでもない。No time to die. Born to 無為.

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UIと音をめぐる機能と官能 https://ekrits.jp/2022/08/7313/ Mon, 29 Aug 2022 22:34:09 +0000 https://ekrits.jp/?p=7313 プレモダンUI

80年代から90年代にかけて、パーソナルコンピューターの普及とともにデスクトップメタファー、ウィンドウシステムといったGUI(Graphical User Interface)の基本思想が広がり、00年代は画面解像度やグラフィック能力の向上とともに、各OSはビジュアル表現に力を入れていった。

最も象徴的なのが2000年に発表されたMac OS XのUIデザイン言語“Aqua※1”だろう。1998年に発売された、トランスルーセントデザインが特徴的なiMacや、Macintosh G3のハードウェアのデザイン言語をソフトウェアに適応したような、丸みを帯びた水滴のようなルックは大きな話題となった。

Mac OS Xのパブリックベータ版Mac OS Xのパブリックベータ版※2

2001年に発表したWindows XPで採用された“Luna※3”と呼ばれるUIデザイン言語は、メニューバーやウィンドウにグラデーション効果が入り、膨らみが印象的なデザインに。

Windows XP ProWindows XP Pro※4

さらに2006年に発表されたWindows Vistaから採用され、後にWindows7にも引き継がれる“Aero※5”では、磨りガラスのようにウィンドウの後が透けて見えるような効果が加えられた。

First look at Windows 7’s User InterfaceFirst look at Windows 7’s User Interface※6

英語の言い回しに「見た目が良い」ことを指す“Eye Candy”という言葉があるが、2000年代のつやつやでピカピカのGUIは、まさにEye Candyな目に楽しいビジュアルを指向していたと言えるだろう※7

この傾向は、2007年に発表されたiPhoneにも色濃く反映されていた。グラデーションが多用されたリッチなグラフィック表現で、フラットな画面上に、実物のデバイスのように膨らんだボタンがあしらわれたアプリや、リーガルパッドの質感を再現したメモ帳アプリなど、いわゆる「スキューモフィックデザイン」が採用された。

iPhoneに採用されたスキューモフィックなデザインの例iPhoneに採用されたスキューモフィックなデザインの例※8

モダン/ポストモダンUI

スマートフォンが普及し、インターネット接続端末のモバイルシフトが進む2010年代になると、これまでのEye Candyなデザイントーンから一転、2012年にMicrosoftの提唱したUIデザインシステム“Metro※9”(後に“Modern”に改名)を皮切りに、タイポグラフィとグリッドシステムといったグラフィックデザインの思想をベースにしたミニマリスティックなUIデザインが広がりはじめる。

“Threshold”のスタート画面UIMetroを基に設計されたWindows10 “Threshold”のスタート画面UI

Appleも2013年リリースのiOS 7からスキューモフィズム要素は排除され、フラットなデザインへとシフトしていく。2014年リリースのOS X Yosemiteからは、Aquaの代名詞であった立体的でつやつやした質感は抑え気味になり、比較的フラットなデザインに刷新された。

iOS 7のUIフラットデザインが適用されたiO 7のUI※10

OS X YosemiteOS X Yosemite※11

同時期に一斉にUIのルックがフラットと化したこの動きには、2010年代にスマートフォンやタブレットなど様々な画面サイズのデバイスが登場したことによって、どのような画面サイズにも対応する「レスポンシブデザイン」のニーズが高まりつつある中、グラデーションやシャドーを多用するスキューモフィックなデザインよりも、フラットなデザインのほうがレスポンシブ対応しやすかったこと、多様化する様々な機能やインタラクションに対して適切なメタファーを用意することができなかった、など複数の理由が考えられる。

ボタンやスイッチのような実物の操作機構や、実物の文具など、現実世界のメタファーを取り込んだデザインは、新しいプロダクトの導入期においては、その役割や操作方法をビジュアルで伝えるために有効である。しかし、そのプロダクトを多くの人が使うようになり、慣れ親しんでくると、合理性や機能性を重視したシンプルな形を指向しはじめる。この流れは建築におけるモダニズム運動にもなぞらえることができるだろう。

スキューモフィズムの一例同様の機能を提供するレガシーなプロダクト(燭台)の意匠をメタファーとして導入する「スキューモフィズム」の一例。電球が発明された当時に採用されたデザインで、電球を固定するソケットの多くに燭台を模している※12

一方で、フラットデザインが持つ課題として、ボタンなどのクリック/タップ可能な部分が分かりにくいといった点が指摘されるようになった。すでにこれまでのタッチインターフェイスの言語に習熟したユーザーにとっては慣れの問題で済むが、初めてタッチインターフェイスを使うユーザーにとっては、どこがインタラクティブな要素なのかというヒントが乏しい状態は使いこなすハードルが高く感じられるようだ。特にポインティングデバイスを利用せず、手で直接操作するスマホやタブレットでは、ホバーなどの予備動作がないため、「操作可能な要素かどうか」をいかにユーザーに示すかは大きな課題であった。

これらの課題へのカウンターとして、2014年にGoogleがUIデザインガイドライン“Material Design”を発表する。このガイドラインでは、フラットデザイン的なルックをベースにしつつも、クリッカブルな要素を視覚的に明確にするために部分的にドロップシャドウを導入したり、ドロップシャドウの深さによってレイヤー構造をユーザーに提示する、アニメーションを利用することでそれらをより直感的に理解させる、といったノウハウが体系的に提案された。

Making Material Design

Material Designが指向しているのは、いわばフラットデザインとスキューモフィックデザインの折衷といえる。マテリアル(UIを構成する要素)の影(奥行き)や、マテリアルのふるまいという、部分的なメタファーを導入することによって、ユーザーのメンタルモデル構築を補助するという考え方である※13

Material Design同様、フラットデザインの問題点を解消するために、ユーザーのインタラクションとUIのふるまい(動き)の連動を突き進めた一つの到達点として、2018年のWWDCでAppleが発表した“Fluid Interfaces”があげられる。Fluid Interfacesでは、ユーザーのインタラクションに対して常にレスポンシブなアニメーションを提供しつつ、それらはすべて中断したり前に戻ったりできるように設計することによって、ユーザーのインターフェイスへの自己帰属感を高め、ユーザーがUIを「自分の思考の延長」と捉えることができるとしている。

Designing Fluid Interfaces

UIの官能性について

ここまで、2000年以降、PCがコモディティ化し、スマートフォンをはじめとする様々なモバイルデバイスが普及する中でダイナミックに変化してきたUIの20年の流れを足早に振り返ってきた。

これらの歴史の推進力となっているのは、インタラクションデザインやユーザビリティに関しての絶え間ない研究と実践であることは間違いないが、筆者はこれらの歴史を切り取る別の視点として「官能性」という視点を導入してみたい。UIにおける官能性とは、思わず触れてみたくなるような感覚的刺激をどの程度有しているかという尺度を示す※14

先の20年のUIの歴史の流れを官能性という軸で捉え直すと、以下のような形になる。

2000年代の視覚的な官能性に淫した季節を経て、UIはマルチデバイス対応への必要性から、禁欲的なフラットデザインへとシフトしていった。しかし、フラットデザインの合理主義・機能主義的な態度によって排除された官能性は、ポインティングデバイスを介さず直接ユーザーがインターフェイスに触れるタッチUIにおいては、特に重要であるという指摘がされるようになった。そしてMaterial DesignやFluid Interfacesは、フラットで禁欲的なサーフェイスの向こう側に隠されてしまった官能性、つまり思わず触れてみたくなるセンシュアルな感覚を、最小限の装飾性や、アニメーション(時間表現)によって取り戻そうとしている※15

では、ユーザーのインタラクションを誘発する非言語な感覚である「UIの官能性」とは、どのように設計することができるだろうか。

筆者が注目しているのは、拙稿「Oddly Satisfying Videoについての覚え書※16」で紹介したような、「つい見てしまう」「つい触れたくなってしまう」ような、非言語な「よさ」を観測し、そこから要素還元的に表現を導き出す手法だ。

それは例えば、赤ちゃん向けの玩具のロングセラーである「やりたい放題」になぜ子供は夢中になるのか?

やりたい放題ビッグ版リアルプラス
子供の観察から採取された、官能性の高いインターフェイスが標本化されている。Macintoshが発表された当時、Susan Kareがデザインしたコントロールパネル※17が「まるで赤ちゃん用のおもちゃ(Crib Toy)のようだ」と評されたというエピソードは興味深い

あるいは、ハンドスピナーといったフィジェットトイが、なぜあれほど大流行したのか?

12 Top Fidget Toys For Stress
Satisfyingな感覚が得られる様々な機構が見事に標本化されている

といった問いについて考えを巡らせることから始まる。

前述の「Oddly Satisfying Videoについての覚え書※18」の中で、アメリカの科学誌『Discover』のOddly Satisfying Videoのメカニズムについての考察として書かれた以下の文章について触れた。

どうやらOddly Satisfying Videoは、心理学者が“Just right feeling”(まさにぴったり感)と呼ぶ、潜在的な感覚に関与しているようです。“Just right feeling”とは、我々が物事を整理したときに発生する感覚で、人が「ある作業が完了した」ということを認識させるために生じる感覚とされていますが、強迫性障害(OCD)の患者の多くは、この感覚をうまく感じれないことがあります。この“Just right feeling”を感じ取ることができないため、「作業が完了した」と認識することができず、「作業が完了した」ということを認識するために無駄な作業を繰り返してしまう。それが、場所の配置を延々調整しつづけたり、ドアに鍵をかけたかずっと確認したり、延々掃除をしつづけてしまうというといった行動に現れるのです。(著者翻訳)※19

UIの視点から、この“Just right feeling”について考えると、とにかくユーザーの操作に対して都度都度フィードバックを提供することが重要ということになる。実際、Material DesignやFluid Interfacesでは、ユーザーのインタラクションに対してリアルタイムに応答する(つまり単なるトリガーではなく、しっかり指の動きなどにマテリアルが追随して動く、途中で指を元の場所に戻せばキャンセルすることができる)ことが推奨されている※20。これにより、操作対象のマテリアルに対するユーザーの自己帰属感が高まるとともに、ユーザーが操作を完了した際に、マテリアルが特定の場所に固定されたり、ドロップシャドウが無くなることによって「下のレイヤーに落ちた/同化した」かのような視覚的フィードバックを行うことによって、任意の作業が完了した“Just right feeling”を演出することができる、というわけだ。

しかし、フィジェットトイや、メカニカルキーボードといったフィジカルなインターフェイスの操作がやみつきになる感覚を思い起こしてみると、“Just right feeling”を感じさせるためのフィードバックは視覚情報だけではなく、より複雑な感覚が組み合わされたものであることに気付く。

ボタンを押し込んだ時の反発感、アクチュエーションポイントを超えた時のスッと抵抗が無くなる感覚、ボタンが底打ちする時の音、ダイアルを回す時に感じるかすかな抵抗、パーツが擦れる音、特定の箇所にダイアルが固定される時に抵抗が強くなる感覚など、視覚情報、聴覚情報、触覚情報などの複数のモダリティが組み合わさることによって心地よいフィードバックが複雑に組み合わさることで官能性が生まれている。

Marantz PM7200 – Knob Feel Review
2013年から断続的に主にハイファイオーディオ機器のコントロールノブの操作感をレビュー(?)しているKnob Feel※21によるMarantzのプリメインアンプのコントロールノブのレビュー。実際に触れることはできないものの、動きと音によってノブの重さや感触の雰囲気が伝わってくる

TOP 7 BEST-SOUNDING keyboard switches of all time
膨大なキーボードコレクションを所有するYouTuber、Chyrosran22※22による「音が良いキースイッチ」を紹介する動画

つまり、今後さらにUIの官能性を高めていくためには、ルックやアニメーションといった視覚情報のデザインだけではなく、触覚や聴覚も含めた、マルチモーダルなデザインアプローチが必要となるということだ。

といっても、人間の感覚のうち、味覚、嗅覚については、まだ決定的な入出力デバイスが無いことから、まずは視覚以外の触覚と聴覚から考えるのが現実的だろう。

触覚については、スマートフォンでは最近の機種には触覚フィードバックを行うためのアクチュエーターが搭載されており、画面上のボタンを押した時やホイールを回した時に存在しないボタンの「カタカタ」という微細な触覚を再現するようになった。OS側でも触覚フィードバックのためのAPI※23※24が整備され、積極的な活用が推奨されている。しかし、触覚フィードバックは特殊なデバイスが必要であることから、スマートフォン以外のPCなどでの再現が難しいという課題がある。

Taptic Engines and Vibration Motors – How do they work?!

聴覚についてはどうか。スピーカーはどのようなデバイスにもほぼ付属しているので、音によるフィードバックのデザインは感触よりもデザインしやすいはずだ。また、SiriやAlexa、Google Assistantといった音声インターフェイスも広まり、注目度の高い領域であるといえるだろう。

では、聴覚メディアに注目し、UIの官能性を高めるためにはどのようなアプローチが考えられるだろうか?次章では、筆者が監修を行うUIと連動する音声によるUIの官能性の強化を目指すプロジェクト“SND”について紹介する。

音でUIに官能性を付与するためのツールキット“SND”

前章まで、UIの歴史を振り返りながら、ユーザビリティ向上の鍵となる、ユーザーのインタラクションを誘発する「UIの官能性」というコンセプトを提案した。そして、UIの官能性を高めるためのフィードバック手法としての聴覚メディアの可能性について論じた。本章では、音によるUIの官能性を高めるためのツールキットとして、筆者が所属するDentsu Lab Tokyo※25にて制作・公開したUIサウンドアセット集“SND※26”について紹介する。

SND

“SND”は主にUI/UXデザイナーを対象にしたウェブサイトで、様々なUIコンポーネントに、音によるフィードバックを加えることで「UIの官能性」を高めることや、インタラクションデザイン領域におけるサウンドデザインの議論が活性化することを期待し、高品質なサウンドアセットをフリーライセンスで配布している※27

現在、筆者による、正弦波のみでデザインした“sine”、音楽家・谷口彩子※28氏によるグランドピアノの音だけでデザインした“piano”、工場音楽レーベル・INDUSTRIAL JP※29による日本中の町工場で採取された製造機械の音で構成された“industrial”の3つのサウンドアセットが公開されている。

サイトでは、まさに先に触れた、赤ちゃん向け玩具「やりたい放題」のように、思わず触れたくなるようなUIコンポーネントを並べ、それぞれに触れることで、音による「手触り」が変わる様を体験できるようにした。

同じUIコンポーネントでも、割り当ててある音が変わるだけで、UIの重さや軽さといった本来感じることがないはずの擬似的な手触りの変化が感じられるはずだ。UIのルックは変わらないが、例えば“sine”のアセットでは薄いゴムの皮膜のような質感を感じさせ、“piano”はもっと硬質な木のような質感、“industrial”ではUIの向こう側に存在しないはずの機械の動きを感じることができる。

“SND”はUIが官能性を獲得するために既存のUIコンポーネントにサウンドデザイナーがデザインした音を割り当てる、というシンプルな提案となっているが、UIと音についてより考えを発展させていく中で、UIにおける音を官能性だけで論じるのではなく、より機能性についても考えていく必要があると考えている※30

Mac OS 9: Platinum Sounds
既存のUIに音を割り当てるという試みでいうと、Mac OS 8.5 – 9.2.2に採用されていたPlatinum Soundsという例がある。当時のMac OSのUIデザイン言語であるPlatinum Designのルックや挙動にあわせた50以上の音で構成されていた

聴覚メディアによるUI拡張の展望

“SND”は音によるUIの官能性の向上を目指して始めた取り組みだが、そもそもUIにおける聴覚メディアの活用の歴史は古く、機能性について多くの議論が行われてきた。本稿の最終章として、「聴覚ディスプレイ」研究における、重要な研究を参照しながら、音によるUIの拡張の展望について考えてみたい。

1980年代後半、GUIのように視覚メディアに依存度の高い情報提示手法に対して、音響情報を活用した情報提示手法を考える聴覚ディスプレイ(Auditory Display)研究と呼ばれる研究分野が生まれている。この研究分野には、データを音に変換することによって音響情報によって情報を伝える“Sonification”(多くは医療の現場などで導入されている。心拍のパルスを音で鳴らすのもSonificationの例といえる)や、特定の操作に音を割り当てることで、ディスプレイなどに頼らずに機器の操作などをサポートする“Auditory User Interface(AUI)※31”といった研究が含まれる。

AUIの研究の背景としては、PCとともにGUIが社会実装されはじめたが、 GUIはスクリーンが大きな機器にとっては有効だが、携帯電話などの小型の情報機器ではその形状や利用形態によって視覚メディアのみで情報を提示するには限界があることが予想された。そこで音響メディアの利用を前提としたインターフェイスとして、AUIが注目されはじめたという経緯がある。ただし、AUIはコミュニケーションの全てを音響メディアで行うことを目指しているわけではなく、視覚メディアと音響メディア、それぞれの特性を効果的に生かしたマルチモーダルなインターフェイスの構築を目指しているといえる。

音でUIを拡張することを目指した“SND”の活動ともつながるAUI研究の中でも特に重要な二つの考え方を紹介したい。

一つはMeera Blattnerらによる“Earcon※32”である。(GUIにおけるアイコンのAUI版ということでイヤコン、というわけだ)Earconとは、音の音程、音色、リズムといった音の記号的な情報をパラメトリックに操作することによって、様々な状態をユーザーに音で伝えることができるというアイデアである。

Earcons and icons例えば「タッタタ」というリズムの音がエラーを表すとして、この3つの音が低い音から高い音に上がる音の場合は、システム側のエラー、高い音から低い音に下がる場合はプログラム側のエラー、さらにそれぞれの音色の種類によってそのエラーの原因を表すというように、ルールに基づいて音をパラメトリックに鳴らすことで、音の中に様々な情報をユーザーが認識可能な範囲で重畳させることができる※33

Earconは、現在では主に視覚障害者向けのアシスト機能として活用されている。以下の動画のように、操作に対してどのような操作がされたかをEarconでフィードバックし、ファイル名などは音声によってフィードバックするといったUXが提供されている。

Earcons

このように、Earconは、システマチックに拡張可能性を持たせることができる一方、聴取者がどのような音の特性がどのような情報を伝えているのか、というルールを学習しなければならないといというハードルがあった。

同時期に、Bill Gaverによる“Auditory Icon”の考え方が登場する。Auditory IconはEarconと異なり、音を記号的に扱うのではなく、実世界の音や現象を模倣した表現を使うことで、音で伝達する情報を実世界の事象と対応づけるという、メタファーを利用するアプローチである※34

Earconが「ピピッ」というような、シグナル的な音を想定しているのに対し、ファイル削除する時には、「ビリビリ」と紙をやぶく音を鳴らしたり、ファイルを削除する時に、「シュワー」という音が徐々に小さくなるといった、より具象に寄った表現になっている。

GaverがAuditory Iconのアイデアをベースに、Apple在職中に開発したのが“SonicFinder※35”である。これはMacintoshのGUIである”Finder”の拡張機能として動作するもので、ファイルの選択・ドラッグ・コピー、フォルダの開閉、ウィンドウの選択・スクロール・サイズ変更、ファイルをゴミ箱へ捨てる、ゴミ箱を空にするといった様々な操作に対して割り当てられた音が鳴る、というものであった。

SonicFinderがユニークなのは、それぞれのイベントにただ装飾的に音が割り当てられているのではなく、選択したファイルの容量や、スクロールの量、プロセスの進捗に応じて音のピッチが変わるというように、対象の属性に応じて音をパラメトリカルに変化させることによって、より多くの情報を音に重畳しようとしている点にある。

この音への情報の重畳のアプローチがBlattnerのEarconとの大きな違いである。Earconの場合は、各シグナルの意味をユーザーが学習しなければその情報を読み取ることができないが、Auditory Iconの場合は、例えば、ポットの中に水を入れる時、ポットの中を覗かなくても、水がポットに溜まっていく「トポトポトポ……」という音の高さで、我々は無意識のうちにポットの中の水の量を把握することができたり、目をつぶったままでも手を叩いて耳をすますことで自分がいる空間の広さを感じることができるような、人間が日常の中で無意識に学習している聴覚認知のメカニズムを利用しているため、よりユーザーが直感的にステータスを理解できるというわけだ。ただし、メタファーを利用している以上、インターフェイス上での様々な情報に適切なメタファーを見つけることが難しいという課題がある※36

EarconやAuditory Iconに代表されるような聴覚的なアイコンは、一見するとGUI上に展開される視覚的な事象を音で装飾するサウンドエフェクトのようなものと捉えられがちだが、実際は極めて本質的なインタラクションデザインへの示唆が含まれている。

昨今音声インターフェイスというと、合成音声をベースにしたバーバルなインターフェイスが前提となっているが、EarconやAuditory Iconは非音声を前提にしている点がユニークだ。ドアをノックする音でドアの向こう側にいる人を推測したり、揺れる木々の音から風の強さを感じとったり、我々が日常の中で行っているのと同じように、ユーザーが「コンピューターの音に耳を傾ける」ことができるような、新しい形のインターフェイスを指向したアイデアといえる。

SonicFinderが発表された1987年当時に比べると、現在は扱うことができるファイル容量は飛躍的に増加しており、またリアルタイム音響処理技術の進化で、より複雑な音をパラメトリカルに生成可能になっていることから、これらのコンセプトはより自然な形で我々が日常的に扱うUIの中に扱うことができる可能性がある。例えばプログラムを実行する時のリターンキーを押下する際、エラーの行数や深度によって鳴る音が変化する、通信内容がかすかな音で可聴化されており、不正アクセスなど、異常な通信が発生した時に音の変化で分かる、といった具合だ。

AUI領域の理論的アプローチと、感性的なサウンドデザインの交差点。そこに、機能と官能が両立する、マルチモーダルなユーザーインターフェイスが実現するのではないかと考えている。

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