夢の終わり

2019年11月のブラックマウンテン訪問から、もう1年も経ってしまった。これを書いているのは2020年の11月半ばである。本来であれば今ごろ4度目のアッシュビルから戻り、第6回の執筆にかかっているところだが、コロナ禍でそれも叶わなかった。

前回訪問の目的は、主に1948年から52年にかけての夏期美術講座について調べることにあった。ジョン・ケージとマース・カニンガムが初めてBMCを訪れた48年から、ハプニングのはじまりとして名高い「シアターピース No.1」が行なわれた52年までのことだ。その間、バックミンスター・フラーのドーム建設があり、ルース・アサワやアーサー・ペン、ロバート・ラウシェンバーグ、サイ・トゥオンブリー※1らが入学し、デ・クーニング夫妻やM.C.リチャーズ、ビューモント・ニューホル、ベン・シャーン※2らが教鞭をとった。美術史的にはもっとも実りの多い、その5年間を重点的に調べたかった。

そして、もうひとつ目的があった。エデン湖キャンパス全体を見て回ることである。2019年の春ごろだっただろうか、BMCの調べものでノースキャロライナ州のサイトを検索しているとき、たまたまキャンパスの完成後と思われる地図をみつけた。略地図ではあったが、おおよその場所はわかる。そこで、実際に歩いて確かめてみたいと思ったのだ。

エデン湖キャンパスを歩く

夏期講座が実現したのは、エデン湖の土地を得ることができたからである。ブルーリッジのYMCAは夏の期間明け渡さねばならず、長い夏休みをつくるしかなかった。新キャンパスの地として見つけたエデン湖畔の土地はもともと避暑のための別荘であり、そこにスタディ棟をDIYで建てたことは第3回で述べたとおりだ。もともとあったコテージがあり、さらにその間を埋めるようにして新しい小屋が建てられた。

NCアーカイヴズで写真を見ていると小さなインターナショナルスタイルの建物がいくつかあり面白い。資料に残っているローレンス・コーチャーのスケッチにはロッジ風のものとインターナショナルスタイルのものとがあるが、写真のそれらはコーチャー退任後に学生たちが自主的に建てたもののようだ。コーチャーのスケッチよりかなり小さい。スタディ棟を建てたときの経験が生きたのだろうが、DIY建築に堅牢性はなかった。山小屋風の建物は今も残るが、ミニ・インターナショナルスタイルのものはどれも残っていない。

[図1-1]上:印刷ワークショップのためのロッジ(地図22)。下:インターナショナルスタイルのミニマムハウス(地図26)。学生有志による設計と建築。1947年に評議委員会の承認がおり、48年に完成した

[図1-2]サイエンス棟(地図に記載なし)。学生だったポール・ウィリアムスが設計し、1949年から53年にかけて断続的に建築した。ウィリアムスはエデン湖キャンパス建設のために、BMCに多額の寄付や融資を行なっている

アッシュビルについて週が明けた月曜日、すぐにリッチモントキャンプの事務所を訪ねた。窓口になってくれているレベッカと再会を喜び、もう一度スタディ棟の中を撮影させてもらってから外に出た。

iPadに表示した地図を確かめる。地図には、古い建物(Old Building)と新しい建物(New Building)の凡例があるが、今となっては全てが古い建物なので見た目ではほとんど区別がつかない。とにかくスタディ棟を出発点として、地図のとおりに歩いてみることにした。黄色にマークしたところは、当時のものかどうかは別にして、とりあえず確認できた建物である。

[図2]North Carolina Digital Collectionサイトで見つけた地図。マークとメモは筆者

スタディ棟(15)の北に作られた階段を登ると16から19の建物がある。どれも凡例ではOld Buildingだ。Governmentは管理棟と訳していいのだろうか、全て同じような山小屋である。19のコの字型の建物はトイレに改装されており、周囲の建物には新しい番号が振ってあった(図に朱書きしているもの)。そのさらに上には地図にない建物があり、それを西に向かって坂を下ると道にでる。少し脇に入ったところに印刷ワークショップのためのロッジ(22、図2−1上)、少し歩いて右側にはジャロウィッツハウス※3(24)と呼ばれる建物がある。両方ともNew Buildingだが、当時につくられたものはもうなく、建て替えられたロッジがあった。

建物を見ているうちに基礎の作り方がいくつかあることに気がついた。たぶん作られた時期の違いによると思われるが、残念ながらそれがわかるほど建築の知識がない。

[図3-1]スタディ棟の背後の崖を登る階段。地図には赤線でメモ(≡)

[図3-2]現在は棟番号33のロッジ(地図18)。Old Buildingはほとんどこのようなロッジで所々に補修の跡がある。元のものを改修して使い続けているのか、建て替え後にさらに改修したのかはわからない

[図3-3]18からさらに上の坂道。山側の雰囲気はだいたいこんな感じ

[図3-4]トイレに改修されたOld Building(19)

[図3-5]山側ロッジのテラスから見たエデン湖。樹が育っているので当時はもっと良く湖が見えたと思われるが、基本的に風景は変わっていないはずだ

さらに道を北に上っていく。あるところからキャンプ場ではなくなりプライベートエリアになるが、それとなく入っていく。途中、犬の散歩をする人に出会う。おおらかなもので“Hello”のひと言で済んでしまった。歩いていくと24番の建屋があり、中を覗くと机や椅子が積まれ、教室として使われていたようにもみえる。さらに上った丘の上には写真で見慣れた家畜小屋(30)や納屋(31)があるはずだったが、そこにはもう何もなく、柵で囲まれた広場になっていた。

[図4-1]地図の一番左の二股の分かれ道。ここまでがロックモンドキャンプだと思われる。標識にはPRIVATE ROADとあるが、この道を登ったところにあった牧場まで行ってみることにした

[図4-2]坂を登り切ったところにある広場(空き地?)。フェンスの向こうが元牧場

[図4-3]広場の突き当たり、一番奥にある木製の柵。これはどうもBMC当時からあるもののようだ

[図4-4]31の納屋。向こうに見える柵が上の写真と同じものであることに注目

坂を下ってエデン湖に戻る。THE GROVEのプレートが掲げられたロッジ(12)を左手に見ながら、さまざまなドラマがあったダイニングルーム(3)で休憩し(ケージはBMCの教育は主にダイニングで行なわれていたと述懐している)、南に下る。ストーンハウス(4)だけがはっきりとわかる石造りの建物で、あとは、同じ場所に建物があったというだけの確認でしかなかった。エントランスの位置は変わらず、ゲートハウス(1)もこの場所にあった。それより南へは工事で行けなかったが、立方体の音楽室(10)が残っていれば見たかった。その向こうは農場のあったあたりで特別な収穫はなかっただろう。

坂を上ったり下ったりして1時間強といったところだろうか。これが、エデン湖キャンパス全体を歩いたおおよそである。

[図5-1]THE GROVE のプレートがかかるロッジ(12)。New Building。石積みから見て、これは当時立てたままではないか。もちろん補修はされているだろう

[図5-2-1]ダイニングルームの全景(3)

[図5-2-2]ダイニングルーム入口。EDEN HALLのプレートがかかる

[図5-2-3]ダイニングルーム内部。鍵が開いていたので初めて入ることができた。食事を摂るのは中よりテラスの方が人気だったようだ

[図5-3]石造りのストーンハウス。そのまま残っている

[図5-4]入口にあるゲートハウス。守衛所といったところ。これも大きくは変わっていないだろう

[図5-5]ゲートの様子。右のキャンプのサインの位置にBMCのプレートがかかっていた(第2回[図3]参照)。手前の黄色いラインの道がNorth Fork Road

ドレイアー、そしてアルバースの退任

先に書いたように、昨年の渡米は1948年から52年にかけての調査が主な目的だった。その間に多くの芸術的成果があったことも先に述べた通りだが、もうひとつ重要な出来事があった。BMCの美術教育を主導してきたジョセフ・アルバースの退任である。

アルバースの退任理由は、教育的なことより運営的な問題、主に学内でのイデオロギーの対立にあったとされている。アルバース自身も1965年のインタビュー※4で、「学校の失敗、継続できなかった要因は?」という質問にこう答えている。

それは、基本的な態度を変えた結果だ。最初のころはとても刺激的な状況だった。なぜなら、私たちの多くが亡命者だったから。私たちはポケットマネー程度の給料しかもらっていなかった。しかしのちに、人類の学問の中で私たちがもっとも恐れていた経済学の流行がやって来た。……誰もが同じ権利を持ち、誰もが同じ社会的機能を持っている。……しかし、人の間には、精神的にも肉体的にも平等はない。見た目が違うように、私たちも違う。こんな平等な所有の理論では、世界の問題は何も解決しない。それが私の信念だ。彼らは経済学において、自分たちが有能だと考えていた。……それが摩擦を引き起こしたのだ。特に、創設メンバーだった同僚の一人に対してひどい扱いをする者がいた。私はあと数年は残る約束をしていた。でも、辞めたんだ。1949年のことだ。何人かが一緒に辞めて、それがカレッジの「ダウン」だった。
Melvin Lane “Black Mountain College Sprouted Seeds”

ここで言っている「経済学(economics)」というのは、当時流行していたコミュニズム的な指向を指しているのだろうか。いずれにしてもよほど腹に据えかねることがあったのだろう。話しているうちに熱を帯びてくるのがわかる。

それは民主主義の誤解だった。民主主義では誰もが投票しなければならない。だから我々は会議をした。無限の会議。今日はYes、明日はNo。民主主義と呼ばれるものに吹き飛ばされて、不可能であることを証明しただけだった。……BMCは当たり前のことをしてきたんだ。しかし無能な人が多すぎて、有能な人が有能な役を演じている。それではまるでティーンエイジャーのスタイルだ。そのまま大人になったらそれこそ地獄だよ。

確かに成熟したヨーロッパからやってきた人たちにとって、アメリカはティーンエイジャーに見えたのかも知れない。このときの状況をフラーもインタビューで話している。

すべての教育機関で常に大きなものは財政問題だ。そして、テッドはより多くのお金を得るためにいつも外に出かけていた。……コミュニズムに対する当時の若者の関心は高まっていた。……テッドやアルバースについて話す方法を本当に知っている人に会ったことがない。私の非常に多くの友人が大恐慌の間にコミュニストになったので、私はそれについてとてもよく理解しているつもりだった。……アルバースは彼の絵と彼の美しい色の講義に夢中になっていた。テッド、この理想主義者は自治的な教育機関のアイデアを実行しようとしていた。……彼は本当に多くの、非常に理想的で美しい教育を行なった。
メアリー・エマ・ハリスによるインタビュー

アルバースのインタビューにある「創設メンバーだった同僚の一人」とフラーの「テッド」は、同一人物である。ライスとアルバースに並ぶ第三の人物、テッド(セオドール)・ドレイアーのことだ。

テッド・ドレイアーは、ライスと行動を共にしてフロリダのロリンズ大学を退職したBMC設立メンバーのひとりである。それだけではない。ライスをフォローしてBMC設立へと導き、開校準備からブルーリッジYMCAの貸借、エデン湖キャンパスの購入、スタディ棟の建設など、BMCの運営と経済を一手に担ってきた、まさにBMCを経営する中心人物だった。あまり表には出てこない彼の話をわかるかぎりで書いてみたい。

ドレイアーについてのまとまった記述は驚くほど少ない。断片的に拾うことはできるが、二次情報、三次情報で憶測に過ぎないものもある。本人のインタビューが先のアルバース同様、『Black Mountain College Sprouted Seeds』に掲載されている。そこでは、BMC設立時の資金調達やエデン湖移転時の苦労、またスタディ棟建設のいきさつが話されているが、本当の心の内は話はしていないように思う。しかし、本人の言葉として引いておきたい。

BMCは1933年9月に開校した。しかし、7月にはまだ財政計画はなかった。ライスは、ロリンズ大学の学生の父親から個人的に1,000ドルの贈与を受けた。その学生は、私たちが新しい大学を始めることに成功した場合、家族といっしょに夏を過すため、そして大学を組織するために、私たちと行動を共にしたいと考えていた。……しかし、計画も予算も立たなかった。ライスと私は、スワースモア大学のアイデロット学長(ライスの義理の兄弟)の家で会い、これからどのように進むべきかを相談した。私は、資金不足を最も懸念していたのだ。……アイデロッテはライスに私を会計係に立てた方が良いと提案した。とにかく私は、一晩かけて予算を立てるために滞在した。……15,000ドルを支払う15人の学生がいて、さらに15,000ドルの現金または引受があれば、1年間30,000ドルで走ることができる。新しい大学を公けにする前に、これらの最低条件を満たさなければならなかった。

これが、BMC開設のためのリアルなストーリーだ。ライスやアルバースの話ばかりが表に出るが、実は裏ではこういった苦労が続いていた。それは、学校が軌道に乗ってからも同じだった。

教員の給与については何も保証されていなかった。教員の給与は、15人以上の学生が来た場合にのみ配給された。来たいと言った学生は大勢いたが、自分でコミットしたいと思っていたのは実際には3人か4人だけだった。

アルバース招聘を実現させたのもドレイアーだったし、第二次大戦の危機を乗り越えられたのもドレイアーあってのことだ。エデン湖キャンパスも彼の努力で手に入った。グロピウスに校舎建築を依頼したのも、MoMAでのプレゼンテーションをお膳立てしたのも彼だった。

……地元のエデン湖として知られている700エーカーのサマーホテルを購入し、そこに理想的な大学キャンパスを設計するためにグロピウスとブロイヤーに新しい建築を依頼した(私たちは二人と仲良しだった。ドイツの元バウハウスの創始者であるグロピウスは、そのときハーバードの建築学科の部長であり、同じくバウハウスのブロイアーはグロピウスの新しい教授陣の一人だった)。図面が作成され、建築モデルがつくられ、フォトモンタージュで建築後を示す写真を公開した。……モデルはニューヨークの近代美術館に展示され、そこには数百万ドル(大恐慌の時代にはとても大きな金額だ)の資金集めキャンペーンを開始する機能があった。新しいBMCを構築するためのキャンパスがそこにあったのだ。

たぶん1932年のMoMAでの展覧会《モダン・アーキテクチャー展》のときに知り合ったのだろう、グロピウスとドレイアーはBMC以前から親交があったようだ。

「1948年と49年、その二つの夏の間に、私が本当にとても親密になった人が何人かいた。彼らがブラックマウンテンの本質(essence)だったんだ」そう前置きして、フラーはドレイアーについて語っている。

ブラックマウンテンカレッジの歴史についての私の見解を聞いてほしい。それはフロリダのロリンズ大学の教授とその他の教授たちから始まる。ロリンズカレッジは非常に裕福な大学であり……

ひとくさり、ロリンズ大での悶着の説明をしたあと、ドレイアーに話が移る。

そして、(ロリンズ大の)教授たちのリーダー、彼自身が去った——彼の名前はライスだ——。それ(新たな学校の設立)を実行に移す並外れた能力を持つ誰かがいなければ、彼がいくら野心を持っていてもどうすることもできなかっただろう。そして、それを実装したのがセオドール・ドレイアーだった。
ドレイアーの5人の兄弟姉妹は、20年代にそれぞれ100万ドルを相続した。テッドは理想主義者だったから、お金を引き継ぐのは間違っていると感じそれを拒否した。彼のお金はほかの兄弟たちに分配された。彼らはブルックリンのコロンビアハイツ出身だった。私の妻も何世代にもわたってコロンビアハイツにいたので、テッド・ドレイアーのことをよく知っていたんだ。テッドは理想主義者であるだけでなく、エンジニアであり科学者でもあった。彼はMITに行っていたんだ。彼の妹のキャサリン・ドレイアーは——おそらく彼のお金の一部を使って——20年代を代表するモダンアートの収集家の一人になった。キャサリンはカンディンスキーたちのコレクターの最初の人だ。彼女はアーティストの非常に活発な後援者だった。……とにかく、私はこのテッド・ドレイアーのことを知りたかった。

フラーによると彼の妻君とドレイアー一族は同郷で、よく知る間柄だったらしい。しかし、フラーが妹として紹介しているキャサリン・ドレイアーは実は叔母であることがインタビュー原稿に注釈として書き足されている。誰が書いたものかはわからない(あとからエマ・ハリスが加えたのかもしれない)。このようにフラーの記憶がどこまで正しいのかは疑問だが、ドレイアーは裕福な環境の下で十分な教育を受け、身内に名の知れた美術コレクターがいて、アメリカやヨーロッパの美術界、ひいてはバウハウスとも関係があったことがわかる。

そういうことを知って初めて、なぜBMCの設立前からMoMAと関係が持ててアルバースを招聘できたのか、YMCAに間借りできたのか、そして、まがりなりにも運営できるだけの資金調達ができたのか、などの疑問が解けてくる。

彼らはフロリダからノースカロライナの西部に移動した。それがブラックマウンテンだ。美しい山里、アメリカ合衆国のはじまりのころからあった信仰心の厚い地域、そして多くの宗教上の会合が行われてきた、まさにキャンプが集まった場所だ。……そのような地域にはとても貧しい人々が住んでいた。しかし、丘にはとても豊かな土地があり、お金持ちもたくさんいたんだ。……そしてドレイアーは、その地域に、YWCAやYMCAなどの北部の機関が、夏の休暇に大勢の子供たちが集まるための独自の場所を建設したことを知った。……テッドはとても大きなホテルをとても安くで借りることができて、彼とフロリダの教授たちはそこに引っ越した。その後、彼は湖の周りに開発された土地を見つけた……そして、テッドはその地所も購入することができた。……大恐慌のあとであり、誰もお金を持っていなかったが、それは物理的な意味でのブラックマウンテンの創立だった。そう、テッドはいつも舞台裏にいたんだ。

裏方に徹して決して表に出ようとしなかったドレイアーだが、火中の栗を拾う心境だったのだろう、スキャンダルでカレッジを去ったボブ・ウンシュに代わって、1945年11月から46年の春学期が終わるまでのあいだ学長(レクター)を務めている(46–47年度も再選されたという記述もあるが、現存するBMCの議事録では明らかにはなっていない)。そんな彼が、なぜBMCを追われなければならなかったのか。インタビューでフラーはBMCの内実に関して(多少主観的なところはあるとはいえ)かなり詳しく語っている。

テッドとアルバースを最後に見たのはその夏のことだと思う。……テッドはより多くのお金を得るために絶えず出かけていた。……しかし時はマッカーシー※5の(赤狩りの)時代で、コミュニズムに対する若者の関心は高まっていた。学生たちは心理学にひどく興味を持つようになり、テッドとほかの評議員たちを説得して心理学者のリヴァイ※6を招聘した。彼は最終的に学内に多大な力を持つようになった。……やがてリヴァイは学生の一人と結婚した。

この話にインタヴュアーのエマ・ハリスは「ホント?(really?)」と応えている。結婚相手はM.C.リチャーズで、彼女はのちに陶芸の学生としてBMCに戻ってくるが、この時点では「Reading and Writing」を担当する教員で学生ではない。これもフラーの勘違いと思われる。

M.C.リチャーズは、40年代後半から50年代初頭にかけてのBMC(つまりBMCの動乱期)に欠かすことのできない人物だ。48年にケージの「メデューサの罠」の翻訳を担当し、その後もケージやカニンガムと交流を深めつつ、もともと文学の人ということもあってオルソンやロバート・クリーリーとも親交を持った。48年には印刷工房で学生とともに「ブラックマウンテンプレス」を設立したが、彼女たちが刊行した『ブラックマウンテンカレッジ・レビュー』は1951年6月発行の1号だけで終わっている。51年には教職を退き、NYに移ってケージやラウシェンバーグらと行動を共にし、52年夏、再びBMCでケージの「シアターピース No.1」に参加する。53年には学生としてBMCに戻り、陶芸と詩作で注目されるようになった。

47年秋にドレイアーのあとの学長に就任したリヴァイは学生を扇動し、学生や一部の教員がコミュニズムにのめり込んで、資金集めに奔走するドレイアーをキャピタリストだと糾弾した──とフラーは述べている。しかし、記憶は曖昧なものだろう。アルバースのインタビューも加味すると、コミュニズム的な傾向と民主的なプロセスとが混ざり合って起きたアジテーションのようなものだったと思える。

どうであれ、バウハウスでもデッサウ時代の学長であったハンネス・マイヤーがコミュニストであることを公言して学生を組織したため当局に目をつけられ、政治色を払拭しようとベルリンに移転したものの、時を同じくして政権を取ったナチスの圧力は収まらず、結局閉鎖に追い込まれた経験を持つアルバースにとっては、まさにデジャヴュだったに違いない(実際にFBIがBMCを捜査していた記録が残っている)。アルバースはリヴァイのあと48年秋から49年春まで実質半年だけ学長を務め※7、ドレイアーとともにBMCを去った。

このことについて、フラーは「彼とアルバースは本当に大きな痛みにだまされていた」と言い、アルバース本人は「カレッジのダウンだった」と述べている。しかし、マーティン・デュバーマンの『Black Mountain: an Exploration in Community※8』には、少し違う面からこのことが書かれている。

もうひとつの退任譚

戦争が終わった1年後の1946年9月、BMCは92人(男性49人、女性43人、うち10人がGI法案を利用してやってきた退役軍人)というかつてない数の学生を迎える※9。学習は実際の経験を通じて最も効果的に達成されると考え、デューイ流の進歩的教育をさらに推し進めたかたちで実践していたBMCにとって、急激に増えた学生に対応するのは大変なことだった。

これまでのリベラルアーツプログラムを拡充するためには、少なくとも30人の教員が必要だった。もちろんかなりの予算が必要になる。学生と教員は共同生活を営み、経費節減もあって自給自足を目指して農場と牧場を運営していたが、それもとうてい追いつかなくなる。

それなら、BMCにおける体験学習の中心で、最もよく知られている芸術分野に注力すべきではないか。夏の音楽講座や美術講座には100人近い学生が集まる。そこにクラフトや製本、印刷、そして建築や農業も含めて、これまで蓄積してきた知見を注ぎ込めば、既存の一方的な美術や音楽の学校ではない新しい形態の学校ができるのではないか。そう考えたアルバースとドレイアーは芸術学部の設立を提案した。そして、その名称を「Black Mountain College of the Arts」として、芸術学部だけに用いる(校名は変更しない)ことで、合意がとれるところまでは漕ぎつけていた。

先ほど「デューイ流」と書いたが、BMCはライスからカレッジの組織原則と芸術に重点を置いた体験学習の両方を受け継いでいる。その上で、後者を独立させることはなんとかできそうだった。しかし、アルバースらは前者にも手をつけようとした。

BMCは設立以来、教員と学生の代表で話し合う合議制をとっていた。President(学校長)すら存在しないことは前回にも書いたとおりだ。外部にはジョン・デューイはじめ、ワルター・グロピウスやアルバート・アインシュタイン※10らが名を連ねる諮問委員会が設置されていたが、権限は何も持っていなかった。教員と1人の学生で構成される評議委員会(Board of Fellows)が唯一の統治機関だった。BMCは、学生と教職員が住まいと食事をともにし、ともに学び、働き、交流し、創造する、小規模で実験的かつ経験的な大学コミュニティとして自治され、教員と学生によって所有および運営されている——それがカレッジの自負であり、大前提だったのだ。

しかし経営の安定を理由に、アルバースとドレイアーは新たな理事会の導入を提案した。アルバースは、9人の評議員(6人の学外者と3人の教職員)で構成される委員会を設立しようと考えていた。ドレイアーはそれに対し「委員会は、富を求めるアイデアではなく、カレッジが何をしているのかを理解するためにつくる。私たちが自信を持って推薦した人々と計画されたプログラムを信じることだ」と援護をした。それはBMCのメンバーにとって受け入れがたいことで、反発は火を見るより明らかだった。

アルバースは、「芸術家が総合的な教育を受けることができる場所」あるいは「経験するだけではなくカリキュラムの中心にある芸術の専門家を育てる場所」の実現で満足し、BMCの運営に意見できる学外評議員の招聘まで言う必要はなかったのかも知れない。彼がそれを遂行しようとしたのは、ヨーロッパからの亡命者がアメリカで発言権を持ちはじめたことが背景にあったのか、あるいはその逆で、いつまでも亡命者でしかあり得ないことに業を煮やしたのか。いずれにせよ、バウハウスでなし得なかった理想の美術学校の夢はここで潰えた。

ドレイアーについてはもう少し複雑だ。ドレイアーは経済的にBMCを支えていた結果、それがためにBMCを追われることになった。これについてはいろんな記述があるが、本当のところはよくわからない。

ドレイアーの扱いに対する抗議から、アルバース、トルード・ゲルモンプレズ、シャーロット・シュレシンジャーが辞任した(そしてグロピウスはすぐに諮問委員会から辞任した)。アルバース ─ ドレイアー政権に対する反逆は秋を通して構築されていた。……ドレイアーがブラックマウンテンをあきらめて閉鎖するつもりだという噂が広まり始めたとき、あるいは、将来の管財人から新しい「Black Mountain College of the Arts」を率いるように頼まれたという噂が広まり始めたとき、不満は頂点に達した。
Martin Duberman “Black Mountain: an Exploration in Community”

このあたりが、そうだったのかなと思えるところだ。ドレイアーは、ライスの描いたリベラルアーツ教育を諦めて、ニーズのある芸術教育に移行しなければ経営的にBMCの将来はないと考えていたのだろう。そしてそれを実行しようとしたのだ。

戦後の状況やその後の社会変化を知っている我々からすれば、彼の判断は理解できる。しかし、(たとえアルバースの言うように青臭い考えだとしても)ユートピアとしてのカレッジコミュニティも否定したくはない。仮にアートスクールに鞍替えしていれば、アートやデザインに特化した(バウハウス型の)美術教育はできても、その後のハプニングに代表されるような新しい(アメリカ美術的な)運動やブラックマウンテン派の詩人に代表される文芸活動などを生むことはなかっただろう。その後現れてくる対抗文化やコンピュータカルチャーにまで繋ぐことができたかどうか。新しい文化の芽が美術の内側に取り込まれていったであろうことは想像に難くない。

結果として、ドレイアーとアルバースはBMCを去った。ドレイアーの長い経理責任者としての、そしてアルバースの芸術部門責任者としての、プレッシャーもここに解き放たれることになった。BMCから解放されたあと、アルバースはイェール大学に移り、その後の活躍は周知のとおりである。ドレイアーは、1950年から62年までGE(General Electric Co.)で働き、最初の原子力潜水艦を駆動する電源を開発するプロジェクトに参画、のちにノウルズ原子力研究所の課長を務めた。

これによって「ライス、アルバース、ドレイアーのBMCが終わった」とデュバーマンは書いている。しかしこの騒動は、この時代特有のイデオロギー対立の一面があったにせよ、アメリカ的な(特にデューイ的な)プラグマティズムと第一次大戦後の西欧(主にドイツ)文化や思想との軋轢の帰結だと総括できる。ドレイアーはその間に立って理想論者として働いたが、結局のところ疲弊し、あきらめたのだと思う。アニ・アルバースは、「絶え間ない緊張、プライバシーの絶え間ない欠如、お金の絶え間ない欠乏、そしてあなたたちが持っていたのと同じ投票権を持つことによるすべての教員との絶え間ない摩擦、それらによって疲れ果てた」という言葉を残している。

そして1949年の夏を待たずして、フロリダ・ロリンズ大からやってきたすべての教員がBMCを去った。ドレイアーは最後に最善を尽くし、「カレッジの友人」にと長い謄写版の会計報告を書いた。彼は個人的な確執と苦い記憶を押し戻し、こう語っている。「ブラックマウンテンは15年間素晴らしい場所だった。私たちはいくつかの新しい道を切り開いたのだ」。

エデン湖とダウンタウンでの出来事

話をエデン湖に戻そう。かつてのキャンパスをひととおり巡ってスタディ棟に戻り、ピロティに腰掛けて気がついた。壁が立っている —— ピロティのスペースを区切るパーティションが立っていたのだ。キャンプに来る子供たちのためだろうか。コーチャーが考えた建物の端からクラフト室の石垣までを見渡せた空間は、そこにはもうなかった。来るのが1年遅かったらパーティションのある風景しか見ることができなかったし、それをスタディ棟だと思っていただろう。間に合って良かった。写真に収めながらそう思った。

そのピロティを象徴するフレスコ壁画※11の修復が始まったというニュースが、2020年の春に舞い込んできた。1946年にジーン・シャーロットが描いたものだ。保存修復家のクレイグ・クロフォードとマホ・ヨシカワが復元に取り組んでいるという。秋になって修復が完了したという投稿がFacebookにあった。写真もアップされており、ずいぶんきれいになっている。子どもたちに落書きされたりしてけっして良い保存状態とは言えなかったし、劣化も進んでいたので、長く残していくために修復は当然だろう。しかし、色が剥げ落ち壁が削れていたとしても、シャーロットのオリジナルを見ることができて良かった。こちらも間一髪で間に合った※12

[図6]手前が二つある壁画の片方「INSPIRATION」のオリジナル。左手奥に見えるのが新しく立ったパーティション。

週末、ブラックマウンテンのダウンタウンまで足を伸ばす。目的は二つあった。前回資料を買った本屋のオヤジさんの写真を撮りたかったことと、Song of the woodという楽器屋にもう一度行きたかったのだ。

2018年秋に訪れたとき、曲がり角にあったハンマーダルシマーと書かれた五線譜の看板が目に止まった。店に入ってみると、これまで見たことのない(強いていえばオートハープに共鳴用のボディをつけたような)美しい楽器が並んでいた。サイズは、ノートPCぐらいからコーヒーテーブルぐらいのものまで大小さまざまだ。カウンターではオーナーなのかお店番の人なのか、年配の女性がバチで弦をたたいて美しいメロディを弾いていた。「打弦楽器だからハンマーなのか…」その音色にしばらく聴き入っていた。

東京に帰って調べてみると、ハンマーダルシマーはペルシャに起源をもつ民族楽器だということがわかった。ピアノの祖先のひとつだそうだ。しかし、ブラックマウンテンで見たものとは少し違う。一方、マウンテンミュージックと呼ばれているアパラチア山脈に伝わる伝承音楽に使われる楽器の一つにアパラチアンダルシマー(マウンテンダルシマー)がある。膝に置いて弦をはじいて弾く、ルーツミュージックファンには馴染みのある撥弦楽器だ。ブラックマウンテンで見たダルシマーは、ペルシャ起源のものとアパラチア伝承のものとの中間のようなイメージだった。コロンコロンと鳴る美しい音をもう一度聴きたかったし、小ぶりのものを1台買って帰りたいと思っていたのだ。

アパラチア山脈はアメリカ音楽のルーツの地と言われており、なかでもブルーリッジは音楽が盛んな土地柄である。アッシュビルでは、1928年に始まったアメリカでもっとも古い伝承音楽のフェスティバル「マウンテン・ダンス&フォーク・フェスティバル」が毎年8月に開催されている。そういう場所でBMCはヨーロッパのクラシック音楽を教え、ケージの現代音楽を受け入れたのだ。「ブルーリッジにおけるBMCの音楽」というような文章もいつか書いてみたい気がする(ちなみにぼくはルーツミュージックのファンです)。

楽器屋は、旧駅舎からメインストリートに入る角の建物にある。そしてちょうどその角にハンマーダルシマーと書かれた看板があって、曲がるとライブのフライヤーが貼られたショーウィンドウがある……はずだったが、そこには違うメッセージがあった。Song of the Wood has Moved! —— 引っ越したんだ!たしかに前回来たときこの建物は売りに出されていた。そういえば隣の店も閉まっている。オーナーが変わって立ち退かざるを得なくなったのだろうか。貼紙には電話番号が書かれており、そこに電話すれば移転先を教えてくれるのだろう。番号の下にはAnd We’ll see you soon…とあった※13

[図7-1]Hammer Dulcimers と書かれた、楽器店「Song of the Wood 」側面の看板

[図7-2]角を曲がったショーウィンドウにあった貼紙

[図7-3]全景。シェードにSINCE 1975とある(2018年撮影)

結局楽器を手に入れることはできなかったが、気を取り直して本屋に向かう。日曜だからか人通りが多い。車も多く、通りの反対側からは店が見えないぐらいだ。それでも通りを渡って店の前に出た。ドアには「Sale All Books 50% Off」という貼紙がある。どおりで人が集まっているわけだと思ってふと横を見ると、大きく「For Sale」と書かれたポスターが目に入った。どういうことだ!?ドアを開けた。

閑散とまではいかないが、確かにずいぶん本が減っている。半額セールなのだから当然か。オヤジさんは見当たらず、女の人がいた。たぶん彼のワイフだろう。思い切って声をかけた。
「去年来て、本を買ったんです。そのときはここに男の人がいました」
「あらそう。それはきっと夫よ」
「店を閉めるんですか?」
「そうなの。跡を継いでくれる人を探したんだけどいなくて。もう私たちも年だから。去年は何の本を買ってくれたのかしら」
「BMCの本です。奥に棚があったから」
「棚はまだあるわ。もうあまり残ってないけど、欲しい本があれば全部半額だからお買い得よ」
だいたいそんなやりとりをして、BMCの棚に向かった。本当にもう何も残ってなかったが記念にと思い、48年夏の「メデューサの罠」にも参加したアーティスト、レイ・ジョンソンの詩画集を持ってレジに行った。

「詩が好きなのね。ロバート・クリーリーのサイン本があるけど、いる?これは売らないつもりだったけど……。もちろん半額よ」
そう言ってレジのうしろの戸棚から本を出してくれた。本には黄緑色の紙片が挟まっていて、SIGNED by Robert Creely (Black Mtn College) と書かれていた。
「写真を撮らせてもらっていいかな。去年ご主人を撮り損ねたんだよ」
少しはにかんだ笑顔と2冊の本を持って、店をあとにした。

[図8-1]店の前の人だまり。入口左のショーケースにFor Saleのポスターが見える

[図8-2]BMC 関連書籍の棚。もともとたくさんは並んでいなかったと思うが、もう何もなくなっていた

[図8-3]お元気で。またいつか。

今度行ったときには楽器屋同様、本屋もそこにはないだろう。小さな山間の町でも、やはり変化していくのだ。同じように今に残ったBMCも変わっていく。それをこうして記録できるのは、幸運なことだ。

1949年春にBMCは大きく変わった。それはそう悪いことでもなかった、とぼくは思う。その後のBMCや20世紀中葉のアメリカ文化を知っているからそう思えるのだが。

1949年3月、アルバースは評議委員会を辞任し、臨時委員長の選出を要請する。委員長には農場の責任者で農村社会学を担当していたレイモンド・トレイヤーが指名され、10月には財政を立て直すためにやってきたビジネスマネージャーのN.O.ピッテンガーが学長に選出された。しかし、早くも12月には辞任について言及されており、以来、混乱のなかで学長(レクター)は不在となった。

1950年6月2日、候補者を検討するためにレクター委員会を設置し、長い議論の末、改めてレクターの権限についての文書を作成した。1952年1月18日、チャールズ・オルソンは、外部からレクターを招聘するという考えを破棄するよう動議し、マックス・デーン※14はそれを支持した。同月25日、誰かが再びそれを持ち出すまでレクターを決めることを延期することが動議され可決された。10月7日、教授会はレクターの必要性を再度議論し、主任管理者(chief administrator)として誰かを探すことに着手するという動議を可決した。そして53年にオルソンがそのポジションに就いたとされるが、正確な日付はわかっていない。

さて、写真とキャプションを整えているちょうど今日、2021年1月27日から、ドレイアーのアーカイヴ展示「Connecting Legacies; A First Look at the Dreier Black Mountain College Archive※15」がアッシュビルのヴァン・ウィンクル法律事務所ギャラリーで始まった。アッシュビル美術館が主催しており、昨年少し話題になったCLIR(図書館情報資源評議会)からの助成金によるBMCデジタルアーカイヴ※16最初のお披露目展である。400点に及ぶドレイアーのBMC関連ドキュメントが展示されるらしい。誰も書けなかったドレイアーとBMCの関係の一端を見ることができるかも知れない。すぐに飛んでいきたいところだが、そういうわけにもいかなくなった。YouTube※17を見ながら、デジタルアーカイヴの公開を待つことにしよう。

[図1]エキソニモ《Realm》(2020)/左がスマートフォンで見た場合,右がパソコンで見た場合

本論考は、エキソニモが久々に発表したネットアートの作品である《Realm※1》が、二つのインターフェイスを持つ意味を探るものである。

《Realm》はパソコンとスマートフォンという二つの環境からアクセスできるオンライン作品である。同じサイトにアクセスしても、パソコンとスマートフォン双方のディスプレイに表示される映像が異なり、そこでの体験も別々のものになっている。東京都写真美術館で開催されたエキソニモ個展「UN-DEAD-LINK」の作品解説には「見えない風景、美しい墓場の写真群のイメージは、二つの全く異なったものが共存している環境を示唆している」と書かれている※2。エキソニモが《Realm》で「墓場」という死を連想させる風景とともに、同一の作品に二つの異なる環境と体験を用意し、それらを行き来して体験するような仕掛けをした意味を探っていきたい。

ヒトを「Realm=中間地点」に呼び寄せる白いオブジェクト

私はエキソニモの《Realm》を、まずスマートフォンで体験した。スマートフォンのディスプレイをタップすると白い指紋のイメージがついた。私の指紋がディスプレイにもついたけれど、それは見えない。見えるのは、白い指紋のイメージだけであり、それは私の指紋ではない。指紋の奥には「美しい墓場」の緑が見えるけれど、ボケていてあまりよく見えない。少し時間が経つと、私がタップしなくても、白い指紋は増えていって、奥の緑の風景はさらに見えなくなっていく。風景は切り替わっていくが、指紋のイメージは墓場と私とのあいだに残り続けている。私がスマートフォンに触れた痕跡を示す私の指紋は見えないままであるが、私が触れたところには白い指紋が残り続けている。ディスプレイのガラスの奥から放たれるピクセルの光が、私や他の人のタップの痕跡を白い指紋として表示し続ける。その結果、白い指紋がディスプレイのほとんどを覆ってしまい、その奥の緑の風景はほとんど見えなくなる。この段階になると、私はディスプレイの下部に表示されている「You can’t see there from your mobile」というテキストの意味を実感している。「there」は白い指紋の奥にひろがる「墓場」である。

「You can’t see there from your mobile」をタップすると「You can visit there from your desktop」とでてくるので、私は「there」=墓場を訪れるために、パソコンを開き、ブラウザを立ち上げ、《Realm》のサイトにいく。パソコンを開いて《Realm》にいくと、私は「there」=墓場を見ることができた。緑の風景のなかに墓石が並んでいる様子が確認できると同時に、そこには霧のようにもやっとした白いオブジェクトがあるのが見える。先ほどのスマートフォンでの体験から、この白いオブジェクトが、スマートフォンのディスプレイを覆う白い指紋の集まりであることをすぐに理解する。白いオブジェクトはスマートフォンの縦長のディスプレイと比率も同じように見える。スマートフォンのディスプレイをタップすると、そのタップに応じて、パソコンのディスプレイが表示している白いオブジェクトにも白い指紋が現れる。パソコン版の《Realm》のディスプレイの下部には「You can’t touch there from your desktop」 と記されている。確かに、私のMacBook Proではディスプレイに触れても「there」=墓場で何も起こらないので、触れている感じはない。では、タッチパネルを搭載したパソコンならどうだろうか。おそらくディスプレイには触れることはできるが、白い指紋を残すことはできないようにプログラムされていて、白いオブジェクトを含んだ墓場に触れることはできないと考えられる。

墓場の風景と白いオブジェクトは、スマートフォンとパソコン双方に現れるが、その見え方は全く異なるものになっている。エキソニモの千房けん輔は、この状況を次のように述べている※3

加えてウェブの技術的な話で、ロックダウンの時に、未発表の個展のために作品を作ったりする中で発見がありました。スマートフォンと同じアドレスを、パソコンのウェブブラウザで開くとリッチな画面が出てきて、スマホで開くと省略された画面になって、スマホで見るときは主観的で視野も狭まっているし、パソコンのブラウザで見ると客観的に広く見えるみたいな、同じ空間でも、全然違う見え方をしている、その二つの領域の中間地点みたいなものが気になってたんですよ。だから全てにおいて、ロックダウンの中で、いろんなものの間にある中間地点みたいなことが、頭に浮かんで、ちょうどその時にネットアートをまたやりたいっていう希望も出てました。それまではちょっと物理的な作品が多かったですが、ロックダウンになった後にネットだけでしか存在しない作品を作りたい、そういう意識も芽生えて、そこら辺がすべての中間地点でパンと繋がったアイディアでした。
エキソニモ「エキソニモへのインタヴュー」

千房は、主観と客観とのあいだの中間地点として《Realm》が現れると述べている。主観では見えないものが、客観では見える。客観では触れられないものが、主観では触れることができる。墓場のなかの白いオブジェクトを「オブジェクト」として見るにはパソコンが必要となるけれど、それに触れるにはスマートフォンが必要となり、誰かがスマートフォンのディスプレイに触れないと白いオブジェクトはパソコンに現れない。二つの異なるインターフェイスを行き来するなかで、《Realm》の白いオブジェクトを含んだ墓場の風景が見えないものと見えるもの、触れられるものと触れられないもののあいだに現れてくる。また、千房はこの作品を「ネットアート」と考えている。ネットアートを語る際に必ず登場するMTAAの《SIMPLE NET ART DIAGRAM※4》は、ネットアートがパソコンとパソコンとのあいだ=中間地点で起こることを端的に示している。この作品を見れば、《Realm》がネットアートとして作成された理由は理解できるだろう。「ネットアート」である《Realm》において、パソコンとスマートフォンというあいだに緑の風景を持つ墓場があり、そこには象徴的な白いオブジェクトは、《SIMPLE NET ART DIAGRAM》が示すように異なるインターフェイスをつなぐリンクの中間地点にあることになるだろう。しかし、二つのインターフェイスでその見え方が異なるものになるのが、この作品の興味深いところになっている。

[図2]M.River & T.Whid Art Associates (MTAA)《Simple Net Art Diagram》(1997)

スマートフォンのディスプレイに触れ続け、パソコンのディスプレイを見続けると、「there」としての白いオブジェクトを含んだ墓場を見ることも、触れることもできるようになっていく。二つのインターフェイスの体験によって、《Realm》はスマートフォンとパソコンのどちらか一方のみで体験したものと異なる作品になっていく。スマートフォンのディスプレイをタップしながら、白いオブジェクトをつくり、それに触れているという感覚が強くなるほど、その存在は明確になっていく。白いオブジェクトが二つのインターフェイスをつなぐ中間地点として存在感を強めるとともに、それを見ている私もそこに引き寄せられていく。そして、その触れている感覚とともに明確になっていく白いオブジェクトを含んだ墓地の風景をパソコンで見ていると、二つのインターフェイスを行き来する自分の居場所が曖昧になってくる。私は白いオブジェクトに触れられるところにいながら、その全体が見えるところにもいて、主観的な位置と客観的な位置に同時にいるような感覚になっていくが、そのどちらか一方にいるわけではなく、私自身も白いオブジェクトとともに二つの異なるインターフェイスを結びつけている「中間地点」に存在しているのではないかと感じられるのである。

《Realm》は二つの異なるインターフェイスを用いて、触れることと見ることとを結びつける「中間地点」として白いオブジェクトをつくり、そこに作品体験者を引き寄せていく。この作品体験と対比するために、エキソニモの「ゴットは、存在する。※5」という連作を取り上げたい。その理由の一つが、2009年に発表された「ゴットは、存在する。」には、スマートフォンを用いた作品がないということである。この作品には、エキソニモがスマートフォン以前のインターフェイスについての考え方が色濃く示されている。その考えは、インターフェイスを用いた作品でありながら、鑑賞者とのインタラクションがなく、触れることなく見るだけの作品体験になっているということに現れている。

標準的なインターフェイスやデバイス、インターネットの中に潜む神秘性をあぶり出すことをテーマにした一連のシリーズ。光学式マウスを2つ絶妙なポジションで合わせることでカーソルが動き出すことを発見し、その祈っているような形態と、祈ることで奇跡が起きている状況を作品化した「Pray」。日本語で神を意味する「ゴッド」と、一箇所だけ違うが意味を成さない単語「ゴット」をTwitterの検索結果の中で置き換え「ゴット」の存在する世界を表出させた「Rumor」など。用途をずらし、無効化されたインターフェイスの中に神秘性を見出していく試みでもある。
エキソニモ「ゴットは、存在する。 (series)」

[図3]エキソニモ《Pray》(2009)

エキソニモによる作品解説にあるように、「ゴットは、存在する。」はマウスとカーソルとの組み合わせたインターフェイスに「神秘性」を見出していく。それはインターフェイスの無効化、言い換えれば、ヒトを介さずにコンピュータを「操作」することが可能かを試すことであり、その試みに意味=神秘性を見出すことであったと言える。「ゴットは、存在する。」シリーズで「UN-DEAD-LINK」に展示されている唯一の作品《Pray》では、重ね合わされた二つの光学式マウスがヒトの行為を介さずにディスプレイ上のカーソルを動かしている。「ゴット」を「ゴッド=神」と勝手に読み替えてしまうように、鑑賞者はこの状況から勝手に「祈り」という人間らしい行為を想起してしまう。コンピュータは情報入力のためにヒトの行為を必要とし、その情報の入出力の場としてインターフェイスが開発された。しかし、エキソニモはインターフェイスからヒトを締め出し、インターフェイスが自律的に情報を生み出す状況をつくり出す。ヒトを介さずに自律的に情報が生み出されるのを見て、ヒトはそこに何かしらの意味を見出してしまう。

私は「メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路※6」というテキストで《Pray》と谷口暁彦の連作「思い過ごすものたち」とを論じて、以下のような結論に至った。

エキソニモと谷口は、それぞれのインターフェイスからヒトを取り除き、インターフェイスをアートのメディウムとして自律させることによって、ヒトとコンピュータを取り巻くより大きな回路の存在を顕わにする方法を得ているのです。
水野勝仁「メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路」

「より大きな回路」というのは、自律的に情報が生み出されていく領域のことを意味している。通常、インターフェイスはヒトとコンピュータとのあいだにあり、双方から情報の入出力を受け付ける機能を担っている。しかし、《Pray》はヒトがいなくても、一定の状況に置かれたインターフェイスがコンピュータとともに情報を生成できることを示している。それは、ヒトとコンピュータ、そのあいだにあるインターフェイスが「より大きな回路」ではすべて等しく、情報をつくり出すためにオンオフの切り替えを行うスイッチとして存在していることを意味している。スマートフォンの《Realm》は《Pray》と異なり、ディスプレイをタップするヒトの行為が「白い指紋」という情報を生み出している。スマートフォンを介して作品に取り込まれた「白い指紋」が、パソコンでは自律的な情報となって白いオブジェクトを生成していく。しかし、パソコンの《Realm》では《Pray》と同じように、インターフェイスに触れることが無効化されており、ただ白いオブジェクトを見るだけになっている。

《Realm》はパソコンとスマートフォンとで見ると触れるという異なる体験をつくりながら、ヒトを「より大きな回路」に組み込み、ディスプレイに向かわせる。パソコンでは見ることしかできず、触れることはできないが、スマートフォンではディスプレイとヒトとのあいだに接触が起こり、指紋が情報として「より大きな回路」に取り込まれていく。ヒトが再びインターフェイスに取り込まれたことで、《Realm》では「ゴットは、存在する。」シリーズの作品になかった「奥行き」がディスプレイに生まれている。ディスプレイの最前面に位置するカーソルが大きな役割を果たしていた「ゴットは、存在する。」では、カーソルとウィンドウという平面的な存在の重なりが強調され、パソコンのディスプレイに「奥行き」が無効化されていた。対して、《Realm》ではタッチ型インターフェイスとカーソルを用いたインターフェイスとのあいだを行き来することで、デスクトップで作品を体験した際に、最前面のカーソルとその奥にある白いオブジェクトとのあいだに「奥行き」が生まれている。この「奥行き」は、インターフェイスが生み出す情報の流れにヒトが入り込んだ結果として生まれたものであろう。そして、「奥行き」とともに墓場という場所が提示され、その奥にある白いオブジェクトにはスマートフォンを介して、触れられるようになっている。しかし、パソコンが見せる「奥行き」とともに現れる「美しい墓場」には入ることも触れることもできないのである。

《Realm》で、ヒトはインターフェイスに戻り、ヒトが入り込める余地としての「奥行き」をディスプレイに見つけたということになるだろう。しかし、それはパソコンのディスプレイが示すデスクトップから眺めた風景でしかないということも考えなければならない。スマートフォンで作品を体験するときには、「奥行き」の存在はぼやかされていて、ディスプレイに触れるほど「奥行き」は見えなくなっていき、最前面の「指紋」を見ることになり、ヒトはインターフェイスに触れながらも、そこから締め出される。スマートフォンの白い最前面は、デスクトップではヒトを招き入れている白いオブジェクトとなって、ディスプレイに「奥行き」をつくる。白い最前面と白いオブジェクトとが同一の存在であり、それが二つのインターフェイスを行き来するヒトを締め出すと同時にヒトを受け入れている。そのプロセスにおいて、ヒトは情報の入出力をつかさどる「より大きな回路」のなかに組み込まれたり外されたりしながら、二つの異なるインターフェイスがつくる「中間地点」に呼び寄せられていく。

「幻想の触覚」を用いて死を呼び寄せる

エキソニモの《Realm》では、スマートフォンのタッチパネルに触れることでインタラクションが起こり、そこから白いオブジェクトが墓場に生成され、ヒトが「より大きな回路」のなかの「中間地点」に呼び寄せられる。ここで考えたいのは、エキソニモがパソコンとともにスマートフォンというあたらしいインターフェイスを用いて、《Realm》で「中間地点」をつくり出しているということである。このことを考えるために、まずはスマートフォンによってもたらされたあたらしい感覚について考えてみたい。

アーティストであり、美術批評も行う布施琳太郎は「新しい孤独※7」において、iPhoneに代表されるタッチパネルに触れることをアートの文脈から考察している。そこでは、私が書いたGUIに関してのテキスト「インターフェイスを読む #3 GUIが折り重ねる『イメージの操作/シンボルの生成※8』に触れつつ、パソコンでは触れることがないディスプレイに触れることの意味が書かれている。

私は上のテキストで、コンピュータ科学者のアラン・ケイが提唱したスローガン「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」を論じ、「イメージ=見えるもの」と「シンボル=見えないもの」のあいだに「/」を入れた。それは、ディスプレイに表示される「イメージ」と「シンボル=プログラム」とが折り重なっていることを示すためであった。イメージを操作することは、プログラムを操作することにつながっている。そして、マウスとカーソルとの組み合わせでは、「イメージの操作」はマウスと連動するカーソルという「イメージ」で行われることになっている。ディスプレイに表示されるイメージには直接「触れる」ことはできないまま操作を行い、シンボルを生成し続けている。

布施は「iPhone」がこの状況を一変させたと考えている。

つまり「iPhone」は「イメージの操作/シンボルの生成」というアラン・ケイを起源に持つGUIやパーソナル・コンピュータの基本コンセプトから離れ、その操作を、対象を直接操作するような「幻想の触覚」に一元化した。その実現のためにマウスやトラックホイールをはじめとした物理的な入力装置、GUIの大きな特徴である重なり合う複数のウィンドウ、そしてプラスチックで固定されたキーボードなどは排除されたのである。そして「iPhone」はイメージとシンボルの二層構造を排除しながら、巨大なタッチスクリーンを採用する。「iPhone」のユーザーは、麦畑でLSDを摂取したジョブスと同じように、「幻想の触覚」によって対象を直接操作するのである。
布施琳太郎「新しい孤独」

iPhoneの登場によって、ディスプレイに表示されているイメージを直接操作できるようになり、「イメージの操作/シンボルの生成」という二層構造は「幻想の触覚」に一元化されると、布施は指摘する。確かに、マウスとカーソルとの組み合わせで「イメージでイメージを操作する」ものよりも、「指でイメージを操作する」という方がダイレクトにイメージを操作する感覚になる。しかし、指はイメージに直接触れるのではなくタッチパネルを介して触れているので、この状態を「幻想の触覚」とするのは的確な命名である。そして、布施は最果タヒの詩「白の残滓」を経由して、「幻想の触覚」の考察を深めていく。布施は「白の残滓※9」において、以下の部分が最も重要だと指摘する。

大丈夫、窓に近づくと蒸し暑く、私はガラスに手をつけて、
向こう側の私と、半分ずつ祈りを捧げている、
やわらかい体、だということを私は知らない、
硬質なつもりでこの時間をつきぬけようとしている、
その先にあるものが、新生児の私、また、やり直しの人生だとしても。
最果タヒ「白の残滓」

そして、布施はこの部分を「iPhone」を軸に以下のように考察していく。

この作品で最果タヒが表現したのは、生と死や視覚と触覚(=寒/暖)といった複数の二項対立を、ガラスのこちらと向こうに同時に存在できるような「やわらかい体」によって二重性へと変奏し──しかしそれ自体は「私が知らない」ことだ──それを「硬質」な体の「つもり」で「つきぬけようと」する様子である。これはGUIという「二層構造」とは異なるコンセプト、つまり「幻想の触覚」に基づいて設計された「iPhone」についての記述として理解することができる。

つまり「ガラスのこちらと向こうに同時に存在する私」であるところの「やわらかい体」とは「ガラス=GUI」による二層構造に基づいたインターフェイス的主体である。しかし最果は、ガラスのこちらとそちらに同時に存在する「やわらかい体」を自身が持っていることを「知らない」のだと言う。そこでは「硬質な」体によって、その「ガラス」を、「この時間を」、「つきぬけようと」する。こうして「ガラス」はパーソナル・コンピュータにおける「GUI」から「iPhone」へと置き換えられる。彼女は、その「知らな」さによって、二層構造の後の「iPhone」の時代を定義する。我々はその「二層構造」を「知らない」のである。
布施琳太郎「新しい孤独」

GUIの「二層構造」とは異なる原理を持つスマートフォンは、生と死、視覚と触覚の二項対立は二重性と変わっていく。生と死とは対立するものではなく、それぞれが重なり合うものになり、同時に存在している。最果の詩を読み解く布施においては、こちら側も向こう側もなく、それらは二重に重なり合って一つの平面になっていると言える。「二層構造」を「知らない」ことで、あらたに「幻想の触覚」が生まれてくるというのは、とても魅力的である。あらたな感覚が生まれるときに、それまでのことを「知らない」がゆえに感覚が刷新されることがあるからである。

布施は「「iPhone」の画面はイメージとシンボルの二層構造を持たない。「見えるもの」と「見えないもの」の二重性は、その「ずれ」は、世界を直接操作するような「幻想の触覚」によって一元化され、消去される」と書いているが、エキソニモは「見えるもの」と「見えないもの」とのあいだに「ずれ」があると考えているのではないだろうか。なぜなら、彼らはGUIの二層構造をよく知っているからである。よく知っていることを知らないふりをするのでも忘れてしまうのでもなく、GUIの「二層構造」とスマートフォンの「幻想の触覚」とをリンクさせて、あらたな二層構造をつくることで自らの作品をこれまでとは異なる方向性に持っていこうとしていると考えられる。

千房:《Realm》はロックダウンの初期の頃から作っていて、そのままその時のナイーブな雰囲気が出ていて、結構今のこの状態を的確に表現できていると思って気に入っています。詩的でストレートにも見えますが、詩を構成する“言葉”としての、スマホなどのメディアやそれら同士の関係性を意識しています。今気が付きましたが、若い頃拒絶していた写真のような古典的なメディアと、夢から現実化していったインタラクティヴなメディアアートの両方の要素も持っていますね。今はそういう相反する要素を共存させることが、自分たちにとっての挑戦なんです。
エキソニモ「エキソニモへのインタヴュー」

ここで千房は「相反する要素を共存させる」と言っている。異なる要素を一元化するのではなく、要素を共存させるとなると、そこには必ず「ずれ」が生じるはずである。エキソニモは《Realm》で、スマートフォンがつくる「幻想の触覚」から距離をとるために、パソコンとスマートフォンとをリンクさせ、あらたな二層構造をつくったと考えられる。また、千房の言葉から、エキソニモはマウスとカーソルによるパソコンのインターフェイスとタッチパネルによるインターフェイスとを「言葉」として捉えていることがうかがえる。最果が言語で詩をつくるように、エキソニモは異なるインターフェイスを「言語」として組み合わせて詩=《Realm》をつくっている。布施が最果が記述した言語の関係性を読み解くことで「幻想の触覚」を導き出したように、異なる二つのインターフェイスのリンクを読み解くことで、エキソニモが示すあらたな方向性が見出せると考えられる。

エキソニモ作品のあらたな方向性を探る一つの手がかりが、スマートフォンがもたらす「幻想の触覚」で一元化された感覚とパソコンのGUIにおける「見えるもの=イメージ」と「見えないもの=シンボル」の二層構造の感覚とのあいだを行き来していると現れる白いオブジェクトである。なぜなら、この白いオブジェクトはスマートフォンによる「幻想の触覚」が、GUIの二層構造の「ずれ」を可視化したものだと考えられるからである。

千房:今の時代は触ったら感染するなど、今までなかったセンシティヴさが問われていて、でもスマホはよく触る。だから画面にタッチすると指紋が表示される仕組みを作って、スクリーンが一枚の膜であることやよく触っていることを再認識させる意味も持たせています。スマホはより身近で身体的で、インタラクティヴで、でもウェブブラウザは、逆に全く接触ができない状態にする。その二面性がある構造を作って、その中間地点には何があるかを問うているところがあります。
エキソニモ「エキソニモへのインタヴュー」

エキソニモは「接触」をキーワードにして、スマートフォンとパソコンのブラウザで相反する「二面性の構造」をつくり、「幻想の触覚」で一元化された感覚を用いて、GUIの二層構造の「ずれ」をよく見ようとしている。こちらとあちらとを貫く「幻想の触覚」は「見えるもの=イメージ」と「見えないもの=シンボル」のあいだの「/」に触れていく。スマートフォンのディスプレイに触れるヒトの指紋によって可視化される「/」は、パソコンのディスプレイではこちらとあちらとを区切るような「一枚の膜」となって、ディスプレイに「奥行き」をつくるとともに「美しい墓場」を見せるようになる。「美しい墓場」のなかに現れた「一枚の膜」は、パソコンのディスプレイが示す「奥行き」のために見ることはできるが触れることはできない「中間地点」に位置するようになっている。

《Realm》で「幻想の触覚」によって可視化され、「美しい墓場」の「中間地点」に現れる「一枚の膜」の意味をさらに考えるために、編集者の伊藤ガビンによる「UN-DEAD-LINK」展のレビューを引用したい※10。伊藤は今回の回顧展から見えているエキソニモの主題と《Realm》について、以下のように書いている。

回顧展という空間で、過去作をまとめてみると、その作家の強い主題、隠しようのない芯が見えてくる。私にはエキソニモが、執拗に「こちら側」と「あちら側」と「その間にある膜」みたいなものを描いているように思える。
物理空間と仮想空間だけではない。作品とツール、アートとコマーシャル、東京と地方、日本と英語圏、男と女、大人と子供、そして生者と死者。「その間にある膜」をエキソニモは揺らす。人々はその膜のゆらぎに気づくと同時にどうしようもなく「こちら側」と「あちら側」も意識せざるを得なくなる。
物理会場の最後に「Realm」という作品があるのは象徴的だ。触っているのに触れることもできていない。膜を破ることができなくても、何かを伝えることはできるのだ。
伊藤ガビン「メディア・アートの王道と呼ばれて。|メディア・アートの外道と呼ばれて。」

エキソニモは「こちら側」と「あちら側」と「その間にある膜」を描いてきたと、伊藤は指摘している。エキソニモはスマートフォン以前のGUIをよく知っているために、「こちら側」と「あちら側」とを一元化することはできない。ここで注目したいのは、エキソニモは「その間にある膜」を揺らすことで、作品の体験者が「こちら側」と「あちら側」とを意識せざるを得なくなるという点である。確かに、《KAO》や《DISCODER》、《FragMental Storm》といった初期のエキソニモの作品は、インタラクションとともにインターネットやコンピュータそのものの原理を「その間にある膜」として扱い、物理空間と仮想空間との存在を考えさせた。その後の《断末魔ウス》、「ゴットは、存在する。」シリーズ、「Body Paint」シリーズなどのヒトのインタラクションを持たない作品においては、エキソニモはヒトの認識をハッキングするような強い衝撃によって「その間にある膜」を揺らし、作品の体験者が「こちら側」と「あちら側」も意識せざるを得ない状況においたと言える※11。しかし、《Realm》においては、体験者は「こちら側」と「あちら側」も意識せざるを得ない状況に置かれるのではなく、その「中間地点」を意識させられる。つまり、《Realm》は「その間にある膜」そのものを主題にして可視化しているのである。この作品の体験者は「一枚の膜」を「触ってるのに触れることもできていない」状況のなかで、見つめ続けるようになる。エキソニモは《Realm》で「こちら側」と「あちら側」ではなく、「その間にある膜」を意識せざるを得ない状況をつくっているのである。

では、ここで意識せざる得ない存在となっている「一枚の膜」とは何なのだろうか。それは、《Realm》の風景となっている「墓地」が示す「死」であろう。哲学者のウラジーミル・ジャンケレヴィッチの『死』の冒頭「死の神秘と死の現象」に、最果の詩のようにガラスを介した生と死とが語られる記述がある。

生きている者と彼岸[オー・ドラ]の大いなる秘密とを隔てるものは、その透明なガラスの厚みでしかないというのだろうか。ドストエフスキーの作品中の人物は時にこの魅力にひかれる……。半透明な膜が此岸[アン・ドサ]と彼岸[オー・ドラ]とを隔てる、とメーテルリンクは言っている。膜の片側には此岸にしてすでに彼岸にあるものが、他の側には、辛うじて彼岸にあり、ごくわずかしかむこう側になくて、要するにほとんどこの世にある彼岸。一つの他の世界。絶対的に他で、絶対的にほかにあり(ここ以外のところ、これ以外のものであり)ながら、しかもいたるところで現存するむこうの世界、つまり、神のごとくいたるところに現存して、いたるところに不在なもの。むこう側[エケイ]とこちら側[エンタウタ]の両側に同時にいて、超越的であってまた内在的なもの。──というのは、ほんのすこしのこと、動脈の中に血塊が一つ、心臓の痙攣一つで《あそこ》がただちに《ここ》になるのだから……。
ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ『死』

ジャンケレヴィッチが書く「死」の観点から《Realm》を記述すれば、スマートフォンのディスプレイのガラスが生と死とを分けつつ、ガラスに触れれば触れるほど、《あそこ》=死を《ここ》=生にもたらすような白いオブジェクトの存在が明確になっていく、となるだろう。エキソニモはスマートフォンとパソコンとをリンクさせ、「こちら側」と「あちら側」とをつらぬく「幻想の触覚」を用いて、「こちら側」と「あちら側」との「ずれ」といったそこに存在することは想定できるけれど、実体としては見えない空白を「その間にある膜」として実体化し、一つの白いオブジェクトとして見せている。《Realm》で二つのインターフェイスを行き来しながら、触れつつ触れず、見えつつ見えないという体験とともに実体化していく白いオブジェクトこそが「生きている者と彼岸(オー・ドラ)の大いなる秘密とを隔てるもの」なのである。

メディアアーティストの藤幡正樹は今回の展覧会への寄稿文で、《Realm》の白いオブジェクトが物語を進める謎として機能する「マクガフィン」として言及している※12

この作品では、現実の自分と画面の中に逝ってしまった自分の指紋と対面する。「これがあれになった」とでも言えばいいだろうか。で、この白い板とはいったいなんなのか、それは手元のスマホのタッチパネルのコピーであると同時に、スクリーン上の光の明滅でもある。とはいえ、ひとまずその機能が判ったとして、つまりブラックボックスの仕組みが判ったとしても、実際にはなにも判ったことにはならない、依然としてマクガフィンの意味は不明だ。なので、より良く理解しようとする人は、何度もスマホにタッチする、「でもそれは『マクガフィン』なんだよ、君。」タッチすることに熱狂させることが、この作品の目的なんだよ。
藤幡正樹「『エキソニモ UN-DEAD-LINK』展特別寄稿」

《Realm》では、白いオブジェクトがマクガフィンとして作品の中心に位置している。それは謎であるがゆえにインタラクションを生み出しはするが、ヒトの認識をハックするような強い衝撃を持つ表現というわけではない。ここで重要なのは、エキソニモのインタラクションを伴う作品で、「マクガフィン」と呼ばれるような「秘密」や「象徴」が表出されることは、これまでなかったということである。いや、それらを多少は持っていた作品はあるかもしれないが、《Realm》のように「マクガフィン」が中心に据えられることはなかった。白いオブジェクトをよりよく理解しようと、スマートフォンの透明なガラスに多くタッチしても、白いオブジェクトが明確になるだけで、そこに何も意味は生まれない。しかし、「これがあれになった」というかたちで、スマートフォンの指紋は直ちにパソコンのディスプレイに「逝って」、白いオブジェクトになってしまう。そして、白いオブジェクトが明確になればなるほど墓石のようになっていき、「死」が強まっていくのである。

《Realm》には、ヒトの認識をハッキングするような強い衝撃もなければ、インターネットやコンピュータ、または、インターフェイスの「神秘性」を否応なく感じさせることもない。その代わりに、エキソニモは「死」という見ることも触れることもできない象徴的な対象を作品に呼び込んでいる。芸術作品では対象となることが多い「死」ではあるが、エキソニモの作品において、ダイレクトに感覚できる死や否応なしに死を認識してしまうというかたち以外で「死」が作品に持ち込まれたのは、はじめてだと言える。《Realm》は「死」が「こちら側」や「あちら側」としてダイレクトに認識されるではなく、「そのあいだの膜」として表出され、象徴性を持って作品に入り込んできたという意味で、エキソニモ作品の一つのターニングポイント=将来の中間地点になると考えられるのである。

近藤宏:
私自身も日本語版の翻訳に関わったのですが、2013年に英語で発表されて世界中で大きな反響のあった“How Forests Think(邦題:『森は考える※1』2016年刊行)”の著者であるエドゥアルド・コーンさんに、本日は主に三つのテーマについてお伺いしたいと思っています。ひとつ目は、『森は考える』についてお尋ねしたいと思います。つぎに、民族誌的現実について分析し、考える方法について。そして、最後に、『森は考える』以後に、どのようなことをなされてきたのかについてお聞きしたいと思っています。まずは、この刺激的で挑発的なタイトルの著作『森は考える』で、何を目指されていたかを振り返りっていただけますか。

『森は考える』はどのように作られたのか

エドゥアルド・コーン:
『森は考える』は民族誌なので、人々と共に暮らし、その人たちがなすことに耳を傾けるなかで出来上がりました。わたしがフィールドワークを行なった地域では、人は人のあいだでのみ暮らしている訳ではありません。彼らは森のなかで、人と人以外の様々な存在に囲まれて暮らしていました。そのため「民族誌を行なって(doing ethnography)」、様々な存在に「耳を傾け」ました。そこには「人びとの声を聞くこと」以上の意味があったのです。私は、人ではない存在たちの声にも耳を傾けていたのです。わたしは、人々がこうした「他なる存在」と交流する様子を傾聴していました。

そのうち、人々が森にいる存在とコミュニケーションをとるときには、言語がふつうとは少し変わったかたちで使用されているのに気付いたのです。そのようにして、人々が何をしているのかを理解するには、わたしがもともと考えていた人類学自体についても変えていかなければならないことに気付いたのです。森のなかで様々なたぐいの存在と関わり合う人々と真の意味で一緒に過ごすこと。それがこのプロジェクトの根本にあります。

近藤:
コーンさんが、そのような発見を一冊の本にまとめる際に、最も難しかったことは何でしょうか。

コーン:
いろいろな段階で多くの困難に出くわしました。私は、本書の基になる調査を行なったエクアドルでは四年間を過ごしました。現地のフィールドワークも、その段階のひとつです。そのフィールドワークは博士論文のプロジェクトの一部だったのですが、ともかく、本当に長い時間をそこで過ごしたのです。「ああ、全く何も起こらないな、退屈だ」と感じたこともありました。しかし、物ごとが急にひとつに結びついて、ひらめく瞬間もあって、後から振り返ってみると、本書にあげた最も刺激的な発見のいくつかは、ほんの数秒の間に起こったことだったのです。

そうした発見については、その後かなりの時間を割いて執筆することになりました。時間性というのは、面白いものですね。とくに何もしないことに多くの時間を費やすこともあれば、瞬く間にことが起こる状況が突然訪れたりもします。そんなふうになるには、自分がその場に居続けることが必要だったのです。いずれにせよ、この本では森が考えるとはどのようなことであるのかを説明しようとしています。そして「なぜそんなことが言えるのか」「人類学の枠組みでもそんなことが言えるか」といったことを、本書を読んだ人たちが話題にできるように、揺さぶりをかけることが狙いなのです。

わたしはこれまで、人類学が多くのことを伝える術を持たないことに歯痒い思いを抱いてきました。人類学者が決まって言うのは、この人たちはこう考え、あの人たちはこう考えている、といったことです。わたしには、そんなことをやっていたのでは、誰かが言った何ごとかを記述する以上に先に進んでいくことができないように思えたのです。

人が他なる存在と関わり合っているという事実があったため、わたしは、研究のやり方は他にもあるのではないかと考えたのです。その結果、本書で扱った研究に結びつきました。というのは、彼らは、森のなかで事を成し遂げるためには、社会的現実や文化的現実 —— 人類学者が日ごろ研究対象としているようなたぐいの現実 —— とは異なる現実へと踏み込んでいく必要があったからです。人々は、他なる存在とは異なる水準で交流しています。話し方や考え方を変えざるを得ないほどに異なる水準においてなのです。わたしはこうした点にとても興味を抱きました。

こうしたことをひとたび理解し、その跡を追うようになれば、その現実が見えてくるようになる、そしてもしその現実にきちんと目に向けるならば、読者が人類学であると考えていることを問わずにはいられなくなる。そうしたことを本書では示そうとしました。人類学は、もはや文化について語るだけではなくなっています。人間であるとはいったい何を意味するのかを考え直すよう、読者は促されるからです。こうしたことすべてにわたって書かれているのが本書です。

§

近藤:
『森は考える』でコーンさんは、人類学者として、現実の新たな捉え方を探っていたのですね。人類学者は、現実を文化的現実として描写することに慣れていて、「ある人たち」だけにとっての現実、つまり他の誰かの現実として理解しています。それに対して、コーンさんが行なったのは、このような現実を、他なる存在の現実、そしてわれわれの現実にまで広げる方法を探すということだったということですね。つまり、「他者の現実」を二つの方向に広げることだと理解しました。

コーン:
まさにそれこそ、わたしが試みたことだったのです。このように現実について語ることができるという事実を示したいと考えました。だからこそ「いかに森は考えるのか」という問いが浮かび上がってきたのです。 わたしは、そこにこそ問題があると指摘したのです。それは、人文科学や社会科学、人類学にある真の問題、これまではなかなか取り組みえなかった問題です。人間を超え、人間が世界をどう見ているのかは超えていくことなどできやしないと考えているのです。

跳ね返ってきた『森は考える』のインパクト

近藤:
なるほど。『森は考える』には、様々な反響が寄せられました。もし気になった反響があれば、教えていただけますか。好意的な反響のなかで、意外だったものはありましたか。

コーン:
学術的な反響は、概ね好意的なものだったと思います。それらは興味深いもので、今でもたまに思い返しています。なかには、わたしの意図を理解していると感じるものもありましたが、その他にはどうなのか分からないものもありました。わたしの意図を十分に理解できていないと感じる表面的な反響もありました。しかし、あまり期待はしていなかったのでその分とても刺激的に感じたのが、専門の人類学外からの反響でした。とくに音楽や芸術の分野で重要視されたことでした。これはとても刺激になりました。

§

近藤:
どのような反響だったのですか。

コーン:
リザ・リムという音楽家がいます。彼女は、中国系オーストラリア人で、現代クラシック音楽のすばらしい作曲家です。彼女は、「How Forests Think」という曲名の交響曲を作曲しました。

Liza Lim “How Forests Think” (2017)

これには本当に感動しました。彼女はこの曲を12種類の楽器のアンサンブルとして書きましたが、そのなかには中国の楽器である簫が含まれています。この楽器は、彼女がこの交響曲を演奏する際にはいつも使用されています。簫は、一人の演奏者が演奏します。中国の音楽家がこの楽器を使用するレパートリーを作ったのですが、息を吐いたり吸ったりして音を出すので、とても有機的です。それを演奏するプロセス、さらに、演奏者同士が調子を合わせようとする様子がとても面白いと感じました。作曲にわたしは全く関わっていませんが、わたしの本『森は考える』がインスピレーションとなってこの曲ができたと聞いて、とても興奮しました。

当たり前ですが、珍しいことですね。専門書の議論を参考に音楽に置き換えるなど、普通なら考えられません。この本はわたしの手を離れて歩き出したのです。何が起こっているのか、わたしには理解できませんでしたが、後になって、われわれは連絡を取り合うようになり、カナダ南部にあるバンフという町の芸術センターで、音楽コース、つまり夏期の音楽コースを共に教えました。それ以来、われわれは一緒に活動をしています。わたしにとって、このコラボレーションはとても刺激的なものです。

§

近藤:
音楽家としての彼女の反応が、今では新たなコラボレーションへと発展したのですね。他のアーティストは、いかがでしょうか。

コーン:
本当に新しいことが起きているのは、アートの分野ではないかと思います。アーティストたちはアイデアを求めており、気候変動に関心を強く持っています。アーティストたちは、拙著から、気候変動について表現する方法を見出しました。

また、アートにおける問題には、表象に関するものがたくさんあります。本書では、生ある世界と私たちの関係性を本当に理解するには、表象について理解せねばならないということを強調しました。私たちはいかに事物を表象するのか、また他者がいかに事物を表象するのか。そういったことを理解しなければならないのです。

§

近藤:
日本では、ある美学の専門家が『かたちは思考する』という本を執筆しています※2。このタイトルには、『森は考える』の影響が見られます。内容は、芸術家や画家の創作過程を通して、図形やかたちそのものがどのように考え始めるのかというものです。あなたと彼の著書は、どこか似たような考えに基づいているようです。

コーン:
そうですか。ぜひ彼と連絡をとってみたいですね。

§

近藤:
わたしの知る限りでは、日本でも、人類学以外の分野からも創造的な反響がありましたよ。

一流の人類学者とは民族誌的思想家のことである

近藤:
では、つぎのテーマに移りたいと思います。翻訳者として感じる本書の魅力のひとつは、フィールドワークの経験で得られた民族誌的現実を独特な仕方で読み解いていくところにあると思います。あなたが現代人類学を論じたレビュー論文※3のなかで、一流の人類学者を「民族誌学的思想家」だと表現していますね。民族誌的現実が人類学独特の広い視点をもたらしていると述べているように思われる、喚起的な表現だと思います。民族誌的現実をめぐる考え方や、民族誌的現実を通した考え方というのは、いったいどういうものだと思いますか。

コーン:
人類学という分野が非常にユニークである点として、観念とその歴史に高い関心を持っていることも挙げられるでしょうけれど、結局のところ、方法論が重要なのです。民族誌とは、個人的な思い込みを少しでも取り除いて、事物に対する考えを変えるような何かと向き合う方法を見つけるための手法です。

民族誌がそうした手続きの中心にあるのも、それが、あらゆることを考え直さざるを得ない場のようなものだからなのです。事物に対する思い込みを思い切って捨てなければなりません。そして、それがまさに廃れることのない、変わることのない形式なのです。形式というよりも、変わらず進行しつづける、そのようなものだと言ってもいいかもしれません。人類学のなかでも優れたもののひとつは、方法にあると思います。それは、自らの道具立てや思い込みの全てを問い直すようなものとしての、耳の傾け方なのです。

§

近藤:
『森は考える』では、数秒から1分ちょっとの間に起こったことを詳細に描写し、そこにいかに民族誌的に深い意味があるのかを説明していましたね。民族誌的現実について考えることが、われわれの考えの前提を再考する機会となるという点は、多くの人類学者が同意すると思います。ただ、本書にはそれ以上のもの、現実の豊かさを伝える方法のようなものがあるように思えます。

コーン:
はい、そうした現実にはいくつかのことが含まれていると思います。まず、本書を執筆するときにとても助けになったのは、会話や、起きた出来ごとに対する非常に丁寧な描写の録音データがあったことでした。些細な事柄に対する豊かさは、ここから生み出されています。また現実の細部は、言わばいくつもの層をなしているのだと受け止めまることができました。そして、その点に留まることにも時間をかけたのです。そのようにすることで、物ごとを様々なレイヤーから比べることが可能になったのです。

現地の民族生物学というレイヤーではできる限りの動植物の調査を行ない、さらには民族誌的なレイヤー、歴史的知識のレイヤーへと踏み込みました。これらの事柄全てによって、様々な事物を探り当て、関連づけることが可能になったのです。そしてもちろんのこと、それらの多くは、書いているあいだにやって来たものだったのです。

わたしは、書くこと自体が、関連性や物ごとを把握する方法であると考えています。なので、別の事柄をコツコツと探り当てるために、立ち戻っては別の道のりを探るという方法を取ったのです。本書を書いていたときに行なっていたことのひとつがそれです。

本書は博士学位論文を再考し、完全に書き換したものです。学位論文にある文章は、本書には一文も入っていないかもしれません。しかしそれでも、土台にあるプロジェクトは同じでものですよ。扱われているのは同じ素材です。

学位論文と本書の文章は全く異なりますが、同時に全く同じものです。ただこの研究においてとくに刺激的だったのは、たくさんのフィールドノートを手にしていたときです。ノートはすべてタイプされていました。すべてコンピュータに収められたのです。研究期間も終わりに近づいており、これらのノートをすべて手に取って丁寧に読み込み、そのノートに対してさらにノートを作ったのです。フィールドノートにある大きなテーマはそれぞれ何だったのか、ノートを取ろうとしたのです。

わたしは最終的に約125ページの長さの文章を書き上げました。これらはフィールドノートに対するノートなのです。それはこれまでになく興奮した時間でした。自説を立証し要点を示さねばならないとき、すべてが関連している様子を示さなければならないとき、そうした考えを書くことは難しいように思われました。ですが、パターンだけを見ているとき、物ごとを見ているとき、洞察力が発揮されているときには、すべてをありのまま残したいと思う気持ちによって、書くことに対する情熱が続いたのだと思います。そうできるよう、深く注意を払っていました。こうして本書が出来上がったのです。

パターンを見つける、森を録音する、森の思考が人間の言語を変える

近藤:
おっしゃってることに、とてもワクワクします。それが、『森は考える』のなかでも述べられている、パターンを見つけるための方法だったのですね。

コーン:
そうなんです。まさに、パターンを見つけることだったんですよ。類似性について、ともいえるでしょう。森はいかに考えるかが本書のテーマであり、森の考え方が、全体像として繋がりを持ち始めたのです。そのような思考を自分の創造的思考においても養おうと努めたのです。そして、そのために文章を書くことがどれだけ助けになったことか、ひとたび物ごとが分かり始めて並行して見えてくるものがあるのは面白いですよね。非常に興奮します。

実は、わたしは文章を書くのが上手ではありません。明解な文章を書くのが苦手なのです。すごく長い時間をかけて書いています。数段落を分かるようにするために数週間をかけることさえあります。そのような文章が説得力を持つようになるのは、こういった文章に対して「この文は何だ?わたしはあまり好きになれない。何てつまらないんだ!」といった自分の心の反応を大切にするのです。そして、より良い文章が書けるよう、できる限りの努力を続けています。

§

近藤:
あなたが思考する上で、パターンや類似性を見つけることが非常に重要であるとおっしゃっいましたね。著書では、類似性やパターンを見つけようとするのは生命特有の考え方だというベイトソンの研究について触れていましたよね※4。ベイトソンの議論を見つける前に、なんとあなたはすでに彼が述べていたこと、つまりフィールドノートからパターンを見つけ始めていたのですね。生命が考えるように、あなた自ら考え始めていた。

コーン:
レヴィ=ストロースは、数学、音楽、人類学が、真の天命(vocation)であるという素晴らしい発言をしています※5。なぜなら、それらの分野は、自分自身によって、あるいは、自分自身のうちに、すっかりと見出すことができる天命だからです。自分のなかから引き出すことができるのです。

そして、自分の発見が、フィールドとの関わりが、考えるためのツールを与えてくれるという意味において、まさしくその通りだと思います。そして、深く考えているときは、その考えが他の人の深い考えと合致するということは十分にあり得る話なのです。もちろん、ベイトソンとわたしは同じ考えにたどり着くかもしれませんが、それはその考えが本当はわれわれの考えではないからなのです。それは、われわれが耳を傾けた世界から示されたものなのです。

§

近藤:
日本で行なったプレゼンテーションでは、森での録音を使って、木が倒れる音を聴衆に聴かせていましたね※6。わたしも人類学者としてフィールドワークを行なうのですが、わたしは木の倒れる音を録音するために森にレコーダーを持って行くという考えは全くありませんでした。レコーダーをわざわざ持って森のなかを歩こうということは、どのように思いついたのでしょうか。

コーン:
わたしが用いる方法のひとつは、インタビューではなく、自然のなかや、自然に囲まれて起こっている物ごととして、人々が普段どおりの文脈で話している様子を捉えようとするのです。そのために、テープレコーダーを森に持って行なったのです。

§

近藤:
フィールドワーク中はいつもテープレコーダーを持っていて、どこでも録音を始めていたということですね。

コーン:
森に入るときは、たくさんの物を持って行くのですが、何も使わないときもありました。今、どうやっていたかを思い出します。わたしは本当に興味深い会話を録音したときもありますが、いつも上手くいくとは限らず、結果的にはどうということのない録音もたくさん残っています。

近藤:
『森は考える』で、コーンさんはイメージで考えるという表現を使って、人類学者の考えに特有の感性を表わしているように思われます。そして、著書のなかの写真はとても美しく、とても示唆に富んだものになっているように思います。 イメージで考えるというアイデアは、どのように思いついたのでしょうか。とくに刺激を受けた経験や研究、議論などはあったのでしょうか。

コーン:
わたしがフィールドワークを行なった地域の人々は、数百年前はどの言語を話していたかあまり分かっていないような人びとです。どのようなことばを話していたか、誰も知らないのです。

数百年前から現在にかけては、ペルー由来のケチュア語族のひとつであるキチュア語を話しています。この言語は、インカ文明と共に北方に広がり、アンデス系諸語と密接に関係しています。アマゾンで話されていることには、アンデスで話されていることと密接に関連するものがあります。しかし、興味深い例外もあります。そのひとつが、アマゾンの方言には、アンデスにおける同じ言語には存在しない「擬音語」が、ひとつのクラスと呼べるほど多く生まれているということです。

わたしはそのことに注意を向けるようになりました。わたしは、これが別の考え方への小さな入り口のようなものだということに気づいたのです。そうした擬音語は、いろいろな事を為すことばです。森のイメージを創造することで、森のことを語っているのです。音のイメージ、行動のイメージ、行動が展開されてゆくイメージ。普通のことばの使い方とは、全く異なるものです。そのことばはどれも、本当に写象主義的(imagestic)なのです。それらのことばを調べ、なぜ使われているのか、なぜ森のなかでなのか、なぜアンデスでは使われずにこの場所では使われているのかについて分かろうとしました。

そうしたことがわたしの関心を引くようになり、イメージを考えることへの足掛かりができたのです。そしてわたしが考えるには、つまるところその考えによって、人が森のなかで考えることが可能になるのです。それが「森の思考」にとても似ているからなのです。つまり、言語で用いられているような象徴、つまり恣意的な記号を伴わない思考のかたちであるような、森にいるあらゆる存在の思考にとても似ているのです。

非常に興味深いのは、それがどれほど模倣されるのかによって言語が変わってくる、という点です。また、そうした模倣による部分は言語そのものにうまく収まらないことが多いという点も、興味深く思っています。イメージは全体で、たとえば活用変化させることはできないからです。そして、他の言語にもこのようなイメージ的な部分があるのも面白いところです。日本語にも多いのではないでしょうか。

真の思想家であるアマゾンの人たちとともに、倫理的なプロジェクトへ

近藤:
なるほど、すごく面白いですね。ところで、三つ目の話題に話を移したいと思います。ここからは、「森は考える」以降のプロジェクトについてお尋ねします。現在進められている、「Forests for Trees」というプロジェクトについて教えてください※7。そこでは、アニミズム的概念を実際の環境政策に生かし、関連づけようとするエクアドルの人びとのネットワークと協力されていますね。彼らはどのような活動を行なっているのでしょうか。また、彼らとどのように仕事をしており、そこから何を学びましたか。このようなコラボレーションを通して感じることはありますか。

コーン:
『森は考える』という本は、様々な意味で存在論的な本でした。その本では、世界における物ごとのあり方をテーマにしています。どちらかと言うと学者向けに、世界は現在考えられているものではないことを述べた本でした。もしそうなら、哲学的・概念的な枠組みを超えて、もっと世界に対して正確なものにしていかなければなりません。とくに世界をめぐる議論としては、われわれはみな何らかの仕方で考える森に暮らしているということがあります。それはひとつの実在です。だから、そのことについて書いてみたのです。すると、新しいプロジェクトがかたちになり始めました。

『森は考える』の刊行後に、わたしは「待てよ、考える森というのは実在するだけではなく、良いものでもあるんだ」と考え始めたのです。それには価値があります。そして価値があるならば、その価値が壊されないようにするために、そして世界にそうしたものを増やすために、われわれができることは何かを考え始めました。こうして、わたしの研究がより倫理的なプロジェクトに繋がったのです。存在論的なプロジェクトは、倫理的なプロジェクトに変わっていきました。

そうして、わたしはエクアドルに戻りました。わたしは、2015年から16年にかけて、研究休暇期間をエクアドルで過ごしました。その期間に成し遂げたかったのは、アマゾンにある他のコミュニティと共に活動することでした。これらのコミュニティとは、こうしたたぐいの倫理的プロジェクトを分かち合うことができました。そのプロジェクトは、われわれの生き方やなすことではなく、本当に守るべき良いものなのです。そのことを、わたしたちは人々に伝えています。こうしてわたしは、アマゾニアにある森を石油会社や道路工事から守っている人びとと同盟を結び、世界の人々に伝えようとしています。そうした人びとと共に活動するようになることで、わたしの研究もとても刺激的なものとなりました。

「Forests For The Trees」のという本についてのアイデアですが、タイトルは英語のことわざから来ていて、日本語に相当するものがあるかどうかわかりませんが、英語では「木を見て森を見ず(you can’t see the forest for the trees)」と言います。この表現は通常、細部ばかりに気を取られて全体を見失うことを意味しています。一般性が見えていないのです。つまりこの表現について考えられるのはたいてい、人間には抽象化する能力が特別に備わっているということです。本当にしっかりと考えているときは、適切な抽象化を行なっています。わたしもこの表現について考えていますが、同じ比喩を、文字通りに、また比喩的に考えています。

何が言いたいかというと、森のようなものが存在するということです。森は、われわれがつくりあげる、単なる抽象化されたものではありません。森とは、単なる木々の集まりではないのです。それは創発的な特性ですから、それを構成する諸要素に還元できるものではないのです。ひとつの森という事物が存在し、その森には木々にとって良いものを言い表すための何かがあるのです。比喩的に言えば、われわれはその木々なのです。

つまり、わたしは今では、森とは何かを語るのではなく、気候変動や恐ろしい生態学的危機に直面しているわれわれを、森がどのように導いてくれるのかを問うているのです。今までの人間中心の倫理観が通用しなくなっていることは明らかです。われわれを導いてくれる、より大きな世界の声に耳を傾ける方法を見つけなければなりません。しかし、どうしたらいいのかがあまりよくわかっていないのです。

森のなかに導きを見つけるというのは、実際にはどういうことなのか。アマゾンに暮らす人びとは、その方法について素晴らしい答えを持っていました。そのため、わたしは真の思想家である、アマゾンの思想家、精神的なリーダーたち、物ごとを探求する方法や問いかける方法、関わり合う方法を絶えず問い直すこの人びとと共に活動をしています。彼らと共に事をなすのはとても刺激的で知的な旅ですが、いつでもその目標は、気候変動に対する具体的な方法を考え出すことにありました。

§

近藤:
最近、エクアドルの原油流出事故について、他の著者と共著でアルジャジーラに短い記事を寄稿していましたね※8。この記事も、ネットワークのメンバーとのコラボレーションの産物なのでしょうか。

コーン:
はい、彼女もメンバーです。 わたしは仕事の幅を広げています。以前、アヴィラで仕事をしていた頃の仕事は、わたしと、コミュニティと森だけでした。今ではいろいろな人と共に活動をしています。そのひとつに、サラヤクとサパラという2つの先住民族のコミュニティとのコラボレーションがあります。わたしはどちらとも共に仕事をしていますが、なかには密接な共同作業になるものがあります。わたしは、彼らのアニミズムを政治的声明文書に翻訳する作業を手伝っています。

これは新しいからこそ非常に面白く、魅力的な仕事です。わたしは、教えながら、ある種の翻訳を彼らが行なうことを手伝っています。このことは、その場所で起こっていることを描写する機会を与えてくれるだけではなく、描写することが物ごとに対する考え方といか関係しているかを教えてくれます。こうして、彼らがそうしたことを行なうのを、手伝ってきたのです。さらに、共に執筆もしています。

そうしていると、彼らの夢やビジョンを見る仕方が重要なものになったために、書くことに対する私たちの考え方が変わりました。ことばに対する感情面での応答が、大切になってきたのです。コミュニティとの共同作業の他にも、アーティストとの共同作業もあります。ミュージアムを作ろうとしています。パズルのもうひとつのピースは、弁護士や森の保護に興味のある人たちとのコラボレーションです。

なので、アルジャジーラの記事は、活動家であり学者でもあるマヌエラ・ピークとのコラボレーションから生まれたものです。彼女とわたしは、法廷で争われることになった原油流出事故の証人の友人です。そのため、それに関する記事を書いたのです。

§

近藤:
先住民のコミュニティと書いた文章は公開されたのでしょうか。

コーン:
はい。なかでもとくに面白いのが最初の一本で、それが理由でこのような仕事をするようになりました。サラヤクのコミュニティが執筆し、完成させました※9。つまり、わたしは書いていないのです。編集作業を手伝い、よりまとまったものにしただけです。

文章は、初めからよく練りこまれたものでした。キチュア語で「Kwak Sacha」と呼ばれる、生きている森を意味する概念はすでに出来上がっていました。「生きている森」は、パリで開催されたCOP 21気候サミットで、彼らが発表した宣言です。わたしはサラヤクの人びとからこの宣言を発表できるように、編集する手伝いをしてほしいと頼まれました。そして、それを各国の首脳の前で発表したのです。多くの人の前で発表を行ないました。

文章はアニミズムに関するもので、人類学者にとってはそれほど驚くべきものではありません。このようなアニミズムは、アマゾンの先住民の考え方として重要な部分を占めます。しかし、この文書が他と一線を画するのは、彼らが理解しそれに従い生きているアニミズムを取り上げて、「もし、わたしたちこそが法律を作ることができたら、どうなるだろうか。それによって、法律や財産、主権や権利に対する理解は、どう変わるだろうか」と言っているところにあります。

彼らはアニミズムの考えを政治の領域に持ち込み、どうしたら押し戻すことができるのかを示しています。まずこの作業が終わると、他のコミュニティ、サパラがわれわれの活動を聞いて、森との関係についての知と彼らのメッセージを世界に伝えるために、いくつかの法的な活動を行ないたいと考えるようになりました。これはとても面白いプロセスです。というのも、森の声を聞く様々な方法を見つけながら、そうした文章を書ことになったからです。とても深められています。今までに二本の文書を仕上げ、三本目に取り掛かっています。

世界に耳を傾け、イメージ的な地図制作をせよ

近藤:
コーンさんは、ある論文で、「時代が求める倫理的実践の一環として森の考え方を育てていく」という決意を表明していましたね※10。人類学は、現代にどのような倫理的プロセスを提供できるのでしょうか。あなたは、われわれの今をどう捉えて、現代における喫緊の課題とは何なのでしょうか、人類学は現代にどのような貢献ができるとお考えですか。

コーン:
現代の大きな問題は、気候変動という危機だと思います。皮肉めいて面白いのは、この気候変動は、人間が原因のものだという点です。それは人間のあり方に対する理解を変えてしまいます。実際にこのような影響を与えているのが人類の文化であるならば、それを理解した上で、人間とは何かを考え直さなければならないのではないでしょうか。

また、われわれが生きるこの時代は、地質学的には人間の時代である「人新世」としばしば考えられています。それを考え直す際に、人類学が関わってくるのは、ごく自然なことだと思います。批判としてだけではありません。単に人間は間違ってしまったと言うだけでなく、これから何が可能なのかを提言する立場として。そう、これは創造的なプロジェクトなのです。

§

近藤:
森と同盟を結ぶ新たな方法を考えだす必要があるのですね。

コーン:
はい、その方法を見つけなければなりません。人類学的な問いとして興味深いのが、その解決策が耳を傾けることから生まれるというところです。それを成し遂げるには、いかになされてきたのかに耳を傾け、習得することが必要になるのです。こうした倫理的アプローチを面白いと思うのは、あることが良いとか悪いとか、あるいは道徳的規範を学ぶための異なる場所が見つけられる、と述べている訳ではないからです。その倫理的アプローチは、あなた自身が答えを見つけられると伝える、世界に耳を傾ける特別な方法で、耳を傾ける様式は、生ある世界にある様々なダイナミクスの一部として既に存在しうる、ということを言っているのです。

ここにもある種の並行性、つまり物ごとをめぐるわれわれの考え方との間にあるイメージ的な地図制作(imagestic mapping)が、改めて存在するということです。その地図を通して、そのかたちを、世界に事物が到来するプロセスを通して、事物を考えることを学ぶのです。

§

近藤:
今日はインタヴューに答えていただきまして、ありがとうございました。エクアドルの人々とコラボレーションした文章を読むのが楽しみです。人類学者だけでなく、気候変動や環境災害の問題を真剣に考えるすべての人にとって、非常に重要なことではないでしょうか。

コーン:
今後、もっと一緒に何かができるといいですね。


「More-Than-Human」特設サイト

環境運動から人類学への道のり

山田祥子:
パンディアンさんはこれまで人類学者として大変幅広く研究されてきていますが、その中でも根底にあるひとつのテーマとして「人間の創造性」、つまり、農民や映画作家、また文化人類学者に至るまで、この世界を人がいかに即興的に、常に新しい可能性を創り出しながら生きていくかという問題に関心があるように感じます。ですが以前、別の場※1で、ご自身は大学院に進まれるまで人類学者になるつもりはなく、それ以前は環境関連のアクティビストとして活動されていたともお話しされていました。環境に関わるお仕事をされる中で、なぜ人類学、また特に人間の創造性に関する問いに惹かれるようになったのか、お話しいただけますか。

アナンド・パンディアン:
私はロサンゼルスのコンクリートジャングルの中で育ったのですが、高校生のときから環境問題に興味を持ち、環境保護主義者として自分を見るようになっていきました。これは大学に入っても続き、アマースト大学での学部生時代には「ポリティカル・エコロジー」という学際専攻を自分で組み立てて学びました。ポリティカル・エコロジー(政治生態学)という分野が実際に存在することは当時は全く知らなかったわけですが、私としては、環境政治に関心があったわけです。時代は1990年代、地球サミットが話題で、政治においても環境が重要な位置を占めるようになったかに見えました。私自身、当時のこうした政治情勢から、読むもの、余暇の過ごし方、参加するコミュニティー活動や社会運動など、様々な側面で影響を受けました。またその中で、環境問題は、集団行動はもちろん、ともすれば社会的変革をも伴う政治的問題である、という感覚が養われたのだと思います。このような興味関心から、大学卒業後数年間は、いろいろな環境団体や開発団体で仕事をしました。

1996年に大学院に戻ったときに入ったのは、カリフォルニア大学バークレー校の環境科学・政策・マネジメントの学際プログラムでした。出願は南インドの地方の小さな村からおこないました。当時は地元のNGOで環境開発のプロジェクトに関わっていて、博士号を取得したらまた環境・開発関係の仕事に携わりたいと思っていました。そこで履修した授業、学んだ教授陣は素晴らしく、ナンシー・ペルーソ、マイケル・ワッツといった本物の政治生態学の第一人者らに出会う機会にも恵まれました。ですが、それ以前もある程度は感じていたことかもしれませんが、そのときに考えさせられたのは、社会的・応用的アプローチ両方を含め、環境関連の研究全般は、人間の本質に関するある大前提に基づいたものである、ということでした。つまり、人間とは根本的に問題のある存在で、やるべきことをやるように人を説得するのは容易ではない、という考え方です。その結果、環境に関する専門知識を持つ者は何がなされるべきかを必然的によりよく理解しているということになっていて、そこで問われるのは、その他大勢をいかにやる気にさせるかということでした。

ですが、これは問題のある考え方で、未だに西洋および世界各地における環境分野で広く見られる人種・階級差別主義をよく表しています。私がこのような考え方に疑問を持つようになったのは、ひとつには当時読んでいたものを通してのことです。私自身が南インドの山村の人々と仕事をし、知るようになっていった経験も大きく影響しました。自分たち自身のことや、西ガーツ山脈の森林保護区の端のあの場所に対する考え方、その土地や風景、またその地を労って大切に扱うとはどのようなことかについて、彼らは根本的に異なる解釈を持っていたのです。

たとえば、私が滞在していたオフィスは山腹地帯の中央に位置していましたが、その地域は政府からは「荒地」とみなされ、荒廃して価値のない、然るべき管理のなされていない場所とされていました。ですが、そこに暮らす人々は、その低木だらけの土地の中で数十種もの薬草を見分けることができていました。その一帯を管理する政府当局の役人が殆ど気付いていないだけで、材木にせよ、家畜にせよ、彼らは明らかに日常的な習慣や実践をおこなっていたのです。

こうして環境マネジメントの分野で力を持っていた言説や組織に対して段々と違和感を持つようになり、人類学へと駆り立てられたのだと思います。人は習慣として悪いことをしてしまうものである、だからそれをどう直すべきか考えるのが私たちの仕事である、という前提に立つのではなく、人がどうして特定の行動をとるのかをもっときちんと理解したかったのです。習慣的行動はどのように形成されるのか。有害な事態が生じる原因には何があるのか。個人の行動と政治、経済、社会、文化、歴史といった構造的要因にはどのような関係性があり、それはどのような結果を生むのか。一度立ち止まって問うべきは、こういった問いではないだろうか。このような問題意識に駆られて、私は政治生態学、ひいては人類学へと踏み込んでいくことになりました。

バークレーの人類学部が私を転入学生を受け入れてくれたこと、またドナルド・ムーアが私の指導を快く引き受けてくれたことには感謝しています。ローレンス・コヘン、ステファニア・パンドルフォ、ポール・ラビノーなどからも非常に多くを学ぶことになりました。

ある種の環境主義としてのエスノグラフィー

山田:
そのトップダウン型の管理と、移りゆく中で形成される習慣的実践との対照は、ご著作にも色濃く現れているように感じます。最新の単著、『ある可能な人類学(A Possible Anthropology)※2』では、人類学の研究手法が持つ可能性について書かれていますが、手法について丁寧に考えることがなぜ今重要なのかに関してお伺いできればと思います。

この本は、この「手元の世界」の中のシワにこそ既に可能性や開放性が内在しているとの考えに基づく一方、現在進行形の様々な問題にも触れられています※3。本書はメティスで学者のゾイ・トッドとの会話から始まりますが、彼女は人類学で今なお続く人種差別・植民地主義のレガシーを踏まえ、人類学をいっそ辞めてしまうべきかどうかの苦悩を語っていて、この緊張関係をよく捉えています。こうした中で、世界の可能性と実際性、その両面を考慮する手法の重要性についてお聞かせいただけますか。

パンディアン:
今が困難のときであることに疑いはありません。環境に関してもそうですし、人種や健康、社会の中で誰が受けるべきケアを受けることができるのかという根本的な問題、そのすべてにおいてそうです。また、コロンバスやセシル・ローズなど植民地主義を象徴する人物らの銅像がようやく撤去されてきていますが、ここアメリカや世界各地で人々が格闘している問題の多くは、現在に至るまで続いている植民地主義や帝国主義のレガシーに深く関わっています※4。私たち人類学者はこれらの状況を直視すべきです。われわれの分野を可能にした条件そのものに対して、広く世の中としての反省がなされているのですから。

ここまでのことをすべて言ったうえで、同時にまた主張すべきだと思うのは、何かに問題があるということは、同時に他のやり方で物事をおこなうのが可能であると示唆していることです。物事には他のやり方がありえるのだという発想は、現状の問題点や困難を指摘する批判において必然的に伴う考え方です。一方がなく他方だけが存在することはありえません。アメリカでここ何週間か精力的に声を発していたアフリカ系アメリカ人の文化人の中には、社会正義に向けた闘争において、ビジョンある想像力が果たす役割について論じている方々がいます。

たとえば、先週ワリダ・イマリシャが素晴らしい講演をしていたのですが、その中で彼女は、すべての社会運動はスペキュレイティブ・フィクションであると主張していました。これは彼女が『Octavia’s Brood※5※6』という本の冒頭でも提示しているポイントですが、社会正義のための運動は、他の可能性に関する思弁的な想像力なしにはありえません。社会の編成の仕方、政治のあり方、私たちの互いの関係性について、根本的に異なる別のあり方を想像することが必要なのです。

そうだとすれば、この点について人類学は何か貢献できるのでしょうか。偶然にも、人類学という学問は、経験的現実に対して横断的な関わり方をとりながら発展してきた経緯があります。実際の現実と実現されていない可能性との間の関係性に波長を合わせながら、現実の世界を他のやり方で生きる可能性を、人類学は常に模索してきました。経験主義的探究に対するこうした先鋭的精神が、人類学をその黎明期から駆り立ててきたのです。

もちろん、このようなコミットメントがあるからといって、人類学が潔白であるということではありません。略奪的暴力や搾取への協力者に成り果てた人類学者を、自動的に救済してくれるわけでもありません。しかし、この人類学の精神は、世界の問題とよりオープンな形で向き合い取り組むにあたっての道具を提供してくれます。

『ある可能な人類学』の中の章のひとつは、まさにこの点を示そうとしたものです。本章では、植民地時代の人種差別を体現していたブロニスラウ・マリノフスキと、20世紀初頭の世界の厳しい人種ヒエラルキーに人生を翻弄され続けたゾラ・ニール・ハーストン、このふたりの間を行き来しながら思索しようと試みています。そうすることで、ともすれば自明に思えることを他の方法で検討するという重要な課題に取り組むにあたり、助けとなるある手法が見えてくると論じたものです。このために私たちは、魔術、神話、メタファーといったものの変革的な力に対して、自らを開放する必要があります。

§

山田:
マリノフスキとハーストンは、一見互いに全く異なるようにも見えますが、エスノグラフィー(民族誌)という実践を共有していました。あなたは本の中で、エスノグラフィーこそがこの世界の可能性とアクチュアリティの狭間に向き合う手法を与えてくれる、と論じられていますが、この試みの実用的な側面についてお伺いできればと思います。エスノグラフィーのこのような可能性を成就させるには何が必要となるのでしょうか。また、そこにはどのような感性や倫理が求められるとお考えですか。

パンディアン:
人類学、中でも手法としてのエスノグラフィーは、いかなる環境人文学のプロジェクトにおいても、大きく貢献しうると考えています。ここまでお話ししてきた経験的現実との横断的関係においては、従来とは異なる類の世界への順応の仕方や、既存の手元の世界の中からより広範に問題意識を見出すことが、究極的には必要となります。研究手法としてのエスノグラフィーを通して他者の世界に没入することは、実はある種の環境的方法論でもあります。

エスノグラフィー自体、ある変わった類の環境主義であるとすら言えます。というのは、この世界を丁寧に気配りを持って生きるための知恵は、その時々の状況の困難さや移ろいやすさへのある種の服従からこそ生まれるものだという可能性を、真剣に捉える環境主義です。この世で出会いうる物事の幅広い可能性に対するオープンな寛容さ、これを育むことが私たち人類学者には求められます。未知の環境に対して、支配欲が頓挫したときの失望感ではなく、関わり合いの精神で応じる力を養う必要があるのです。

私が博士論文のためのフィールドワークで南インドの別の地方の山村部に行ったとき、人の心を〈猿〉に喩えるのをよく耳にしました。予測不可能な直観や欲望は抑制されなければいけない、でないと人が人として崩壊してしまうかもしれない、という考え方です。でも、フィールドワーク自体は私に違った教訓を与えてくれていました。エスノグラファーとして私は、自分自身の心をより広く自由に放浪させることを学んでいったのです。

『ある可能な人類学』の中で私は、このように現在を放浪する感性を〈経験の手法〉と呼んでいます。これはつまり、想定外の事態やそこから生まれる困難に対峙する開放性と感応性を養い、予測しなかった状況と共に生きることを学ぶ方法を指します。これは究極的には、この世界の不確実性そのものに、知識や倫理の礎を見出すことでもあります。エスノグラフィーというのは、ある境遇の野性に対する実践的かつ経験的なコミットメントや、物事が思い通りに進むことに対する拒絶なしには成立しえません。ゆえに私は「人類学的遭遇」において鍵を握るある種の感受性は、環境政治や環境倫理について私たちに多くのことを教えてくれると考えています。

他者に対する共感としての人間性こそが人類学的問いの原動力

山田:
だとすれば、今後、支配や進歩に対する執着とは異なる形の環境主義を想像するにあたって、人類学的感受性がひとつ助けになってくれるのかもしれません。本の中であなたは、人類学というプロジェクトが向かうべきひとつの地平、また鍵となる媒体として、人間性について論じられていますが、以前のお仕事では、文章や映画など他の種類の媒体についても考察されています。特に、『リール・ワールド(Reel World)※7』では、思考媒体としての映画を、直観で考え動くことへのある種の招待として捉えていらっしゃいます。このように媒体というものを様々な種類・角度から考えた場合に、人間性をエスノグラフィー的な関係性における媒体として据えることによって、どのような可能性に開かれるのだとお考えですか。先ほどお話しされていた人種差別や植民地主義のレガシーのことを考えると、人間を単一の共同体として捉えるのは難しいようにも思えます。

パンディアン:
これは重要な問いですね。ここで強調しておきたいのは、私が〈来たるべき人間性〉について論じるとき、それは単に人間、つまり種としてのホモ・サピエンスを指すのではないということです。人間性とは、自己とは異なる他者に対する共感感覚や同胞意識のことであると私は思っていて、それは状況の良し悪しを問わずすべての人類学的問いを突き動かすものでもあります。学問分野として、私たちは、他者の経験やその違いに真剣に足を踏み入れたときに何が起こりうるのかについて考えています。

すると、この変革的意図に、私たちが仮にもっと正直になった場合に生まれうる政治的および文化的な可能性に関する問いが湧いてきます。私にとってよい人類学の仕事とは、出会う者の心を揺り動かそうとせずしてはありえません。それは本や映画、物語、教室での授業、どのような形式を取る場合もそうです。いかなる形にせよ、出会う者を動かそうとすることでその作品が試みるのは、共同体感覚の地平を変えること、つまり運命を共にするかもしれないと想像する相手の範囲の境界線を動かすことです。人類学をやっていると、実際的にそのようなことが起こる、もしくは起こりえます。

いつも必ずしも今お話ししたようなことが起きたり機能したりするわけではありません。でも、うまくいくときには、そうやって機能するのだと思います。これは、私自身も人類学者だからだけでなく、エスノグラファーとしても申し上げています。『ある可能な人類学』において、エスノグラファーとして人類学という学問を観察していますが、私はこのように人類学が機能するのを見てきました。

この意味で、私たち人類学者が鮮やかで人の心を掴む物語を通じて出会う者の心を動かそうとするとき、そこでやろうとしていることは、映画作家やその他文化人がやっていることとそう変わらないのかもしれません。目的や組織的立場、忠誠心の所在や制作内容は全く違うかもしれませんが、彼らの活動もまた、文化生活は介入可能な領域である、という感覚に突き動かされているわけです。

たとえば、本の中で私は、リチャード・ラングとジュディス・セルビー・ラングという二人組のアーティストを紹介しています。彼らは北カリフォルニアの海岸で10年以上にわたり集めた海洋プラスチックごみを使ってインスタレーション・アートを制作していて、それらはまるで現代世界の考古学的アーカイブのようです。プラスチックには致死性や毒性がある以上、海から流れ着いた破片を使ったその作品にはある種の恐ろしさがあります。でも彼らアーティストは、この恐ろしさを伝えるには、そのモノへのある種の同情的帰属感を通して見る者をまず惹きつけることが必要だと強調しています。

私たちが人類学の社会的役割についてより率直で、注意深くなれば、われわれ人類学者が展開しようとしている主張が、公の場でも他の文化的制作活動と似た形で機能することがわかるようになるかもしれません。そして、それが人々が連帯感を抱く相手の範囲を動かしたいという想いに駆られている以上、そこには大きな政治的、倫理的意義が懸かっています。これが〈来たるべき人間性〉で私が意味するところです。

ここから生まれるのは、次のような問いです。これらの技法を使って私たちは何ができるのか。これまでおこなわれてきたよりももっと面白いことができるだろうか。これまで他の生き方を犠牲に西洋的在り方をこんなにも独善的に持ち上げてきた人種差別的、帝国主義的レガシーに対して、より効果的に立ち向かうことは可能だろうか。われわれ人類学者はこれらのことを既に一定程度はやっていると私は思いますし、それこそが私たちが今暮らしているような社会の中で人類学が果たすべき役割なのだと考えています。

もちろん、私たちは厳密な意味での学問分野として自負することもできます。でも実際には、他者の経験や自己理解を通じて私たちがやっていることというのは、映画作家や他のメディア制作者が実践していることとそう変わらないのかもしれません。私たちがこのことにもっと誠実になり、この分野での研究の型破りな性質に向き合えば、これまで以上にクリエイティブに、もっと面白くそれに取り組むための自由が生まれるのかもしれません。

§

山田:
パンディアンさん自身も、書き物としてのエスノグラフィーや文学人類学の観点から様々な実験的試みをされていますが、それらもまた、今おっしゃっていたような、人類学の持つ、人を動かす力を力強く証明してくれているように感じます※8。この人を動かす力というのは受け手側にある種の脆さを要求するように思えますが、先ほどのお話では、エスノグラフィー自体、エスノグラファーのオープンさ、つまりやはりある種の脆さを必要とするとおっしゃっていましたね。だとすれば、人類学研究を通じて社会に人間性を育てるという課題は、私たち自身の人間性から始まるのかもしれません。

パンディアン:
そうですね。実際、全くもって冷酷な人類学やエスノグラフィーも数多く存在してきました。今お話ししたことは、われわれがある一貫性や効力を持ってこの倫理的仕事をやり切る能力を必然的に持っていると示唆するわけではありません。ですが、それがこの仕事の根幹をなす暗黙の責務であることには変わりないと思います。

だとすれば、私にとって重要になってくるのは、これらの能力をよりよく育み、その野心をより効果的に実現するための条件を作り出すには何が必要なのか、という問題です。おっしゃる通り、これにはある種の開放性と脆さが必要です。ですからそれには、脆くあっても問題がなく、不安定な立場に陥ったりしない状況の創出が伴わなければいけません。それを可能にするには、様々なインフラの整備が必要になってきます※9

人間的なるものを超えて、イメージの現実喚起力

山田:
そうですね。先ほど、人間性とは私たち以上の存在への共感感覚であるとおっしゃっていましたが、このように広く寛容に人間性を捉える考え方は、近年のポスト・ヒューマニティーズの研究にも繋がる部分があるように感じます。あなた自身もこの分野のご研究に関わってこられていますね。たとえば、『ある可能な人類学』では、ナターシャ・マイヤーズを訪ねて彼女のトロントの都市ランドスケープの木々とのフィールドワークに参加される場面があり、植物の感覚系を理解しようと絵を描いたり、匂いを嗅いだり、地下の根の部分に頭を突っ込んだりもされています。開拓者植民主義や都市化、環境汚染など、その地域の人間的歴史に留意しながらも、人の感覚体験やその変革的可能性を模索した、とても興味深い実験的試みだと感じました。

さらに最近では、新型コロナウイルスの流行当初に世界中でステイ・ホーム令が出され、ここまで蔓延することになってしまったこのウイルスの下でいかに生きるべきか、という問いを私たちは突きつけられています。その中であなたは、〈ホーム〉という概念に関する論評を出され、地球そのものを人間およびそれを超えるすべての存在のホームとして再考することが何を意味するのか考察されています※10。人間性に関するご自身のお考えと近年のモア・ザン・ヒューマン研究の関係性についてお話しいただけますか。

パンディアン:
社会科学および人文学のあらゆる研究分野にとって、今はとても重要なときです。人間は他から孤立して生きているわけではないということを認識させられているわけですから。他者に対する人の行為や希望、欲望は、人間や人間的なもののみでなく、あらゆる類の他の生き物や物質成分から構成された、さらに大きな社会的・物的世界に織り込まれています。それらはわれわれの前から存在していて、今も私たちと共に生きていて、彼らの要求や性向、効力は、われわれが人間としてできることに根本的に影響するものです。ですから、このタイミングというのは、関係性やコンテクストにこれまで以上にしっかりと根ざした形で思考を展開する能力をより深めていくことが求められているのだと思います。近年とても重要な形で発展してきたポスト・ヒューマニティーズの研究の意義のひとつは、そこにあると理解しています。

ですが、ここで興味深いのは、人類学の関心対象が、抽象としての人間であったことは一度もないということです。人について何かしらの知見を得ようとして人間を場所や状況から単に抽象化しようとした人類学の研究は、これまでひとつもありません。むしろその逆で、経験的状況や生活世界、様々な状況のディテールや豊かな肌触りに細かく注意を払わずして、いかなる場所にいる人間のことをも理解することはできない、人類学者は長くそう主張し続けてきました。

ある特定の人間環境で起こりうることを十分に検討するということは、その生活世界に生息し、息を吹き込み、突き動かす力となる、他の人間的および生物・非生物を含めた人間以外の要素まつわる無限の細部に着目することなしに成しえません。ですから、より強固に環境に配慮した方向性が求められている今このときにおいて、それに必要な道具を人類学は長い間保有してきたということを認識するのが重要であると私は考えています。

この点以外にも、どのようなコミットメントのもとに人類学的問いは成立しているのかを問うことはもちろんできます。人類学はある一種類の生き方を理解することに傾倒するあまり、他の生き方を蔑ろにしてきた、それゆえに、われわれがこの世界を共有している他の存在に改めて注視する必要があると、実際にはどの程度言えるのでしょうか。

これに関しては、私たちの分野にとって基礎を成し、大きな影響を与えたきた、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーに立ち返って考えてみることができます。彼については本の中でも第3章で触れています。実に興味深いことに、ヘルダーは18世紀の時点で既に、人間と非人間の境界を行き来するような非常に面白い人間性に関する思索を展開しています。“Outlines of a Philosophy of the History of Man※11”の中で、彼は次のように書いています。

自然は人間を、諸生物の中でも他者の運命に最も密接に携わるよう形成してきた

ここでヘルダーは、単に他の人間のことだけを考えているわけではありません。むしろ、人間と非人間の線を超えたある種の共感的親しみが存在するという事実、さらにはその必要性にまで言及しています。

緑の若木が切り倒されたり破壊されるのを見ていられない人もいる

傷ついたミミズの身悶えするかのような動きを無関心に眺めることなど、心ある人にはできない※12

ヘルダーが説いたのは、すべてに対して自らを投じ、感じ取ることでした。他分野の研究者たち同様、人類学を営む私たちも、人間社会を共有している非人間の他者に対して一層着目しようしています。その中にあって、こうしたより状況に根差した形で物事を理解することに誘いかける開放性は、ひとつとても大切な道標を提供し続けてくれるのではないか、と私は考えています。

§

山田:
もし人類学が、特定の状況下の人間を理解しようと常に試みてきたのであれば、明確に「環境」に関わる研究をおこなう際には、それが一体何を指すのか今一度考えてみる必要もありそうですね。「環境」という概念は、人が暮らすコンテクストに関するある特殊な想定に基づいていることが多く、それは、何が注目に値し保全されるべき環境にあたるのか、という問題も孕んでいます。対して人類学では、膨大な範囲のものを人の生活世界の一部として捉えようとしてきたわけですね。

パンディアン:
まさにその通りだと思います。私たちは環境を人間的であり非人間的であると同時に、社会的であり物質的でもあるものとして語る方法を見つけていく必要があります。それはまた、環境を人間の努力によってのみ生み出されるのではなく、人間の意図を超えた他の多くの存在や要素によって棲まわれ構成されたひとつの境遇として考えることでもあります。西洋の自然・文化の二元論の存在論的奇妙さを単に反復するのではない、より強固な環境概念を私たちが展開しようとするならば、より幅広い枠組みで考えていくことが求められます。この点に関しても、人類学の歴史はまた違ったやり方でそこに焦点を当てるためのひとつの方向性を示してくれると思います。

§

山田:
自然・文化二元論の再考に関しては、エドゥアルド・コーンの著作に関連してお伺いできればと思っていました。コーンはパースの理論的枠組みの中のイメージ、つまりイコン(類像記号)に着目して、人間独自の現象と考えられてきた言語を地域化することを試みています。一方、パンディアンさん自身の特に映画に関するご著作の中では、「言語だけでなく生命をも地域化する」可能性について言及されていて、たとえば映画作家たちと物質的環境との情動的遭遇が、その結果できる映画に組み込まれていくプロセスについて考察されています※13※14。ここで言われているイメージの役割について、人間および人間以上の観点から改めてお話しいただけますか。

Vimeo: Anand Pandian “Liquid Cinema” (2017)

パンディアン:
長い間私が大きな影響を受けてきた文章に、フリードリヒ・ニーチェによるエッセイ『善悪の彼岸※15』があります。その中でニーチェは、この世界にまつわる知識に関するあらゆる主張は、常に必然的に比喩的であると述べています。私たちが抽象的真実や主張として当たり前に思っていることは、そのメタファー性を忘却されたメタファーに過ぎないというのです。

他の多くの思想家同様、ニーチェにとって、思考するということ、理解するということは、必ず情動的で、根本的に感覚的かつ身体的、そして経験的なものでした。つまり、考えることと感じること、思考と身体を不可分なものとする発想です。それは思考に対して、その身体的・感覚的生活へのインパクトの観点から向き合う方法でもあります。

イメージと一言で言っても、メタファーと呼ばれる言語的イメージ、写真や映画といった視覚的イメージ、また音のイメージや匂いのイメージなど様々な種類のものを考えることができます。これらに一貫して私がイメージに惹かれるのは、それが思考の物質的基質として働くからです。イメージの力は、その伝達先であり媒体でもある身体から切り離せないものなのです。

映画や映画制作の世界では、これらの問題について多くの大変興味深い思索がなされてきました。たとえば、ロシアの映画監督であるジガ・ヴェルトフは、キノグラース(映画眼)という概念を提唱しました。ドゥルーズも『シネマ※16』で、モノの目、つまり、世界の外部に立つのではなく、世界そのものに内在したある種の見る能力として触れています。また、フランスの映画批評家であるジャン・エプシュタインは、“The Intelligence of a Machine”の中で、「映写機は普遍的変質の力を有する」と述べています※17

インドや世界各地の文学・哲学的伝統の中にも、イメージと想像力の関係性についてとても面白い考え方があります。デビッド・シュルマンが『More than Real※18』という素晴らしい本の中で示しているように、16世紀の南インドの文学作品では、想像は単に精神上の作り話ではなく、現世的かつ極めて生成的な力として捉えられていました。想像はイメージを通して現実の豊かさや強烈さを増幅させるというのです。

ここでこういったお話をして、環境人文学の観点からイメージを軽視できないと考えているのには理由があります。イメージは、思考の基質でありながら還元不可能なレベルで物質的であるがゆえに、物事の外部に立って遠くから理解するという幻想を見限る必要性を、私たちに突きつけてきます。現代の環境危機やそれに対して、われわれが向き合えない今の状況には、デカルト的心身二元論が大きく関わっていると考えられます。そうだとすれば、その二元論を拒絶して他の枠組みで思考するにあたって私たちが持っている最良のツールは、思考は世界から距離を保った場所で起こるのではなく、世界そのものに属するものだと主張する類のものであるということになります。

コーンは『森は考える ― 人間的なるものを超えた人類学※19』の中で、人間による社会・文化的構築を超えたところで意味というものを考えるひとつの方法を提示してくれました。概念による支配という近代的自惚れを再考していくにあたり、イメージはひとつ大きな道筋を示すものであると私は考えています。イメージは、知覚とモノの関係性を再想像する方向に後押ししてくれるからです。

チャネルとしての人類学、自身を超えて生きつづけるものをつくり続ける

山田:
著作でも触れられていますが、今おっしゃったことは、人類学の中で伝統的に維持されてきた、調査するための「フィールド」、戻って論考をおこなうための「ホーム」という区別に対しても、興味深い別の可能性を示してくれるのかもしれません※20。思考が物質的な基盤と不可分なのであれば、フィールドから戻って始まると考えられていた人類学的思考は、実はフィールドでこそ起こるということになります。

パンディアン:
私自身、人類学の役割はチャネルやメディアであると考えるようになりました。他の誰も見たことがないことや考えもしなかったことを私が見たり発明したりするわけではありません。人類学者として私は、ある知見の独立的・主権的根源でも、知覚の中心でもありません。私が扱うイメージは私自身から来るわけではないのです。伝達チャネル、コミュニケーションメディアとして、私はイメージが通過するひとつの場所に過ぎません。

このような考え方には、ある種の環境倫理が懸かっているようにも思います。私が理解しようとするのは、私なしには無意味な世界ではありません。私にできる精一杯は、私以前から存在している他の生き方を、目に見えて飲み込みやすい形にすることで、願わくば私自身を超えたところで生き続ける何かを作ることだけなのだと思います。

§

山田:
もし人類学者がチャネラーなのだとしたら、その伝達の過程で私たちがする仕事というのはどのようなものなのでしょうか。

パンディアン:
やや挑発的な言い方をすると、最良のときにおいてさえ、それは単に研ぎ澄ます作業に過ぎないのだと思います。より鮮明かつ人の心を捉える形で物事に焦点を当てる作業ですね。プラグマティズムを唱えた哲学者のジョン・デューイは『経験としての芸術※21』という本の中で、一般的な〈経験 (experience)〉と〈ひとつの経験 (an experience)〉を区別し、前者と違って後者には質的統合性があると述べています。芸術作品は往々にして、このように感覚を集中・調整するはたらきをしてくれます。フィールドでの体験を伝えるときに私たちがおこなう作業というのは、このようにしてある経験を研ぎ澄まし、焦点を当て、質的統合性を可能にする作業だと私は考えています。

これは実はフィールドワーク以外にも、読むこと、書くこと、教えることを含めて人類学者の仕事のあらゆる側面に言えることです。学生指導を例に取れば、人類学における効果的な教授法というのは、われわれ教える側が教材に対して絶対的権威を主張することでは実現しません。むしろ、教室の中で創発されるアイディアや驚きに常にアンテナを張り、それに向き合うことでより理解しやすい形に咀嚼し、そうした出会いがわれわれの集合体としての思考や存在の質感そのものを変容してくれるような絶え間ないプロセスにこそ、本質があると思います。このように、変革的な出会いを育み、研ぎ澄ます方法こそが、人類学の持つ〈経験の方法〉だと考えています。

人新世はうまくまとめられすぎていないだろうか、と人類学者は考える

山田:
少し話題は変わりますが、次は人新世についてお伺いできればと思います。これについては、つい最近、シムニー・ホウとの共編で『まだ見ぬ人新世(Anthropocene Unseen: A Lexicon)※22』を出されています。この論集は用語集という少し変わった形を取っていて、各章がある概念に関する僅か数ページの短いエッセイになっています。この形に辿り着かれた経緯についてお話しいただけますか。人新世に関する本であるという点も影響したのでしょうか。

パンディアン:
この形は、もしかしたらどんなものもそうなのかもしれませんが、常に発展途上でした。当初はこのような本を作る意図はありませんでした。もともとの始まりは、2015年のデンバーでのアメリカ人類学会大会でのパネルです。ラウンドテーブルとして実施する予定だったのですが、何人か急に来れなくなった人が出てしまい、パネルをそのままやるか中止にするべきか迷いました。結局行き当たりばったりではありましたが、直前になって大会に来ていた面識のある人たちに短い文章を提供してもらうようお願いしたら、興味を持っていただいて、みなさんが参加に同意してくださいました。最終的には、ラウンドテーブルの予定だったものが、10から15程度の特定のキーワードに関する短いプレゼンとなり、とても面白いものになりました。

すると、聴衆の中にいたゾイ・トッドが立ち上がり、即興で別のトピックに関するスピーチを始めて、それ自体がまた別の見出語のように感じられました。その後パネルをアメリカ文化人類学会のウェブサイト上でシリーズ化することになったのは、そこから着想を得たところが大きいと思います。サイトでは彼女の論考も入れました※23。ですが、最初に15程度のエントリーが出揃ったところで、他には何があるだろうと疑問が湧いてきたわけです。プロジェクトはそこから大きくなっていき、最終的にはサイト上で50程度、論集では85ぐらいの見出語があったかと思います。

なぜ用語集か。このプロジェクトを突き動かすものは、これまでお話ししてきたことと関係しています。このプロジェクトを「まだ見ぬ人新世」と名付けたのは、人新世という概念があまりに一般論的で、物事を丸く収めようとしすぎているのではないかという懸念を、他の人類学者や社会科学者同様、シムニーと私が抱いていたからです。現在人新世と呼ばれるようになった地質学的状況を作り出すにあたって、ヨーロッパやアメリカ以外に暮らす多くの人々が果たした役割は遥かに小さいわけです。その生活や経験からしてみると、人新世というのは不公正で不当な一般化だと言えます。実際、この惑星で生きるにあたっての彼らの営みは、人間による人新世的支配がそもそも何を意味しうるのかを想像するにあたり、全く異なる可能性を示してくれるかもしれないのです。

ですから、このプロジェクトでは、オルタナティブな可能性や、今この時代およびその全体性を理解する他の方法を記録してきました。各章がそれぞれにこの時代を概念化する別な方法を提示することで、ともすれば不可避に見えるこの状況を、根本的に異なる方法で理解することが可能になることを示したかったのです。そのためには、特定の用語に着目して、それがある異なる状況でどのように使われてきたのかの観点から考えることが必要でした。その着眼点は経験的なものから歴史的、社会的、芸術的なものまで様々です。

結果として、この論集は仮定の集まりとなりました。こう見たらどうなるだろう。ああ見たらどうなるだろう。その目的は、ある特定のひとつの観点から見なければならないと主張することではなく、多くの異なる観点から見る方法を学ばなければならないということです。用語集という形を取った最大のモチベーションは、今のこの状況は同時に様々な角度から検討されなければならないという発想に対する、シンプルなコミットメントにあります。用語集という形は、それを達成するためひとつのやり方を与えてくれると思います。

§

山田:
この点に関連して、論集の序章では、「緊張を孕んだこの瞬間の意味を成すには、どんな見るべき何かがそこにあるのかというシンプルな問いから始まる」と書かれています※24。そこでも指摘されている通り、人新世概念の全体的な性質はある種の無力感を生みかねませんが、一歩引いて周りを見てみるというのは、物事が他にどうありえるのかを想像し始めるにあたってひとつ大きな助けになるのかもしれません。人新世概念が批判を受けてきたのは、現在だけでなくそこに至るまでの歴史上の〈人類 (anthropos)〉の中の違いを無視してきたこともあります。この概念自体、新たな地質時代を提唱することで過去からのある種の決裂を示唆しますが、終末論的危機感というのは歴史的に周縁化されたコミュニティからしてみれば今に始まった話ではないわけですよね※25※26。論集の中で書かれているように現在の複数性を探るにあたり、このような不均一な歴史的経験をどのように考えればよいのでしょうか。

パンディアン:
現在というのは、〈現前化〉なしにはありえません。今この瞬間という感覚は、解釈や枠組みによってある特定のものに存在感を与え、他を不在とみなす行為によって成立しています。この点において、人新世というのは、ある種のメタ物語であると言えます。これはリオタールが『ポストモダンの条件(The Postmodern Condition)※27』の中で、近代のメタ物語について論じている意味においてです。いかなるメタ物語でもそうであるように、これにはある一貫性や現実味を与えるための特定の形の現在化が必要です。

ここで、この論集がふたりの人類学者によって編集されたということが重要な意味を持つと思います。本の中には人類学者に限らず、アーティストや人文学者など、様々な分野からの論説が収録されています。ですが、編者が人類学者ふたりであったことで、メタ物語における存在感や不在感に関するこれらの問いを、論集の中心に据えることができたのだと思います。何に存在感を与え、何を不在のままにしておくのか。存在感を持つものは、どんな犠牲のもとに成り立っているのか。異なる場所や物語、視点に存在感を与えることは、何を意味しうるのか。他のものに存在感を与えることで、われわれの抱く現在に対する意識にどんな変化が起こるのか。こういった類の問いが、論集の制作にあたり大きな役割を果たしました。

そこで主張したかったことはシンプルで、地球環境に対する現状での人間の影響力を前に、他の考え方や向き合い方により大きな存在感や鋭い焦点を当てることで、そうもしなければ考えもしないかもしれない重要な介入や潜在的変革の可能性を私たちは手にすることができるかもしれない、というものです。究極的には、現在というのは時間的カテゴリではなく、時間と空間の連鎖による時空間(クロノトポス)であるという点を強調しておきたいと思います。今この状況の時間的論理というのは自明に感じられるかもしれませんが、それを問い直して活性化していく必要があります。存在感に関する問いを立てることは、それにあたって大きな可能性を持っていると考えています。

§

山田:
現在はある種の時空間であるという点に関して、あなたの著作を拝読する中でとても印象的なことのひとつに、現在の社会を考えるうえで歴史を複数の形で織り込まれていくことがあります。たとえば、先ほどもお話に挙がった通り、『ある可能な人類学』の一章では、マリノフスキとハーストンを並べることで、人類学における経験主義と思弁の実践という現代的問いについて考察されています。また、最初の単著である『曲がった茎(Crooked Stalks)※28』では、南インドのカラ―ル(Kallar)カーストのコミュニティが、植民地化以前、植民地時代、独立後それぞれの過去から受け継がれた複数の断片的要素の中に道徳的支えを見出していく様子が描かれています。一方人新世は、将来や加速に対する衝動にひとつの特徴があると言われています。いわゆる人新世がいつ始まったのかについてはいろいろと議論がありますが、グレート・アクセラレーションと呼ばれる時代にひとつの答えを見出す研究者もすくなくありません。もし現在がひとつの時空間であるとすれば、歴史を掘り出して語り直す作業というのが、人新世に関連する「加速」と向き合う方法を与えてくれる可能性はあるのでしょうか。

パンディアン:
「加速」というのは、私が訪れたことのある世界中のあらゆる場所においてひとつの事実ではあります。南インドの遠く離れた山村部においても、25年ほど前に私がフィールドワークを始めたときに比べて、物事が動く速度は遥かに増しています。モーターバイクや携帯電話を持つ人も多くなりました。こういった情報伝達の即時性や動きの速さは、私がこれらの場所で最初に時間を過ごし始めたときには想像もできなかったことです。ですが同時に、加速に向き合い、グレート・アクセラレーションといった概念について考える際には、一体何が加速したりそんなに速く動いているかを問わなければならないと思います。

最も単純なレベルで、私がその最初の本で言いたかったことは、インドのような場所において、近代というのは私たちが思う以上に複雑なものであるということです。現在の生活というのは植民地時代および独立後を通じておこなわれてきた特定の近代的な形の開発主義や介入の遺物でしかありえないと考えられがちです。それは当然そうですし、重要な指摘です。ですが、現在の状況に批判的に関わるための道具として人々が共に生き、向き合い、頼みにしているものの中には、もっといろいろなものが含まれています。

私たちは、今動いているものが何にせよ、それがひとつの場所だけから来ているわけではないことを忘れてはならないと思います。今出回っているものはある特定の起源だけから派生してきたわけではなく、あらゆる種類の生き方や想像力、或いは人間・非人間を含めた他者と共存する方法が、いろいろと混ざっているわけです。こういった様々な文化的遺物は、生きていくうえで大きな助けになってくれるものです。

人類学に課されたひとつの重要な任務に、失われつつあるものを回復すること、さらに言うならば、救済すること(サルベージ)があります。サルベージ人類学の考えが厄介なものになりえることは理解しています。それは北米の帝国主義的征服から生まれた発想でもあります。しかし、われわれ人類学者のしていることというのは未だに往々にして、過ぎ去ったものとされる要素や物語、ものの見方や生き方を回復したうえで、それらが今に至るまで持続してきた可能性を主張することであると思います。その中で、そういったものに居場所を作ったり、それらを置き去りにしたかに見える世界にあってそれらがどんな未来を持ちうるのかを想像したりすらするわけです。

先日、『まだ見ぬ人新世』にも参加しているイザ・カヴェジヤの編集による10の短編シリーズに寄稿する機会がありました。シリーズはアメリカ文化人類学会のウェブサイト※29に掲載されているのですが、ボッカチオの『デカメロン※30』の現代版で、いわばパンデミックにおける10の物語集です。私が書いたのは小さな思弁小説で、遠い未来のインドの山村部を想像しようと試みたものです。書きながら実際に考えていたのは、フィールドワークを中によく知り合うことができた人たちのことです。彼らを消えゆく過去にしがみつく存在として捉えるのではなく、彼らのしていることや考えていることを、今はまだなき未来の社会の礎として想像してみたらどうだろう。そんなことを考えながら実験したみたんです。人類学において現在に対して批判的に関わることというのは、このようにして過去と未来を錯綜させることなのだと思います。そうすることで、一見過去の遺物にしか見えないようなものの未来性を主張することが可能になります。

想像力や共感の限界と可能性をめぐる今後の研究について

山田:
最後に、現在進行中のご研究についてお伺いできればと思います。今取り組まれていることや、本日お伺いしたアイディアの新たな方向性など、お聞かせいただけますか。

パンディアン:
今進めているプロジェクトは大きく3つあります。2016年の大統領選挙以来、アメリカにおける壁、境界線、国境に関する本に取り組んでいます。現代アメリカにおいて、〈壁〉なるものが環境に関するメタファーとして持ちうる訴求力について、理解しようと試みるものです。実は既に原稿を書いたのですが、パンデミックや直近の人種差別反対の抗議活動や運動など、今年起きている様々な出来事をもとに考え直さなければいけない状況です。このプロジェクトで検討したいのは、多くのアメリカ人が他者の苦しみを無視することを可能にしている〈無関心の壁〉とも呼べるものに関してです。この〈壁〉は、たとえば、国境の壁が移民・難民の人々が直面している悲惨な状況に対する応答として持ちうる魅力に、よくあらわれています。

ですが、それは現代アメリカにおける生活の他の側面においても顕在化しますし、いずれもある根本的な意味で冷酷かつ反環境主義的なものです。例としては、要塞かのような住宅の出現が挙げられます。これは家というものを、不安定な世界からのある種の避難所として捉えるものとして考えられます。また、SUV(スポーツ多目的自動車)に代表される巨大な乗り物が台頭してきていて、動く装甲装置として環境を支配する手段のようにすら機能するようになりつつあります。また、身体の脆さに関する考えから、その健康を守るために排他的手段が使われるようになっており、より不安定な環境に暮らす他者をそのために犠牲にすることすらいとわないのです。このプロジェクトでは、今挙げたようなことを考察してきました。最終的にどうなるかはまだわかりませんが、今はこの国で大きな変化が起きようとしているときであり、この現状にかなう形にするためにこの文章にどう手を加えるのがよいのか、考えていくつもりです。

もうひとつ取りかかり始めた本は、腐敗に関するものです。脱成長運動を追い始めたのですが、私が特に関心を持っているのが、経済成長への執着に対するひとつの応答としての脱成長という考え方です。それはまた、活力というものを従来とは異なる形で思い描くことを招くとも捉えることができます。直観として、これらの問いに切り込むひとつの方法は、成長への固執によって気付くのが難しくなっている類の変化のプロセスについて考えてみることなのではないかと思っています。

たとえば、私たちは成長の裏側としての腐敗をなかなか認めることができずにいますが、その難しさ自体に着目しようというわけです。そうすることで、腐敗や非恒久性といった現実と共に生きる生き方が存在すること、またその中には、成長以外の願望や福利の考え方を前提として社会や経済を編成するための実用的な手掛かりが隠れているのを示すことができれば、と思っています。実際のフィールドワークも始めていて、本では世界4ヶ国からの4つの物語集の形を取ることを想定しています。

最後に、これはまだ私の頭の中でも整理しきれていないのですが、私がこれまで取り組んできた様々なプロジェクトのほとんどすべてに関わる、あるアイディアに関する本について構想を始めています。それは、私の仕事の中で重要な問題であり続けてきた、環境倫理についての考え方の根底にあるものとも言えるかもしれません。それは「開かれた心」についてです。つまり、世界やその予測不可能性と移ろいに対して「開かれた心」、またある種のエコロジカルな応答性としての「開かれた心」を養う可能性のことです。これまでいろいろなプロジェクトに取り組んできましたが、それらは「開かれた心」の人類学とも呼べるものの各章を構成しているのではないかと考え始めています。先日、これらのアイディアについてインドのインフォシス科学財団での講義として探索する機会があり、いずれそう遠くない将来には本の形にまとめられればと思っています※31

§

山田:
想像力、好奇心や共感の限界と可能性に関するこれらの問いは、ますます重要性を増していくようにも思えます。本日は示唆に富んだお話をいただき、本当にありがとうございました。今後もパンディアンさんの著作を通して考えていくのがとても楽しみです。

パンディアン:
ご質問を聞きながら改めて考えるのもとても楽しかったです。このような機会をいただき、ありがとうございました。


「More-Than-Human」特設サイト

宮本万里:
ご著書 “Animal Intimacies: Interspecies Relatedness in India’s Central Himalayas※1”に対するアメリカ人類学会の2019年のベイトソン賞の受賞おめでとうございます。今日は、この本の中身を中心にインタヴューを行ないたいと思います。

本書のなかでは、ヤギ、ウシ、サル、ブタ、クマという5種類の動物を主に取り上げていますね。これらの動物のうち、サルやクマは明らかに家畜化された動物ではありません。家庭で飼育されている家畜と野生動物とでは、村の人々と動物との関係性は全く異なると想像しますが、この5種類の動物に関する物語を1冊の本にまとめようと考えた理由は何だったのでしょうか。また、これらの複数の動物の関係性を通して何を伝えたいと考えたのでしょうか。

ラディカ・ゴヴィンドラジャン:
私は、修士号を南アジア近代史で取り、修士課程では、同地域における植民地時代の野生動物保護に関する研究を行いました。その後、博士課程の研究として、そのテーマでフィールドワークを行いました。私が博士課程を開始した当初は、野生動物の保護に焦点を当てつつ、それを現代にまで拡大していこうと考えていました。しかし、私はすぐに、野生動物と家畜動物といった分類は歴史的背景に左右され変化するものであって、その境界は常に曖昧であることに気がつきました。例えば、ヒョウが村をうろついて人を襲うのは、神々が「バリ」、つまりは家畜の生贄を望んでいることを示しています。ゆえにヒョウは神々にとっては家畜化された動物なのだ、と村人が私に言ったことがありました。こうした分類における流動性が、様々な動物がどのように異なる場所に出入りしているのか、もっと深く考えてみたいと思うきっかけです。それによって、「野生動物」という自明で不変の分類に違和感を覚え、人間と人間以外の動物が日常的に遭遇していくなかで、このような分類が、いつどうして意味を持つようになったのかを考えるようになりました。

なぜこの5種類の動物なのかという問いについては、これらの動物が、それぞれが全く異なる状況に置かれていると考えるからです。本書における重要なポイントのひとつは、個々の動物やその集団の歴史・性質・行動が、特定の社会的関係や社会を構築する上で欠かせないものだという点です。

血縁関係の一形態としての生贄に関する章は、ヤギの物質性とその性癖、そして人間とヤギとの関係性について扱っています。ウシの保護に関する問題や、国家の開発プロジェクトが「外来種」のウシを飼うのか「在来種」のウシを飼うのかというジレンマをどのように生み出してきたかという問題などがあります。それらについては、様々なウシの特性を実際に知ることによってのみ解決することができるのだと思います。外来種のウシへの懸念や、そのことが文化的アイデンティティに与える影響については、平地の都市部から山村に置き去りにされたサルの話を通して探ることができます。私がヤギを通してこうした話を語ったとしても、同じものとはならなかったでしょう。なぜなら、帰属に関するこのような話が可能になったのも、外来種のサルの行動があったからです。セクシュアリティと家父長制に関する問題は、クマの話を中心にしています。

はじめにこのような大きなテーマに興味を持ち、そのテーマが特定の動物によって具現化されていることに気づいたのです。最初に本書を執筆しようと考えたとき、各章で異なる動物を取り上げることになるとは思ってもいませんでした。各章は「生贄について」「宗教と保護政策について」「所有と移動・移住について」、そして「セクシュアリティについて」の章になると考えていました。しかし、執筆を進めるうちに、「なるほど、それぞれのテーマは、これら5種類の動物と、人間・神・国家・人間以外のその他動物との間にある状況化された関係性によって明確に説明できるのだ」と思うようになりました。ですので、異なる動物を中心に各章を構成したいとはじめから考えていたわけではなく、こうした経緯を通して本書の構成が自然と出来上がりました。

人間の代わりに犠牲となるヤギ

宮本:
第2章はヤギの生贄についてでしたが、そこでは、生贄として捧げる動物を世話する村の女性たちの労働とその価値について書かれています。

南アジアにおいて女性と「自然」との関係性や愛着を説明する際、ヴァンダナ・シヴァ※2などが主張するエコフェミニズム等の既存の理論を通して説明されることが多いですが、あなたは女性の労働に焦点を当てることで既存の理論を全く異なる方向へ導いており、その分析視角は非常に新鮮でした。

ゴヴィンドラジャン:
そうですね、ある種のエコフェミニズムの文献は、このような本質化された範疇で議論される傾向にありますが、それは、たとえそのような主張が善意に行われたのとしても、本当に問題だと思っています。とはいえ、いくつかの研究は、自然に対する女性の親和性を示す例としてエコフェミニストたちが支持しているチプコ運動などについて議論しながら、これらの主張を見事に複雑化させています。例えば、ハリプリヤ・ランガンは、女性が「生まれながらの」環境保護主義者であるというエコフェミニストの主張は、実際には女性たちが抱く経済開発への願望を不可視化することになっていると指摘しています※3

そもそも彼女らが抗議を行う理由のひとつは、このような状況で生きていくことの難しさに注目してもらうことにあります。私にとって、カースト・資本・ジェンダーといった政治経済的問題について考えることは非常に重要であり、女性の自然への親和性を生来的なものとして崇拝することに対する重要な対抗手段となります。私は、広範囲の構造的な要素によって形作られる労働の特定のやり方から、どのようにして感情的な愛着や葛藤が生まれてくるのかを探ることに興味があります。生贄を扱った章では、このように、母性的な愛着というジェンダー化された言説が、動物の世話において、女性が全責任を背負うという家父長的な労働体制によって、どのように形作られているのかを考えています。

宮本:
人々の労働の軽重が神々によって計測され、その労働だけがヤギを貴重な生贄として価値あるものにするという考えは、刺激的であり興味深いと思います。他方で、あなたの主張の中では、野生動物を生贄にするという習慣の有無やその価値については、全く触れられていないようです。狩猟を通した野生動物の供儀のような習慣は、あなたのフィールドとする山間部にはもともと存在しないのでしょうか。あるいは、現在のように家畜を生贄とする風習は、実際には平野部の人々によって持ちこまれたものである可能性はあるでしょうか。

ゴヴィンダラジャン:
興味深い質問ですね。ヴィーナ・ダスといった研究者は、ヴェーダ時代までさかのぼれば、人間も生贄となる5種類の存在のうちのひとつであったのだと主張しています※4。私たちが野生動物と呼ぶ動物も含め、さまざまな種類の生物が生贄として供されてきました。しかしながら、私のフィールドワークの対象地域では、生贄とされているのは家畜だけです。この地域の生贄の歴史が示すように、本来の生贄は人間でしたが、悲しみにくれた両親の嘆願の末、神々は人間の代わりに動物を生贄にすることを許しました。しかし、その代替の生贄を失うことは、痛みと悲しみをもたらさなければなりません。簡単に別れられるなら、本来、犠牲とはならないからです。

狩猟に関して述べると、この地域において植民地時代と植民地後の野生動物保護の歴史が長く、法的な規制の結果、狩猟はほとんど行われなくなりました。この地域の人々は、「密猟」により、国から罰金や投獄という罰則が与えられることを恐れました。時折ジャングルの鳥を殺したり、イノシシを殺す話をする人もいますが、野生動物の狩猟は決して一般的なものではありません。私が話を聞いた人々のなかで、野生動物を生贄として捧げたと記憶している者はいませんでした。

そうは言っても、この地域のある特定の寺院では、生贄となる動物やその方法について、今述べたことと違う部分もあります。デヴィドゥラ(Devidhura)という寺院で聞いた話によると、女神は、人々が人間の代わりに動物を生贄として受け入れて欲しいと懇願した際、こう言ったそうです。「よろしい、では動物の生贄を受け入れるが、人間の血も捧げるように」と。ラクシャー・バンダンの日にこの寺院で何が行われるかというと、寺院の世話を任されている4つの氏族が寺院に集まり、10分間互いに石をぶつけ合うのです。そして、戦いの後に地面に十分な人間の血がこぼれていれば、女神の人間の血に対する要求は満たされた、と考えることにしたのです。そしてご想像の通り、この種の儀式は、多くの活動家や第三者の不安の種となっています。なぜなら、儀式的な投石が例証したように、これには「近代性」が欠けているとして受け取られたためです。

しかし、この場はたしかに「近代的」な空間であり、祭はすくなくともこれまで数回は(携帯電話会社の)ボーダフォンがスポンサーとなっていました。このイベントの見物者には、携帯電話のSIMカードが配布されることもあったのです。これらの祭りは、しばしば地方公務員らによって開催されていました。活動家がどのように生贄というテーマに取り組むかを決定づける、伝統と近代性の言説を考えるためには、この場は本当に魅力的な空間だと思います。

在来のウシと外来のウシ、ウシ保護論者とヒンドゥー・ナショナリズム

宮本:
第3章では「パハリ牛」と呼ばれる在来牛に対する人々の愛着・執着が描かれています。パハリ牛あるいは在来牛というカテゴリーは、「商用牛」や「近代牛」と呼ばれる外来種のジャージー牛と比較するなかでその特徴が明確化します。本を読んで、牧畜村の発展のために政府がジャージー牛を導入したブータンの事例が思い起こされました。私が調査を行っているブータンの村の村民は仏教徒です。ウシにはヒンドゥー教のような宗教的価値はありませんが、外来種のウシが季節的な移牧の妨げになることが懸念されており、人々は交雑が進むことを心配していました。あなたがフィールドワークを行った地域では、在来牛がジャージー牛と交配した場合、生まれた雑種はジャージー牛とみなされるのでしょうか。また在来牛だけが持つ宗教的な力を認める一方で、地域の人々は、この2種類のウシの境界をどこに定めているのでしょうか。

ゴヴィンドラジャン:
これらのウシを交雑させた場合、通常は「ドガラ(dogalla)」と呼ばれ、2つの品種の中間に位置づけられます。それは、もう「純粋な」在来牛とはみなされません。

ヒンドゥー教至上主義者の言説の中でも、在来性が特に重要視されています。現在、多くの牛舎では「うちは在来牛しか飼っていないよ。外国産の牛は要らないね」と言うでしょう。そして、本書にもある通り、確かハリヤーナー州だったと思いますが、ある政治指導者は、ジャージー牛の牛乳を飲むと、ジャージー牛自身が犯罪者の性質を持っているため、犯罪者になってしまうという類のことを言っていました。その言説の中には、非常に強い排外主義的な歪みがあります。「在来牛の繁殖のみを推奨すべきだ」と国に提言するウシ保護論者も出てきています。そして、国はある在来品種の再現プロジェクトにも投資しています。

しかし、酪農を農村開発の原動力にしようとするのであれば、ジャージー牛よりも乳量がすくない「パハリ」種を奨励するのが難しいという事実は変わりません。乳量が多いとの理由から、サヒワール種や平地系の在来品種を勧める人もいますが、このような地形では飼育はより困難です。つまり、酪農とウシの保護を同時に推進するというこのプロジェクトの核心には、軋轢が存在するのです。私が本書で述べたなかでの最大の葛藤のひとつは、「ジャージー牛をどうすべきか?」という問題で、ヒンドゥー教至上主義者と地元の人々の双方を悩ませています。ウシ保護論者は、外来種のウシは純粋でなく、犯罪者で、愛情や世話をするに値しないと思っていても、「ああ、このジャージー牛は外来種だから殺しても良いのだ」とは言いたくないのです。結局のところ、これらのウシもまたウシなのですから。そして、この認識が行き詰まりを生み、彼らが現在、解決しようとしている難問を生み出しています。彼らの多くは、現実にはそこまで多くのウシを育てることができないこと、そして国によって酪農がこれほどまでに推進されている限り、雄牛や老齢牛を見捨てざるを得ないことを認識しているからです。

ケイティ・ガレスピー※5やヤミニ・ナラヤナン※6ようなフェミニスト研究者が指摘するように、乳牛の理にかなった末路は牛肉なのです。この点は、右翼のウシ保護論者の多くが考え抜こうとしている問題だと思います。本書では、世界ヒンドゥー協会(VHP)のある指導者が、ヒンドゥー教徒はウシを捨てても非難されるべきではなく、ウシを捨てず手放さないよう人を説得する方法を考える責任は、ウシ保護論者にあると主張したことについて述べています。彼らは、「どうすれば酪農にも焦点を当てつつ、在来牛を推進できるのか」と問いかけています。そして、それが時々、興味深い意味で国家との対立点となって現れるのです。

§

宮本:
現在のインドにおけるウシ保護を取り巻く環境について知ることができ、とても興味深く感じました。ウシをめぐる分類はすでに重層的なものとなっていますが、あなたが在来牛に関して説明された側面は、ヒマラヤ地域を含む多くの地域で、一層重要なものになってきていると思います。近年では、女性たちは、在来牛以上に、ジャージー牛の飼育により多くの労力を投入する必要に迫らせているようです。もしも、投入された労働量を考慮すれば、将来的には、ジャージー牛が神々への最良の贈り物になりうるでしょうか。それとも、ジャージー牛は、宗教的価値という点から在来牛の代わりになることは決してないと考えますか。

ゴヴィンドラジャン:
いいえ、人々はジャージー牛が宗教的に重要なウシになる可能性があるという考えも受け入れています。本書のなかでも触れた、私が興味深いと感じた疑問のひとつに「どの時点でジャージー牛が山地のウシになるか」というものがあります。「品種」自体も存在論的には不変の分類という訳ではありませんが、必ずしも「品種」の変容という意味ではなく、これらのウシが食べる食べ物、飲む水、従属する神々、山で過ごした世代の長さなど、山に対する様々な実質的な関連性や交流という面での話です。すくなくとも私がフィールドワークを行った地域では、農村部の家庭で「純粋な」在来牛を見つけることがより困難になっていることから、多くの人がジャージー牛しか手に入らないかもしれないという考えで揉めていたように思います。

人々はジャージー牛の糞尿で間に合わせの儀式を行うようになっています。一部の人々は、このような儀式は最終的にジャージー牛の異なる物質性に順応していくのではと推測しています。ジャージー牛が「商用」牛となると同時に、「儀式用」牛となることへの寛容性もありました。これが、これらの農家が持つウシの分類についての見解と、右派ヒンドゥー教徒の無節操な排外主義とを区別している点だと考えます。これらの村でも、外来牛や在来牛といった分類を使っていましたが、ジャージー牛に深い愛情を注いでいないという訳ではありませんでした。その点については、本書の中で詳しく記しています。村人たちは、ジャージー牛がある種の儀式には不向きなウシであると言いつつも、自分たちが育てているウシに強い愛情と尊敬の念を抱いていました。これは特に、これらのウシの飼育に関する労働の大部分を担っていた女性に当てはまりました。

外来のサル、在来のサル、排除するか、帰属させるか

宮本:
続く第4章では、都市部に住むよそ者が新たに連れてきたサルと地域の人々の関係性を、サルに対する人々の振る舞いや態度から描き出そうとしています。(都市から山岳部へサルを移動させるという)この現象の背景には、ハヌマーン(ヒンドゥー教の神猿)の崇拝もあるとお考えですか。つまり、ヒンドゥー教を信仰する人々が、ハヌマーン神の眷属は聖域にいるべきだと考え、都市に住むサルを山へと移動させようとしているのでしょうか。

ゴヴィンドラジャン:
それもありますが、サルが野生動物保護法で保護されているからです。間引きに反対する宗教的な議論は確かにありますが、動物愛護活動家が主張する、サルを殺すことは法律に違反するという議論もあります。隣のヒマーチャル・プラデーシュ州では、農家に凶暴化するサルを銃で撃つ免状を与えると発表しました。それが発表された時、様々な選挙区で大騒ぎになりました。動物愛護団体は、これは残虐行為だと言い、野生動物保護活動家は、インドの野生動物の遺産の大規模な破壊への扉を開くきっかけとなることを懸念し、ヒンドゥー・ナショナリズム団体は、サルはハヌマーンを体現した存在であるため殺してはならないと主張しました。多くの森林警備隊員は、この問題がどれほど多くの議論を生んでいるかを考えると、どうしたらいいのか本当にわからないと私に話してくれました。

しかし、農村の生活への被害は現実のものです。複数の組織やNGOがこの問題に取り組んでいます。このような状況では、人は農業を続けることができません。これは深刻な問題で、さまざまな解決策が提案されています。不妊手術を行うという選択肢もあります。それが成功しなかったのは、特に動物愛護活動家から、人道的に実施できるかどうかについて懸念が出たからです。間引きという解決策も、まだあまり好意的に受け止められていません。

宗教の問題は、多くの山地の民にとって複雑なものでした。サルを殺すのは罪深いと考える傾向にある一方で、果樹園を荒らしていたサルに毒を盛るという話もよく聞きます。ある男性は、かつて私に、自身の土地で、死んだアカゲザルを見つけたと言いました。彼はあまり多く説明しませんでしたが、私は彼が多くの収穫物を失ったことへの悔しさから、畑に毒を撒いたのではないかと推察しました。死んだサルを見て罪悪感と恐怖を感じた彼は、贖罪としてラングールに餌を与えていました。このように、こうした都会からきたサルをどう扱うかについては、倫理的・宗教的に深いジレンマがあり、それに対応するために様々な解決策が生まれました。

§

宮本:
現在、村にはあなたが描くように都市部から来た外来のサルがいますが、それ以前から同地域には在来のサルが生息していましたよね。その在来のサルと外来のサルを比較してみると、当然のことながら、人々は現在は在来のサルに対して自分の身内のような愛着を持っており、都会のサルが彼らにとっていかに異質な存在であるかを語るでしょう。しかし、都会のサルが来てから、在来のサルに対する認識が寛容になったということは考えられるように思います。在来のサルと村人との以前の関係性はどのようなものだったのでしょうか。地域の共同体の一部となりうるような、親しみのある存在としてのみ認識されていたのでしょうか。それとも、駆除されるべき害獣として認識されていたのでしょうか。

ゴヴィンドラジャン:
その地域に生息するあらゆる動物が、害獣・友人・仲間という異なるカテゴリーの間を浮動する存在だ、という強い感覚が、私の中に間違いなくあります。在来のサルも、間違いなく時には「害獣」となる可能性があります。しかし、人々は、在来のサルの「略奪」には対処できるという感覚があり、それは外来のサルとの共存に関連してよく表現される言葉「アアタンク(aatank)」、つまり恐怖、の感覚はありませんでした。人々が私に言うには、たいていの場合、在来のサルが果樹園に来るのは数日で、その後は森に戻るのだそうです。彼らにとっては、森で十分だったからです。彼らは時々森から出てきましたが、村に住むことはありませんでした。このこともまた、現在の状況の特異性を強調するための、懐古の念を含んだ過去の恣意的な解釈である可能性もあります。しかし、それは広く主張されており、私たちは真摯に受け止めなければならないと思います。

また、人々はそれとは異なったことも述べます。一つには、略奪の性質の違いが挙げられます。在来の森のサルはたまに果実を盗んだり、農作物を食べたりすることはあっても、外来のサルのように家の中まで入ってくることはありませんでした。そこには、恐怖感と不安感が蔓延していたのです。「これら外来のサルは、すぐに家の中まで入ってきます。人が家の中で座っていても、ただ入ってきて人の食べ物を奪うのです。もしあなたが何かを言えば、噛み付いてくるでしょう」と。人々はこの行為を、在来のサルにはない「大胆な犯罪性」のようなものとして語っています。在来のサルと外来のサルを区別する際に人々が指摘するのは、この完全なる恐怖心の欠如と村の「乗っ取り」ともいえる行為でした。

「家畜-野生動物」としての野生化したブタ

宮本:
何重もの意味も込められているという点で、逃走した雌ブタの話は非常に読みごたえがありました。私が調査しているブータンでも、昔はブタの飼育が一般的で、ご存じの通りトイレの下でブタを飼うこともありました。ただ、宗教に関係しているとはいえ、ブタの飼育をやめた理由は両者でかなり異なるように思います。

この章では、実験農場の家畜化されたブタが脱走して野生化していくストーリーをベースにしながら、インドで法的には否定され禁止されているカーストによる差別や抑圧について、その重層的な構造が巧みに描かれていますね。

ゴヴィンドラジャン:
カーストに基づく抑圧は、インド全土と同様にこの地域でも存在し、今でも力を持っています。私は、蔓延するカーストの暴力と、この抑圧や暴力に対する最下層のダリット(不可触民)の抵抗や拒絶が、日常的な人間関係の中でどのように行われていたのかを理解することに興味を持っていました。

ブタはこの疑問に対し、重要な取っ掛かりを提供してくれました。ブタと、ブタを飼育するダリットカーストを「不浄」とみなすことは、B.R. アンベードカル博士が言うところのカーストの「段階的不平等※7」を維持するために、支配的なカーストの人々が日常的にカーストの暴力を行使するための方法となったのです。フランツ・ファノンが力強く指摘しているように、抑圧者の言説は根本的に動物学的なものであり、抑圧された者に動物性を与えることで、彼らに対する植民地的な暴力を正当化する方法として使われているのです。私は、ベネディクト・ボワスロンが「連結性※8」と呼ぶような、カーストと動物化の交点についてはやるべき重要な研究が残っており、人間と人間以外の動物との関係性を研究することにより、こうした関係性への洞察が得られるだろうと考えています。

しかし、この交点をどう捉え、どう表現するかということにも気を配らなければなりません。ザッキヤ・イマン・ジャクソンが指摘するように、「人間」を超越して、人間-動物間の区別を元に戻そうとする急激な動きは、人間が決して不変の分類ではなかったという事実を見落とすだけでなく、解放的なヒューマニズムを求める様々な被抑圧集団の葛藤を根底から覆すこととなります※9

私にとって特に重要だったのは、支配的なカーストによるカースト暴力の全容を明かさず、その暴力が向けられた人々にとって異論のない形で示されることにありました。私は、ダリットの村人たちがどのようにして支配的なカーストによるこうした抑圧に立ち向かい、それを覆してきたかを、脱走した雌ブタの話を交えながら強調したかったのです。

本書でも触れていますが、ダリットの村人数名がよく言っていたのは、森にいるイノシシはおそらく脱走した雌ブタの子孫であり、本当は野生のイノシシではないということでした。このことは、豚肉の消費を不浄であり「最下層カースト」の地位を示すものだと非難する支配カーストが、せいぜい暴力的な偽善者でしかないことを意味しているのだと、彼らは言うのです。私は、これらのカースト支配に対する批判は、野生化したブタの歴史、特にその話で示されているような、野生の流動的な性質に基づいていることを主張します。私にとって、これらの論争は、カーストと動物性の関係が偶発的で予期せぬものであり、民族学的に理解されなければならないことを思い起こさせてくれます。

§

宮本:
非常に刺激的な議論ですね。ザッキヤ・イマン・ジャクソンが示す論点は、検討に値するものだと思います。階層や差別と動物性の関係を論じるためには、前提として理解しておくべき論点が非常にたくさんあるように思います。

この章の中で、もしかしたら重要な点ではないかもしれませんが、脱走した雌ブタの牙の大きさについて人々が話している箇所が気になりました。村人たちは、脱走した雌ブタの子孫はより大きい牙を持っていると語っていたそうですが、その話をすることで、彼らはいったい何を示唆したかったのでしょうか。動物を危険な存在に変えるという意味で、遺伝子操作を恐れているということでしょうか。論点として私はそこは興味深いと思ったのですが、結局その話題は全体的な議論に再び包摂されることはありませんでした。この一連の会話を通して何を伝えたかったのか、もし可能であれば教えていただけますか。

ゴヴィンドラジャン:
この章では、ブタの凶暴性についての様々な証言を、互いの会話の中に入れてみました。多くの野生生物学者は、ブタが「野性化」した場合、迅速な形態学的な変化が起こる可能性を示唆しています。豚の形態は、数世代という非常に短い期間で変化することができます。私にとって、これらの知見は、人々が私に話してくれた、脱走した雌ブタの歴史や、その子孫が簡単に「ジュングリ(jungli)」つまり野生化した話と非常に一致していました。

私が本書を執筆する際、ある男性は、イノシシを「パルトゥ・ジュングリ(paltu-jungli)」つまり「家畜-野生動物」と呼びましたが、それはブタが両者のカテゴリー間をいかに簡単、迅速に移動することができるかを言い表しています。私にとっては、野性の偶発性について、人々が主張の根拠として挙げた証拠に重点を置くことが大切なことでした。私はこれらを、故意に証拠と呼んでいます。彼らは、非常に長い間動物と共に暮らし、動物に関する観察的・経験的知識を豊富に蓄えている人々です。私は、このような異なる種類の状況化された知識のいずれかを使って他方の真実性を確認すると言うよりも、これらの知識を積み重ねることに関心を抱いていました。言い換えれば、私はクマオニの人々が私に話してくれたことを、「科学的証拠」によって裏付けしたり証明しなければならない、ある種の「ローカル・ナレッジ(土着の知)」として主張したくはなかったのです。私は、彼ら自身の証拠を元にして考え、野生生物学者の状況化された知識と合わせることで、会話にまとめたいと思ったのです。

クマとのセックスを語る女性たち

宮本:
ご著書の最後の章は、クマについての話でしたね。この章は、インスピレーションを与えてくれる内容でした。ここで登場するクマは、この本に書いてあった他の動物とは全く異なる姿をしているように思えます。クマと女性の物語を通して、男女の(不)平等性や再生産能力、家庭内暴力など、女性を取り巻く問題の存在を示唆していますが、この本の最後の章としてこの物語を挿入した動機はどのようなものだったのでしょうか。そうしたジェンダー不平等に対する意識が、女性たちの全ての会話の底流に常に存在していることを示唆したかったのでしょうか。そして、彼女たちが抱くひそかな不満や希望を抽出して表現するには、このクマの話が最適だったということでしょうか。そんなことを聞いてみたいと思います。

ゴヴィンドラジャン:
興味深い質問ですね。私は、ヤギやサル、さらにはイノシシやヒョウと比べて、クマがこの風景にいかに「存在しない」かについて悩んでいました。しかし、後になって気がついたのですが、クマは物質的・象徴的風景の中に、私が考慮に入れるべき重要な仕方で、存在していたのです。同僚のジュノ・パレーニャス※10の研究は、この点を考える上で非常に参考になりました。特に彼女の「物質的痕跡」という考え方は、存在していないように見えるものの中で存在を示すものです。トウモロコシ畑が平らになっていて夜間に食べた跡があったり、クマに襲われた女性の顔の傷跡があったりと、いたるところにクマの「物理的痕跡」は存在していました。

女性たちがクマについて極めて性的な話をすることで、多くの根源的な禁止事項や二項対立が露わになってしまったのではないかと考えています。例えば、人間とクマが恋人同士だったという考えです。親密性の持つ本来の寛容性を強調することで、女性の性的快楽に対するカースト家父長的な支配に立ち向かっていたのです。ある女性は、夫が疲れすぎてセックスできないと言った時に、夫を叱責したという話を私たちにしていました。彼女は夫に、クマならセックスしても疲れないだろうと言いました。このクマの話を通して自身の性欲を主張する姿には、本当に心を打たれました。確かに、女性がクマとのセックスの話をすることで得られる快感については、私も考え抜いてみたいものでした。単に、この話を戦略的に使って家父長制へ挑戦していただけではありません。そこにはクマとのセックスがどのようなものであるのか想像することへの、純粋な好奇心と興奮がありました。

私にとっての課題は、これが、いかに親密で具体化された関係であるかを考えることでした。それは、人間と動物、血族と他人といった分類がどのように理解され、経験されるかを形作る上で、女性が飼育しているヤギとの関係性とは全く異なる一方で、それに劣らず意味のあることでした。私にとってこの章は、人間以外の動物との多様な関係性、そして前述のように、それらの関係性の状況化された明示に対して民族学的な注意を払うことの重要性について述べることにありました。

§

宮本:
なるほど、確かにこの章は他の一連の章と表面的には全く異なるように思えますが、クマの話は、人々と動物との関係性に対する我々の想像力を刺激しながら、この本のすべての章を繋げる役割を果たしているようにもみえます。そして、おっしゃるように、人間が多様な他の生物種との境界線を越えることで快楽を経験すると考えることは、他章を含む本の全体を包括的に理解するヒントをくれるように思います。

マルチスピーシーズ民族誌の展望

宮本:
本書を含むあなたの研究が多様な研究領域を横断している点は承知していますが、インタビューの最後に、特にマルチスピーシーズ民族誌という分野の将来的な展望について、ご意見を伺ってもよろしいでしょうか。

ゴヴィンドラジャン:
私がマルチスピーシーズ民族誌の分野でとても刺激的だと思うのは、その知的な幅広さであり、それが実際に広い範囲に渡って関心を持ち、取り組んでいるという点です。

私が思う、マルチスピーシーズ民族誌として分類される研究の多様性をゆるやかに結びつけているものは、ステファン・ヘルムライヒとエベン・カークセイが、人間以外の動物や物質の持つ特有の歴史や伝記と表現したものを辿ることへの関心です。それ以上に、この分野のすべての仕事で力を発揮しているのは、寛容性であり、創造的な探求と思考への献身だと考えます。自分自身の研究において、私はこうしたことを、批判的な擬人観であり、他の人の立場にある自己を想像しようとする意思であり、すべてのリスクや消去にもかかわらず自己を超越した運動を生ぜしめる姿勢であり、より公正でより自己陶酔的ではない未来の可能性を開くような行為、として捉えてきました。

私は、マルチスピーシーズ民族誌を、多様で異なる問題に洞察を与えてくれる分析レンズのようなものだと捉えており、それは必ずしも人間と人間以外との関係性が中心であるとは限りません。エミリー・イエーツ・ドーア※11、ナタリー・ポーター※12、アレックス・ネイディング※13のように、健康や病気を理解するための方法としてマルチスピーシーズ民族誌を研究している人たちもいます。アレックス・ブランシェット※14、ケイティ・ガレスピー、ソフィー・ツァオ※15のように、屠殺場や酪農場、ヤシ農園など、産業資本の現場においてマルチスピーシーズ民族誌を研究している人たちもいます。ジュノ・パレーニャス、ハーラン・ウィーバー※16、アンヌ・ジャレ※17、ベネディクト・ボワスロン、ザッキヤ・イマン・ジャクソン、マリア=エレナ・ガルシア※18のように、人種、ジェンダー、帝国主義、宗教に関する問題を不可欠と考え、中心的な課題とした研究もあります。

私が考える限りにおいて、マルチスピーシーズ民族誌は、より広い学問分野との対話を模索し、人間以外と人間との関係性がどのように形成されているのかを考察し、数多くのその他の構造的要素のなかで、人種、人種差別、ジェンダー、セクシュアリティ、医療や資本の言説や実践を形づくる際に、最も力を発揮するでしょう。ある意味、この分野は本当に爆発的に発展しており、その包括的な理論的枠組みを特定のアプローチや学派に絞るのが難しいところまで来ていると思います。それは素晴らしいことです。

私の考えでは、マルチスピーシーズ民族誌は、さまざまな存在の異なる作用や働きによってさまざまな社会がどのように構成されているかについて、多様な方法で探求するときに、最盛期を迎えると思います。そして私は、この流動性と寛大性が、今後もこの分野の特徴であり続けることを期待しています。

§

宮本:
マルチスピーシーズ民族誌に関して、とても豊かな示唆をいただき、ありがとうございました。


「More-Than-Human」特設サイト

唐澤太輔:
今日は神話研究を中心にして、人間と非-人間とのあり方を深く思索されている石倉敏明さんに、改めて現在の研究内容やアートとの接続などについてお伺いしたいと思います。以前、明治大学の野生の科学研究所で行われた公開研究会「可食性の人類学※1」にまつわる非常に興味深いお話をされていました。今一度この「外臓」という概念について簡単に教えていただけますでしょうか。

石倉敏明:
「外臓」という言葉を初めてお話ししたのは、ご指摘いただいた「ホモ・エデンス 可食性の人類学」という研究会の最終回です。この発表に至るまでに、実は二つの体験的なルーツがあるんですね。一つは2011年の東日本大震災の後に、写真家の田附勝さんと一緒に約1年かけて日本列島各地を旅した12回の旅の経験があります。

§

唐澤:
その旅というのは『野生めぐり:列島神話の源流に触れる12の旅※2』に載っている旅のことでしょうか。

釜津田鹿踊り ©田附勝

石倉:
そうです。田附さんと東北から九州まで一年間かけて旅をするなかで、各地で神々に捧げられた神饌だとか、死者や祖先の供養のためのお供物と何度も出会ってきました。そのとき、各地の農作物やお酒や味噌・醤油などの発酵食品、魚や動物の肉のような「海の幸」や「山の幸」をいただくことが、各地の神仏に対する信仰と不可分であることに改めて気づかされました。各地の食文化の背景を知る体験から、私たちの活動のエネルギーを支え、個々の身体を構成している「自然からの贈与」に対して敏感にならざるを得なかったのです。

なぜなら、東日本大震災の原発事故や放射能汚染の体験があったからです。当時は放射能汚染によって、東北では採集されていた山菜や魚が食べられない状況にあり、農作物や海産物に対する出荷制限もかなり残っていました。こうした経験と並行して、水俣病の発生現場でも同じような例が発生していたことを、結城正美さんの石牟礼道子論※3を通して知りました。郷土食の料理を、海や大地からの贈与としていただくという非常に古い時代から伝えられた感覚と、その贈与物が人間の社会経済活動の拡張に由来する放射能や水銀によって汚染されるという矛盾。そういった非対称の状況から自らの身体を取り戻すには、どう想像力を駆使すればいいのかを、一年間旅をしながら考えていたんです。つまり、食を通して自分の体と環境との関係をもう一度見直してみたかったんですね。

ちょうど東京から秋田に移住する時期でもありました。秋田の自宅からさほど遠くない田んぼの一角を借りて、子供たちと一緒に農作業をしたり、沢水で遊んだり、里山から山菜を採ったりするような経験も重ねていました。不耕起農法の稲作をやってらっしゃる菊地晃生さん※4が農場の一部を共有地として解放していて、市民が週末にやってきて農作業をするコミュニティをつくっていたんですね。

ある休日、お借りしている田んぼで無心に草取りをしながら、ふと一息ついて周囲の里山を見渡したときに、まるで自分の身体感覚が切れ目なく、目の前の空間や田んぼとつながっているイメージが湧き出してきました。近くの畑では山から降りてきたカモシカが歩いていて、田んぼのなかにはタニシやカエル、ザリガニなどの無数の生物が食べたり食べられたりしています。人間が食べ物として育てている作物もそこにあれば、その田んぼには無数の小動物や昆虫や植物、そして膨大な微生物が存在する。そういう多くの生物が混在するなかで、自分の身体の内側に広がる領域が外界の現実とつながっているのではないか、という思考実験をしてみたんですね。

考えてみたら、自分の体の内臓は、口と肛門を通して一つのチューブのように外部に開かれています。その内臓を、手袋をひっくり返すように拡張してみたときに、食料や他の生物とつながっている目の前の風景は、自分自身の内臓と地続きの空間と捉えられる。自分の目の前にある風景は、自分の内臓を外側にひっくり返した身体の延長として捉えることが可能なんじゃないか。「外臓」という概念を思いついたときに、そんな具体的なイメージが浮かんできました。

こうして、震災後の旅の経験と田んぼでの体験から、僕はこの地上の有限な空間の一部分が身体の内部と深く連絡しているという感覚を得ることができました。僕は大学院時代に人類学者の中沢新一先生から「対称性人類学※5」という、非常にユニークな理論を学んでいましたが、それを自分なりに理解する手がかりを掴めたように感じたのです。

この理論は、人間の思考のなかで世界の全体性を把握するような「対称性の論理」と、事物を分節して時系列に配置する「非対称性の論理」が複合的に生起している、という思想です。つまり人間の心は、時間と空間を超えていく「無意識的思考」と、世界を合理的に把握しようとする「意識的な思考」という二つの論理体系が「複論理(bi-logic)」として並行的に影響を及ぼしあっている。そうした論理が、「外臓」という言葉を通して、自分の身体的な実感として実を結んだように感じました。

自分の身体を貫く消化器系のチューブが、実は外部空間と無限に開かれた絡まり合うループを形成している。このループを「外臓」として概念化することによって、個々の身体を外界とつなぎながら、食べるものと食べられるものが共生している世界を理解するような回路が開かれるのではないか。そう思ったわけなんです。

里山や里川といった環世界の現実を、われわれ人間は皮膚や骨格といった身体の外部に広がる単位だと理解している。これを「非対称性の論理」だとすると、他方には、外的な環境のなかに存在している生物が、食べ物として身体をとおり抜けていくような「対称性の論理」が並存している。つまり自分が何かを消化して、それをエネルギーに変えていったりするような食の体験は、根本的には外臓と内臓との一種の連続した絡まり合いとして理解できる。別の視点からみれば自分の身体も、他者にとっては、外臓の一部であるかもしれない。そうやって鏡のようにイメージを映し合い、エネルギーが移行するループとして、内臓と外臓を捉え返してみたいというのが最初のアイディアでした。

§

唐澤:
自分の内臓を裏返した姿が自然なのですね。自分の身体が外界にも延長しているという感じですね。

石倉:
自分の内的自然と外的自然というものがあるとしたら、それを結んでいる様々な知覚的なインターフェースがあると思うんですね。たとえば五感を構成している様々な感覚器官は、すべて内臓という目に見えない無意識のレベルの身体につながっています。この感覚の回路は、内側に深く潜っていけばいくほど、外の空間とつながっている。この身体的な内と外との絡まり合いを意識化するような光景を「外臓」と名付けているわけです。

§

唐澤:
なるほど。内側が外に、他者につながっている。内即外、クローズ即オープンという感じで、その区別が曖昧になるところがインターフェースなのですね。

内が外になり、外が内になるとすれば、極端な話を言うと、人間が何か物を食べるってことは、結局自分の延長でもある自分自身を食べているとか、同種を食べているっていうことにもなるようにも思えます。それは一種の「カニバリズム」とも言えますか。

石倉:
はい。「外臓」という概念は、内臓的な体験を、皮膚を超えて外の環境へとつなげるときに出てくる概念です。つまり、僕らは山を見ても、山というリアルな空間を「自然」というカッコに括っている。一種の認識の閉域に入れてしまっている。でも、その山を具体的に見ていくと、様々な生き物が刻々と生を営んでいて、食べたり食べられたりするような、リアルな世界がそこには生成されています。

別の言い方をすると、様々な記号次元がそこで生起しているわけですね。人間的な記号はもちろん、それを超えたエドゥアルド・コーンが『森は考える※6』で伝えたような、様々な自己の生態系が、そこにひしめいている。そこで生きているものたちを食べるということは、実は人間を食べることと他の生き物を食べるということがフラットに同じような意味を持ってしまう危険とつながっています。喉元過ぎてしまえば、それは人間の肉であるか牛の肉であるか、それが何であるかっていうのは意識できなくなってしまう。そういう無意識の体験を自分の体の内側に抱えていて、常にカニバリズムと近いところにいる。

しかし、実生活においては、そこから理性的に遠ざかる、遠ざかっていられるかのように、自分たちを社会的な空間のなかで島のように限定された領域として囲っています。それが一種の共同体だとすると、共同体を超える流動的なエネルギーや知覚の絡まり合う次元に常に接しているはずなのではないかっていうことを、内臓の外側にあるリアリティとして掴んでみたいのです。

§

唐澤:
「島のように限定された領域として囲っている」という表現をされましたけれど、それは私たちが対象を理性的に遠ざけてしまっていて、本来的につながっているっていう事態に、分割線を引いてしまっているということでしょうか。

石倉:
そのとおりです。たとえば哲学者のデカルトは「我考える故に我あり」って言いましたけれども、たとえば芸術的な創作活動も、「我描く故に我あり」「我つくる故に我あり」を前提としてしまっている。つまり、ヨーロッパから始まった芸術のモデルで言うと、そもそもの起点となる主体はデカルト的な思考のモデルから抜け出せていない。僕はその「考える我」を、分割線以前に引き戻す作業が必要だと感じています。

「考える我」あるいは「つくる我」や「創作する我」も、無意識的にいつも何かを食べているはずです。僕らは理性的に身体的な次元を囲い混んでいるように見えるんだけど、何かを食べることによって、自分自身を外界に開き、同時に変容している。あのデカルトの「懐疑し、考える我」も、思考のエネルギーが働くためには、何か食べているはずです。食というインターフェースは、実は非常に大きなトランスフォーメーションの体験に隣接している。

§

唐澤:
非常によくわかります。「我考える故に我あり」に対して、石倉さんは「我食べる故に我あり」と「複数種世界で食べること※7でもおっしゃっていましたね。人は「我考える」という思考のエネルギーのためにも食べているわけで、その意味で「食」というのが最も基盤的なものとしてあると石倉さんは考えてるのだと思いました。

たとえば、仏教の捨身飼虎や神道の大宜都比売もそうなのですが、「食」にまつわる話が出てくる場面って、その宗教において非常に大事なことを伝えているケースが多いですよね。キリスト教のアダムとエヴァも、禁断の木の実を食べる話が極めて重要ですが、これは仏教と神道とすこし位相が違うという感じもします。

捨身飼虎や大宜都比売の話は、贈与という側面がとても強いように感じます。つまり、自分自身を純粋に捧げるという側面がすごく強いと思うんです。一方で、キリスト教の創世記における禁断の木の実を食べる行為は、人間による能動性の強さみたいなものが垣間見られる。キリスト教圏における「食」と、それ以外の場所における「食」の違いみたいなものについては、何かお考えはありますか。

石倉:
一神教の背景には、旧約聖書と新約聖書っていう二つの神話のシステムが絡み合って、そこで生まれている食の世界観がありますよね。ヘブライズムの考え方では、まさに知恵の実を食べることによって、純粋なイデアルな世界から追放されて、身体性を獲得していく。人間は、純粋に精神的な世界から追放されて、性や食といった、動物性と人間性の絡まり合う「肉」の次元、あるいは「堕落した世界」に落ちていく。しかし、こうした世界観の前提を神話学的に遡ると、エヴァをそそのかした蛇という存在は、実は古代的な知恵の象徴でもある。これはヘブライズムの神話以前の新石器時代的な、もっと古い神話につながっているわけです。

同様に日常食についての規定も聖書に由来しています。たとえば、イヴォンヌ・ヴェルディエの『料理民俗学入門※8』を読むと、やはり神が7日間で世界を創ったという神話が、フランスの農村の食事の思想として構造化されている様子が見えてきます。休息日である日曜日に人々が食べるメニューや食材の調理法、皿の数、テーブルマナーと、『創世記※9』で神が世界を創造していたとされる平日の日常食とは、区別されていて食べ方も違うんです。食材となる動物の種類も、神によってあらかじめ定められている。

だからキリスト教では、食事の前にまず創造主である一神教の神へ感謝をしてから食べ物をいただきます。それは食材となっている動物や野菜に対する感謝というよりは、それを与えてくれた神様の恩寵への感謝という意味を持っている。「一者に対する感謝」という前提があると思うんですね。つまり、食材は多様だけど、感謝すべき対象、食材を創った存在は唯一者であるっていう考え方があります。これは「一つの自然と多様な文化」という、人類学者フィリップ・デスコラが言うナチュラリズムの論理構造と同型ではないかと思うんです。

一方で、ヨーロッパ的な世界観の背景には、そうしたヘブライの神話に対して、ギリシャ・ローマの多神教的世界で生まれた別の世界観が組み込まれているようです。ギリシャ・ローマ的な古い神話は、一神教の表舞台からは姿を隠していますが、芸術的な想像力の世界では盛んに表象され、あるいは地中海のアルテミス神殿がのちにマリア信仰の拠点になったように、神話的な翻訳を経て、一神教の世界における聖母子像や聖者信仰、天使信仰といった形に偽装されていきます。実はこうした一種の神話的な異文化の翻訳システムのなかから、ヨーロッパの芸術や哲学が生まれていく。

自然は一つであるが、文化は多様である。これは言ってみれば、一神教的なヘブライズムの思想と多様な現れとしてのギリシャ・ローマの思想が折衷されている。人類学的な整理によれば、単一自然主義と多文化主義と言い換えられるでしょう。ニーチェが言ったように、近代という時代に「神は死んだ」かもしれない。しかし、その後にはヘブライズムの神が、フィジックスを支える「一者」として居座り続ける。それに対して多様な表象、多元的な価値のシステムとして「文化」が現れてきた。ニヒリズムというのは、この交代と分割以外の何ものでもありません。多文化主義とは、まさにギリシャ・ローマ的な仮象の世界として「多様性と虚構」を結びつけてきたわけです。つまり、自然と文化という二元論を背景としながら、一者と多者が結合しているヨーロッパ的なコスモロジーの体系があって、そのなかで実は「食」という体験の持っている多元性が矮小化されてきたのではないか。

僕は、こうしたヨーロッパ中心主義に対して、本当に食を多元論として語るためには、単一の自然という前提を、多自然主義的に解放していく必要があると考えています。そうすると、日本人のように「いただきます」と言って食事する習慣も、その対象は森羅万象の働きや個々の食材となっている生物群、食を提供してくれた生産者や料理人に至るまで、実は多様なものであることが見えてきます。

「食べられているもの」と「食べているわれわれ」が対峙することができるポイントは、もちろん創造主を絶対的な他者と考える神話とは別のシステムです。われわれが食べているものと、食べているものが生まれてくる環境と、われわれ食べている主体がどのようにつながっているのかということをたどっていくとき、このように思考を脱植民地化して、自然と人間の関係を別のしかたで編み直す可能性が見えてくると思うんです。

§

唐澤:
実は人間も食べられる存在であるというわけですね。だけど、私たち人間は往々にして、人間こそが最高捕食者であって、他のものが人間に食べられるということだけしか考えてない。それこそ動物園に囲われてしまっている動物は、人間によって見られる対象となっています。根本にある、人間が食べる方あるいは見る方、動物は食べられる方あるいは見られる方といった非対称な構造を問い直す必要がありますね。人間がそういう他種から食べられる可能性ということを、真剣に意識したときに、何が開けてくるのでしょうか。

石倉:
「我食べる故に我あり」という存在論的な起点からはじめると、一歩進んで「われわれもまた食べられる可能性がある」という推論が導き出されます。つまり、われわれのような肉を持った存在が、他者の「外臓」のなかで食べられる存在としてあるということから、「我食べられる故に世界あり」っていうことも反転して言える。

「食べる我」の内臓的視点からは「世界がある」ということは説明できない。なぜなら、その食べ物は、すでに世界のなかで与えられてしまっているからです。しかし、外臓的に「我食べられる」と言ったときに、複数種の次元が現れる。初めて食べられるものがたくさんひしめくモノの世界、物象の世界が見えてくる。ここが世界の世界性、食の世界性を担保している外臓の根拠であり、身体の外在性や相互性を支えている物質的次元の根拠でもある。

しかもこの物質的次元は、常に数多くの分解者という存在によって支えられている。生態学の理論のなかでは、生産者と消費者、そして分解者っていうふうに三層に分かれて論じられます。たとえば森のなかに入ってみると、直接食べる・食べられる関係にあるという生き物はごく一部で、圧倒的多数は食べられずに朽ちていく。つまり、運良く食べられて、他者のエネルギーとして活用されてもらったのはごく一部であって、食べられることなく朽ちていくものが圧倒的多数なんです。だけど、その朽ちていくものたちがどうなるのかというと、実は菌類や粘菌といった目に見えないものたち、あるいは目につきにくい小動物や昆虫に食べられる。この「食べられることの多数性」に、循環という次元の深みがあると思います。

「食べること」「食べられること」は決して「対関係」じゃないんですよね。われわれは「食べること」を、常に恋愛や性愛関係のように、二者の関係としてモデル化しがちです。しかし、これは実は「一対多」の関係を孕んでいます。しかも、この場合「多」に対峙するのは「一」を含むような生態系全体の集合としてイメージできると思います。「私はわれわれに食べられる」とでも言えるような「多数者に食べられている」という感覚。常に地球に食べられているというか、自然に食べられているというか、自分を取り囲む外臓全体に還元されていく。それによって朽ちて、自分も、大きなものがエネルギーの一部になることができる。

つまり開かれた全体性に対して、自分が食べ物になるということは、誰かと特別な関係を結ぶというよりは、もしかしたら「無駄死に」のような体験に見えるのかもしれない。しかし、もちろんそれは無駄ではあり得ないのです。ですから、菌とかウィルスとかと共生するっていう次元を真剣に考えるならば、捕食者・被捕食者の対関係を超えたところまで、食の思想を拡張しなければならないと思います。

§

唐澤:
まさにそうだと思います。朽ちていくっていうのも、実は食べられているんですよ。僕は死んだら粘菌に食べられたいと思っているんですけど、粘菌とかバクテリアが食べることによって朽ちていくんですよね。だから、人間というのは、ある特定の一者だけに食べられるだけじゃなく、食べられた後、糞尿になって排出された後は、バクテリアとか粘菌にも捕食されていく。そうやって、他の生命を、あるいは世界を支えていくっていうことだと思うんです。

そういった意味でも、捕食者と被捕食者は、一対一ではありません。一対多なんですよね。そのように、自分が食べられることが世界を支えていることにつながることを意識したり実感することが、現在は少なくなってきている。その原因は一体どういったところにあるんでしょうか。

石倉:
都市化、文明化の進展によって、われわれが直接土に還元されなくてすむようなシステムが構築されてきました。その環境では、土とつながっているという実感すら忘れてしまいがちです。これを乗り越えて、自然の循環系と人間の文明圏の循環系を接続するためには、おそらく「自己」や「身体」という概念を更新する必要があります。

グレゴリー・ベイトソンが言っているように、森のなかの生物の「自己」は皮膚を超えて存在している。その自己は、複数の身体に渡って分散することもあれば、自分の身体の内部にある様々な、たとえば細胞の一つ一つといった次元まで、実は自己が縮尺されたり拡散している。このことを踏まえて、エドゥアルド・コーンが「諸自己の生態学」という視点を出したことは、非常に革命的なことだと思っています。

この思想は、食べられる経験とも関係しています。実は自分が多数者に食べられるということは、自己が身体の皮膚のような境界では区切られないし、時間的にも個体の一世代では決して終わらないっていうことですよね。だから「複数の自己」によるアニミズムが可能になる。食べる・食べられる関係のなかで捉えられる二者の次元を超えて、実は多数者に食べられ、解体され、朽ちて土に還って、次世代の再生を準備するという次元から、「諸自己の生態学」を担保するような別の現実性が見えてくる。

しかし、アニミズムを一神教よりも遅れた原始的段階にある素朴な宗教思想であるという思想モデルを、19世紀の人類学はつくってしまっていた。こうした人類学がつくってきた前提によって、私たちはおよそ100年間ものあいだ思考を停滞させてきたのかもしれません。そのことにはっきり気づいていたのは、南方熊楠くらいではないでしょうか。今や文明圏における循環と自然界における循環を接続することによって、新しいアニミズムというか、より適切なアニミズムのモデルを提示することが可能になってきました。それをやらなければいけない時期に差し掛かって来ている、と考えています。

§

唐澤:
文明圏における循環システムと自然界における循環システム、それらをどう接続していくかは難しい問題だと思うんですけど、何か重なり合う部分ってありますか。

石倉:
本来はあらゆるシステムが重なり合っていると思います。文明圏の人工物と、自然の次元は常に重なり合っている。このことを、ネパールのサンクという町で出会ったネワールの友人は、「この世界のなかには、女神の身体と関係ないものはどこにも存在しない」と言っていました。つまり、人工物と自然物を分割しない、非二元論的な思考がネワール仏教の女神信仰を支えているわけです。このような知恵は、ネワールだけでなく世界中の先住民社会に伝えられています。ここから、自然資源に対するエコロジカルな配慮や生命倫理の感覚も継承されてきました。

ところが、私たちは資本主義が前提とする「自然の植民地化」によって、無限につながる女神の身体を人間の有限な所有物であるかのように、そして地球上の限られた資源を無限に開発できるかのように取り違えるようになってしまった。人間の文明圏を中心とするモデルに縛られてしまって、都市を取り巻くものを軽く見たり、自然を開発したり、環境を棄損してきたわけです。これが「人新世」と言われる時代の非常に大きな問題をつくってしまった。形而上学的な問題と社会的・経済的な問題のあいだに、解消しがたい大きな亀裂が生じています。ここに生じているのは有限と無限の大きなズレなのです。

§

唐澤:
人間界における人工物というのは、実はすべて自然からできているわけですもんね。だから、それぞれの人工物には、すでに自然のすべてが含まれていると言ってもいいかもしれない。これは如来蔵思想の考え方にもつながってくるものがあって、それぞれ個々の存在として生きているが、実はそれらのなかにすべての如来なる種みたいなものが含まれている。今のお話を聞いていて、そのようなことを想像しました。

また先ほどから説明されている「食べるもの」「食べられるもの」の関係に真摯に向かい合いつつ、我と汝、我と世界との関係を考えていくという話にもつながりそうです。石倉さんがイメージされている日本の歴史と仏教、あるいはそれを背景にした「共生の思想」について、もうすこし教えていただけますか。

石倉:
如来蔵思想の日本的展開を考えてみるとき、「ヒジリ」という存在が重要な役割を担っていたと思います。最初期のヒジリには二つのタイプがある。一つは行基菩薩のように、社会的な空間に介入していくタイプのヒジリ。つまり、たとえば治水や土木工事、大仏建立といった社会事業を通して、人間のために環境をよくするような、一種の人間的利他だと思うんです。同時に、自然智宗や道教の山林修行者や伝説上の役小角や蜂子皇子のように、修行のために山林に入っていく別のタイプのヒジリがいて、彼らは人間界から離れたエコロジカルな現実に触れることによって、「人間を超える」立場から利他を完成させようとします。どちらも人間と非人間の根源に、分割することのできない「如来」を胎児のように抱えている。平安時代には、その前の時代の律令仏教と山林仏教の分岐を背景に、この二つの流れがダイナミックに交わることによって、都市と山岳を結ぶ新しい思想が生まれてきました。いわゆる「本覚思想」の展開も、人間と非人間の双方に「如来」を宿すという如来蔵思想の読み替えから生まれています。

つまり、多くの人口が集まる文明的な生活圏と、山岳のアジールを背景とする修行道場とを結び、人間的利他と超人間的利他をつなぐ。これが日本仏教のプロトタイプだと思います。しかし、都市の政治権力と山岳の宗教的権力が拡大してしまうと、人間的世界と宗教的世界が分離していきます。すると、多くの祖師が比叡山から下りて、鎌倉仏教という宗教的なルネッサンスを発生させる。このように日本仏教は常に里と山の関係を背景にしていて、多様な宗派や修験道の行者たちがその媒介役を担っていた。そういう形で、如来蔵思想は日本列島に一つの大きな思想史をつくってきたのではないでしょうか。

日本列島の歴史では、こういった仏教的な利他思想の系譜と、古くから継承されているような神話の神々の世界が集合することで、いわゆる「神仏習合」という人・生物・自然・神仏の共生関係が思想化されてきたと思います。この共生関係をベースに人間と非人間の関係を見ようとすると、最初から人間だけに限定された世界が形成されいく「共同体」といったイメージで、社会を捉えることが難しくなってきます。

僕は「共異体」という概念が必要になってくると思っています。つまり、同一的な共同性が担保された純粋な社会共同体以上のモデルとしての「共異体」です。人間を取りまく世界が常に「人間以上(more than human)」であるように、日本列島の各地に形成されてきた社会は常に「共同体以上(more than community)」であったのではないでしょうか。

§

唐澤:
「共異体」という概念を最初に使ったのは、小倉紀蔵さんでしたよね。

石倉:
そうです。哲学者の小倉紀蔵さんは「共異体」という概念を、中国と朝鮮半島、極東の日本列島といった東アジア諸地域の広域共同体として概念化しました※10。かつて民主党の鳩山政権が「東アジア共同体」という理念を掲げたときにも、それに対する一種のオルタナティブとして、互いの差異を尊重する「東アジア共異体」を提起されていたわけです。

僕は2017年に、中国返還後20周年を迎える転換期の香港で「神話・歴史・アイデンティティ」について考えるアートプロジェクトで香港に滞在したとき、韓国語と日本語の通訳者からこの概念を教えていただきました。この概念を知って、僕は大きな衝撃を受けたんですが、同時にこの概念を本来の文脈から大幅に拡張してみたいという誘惑に駆られました。つまり、この概念を、歴史と神話の関係、複数種の共生圏、身体と環境世界の関係など、これまで「同一性」の枠内で語られてきた物語をハイブリッドなものに書き換えるための概念につくり変えてみたい。そう思ったんです。

§

唐澤:
「共異体」は華厳思想的という気がします。「共同体」は、同じ種のなかで、さらに同じ理念みたいなものを共有している集まりという印象ですが、「共異体」は、異種間同士の対称的なあり方、個々を単純に無化しない形での異種間の共存のあり方、つながり合いみたいなものを目指していると感じます。華厳でいう「事事無礙法界」的なものを感じるんですが、石倉さんは「共異体」と華厳とで、何かつながりを考えられてたりするのでしょうか。

石倉:
「共異体」というモデルは、個々の差異を解消することなしに、むしろ差異によってこそ個々の生命存在をつなぐことができるのではないか、という発想に基づいています。そして、そこには異なる存在論の接続を通じて、人類が蓄積してきた多種多様な科学の成果を排除せずに、どんなふうに各集団の神話やコスモロジーからも多元的な知恵を継承するか、という課題が含まれています。

人間の共同体を中心に科学を語ろうとすると、そこに一神教の遺産である「絶対的な一者」の残滓として「単一の世界」という近代的前提を抱え込まざるを得なくなってしまいます。これは人類学者のジョン・ロー※11やアルトゥーロ・エスコバル※12が「単一世界の世界(One-World World)」という形で批判してきたように、地球を人間活動の背景として一元化し、植民地主義的な開発経済の枠組みを形成してしまう。

これに対して「野生の科学」というものがあるとすれば、その視点には人間の人間性を相対化するような、多次元性の政治が関与してきます。人間の共同体が宇宙の中心にあって、人間がすべてを俯瞰して自然をつくり変えていくのではない。そういった人間中心主義的な視点から離脱して、一種の共通世界を再発見していくときに、仏教が説いている非二元論や多元論が再発見されることになります。

その内実に深く入り込んでいくためには、仏教の思想だけでなく、神話的思考や先住民のコスモロジーのように、科学的なロゴスの枠組みでは捉えきれない、「レンマ」の思考による「多元的宇宙(pluriverse)」の次元が現れてくる。このようにロゴスの物語で捉え切れないものをどう想像し、世界化のモデルとして実現していくのか。唐澤さんが一貫して取り組まれている南方熊楠研究や中沢先生の『レンマ学※13』のように、華厳思想を現代的に再発見していくことは「共異体」の現代的な問いに直結すると思います。

人類学者の大杉高司さんが「非同一性による共同体※14」、あるいは非本質主義的な「無為のクレオール」ということを提案されています。これは仏教が説いている「空の論理」や「縁起の法」といった、インドの古代宗教に対する、ブッダによる本質主義批判の問題と重なってくるのではないか、と昔から考えてきました。つまり、クレオールやハイブリッドの実相を見ていこうとする人類学的な同一性批判は、仏教的なロジックと親和性が高いと思えるのです。

このような「非同一性」が担保されないまま、人間と非人間の集合体が実体化されてしまうなら、コーンの「森は考える」という議論は森全体を実体化して「森の神」という偶像の思考を想定することになってしまう。ところが、そうならないような仕組みが先住民社会にはあって、常に複数種が多元的に拮抗しながら、「開かれた全体性」が維持されるような状況が生まれている。ここにも「非同一性による共同体」あるいは「共異体」が生成しているのだと思います。

§

唐澤:
なるほど、今仏教を複数種の問題と関連付けられていましたが、僕は「種」と関係しているのではないかと思いました。要するに、日本という神道の土壌に蒔かれた「種」で、それが土壌のエネルギーを吸い上げつつ、花を咲かせている。それがいわゆる神仏習合だとも言えるし、日本的な仏教を展開していく手法だと思っています。日本に仏教が入ってきて、どう花を咲かせていったのか。その手法を見ていく必要もありそうです。

石倉:
たしかに仏教を複数の「種」と考えるのは、とても魅力的ですね。僕は、仏教は地中に根茎をめぐらす植物のようなもので、そこからアジア各地の芸能や建築などが展開してきたのではないか、と考えたことがあります。

僕は学生時代に北インドでフィールドワークをしていて、手持ちの金銭が尽き、大きな壁にぶち当たった時期に、仏教聖地のブッダガヤで行われていた仏教の祭礼に参加して、しばらく頭を冷やしていました。そんなぽっかりと空白が開いてしまったような体験をしていて、ふと気がついたことがあります。

ゴータマ・シッダールタが悟りを開いたというブッダガヤの聖地には、大菩提寺という寺院の伽藍がありますよね。ご存知のとおり、その中心部には簡素な金剛座というブッダ成道のモニュメントがあって、その後ろに一本の菩提樹が生えています。もちろん、この樹は何代も植え替えられてきているのですが、それを見たとき僕は「仏教とは、一本の樹なんだ」と理解しました。

ゴータマは、シャーキャ族の王子として城内で暮らしていたときも、想像を絶する苦行に取り組んでいたときも、結局悟りを開くことはできなかった。しかし、彼は苦行をやめて山から降り、この菩提樹の前に座ったときにようやく、世界を貫いている縁起の法則を発見した、と言われていますよね。この有名な説話は、この地に生えていた菩提樹という植物をなくしては、決して語ることができないのです。

ゴータマは、個人の心理的な葛藤を超えて、この一本の樹の下で世界のリアリティを悟った。僕はそのことに大きな意味があると思っています。僕が菩提樹の前で、茫然自失としていたとき、周囲ではチベットやモンゴル、ネパール、中国、タイ、韓国、日本といった様々な地域から聖地を訪れた仏教徒たちが、それぞれ全然違うスタイルでお祈りをしていました。キリスト教やイスラム教の世界ではありえない光景ですが、それはまさに唐澤さんがおっしゃったように、仏教という種を各地の民衆が自分たちの思想や表現の大地に移植して、それぞれ異なる果実を育てているように見えたのです。

このように、仏教世界の多様性というのは実に大きなもので、ブッダガヤにある各国の寺院は全て建築様式が異なっているし、礼拝のしかたも微妙に異なります。そもそも経典も、多様な言語に翻訳されていますし、五体投地の作法も違う。しかし、お祈りをしている人たちは、同じように一本の樹の方を向いています。そこには、仏像も神像もなくて、一本の菩提樹が生えているだけだった。

もちろん菩提樹の前には、金剛坐という簡素な「場所」があります。そこに一本の樹があり、人が座れる場所があるということ。つまり、「場所」と「植物」の関係から、全ての歴史が始まっているということだと思うのです。神々からではなく、聖書から始まっているわけでもない。土地に先住する「植物」と、人が座る「場所」だけがある。ブッダという存在は人間と地続きで、理論上は万人に開かれた「覚者」としての理想像です。このことは、誰もがこの菩提樹の下に座る権利と可能性を有している、という開かれたビジョンにつながってくる。

そう考えると唐澤さんがおっしゃったように、仏教という「種」を、あるいは菩提という「種子」を運んで、離れた土地に根付かせて、花を咲かせ果実を実らせていくという、魂の歴史が見えてきます。仏教が移植される大地は、古い時代から続く各地の神話と地続きです。ある土地から別の土地へと種を運ぶことや根を生やすこと。そこに育つこと。そして知恵の花を咲かせ、慈悲の実をならせること。世代を継いでいくこと。仏教からこういう可動的な植物の生態モデルが得られるのではないかと思っています。

§

唐澤:
言葉も違う、お祈りのしかたも違う人たちがいて、真ん中に仏像ではなく菩提樹だけというのおもしろいですね。強力な中心ではない柔らかな中心が、逆に共異体的に人々をつなぎ合わせるものとして機能しているように思いました。「共異体」に関しては、〈Cosmo-Eggs|宇宙の卵※15〉(第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示)でも重要なテーマだったと思うんですが、これは作品内でどう実現されたと思いますか。

石倉:
そのように〈Cosmo-Eggs|宇宙の卵〉というプロジェクトを読み込んでもらえて嬉しいです。「共異体」というものが実現されなかったことは、これまで一度もないと思っています。常にそこにあるものだという言い方もできると思います。かといって、それを実体化したときに、大きなものを失ってしまうかもしれない。「共異体」とは、架空の集合体であって、そこに創造の可能性がある、と理解するべきかもしれません。僕たちが「卵」というモデルにこだわったのは、そこにまだ生まれていない世界像を込めたかったからです。

同時に、僕たちは沖縄の八重山諸島や宮古諸島に散在している「津波石」という小さな場所を手掛かりにしながら、人新世という時代に通用するような、具体的な共生と共存のイメージを共有したいと考えてきました。そもそも共同制作のきっかけになったのは、美術家の下道基行さんが沖縄の離島で撮影してきた「津波石」の映像作品のシリーズでした。

ご存知のとおり、「津波石」とは、かつて海の底にあった巨石が、大きな地震や津波の衝撃を通じて移動し、地表にもたらされたものです。つまり、この石は過去の大きな災害のモニュメントになっています。同時に、その津波石を撮影した下道さんの作品には、アジサシという渡り鳥が営巣している姿や、小さな生物が岩のうえを這っている姿、岩に生えている苔や植物、農機具を使ってサトウキビを収穫する島民の姿、石の前で記念撮影する子どもたちの姿も写っています。つまり、津波石とは異なるものの集合体、あるいは「共異体」という開かれた全体性のモデルを示すのにうってつけなミクロコスモスだったのです。

科学的な視点から見れば、津波石の多くはもともと海中に沈んでいたサンゴ石灰岩で、海中の生物が化石化して付着しています。そもそもサンゴは褐虫藻という藻類と共生する生物で、津波の後に打ち上げられた陸上でも、多くの動植物と共生領域を形成していました。つまり、石の上に木々や植物が生い茂っていたり、様々な鳥類の生息地になってもいます。

津波石は聖地として信仰されていたり、特別な埋葬場所とされたこともあります。そうかと思えば、児童が遊ぶ公園の遊具になっているし、多良間島には津波石を壁面に、手づくりの住居をつくって住んでいる方もいました。〈Cosmo-Eggs|宇宙の卵〉というプロジェクトでは、服部浩之さんのキュレーションによって、そういった多種多様な存在へとつながっていく津波石のあり方を、人間と非人間の共生モデルの表現として提示しています※16

こういった津波石の多様性を発見し、映像作品としてシリーズ化していた下道さんの活動への応答として、作曲家の安野太郎さんは現地で再録した鳥の声をもとに、卵生神話を彷彿とさせるような曲を作曲し、機械制御されたリコーダーで音楽が自動生成される装置を制作しました。建築家の能作文徳さんは、中心部が筒抜けになっている日本館という歴史的な建築物に対して、参加した作家たちのそれぞれのアプローチを丁寧に共存させるような、現代のエコロジー思想を体現する建築を制作しています。下道さんの作品を映す可動式のスクリーンやマップケースなどの什器、安野さんの音楽を生成するバルーンや空間内のリコーダーの配置も、すべて能作さんと作家たちとの共同制作です。

僕は、宮古・八重山諸島や台湾でのフィールドワークから津波神話や卵生神話を収集し、そこから子宮からではなく卵という空間から新しい人類が生まれるという創作神話を作り、他の作家たちがそれを日本館の壁に刻んでくれました。こうして日本の最南端の島々で行われた津波石のフィールドワークを通して、美術家・建築家・作曲家・人類学者がヴェネチアでの展示プロジェクトを構築するのは、これまであまり行われたことがない、実験的な取り組みだったと思います※17

§

唐澤:
「共異体」は常にダイナミックな動きで、ある意味プロセスそのものですよね。先日見たアーティゾン美術館での帰国展でも、プロセスが生き生きと描かれていたのが印象的でした。壁に〈Cosmo-Eggs |宇宙の卵〉が展示されるまでのプロセス・タイムラインがずっと書いてあって、共異体的だと思いました。

〈Cosmo-Eggs |宇宙の卵〉がすごくおもしろいのは、常に変化していくところです。真ん中のバルーンに人が座ったときの空気が管を通ってリコーダーへ運ばれる。そしてそれぞれのリコーダーが反応し合って、常に違う音が出る。あれは動的な様態を示唆的に表現されていると思いました。それから、スクリーンに付いている車輪、あれは動かさないのに動くという可能性を見せてるところがすごくおもしろい。止まっているけども動く可能性を示しているっていう意味で、静と動の共存、それは静止状態のなかにダイナミックな動きを想像させ、とても共異体的な装置だと感じました。

異なる専門性を持つ者同士が理解・制作・実践を共有する共異体的協働の方法を模索するなかで、石倉さんは創作神話をお作りになったわけですが、そこには「共異体」の概念はどのように反映されているのですか。

石倉:
このプロジェクトの特徴は、集中的なフィールドワークだけではなくて、日本の各地に分散して住んでいるメンバーが、オンライン上のコミュニケーションを利用して打ち合わせを続けてきたことにも現れていると思います。つまりその後、新型コロナウイルスで一般化したオンライン会議のような仕組みを多用して意思疎通を図ってきた、ということです。初回の打ち合わせも、僕は秋田からオンラインで参加しましたが、そのとき、二十年ほど前に宮古諸島を旅行したときに聞いた「卵生神話」のことを思い出しました。

この打ち合わせのときに決まった「宇宙の卵」と言うタイトルは、もちろん神話学上の「宇宙卵(Cosmic Egg)」を参照していますが、その背景にはこの「卵生神話」があります。池間島のウハルズ御嶽という場所と関連する日光感精説話で、少女が太陽を浴びて卵を生むという伝説ですね。創作神話のなかでは、同じ宮古諸島や近くの八重山諸島に伝わる津波伝承神話と一緒に取り上げられますが、その理由は、前者の「卵生神話」が世界の始まりを、後者の「津波神話」が世界の終わりを伝える神話だからです。

下道さんの映像作品も、安野さんの作曲した音楽の生成装置も、実は反復構造という共通点を持っています。僕が調査した「津波神話」と「卵生神話」は、それぞれ別の系統で一緒になることはないのですが、実はこの二つを連続的に扱うことで、この地域に長い時間をかけて反復している地震や津波という災害、そしてそれを超えて生存し続けてきた人間とそれ以外の生物の歴史を喚起してみたい、と考えました。その後、少女が12個の卵を産むという話が、偶然安野さんが展示空間内に設置した12個のリコーダー装置と呼応したり、日本館の天井から差し込む陽光や卵の黄身のようなバルーンといった卵の隠喩的な視覚的要素がつながって、徐々に無意識の必然性や共同性を獲得していくことになりました。

それでも、「津波神話」と「卵生神話」をつなぐミッシングリンクは、結局2019年の1月に台湾を訪れるまではうまく発見することができませんでした。創作神話をつくる期限が迫っていたこの時期、沖縄から国境をこえて台湾原住民の神話を現地で調査するなかで、偶然この二つの話型をつなぐ神話が見つかりました。台湾の台東地域には、海岸部に転がる大きな石から先祖が生まれてきたとか、洪水の後に生き残った祖先が卵を産んだという格好のモチーフがあったんです。それは、まるで卵のように孵化する雛鳥のように、海の近くにある鉱物から祖先が現れるという神話群です。こうした台湾に伝わるいくつもの神話を見つけたときに、ようやく創作神話の全体像が浮かんできました。

僕は、自分が物語作者となって神話を書くというよりは、日本の南限に当たる先島諸島や国境を超えた台湾の神話を集めることによって、これまで国家単位で語られてきた神話を、島々のコスモロジーの感覚から再構築したいと思っていました。この作業は、最後に台湾で「石の卵」の神話を見つけたことによって、一気に進んで完成に向かいました。

できあがった創作神話には、いわゆる民間伝承ばかりでなく、自分自身の個人的な想像やイメージが含まれていますし、今回関わったメンバーや現地の人々から聞いた出来事の断片が織り込まれています。また、東アジアの日光感精説話が男性や女性の同性集団の結社と関係してきたことも、大きな意味を持っています。結果的に、今回は男性のメンバーばかりが集まったので、あえて子宮からではなく、卵から先祖が生まれたという話型に集中し、人間を超えた次元での誕生や生命について考えるという展開になっていきました。

§

唐澤:
たしかに〈Cosmo-Eggs |宇宙の卵〉のメンバーは男性だけですね。あえて同性集団で、異性性を考えるのは大事だと思いますが、もしメンバーに女性がいたら、また作品もすこし違う感じになっていたかもしれません。

「太陽を浴びた少女が卵を産む」と言う展開も、いろんな重要なエレメントが隠されているようで、おもしろいと思いました。太陽からの光という贈与によって、大人ではない少女が爬虫類のように卵を産む。これは人間の生理を優に超えている。贈与を起点にしながら、人間と非-人間、大人と子供など、共異体的在り方を表現しているとも思えます。そこに大きなヒントを得て、石倉さんは創作神話をつくったのだと思います。人類学者が神話を創作するのは、なかなか勇気がいることだと思ったんですが、他の人類学者から何かコメントはありましたでしょうか。

石倉:
生産的な批評はいくつもありましたが、非難の類は一切無かったですね。今の日本の人類学は、従来の制度から発展して表現方法を多元化・豊穣化していこうとしています。ですから、僕たちの仕事も、アートと人類学の協働を探ろうとしている一連の実験的な流れの一部として受容されているのかもしれません。

もちろんこうした実験の先駆けとして、中沢新一先生がアーティストのマシュー・バーニーに向けた創作のユーカラ※18をはじめとする、批評的な考察と詩的実践のあいだに位置付けられるような、一連のテキストが存在しているはずです。上橋菜穂子さんみたいに小説や物語を書いたりするような人類学者もいらっしゃるし、人類学者シオドーラ・クローバーとアルフレッド・クローバーの娘であるアーシュラ・K. ル=グウィンの『ゲド戦記※19』にも、神話的な要素はふんだんに盛り込まれています。そういう創作的なテキストと、人類学的な記録としての民族誌をつないでいくような回路が、「表象の危機」以後に数々の苦闘を通じて獲得されてきました。20世紀後半から21世紀の頭にかけて、人類学・歴史学・神話学・考古学・社会学・精神分析学・芸術学などが再構築の時代に入ってきて、そこで生まれてきた一つの可能性として、創作実践があるはずです。

§

唐澤:
石倉さんより前に、中沢先生も創作テキストを発表されていたんですね。よく考えたら「四次元の賢治※20」も、それに近い表現な気がします。中沢先生は、いち早く宮沢賢治や南方熊楠に可能性を見出し、再評価するテキストを発表し続けているのだと思います。

石倉:
そのとおりです。そして中沢先生も、多くの先人からその精神を受け継いできたのだと思います。たとえば民俗学の方でも、柳田國男と佐々木喜善の『遠野物語※19』から折口信夫の『死者の書※22』まで、ストーリーテリングを組み込んだ学問の系譜がつくられてきましたし、フランスの人類学ではレヴィ=ストロースやフィリップ・デスコラが、非常に詩的な創造をテキストに組み込む方法に挑戦してきました。ルーマニア出身のミルチャ・エリアーデ のように、学術と文学の両輪から研究を深めていった宗教学者もいます。そう考えると、ストーリーテリングをもう一度見直してみるのも、芸術人類学の一つの重要な課題と言っていいと思います。

また、複数の種との関係や視覚的な媒体以外の表現方法、音楽や演劇、現代芸術や環境デザインなどの領域と人類学的実践の協働も、これから大きく発展していく見込みがあると思っています。そのためには、人類学を知的生産に閉じ込めるのではなく、他の学問領域とアートを架橋するような、越境的インターフェイスとして鍛えていく必要があると考えています。

§

唐澤:
僕が研究している南方熊楠という存在との接点も、そのあたりに隠されているように感じます。ストーリーテリングの可能性は、南方熊楠が膨大な書簡や記録を通して実現してきた、まだ未開拓な知の領域にも含まれているように思えるのです。また熊楠が粘菌研究をとおして生命のロジックを掴み取っていったように、科学と様々なアートの領域を結んでいくような視点も、これから大事になっていく予感がしますね。今日はありがとうございました。


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合原織部:
ナイトさんは、社会人類学者として、日本の紀伊半島の山村を対象にした数多くのフィールド調査をされてきました。扱ってきたトピックは、狩猟、農業、林業、そして人間と野生動物とのコンフリクトなど、広範囲にわたります。近年の研究は、日本のモンキーパークにおける人間とサル(ニホンザル)の関係性をワイルドライフ・ツーリズムの場として考察するものです。これまでの研究では、今日の日本における人間と動物の関係性のダイナミクスが主なテーマとなっていたように思うのですが、どのような経緯でこれらのトピックに関心を持ったのでしょうか。また、調査対象として日本の山村を選んだ理由はありますか。私自身、宮崎県の山村で人間と野生動物とのコンフリクトに関する調査をおこなっていて、このようなトピックに関心があります。

ジョン・ナイト:
1980年代に博士課程の学生として日本を訪れ、和歌山の本宮町で山村での過疎化について研究していました。本宮には約3年間滞在して、町の外へと移住し、お盆や正月に故郷へと帰省する人々といった、とくに人間の移動に注目していました。最終的に博士論文では、観光客(本宮には有名な温泉があるため)や「Iターン」と呼ばれる移住者や、外に移住していく人々を扱いましたが、私の主な関心は、人々が地元を離れる理由や、そのような移住が残された村へ与える影響にありました。

これが私の日本での研究における第一ステージだったと思います。このとき村が動物が住む森に囲まれていたこともあって、研究の背景程度ですが、動物への関心もありました。1990年代に追加調査で本宮に戻ったとき、森の動物にも強い興味が湧き、それらの動物と、耕作を諦めたり村を出たりしていく人々、また村に侵入して農作物を荒らす動物との関係性などにも関心を持つようになりました。

はじめてモンキーパークに関心を持つようになったのは、1990年代後半に本宮出身の人と和歌山の伊勢ケ谷モンキーパークを訪問したときのことでした。そのパークがある椿エリアを訪れたのは、その周辺で深刻な猿害があると聞いたからだったのですが、それがモンキーパークに関心を持つきっかけになりました。

猿害の温床となる可能性があるにしても、モンキーパークは魅力的な場所です。伊勢ヶ谷にはじめて訪れてから、機会があるたびに伊勢ヶ谷や、他の地域にあるモンキーパークを訪問しました。結果的にこの経験は、日本の人間とサルとの関係性に関する私の視野を広げてくれました。村で生じている人間と動物のコンフリクトだけではなく、日本での人間と動物の関係性について、もうひとつの側面であるワイルドライフ・ツーリズムについて学ぶことも有意義だと考えるようになりました。それは野生動物を、害獣としてだけではなく、観光の資源としても捉えるということです。

モンキーパークの研究を通じて、私のテーマは人間とサルのコンフリクトから、サルが人間の魅力を受け取ることへと移っていきました。2000年代には日本中のモンキーパークを訪れましたが、なかでも特に深く関わったのが、小豆島の銚子渓自然動物公園でした。そこは他のパークとは違い、来園者が屋外で自由にサルにエサを与えることが許されていました。スタッフと知り合いにもなり、今ではそこが一番よく知っているモンキーパークです。

銚子渓自然動物公園は、私のモンキーパークに関する研究のメインの調査地となり、2018年までの間、機会があるたびに訪問しました。しかし、私のモンキーパークに関する調査は、もともと和歌山の山村でおこなっていたような長期滞在型のフィールドワークとはやり方が異なります。私は本宮に3年近く滞在しましたが、モンキーパークの調査は、短期間で複数回おこなった結果を元にしていました。小豆島でさえ、滞在期間は数週間を超えたことがありません。

動物の人間観とは何か

合原:
現代日本の人間と野生動物の関係性を考えるとき、近年の自然・社会環境の変容、特に農山村が経験してきたことを考慮するのが重要です。あなたの編著である『Natural Enemies※1(天敵)』と『Waiting for Wolves※2(狼を待ちながら)』では、現代日本の山村状況について論じています。それによれば、山村で過疎が起こるのは、人々が仕事を求めて都市に移住した結果だと言います。そして山村に人がいない状況は林業や農業の活動を低下させ、それが森林の野生動物の圧力に抵抗する人々の力を弱めることにつながると論じていて、このような人間と野生動物の衝突が生まれるプロセスは、日本の農山村に特有のものであると指摘しています。日本の人間と動物の関係性が持つ特異性について、もう少し説明していただけますか。

また今日の日本において、地方と都市の分離や、過疎化、人間と野生動物の衝突の問題は、以前にも増して深刻です。あなたは人間と野生動物の関係性について、このような変化をどのように捉えていますか。

ナイト:
人間が都市に流出し、野生動物が農山村に侵入することを、英語では”encroachment”という語で表します。社会人類学者として、私のアプローチは、山村の住民がその「侵略」という状況をいかに理解するのかや、それをいかに彼らの生活における大きな変容として捉えるのかを理解することにあります。彼らにとって、村と山林の境界は非常に重要なのです。

§

合原:
そうですね。彼らはそれを区別していますね。

ナイト:
動物が村のはずれに住んでいるときでさえ、動物が村に入ってくることは、村人たちにとってはある意味無秩序で異常な経験なのだと思います。それはどのような無秩序なのか。これに答えるためには、日本の山村住民の事例のように、ある場所に私たち人間が独占的に居住するのではなく、他の様々な存在とも重なり合っているという前提から始めるべきかもしれません。そして、このような場所での暮らしには、活動的な人間の存在が必要です。

この考え方は、過疎化に対する私の理解を次第に変えていきました。はじめのうちは、過疎化を単に数値の問題として捉えがちでした。役場の職員が人口減少についての話で取り上げる数値と似ているかもしれません。人々は過疎について、単純に人口減少によって生じる量的で数値的な問題という印象を持つ傾向にあります。ですが、私は過疎は量的かつ質的な問題であり、山村の生活空間における人々の活動の減少と連関していると確信しています。

簡単に言うと、山村で効率よく暮らすには、人々はそこで「活動的」に住まなくてはならないということです。逆に、過疎は環境に関わる活動が失われた状態だとも理解できます。単に人口だけでなく、残された人々の活動が減り、農作業や草むしり、植生除去もしなくなり、村のなかや近くの森を動き回ることも少なくなります。つまり、農山村の過疎化は「環境の不活性化」であり、このような人間の活動の減少が森の動物が侵入する状況を作り出すと考えられます。これが、農山村の過疎化と野生動物の侵入が同時に生じるひとつのあり方だと思います。

農山村と都市の乖離と、人間と野生動物の関係性の変容との関係についても質問されていましたが、私は動物がどのように人間を見るのかについて知りたいと思っていました。日本の民俗学者らは、ときどき「人間の動物観」という概念を使います。人間が動物をどう見るかというのは、魅力的な研究対象です。しかし、その言葉の逆、動物が人間をどう見るかという「動物の人間観」と呼べるようなものも、とても興味深いと考えています。

日本の農山村では、動物が人間に対する恐怖心を失ってより大胆にふるまうことが、今日大きな問題になっています。このことが逆に人間を刺激し、彼らが様々な方法で動物を追い払ったり怖がらせたりして、動物の人間に対する恐怖心を回復させることになります。それは「修復的に向き合い方を習慣づけること」と呼べるかもしれません。

もちろん、これはワイルドライフ・ツーリズムで生じていることとは対照的です。モンキーパークは、サルが人間への恐怖を失うことでのみ存在することができます。モンキーパークの人々は、そこを「野生のモンキーパーク」と呼びますが、「懐いたモンキーパーク」と呼ぶほうがより適切かもしれません。「懐く」という言葉には「慣れる」という意味も含まれますが、パークのサルは「極度に飼い慣らされている」と言えそうです。人間はサルを飼い慣らすためにエサを与え、人間に対する恐怖心を減らすことで、近寄ってくる観光客に慣れさせてきました。サルの大胆さは農民にとって問題ですが、モンキーパークが機能する前提でもあるのです。

日本のモンキーパークでサルに接触する人間

合原:
先ほど話したように、人間と野生動物の衝突は、人間の領域と野生動物の領域の境界に関する問題と深く関わっています。このような居住域の移動や、異種間の関係といった問題は、現在世界で広がっているコロナウイルスの状況下においても明らかと言えるのでしょうか。

森林伐採とコウモリの居住域の破壊が、人間とコウモリの接触を増やし、それによってウイルスがコウモリから人間へと伝染したと言われています。また、世界中でのロックダウンが、自然環境に予想外の利益をもたらしているという報告もされています。人々が一定期間家に閉じこもることで、空気や水はきれいになり、動物の生息数が増加したと言われます。あなたはウイルスと人間の関係や、それらの境界の問題について、どうお考えですか。

ナイト:
とても興味深い質問ですが、正直に言うとあまりよく知っているわけではありません。この数か月間、日本に行ってこの時期のモンキーパークを訪問したいと願っていました。コロナ禍がパークにもたらす変化を観察するのは、興味深いことだと思います。先に指摘していたように、コロナウイルスの起源は明らかに野生動物であるため、パークのサルなどを含めて野生動物と関わることに、人々がより神経質になるであろうことは想像できます。この状況が、パークにおける観光客とサルとの接触にどのような違いをもたらすのか知りたいと思っています。

この状況によって、パークが来園者にサルとの接触、特にサルへのエサやりを制限するようになるかもしれません。来園者にサルのエサやりを禁じているパークがある一方で、エサやりを許可しているパークもあります。そこでは人々が手でサルにエサをやることも許されていますが、その状況が変わるかもしれないと考えています。「ソーシャル・ディスタンス」が、パーク内の人間同士の接触だけではなく、人間とサルの接触にも適用されるかもしれないのです。

私は、人間による動物へのエサやりにとても関心があります。サルにエサを手渡しするのは、とても密な接触をともなう方法なので、よりセンシティブな対応になると予測しています。これまで通り来園者にサルへのエサやりを許可するパークもあるかもしれませんが、手渡しではなくエサを投げるように求めるかもしれません。コロナ禍は、人間と野生動物との接触により広い範囲の影響を与えるので、ワイルドライフ・ツーリズムにとっても特別な意味合いを持つと思います。

§

合原:
コロナウイルスの世界的流行が、人間同士だけではなく、人間とサルの「ソーシャル・ディスタンス」にも影響する可能性があるという考え方は興味深いですね。

人間と動物の関わり合いをどう見るか

合原:
続いて、人間と動物の関係を分析する際の、あなたの理論的視座について聞かせていただけますか。和歌山での野生動物による農作物被害に関する研究では、山村の人々の生活における動物の捉え方を示すために、動物のイメージや象徴的な意味を分析されています。これらの研究は、主に人間と動物の間のコンフリクトに関わるものである一方で、あなたの著作の『Animals in person※3(親しい動物たち)』では種間の親密性に着目して、いかに人々が動物に人間的な感情や知性を見るかについて検討されています。あなたの研究は、動物の人格に最も早い段階で着目した人類学研究なのではないでしょうか。

ナイト:
先にも述べたように、私の人間と動物の関係へのアプローチは農作物被害をめぐる山村住民と森の動物との間のコンフリクトに着目することから始まり、のちに動物に対する人間の魅力に関心を持つようになりました。それが話に出た『Natural Enemies』と『Animals in Person』の二冊につながっていきます。

『Animals in Person』は、人間と動物の関係の異なる側面に光を当てようと試みたもので、動物が人間に対して感じている魅力を検討しようとしたものです。そして、私はこの視点が、人間に匹敵するある種の感情や知性を持つ、人間と似た動物たちへの関心を引くと思います。私たちがコミュニケーション可能な相手としての動物です。

動物との衝突に関する理論に関して、私はある時期、人類学の理論である構造主義に基づいた「アノマリー(変則)」理論を用いていたことがありました。境界づけられたカテゴリーに収まらないものは、問題含みなものや無秩序、「アノマリー」として見られます。これを動物に当てはめると、私たちにとってある動物が文化的カテゴリーに当てはまらないと見える場合、それは変則的な動物とされ、特別で文化的な着目の対象になります。そのため、サルや大型類人猿を含む他の霊長類は、「アノマリー」として見られます。なぜなら、解剖学的、行動学的、認知学的など様々な点において、動物と人間のカテゴリーの間にあり、私たちと似ているけれども異なる、どっちつかずな存在だからです。

森から村へ移動して農作物を荒らし、また森へと戻っていく動物は、重要な空間の境界線を違反していると言えるので、この「境界侵犯」の考え方が適用できます。これが『Natural Enemies』で扱ったテーマであり、貢献した点でした。

最近は、人間による動物の表象よりも、人間と動物の関わり合いについて深い関心を持っています。ひとつモンキーパークで魅力的に思うのは、それが人間とサルの相互交渉を考察するのに適した場所であるということです。

§

合原:
人間と動物の関わり合いについて、何か具体的な理論を採用していますか。というのも、先の変則的動物についての説明を聞いて、メアリー・ダグラスのことを思い出したからです。そのような動物たちの関わり合いについて考察するときに参考にする特定の理論があるのではないかと思いました。

ナイト:
おそらくアーヴィン・ゴッフマンのような人でしょうか。ゴッフマンは、一対一や一対多を問わず、人間同士の相互交渉について強い関心があるので、さまざまなインスピレーションを与えてくれます。間違いなく霊長類学は、サルでも特にニホンザルの階層的な社会性など、サル同士の相互交渉のしかたについて多くのことを教えてくれます。そしてその型は、サルと人間との関わり合いについて理解するためにも使えます。

また、私たち人間が他者とどのように関わるかについての考察から派生して、サルを人や子どものように扱いながら、擬人的にサルと関わり合う方法を学んでもよいでしょう。ですが、実際の人間とサルの相互交渉は違ったものかもしれません。私のアプローチは、実際の交渉を観察して、何が起こっているのかを明らかにしようとするものです。

§

合原:
フィリップ・デスコラとジズリ・パルソンが編集した1998年刊行の『Nature and Society※4(自然と社会)』のなかの、あなたが執筆した章に関しても質問があります。あなたが執筆した章や、自然と動物に関して、デスコラらとはどのような議論をされたのでしょうか。

ナイト:
『Nature and Society』の主なテーマは、自然と社会の二元論に挑戦するものです。それは、非二元論または一元論的な視座から人間と自然の関わりに着目しています。私の章では、日本の材木プランテーションとそれが軽視されている状況を扱いながら、そのテーマに貢献しようと試みました。私の考えは、過疎というのは村だけではなく、特に放置された人工林などの森林にも起こっているのではないかというものです。例えば人工の針葉樹に人の手が入らなくなったり、人間と木の標準的なつながりが壊れたりしたときです。このことは、先に話したこととも関連しますが、人間の活動は、人間と環境との関係を作るのに役立っていて、日本の山村住民にはその感覚が強く根付いているように感じます。今もまだこのテーマに関心がありますが、それを針葉樹のプランテーションだけでなく、より一般的な形で日本の山村の環境にも適用しています。

最近の論文で、「環境下での行動のズレ※5という概念を使いました。その論文では、日本の山村における様々な「環境下での行動のズレ」を明らかにし、それらを埋める試みや、人間と土地との関わりを復活させて環境の秩序を回復させる試みについて説明しました。これらの環境下での行動のズレを埋める試みには、村人がサルや他の動物を追い払う「追い払い活動」があります。村の縁の植物を切り払ったり、木を切り倒したりすることで、動物の侵入を防ぎます。このような人間の活動の対象となる環境と、それがされない環境では大きな違いがあります。

複数の場所でフィールドワークをする

合原:
近年、フィールドワークをおこなう際の方法論として、マルチサイテッド・アプローチを用いるのが流行になりつつあります。つまり、複数の場所で調査研究を行なうというものです。この方法は、マリノフスキーの参与観察のようなクラシックな人類学の調査法とはやや異なるように思われます。マルチサイテッド・アプローチは、人間と自然の関係性を考察するうえで、新たな視座を与えることができると考えますか。

また、この調査法を用いて、今の日本の自然環境と人間の関係性を考察して、マルチスピーシーズ民族誌を書く研究も増えつつあります。マルチスピーシーズ民族誌は、人間と非人間の関係性を考察するもうひとつの流れとなっています。あなたはこれらの方法論的、理論的トレンドをどのように見ていますか。

ナイト:
いくつかの場所で調査をおこなうマルチサイテッド・フィールドワークは効果的だと思います。もちろんトピックにもよるのですが。私が実施した本宮での調査は、数多くの集落が広範な地域に分散している自治体ではありましたが、基本的にひとつの場所でおこないました。マルチサイテッド・フィールドワークの重要性は、異なる場所でたくさんの事例を調査することではなく、その異なる場所それぞれが研究のトピックにおいて重要な要素を形作ることのなかにあるのだと考えています。農山村の過疎化について言えば、移住者がどこから来るかだけではなく、どこに移住するのかにも目を向けるということなのかもしれません。

このような調査に最も近い経験は、本宮から大阪に移住した人に会うために大阪を訪れ、和歌山出身の大阪在住者が集まる和歌山県人会のミーティングに行ったことです。そこで関心を持ったもうひとつのカテゴリーは、本宮町のふるさと会(文字通りふるさとをベースとした集まり)に参加する人々でした。ふるさと会は、本宮にゆかりのない都会の住民に地元の名産品を販売する事業で、都市部のメンバーは季節ごとに地元の食品が入った荷包みを受け取ります。これは本宮を彼らの第二の故郷にするアイデアです。この架空のふるさととのつながりを明らかにするため、本宮産の食べ物を受け取る消費者にインタビューしようと町を訪れました。これが、おそらく私の本宮での調査でおこなった、マルチサイテッドフィールドワークに一番近い経験です。

人間と動物の関係について、マルチサイテッドフィールドワークをおこなうことには可能性を感じています。例えば、肉と動物の関係というトピックでは、うまく機能しそうです。それは生産者や、おそらくハンター、中間業者、これらの製品を売る会社、そして町の消費者を考慮した、肉の流通に関するマルチサイテッド的な調査ができそうです。この種のフィールドワークが、いかにマルチサイテッドな研究になるかが想像できます。

§

合原:
肉と動物の関係の事例をあげているように、マルチサイテッドなアプローチは、サプライチェーンを追うのに適しているように思えます。例えば、アナ・チンの書籍で取り上げられたマツタケの場合では、どのようにこれらの製品が生産され、モノへと変えられ、最終的に消費者によって消費されるのかといったことが書かれています。チンは、マツタケを事例に、人間と非人間の関係を含むこれらのつながりを描くためにマルチサイテッドのアプローチを使ったのだと思います。

ナイト:
あなたの宮崎の猟師に関する調査では、マルチサイテッド・フィールドワークを採用することも考えているのですか。

§

合原:
はい。私は「ジビエ」と呼ばれる、宮崎の野生のシカとイノシシの肉の商業化についてマルチサイテッド・フィールドワークをおこなったことがあります※6。野生獣肉の商業化により、人間や猟犬の寄生虫感染について興味のある寄生虫学者などの新しいアクターが、地域社会に参加するようになったのがわかりました。この新しい展開によって、私たちは山村を超えて、実験室やレストラン、マーケティング・コンサルタントを訪れてみたりするようになりました。

日本のモンキーパーク、動物へのエサやり

合原:
近年の研究では、サルと人間の関係性に注目し、農作物被害、野生のモンキーパーク、観光へのサルの利用などを含む、幅広いトピックを扱っています。あなたは野生のモンキーパークを、霊長類学と観光の視座から考察しています。あなたは、サルと人間の関係性を考察するアプローチには霊長類学者の視点も取り入れているのですか。

ナイト:
私が教育を受けた伝統的な社会人類学は、人間に焦点があてられた人間中心的なものでした。動物が、人間環境の一部として取り扱われていたのです。

それに代えて今では、私たち人類学者は、動物を仲間の主体として見ることができます。動物たちの生きる空間は人間と重なり合いながら、共通の空間を、異なるしかたで経験している非人間の主体だといえます。人間とサル(霊長類の仲間)に関しては、世界を経験する方法や集団のメンバーとしてのふるまい方などに、似ているところや違うところが混ざっていると思われるのです。私のアプローチは、人間とサルの関係を見るのに、人間の視点だけでは十分ではないと考えています。サルの視点から人間-サル関係に着目するというやり方が重要だと考えていて、いまはそちらに移行しつつあります。

このアプローチを進めるためには、特にニホンザルの場合、日本の霊長類学者の研究にある程度精通している必要があります。霊長類学は、モンキーパークの出現に重要な役割を果たしましたが、もっと根本的なところでもサルのふるまいに対する理解を助けてくれます。そうでないとしたら、私の説明は、モンキーパークで働く従業員や観光客、またはサルから畑を守る村の人々といった、単に人間の視点からサルとの関係について描いたものでしかなくなるでしょう。

いかにして私たちがサルの視点を理解できるのかという質問がありましたね。どのようにサルの群れが機能するのかや、どのようにサルたちの間の階層や序列が機能するのか、サルがエサの周りでどのようにふるまうかを知ることは、おおむね可能です。私はエサに対するサル同士の競争に強い関心があります。ニホンザルがエサのために競争するとき、上下関係がとても重要です。これは、人がサルにエサをやるのを見たり、(私がときどきするように)エサやりをするときに明確になります。

エサやりは一対一でおこなわれるのではありません。なぜなら、近くでエサを狙う他のサルがいるためです。来園者がサルにエサをあげるとき、多くの場合は一対一の状況と考えますが、実は一対多なのです。サルは「エサを手に入れる」のを近くにいるサルとの競争として見ているのです。パークの来園者は、エサやりを通じた相互交渉について、あまりちゃんと理解していないようです。はじめは一対一の相互交渉のように見えるかもしれませんが、実際はより複雑です。霊長類学は、それを理解する手助けをしてくれます※7

§

合原:
なるほど、人間からではなく、サルの視点からサル-人間を研究するというのは、言われてみればとても魅力的な研究方法ですね。最後に、あなたの研究の今後について聞かせていただけますか。

ナイト:
数年前にモンキーパークについての本を執筆し、モンキーパークの組織とその機能のしかたを考察しました。動物園に見られる飼育下の展示システム(captive system)と対比して、モンキーパークを展示における放し飼いシステム(open-range system)に見立てたのです※8。最近はパークの訪問者が娯楽として行うような、手渡しでのエサやりに関するの本を執筆しており、それが時間とともにどう展開してきたのか、そしていかにそれが間違った方向に進み問題となりかねないのかについて書いています。

また最近は、日本における娯楽としての動物へのエサやり一般に興味があります。エサやりは日本で広くおこなわれており、道路端や庭や公園、駅前でハトや野良ネコへのエサやりが見られます。今年は日本を訪れることができていませんが、次に機会があればモンキーパークから離れ、他のさまざまな動物たちを対象にしながら、食物がやりとりされる場をより詳しく観察したいと考えています。

§

合原:
今日は、興味深い話をお聞かせいただき、ありがとうございました。


「More-Than-Human」特設サイト

吉田真理子:
2020年に刊行されたばかりのご著書“Porkpolis※1”は、工業的な養豚業をひとつの全体として分析していて、非常に示唆に富んでいると感じました。資本主義システム下の畜産業というのは、豚の一生のあらゆる時点から利益を得るべく、きわめて特殊な人間労働を前提としている。均質な豚を集約的に生産し、高い効率性と収益性を実現するために垂直統合や標準化、独占化がおこなわれていて、その大きなプロセスの中で、労働者もまた「飼いならされて」いるように思えます。動物の身体的条件と人間の労働形態の変化を考察するアプローチはとても興味深く、マルチスピーシーズ人類学でさらに深く議論されるべき点だと思いました。まずは、ブランシェットさんが現代の資本蓄積の形態や、人間以外の種の結びつきについて考えるようになったきっかけを聞かせてください。

[図1]Alex Blanchette “Porkopolis – American Animality, Standardized Life, and the Factory Farm” (2020)

アレックス・ブランシェット:
私は、マルチスピーシーズ民族誌の問題への関心や、動物の問題への関心がきっかけでこの研究プロジェクトを始めたわけではないんです。特に調査を始めた2005年ごろは、こういったことよりも、幼少期を過ごしたオンタリオ州(カナダ)の農業地帯について考えていました。当時あの地域では、飼育する家畜の数をどんどん増やしていました。鶏は特に顕著で、豚もある程度増えていました。それで、自分が育った地域社会に何らかの形で貢献できるような論文を執筆したいと思っていました。2005年当時、工業化された農場について書かれたものというと、消費者倫理の観点からのものが多かったんです。「これを食べることは何を意味するのか?」といったような。けれど、畜産業によって変わりゆく地域社会で生きることや、工業型畜産における日々の労働を取り上げたものは比較的少なくて。家畜動物を大量生産しているところで生活し働くとはどういうことなのか考えていたんです。1年に700万頭もの豚を産ませ、育て、殺す場所とはどんなところなのか。

それである夏、車でアメリカ中を走り回り、いろんな企業を見学するうち、経営者や役員が養豚の未来について明確なビジョンを持っている拠点を見つけました。彼らにとって、産業資本主義的な哲学や目的論というのは、養豚にまつわる全てを「垂直統合」することにありました。垂直統合というのはつまり、種付け用の牡豚の飼育、繁殖畜舎、飼育畜舎、食肉処理場、後処理施設などをすべて一つの企業の傘下に収めることです。家畜の一生をより高度に管理し、より均質な豚を生み出すというのが垂直統合の目的でした。中西部やグレートプレインズを初めて訪れたとき想像していたのは、家畜の一生を科学技術によって支配する大規模な事業でした。

けれどこうした地域で生活し、仕事をするうち、実際はかなり脆弱なプロジェクトであることがわかりました。彼らは豚の身体を管理して徹底的な均一性をはかったり、新たな価値を生み出すための拠点を探したりしていましたが、なぜそうするのかと言えば、さらなる利益や成長を見込めるだけの余地が尽きた養豚業の現実に直面していたからです。豚というのは、過去150年間の工業化の対象となってきた生きものです。

そういうわけで私の本は、ある企業があらゆるものをどう強力に支配するようになったかを描いた典型的な告発、つまり企業による支配の民族誌というより、すでに極度に工業化された畜産業になんらかの成長を見出そうとする企業の試みを分析したものになりました。

個々の豚は支配され深刻な被害を受けているかもしれない。その一方で、ビジネスモデルとして工業化された豚が、ある種の主体として現れていることに気づきました。日々の仕事や生活は、資本家が豚から新しい価値を絞り出すため組織化されていました。

労働と動物の関係について言うと、工業製品としての豚の民族誌を書こうとしたんです。“Porkopolis”は一般的な豚の話ではなく、時代を超越した生物学的存在の話です。そして、「工業製品としての豚」とは、ある意味では資本主義的な人間の労働搾取と結びついた生きものを指します。賃労働をめぐる関係性のなかで不均衡に出会わされ、知覚され、生成される生物種です。そんなわけで、超工業化された存在形態を囲い込むことで生じる、人間のさまざまな主体性、意識のありよう、労働作業を考察しました。

§

吉田:
複製可能な畜産モデルをもとに工業化される動物は他にも色々ありますが、その中で豚を選んだのはなぜですか。

ブランシェット:
それにはいくつか理由があって、私は豚を、極度に工業化された最初の動物と捉えています。例えば畜牛は、少なくともアメリカでは今でも不均質な面があります。農家が所有する牛舎や牧場がまだ残っていて、牛たちは一生のほとんどを広大な牧場で過ごし、最後に飼養場に入ってから食肉処理場へ送られます。また、養鶏を現代の工業化された畜産業のモデルと見なす人もいます。けれど養鶏が工業化されたのは比較的最近で、実は1950年代に入ってからなんです。私は、最近の工業化や1980年代にあった出来事だけに因らない生物種を取り上げたいと思っていました。それはより長い時間軸で工業化されてきた動物を研究したかったからです。

もう一つの理由は、組織形態です。通常アメリカでは、養鶏業は契約ベースで組織化されています。例えば、食肉加工会社や飼料製造会社は、表向きは自営の養鶏農家と契約していたりします。一方養豚業は、半分は養鶏業と同じような契約ベースで、もう半分は、彼らの言葉を借りれば「契約を超えた」事業形態の企業体です。

私が着目したのは後者でした。こうした企業は、建物と土地のほとんどを自社保有していて、ほぼ賃労働のみで経営していました。契約している畜産農家はほんの一部で、実質的には畜産家を必要としていません。調査当初、私は、初歩的ながら一筋縄ではいかない問題意識を持っていました。「工業型畜産」の「工業」とは何か。また「産業化された養豚」の「産業」とは何かという問いです。私が取材した企業は、資本主義の本質について明解な哲学を持っているように見えました。なかでも、自社の事業を、産業主義のいわゆる発展史的段階を通過していると捉えている経営者がいました。請負契約やもっと古い家庭内労働の「出力」システムを、工場生産や垂直統合、直接所有へと変えていった産業は数多くありますが、こうした産業を踏襲していると考えていたんです。

2010年代初頭、豚という生物種は、いわゆる「工業型」畜産のプロセスを検討するにあたって、最も興味をそそられる対象でした。世界中で畜産というものが垂直統合された企業によって次々営まれるようになっていたので、タイムリーなプロジェクトでした。しかし、蓋を開けてみると不思議なほど時代に即していない。ポスト工業化時代のアメリカにいるのに、地方では強い意志を持って工業化がおこなわれているんです。

§

吉田:
豚の一生を通して、工業型畜産が再編成しているのは人間社会だけではない。飼料工場、遺伝資源センター、養豚場、食肉処理場、ペットフード工場、豚骨の粉砕施設といった「ドムス」と人間・非人間の関係性も組み替えているということですね。ブランシェットさんは、経営者から日本の製造業の理論に関する講義を受けたそうですね。現代のアメリカの養豚産業が、第二次世界大戦後の日本の生産システムをベースにした垂直統合モデルとして構造化されている点に衝撃を受けました。

ブランシェット:
私も驚きました。アメリカでは特に、これらの企業に取材するのは難しくて。何でもかんでも社外秘にするわけではないにせよ、多くの企業は大体慎重になります。ですからひたすら正直に、自分が何を調査しているのか伝えました。私が初めに関心をもったのは、「工業型畜産」において「工業的」であるとはどういうことかという点でした。アメリカでは、「工業型畜産」という言葉は否定的に捉えられます。通常は軽蔑を込めて使われる言葉なので、この問い自体、相手を動揺させるだろうと思っていました。しかし、驚いたことに、役員や経営者と話すと、「我々もその問いに興味があります」と言うんです。興味、と言っても明らかに私とは違う意味での興味でしたけど。彼らが何をしていたかと言うと、統計やリーン生産方式、品質改善モデルなどを従業員や経営者に講義していたんです。

製造業理論の授業を一緒に受講するうち、研修の目的がわかってきました。まず第一に、動物種を垂直統合することの複雑さを理解するということです。豚が一生を通して通過する作業場ひとつひとつに、個別の歴史、文化、物質的な労働プロセスがあります。食肉処理場の工業化の歴史は、1860年代にシンシナティで始まりました。一方、農場における専業化と工業化が押し進められるようになったのは、かなり最近の話です。食肉加工の町で生まれ育ち、地元経営幹部としての地位を築いた人間は、地方の農場で動物に囲まれる生活をしていた人間とは全く異なります。また、母豚に人工授精をするという行為プロセスそのものは、フォード主義的な解体ラインに沿って一日に1万9000頭の豚を処理する行為と根本的に異なります。ですから、研修の目的は、まず第一に、異なる背景をもった者同士がお互いをよく知るための場を提供することでした。あるCEOは、「私たちは豚を統合したが、次は人を統合しなければならない」と話していました。また、研修には、母豚の授精、豚の出産、ハムのスライスといった特殊なタスクから、定量的な共通言語を取り出すという目的もありました。

また当時(2000年代初頭)、このような事業が目指す輸出の割合は、私の想像をはるかに超えていました。彼らは、できるだけ多くの豚肉をアメリカ国外、特に日本と韓国に輸出しようとしていました。これらの国々の卸売業者は、高品質の豚肉をより高価格で買い付けます。一部の企業は、すでに高価値をつけられた豚からさらに価値を生み出すために、より多くの肉の部位を見つけることに熱心になっていました。第二次世界大戦後の製造原理の知識を身に着け、多くを語ることができたら、世界中の卸売業者とより良いコミュニケーションがとれ、卸売業者のみが持つ特有言語を体得できると考える人もいました。

もう一点補足すると、これらの研修授業は品質向上クラスと呼ばれています。経営者の言う「品質」とは、生産過程で生じる不均質さが減るということです。豚を生産するための労働プロセスや周辺環境、豚に与えるものの変数が減ることで、より均質な肉質になることを目指しているんです。品質とは均一性のことであり、世界の卸売業者がブランド化において最も重視している点です。

研修では、21世紀初頭における生きものの工業化が何を意味するのか観察できて、興味深かったです。自動車工場で生まれた認識論を取り上げながら、その理論を今度は生物学的な存在の生成にあてはめていくということがおこなわれていました。しかしこれはあくまでも研修です。時間をかけて豚を均質化していくことは、経営者の研修だけで達成できるものではありません。繁殖のための遺伝子設計や飼料ペレットの生産、そして、種付け用の牡豚、牝豚、子豚、死骸など、様々な豚に対する振る舞いに至るまで、豚の生死サイクルのあらゆる段階で新しい管理とエンジニアリングが求められます。

[図2]生後約4ヶ月の豚を検査する男性

均質な豚肉をつくる

吉田:
現代の日本の養豚業は輸入豚の3割近くを米国に頼っており、世界的な物流インフラに大きく依存しています。国内の飼料産業も輸入の飼料原料なくして成り立ちません。日本のバイヤーは、より高い収益性を得るために仕入れを拡大し、日本ではなく米国で加工費を支払ったり、付加価値のある製品を入荷したりしています。“Porkopolis”では、バイヤーと販売者がカットの種類だけでなく、特定の風味を出すための豚の太り具合も指示している点を指摘されていますね。色味や水分保持量、寿命が、品質を維持する上で非常に重要であるという点も興味深いです。国境を超えた分業形態を特徴とするグローバル物流は、均質な豚肉づくりにどう関係しているのでしょうか。物流が多様化する中で、人間の労働はどのような形をとっているのでしょうか。

ブランシェット:
これらの企業がどのように、時とともに均質化してゆく動物の飼育と食肉加工を実現しようとしているかという質問ですね。経営者が豚のライフサイクルを標準化し、自分たちや従業員をも標準化した生活に組み込んでいるのを間近で見て、現代の工業型畜産に関する理解が覆されました。はじめに立てていた仮説というのは、自動化が進み、テクノロジー主導で景観や動物の生活が支配されるにつれ、人間の労働力に依存する部分が少なくなるというものでした。工業化の過程で賃金労働者が減っていくという典型的なストーリーです。しかし、豚が室温管理された屋内で、自動給餌機などを使って飼育されている反面、人間の膨大な労働力が必要とされていました。もっと均質な豚を作るためにはもっと多くの人手が必要です。少なくとも、豚が生まれてから死ぬまで、より多様な作業や介入が必要になってきます。

高度に工業化された食肉処理場は、COVID-19のウイルス感染の温床として広く知られるようになりましたが、ここでも、2,500人もの人々がベルトコンベアに沿って働いています。動物の身体や筋肉に個体差があるので、何千人もの労働者が同じ動きをして、腱や脂肪の割合が異なる動物ひとつひとつをその場で調整しながら均一に切り分ける必要があります。全ての豚の体重を生後6ヶ月できっちり285ポンドにするには、信じられないほどの集約型労働が求められます。豚の生死のサイクルを通して、労働プロセスが介入する部分は次々に発見され、増えているのです。ある意味、生きものの標準化というのは、人間の労働が豚の存在そのものにさらに深く介入できるよう、豚を解体して再構築することかもしれません。つまり、豚そのものを、より多くの労働力を生み出すための肉の土壌のようなものに変えてしまう。感染症が個体間で伝染しないよう勤務時間外の行動を監視することから、豚の表皮に特化した新しい労働、人工授精、さまざまな薬の投与、屠殺して、豚をより細かく分解することまで、全てが含まれます。工業製品としての豚が今まで以上に労働力を必要としているのは明白です。

§

吉田:
商品化の過程で、個々が質的に変質することなく、継続的に拡大していくシステマティックな事業形態をとっているというのはとても興味深いです。一例として、1,000以上の商品コードをもつバーコードのインフォマティクスを取り上げていますね。また、経営者が生物種を定量的に再生産する装置として「群れ(the Herd)」を定義づけ、豚の品種が統計的に導き出された生命の単位に変わる様を分析されているのも示唆に富んでいました。こうした拡張は日本の養豚業でも見られます。例えば「三元豚(3品種の豚の交配種)」や「四元豚(4品種の豚の交配種)」のような交雑豚生産から資本主義的な価値が引き出され、日本の高級豚肉ブランドの基礎を築いてきました。標準化された豚の一生は、アナ・チン※2の言う「スケーラビリティ」の文脈の中でさらに議論できるでしょうか。工業製品としての豚肉を、拡張性のあるスケーラブルなプロジェクトとして捉えることについてどう考えますか。

ブランシェット:
こうした事業の設計者にとって、「スケーラビリティ」の実現は理想的、あるいは幻想のようなものだと言えます。スケーラビリティとは、1頭の豚を生産することと700万頭の豚を生産することに違いがないという意味だと理解していますが、そうしたスケーラビリティはぜひとも実現したいでしょう。しかし実際には非常に困難で、常に失敗しているように見えました。例えば、豚の生産を年間600万頭から年間700万頭に増やすということは、労働プロセス(殺処分のスピード向上など)と生態系(豚の感染症の増加など)の両方を変えることを意味しています。にもかかわらず、多くの点で、これらの事業はスケーラビリティ、あるいは私が「総体の生成(totality-making)」と呼ぶ概念を前提としています。より多くの豚肉を無限に作ろうとしているんです。無限に標準化でき、無限に多くの製品を生み出せる動物です。おっしゃる通り、豚から生み出される製品には現在1,100個のプロダクトコードがあり、さらにもう数百個のプロダクトコードが生み出される未来が予測されています。これらは実験テストの領域のようなものかもしれません。より多くの豚の体の部品を作るだけでなく、モジュラーモデルを開発しようとしています。世界中で、特に南米や東欧のような穀物価格の安い地域で簡単に再現できるモデルです。実現はまだ先ですが、こうした事業は実際に販売される豚肉だけでなく、このような事業を世界中で再現するための投機的な未来にも収益性を見込んでいます。

一方で、実際のところそういったモデルは常に失敗しています。私が考察したかったのは、家畜の集約性を維持すべく人間や人間社会が追求する、継続的かつ終わりのない変容です。企業は、工業製品としての豚肉を生み出すインプットとなる、エンジニアリング的な人間の存在形態に着目しなければならないことを認識しています。豚そのものではなく。これも、豚の群れを維持し拡大し続けるためです。親族関係、男女関係、人種関係、階級関係など、日常的なことが改めて問われるようになっています。高齢化が進んだり、地域の農村生態系に感染症が蔓延するにつれ、肉体的な人体を持つことの意味さえも産業システムの問題点として認識されるようになっています。調査中、完全にはそれを理解できていなかったのですが、最終的には養豚そのものの解明ではなく、豚の集約にこれまで以上に対応できるよう人間の組織形態を作り直す試みに焦点を当てました。

[図3]発情徴候を確認されている牝豚と、遠隔操作で唾液に含まれるフェロモンを飛散されている種付け用の牡豚(写真左側)

知覚する生物種

吉田:
あなたは、サラ・ベスキーとの共編著“How Nature Works: Rethinking Labor on a Troubled Planet※3”で、サプライチェーン資本主義を、労働者が同じやり方でおこなう反復作業と、集合的な暗黙知(刺激による牝豚の発情誘起など)双方を伴うものとして位置付けていますね。人間と豚をめぐるこうした単調な生産労働は、豚の意識や知覚をどうコントロールしているのでしょうか。

ブランシェット:
“How Nature Works”では、公に語られる工業型畜産を批判検討するのが目的でした。誰も観ない深夜帯に放映される養豚システムの告発番組などは、非常に限定的な視点しか提供していません。人の手による作業がほとんどなく、機械がほとんどやってくれて、人間と接触せずに機械の中を通過していく存在として豚が描かれるので、退屈で単調なものに見えるかもしれません。

しかし実際には、豚の体重が45kgを超えるような成長期を除いて、すべての業務に人間の労働が介在しています。私が調査した企業では、豚の飼育・繁殖をおこなう畜舎に約2,000人の従業員がいました。論文で考察したのは、豚が信じられないほど単調な生活をしていて、その単調さが彼らの体にはっきりと表れている、という点でした。妊娠した豚は、飼育箱の中に一日中横たわっているので床ずれを起こします。逆説的かもしれませんがここで重要なのは、非常に単調な存在が多大な労働に裏打ちされているということです。それに気付いたのは、第6繁殖畜舎と呼ばれる、人工授精と子豚を出産する豚舎で仕事していたときでした。よく同僚から、豚の前でどう振る舞うべきか教わっていたんですが、あるとき、牝豚を犬や猫を撫でるような手つきで撫でてみたんです。それが私の知っている、動物に対する振る舞いでした。すると同僚が大声で「豚に触らないで!」と。個体に注意を払うといういつもと違う振る舞いが、牝豚を動揺させ、興奮させる危険性があったんです。豚はケージの中で暮らしていますから、そういうことが起きると流産に繋がる可能性もありました。

また、勤務中ずっと豚に見られていたのを鮮明に覚えている労働者もいました。豚たちは常に彼らの身体を解釈しようとしていたそうです。そこで私は、アグリビジネス業界の雑誌で、豚がどのように色や音、人間行動を認識し、それらが産仔数や豚の「出来高」にどのような影響を与えるのか、といったことに関する情報や研究論文を読むようになりました。そして、単一のタスク、例えば発情や代謝だけをおこなう豚の労働に関わるとき、労働者は自分の身体や振る舞いが動物にとって意味のあるサインを出している可能性に注意を払わなければなりません。均質に育てられた豚の周りで均質な行動をとろうとする労働者を観察していると、豚の感受性自体が労働者の振る舞いの生成に関わっているような感覚がありました。工業化が進むにつれ、免疫系やホルモン系、神経系に至るまで、人間労働の対象として扱われる動物が多面化していくのがわかりました。

もう一つ重要なのが、アメリカで家畜産業は、しばしば非熟練の「肉体労働」として語られます。反復的で、単調な労働が多いというのがその理由です。私の担当業務のひとつに、人工授精のため母豚の背中に一日中座り続けるというものもありました。けれどそのシステムを支える労働者の専門知識にも注意を払う必要があります。実際、養豚場では、動物のライフサイクルに関するさまざまな深い知識が求められます。例えば、40万頭の出産に立ち会って初めて身に着くような、子豚を正しく取り扱うための技術。これは非常に脆弱な養豚システムを支えている知識の一つです。

§

吉田:
豚の知覚に関して言語化されない専門知識が、ある部門から別の部門の季節労働者へと伝搬されることはありますか。管理職がそうした知識を、入ったばかりの労働者に教えることはあるのでしょうか。

ブランシェット:
はい。私に仕事を教えてくれたのは、グアテマラシティからアメリカのグレートプレインズに移住してきた人でした。彼は長年豚の畜舎で働いた後、最終的に下級の管理職のポジションに就いていました。いろんなことをよく知っていて、他の同僚も知識の宝庫でしたね。養豚場や食肉処理場で働く労働者は入れ替わりが激しく、多くが勤続1年未満だったりするのですが、驚いたことに、養豚場で一緒に働いた同僚の多くが、過去10年間で他の豚肉製造企業で働いたことがありました。中西部全域の工業型畜舎で働いたことがある友人もいました。彼らは多くの企業で働いていたので、いろいろなコツややり方を身につけていました。

一方で、上級管理職は生身の豚と関わりを持ちません。確率や統計、モデル化といったレベルで、18万頭の母豚の出産や、700万頭の豚の生産増大に注力しているからです。あまり一般化したくはないですが、どのようにしてプロセスを実行するかという知識が、従業員の入れ替わりを超えて伝播され、磨かれ、翻訳されているように感じました。

工業型の動物性とは

吉田:
ディクソンで調査されていた当時、2000年代半ばのアメリカの大不況とその他の社会経済的な落ち込みが、労働者のダイナミクスに影響を与えていたと思います。分業によって労働者同士が隔てられているどころか、経営者が労働者の顔を見ることすらできないバイオセキュリティゾーンの特性も興味深いです。豚の生命世界に関する経営者の知識と、労働者の日常知識との間には、対照的なギャップがあるように思います。

ブランシェット:
管理者と労働者の間にある産業階級的な隔たりは決して単純なものではありません。それだけでなく、動物や畜産に関する経験も根本的に異なります。垂直統合されたシステムでは、「労働者」と呼ばれる人たちは、動物のある一面だけに特化した作業に従事する傾向があります。豚の感染症がある場所から他の場所に広がることが懸念されるような、バイオセキュリティの問題もあって、基本的に異なる作業場を労働者が行き来することはあまりありません。本の中で、一緒に働いていた女性の同僚について触れていますが、彼女は子豚の扱いには非常に慣れている一方、屠殺場に足を踏み入れたことは一度もなくて。おそらく、生後21日以上の子豚を見ることもないと思います。牝豚の生殖本能を刺激する方法について、実地経験にもとづいた知識を持っている労働者もいましたが、屠殺場や、種雄の精液が抽出される場所で働いたことはおそらくないはずです。つまり、人間と豚との親密な関わりがあったとしても、あくまで緻密な分業の発展を前提とした資本主義的な親密さです。

対照的に、管理職の人たちは豚の生死のサイクル全体を改善しようとします。彼らの業務が対象にしているのは、豚の精液から1,100種類の製品までの全てです。彼らが向き合っているのは、私が思い浮かべるような、畜舎で寝そべっている個々の動物ではなく、家畜なんです。給餌や地域の天候パターンは、消費肉になる豚の構成要素であり、影響を与えるものとして捉えることができます。また、彼らは、先ほどお話しした製造理論も含めて、動物の繁殖、出産、飼育、屠殺という全く異なる行為を一つのプロセスとして捉えるための認識論を開発しようとしています。個々の動物ではなく、垂直統合された豚をモデル化していると言えます。

§

吉田:
「資本新世(Capitalocene)」において、そのような親密さを検討することは非常に重要ですね。そのような資本主義的な親密さをもって、彼らは生産サイクル全体を組み立てラインのように捉えているんですね。最近のインタビュー※4の中で、ブランシェットさんが「現代の豚肉生産の現場は、人間中心でも豚肉中心でもなく、むしろ資本中心である」と指摘されていた理由が今なら理解できます。

ブランシェット:
そうですね。私は「人間中心」という言葉が好きではありません。ある種の画一化された人間性の名の下に、生態系や種の支配を暗示した言葉のように思えるからです。工業型畜産は、異なる種の間の搾取と同一種の間の搾取が同時におこなわれている場として見る方が良いと思います。そこでは、人間の労働者を搾取する余地を生み出し続けるように豚が形作られています。逆に言えば、私がいた地域は、動物の繁殖を最大化し、屠畜のスピードを加速させるために組織された企業街のようなものでしたが、「豚中心」とは到底言えません。あくまで資本主義的畜産の中で生産性の増大をはかる場所にすぎません。新しいモデルや指標、品種を生み続けながら、常に収益性を高めていくのです。

§

吉田:
東京の豊洲市場でも、連動した株式所有、高度に管理された売場、整備された競売システムという形で垂直統合が採用されています。しかし、垂直統合されたネットワークの中での分業を見ると、養豚業とは大きく異なるように思います。仲卸業者は、特定の業界ギルド内での家族経営が基本です。仲買人は特定の魚種と関連する専門分野の仕事に割り当てられます。卸会社の社員も、特定の魚種に特化した訓練を受けていることがほとんどです。この違いは、労働者が特定の経済的ニッチを支配しているかどうかの違いと捉えることができるかもしれません。

ブランシェット:
そうですね、畜牛に関しても似たようなことが言えるかもしれません。養豚場で一緒に働いていた同僚の多くは、牧場や肉牛の肥育場で働きたいと考えていましたし、実際そういう業務の方が給料が高いんです。しかし人種差別的な背景から、グアテマラやメキシコ出身の人々に開かれた雇用形態は、養豚場での仕事だけでした。たとえそれまでメキシコ北部の牧場で働いていたり、似たような就労経験があったとしてもです。牛は歴史が深く、昔から貴重な労働力とされている文化的にも経済的にも重要な生きものでした。この点では、豚と牛という異なる種の間に、人種階級的なヒエラルキーがあったように思います。私には、ある動物種が別の動物種よりも多くの技術や専門性、知識を必要とするとは思えません。にもかかわらず、異なる動物種の間で人種的な分業が正当化されていました。

[図4]食品加工工場に輸送されてきた何千頭もの豚

§

吉田:
あなたは、“Porkpolis”の中で、ポスト人間中心主義的なバイオセキュリティについて、以下のように指摘されていますね。

家畜動物を屋内に閉じ込めること自体は、他の生物との予期せぬ接触(例えば人獣共通感染症の病原体の宿主になりやすい野生のガチョウなど)によるウイルス感染を避けるため正当化されることがある。一方、生きものを工業化することに注力してきたこの地帯は、それが生み出す予測不可能なリズムがいかにして豚の感染症に巻き込まれているのかを示している。もはや人間社会は豚の感染症をため込む「貯蔵庫」の中核なのだ。

私はコロナウイルスを含む人獣共通感染症について、これと似たようなことを考えていたんです。新自由主義的な資本主義社会において、気候危機の問題は同じ生産モードに起因しています。また、自然の過剰搾取によって、人間と人獣共通感染症の宿主動物の接触や近接性が問題視されていますよね。つまり私たちは、社会全体に跳ね返ってくる新たなリスクに身をさらしているわけです。そう考えると、本の最後で脱工業化を指向されているのが非常に興味深いです。脱工業化という概念は、人間と人間以外の生物社会をどのように定義し直していると思いますか。

ブランシェット:
その読み方は素晴らしいですね。アメリカでも、他の社会でも、私たちが期待するほど脱工業化が進んでいないというのが現実です。今日のアメリカで、工業セクターに就く人が少なくなってきているのは事実ですが、一方である地域では超工業化が進んでいます。5,000人もの人々が年間70億頭もの家畜の生産に携わっている。つまり、ほとんど前例がないほどの過度な生産性を獲得しているということを意味します。現在、私たちの日常生活にかかわるほぼ全てのものが、工業化された生産過程から生まれています。気候パターン、水運、航空なども、より工業化されています。製造業の従事人口が減っていたとしても、現実の生活は工業的な労働力によって媒介され続けている。ひょっとすると、1920年代や1950年代よりもさらに過度に工業化されているかもしれません。

現代のアメリカの農業について考えるとき、「工業化」というと、化石燃料や機械の多用だったり、大規模生産を指しがちです。でも私は、産業資本主義の観点から工業化(と脱工業化)について考えています。産業資本主義とは、人間労働に対して不均衡なほど多大な社会的、集団的価値を置き、労働力を搾取するための新たな場所を開発し続ける時代です。豚がその最たる例です。豚という動物は、150年に及ぶ複合資本主義的なエンジニアリングを内包しているのです。1頭の豚から、何百種類、何千種類もの製品が生み出されます。豚は、労働によって膨大な数の製品に形作られ、知られ、接触される動物でもあります。調査を経て、私は脱工業化を、意識的で、野心的で、最終的にはポジティブな方向性を見出すプロジェクトとして、どう捉え直すべきか考えるようになりました。今私たちが一丸となって達成しようとしているテーマだと思います。労働者の追放ではなく、共同体としての急進的な政治目標を意味するものです。労働を減らし、労働の対象とするものを減らすこと。社会貢献と言ったときに、生産性や効率性を軸に考えないこと。むやみに働かせず、生産プロセスを非効率にさせておくことに価値を見出すこと。労働を介してではない方法で、豚やその他無数の生きものと関わり合うこと。それがこの本の結論ですが、今後も私が取り組むテーマです。

現在、シカゴのユニオンストックヤードが残した影響、廃墟、遺構についての長期調査を進めています。この食肉加工場は1860年代から1940年代にかけて、現代の私たちがイメージするようなアメリカの産業主義の多くの面を生み出しました。例えば、ヘンリー・フォードは、自動車の組み立てラインのアイデアをこの食肉加工の解体ラインから得たようです。今、シカゴの16ヶ所を調査中ですが、住民はこの閉鎖された食肉処理システムを社会的にも生態学的にも継承することが何を意味するのか、すべてを過去の遺物にすることが何を意味するのかを考えているようです。引き続き現場の人々と一緒に、「真の意味でのポスト工業化、脱工業化の瞬間に到達した」と言えるのはどういうことなのかを理解したいと思っています。脱工業化をめぐる集団的実践とは何なのか考えていきたいですね。

§

吉田:
シカゴの労働組合のストックヤードに関する調査プロジェクト、おもしろそうですね。おっしゃるように、モノを生産することを中断する、というのはある意味能動的かつ再帰的な実践と言えます。この点を念頭に置いた上で、〈自然〉を過剰に酷使する中で何が生まれているのかを深く考える必要がありますね。私たちの〈自然〉との関係の再考にも繋がりそうです。興味深いお話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。


「More-Than-Human」特設サイト

——— 上野さんが出版された本『オブジェクト指向UIデザイン※1』は、体裁が実用書という形で、副題には「使いやすいソフトウェアの原理」とあって、そしてユーザーインターフェース(UI)の「操作性と開発効率の劇的な向上」と書かれています。なので、基本的にはUIデザイナーの人たちに向けた実用マニュアルみたいなもので、そこをメインターゲットとして想定しているんでしょうか。

上野:
これは技術評論社という出版社の一連のシリーズなんです。もともとコンピューター関係の技術本を出してるので、想定読者としてはコンピューター技術者ですね。たぶんこのシリーズで初めてのデザインに関する本なんですが、技術者向けの枠組みでデザインについて書いています。担当編集者の方には、前から雑誌記事でお世話になっていて、僕がどういうことを書くのかよくわかっていたので、かなり好きなことを書かせてもらいました。

§

——— ただこの「オブジェクト指向」という概念は、UIデザインという意味を超えて、そもそも「人間にとって道具とはどういうものか」とか、あるいは「デザインってそもそも何なんだろう」といった、非常に拡張性の高い問題まで広がっていくコンセプトになっていると思うんですね。なので、まずは書かれている内容を簡単におさらいをして、その上でオブジェクト指向という概念が上野さんからどのように出てきたのかを聞いていきたいと思っています。

結構多くのページを占められているのが実践演習で、実用書という体裁を保っているとは思うんですけど、「はじめに」とか「おわりに」とか、後半の「オブジェクト指向UIのフィロソフィー」では、かなり抽象度が高い話も交えてますよね。

上野:
最初はプログラミング教本みたいにノウハウだけが書かれた体裁にしようと思ってたんです。「まずこの文字を打ってください。それから次にこれをしてください。この通りにやれば誰でもできますよ」みたいな。だけど、今回「ワークアウト」と呼んでいるところを書いていたら、もうすこし説明がないとわかんないよねと思ってきて、そしたら公理系のメモがどんどん増えていき、半分ぐらいになってしまいました。

§

——— 逆に言うと、上野さんはもともと公理系が身体化されていて、実践ではその場の課題に合わせて公理系を導きながらお仕事されてるんですよね。要するに、マニュアルが先行してあるわけではないと思うのですが。

上野:
そうですね。自分がやってることをメソッド化しながら書きました。もちろん人それぞれで勝手にやっていいし、いろんなやり方があるんだけど、その背景にある考え方は、自分のなかで確たるものがある。そこをあえてメソッドにして一存をまとめてみました。

§

——— そういうことですよね。では内容に入っていきながら、その辺の背景にある思考のコアコンセプトが、上野さんのなかでどうできあがってきたのかを、徐々にお聞きしていきたいと思います。

まず大前提として、多くのUIが非常に使いづらいと言われます。それは利便性を損なっているだけではなくて、使う人から創造的な試行錯誤の機会をあらかじめ奪っている。つまり、使う人間がある種の疎外感を持っているというのが、電子機器に接する多くの人の印象なんじゃないかと思うんです。この問題については、本の「はじめに」でオブジェクト指向とタスク指向を概念として対比しながら論じられています。

すごく単純化すると、多くのUIが使いづらいのはタスク指向で作られてるからだってことだと思います。タスク指向は、ゴールをあらかじめ想定して、そこに向けて最適化しているデザインであり、その最適化されたライン以外の道をすべて排除することによって成り立っている。それが使いづらさを生んでいるんじゃないかってことですよね。

このように、そもそもいろんなUIがタスク指向で設計されてきた要因を、上野さんはどのように考えられてますか。

上野:
タスク指向については、おっしゃるとおりですね。本の「はじめに」で石器の写真が出てきます。実はこの写真の使用許諾を得るのが結構大変だったんですけど、ここに石器を載せた理由は、この本が「道具論」であるという導入にしたかったからなんです。

道具を作ったり使ったりするというのは、人間の根本的な営みです。そして道具は、われわれが世界とインタラクトするインターフェースでもある。パソコンが普及して、さらにスマホやクラウド系のサービスが生活のなかに浸透して、使ってる時間も長くなっています。そういったものとネイティブに接している世代からすれば、ソフトウェアのバーチャルな世界とリアルな世界は区別がないと思うんですよ。そうすると、ソフトウェアのインターフェースは世界のインターフェースであるとも言える。だから、そのあり方を考えるのはデザイナーとして重要だし、人間としても重要なんじゃないかってことですね。これはUIデザインやソフトウェア開発といった特定のジャンルというより、もっと普遍的なテーマだと感じていました。

そのなかで問題になっているのが、先ほど指摘されたようにコンピューターのデザインがタスク指向になっていることです。自分なりにその要因を考えると、もともとコンピューターは高速に計算をする機械として便利だから、ということになります。コンピューターに高速に計算をさせるために、そのプロセスやロジックを教えるプログラミングをする。そうすると、人がやっていたら何人も必要で長時間かからないと終わらないことを、ものすごく高速におこなうことができる。つまり、長いプロセスをコンピューターに埋め込むことで、たくさんのステップを自動的に実行するという考え方が先行してあると思うんです。

その発想だと、コンピューターにやらせる計算は、目的に向かって線形化して正規化してプログラミングをするというプロセスになってしまいます。コンピューター以前からそうかもしれないですけど、自動化というのは機械を使って機械化することなんです。そして、次に複数のプロセスを連続的に走らせる。なので、コンピューターでシステムを作るときは、どうしても線形化したタスクを実行するという固定観念になってしまいます。今も業務系のシステムは、そっちの方が多いと思います。

だけど、それはわれわれの世界の認識のしかたや物の考え方と違う。それに気がついた天才的なコンピューター科学者たちが、オブジェクティブに操作できるコンピューターを作れないか考え始めた。60年代に始まって、70年代から80年代と研究してきた人たちがいて、今のコンピューターやスマホみたいなグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)ができました。

§

——— そもそもの開発プロセスが、タスク指向と親和性が高いってことですよね。もしかすると「はじめに」で書かれていることに、もうひとつの観点があるのかもしれないと思いました。

顕在化した課題に対する即物的な解消手段として狭く捉えること。システムの全体性を軽視して部分最適化を偏重すること。テクノロジーにのって人々の射幸心を狡猾に刺激し、その行動を支配して盲目的な消費欲を増幅させること。権力者の要求に合わせてその他の人々を一方的なタスクに従属させること※2

ここに書かれているようなUIは、市場構造みたいなものを背景にした要請とも言えるんじゃないかと思います。「人々の射幸心を狡猾に刺激する」と書かれているところは、ユーザーに物を買ってほしいとかサービスに契約してほしいといった、事業者の強い動機が反映されたゲームの課金システムやランディングページを思い出させます。こうした動機は、市場としては当然のことなんですけど、その実現手段としてユーザーにこう動いてほしいという前提で、多様性を与えないように作られてるものが多い気がします。費用対効果を計算して、それに最適化するデザインが優秀と言われるような環境ですね。

オブジェクト指向UIデザインという考え方は、こうした市場の要請自体を根本的に変革していこうという視点を孕んでいるような気がします。つまり、アテンションエコノミーと言われるような市場性に最適化されたデザインに対して、どうにか変革していこうという意図もあったりするんでしょうか。

上野:
資本主義システムに駆動されたコンピュータテクノロジーが急速に発展して、ビジネスはとても狡猾になっています。それがアテンションエコノミーやインテンションエコノミーといった言葉であり、行動経済学的な考え方ではないかと思います。そこでおこなわれているのは、「人はこういったものにこう反応する」というパターンラーニングで、そのパターンマッチングによるデザインです。そうなると、われわれのようなユーザーは、自由意志で行動してるようで実はコントロールされてる。泥臭い話なんですが、それに危機感を感じています。

しかし、コンピューターやデザインの歴史において、オブジェクト指向やGUIは、リベラリズムに根ざしてきました。一部の特権的な人が持っていたコンピューティングパワーを開放して、自分たちで作ったり使ったりできるようにしようという考え方です。その観点だと、デザイナーは事業側が持っているテクノロジーの使い方を監視する役割を持つべきとも言えます。それを「はじめに」のところですこし書きました。

§

——— デザイナーだと、事業者がクライアントでお金をもらうという事情もあるので、そこに抵抗するのはなかなか難しいと思うんですね。ただ事業者にとっても、ユーザーフレンドリーな環境を作った方が利益性が高い。それを考えると、このオブジェクト指向UIデザインはものすごくアクチュアリティの高い手法という印象がありますが、それを実践のなかで感じるようなことはありますか。

上野:
デザインの受発注関係では、事業者が欲しいと思っているものを作って対価を得ている構造があるので、それに反した行為はあまり意味がない。だけど、今言われたとおり、事業者も実際ユーザーにとって意味が感じられないものを作ってもどうしようもない。じゃあ何をすればいいのかというと、事業者から何か頼まれて作るというより、事業とは直接関係のない部分で、デザイン行為として本来いいものを提案していくことになります。

その提案というのは、事業者に対する提案でありながら、ユーザーに対する提案でもあるんです。この本で何度も書いた「ユーザーに合わせたものではなく、ユーザーが合わせられるものを作りましょう」という話です。ユーザー自身は、自分たちが何が欲しいのか言語化できないので、デザイナーから事業者や市場を通じて「こういうものはどうですか」と、ユーザーに提案する形になっていくべきじゃないかと思います。

§

——— この本の「はじめに」でも、「業務の形骸を暴き、それを創造の場にリフレームする※3」と表現されてましたね。ただ事業者はどういうものを作ればいいのか、何の確信もない状態だと思うんです。それをユーザーに聞こうとするんだけど、ユーザー自身も自分が何をしたいのか答えを持っていない。だから、デザイナーがある確信を持って、両者を啓蒙していくポジションにいるべきなのかもしれません。

さて次に聞きたいのが、オブジェクト指向UIの「ユーザーを対象に直接的にアプローチできるようにする」という定義についてです。これをより細かくしたのが次の4つになります。

  • 人々をそれぞれの目当てに接続すること。
  • ユーザーが自分なりの方法で目的に向かっていけること。
  • 行動の可能性を解放し、その道具を使うことで仕事や遊びに対する自身の意味空間を創造できるようにすること。
  • 思弁性をもって潜在的な課題に取り組み、道理をわきまえ、異なる視点を得られるようにすること※4

これは「道具」全般の話として聞けました。ハンマーは釘を打つのに使われる道具だけど、たとえば泥棒が来たら防犯対策にもなる。つまり、ハンマーを使う人は、その形状からいろんな使い方を導き出すことができる。釘を打つという行為ひとつを見ても、大工のようにエレガントな技術レベルで打つ人もいれば、うまく打てない子供もいます。

これはあらゆる道具に言えることで、たとえばギターが一本あれば、それでどんな音楽を作るかは無限にバリエーションが考えられるわけですよね。オブジェクト指向の前提として、何か道具があってそれに触れられることを先行させれば、人間は自由に道具の可能性を引き出せると考えていいんでしょうか。ハンマーだと、実際に物質として存在しますけど、コンピューターのUIだと存在しないわけですが。

上野:
物理的なものでも、最初はそこに何かがあるというだけで、それが何なのかは決まってないと思うんですよ。たとえば浜辺に貝が落ちていて、それを食べるためには割らないといけないですけど、手では割れないから石を使って割ったとします。そこにあった貝と石と食べるって行為はまったく別なものだけど、ある瞬間にひとつになるわけですよね。われわれが生きていくなかで、そういった瞬間は何度も発生してくる。

つまり、道具の「道具性」は、意味があとからラベリングされる性質を持っていると思うんです。まずは何でもないオブジェクトそのものがあって、われわれはそこに意味を与えていくという能力がある。そう促すのが道具の「存在性」だと思います。だからこそオブジェクト指向なんだと。

§

——— なるほど、非常にわかりやすいです。今言われたのは、道具のインターフェースでありインタラクションの話ですけど、ここで縮約してコンピューター画面のUIについて聞いていきたいと思います。

コンピューター画面のUIって、表示されているのがグラフィックであれテキストであれ、単純に言うとひとつの記号にすぎないわけですよね。その記号にすぎないものをオブジェクトと感じさせる原則が書かれていて、これがおもしろいと思ったんです。

オブジェクト指向UIの原則

  • オブジェクトを知覚でき直接的に働きかけられる
  • オブジェクトは自身の性質と状態を体現する
  • オブジェクト選択→アクション選択の操作手順
  • すべてのオブジェクトが互いに協調しながらUIを構成する※5

このなかでも、「オブジェクトは自身の性質と状態を体現する」と「すべてのオブジェクトが互いに協調しながらUIを構成する」という原則が、非常に奥深いものに感じました。

「オブジェクトが自身の状態を体現する」というのは、単純な例だとマウスオーバーでボタンの色が変わるといったことだと思います。物を自由自在に使えるのは、物とのインタラクションにおいて、それがどんな形の反応をするのかが、自分の記憶のなかで構成されるからですよね。UIデザインは、それを見越して物の性質をあらかじめ付加しておかないといけない。すべては予測できないかもしれませんが、人間の心理に合わせてオブジェクトの挙動をあらかじめ反映させておく。これはかなり高度なことをやっている印象を持ちました。

上野:
まず「オブジェクトは自身の性質と状態を体現する」について話します。タスク指向が使いづらいのは、先に誰かがゴールを決めて、必要な手順が設定されているからです。そうじゃなくて、われわれが現実世界で物理的なものに対してインタラクトするような感覚を、データのなかでできるようにしないといけない。この本の「オブジェクト指向UIのフィロソフィー」に書いたのは、そういった発想で研究してきた人たちの話でした。

UIと言っても、最初はただの光の点だったんですけど、当時は画面に絵が出ているだけで画期的なことでした。なぜなら、初期のコンピューターにはディスプレイがなかったからです。それどころか、もっと初期にはキーボードもなかった。今のわれわれからすると、コンピューターにはディスプレイやキーボードのような入力装置がついてるのは当たり前ですが、最初は単にどこかで作ったプログラムを読み込ませて、結果が紙テープみたいなもので出てくるだけでした。もちろんリアルタイム性もまったくありません。

それから、リアルタイム性を持たせるために、まずはディスプレイが必要だよねということなったんです。文字でも絵でもいいから、コンピューターのなかで起こってることを、その場で何とか表示させる。今度は表示されてるものに対して、こちらから何か入力をしてインタラクションさせたいという発想になりました。入力したいから、キーボードやマウスみたいなものが出てきます。そうやってディスプレイと入力装置がコンピューターにあるということが、かなりエポックメイキングなことだったんです。

コンピューターはさらに発展していくんですけど、たとえば計算するときに数字を画面に映し出すとします。これは紙に字を書いたり読んだりするメタファーに則っている。二次元のディスプレイに記号を映し出し、われわれはそれを見て、数字が出ていれば数字とわかるし、絵が出ていれば絵だとわかる。こうやってコンピューターで扱っている情報や概念を、絵や記号や文字に見立てて表してきた。今では当たり前だと思うんですけど、当時は画期的なことでした。つまり、今われわれが当たり前にコンピューターを通じて知覚できることが、当初は意外とできてなかったんです。

さらに、われわれが知覚しているものが、本当に「そのもの」であることを示すには、インタラクティブに反応しないといけません。字を打ったら字が出なきゃいけないし、字を消したら消えなきゃいけない。そこにリアルタイム性を持たせることで、自分がイメージしているとおりに操作していると認知するわけです。文字を打っても出てこなかったら、自分が何やってるかわからないし、そこにあると思ってたものが実はないってことになる。

このように認知心理学的な観点で、われわれがそこに期待していることが起こっているように見せかけるのは、とても重要でした。そうしながら、現実世界にある物と同じような感覚で、概念を対象化して画面のなかで操作可能にしていったわけですが、これはオブジェクト指向のプログラミングとオブジェクト指向のUIが、内的に連動してるから実現されています。そのおかげで、ユーザーはどうプログラミングされているか知らなくても、アイコンのようなグラフィックを自由に操作できる。この本でも引用したアラン・ケイが、プログラム構文の記述とUIの組み立て方は一貫しているべきで、内と外がひとつの原理に基づいて作られているのがオブジェクト指向の特徴だと言っています。

コンピューターを立ち上げて、仕事を始めて終わるまで、その手順は無限にあるじゃないですか。従来のコンピュータープログラムの考え方で、無限に条件分岐がある手順を、ひとつのプロセスに線形化するのは不可能です。ユーザーの作業を線形化しない代わりに、ボタンを押したら光ったり、図形を引っ張ったら変形したり、オブジェクトというカプセル化された概念自体に振る舞いが定義されていれば、それらをつなぎ合わせて無限の操作ができるようになる。この操作の体系を作るために、オブジェクト指向のプログラミングが生まれたわけです。だから、オブジェクト指向でこれができるというよりは、これをできるようにするためにオブジェクト指向プログラミングが作られたってことなんです。これを考えた人は天才的だと思います。

もうひとつの「すべてのオブジェクトが互いに協調しながらUIを構成する」という話も、似たような話になります。ひとつひとつのプリミティブなオブジェクトがあって、それぞれは自律的に独立していて外からは遮断されている。その代わり限定的なインターフェースがあって、あるボタンがクリックされたらこう動きなさいということが、あらかじめオブジェクトのなかにプログラミングされています。オブジェクトはプログラミングされた反応をするだけ。ボタンはユーザーに押されたとき、どういう文脈の命令かはまったく知らずに、ただ自分の仕事をしているだけです。それらが集まってより大きな体系を作ると、さらに複雑な仕事をサポートできるようになります。

これはわれわれの言語構造のようなものに感じます。単語みたいに独立したプリミティブなものがあって、それらを組み合わせて無限の表現ができる。その言語体系の全体性のなかで、単語のように個別に存在している。こういう言語体系みたいな構造を作る仕組みとして、オブジェクト指向のプログラミングがあって、われわれの複雑な仕事をサポートできるようになっているわけですね。

§

——— 先ほどの繰り返しですが、オブジェクト指向的に考えると、ハンマーがあれば釘を打つだけじゃなくて、防犯にも使える。だけど、そのハンマーという形がないと使い方のバリエーションは発想できないってことですよね。

上野:
ハンマーみたいなものを作って、それで釘を打ったら具合が悪かった。じゃあちょっと形を変えてみようって話になる。だけど、ソフトウェアの場合には、作るまでに時間も人もいっぱいかかって、非常に複雑で難しい。あらかじめ作業を計画しておかないと見積もりすらできません。なので、とくに規模が大きくなると、現状は何度も作り直すフローはできないケースが多いです。

たとえば業務系のシステムだと、業務要件をまとめて機能を決めて、それらを実現するのに必要な仕組みを定義した仕様書ができて、それに従ってプログラマーが作ります。だけど、そのUIを作ろうとすると、成立しない場合が結構あるんです。ソフトウェアは自由度が高いので、プログラム上ではなんでもできるんですけど、実際に使われるUIとして人間が理解できる形で表現できるかというのは、また別の問題になります。つまり、UIとして成立するものに合わせて、要件も定義しなきゃいけないってことです。

§

——— UIとして成立するものというのは、おそらく人間の習慣がある程度ナレッジとして共有されてる状態じゃないかと思います。当然ながらUIを使うのは人間なので、人間の認知や身体とのインタラクションとして適切じゃないといけないわけですよね。

先ほどコンピューターの歴史において、グラフィックという発想が画期的だったとお話されてましたけど、おそらくデザイナーは開発の場面で、まず形をつかむという抽象的なプロセスをしている気がするんですね。悪い意味ではなく、勘で仕事しているというか。デザインじゃなくて彫刻家の仕事でも何でもいいんですけど、そういう人たちは形を表したところで仕事が完結するので、まずはその形をつかむということを、仕事の一番最初にしてるんじゃないかと思うんです。

これはUIデザインに関しても同じ気がしています。つまり、いろんな要件から必然として演繹的に導かれるものではなく、こういうシステムにするならこの形になるというのを、まず帰納的な状態でつかむ。そうやって直観を働かせるというプロセスが先にあるんじゃないかと思うんですけど、実際の作業ではどんな感じなんでしょうか。

上野:
その通りですね。こういう入力をしたらこういう出力があるという仕様通りに動いたら、プログラムとしては完成なんですけど、グラフィックなどのデザインでは、機能的な要件は一定でも表現の方法は無限です。プログラムは中身が見えないので、出てきたものが合ってればいいですけど、グラフィックデザインは中身が見えている。だから、デザイナーは中身そのものの形で評価されるし、勝負しないといけません。

僕がいつも比喩的に言うのは、真っ白の紙の上で最初の点を打つときのことです。そこには言葉に表せないような不安や恐怖があります。無限に可能性があるなかで、どこに点を打つかは非常に恣意的で、職人の勘のようなものにかなり依存していると思います。だけど、点を打たなければ次に進まないので、どこかに打つ。これは清水の舞台から飛び降りるようなものです。

それで、とりあえず一度どこかに点を打ったら、その次の点は最初よりは楽なんです。なぜなら、最初の点がここなら、次はここに打てばいいというのが、今までの自分の経験である程度予測できるからです。無限にあった可能性が、最初に点を打つことですこし狭まって、それを繰り返しながら最終的なものができあがっていく。そういう意味で、UIデザインはグラフィックデザインの性質を持っていると思います。

理論上の話ですが、プログラムは無限の情報を扱えます。なので、無限の情報が扱えることを前提にプログラムは作られます。たとえば顧客情報が無限に入れられる箱を作ったりといったことですね。それに対してUIは、ソフトウェアとしての無限の利便性を有限にすることで、人が見て把握できるようにしないといけない。

僕はよく「ガッツ」という言い方をするんですけど、恣意的な判断をデザイナーが引き受けて責任を取らないといけないんです。色はこれで数はこれぐらいなどと、無限のなかに有限性をもたらしていく。そこについては、ある種の直観というか、職人的な判断は常にあると思います。

§

——— 最初の点を打つとき、当然まったくデタラメに打つわけにはいかないし、たぶんデタラメに打つと次が成立しないと思うので、そうやって直観みたいなものを働かせると思うんですね。で、その直観はアブダクションじゃないかと。アブダクションというのはチャールズ・サンダース・パースが提示した概念ですけど、いわゆる神秘的な啓示とはすこし違う。日本語では帰納的推論と言われたりしますが、天から啓示が降りてくるようなものではなくて、今までの経験が身体化されていないと、そういった勘がそもそも働かないというメカニズムだと思うんです。このメカニズムがどう動いているのかを考えていきたいと思います。

ここで鈴木宏明の『類似と思考※6』という本を紹介したいのですが、ここにはアブダクションの基礎には類推、いわゆるアナロジーで結ばれた記憶のマトリックスがあると書かれています。要するに、無限の可能性のなかで点をひとつ打つというのは、言ってみればまったく未知のところにひとつの実践を導入する作業だと思うんですけど、これは自分が白紙状態では何もできなくて、すでに経験したいろんなことのマトリックスによって思考して導き出されるんだと言うわけですね。これはいわゆる演繹的な論理思考ではなくて、抽象化されて断片化された既知のものが、経験のレゴブロックみたいな状態になっていて、まったく未知の仕事をするときには、自分なりにそれをカチャカチャと組み立てて、形を見立ててポンと打つみたいな作業をしているんじゃないかという議論がされているんです。

当然ながら、何か形をアブダクションとして直観するためには、いろんな経験が自分の身体に高い抽象度で記憶されて眠ってるんだと思うんですが、この話はデザイナーに共通する資質だと感じますか。

上野:
そうですね。おそらくデザイナーだけじゃなくアーティストも同じように、最初の点がどこにあっても、何かしら作ることはできると思います。というのは、その経験のパターンみたいなものの数がかなりあるので、点がひとつあるだけで可能性はかなり絞られるからです。きっとたくさんある自分の引き出しで対処できる。

僕はもともとグラフィックデザイナーだったんですね。グラフィックデザイナーは、最初の仕事で名刺を作らされることが多いんですが、名刺はどれも機能としては同じで、名前と会社名と住所といった要素が決まっていて、そこにグラフィックデザイン性が加わってくるじゃないですか。最初に自分で名刺をデザインしたとき、もっと経験値の高いデザイナーが作ったものと比べると、明らかに差があったんですよ。自分が作った名刺はどこか素人くさくて、経験値の高いデザイナーが作ったものは、プロっぽいとしか言いようがなかった。同じ情報をデザインしているのに、ものすごい差があったんです。

まあその差を出せるのがプロってことだと思いますが、なぜその差が出せるかというと、おそらくプロっぽく見えることをたくさん知ってるからなんだと思います。そのセオリーやパターンにしたがって、ここに置いたら違和感があるからすこし位置を変えるといったことを、非常に細かく実践している。だけど、途中で素人が手を出すと、そこに素人っぽいものが加わって、全体に素人っぽいものになる。つまり、最初の点を手がかりに、すべての点を打ち終わるまで、一度もプロっぽい場所を外さずに最後まで行かないといけないということなんだと思います。

原体験みたいな話ですが、小学校の頃は漫画家になりたくて、漫画クラブの部長をやってたんですね。あるときクラスの女の子が転校することになったので、みんなで寄せ書きをしてました。それが僕にも回ってきたので、そこにイラストを描こうと思ったんです。ちゃんと水彩絵の具で色を塗って、いい絵を描こうと思ったんですけど、失敗してしまって。変な絵になったので、水で絵の具を溶かして消そうとしたら、うまく消えなくて紙がボロボロになったんです。

次の日に渡さなきゃいけなかったので、夜中に一生懸命描いてたんですけど、代わりの紙もなくて、これは明らかにヤバいという状態で徹夜になってしまい、もう絶望的な気分でした。でも、そこで一旦落ち着いて、もう一度やり直そうと思ったんです。紙が削られて薄くなって穴があきそうなんですが、水でその絵の具を丁寧に溶かしました。これが最後のチャンスだから冷静になって、最初に描こうと思っていたのとは違うものだったんですが、その場で自分が書けそうなものを改めて描きました。そうしたら、すごくいい感じのができたんですね。

自分がとても気に入るものが描けて、それを転校する子に自信を持ってあげることができた。今でもこの経験がしっかりと記憶に残っています。自分はまったく何もできあがってない最悪な状態からでも、何か形を作り出すことができる人間なんだという確信があって、それが自分に対する信頼になっている。

話を戻すと、ひとつの点から次の点を打って、そのクオリティのまま最後の形まで持っていけるのは、自分に対する信頼がドライバーなんじゃないかなと思います。それがないと、ある点を打って何か違うと思って、さらに次の点を打って、また何か違うってなったときに、あきらめてしまうと思うんですよ。これも自分の経験の話でしかないですけど。

§

——— 個人的な話がおもしろいですね。上野さんの言い方だと「デザインの目的は形である」という前提があるわけですもんね。

上野:
はい。それはクリストファー・アレグザンダーの受け売りですが※7

§

——— 「形とはわれわれの認識のあり方であり、事柄を結ぶパターンであり、行為の可能性である」というやつですね。さっきの『類似と思考』に話を戻すと、この「われわれの認識のあり方」「事柄を結ぶパターン」「行為の可能性」という自分の潜在的なものが形を見て、そこでインスパイアされて賦活されるようなものが、プロっぽいものとして成立する形だという議論だったんですよ。そして、その形はロジカルに抽出できるものではなくて、最初から形としてとらえるしかないものだと。さっきの上野さんの話を聞いていて、それがオブジェクト指向のデザインでも重要な前提になるんだという気がしました。

ここからは、さらに抽象度の高い話になりますけど、オブジェクトと対峙するときに、そもそも人はなぜ自由になったり創意工夫ができたり創造的に物と関わることができるのかを掘り下げていきたいと思います。

まずは上野さんの過去のツイートから関連しそうなものを挙げていきます。ひとつ目はこれですね。

道具の手元性を自己帰属感と言うこともできるが、オブジェクト指向的に主客を転回すると、自分の拡張として道具が帰属するのではなく、道具のインターフェースとして自分が接続されるのである。道具存在が感覚から退隠するのは、自分がその実在的対象の側にあるからである※8

それから、もうひとつドリルの話があって、これも先ほどの主題につながる話だと思いました。

電ドラを使いながらその道具的存在性を確認している。私の関心は明らかに、締められたネジよりもこの道具自体、そしてそれを使うことによって起こる私自身の世界内存在としての変化(これは多分に詩的である)に向けられている。やはり穴よりドリルだ※9

マクルーハンのメディア論もそうですけど、「道具は身体の拡張である」って言われるじゃないですか。たとえば「ハンマーは手の拡張である」といったものです。でもこの理屈をよく考えると、自分の身体の拡張であれば、本来は自分の身体だけでも事足りるわけで、それをさらに便利にするものとしてしか道具は存在していないという話なんですよね。

だけど、おそらく上野さんはそのように考えられていないんだと思うんです。つまり、人間には素の身体みたいなものがあって、便利だから道具を使っているのではなくて、そもそも道具と人間というのがハイブリッドなものとして存在していた。そして、この道具とのハイブリッドなものとして存在していることが、他の動物と大きく違う人間の特質だと考えられている気がしています。

これにまつわる話で、大藪泰の『共同注意の発達※10』という発達心理学とか発達認知科学あたりの分野の本があるので、簡単に内容を紹介します。まず類人猿は幼児の段階から「自己と他者」という二項性しか認識できないという話があって、非常におもしろいと思いました。これがあらゆる共同体の基盤になっているわけですね。それに対して、人間は言葉も喋れず立つこともできない乳児の段階から、「自己と他者」の間に物を関係させて、その三項性に基づいた行動パターンや意識が認められると論じてるんですね。

つまり、人間は最初から本能的に道具を組み込んでいく身体感覚を持った動物であるってことです。だから、まず主体があってサブジェクトとしてオブジェクトの道具を使うという関係ではなくて、先ほどの道具とのハイブリッド性の話のように、実はすべてをオブジェクトとして想定できてるということなんです。

こういった話は、上野さんも実感を持たれていますか。

上野:
絵を描いててうまく描けないというのは、あくまで自分のなかでの自分への評価で、すごく残念で悲しい気持ちになってるんですよね。逆にそれがうまくできたときは、その絵が自分とあまり分離してないものとして実現されたという感覚なんです。

自分のなかでこういうものを作ろうと思って作り始めるんですけど、大体は途中でうまくいかなくて、ああでもないこうでもないってやるじゃないですか。グラフィックを作るときもそうだし、文章を書くときも、プログラムを書くときも、自分ひとりで孤独な作業をしてますよね。そうやってずっと個人的な時間をすごしていると、同じものを見たとしても、よかったものがよくなくなったりして、自分の考えが変わっていく。もしくは自分自身が自分が作ったものに影響されて、次の考え方が変わることがあります。

そうやって、自分が作っているものとの対話を長時間繰り返していると、自分が作ったものでありながら、それに影響された自分が次の行動を取ったりするので、自分が作るものが自分でもあるし物でもあるという不思議な感覚になっていきます。そうすると自分が作っているというよりも、自分が作られているような感覚になる。われわれがしゃべっているこの言葉も道具のひとつですけど、そうやって道具を使うことによって自分たちが変容していく体験をずっとしているんだと思うんです。そして、これが自分たちの世界の見方そのものであるべきなんじゃないかと思っています。

§

——— そうですね。そのどこまでが自分でどこからが道具なのかは、実質的に切り離せないのかもしれませんね。それは道具や作品だけじゃなくて、言語なんかも同じことが言える。自己と道具を両極に置くとすれば、われわれの生はその中間ぐらいで成り立っていて、ここまでが自己でここからが道具と切り離すのは現実的ではない。

道具を作るという行為は、さらにその自分を変えたり道具を変えたりすることによって、自分自身を変えるという相互作用を発生させていくことになります。その相互性を認めるのであれば、道具というのは身体の延長ではなくて、やはり道具と人間の身体がハイブリッドであるという考え方が近いのかなと思いました。

さっきの絵の話もそうですけど、上野さんがそれをどこかで気づいて獲得したわけじゃなく、子供の頃から実感としてその世界観を持っていたように感じるところがおもしろいですよね。もちろん勉強して身につけたわけではないし、いろいろな経験も感覚を強めるエビデンスにはなってると思うんですけど、どうも最初からその感覚を持たれているような印象があって。何かを制作するというプロセスのなかで、作品と対話をして自分にフィードバックできる人は、必然的にそういう考え方になるのかもしれませんが。

上野:
よく言われるように、あらゆる芸術においてデザインをするときには、だいたい過去の誰かが作った何かを真似したり組み合わせたりします。たぶん、それ以外の作り方はありません。自分がすごく独創的なことをやっていると思っても、必ず何か元ネタがあるわけです。すくなくとも何か発想のきっかけはあって、アーティストやデザイナーは常日頃から何かを真似しながらすこし変えたり組み合わせたりして作っている。何かを作っている人であれば、自分が独創的にやったところは1%ぐらいしかないという感覚を持っていると思います。

僕はそれを「アートの委譲」と呼んでいます。ここで「アート」と言ってるのは、人が工夫して作った術とか技みたいなものです。そして、「アート」は人類の歴史のなかで蓄積されてきました。たとえば、ホームセンターに行って、小さなハンマーを500円で買うとしましょう。このハンマーの形や大きさや構造には、ずっと昔に石で貝を割っていたノウハウが蓄積されているわけです。

このハンマーは、何百万年も前の人がいろんな試行錯誤して積み重ねた結果なので、デザインの価値は500円ではないと思うんです。潜在的な価値を考えると、ものすごく高価なものですが、それが500円で売られているのは驚きじゃないですか。じゃあ今まで試行錯誤してきた人の努力はどこに行っちゃったんだと思うんですよね。実際どこかにあるはずなので。

この「アート」という人の術や技みたいなものは、無償で次の世代に受け渡されていくもので、今われわれはそれを受け取って次の物を作っている。だから、物を作るという行為は、そうやって別の人に価値を受け渡していくということでもあるんです。そこで昔の人たちから価値を受け取っていると感じることが、とても大事だと思います。500円で売ってるハンマーを見たときに、本来これは500円じゃないというロマンと言いますか。

§

——— 今なぜこうやって抽象度の高い話ができてるかというと、知的な蓄積を受け取ってるからですもんね。ゼロから自分で考えて発言しているわけではなく、過去の成果である言語を借りて、そこに乗っかってるだけですから。そう考えると、人とオブジェクトにおいて、むしろオブジェクトの方がマトリックスであって、人はそこに宿を借りてるぐらいの位置づけで考えた方が正確かもしれません。

生物の進化を見ても、まったく何もない状態から形ができるわけではなくて、先行形態からの転用によって成り立っているわけですし、形は神様がゼロベースで作ったものではないわけです。

上野さんがデザインすることを「そこに物を置く」と言われるのも、そういった感覚を表しているのかもしれません。物が「そもそもそこにあるべきような形である」のは、自分が制御した結果として出す答えではなく、対話的に自分の創造性を働かせる態度、あるいは物に歩み寄っていく態度の方が、正解に近づく確率が高いと言いますか。

上野:
そうですね。だから当たり前だと思うんですけど、意外と自分たちが必要に応じて物を作ってるという感覚の人の方が、多い気がしますね。

§

——— 最初に話してたタスク指向じゃないですけど、サブジェクトがすべてのメタレベルに立っていて、その世界観で作業を成立させている感覚ですよね。しかし、サブジェクトの方がオブジェクトに従属してるか、あるいは対話的なレベルで関わっているという世界観を持たないと、オブジェクト指向における創造性は発揮できないんだと思います。

このあたりに関わる話で、上野さんがこんなツイートをされていました。

道具の道具的存在性とは、何かを作るためのエンパワーメントだと思う。そしてその道具も何かのエンパワーメントによって存在する。デザイナーはこのスパイラルを感じながら道具の使いこなしに貪欲であるべきだし、道具を作る道具を積極的に作るべきだ※11

これも、まずはさっき言われていたような視点を持とうということですよね。

上野:
そうですね。「アートの委譲」をちゃんと意識しましょうということです。

§

——— ここでは「道具を作る道具」という言い方をされてますけど、単純に手で道具を作るわけじゃなくて、ハンマーで釘を打って家を作るみたいに、そこには階層構造や段階があるわけですよね。そう考えていくと、家も道具なわけですけど、家はハンマーに比べてすこし機能が限定されてます。家に比べると、ハンマーは抽象度の高い道具と言える。

同じように、プログラミング言語も道具だと思いますけど、これも何でも作ることができる非常に抽象度の高い道具じゃないですか。人間はプログラミング言語も作るし、そのプログラミング言語を使ってひとつのソフトウェアも作ることができる。そうやって道具がいろんな形でネットワーキングされている状態で、それらをサブジェクトとして上から見るのではなく、そのネットワークに入っていく方がいいと読めました。

ここで興味を持ってしまうのは、オブジェクトがいろんな形でネットワークになった状況に入っていくサブジェクト、つまり主体としてのわれわれの意識のことなんです。それはいったいどんなモードなのか聞かせてもらえますか。

上野:
先ほどの「アートの委譲」の話と似てるんですけど、形を作り続けるのは、僕にとってある種の贖罪なんですよね。何か形を作るのは、そこでエントロピーを抑制してるわけですけど、それによって自分たちが利便性なりを受け取っています。だけど、エントロピーの加算法則から言うと、おそらくその代わりに、宇宙のどこかでより多くの混沌が生じてることになります。自分たちが便利なものを作る反作用で混沌が増してることに、罪悪感があるんです。

われわれが生きていて何かを作り続けることには、ずっと何らかの原罪があるという気がしています。だから、ある種のエコロジーとして、自分たちが作った形を次の世代に受け継いで、あまり混沌を増やしすぎないようにしなきゃいけないと思ってるんですね。そして、まったくその考えが感じられないデザイン、つまりただ物事を複雑にしているだけのデザインを見たときに、なんてことをしてるんだ、宇宙の混沌が増してるじゃないかと思うわけです。それをできるだけ減らしたいし、そう考えることも大事にしたいと思っています。

§

——— ひとつの会社が利益を最大化して成功しても、地球環境に悪影響を及ぼしてるかもしれないといったような話があるように、スケールの設定でも相対的に変わっていくような話ですよね。

最後にお聞きしたいのが、「道具を使うと人間は創造的になれる」と言われているところです。これまでの流れでも話されていましたが、もうすこしフォーカスしてクリアにしていければと思います。ここでも上野さんのツイートをいくつか引用して、話のきっかけにしてみます。

道具のエモーショナリティというのはやはりユーザビリティと相関しているだろうということ。ただしそのユーザビリティは合目的性のことではなく、コントローラビリティのことである※12

道具を手にすることでなぜ自己が肯定されるのか。われわれは子供の頃から様々な道具を使って外界に対するコントロール性を試す。その経験から、道具を見た時にコントローラビリティを評価するようになっている※13

人と道具の間には合目的性よりも先にコントローラビリティがある。これは主観的な期待値として評価されるのもので、操作性とは異なる。自分の延長として世界をコントロールできそうに思えるかどうかが重要だ。自己肯定のための試行錯誤が、人と道具の相互発展スパイラルを生む※14

世界をコントロールできそうかどうかの度合い。これをコントロール期待性と呼ぼう。われわれはコントロール期待性が高いものを好むのだ。その好みは経験によって異なり、中には複雑な道具を扱うことを好む場合もある。複雑な道具の力で世界をより複雑にコントロールしたい場合だ※15

まずは「コントローラビリティ」をすこし敷衍して考えてみたいと思います。

ミゲル・シカールという哲学者が、『プレイ・マターズ※16』という本で「遊び論」のようなものを書いています。「遊び論」というと、これまでもヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス※17』やロジェ・カイヨワの『遊びと人間※18』などいくつかありましたが、この『プレイ・マターズ』には、今までにない非常におもしろい観点があって、それが「コントローラビリティ」の話につながるように感じています。

本のなかで、遊びの特質をいくつか羅列してあるんですけど、そのなかで重要だと思うものが2つありました。まずひとつは遊びが「個人的なもの」であるというもので、もうひとつが遊びはコードや文脈を乗っ取って「流用するもの」であるというものです。簡単に言うと、そこにある与件としての世界を、誰かの指示に従って生きるのではなく、おもちゃ箱のようなものと認識してるってことなんです。

そして、自分で自由に流用して、しかもその個人的なモチベーションのなかだけで通用するのが、遊びというモードだと書いてあるんですね。ここがまさに道具の「コントローラビリティ」に関わる問題だと感じました。

つまり、人間は何かを学習するときに、学習プランに沿ってひとつひとつ自分のなかにインストールしていくのではない。幼児が積み木で遊ぶときのように、いろんな形で試しながら、そこの挙動を自分のなかにフィードバックさせながら、物の扱い方を学習していく。その学習は楽しかったはずなんです。なぜ楽しかったかというと、ミゲル・シカールが言うような「個人的なもの」として創造性があり、なおかつ自分で楽しめるように自由に「流用するもの」だからです。そういった遊びの自在性が担保されていることで、楽しいモードにいられたんだと思います。

おそらく「物を最初に出す」というオブジェクト指向の話も、誰かの指示に従うモードから、そのものを遊ぶというモードに転回させるという意味が含まれてるのかなと思いました。つまり、人間が「コントローラビリティ」が高いことに対して反応するのは、自分で自由に使えて試せるからだと思うんです。

上野:
まさにそうです。遊びには見立てが関係していて、たとえば棒切れが一本落ちているときに、それがちょうどよい長さや太さであれば、途端に遊びの玩具になる。これは、われわれがオブジェクトを何かに見立てるのを、自動的におこなっているということなんだと思います。それが道具として役立つこともあるし、既存のコードを乗っ取って、木の枝でおこなうべきではないと考えられているようなことを触発されて、楽しそうだから思わずしてしまうこともあると思うんです。この見立ての能力というか習性みたいなものは、遊びにもオブジェクト指向にも共通してると思います。

2万年ぐらい前の洞窟には、牛とか馬の壁画がありました。当時どれぐらい言語が発達していたのかは解明されてないと思うんですけど、とにかく絵を描くことはやっていた。でも、洞窟のなかにいないはずの牛や馬の絵を描くということは、牛や馬の概念を対象化できていたということじゃないですか。それを絵として表象していたわけです。

つまり、昔から人はそうやって遊んでいた。それが楽しい遊びだったのか、コミュニケーションだったのか、どういう意味があったかわからないんですけど、あまりそういった区別もされてなかったんじゃないかなと思うんです。

人が絵を描いたり、物を玩具のように扱うという行為をし続けているのは、われわれが世界とインタラクトすることそのものなんだと思うんですよ。オブジェクト指向でUIを表すというのも、コンピューターのなかで扱っている情報を玩具化するということですよね。

§

——— 今のお話に対応するような内容として、前に「創造性とは、サブジェクティブな駆り立てではなく、オブジェクティブな見出しから伸び栄えるものである※19」ともツイートされていましたね。

たとえばインターネットを見ていても、あまり楽しい気分になることはなくて、何か一方的にこうしなさいと指示されているような、ある種の掌握感があります。これはUIというよりも、市場社会が要因になっているかもしれませんが、遊園地に行っていろんな遊具を見て何をしようかワクワクするモードと、ブラウザでいろんなWebサイトを見たときの気分は全然違うわけです。だけど、本来は遊園地にいるときのような楽しい気分であるべきものなんじゃないかなと思います。

上野:
まさに最初に話していたタスク指向の問題だと思います。機械化が起こって、さらにコンピューターみたいな高速で処理をするものが出てきたときに、プロセスを自動化するという発想があった。そうすると、コンピューターに対してだけじゃなく、ユーザーに対しても何か仕事をさせるといった使役的な考え方になる。コンピューティングパワーを使って、ユーザーに何か一連の行動を取らせるように設計されているケースが非常に多い。

たとえば、子供の玩具を見ても、積み木のように好きに遊べるオープンゴール系のものもあれば、手順に従ってうまくできるかどうかを競わせるものもあるじゃないですか。本来の遊びは、前者のオープンゴール系なんだと思います。

§

——— 後者の手順に沿った遊びについては、さっきのミゲル・シカールの本でもゲームデザインの問題として取り上げていました。ゲームデザインは、デザイナーが仕切るエモーショナルのデザインだと考えられているけど、遊び本来の意味から考えると、すこし歪なんじゃないんじゃないかという議論です。

ただオープンゴールにすればいいというわけではなくて、人間社会は当然ながらある程度の「型」を文化的に備えているものです。さっきの「アートの委譲」の話でもあったように、ある一定の「型」を、自由な動きのなかから見出していくものだとも思うんですね。あるいは、その自由な動きさえも、ある一定の「型」がないとそもそも実現しないところがあったりして。

なので、デザイナーはさっきの「アートの委譲」のなかで「型」を与えることで、人々の創造性をインスパイアしていく。そんなポジションとして考えた方がいいのかもしれません。

上野:
その通りだと思います。だから「型」を作る。そういった意味で、デザインはメタデザインだと思ってます。

——— デザインをデザインする。

上野:
そうですね。コンピューターのプログラミングではキーバリュー(Key-Value)という言い方をしますけど、「色」とか「スピード」みたいなキーがあって、それに対して「赤」とか「100km/h」といったバリューがある。デザインもキーの方、つまり「型」を作ることによって、バリューで遊ばせるというところがあります。

§

——— やはり人間の創造性は、そこに没入する精神の運動だと思うんです。没入することが楽しいかどうかは、主観的な問題になるんですけど、没入していること自体は客観的なモードだと思うんです。今日のお話を聞いて、オブジェクト指向UIデザインとはそこに誘うための基本的原理という感じがしました。

上野:
物理的な物であれば、右から左に移動させれば、その物はちゃんと右から左に移動しますが、ソフトウェアのなかではデザイナーやプログラマーがそう振る舞うように作らないといけません。ユーザーがマウスで右から左にアイコンを移動したら、アイコンを右から左に移動するように作って、「コントローラビリティ」を感じさせる。

GUIの歴史では、それをプログラムで自然に見せるために、ものすごい努力をしてきたわけです。われわれはそれをさまざまな形で「アートの委譲」として受け取り、日々デザインしている。そう考えていくと、オブジェクト指向UIデザインのことも当たり前に感じてもらえると思います。

§

2020年7月3日
インタビュアー: +M(@freakscafe

はじめに

本稿は、拙著『タイポグラフィの領域※1』(以下、『領域』)について、その結論部を補足する試みである。

『領域』を執筆した動機は、タイポグラフィという言葉の定義化の必要を痛感したからである。まずこの国では、本来の意味と齟齬をきたす使われ方がなされていると見えたからであり、次に本質的な概念の抽出が、その語を口にする者にとっては必要だろうと考えたことにある。そのためには時代の技術変化に支配される環境下においても一定不変である概念を引き出す努力が不可欠であり、その定義化という作業では歴史を遡らざるを得ないことから、可能な限りの広い渉猟と慎重さが要求される。それに応えられたかはかなり心もとないが、幸運にも発表の機会を得て、ここに四半世紀を迎えようとしている。

『領域』の結論では、「タイポグラフィとは活字書体による言葉の再現・描写である」と示し※2、定義の一例として提案した。

タイポグラフィの定義化での障害

そもそも『領域』は意味ある提案だったのかとの杞憂は長く続いている。文字さえあれば「タイポグラフィ」だという歴史を無視した曖昧な認識が大多数であり、現にその認識のままご都合主義的・恣意的に意味が拡大されている。

自分たちが携わる職業またはその重要な一部を誰にでも説明できることは、至極当然の責任ある態度だと考える。だがその説明において、十人十色や百人百様状態という事態を許している理由は、「タイポグラフィ」というカタカナ語にあると思える。日本人の多くには、カタカナ語表記の外来語に対して舶来物崇拝の遺伝子があり、さらになんとなくわかったつもりになって済ませ、安易さに寄りかかる習性が様々な日常場面で強く見られるからだ。それを巧みに常套手段化して利用する分野では、特別な雰囲気だけを煽ることで大衆を煙に巻いたり、時には先導したりと忙しい。

このカタカナ語の欠点を加藤周一は「カタカナにすると概念相互の関係がはっきりしません。……思考が断片的になる傾向を、非常に強める」、また「誰も定義を考える必要がない。だから誰も知らないということになる」状態に陥ると警告している※3

タイポグラフィという語もまた同類である。したがってこの語に対して例えば「活字(組版)演出法」「活字描写法」などの和訳があり得るが、ふさわしい新しい和訳語を与えるべきだ、と痛感した。そのためには定義を優先する方が理に叶う。

その他にも、『領域』の主旨がデザイナーに届き難かった付帯的な理由は、「再現」という語自体にありそうだ。仮にデザイナーが『領域』の結論を知っていたとすれば、「再現」という語から彼らは抵抗感を覚え、自身の創造性を否定されかねないと感じたかもしれない。「再現」は、デザイン現場で頻繁に使われる「表現」という語よりも一段低く見られているのではないか、一種のなぞり事だけのように受け取られたのだろうか、と想像もした。そのような語感から得られる皮膚感覚は厄介であるが、無視できないかもしれない。

1. 文学者の関心

芥川龍之介

ところでこの国で初めて「タイポグラフィ」という語が一定の影響を与えるほどに使われたのは、いつ頃の誰によってだろうか。それはおそらく書誌学分野ではどなたかが使っていただろうが、印刷関係者やデザイン関連従事者が発表した記事・論文からでは見かけず(「※5」とも関連)、大正末期の作家・芥川龍之介の文章ではないだろうか。

彼の『芭蕉雑記※4』には「装幀」と題した見出しの下に、「芭蕉は俳書を上梓する上にも、いろいろ註文を持っていたらしい。たとえば本文の書きざまにはこういう言葉を洩らしている」として、以下の松尾芭蕉の感想がその弟子の服部土芳の書き残した『三冊子(さんぞうし)』から紹介されている。「書きやうはいろいろあるべし。唯さわがしからぬ心づかひ有りたし。『猿蓑』能書なり。されども今少し大なり。作者の名大にていやしく見え侍る※5

芥川はこれに感想を加える。「勝峯晋風氏の教へによれば、俳書の装幀も芭蕉以前は華美を好んだのにも関わらず、芭蕉以後は簡素の中に寂びを尊んだと云ふことである。芭蕉も今日生まれたとすれば、やはり本文は九ポイントにするとか、表紙の布は木綿にするとか、考案を凝らしたことであろう。或いはまたウイリアム・モリスのように、ペエトロン杉風とも相談の上に、Typographyに新意を出したかも知れぬ。」

この時代に芥川はすでにタイポグラフィという専門語を英語で紹介している。彼がこの語を知っていた理由は、彼の卒業論文が英国のウィリアム・モリス関連だったからだろう。なお、ペエトロンはパトロンのことで、杉風(さんぷう)とは蕉門十哲の一人の杉山杉風である。

日本でタイポグラフィなる語を公的かつ組織的に使い始めた機会は、1971年に日本レタリング協会という名称を日本タイポグラフィ協会と改めた時であった。だがその際には一定のまとまった概念ではこの語を捉えていなかったことは『領域』で指摘した※6。そして「広義のタイポグラフィ」を扱うと公表していることから、中心となる語の範囲が恣意的に拡大された。それとは別に2007年に日本タイポグラフィ学会が組織され、調査研究に値する対象としてタイポグラフィを捉え、紀要が発行されて、地道な活動が始まった。

谷崎潤一郎

芥川ならずとも、タイポグラフィに深く関心を抱いた文学者がいる。例えばその一人は『文章読本※7』を著した谷崎潤一郎だ。谷崎自身は自覚していないだろうが、紛れもなくそれはタイポグラフィに関わることである。

谷崎の文体は彼の得意とする英語文の影響が強いとは、丸谷才一氏の説である(丸谷才一著『文章読本※8』参照)。とすれば、谷崎がtypographyという語を知っていたと予想しても不自然ではない。

図1[図1]谷崎潤一郎『盲目物語』の本文

谷崎は『文章読本』の「三、文章の要素、体裁について」の箇所で、振り仮名及び送り仮名の問題、漢字及び仮名の宛て方、活字の形態の問題、句読点を取り上げ、それぞれ例をあげてわかりやすく自説を説く。活字の件では、「楷、行、草、隷、篆、変態仮名、片仮名等、各種の字体(これは正確には書体:筆者)を有する国が、それらの変化を利用しないのは、間違っております」と述べる。

また谷崎は、例えば『春琴抄※9』のある部分で意図的に文章から句読点を省いて書き表し、活字書体、文体、表記、組版表情(テクスチャ)に関しての問題意識の高さを示した。この全てはタイポグラフィを実践する上でチェックすべき基本項目である。

立原道造

また例えばその二人目は、夭折の詩人として知られる立原道造だ。彼は自分が書いた一編の詩がどのような活字の状態で読まれるかに関心があった形跡が見られる。活字化された体裁を書き写すような下書きが残っていることから、それが想像できる。

詩人は誰も、行の長さのバランスをどう調整するか、行をどこで改行させるか、ある語を漢字・ひらがな・カタカナのどれで表すか、語間を1字分意図的にあけるかどうか、ある行を1字下げて始めるか、また行間は読み進む音のリズムや調子や速度を考えてどのくらいにするのがふさわしいか、などに関心を示さざるを得ないし、工夫するだろうし、要望もするだろう。そこで詩人の言葉と表記への繊細な神経は、タイポグラフィの力を必要とすることは容易に想像できる。立原は日本語による4・4・3・3行構成のソネット形式の組み方では、紙面上での行の配置などの活字の展開や並べ方にある限界を感じたかもしれないとも思える。

立原は若さに潜む憂いやかすかな望みをその軽やかな言葉遣いとともに軽井沢の草原の風に吹かせて、いくつかのソネットを残した。そこには自分の言葉がタイポグラフィを通して実現することをひそかに願った立原の意思があった、と思わせるものがある。

平井功

さらに探せば、三人目として平井功というやはり夭折の詩人がいる。1929年に『游牧記※10』を自費で発行したことで知られる。

自らを「年少無名の貧学徒」と名乗った平井は、二十歳を過ぎたばかりの年齢で、後に紹介するフランシス・メネルという同時代のイギリスの出版人に手紙を書いたと伝えられている。それは彼の組版に対する執拗なこだわりにあり、問題解決についての質問を投げたと思われる節がある。これは推測だが、その質問内容は特殊な技巧を要する困難な組版方法についてだったのではないか。

同時に平井は自分が出版する『游牧記』の購読予約をメネルから受け取っており、それは巻末のリストから分かる。かつて『游牧記』原本1冊を松本八郎氏のご好意で実見できたが、その際松本氏は、平井は日本で自分が要望する組版と印刷の見積もりを取ろうとした。しかし、どの印刷所もその複雑な組版や予算の関係で、平井の仕事の受注を避けたらしい、と話された。

平井がメネルのナンサッチ・プレスの技量や存在について知り得たのは、彼の先輩からであろう。愛書家の日夏耿之介氏、木下杢太郎氏、庄司浅水氏などからの助言で紹介されたと思われる。結局平井は、自分の詩集の印刷を精興社に任せた。その紙面は、詩、随筆、論文、2段組みの書評や後記で占められ、詩には和文書体でのイニシャル・レターも使用され、特殊な活字は上海から取り寄せられるなど、この若き詩人のこだわりは明らかにタイポグラフィであって、それは次の言葉からも十分に察せられる。

遂に日本には一人のEmery Walkerはゐない、Theodore de Vinneはゐない、Bruce Rogersはゐないのである。わたくし自身が起って自ら以つてそれに任ずる他に途ははないのである※11
平井功『遊牧記』

ここで挙げられている3人は、ともに紹介するまでもないほど高名な人物だ。この時代のこの時期に平井が英米のタイポグラファの名前を挙げていることに、言葉の表出形式と印刷分野への特段の関心の高さを見る。彼が長く生き永らえていれば、日本の気骨あるメネルが誕生していたかもしれない。その夭折が惜しまれる。

また、未消化ゆえに紹介できないが、もう一人詩人がいる。昭和初期にボン書店を営んだモダニストの詩人・鳥羽茂である。自費出版活動のために印刷機や活字などを設備し、貧しさの中で懸命に言葉を綴り文字を組み印刷した若き詩人であるが、この詩人にとっての活字とは何か、気になる。内堀弘著『ボン書店の幻※12』が参考となるだろう。

その他の分野から

ここに興味ある事実がある。以前からこの国ではタイポグラフィについての記述は、書誌学者かつ翻訳家の壽岳文章氏、英文学者の小野二郎氏、編集者の大輪盛人氏などデザイン系以外の人による言及が先立っていた。つまり、タイポグラフィ関連の洋書に目を通していた人達だ。

ただしデザイン系では、例外として第一世代の原弘氏がタイポグラフィに注目していたし、デザインにおける文字活字中心の姿勢を示し、その重要性を認識していた。原氏がむしろ希少の存在だったのは、昭和の大戦前では芸術家を目指した一部の人たちが転身して図案家と称し商業美術を職業として、現在のデザイン分野に参入したからだろうか。その「美術」という語からその後の認識での混乱の元があるのかとも思える。

その後、かなりの時をおいて少しずつ本格化する。1970年代にはすでに小池光三氏がおそらく初めて本格的なタイポグラフィ教育の体系的な実践を武蔵野美術短期大学(当時)にて行い、有志による欧文印刷学会の活動や出版もあり、またタイポグラフィ専門出版社・朗文堂からの数多くの関連書の出版と私塾の活動、それに武蔵野美術大学教授の新島実氏らが教授法に方法論を持って授業展開した経緯がある。これでわかる通り、タイポグラフィへの注目は、概ね英文学などに関わる人物がデザイン関連業界に先んじていたという実態を残している。

ついでながら、武蔵野美術大学が発行する『武蔵野美術 No.113(夏)号※13』は特集として珍しくタイポグラフィが選ばれている。ここでもタイポグラフィとは何かとの解説はほぼ見られないし、歴史に触れる記事はわずかである。だが注目すべきは特集の冒頭での対談である。そこでは編集工学研究所の所長である松岡正剛氏がタイポグラフィをめぐる状況に関心を持とうとする人が意外と少ないことに触れ、「活字の生い立ちから離れようとして、活字にあまり関心を持たないデザイナーも多い」と指摘して、杉浦康平氏との対談を始めている。

デザインとは異なる分野からの関心の強さをここにも見るし、翻ってデザイナーたちへの厳しい視線が重なる。むしろこれは過去のデザイン教育でタイポグラフィの基本である組版実践や歴史が無視され続けていることの影響であろう。加えてこの国における日本語と欧文のタイポグラフィのための基礎教育が貧しい現実がある。それに先立って、教育機関での体系的で詳細な授業シラバスのモデル構築が急務である状態が続いている※14

これらの現実をきたした遠因には、デザイナーは組版オペレーターではない、という理解があると思える。そこにオペレーターに対する特殊な意識がにじむ。デザイナーには確かに単純に見えるオペレーターの受け身的な作業だけではない仕事が多くあるとはいえ、現在では組版操作そのものはデザイナーにとっては重要な一部であることには変わりがない事態に変化している。

組版操作は他者の指示に従っているので受動的であるが、その他者がデザイナー自身である任務の兼業が多くの場合の現実だろう。少なくとも操作を直接に担当しない場合でも、本文組版仕様の詳細を指定(原稿指定)できること、または完成形を明確に頭に描けることは、最低限の任務ではある。

なお個人的ながら、私がタイポグラフィ関係の英文に本格的に触れた契機は、英文学者の助言にあった※15

言葉の重み

小説家や詩人は、自分の書いた作品がどのように読まれるかにも心を砕く。言葉の表出に死力を尽くしたテキストをデザイナーが扱うこともあるだろうし、それを敷衍すれば、全てのテキストは気力を絞った結果としてのなにがしかの創造行為として尊重すべき対象となる。

小説家や詩人が、活字化された自らの文章の姿を思い描きつつ原稿用紙に向かっていたこともあり得る。そう考えれば、文学者ならずとも、また手書きの文字原稿でなくても、デザイナーは誰かが時間をかけて用意した文章を素材として扱うことに、一層の覚悟が求められても良いはずだ。その素材の重さこそ、タイポグラフィに関わる者が感じつつ仕事に取り組む真摯な構えにつながる。洋の東西を問わず、詩を組む作業こそタイポグラフィでの最も難しい課題ではないだろうか。

タイポグラフィはそもそも読者には無意識下のことが多く、多くの読者が気づかないこと、つまり恙なく読み進まれる状態の実現が優先される。さらに書く側の方では、文章と文字がどのような形で視覚化されるのだろうかと無意識に近いレベルでなんらかの想像が働くであろう。またなんらかの視覚化された場面に期待を抱きつつ文章を書き綴る者もいるだろう。読み手の側は受動的であって、与えられた形態を無条件に受け入れて読まざるを得ない。例えば選ばれた書体が何であろうが、行間がどうであろうが、可読性の有無などに読み手が気づくことはなく、ただ受け入れるだけだ。もし読みにくければなんとなくという意識のレベルで「読みにくさ」を漠然と感じるだけだろうが、無難に読めた場合には、組版という状態には何も感じないはずだ。

つまり活字は意識されないことから、一般の人の関心とはなり得ない。ただ、組版上の誤りやデザインにわずかな不具合や破綻がある場合だけにそれに気づく。地味な裏方の技であることが常態である。それ故に、若いデザイナーたちがタイポグラフィの重要性に気づくにはそれなりの時間を要する実態がわかるようだ。いずれにしても読者は書体と組版の作法によりなんらかの組版表情に対する視感覚を紙面から受け取っているはずだが、それは読み手の中で言葉になりえないほどわずかであろう。

タイポグラフィはこの読む環境の整備と文章へといざなう「導入作法」の中に、最初のそしておそらく唯一の技芸が発揮されると考えて差し支えない。タイポグラフィもデザインとして捉えられていることから、その技芸の塩加減が印刷紙面の体裁あるいは電子媒体での画面上での体裁を、それぞれ左右することになる。だがまた、読みにくさや錯乱状態の演出を試みられることがあり得る。それを歓迎するのか排除するのかは、ひとえにテキストを用意した側の指示や同意が必要だろうし、あるいは読み手の側の受容の程度に関わる。タイポグラフィはひとえに文意とその提供者に依存するからである。

また、そこに微妙な、そしてある意味で議論を呼び起こす問題が生じえるが、ここでは扱わない。『領域』ではそこに多少踏み込んだが、この文章・文意のデザイン側における選択または拒否というテーマは人の生き方や趣味や思想に関わり、深刻な議論の余地がある。これに対する解決があり得るのかも含めて、興味深いテーマではある。言葉の発信者と受信者、それに社会的な発言という立場の根本的な考察、つまり情報リテラシーの吟味なしに扱えないことも確かである。

言葉、文字、活字、その変換作業

ここでタイポグラフィの実践を単純化すれば、それには「言葉から文字へ」、「文字から活字書体へ」という2つの段階がある。前者では言葉が基本となる。言葉の表出作業によって特定の書記言語に変換される。つまり音声言語形態ではなく「文字化される、テキスト化される」メッセージが素材となる。後者では多くの場合、手書きではないパソコン内の初期設定の「活字書体」に変換され、未加工文(あるいは「素材文」、シンプル・テキスト)の原稿となる。

さらに別の段階として、その未加工文を一般化および可視化するための洗練作業が加わる。それは読みやすさを目指しつつ、社会的に標準化された骨格(字体)を基として言語表記の慣習に沿い、意匠を施された活字書体に変換することだ。それには専門的な知識・技術・感性が必須となる。

この一連の作業の共通項は「変換作業」であるとわかる。またその変換では、当然ながらある重要な不可避の判断が伴う(その最終段階での無自覚状態の個性が作用して影響する)。これがタイポグラフィにおけるデザイン作業の基本構造だろう。この構造における決定的な要素は、語感という言葉への感受性に基づく図像喚起力であり、それはデザイン上の理知的な判断と等価である。

2. タイポグラフィの分業・統合

タイポグラフィの原義とその技芸

タイポグラフィは印刷の現場で生まれた印刷術を意味する言葉である。それでは印刷と印刷術ではどこが異なるのだろうか。印刷は何を印刷するのか。印刷はその発明のあった15世紀半ば以降近年までは文字を中心に扱ってきたし、その印刷物の流通主体は書籍という形態だった。これが基本の理解である。紙に文字を記して複製する行為と読みやすさを追求する研鑽であり、そうであれば文字の刻印のための品質管理こそが中心課題で、そこに集中的な力量が試される。

つまり印刷の核となる活字の扱い方である「技術」と総体として造形化する「芸」がタイポグラフィだとの認識だ。したがってタイポグラフィの和訳語は印刷ではなく、その中核行為を強く意識する技芸を含む「印刷術」であったし、印刷の結果としての紙面の体裁やその有効性の評価も含めた印刷物のデザイン行為だった。

だが近年の印刷産業の現実では、この「印刷術」の含意は印刷工程上の機械工学の側面が主となっており、機械操作の熟練度や機械構造や機材・資材に関する理解度であり、ここでいう印刷術ではない※16。それは電子工学に依存する高度な自動化の恒常的進歩への即時対応を示さなければ産業として生き延びられないから、当然のことだろう。そして先の「技芸」の部分を20世紀前半から担った職種がデザイナーであり、現代では彼らの活動はウェブ・デザインに及び、ディスプレイ画面上へと急速に拡張した。

タイポグラファの自覚と使命

タイポグラフィの実践者であるタイポグラファは、かつては単なる印刷従事者ではなく、誇るべき職業人としてみなされてきたという。印刷の中心課題である活字の扱いは無論のこと印刷機・印刷用紙について深く広い知識と実践上の技術を有する職人であった。さらに関連して製本とその資材類などを含む書籍製作全般について熟知していることも求められた。したがって、「書籍製作者」という意味での理解があったことがうかがえる。それはまた、広く文化的使命に従事しているという職業観への自覚と自負のある存在でもあったはずだ。

過去には、タイポグラファと呼ぶにふさわしい人物がいた。例えば、15–16世紀ヴェネチアのアルダス・マヌティウスは、ギリシャの古典、とりわけアリストテレスの復刻や古典復刊のための組版への工夫に取り憑かれた。16世紀パリのロベール・エティエンヌは、かのギャラモン設計のローマン体活字を見出しつつも禁書だった新教関連書の出版活動に命を賭けた。18世紀パリのピエール・シモン・フールニエは、ロココ調の香りを浴びつつ書籍製作への意義ある参加に誇りを抱いた。19世紀ロンドンのジョン・ベルは、活発化した市民社会の雑多な情報の提供と自説の公表に元祖とも言える新聞形態を工夫して提供した。20世紀ロンドンのフランシス・メネルは、独自の考案による書籍形態の質の確保とその安価な提供に集中した。北イタリア・ベロナのマルチーノ・マーダーシュタイクは、ボドニのオリジナル活字への敬愛と高品質の組版・印刷の実現に心を砕いた。それぞれが使命を抱いてその実現に挑み、生涯を貫いた。

紙媒体を担う従来の印刷ではタイポグラファは存在しうるが、動画を含むウェブ系媒体では今後どのような新しい呼称が生まれるのか、あるいは変わらないのか。いずれにせよ、語彙の整理は、タイポグラフィを広角的・歴史的さらに恒常的にとらえる場合には、必須な課題である。

再統合化へ

多くの業種もそして印刷業も、個人が全ての工程に関わる単独統合型から、工程が細分化して関わる専門分業型へと進んだ。だが、デジタル技術の進歩で、現代では再度の統合化が起こっている。タイポグラフィもその流れにあるが、書体設計はタイポグラフィ分野の主要な要素とはいえ、いつの時代も統合されていない。それほど書体設計が熟練と思考と繊細さを要する特殊技能だからだろう。

手元に1968年発行の“Monotype Newsletter※17”がある。ここでは、‘Typographers v. Printers’と題する1ページ2段組の短い報告記事がある。2つの立場の間に生じている問題を議論する企画で、意思伝達に関する質疑が主な内容となっている。タイトルにあるPrintersとはここではモノタイプ組版のオペレーターであり、Typographersとはタイポグラフィック・デザイナー協会という団体である。

図2[図2]“Monotype Newsletter Issue 84” (1968)

その報告内容よりも、このタイトルに注目したい。この20世紀中頃にはすでに組版兼印刷所とタイポグラフィの実践者が分業化されていたことが推測できる。産業としての印刷業が機械化の進展に伴って個々の工程で特殊技能が求められたからだろう。これ以降は欧米でも日本でも、写植による文字組版では写植オペレーターという専業が生まれ、デザイナーは組版仕様を指定して、写植および版下制作サービス会社に作業を依頼していた。だがその後、組版を担うデザイナーはパソコンを獲得し常用化することに至り、組版も自分で仕上げざるを得なくなり、一気に統合が進んだ。ところが教育の現場ではその組版部分が詳しく教えられない状態が続いたため、危機感を持った古参のデザイナーたちが独学の末に組版の参考書を発行し始めた。この現象はこの統合化の影響だろう。

このような紙媒体と電子情報網とに二極化する中で、デザイン作業は自己管理が容易な道具の獲得と操作が主流となった。活字使用の専門性と活字の概念の急速な液状化的現象は、いずれ新たな整理を必要とされるだろう。とはいえ、時代が変わろうとも言葉と文字との関係とその発信行為が溶解しない限りは、共通する核となる内容があるはずで、その抽出を試みる作業が無価値とは思えない。いやむしろ必須の課題だと考える。

3. 「再現」の意味の確認

『領域』ではタイポグラフィについて語った人物を時代ごとに紹介した。以下ではタイポグラフィの定義を明確に試みた主要な4人について、『領域』の既述に若干の補足を交えて確認する。

3つ作業:ピエール・シモン・フールニエ

18世紀フランスの印刷者フールニエは、その未完の著作“Mannuel Typographique※18”で、タイポグラフィは3つの部分「父型彫刻、活字鋳造、印刷」からなると表明している※19。彼は合理性を追求した技芸者で、印刷機も操作し、多作かつ緻密な活字設計者だった。つまり、上の3つの工程を一人でこなした熱血の人生、読書の価値を自覚してその支援に注力できたことを誇りとした人生だった。彼は印刷を「天からの贈り物」と捉えていたほど、自らの職業に誇りを持っていた。「フールニエはタイポグラフィにおけるモーツアルトと位置付けられる」という天才扱いの評価さえある※20

また彼は、自分が世界で初めて印刷の手引書を書いたと思っていた節があるが、それは早計だった。彼の父親のジャン・クロード・フールニエは、ル・ベ活字鋳造所の支配人となったほどだ。ル・ベとはギャラモンの弟子で、ギャラモンが残した活字の大部分をプランタン印刷所に売却し、後に独立した人物であり、その3世の後をピエールの父クロードが引き継いだ。つまり偉大なギャラモンの弟子という名門の流れにあることがわかる※21

図3[図3]Allen Hutt “Fournier, the complete typographer” (1972)

印刷の手引書を最初にものした人物は、イギリス人のヨゼフ・モクスンだった。なお、モクスンはその著作“Mechanick Exercises: Or, The Doctrine Of Handyworks Applied To The Art Of Printing※22”で、タイポグラファとは今日でいうプリンティング・ディレクターに重なる守備範囲を担う者だと捉えていた。だが活字製造や印刷機の操作もできることを含むため、現在のディレクターとはやや異なるだろう。モクスンは、タイポグラファとは「自身の確たる根拠(または理性)から、自身の判断によって、手作業と実働的な操作の全てを初めから終わりまで行える者、またそのように他者に行動するよう指図できる者」と規定しているからだ。この「確たる根拠」はやがて次に紹介するスタンリー・モリスンの胸中で終生響いていた。理性や根拠に基づく判断には、経験が知識として明確に言語化されているという内面の働きが前提になる。

図4[図4]Joseph Moxon “Mechanick Exercises: Or, The Doctrine Of Handyworks Applied To The Art Of Printing” (1683) 復刻版の扉

図5[図5]Joseph Moxon “Mechanick Exercises: Or, The Doctrine Of Handyworks Applied To The Art Of Printing Vol. 2” (1683) 原本の扉

著者と読者の間:スタンリー・モリスン

20世紀前半になって、モリスンは“First Principles of Typography”の冒頭で初めてタイポグラフィを定義した※23。いわく「特定の目的に従って印刷材料を正しく配置する技芸であり、それによって読者が本文をなるべく的確に理解できるように文字を並べ、余白を配置して、活字を使いこなす技です」「意図することが何であれ、著者と読者との間に一定の効果を生じさせる印刷材料の配置は、どれも誤りです」※24

図6[図6]Stanley Morison “First Principles of Typography” (1936)

この小著は専門家相手ではなく、むしろ初心者向けの啓蒙的な解説であることがまずは前提として重要である。したがって専門的な記述はない。そしてここに示された定義は、活字組版と呼ばれる印刷の中心課題に絞っている。ここでモリスンは書き手と読み手の双方に目を向けている。「一定の効果をもたらす」というのは、意訳すれば「両者の間に余計に介入することで両者を離してしまう」というマイナス面のことで、例えば「美的効果」の追求であって、テキストが活字に変換されること以外は不要だと踏み込んだ厳しさを表明している。

モリスンはこの続きの文章で、政治広報や商業広告でのディスプレイ・タイポグラフィの実践、つまり現代の多くのデザイナーが関わっている面もタイポグラフィの2つの役割のうちの他面であることを伝えている。言い換えれば、活字書体の本文用書体としての非個性的な役割(いわゆるビアトリス・ウォード女史のいう「水晶の透明性(Crystal Goblet)」※25)と、ディスプレイ用で選ばれる場合の、書体の特徴が顕著で個性的で言葉の意味を増幅する役割、という基本である。

またモリスンは活字設計について「親指の指紋は不要」だと断言している。タイプ・デザイナーが己の刻印を活字書体に残そうとする行為は、広く共通して目にさらされる活字書体には雑音や障害となる、という意味だろう※26。この厳しさから出発することが基本だと確信する。

翻訳能力:ハーバード・スペンサー

スペンサーはイギリス人のデザイナーである。彼はイギリスにモダニズムのデザインを紹介したが、評論家のロビン・キンロスによれば、スペンサーの行動には思想的な含みはなかったと言う。むしろスペンサーの舞台は、時代のビジネスマンのための経済活動を支援するタイポグラフィであった。それは彼がコスト削減や能率化の実現という単純な文脈でタイポグラフィを語っているということであろうし、いわば目的合理性と機能性を貫くモダン・デザインの形式的解釈と言える。これはレイアウトにおける誰にでもわかりやすい文字情報の整理法であり、ビジネス社会の行動における節約を強く意識した問題解決法であり、省略・削減を是とし、無駄を省く指向と言える。

だが、キンロスのいう「思想的な含みがなかった」スペンサーの評価とは何を指すか。それは彼がヤン・チヒョルトの影響を受けて、その中の現実的解釈の手法だけを解説したという意味だろう。チヒョルトは審美的そして理想的な紙面のありようを歴史への接近の中から理解していたが、スペンサーにはその自覚が希薄だという意味だ。また、モダニズムで基盤をなす捉え方の省略でもあろう。

それはプロテスタンティズムが支配するデザインにおける装飾的要素の排除という意味ではないか。図式的に簡略化すれば、これは教会建築物を比べれば明白なように、神の言葉と人との直接の接触・対話を理想とし、神と人との間に介在物を不要とする交渉を基本とする構図だ。それはテキストへの尊厳につながる。したがってモダニズムのデザインではグラフィックな要素に特徴的な傾向として、テキストと図版の各領域を支配する引力の駆け引きの結果として生じる緊張状態を演出することで調和を実現する行為だ

ここでのテキスト以外の要素である図版もまた最小限に絞られ、図版の提示において複雑な技法や技巧を裏に隠すことで、紙面の集中力を表出させる。またテキストと図版のレイアウトは、計算された数値換算可能な秩序管理の下で計画的になされる。そこに生じる静謐簡素なデザインの表情は、見る者に視覚の愉悦を誘うこともあろう。テキスト(言葉、メッセージ)やデザインの説得力を提示する目標が期待される。そこでは空白は残ったのではなく「残した」のであり、その白は意味を孕み、墨(黒)のテキスト部分や図版と等価値の扱いとなる。

スペンサーはプロテスタントに特有で支配的な志向における形式の中立化や標準化だけを紹介したのであり、根拠は示さなかったという意味として捉えることができる。彼には“Typographica※27”という雑誌発行における貢献度での評価がある。

彼の言葉に「タイポグラフィの実践者の個人的な貢献は、テキストの書き手のメッセージをわかりやすく的確な形式に翻訳できる能力にかかっていますし、その能力に限定されねばなりません」がある※28。ここでは書き手の方、つまりテキストの方に重心がある。スペンサーは「存在根拠たるテキストに常に従う」とも述べ、テキストがあって初めて成立し、「テキストに従属する状態」がタイポグラフィの役割だ、と指摘する。

再現による描写:ヘルムート・シュミット

エミール・ルダーに師事し、私的には小文字主義(自分の文章には大文字を使用しない。大文字を一種の権威的存在と捉えた)に徹し日本で後半生を過ごしたシュミット氏は、モダン・デザインの洗礼を受けた。

彼はデザイン書である“typography today※29”を企画して自らも文章を寄せている。その中で‘Typography, seen and read’と題して次のように述べている※30。「タイポグラフィは見えて読みやすいだけではありません。それは聞こえなければ、感じられなければ、経験されなければなりません。現在ではタイポグラフィは(文字などを)配置することではなく、描写することを意味します」※31。「視覚で示されるものについて求められていることは、いわば文章の内容の中にすでに具現化されています」※32。情報整理というレイアウトを超えてさらに踏み込む意図が明確だ。

図7[図7]ヘルムート・シュミット『タイポグラフィ・トゥデイ』(1980)

この引用英文の中でとりわけportrayという語に注目した。ここで「描写」と訳出した部分だ。実は“typography today”の中ではportrayが「表現」と和訳で紹介されているので、『領域』の中では「描写」とあえて訳し変えた。Portrayの名詞形はポートレートとして日本語化して使われている。Portrayには「描いて前に出す」という原義がある。英英辞典によれば「特定の方法で何かを記述するまたは示すことで、とりわけ完璧または正確な印象を与えない場合に記述または示すこと」「映画や演劇で特定の役割を演じること」であることから、説明的な意味合いが強いことが分かるだろう※33。このportrayやその名詞形のportrayalは、かなりフォーマルなdepictやその名詞形のdepictionとも通じる。

Portrayには我々日本人が使う比較的に軽い「表現する」という響きとは異なる受け取りがある。日本語の「表現」はおそらく結果に重点が置かれ、英語の「表現する」にあたるexpressには「内面の抵抗に打ち勝って外に出す(ex + press)」語感と主張性が強く、過程に重きがあるようだ。ここでのportrayには「詳しく説明する」意図が明らかで、自己主張的な響きはない。したがってここでportrayを「表現する」と和訳することに抵抗を感じざるを得ない。

シュミット氏の要請には、書き手の代弁者的な立場にあることで達成できる技芸がタイポグラフィだとする意向がうかがえる※34

また、視覚提示へのヒントは「文章の内容の中にすでに具現化されている」との言及もあることから、デザイナーの仕事は、テキスト中の言葉とテキストの構造の中にデザイン上のヒントを見つけ出すこと、という意味ととれる。文意の具現化とは、書体の選択や組み方による視覚世界での描写を指すだろう。

「再現・描写」では対象が前提とされていてそれを客体として扱う。だが「表現」では、自己の内面の葛藤を経た表出に力点があることから、主体そのものの行為である。

4. 新たな言説:『領域』出版以降に見出した言葉

次に『領域』で取り上げられなかった4名の記述を紹介してみる。この人物たちからタイポグラフィの意味を具体的に確認し、共通項を抽出することが「再現論」の確認と再考にふさわしい。

書き手への奉仕:フランシス・メネル

メネルはイギリスの出版人である。1923年にナンサッチ・プレスを設立して、埋もれていた小説・詩歌を含む文芸書を復刻発行したタイポグラファだ。メネルの言葉は『領域』では当時未読のために紹介していない。以下にいくつかの引用を試みる。

  • 書物の物理的な心臓や頭部は、印刷されたページにあります。つまり、印刷者の扱う活字として目にされて判断される書き手の言葉の形象です※35
  • 書物は分かりやすくあるべきで、書き手の目的への誠実な奉仕です。……時として書き手の意図を増幅したり、独自の意味ある形に仕上げたりすることです※36
  • 派手に着飾った書物ではなく、絶妙にして程よくまた出しゃばることなく、書物への思いで身をまとった書物を求めているのです※37

Francis Meynell “English Printed Books※38

「書物の心臓は、書き手の言葉の形象」や「書き手の目的への誠実な奉仕」という言葉、ここに残された言葉の地味な輝きにこそ、メネルという人物の見識が垣間見られる。この特徴的な表明は、書き手の立場を常に意識している態度であり、書き手の言葉を活字という手段で丁寧に「置き換える」「演出する」ことにタイポグラファの役割、つまりタイポグラフィの技芸の核を捉えていると考えて差し支えない。

図8[図8]フランシス・メネル(左)とスタンリー・モリスン(右)

メネルは、書体選択ではその姿勢が一貫していた。私はかつてナンサッチ・プレスの全貌を記録した書籍の詳細な記述式出版目録※39から、発行書籍142点(194冊)で使用された活字書体31種類の使用リストを作成し、書体と著者・ジャンル・時代などの傾向を分析したことがある※40。そこでメネルが明らかに著者に関連する事柄を基本に据えて書体を選択していることが見えた。著者の出身地と生きた時代を中心に、さらに書物の内容やジャンルを核にして、総合判断して書体を選んでいたことが明らかになった。

メネルの逸話が彼の手紙の中に記録されている。ある企画で扉ページのデザインの最終案が決まるまで、27通りの扉の組版を試み、納得するまで待ったという。他者と自分への彼の誠実さと執拗さがうかがえる記録である。テキストへの敬意が己の熱量を高めているようだ。タイポグラフィの実践上の動機と使命感が強烈に自覚されることで、このような仕事が可能となる好例である。

内容への敬意:ロバート・ブリングハースト

ブリングハーストはカナダの詩人であり書籍デザイナー、そしてタイポグラファとして活躍しているそうだ。彼の文学者としての資質や立場がその著作“The Elements of Typographic Style※41”を、文体的あるいは語彙的に特徴付けている。この書籍は、20世紀後半から今世紀初頭にかけて世に現れたこの種の分野で群を抜いた充実を示しており、俯瞰的ながら詳細かつ深く著者の説が展開されているし、独自の書体分類案も提示されている。タイポグラフィが言語表記と密接不可分であり、また言語表記の理解と普及に大いに役立っていることも再確認できる。

図9[図9]Robert Bringhurst “The Elements of Typographic Style” (1992)

その裏表紙に書体設計家のヘルマン・ツァップは、推薦文を寄せている。「ブリングハーストという専門家によって書かれた本書は、タイポグラフィのデザインが時としてデザイナーにとって私的な自己表現の形式だと誤解されている時代に、とりわけ歓迎されます。……この本がタイポグラフィのバイブルになることを願っています。」と出現を待ちかねたように称賛している※42。デザイナーの恣意的な欲求表現の素材扱いとされかねないオリジナル・テキストへの低い意識や活字書体を乱暴に扱う者に対して警鐘や不満が込められており、温厚なツァップ氏の怒りとして傾聴に値する。

“The Elements of Typographic Style”にはブリングハーストによる膨大な量の貴重な言葉が記されている。以下に総論的で本質的言及の見られる最初の章と「まえがき」から引用する。

  • タイポグラフィが現実に生きるとは、内容に敬意を払うことです※43
  • タイポグラフィの行動は、内的構成を置き換えるのではなく顕在化することです。……タイポグラファは、音楽家であり、作曲家であり、著者も、他の芸術家や工芸職人と同じように、往々にして仕事をこなして、姿を消さなければなりません※44
  • タイポグラフィを納得するには、本文を解明する、そしておそらく本文を高めることから始まります※45
  • タイポグラフィは読者に対して次のように役立つ方が良いのです。つまり、テキストへ読者をいざなう、テキストの趣旨と意味を表に出す、テキストの構造と秩序を明らかにする、テキストを他の要素と結びつける、読者にとって理想的な状態である活動的な休息へと誘います※46
  • なんとでも言えるタイポグラフィですが、それは塑像に見られる優雅な透明性のようなものを切望します。別の古くからの目標は耐久性です。変化のための免疫性(変化に耐えること)ではなく、流行に対する優越性(流行現象に惑わされないこと)です。タイポグラフィは超時代性と時代性につながっている言語による視覚造形(形式)です※47
  • タイポグラフィではテキストは台本に対する演劇監督、譜面に対する音楽家です。……タイポグラフィという外側の論理をテキストの内側にある理論の中に見出そう※48

Robert Bringhurst “The Elements of Typographic Style”

第1章の冒頭でタイポグラフィは「内容に敬意を払うこと」に存在する意味がある、と宣言する。そして、文字表記による視覚造形論理がタイポグラフィであり、それはテキストの筋に沿って対応することで役割を果たし、かつまた姿を隠す透明性を認識すること、そして主人公であるテキストを生き永らえさせる耐久性の確保に従事することが特徴だ、と理解できる。

ブリングハーストは多彩な例を挙げて自説を展開する、そして全体としては書き手と読み手の双方への比重が均等に意識されている。つまり、タイポグラフィの実践者の中では両者が常に同時に意識されており、分けられないということだ。

本書は手軽にすぐに理解できるマニュアルでも技術書でもない。タイポグラフィの主要な仕事を言語化すると、これほど大量の知識と慎重な考察が凝縮されるという実態を読む者に突きつける。タイポグラフィとは、小手先の気軽な仕事とは到底思えない専門職である。

介在の余地と画文共鳴:白井敬尚

白井氏はこの国で最も強くタイポグラフィに意識と関心を抱き、最もタイポグラフィを追究しているデザイナーの一人であろう。とりわけ欧文書体への造詣と実践が際立つ。伝統あるデザイン雑誌『アイデア』に10年間従事し、そのデザインとディレクションにおける腕が広く評価された実績を持つ。近年「組版造形展」を開き、グラフィック・デザイン界でおそらく国内で初めて文字組版中心の制作物を展示して、注目され話題を集めた。アジア諸国でも注目を得ている。とりわけ彼の編み出したいわば「多重グリッド」とも呼ぶべき柔軟で斬新な課題対応法があり、その工夫は独特である。

彼への評価の特徴は、出版編集者から注目されていることにある。これはおそらくかつてなかった逆転評価であり、稀有で好ましい関係であり、本来の紐帯が構築され始めたと言える。タイポグラフィは編集作業と緊密である関係が理想の状態のはずだ。

タイポグラフィにおける造形は、見易さや読みやすさを支援した結果であり、組版の造形そのものに言語伝達の本質があるわけではありません。けれども書体の形をはじめとする組版の造形には、時代の感性と技術、歴史の記憶、身体が感知する圧倒的な量の非言語情報が存在しています。テキストは、これらの非言語情報によって「形」を与えられ、視覚言語としての機能を果たすことになるのです。

読者はテキストを読み自らの内部でイマジネーションを働かせ、場面や情景を思い描くことでしょう。言語伝達にとって理想の「絵姿」とは、このように読者それぞれのなかに描かれるものであって、そこに組版の形が介在する余地はないのかもしれません。だが、しかし、それでも、と、組版の形にどうしようもなくこだわる自分がいます。ページをめくる瞬間、テキストを読む前の一瞬、そのほんの僅かな時間に組版は読者と出会います。その時テキストは期待と予感に満ちたものになっているか否か——組版造形の意義とは、その一点に尽きるのではないかと思うのです。
白井敬尚「組版造形展 白井敬尚」図録ポスター

引用冒頭文は、自分はタイポグラフィの本質的なこととは離れた位置で仕事に関わる、という表明に一見すると受け取れる。だが何気ないが、心しておきたい貴重な言葉だ。書き手を念頭に置いたメネルにつながる読み手への配慮が見られる慎重な態度表明で、造形者としての白井氏の姿勢はここで明快である。総じて、「非言語情報」と彼が呼ぶ組版造形に至るまでの蓄積に点火することにタイポグラフィにおける可視化の基本があると理解できる。その情報は組版者と読み手に共通する文化的共通項により成立する。「組版が介在する余地はないのかもしれない」が、実は読者に手を添えるようにして言葉を多くの需要者に手渡すことは、デザイナーの介在なしではあり得ない。デザイナーもメディアの一員だからである。送り手のテキスト・意図を何に包んで受け手に届けるか、その「渡し方の作法」が白井氏の造形化の意味だろう。だがその行為の主体は見えないし成果を証明できない。

だから、「だが、しかし、それでも」という制作者の自問と追求は自然であろう。デザイナーの役割の限界を知っているがゆえに、彼のかすかな望みは残る。望みの第1は、読者によるテキストへの「期待と予感」を裏切らないこと、第2は、読者が読み終えた後に中身に集中できて活字や組版を意識しなかったこと、第3は、何らかの「絵姿」が読者の中で展開できたかもしれないことへの期待である。相手に思い描かせることを支援する技にかすかながらも望みなくして、この綱渡り的な仕事は続けられないはずだ。

また、白井氏の表明は、ある意味で一瞬の勝負で決まる要素が大きいこと、また気づかれない部分や細部が全体を支配していることを熟知している言葉でもある。当たり前に文字が読める、という本質的状態の実現の中にタイポグラフィの基本的な貢献があるとの自覚があるだけに収まらず、そこを一歩踏み出している。つまり「追」がある。

読者からの一瞬の注目を最初に浴びるという言葉の海への導入以上のことに携われない限界を知る故に、テキストへの案内役としてのタイポグラフィの醍醐味に気づいたデザイナーの言葉だろう。その繊細さに裏打ちされた細部の微調整という職人的作業が表に見えない場合と、その繊細さと大胆さが同時に表に彷彿とうかがえる場合との、双方を駆使できる柔軟な仕上がりにこそ、白井氏の真骨頂がある。

彼の常の課題と意識はおそらく「画文共鳴」にあるだろう。それはテキストと図版類との共鳴・共存という状態であるが、そこに彼の技芸が挑み、映える。そこでは時に対決や調和や差異化などの変化を伴う。図版と本文という関係の構築と調整に、彼の隠喩的手法が密かに味をふりかけているようだ。

白井氏はヤン・チヒョルトに影響を受けており、「タイポグラフィの目的とは決して自己表現の類であってはなりません」というチヒョルトの言葉を肝に命じているようだ※49。さらに、彼が私に語った次の言葉にその滋味ある関心の程がうかがえる。「昔の組版職人が志しても技術的な制約があって実現が困難だったこと、彼らが実際に挑戦できなかったことはどんなことだろうかと我々が想像する。そこに現代の技術で可能であれば実現に挑戦する価値がある」。時代を経た書籍やそれに関する歴史に触れなければ、口から出ない言葉である。

よき伴奏者:鈴木丈

デザイン論考サイト「エクリ / ÉKRITS」に掲載されたエッセイ「音楽、数学、タイポグラフィ※50」では、ウェブ・スクリーン上での文字生成についての試みが述べられている。鈴木氏はその文章の中で、次のような言葉を記している。

言葉で書かれたコンテンツを届けるということは、歌手が歌うということであり、ピアニストがソロを弾くということです。その時タイポグラフィに求められるのは、そのメロディを力強いリズムと美しいハーモニーで支えること。よい伴奏者、優れたバックバンドであることだと思います。

ここでも先に紹介したブリングハーストの快著“The Elements of Typographic Style”での解説が紹介されている。ハーモニー、リズム、メロディという音楽の要素と「調和数列」という数的秩序を基に文字組版への捉え方を比較していて、斬新である。このような新分野からのタイポグラフィへの言及こそ当然ながらあってしかるべきであると言える状況だ。

オンスクリーンというメディアでタイポグラフィに取り組む必要がある鈴木氏の姿勢は、ここに明快だ。歌手もピアニストも、ともに作詞や作曲というオリジナルの制作つまり独創案の存在なくしては成り立たない。新メディアにおけるタイポグラフィのあり方は、曲の「伴奏者」「コンテンツを届ける」「バックバンド」という例えから、それらが主役を支える確実で必須の役割を果たす技芸であり、デザインにおける書体の扱い方がメディアを問わず本質では変わらないことが確認できる。タイポグラフィが文字情報の整理のための不可欠な支持体だとの自覚が読み取れる指摘である。

鈴木氏は結びの段落で次のように述懐している。「タイポグラフィの作業をしていると、いつしか偏執狂的に細部を追求しています。その度に、独りよがりの美意識を読み手に押し付けているのではないか」。ここには彼の正直で健康な意識がうかがえる。また、「まだ始まったばかりのオンスクリーンメディアのタイポグラフィの可能性を、より開かれたものにするための試みなのです」と終えている。ここに仕事の役割への彼の自覚が表明されている。この言葉は、ウェブ系デザイナーの中で時代の技術に対応できてタイポグラフィへの重要性に気づいたプロが既に登場していたことを示す。遅まきながらも機が熟したことの証として捉えたい。

そしてこのようなデジタル環境による状況の変質は、今後のタイポグラフィの方向を暗示している。元来はファウント(fount)だった「フォント」という専門語が意味を変化させつつも大衆化し、パソコン内にデフォルト搭載されている文字書体に自ずと関心を持つ人が増えた。またマイ・フォント志向もある現状などと合わせて、ここに鈴木氏が紹介している、パソコンの操作を担う者自身が組版を調節・選択できる事態などを重ねれば、主に公的用途として数百年に及ぶ複製のための技芸が、一定の制約はあるものの私的自由度が保証された自己管理装置の上に展開される個的環境となり得ていることを知った。そしてタイポグラフィ実践のための要素が自己の嗜好や流儀で管理できる状態、つまり組版的要素がかなりの程度の自己流を反映できる装置の中へと拡張している実態がある。

デジタル環境は、個人的な色を出しやすくなる場となった。それはある意味で千年を超える大衆化した手書き式文化のアナログ的な筆記状態へと、作業環境を変えつつも先祖返りする状態が一部で生じることもあろうかと予想できる事態に至ったことを意味する。紙媒体を介在させないプライベート・プレスもあり得る状況だ。

また例えば、自分の筆跡を元に自分用のフォントを備えるという行為には、手書きの癖を自己同定確認(アイデンティティ)として確保したがる人間の避け難く根強い欲求が覗ける。そこにタイポグラフィという公的技芸が私的技芸へと浸透し変質する領域が現出する。

ただし後述するように、ここでも己のテキストを客観視しつつ社会的に発信するためのデザイン志向が必要となろう。何故ならば、その行為はどこまでも文字で意思を特定または不特定の多数に正確に伝える媒体を通過することを考慮すれば、一定の整理作業が必要となるからだ。その文字情報整理の作業には、己の表出した文章であろうが、一度は対象素材として客体化しなければならないからだ。

また鈴木氏は数学や音楽をタイポグラフィと結びつける貴重な視点を確認したが、それと関連するもうひとつの視点も必要だろう。それは造形や視覚に関わる心理学や認知学である。タイポグラフィの理解では、科学的分析や証明が困難な分野であることで、これまではその知見や常識の多くは経験則を基に語られている。例えば読みやすさについてだけでも、統計や調査にはかなり複雑な要素が絡むし、大規模になることが予想されることで、客観性の確保が困難な故に限定的だった※51。だが、少なくとも、紙媒体中心の視点を排除するならば、ウェブ・スクリーン上でのあらゆる規模と種類での調査は、従来と比べて実現性が高くなるだろう。

多くの新語が新技術の発展に伴って20世紀後半から流通し始めたが、この鈴木氏の記事により、その種の技術用語ではなく、デザイン上の新しい語彙がタイポグラフィ分野の専門語に加わる契機となることを期待できる。新しい分析的視点の導入は、関係者からの理解を得るために歓迎されるだろう。ただし鈴木氏ならずとも、この分野の語彙はできるならばカタカナ語のままではなく、和訳するようにお願いしたい。それが技術の受容と親近性確保への重要な要素だからだ。

5. 共通点の確認

介在者

これらの言説から共通して見えてくることは、各人が基本的には同じ内容を語っている事実である。ある人は文章の書き手に、またある人は文章の読み手に、それぞれが仕事の現場で意識する温度差はあるが、彼らの基本認識ではあくまでも書き手の代弁行為であり、書き手の言葉をその受け取り手である読者に有効に伝えるための技芸こそがタイポグラフィだと確認できる。つまりメッセージを伝えるメディア(media)であり、仲介者であるとの自覚だ。

英単語mediaの綴りにあるmed-やmid-はともに「中間」を意味する。したがってmediaとは媒体であり、言葉を送る側と受け取る側の間で仕事をこなす中間的立場に立つ仲介者だ。ギリシャ神話に登場するヤヌスは、顔の前と後ろに目を持つ。タイポグラフィの実践者にも、2つの立場を同時に考慮する意識が求められる。

2つの役割

デザイナーが、そして今では絶滅危惧種たる伝統的な意味でのタイポグラファが、扱う素材をテキストに焦点を合わせていることが明瞭であった。そのことは、モリスンの指摘にあるように、テキストの目的によって、基本的理解のためには2種類ある。

ひとつは書籍と、それに準じる雑誌類である。書籍という形態の立体性と平面性にデザイン上の創意工夫の要素が詰まっていること、そして内容の解釈と反応は多様でもあり、空間と時間を超えて永く読み継がれる寿命を期待できる。

他方はディスプレイ・タイポグラフィである。広告や広報の目的では、即時了解的で流行する束の間(ephemeral)の勝負である。ニュー・タイポグラフィ運動を牽引したヤン・チヒョルトも晩年にその限界を悟ったように書籍形態などの長文用には不適合が際立つし、適合させるにはかなりの力量が必要だろう。彼が提唱した運動の扱う範疇は期間限定で、期限が過ぎれば不要となる消耗品を制作するデザイン行為に有効であり、その短期の集中性と即効性が命となる。ただし、この「端物」と呼ばれる印刷物と大型の広告類でも、ともに書籍本文組みの活用もあり得る。

いずれにせよ、この言語伝達における長命と短命の対象のどちらもタイポグラフィの領域であることに変わりはない。雑誌類はこの2つの紙媒体を統合した役割を求められる。

限界の自覚から

また時には、「読めると伝わるは違う。読めても伝わるとは限らない。伝わったとしても意図通りとは限らない」という意見も耳にする。タイポグラフィが関わる範囲は、読める状態の確保であり、それは最低限の使命であり、本質である※52。次には伝わることが目標となるが、伝えはするが、伝達可能かどうかはもちろん判定不可能であるし、読み手個人の主観や読解力や想像力の問題なので、そこにタイポグラフィの介入する余地はなく、限界がある。

だが、伝えることを目指す意欲がなくては「伝わる状態」に近づけない。意味の理解は文体に決定的に依存するしそれが限界であるとの自覚の上で、まずは意味の理解への舞台を用意する準備が基本となる。その舞台には、読書環境という物理的な快適さの確保や、身体・生理上の疲労を和らげる配慮も含むはずだ。素の状態にある未加工文(書記言語)を白井氏のいう「非言語情報」の景色を意識しつつ味付け演出する、意味の流れや解釈への支援がタイポグラフィである。

匿名性

タイポグラフィを担い実践する表立った職種は、20世紀初頭以来現在まではデザイナーに移っている。私はこの技芸のこの行為には「(自己)表現」の余地はないとした。オリジナル・メッセージが表現行為である故に、その主体と責任と意図は書き手にあり、デザイナーにはない。デザイナーはそれを生かすべく料理する立場にある。デザイナーに過失や責任があるとすれば、それはオリジナル・メッセージの意図的な改竄や曲解であろう。書き手の言葉(原案創造物)の意味内容を扱う仕事がデザイナーである。言葉や文字化されたメッセージというテキストはタイポグラフィの存在根拠であり、それがなければデザイナーの仕事はあり得ないことになる。だが、オリジナルの表現者の裏に隠れざるを得ない「伴奏者」たるデザイナーの無記名性(匿名性)が必然となる。デザイナーによっては、そこに不満や鬱屈があることが想像できる。

一般的には、デザイナーの名前だけによってデザイン制作物の質が評価されることはない。基本としてデザインは売り物ではなく、したがって価格はない。あったとしてもその評価の客観性は保証されないだろう。現実上の評価は、請け負う仕事への対価に示され、目的有効性への期待と評価である。見てきた通り、タイポグラフィというデザインでは記名性が出る幕はない。自己表現や記名性に固執するならば、アーティストを名乗るべきだろう。

6. 「再現」に代わる「追創造」

楽譜と演奏の関係

そこで近年「再現」と「描写」の代わりに用意した言葉は「追創造」である。これは私の造語ではなく、中野雄著『丸山眞男 音楽の対話※53』で、政治思想史研究家の丸山氏が趣味に取り組む姿を紹介する中で使われていて、それを拝借した。

学者・丸山氏がクラシック音楽のオーケストラの役割について語った言葉が紹介された中で、丸山氏は演奏者の役割を「第二次創造、追創造」だと指摘したという。つまり「演奏者は形式的な構造や思想や時代背景を解釈することで、作曲の魂を再現する」「それは自己責任による創造行為である」。そこから演奏家は再現芸術家であり、追創造を実行する。楽譜は第一次創造つまり原作・原案(オリジナル・アイデア)であるとする言説だ。「解釈」と「再現」という語に注目する。また、「再現」は「追創造」と言い換えられていることも納得できる。

これをタイポグラフィにおけるデザインにたとえてみる。第一次創造は原稿(オリジナル・メッセージ)、追創造は視覚化、書体選択、文字組みであり、デザイナーは追創造の実践者となる。そこに「非言語情報」あるいは直接に言及されていない思想や時代背景の援用が必要とされる。

演劇との比較

この行為は、演劇に例えられる。演劇は作品・戯曲の台本は作家のテーマやメッセージであり、演出家は全体と細部を把握し、適切な指示をする。そして仕上がりに責任を負う。役者は演技する、台詞を口から発することで、第二次創造を実行する。観劇側(観客)は作家のメッセージを受け取り解釈する。

役者の演技力とは、自分の言葉でない台詞つまり(作家による)「第一次創造である既に表現された言葉」を発する。演技は表現力で示す。表現力は何のためか。それは台詞を効果的に発声するためであり、演技という言葉の意味の増幅を通して代弁者として台詞を伝えるためだ。役者のこの表現力とは、他者の言葉を表出して伝える技芸だ。それは他者の言葉を「いきいきとそこに再現する能力」であり、言い換えれば「追創造する役割」ではないか。役者個人の表現力とは、正確には「再現力」であり、表現力は再現のために活用され機能すると言える。

かつて小林秀雄氏はどこかで吠えた、「役者?それはアクセントに過ぎぬ」と。役者の上手下手は二の次であり、核心は劇作家のメッセージ(言葉)とその伝え方にあるという意味だろう。それは言語表現を第一義に置く文芸上の観点である。だが、演劇はアクセントたる身体による立体的な可視化がなければ大衆化しにくい。役者がいなければ劇としての鑑賞、演劇としての総合的な芸能は成立しない。

このあたりについて、作家の井上ひさし氏は次のように書く。「劇の形式を、いま仮に(物語+ことば)形式と言うことにします」として小説ではこの(物語+ことば)が当てはまるが、「芝居では(物語+ことば)はそのまま受け手に渡されるのではなく、物語もことばもひとまず俳優の身体に叩き込まれ、それぞれの俳優の個性や才能や技術でいっそう磨き上げられて表現されます」と説明している※54。これは役者による身体造形とも言えるし、追創造とも言える。ここでの「表現される」は、私流では「再現される」または「追創造される」となる。

さらにまたこの芸能は、観客と役者が無意識のうちに共に劇を成立させるあるいは作り上げる時間と空間を共有することでもある。さらに、役者の台詞の言い回しが公演ごとの身体状態によっても異なることもあり得るだろう。回を追うごとに納得できる芝居が多くなると思える。客の反応が演技に影響するはずだし、演技によって客の反応も異なるという、一回性の成立で、同じことが起きない刹那的な芸能だし、それゆえに興味が尽きない。

なお、タイポグラフィもメッセージの可視化であり、それは造形化がなければ成立しない。ただし、これは小説を劇化する際のいわゆる「脚色」という、再構築や省略化あるいはまた新解釈の介入などの行為とは異なるはずである。

想像から追創造へ

ここで「追創造」をさらに考えてみよう。ここにも書き手の自己表現たる第一次表現・創造が基になって、それを視覚的提示において演出する行為を目指している。したがって、その演出行為では、デザイナーは書き手の伝えたい意図である言葉・思想である表現に第三者の表現を重ねることは二重表現となり、それは違反行為に等しい逸脱ということである。

そこでその第三者たるデザイナーは書き手の意図に基づき、創造的に紙面を設計する視覚提示によって読み手に提供することになる。それはつまり「追創造」と呼べるだろう。この「追」とは、「後につく、追いかける、後から補う」という意味であり、書き手の意図に忠実に従うことであり、文章を活字書体に「変換」することで視覚的に「後から補う」という意味で使うことができ、追う対象が前提としてある。

したがってこの「追創造」は「第二次創造」とも言い換え可能であり、活字に変換することで成立を見る。ここには創造的な展開が求められるが、その内実は造形的描写と言える。そして、「自己責任による創造行為」という丸山氏の指摘は、原意尊重の上で実際の音に置き換える際の緊張した責任感なしには実現できない行為だという意味であり、その緊迫感と誠実さはそのままデザイン行為にも当てはまる。

さらに言えば、ここでの創造は「正確な解釈によって新たな対象として存在させる」ことだ。ひとつの独創表現を一層多くの人々の目前に提供する「媒体への登壇行為」である。広く伝えるための媒体への対応でもある。核となるテキストを複製手段によって多方向かつ大量に届けるための「一から多への変換行為」あるいは加工作業である。しかも、効果的に分かりやすく読みやすく、という条件付きである。

またこの「効果的」とは言葉の意味を「微増幅する」とも言えるだろう。この「効果的」の中身が創造的な色の添加である。言葉の意味の読み取りの連続に障害物なく集中できる状態の確保の上に、言葉を取り巻く物理的な環境としての書籍やそのページ展開の全体と細部に対して慎重に造形を与えることだと言える。

あるいは「追創造」とは、モノクロの写真に色彩を施す作業に似ている(その色の塗り方は、扱うメッセージのジャンルや文体などによって異なるだろう)。元のモノクロ写真には写るべき本来の色彩は見られない。だが、その単色の各部分を例えばデジタル技術で彩色再生することができる。この再生技術をタイポグラフィに置き換えれば、具体的には活字書体の選択、活字書体による組版、この2つが主な実践行為である。そのために必要なのは活字書体の歴史や特徴の理解などを素養として、解釈に基づく配置と組版以外の暗示的な構図や配色や挿絵などの追加することである。また、言葉のナレーションつまりその声質、温度、抑揚、強弱などを活字書体への変換を中心として造形化、内的音声の視覚化、意味の増幅効果による援用と言えよう。

フランシス・メネルはこのような行為を「隠喩的なタイポグラフィ(allusive typography)」と名付けた。タイポグラファによるテキスト解釈の介入がなければ、組版造形行為は成立しない。彼は介入の余地は不可避としながらも、演出におけるその解釈の核は、書き手という表現者の用いる言葉の集積や、書き手に関連する文化的・地理的な背景と考えたようだ。

先に引用した人々の抑制的ながらも著者(テキスト)のためにそれを微増幅して味付けを行う姿勢の表明を、我々は記憶すべきだろう。これも二次的創造行為である。それは決して自己を打ち出す創造ではなく、あくまで原文表現者への敬意と忠実な解釈による、読者へ手渡すまでの言葉の造形化による視覚提示である。追創造の行為は隠喩的演出によっても可能となるはずだが、これは高度な技芸や深い知識の裏打ち無くしては不可能だ。

つまり「追創造」は、テキストの「追体験」という内面のスクリーンに映る言葉から得たなにがしかの像を投影する作業から始まるということだ。それが受け手の側での新たな「追創造」を生む契機となりやすいことが理想となる。

個性の位置付け

そうなると「追創造」の実践において、デザイナーの個性は不要なのか、という疑問が湧く。だが、個性とは隠しても隠しおおせないほとんど無自覚の性質であり、またそれは否定しようがない。デザイナーの個性は抑制されるように見られるだろうが、上に述べたような意識があれば、テキストの解釈や「再現・描写=追創造」という行為では、自ずと表出してくるはずだ。同じテキストでも、異なるデザインが生まれ得るということだ。

こまごまとした作業の連続の中の各細部には、常にあらゆる種類の選択という判断がつきまとう。この各段階での判断の集積こそ、抑制しようとするも現出してしまう個性であろう。だが、その個性の否定は「追創造」とはなり得ない。個性を含むその判断は、究極的には書き手または読み手の満足度の評価が優先される。

このデザイナーの判断の集積と個性を例えて、本文用の明朝体が数種類あると仮定してみよう。その書体間の差異は個々の文字をかなり拡大してみれば、細部での差異がやっと見られるが、ストロークの抑揚の程度、ハネやハライでなどの点画の角度、文字間のつながり方や脈略、それらの差異は極めて微細である。したがって書体間の差異は一見した次元では見分け難い。ところが、各書体の文字が文章で組まれてマスとなることで、一気に書体間の差異が見え始める。その組版状態全体の表情、つまり粗密度・温度差・平滑度・凹凸度・明暗・寒暖・軽重などのテクスチャ、質感や手触り感などが少しずつ現れる。これはデザイナーの個性の表出に似ている。

また、その中での「再現・描写=追創造」の成果は、デザインが完成した結果を享受する読み手にも及ぼすはずだ。読み手の内面で文字を追う長い持続時間のうちに育ってくる、白井氏の言う「絵姿」がやがて読み手の無意識のうちに読み手自身の個性や経験の形で「再現=追創造」されるだろう。

それはタイポグラフィという技に無意識のうちに触発され発生し、自ずと展開する。デザイナーの無意識の個性は、無意識だからこそ読み手の中で新たな「追創造」される契機を促すと言えるのではないだろうか。デザイナーの個性は貴重な要素であり、また影響という面では危うさも同時に孕んでいる。デザイナーの人数だけ解釈と追創造がある。したがって組版紙面の評価もタイポグラフィの原義に含まれている。

先に業務の分業・統合の箇所で触れたことで、確認がある。それは現代ではテキストの書き手が組版者となりうる場合である。ここでも自分のテキストとはいえ、それを客観視できる力量と技術が求められることになる。ここでいうタイポグラフィのデザインとは、その種の質や体裁を整える行為を含むからだ。

7. 余論:能楽との比較

目前心後と離見

ここで伝統芸である能の舞について、本稿のテーマに通じる興味ある言葉を紹介する。梅若猶彦著『能楽への招待※55』での世阿弥の『花鏡』からの引用である。著者の梅若氏による解釈を示し、これを我田引水ながら解釈してみる。

舞において、目前心後ということがある。「目は前方を向いているが、心は自分の後ろにおけ」ということ。観客席から見られている自分の姿は、離れて人から見られている自分の姿、つまり離見なのだ。これに対して、自分の目でみようとする意識は我見である。それは離見で見ているのではない。離見で見ているとうことは、観客と同じ意識で見るということである。このとき自分のほんとうの姿がわかるのだ。その位に達すれば、目を正面に向けていながら、目を動かすことなく意識を左右前後に向けることができる、つまり自由自在に自分を見ることもできるのだ。しかし、多くの役者は目を前にすえて、左右を見ることはできても、自分の後ろ姿まで見ることができる段階には達していない。自分の後ろ姿を知らなければ、身体の俗の部分は自覚できないのだ※56
梅若猶彦『能楽への招待』

能は謡(うたい)と舞で成り立つ。舞は、能の本であるテキストを核にして身体でその意味や心情・情景・場面を上演する57。ここでは「観客」を「読み手」に、「自分」を「デザイナー」に置き換えてみよう。「我見:自分の目で自分を見ようとする意識」は主観的に自分のデザインを眺めることにつながる。だが「離見:離れて人から見られている自分の姿」はいわば客観性の確保や、他者の目のことだろう。「目前」という意識の立ち位置は、デザイン制作物の評価が可能となる姿勢でもある。第三者にどのように見えているのか、その視線に自分を置き換える批評的な感受性や視力が求められる。

次に「目を動かすことなく意識を左右前後に向ける」ことで、制作過程を刻々検証する。ここでの意識とは、書き手の意図(テキスト)への集中であろう。それは「心後:心は自分の後ろ」に通じる。「心後」とは、全体的把握の中での時々刻々の意識だろう。読む相手を柔軟に感じる遠近感を獲得した後に、グラフィックという手法でテキストの解釈に集中する態度から生まれる広角な視界と言えるし、非独断的な把握になるだろう。またさらに、客観性の維持と異なる次元への「想像力」が生じるとも言える。その先で「創造の種」が連鎖しつつ成長し、大きく包むような自在な概念が現出する。視線は一点に、意識は全体を往還させるという離れ業である。

世阿弥はまた有名な『風姿花伝※58』において「花」という概念と語を提出して、能の鍛え方を述べ伝えた。その言語化への執念と力量に感動さえ覚える。舞の動作をひたすら無心に繰り返すことにより身体に叩き込み、自己の各年代において発揮する身体的な魅力を「時分の花」と呼び、その花を自覚し乗り越え、やがていかなる時でも自在に発揮できる究極の魅力を「まことの花」と呼んだ。「花」とは一種の「舞台的効果」であり「能が観客に与える感動」の比喩だとされる。そして観客との時々の関係のあり方が花を開かせるともいう。また歌の技巧を「花や詞」とし、舞の意図や内容を「実や心」として2つに分けたそうだが※59※60、理解は容易ではない。

タイポグラフィにおけるデザインでは、読み手(観客)に感動ではなくむしろ内容の理解へと導く機会を与えるある種の効果の実現を目指すとすれば、そこに読み手との共感を得られる才能が必要なことが理想となるだろう。タイポグラフィでも「花」という技芸の自在さを獲得できる域にまで己のたゆまぬ訓練、つまりは読解力と追創造力に当てはまる「実・心」を身につけることが望まれるのだろう。その過酷で一心な経験から得られる言葉「目前心後」「離見の見」の世界、それに「花」の存在を実感するまでの訓練、それらからも暗示を得られたようである。

8. むすび

『領域』の出版後、新たに多くの貴重な文献が手に入り、雑文を書きなぐる中で確信が生まれ、昔の著述に補足の必要性を覚え、久しぶりにこのテーマに向き合い、性懲りも無く付け足した。振り返ってみれば、何を読んでもタイポグラフィに引きつけてしまう読書癖が身についていたかもしれない。

結局、言葉に触発された想像から創造への過程の中で、言葉への敬意を払う意識の連続の果てに「再現=追創造」が実現するのだと思える。そのテキストへの共鳴という一体感は、やがて言葉の受け手に手渡されて受け手の中で映像を一層鮮明に描き出すだろう。その期待の裏には、確かにあるのだが意識されない活字の連なりがある。活字化された個々の文字には意味はないが、その文字が連なることで意味の連続が生成し深まる。それはまるでDNAの塩基配列に似た、読み取るべき膨大な文字数が絡みつつ描く意味の小宇宙となる。その概念世界は人間の日々の営みの糧になり、また遺産ともなりうる。タイポグラフィに携われることの意味は、その貴重な仕事に自分の時間を捧げる行為ではないだろうか。

なお余分ながら、書名中の「領域」は英語ではfield、realm、territory、domain、area、limitなどがあり得るが、私はsphereを与えている。この語の素に球体のイメージがあるからだ。タイポグラフィは主に平面が舞台だが、その実践における思考・感覚・技術などは立体的に中心の課題に向かって調和裏に絡むと考えている。それは主題が領域と中核の提示だからである。

いつ狂っていたのか、いつ狂っていなかったのか?何日のあいだ錯乱していたのか、何日のあいだそうではなかったのか?何日病気だったのか、何日そうではなかったのか?どれが真実だったのか、どれが誤りだったのか?真実だったのは何か?偽りだったのは何か?私の人生の記憶のなかで、どれとどれが偽りで、捨ててしまうべきもので、どれとどれが真実で、しまいつづけておくべきものなのか?
エドゥアール・デュジャルダン「過ぎ去った狂気」※1

不要不急のレイヴでラン・ザ・ジュエルズ💰

TOKYO2020、応答せよ。ウチら感染都市の乗組員。エアコンの風に吹かれて夢想してる。ここが自宅なのか宇宙船なのか職場なのか独房なのかわからない。新型ウイルスは旧型インフルエンサー。現実は早い。これはクールさを競い合うゲーム。パンデミックの人狼ゲーム。あつまれヘイターの森。

いや、どこまで加速しても、現実は遅すぎるのかもしれない。長い目で見れば。と言っても、それほど長くはない時間。コーヒーが冷めるまでの時間。夢から覚めるまでの時間。夜更けから夜明けまでの時間。エモーショナルをキャンセルして記憶のストリームを止める。すべてがムダだとわかるまで、すべてがムダじゃないふりをする。隠し口座よ、もっと潤え。

COVIDから遠く離れて、息を吸ったり吐いたりする。人混みなんて最初から大嫌いだった。でも人がいないのもつまらない。オーバーシュートしそうな心配をロックダウンして、今日も不要不急のレイヴに向かう。スマホ見ない勇気あるヤツだけ煽り運転で付いて来い。ハーネスをブラウジングして出かける。マイウェイはハイウェイ。人に会えばエロティックになれる。要は突き抜けるあの感じ。浮気なヒッピーガールに会いに行く。

歌って踊ることだけが生きる理由という事実を隠蔽する文科省。カンパニーフロウの「ブレードランナー」のようにヴィジョンをハックして、デフジャックスを通り越してラン・ザ・ジュエるしかない。怪盗ルビイはハート泥棒。乃木坂の「ザナドゥ」ってマンションに住んでる。できればこのまま、たとえばフォーエバー。

シードからウィードに魂のステージをアゲてく🚬

秒針を戻せば、ウチらはみんな2020年に死んでいたのだろう。あらゆるものが停滞し、なにもかも退屈で仕方がなかった。女の子に犬の名前をつけては、幽霊たちがざわめいていたあの夜。新しくできたショッピングモールに棲む真夏のストレンジャー・シングス。針とインクで全身に、彫刻刀で机に。彫る主体と彫られる主体。ホルスタインとパラレルな不在。お揃いのタトゥー入れよう like カーラとカイア。#ahegao上手い子、この指とーまれ!

本日あの世でワーケーション。ソーシャルメディアからはソーシャルディスタンシング。ときどきテキストするだけのカリスマ偏執狂。ゲリラガールズのマスク被った女子と美術館デート。バンクシーよりもバンクラプシーがずっとリアル。マスクレスの口元に、ブランドロゴのタトゥーを入れる。拡散希望つーか感染希望。ただトイレで自由にお弁当食べたいだけ。とにかく匂いがないのが嫌。いい匂いがすれば全部OKになるから。もっと自愛してたい。

イケイケのベンチャーがシードからウィードに魂のステージをアゲてく。抽象表現する中小企業への誹謗中傷。来るはずのない未来を想像してたら、現実の解像度が上がってただけのクラウドパンク。あきれるほどやることない。リモートネイティブは手触りを知らない。大事なことを後回しにするクセなおしたい。何歳になっても子供たちが死なないジュブナイル映画を観てたかった。

移ろう街のジェントリフィケーション。もうここでネットミームは生まれない。アーバンな盂蘭盆。毒がなきゃヴァジャイナ濡れない。ウェルビーイングはサイケデリックなメンタルケアに行き着いた。光の速度でREJUVENATEする男塾(メンズサロン)。目に見えんMANY MENが目指すスパニッシュ・メイン。厚切りオードリー・タンの爪の垢を巻いて吸って吐く。巻かれては浮上、登る煙と思惑。

ウチらの夜の街(インナーシティ)の浄化作戦(膣内洗浄)。オーガニック肥料としての糞尿を再生して作られた食料を食べて、産業廃棄物だけでリメイクされた服を着る。廃棄前提 ON THE RUN. シケモクくわえて IN THE SUN. ネットで見た景色を確認しにDOWN TOWNへくりだそう。

STAY HOMEつーかSTAY HOODで蜜ってる🏕

誰もが誰かの日記を読みたがる。「或るコロナ脳者の手記」というフェイク文書は、最初からグリッチノイズまみれのコピーのコピーである写本のスキャンだった。身分証明書のコピーを用紙に糊付けするときには、裏面に名前を書いておく。剥がれても誰のものかわかるように。自分が誰なのかわかるように。集合体としての自己しか持ちえないかもしれないのに。

フェイクとは偽物があるのではなく、真実がいくつもあることであり、すべては選択に委ねられている。マスクをするのかしないのか。どちらが表で裏なのか。不織布かガーゼか。右耳から引っ掛けるか左耳から引っ掛けるか。マスクの紐にイヤホンのコードは通すか通さないか。真実をひとつしか選ぶことができないのであれば、すべては信仰の問題になる。

誰にも信仰を区別できないから、不可避的に信仰のキメラになる。自意識のレベルでは黒マスク原理主義者で、行動においてはマスクレス派のCOVID-19不可知論者。量子レベルでのシンクレティズムが進みながらも、ピュアな単一信仰を自認している。

信仰によって生活様式が変わってく。新しい生活様式。古い生活様式。きれいな生活様式。おいしい生活様式。ていねいな生活様式。ヒップな生活様式。ジェットセットな生活様式。獣のような生活様式。嘘みたいな生活様式。生きてるのか死んでるのかわからない生活様式。最高の復讐である優雅な生活様式。生活には様式しかないから様式の無い生活をしたっていい。それはポストコロニズムの生活様式。

ウチらは他者からウチらを同定するしかないが、他者の信仰のうちのどのレセプターが機能するかは不明確なので、ウチらは可能な限り多くの他者と接触して、ウチらのほんとのトゥルーリアルな形を定めていく。STAY HOMEからSTAY HOODでEVERYBODY IN DA HOUSE. ウチらのフッドはいつも密。密いのがいい。密いのがいいよ。だってギュッてするでしょ。密ってる?密ってぬなら、密ってく?

治療薬のない夏から抜け出すためのコロナパーティー😷

コロナパーティー・トゥ・コロナパーティー。ティピカルな悪としての濃厚接触。それはNO COST接触だったり、NORTH COAST BAD接触だったり。接触不良より濃厚接触の方が悪いかな?希薄なのはどうなの?どっちがクール?90年代初期のウェアハウスパーティーみたいに、ネットでパスワードを入手して、サウンドシステムが持ち込まれた廃墟に向かう。モーフィアスみたいにフロアを焚きつける。山手線クラスター爆弾がゴジラに突っ込むみたいに。

ベイビー、それでもリアルなのは電車の中で吐いてるやつなんだ。それでもやっぱり希薄なんだ。夏へのフォビアで呼吸もできない。希死念慮を燃料に粘土のような呪詛を垂れ流して岸辺までたどり着いた。メディア関係者に向けた自殺対策の手引きを読みながら、治療薬のない夏から抜け出す方法を吟味している。ちゃんと夏に抱きしめられたい。マスクをして対面しない姿勢で。

Zoom保守派の連中は、上座と下座や入退室ルールを決めたがる。でもここは部屋じゃない。マナーはテンポラリーな関係を確かなものにする道具立て。マナーで序列を展開してディスプレイを解釈し、その場での身体のありようを決定する。ディスプレイと身体を結びつけることで、それぞれの行動を規定する。これはディスプレイという空間における権力発動の手段であり、人為的に空間を構成する建築が誕生の瞬間より維持し続けているプリミティブな機能だろう。そういう言ってる間に「ミーティングは終了しました」。

They wanna Zoom Zoom Zoom. まるでドレーとクールJ。ほんの一瞬ハッピーな気分になるためのZoom飲み。あの子は録画OK。リングライトと修正機能でZoom盛りして、Zoom勝ち組の彼と101回目のZoom。遠隔でチャHして存在を見つめてる。でもラグって一緒にイケない。オンラインマナーをアップデートすることで安定して存在する。ねえ、オンラインマナーつくろう。ウチらだけのマナー。LOVE OVER RULES.

気圧低いと調子悪いし欲しいものもわからない⛅️

ハマってる晩夏、抜け出せない。サマーチューンは永遠。サマーチューンだけが永遠。ずっと言ってるね、これ。何も言わないでいるために、恐ろしいくらい言葉を費やしている。主語よりも速く、自己が大きくなる。すべてがそうなってしまうか、すべてがそうでないかのどちらか。カテゴライズするとすぐ内面化される。これだけは言える。菅田将暉が好きな女は気圧低いと調子悪い。

ノンバイナリーでジェンダーフルイドだけど、インターセクショナルなXジェンダーは、ある意味で中動態だし相互包摂。割り切れない問題は割り切らずに置いておきたい。「二項対立を超えていきましょう」派と「二項対立かそうじゃないかという図式が二項対立だ」派が、互いに「あなたとは議論にならない」と飛沫を飛ばし合う。女帝とステップを踏む東京の完全勃起(マウンティング)。

キャットファイトがはじまりそうな街のムードは悪くない。価値が暴落した女の特権を、精神年齢7歳ぐらいのかわいい男の子が無邪気に奪っていく。オスに必要なメスの成分を大量に自家精製して自己精算しながら自家中毒になってる。それって男性の女性性だし、女性性の男性性性とも言える。そんな夜も港区女子は青山墓地で運動会。ねえねえ、さっさと潮吹けば?

生権力や規律権力を超えて、鳳凰ビヨンセの独裁的な主権権力を希求する人民。自分が思ってるような自分として見てほしい欲求に駆られて、今日もずっとテキスティングする。自分はツイートばっかりしてるのに、ツイートばっかりしてる他人が嫌いな理由教えて。本当に欲しいものなのか、欲しいと思ってるだけなのか、欲しいと思わされてるのかわかんない。思うようにいかない現実に、破れかぶれの虚構を重ねる。そうやって実装されてる自意識。

トーストのバターみたいに薄く延ばした夏の夜🍞

We’re so 2020. もう誰もSNSにテキストをドロップする意味がわかってない。とっくに終わってる8月の終わりに向けて、失われた夏が弧を描く。フラクタルな季節の中で水分を放出する新規感染者数グラフ。「もうあのお店に行けないね」とか言ってる間に、夏終わるね。実家帰った?フェス行った?海見た?夏はきみのことを待ってたんだ。部屋でMac Millerのラストアルバム聴いたりしながらさ。

JR新宿駅で降りると、向かいのホームの向こうに海が見える。南口からは水平線しか見えない。そして歩道橋から飛び込めば、橋脚にまとわりつくやわらかい水面がゆっくりと近づいてくる。珊瑚の形状をモデルに身体が再形成される。波打つコンクリートに張り巡らされた修悦体が水中を漂う。鼻腔から吹き出した大きな泡が太陽を分割する。波の表面に海棲哺乳類のぬるぬるとしたシェイプが透けて見える。

フラッシュフォワードする死。半径5メートルの死体置き場に過ぎ去った会話がどこまでも蓄積されている。拡張する身体から偏在する存在へのデジタルトランスフォーメーション。部屋に転がしたままの自作のジェムリンガ。エモーショナルの奴隷。ヒューマンよりもヒューマン。かわいそうに思ってメッセすると、勘違いしてファム・ファタられちゃう。

ようこそ、ポスト・ポスト・ポストヒューマンの時代へ。ヘロー、ヘロー、ヘローアゲインからアローンアゲイン。もし電車でこのテキストを読んでるなら、すぐに降りたことのない駅で降りて、そのホームから見えるもの全部を記録して。それがあなたにとって意味を持つ最後のテキストになるから。知りたいのは、今日の肌感。

ベイビー、本当の人生はジェリービーンズの中にしかない。胡桃の中の宇宙。頭の中のポークビッツ。バターコーン味の通過儀礼。棺桶みたいなレーズンサンド。トーストのバターみたいに夏の夜は薄く延びる。ここは2020年TOKYO。感染都市のミッドナイトゴスペル。スペースキャスターたちよ、帰還せよ。インサイダーで密くなろう。

村津蘭:
ナターシャさんは2016年からモンゴルのマルチスピーシーズ医療について調査されていると伺っています。まずその観点からコロナウイルスについてのご意見をお聞かせいただけますか。

ナターシャ・ファイン:
私は現在、モンゴルの医療と知識の伝達について研究する国際チームで活動していて、その一部は「ワンヘルス※1」という概念の枠組みに関係しています。ワンヘルスとは、人間への医療と動物に対する医療、そして環境的な要因を組み合わせる、比較的新しい医療的な枠組みです。この種を超えた学際的なアプローチは、人文学や社会科学の中では今まであまり探求されてきませんでした。

私たちのプロジェクトのひとつの課題は、フィールドワークを通して、ローカルの文脈の中で用いられてきたモンゴル医療を、どう文化横断的に見ていくかということです。ちょうどマルチスピーシーズ的なつながりに焦点をあてたマーモットとペストについての論文を2本書き上げたばかりなのですが、そのひとつはマーモットと(ウイルスの媒介動物である)蚤、ペスト菌、その他の種が、どのように相互接続的な社会生態の一部であるかについて注目したものでした。モンゴルの牧夫はマーモットを狩って、珍味として食します。マーモットに強力な治療性があると感じているのです。モンゴルでは毎年数件、マーモットを狩った若い男性がペストで亡くなるケースがあるにも関わらず、マーモットに対する古くからの文化的な伝承やコスモロジーにおける知覚は、ペストへの恐怖に勝る傾向があると言えます。

コロナウイルスもまた種を超えた病で、最近はウイルスがどこから来たのか、それが潜んでいるのは蝙蝠か鳥なのか、その媒介体となるのは何か、センザンコウなのかジャコウネコなのかなどの議論がされています。しかし、このように素早く変異するウイルスは、種の間の差によって可鍛性が高くなるため、出所を特定するのが困難です。私は、このようなウイルスの発生源に着目して、場所を明確に特定して責任を配分しようとするのではなく、ウイルスが異なる種の間を移動するあり方や、私たちにとって採用可能な予防措置に焦点をあてる必要があるというエベン・カークセイ※2の意見に賛成します。

コロナウイルスを国内に入れないように、モンゴルはよくやっているといえます。その理由のひとつは、遊牧を主な生業とする国家として、しばしばペストのような動物由来感染症の病気や、ブルセラ病や口蹄疫、炭疽病のような人獣共通感染症に対処しなければならなかったからだと思います。本来彼らは、生物科学の医者や獣医が、人獣共通感染症に対抗するためには種を跨ぐ病に注目することが最良な方法だと言い始めるずっと前から、何千年もワンヘルスの枠組みに沿ってやってきたのです。

モンゴルでは、病に対する検疫や隔離に長い伝統があります。例えば去年の2019年5月初旬に、薬として生のマーモットの肉を食べて亡くなった夫婦がいましたが、彼らがいた地元の町では即座に隔離が宣言されました。モンゴル人はこのような対策に慣れているのです。しかし、牧畜コミュニティにおいて、病の予兆に気づいたときの対応は、どちらかというと予防法に関するものです。例えば、馬が鼻水を出していたり躓いたりするのは、馬インフルエンザのサインかもしれなかったり、見張り役のマーモットが警告音を出すことに失敗し鈍い動きをしているのは、マーモットの群居地にペストが潜んでいるサインかもしれないといったことです。ですから、政府はワクチンなどの生物医療の技術と、牧畜コミュニティが持つ病の前兆や予防実践に関する知識を統合するべきなのです。

§

村津:
私たちの医療や健康の考え方に、コロナウイルスはどう影響を与えたと考えますか。

ナターシャ:
コロナウイルスは、人間の身体と健康だけに着目するような、人間中心的やり方ではいけないという、私たちの認識を高めたと考えています。生物医療や西洋医学の枠組みはとても細分化されています。アネマリー・モル※3は『多としての身体』を出版し、医療システムが異なる存在論としてどのように分断されているのかを手際よく示しました。また、彼女とジョン・ローはカンブリアの羊について書いています※4。彼らは、農夫たちの羊に対するある見方に対して、獣医はまた異なる見方で見ていること、さらに疫学者もまた異なるスケールで見ていることを指摘しました。人類学者や社会科学者として私たちがしなければならないのは、これらすべての異なるパースペクティヴを、健康という観点でどのように結び付けられるのか考えることです。

モンゴルの医療はより包括的なものであって、さまざまな側面を別々の領域的なカテゴリーにただ振り分けるものではありません。治療師(healer)は、特定の薬用植物を、出産した後の牛にも腎臓に問題を抱えた人にも、処方する場合があります。違う分量で、おそらく他の特定の材料と混ぜたりする形で。ここで問題なのは、新しく変異した毒性のある病に対抗するには、どうしてもワクチンに頼る必要があるために、伝統的医療で対処できないことです。このように素早く広がる病とどう向き合うかについては、何世紀にもわたって蓄積された知識がないのです。

しかし、モンゴルの医療が得意なのは、免疫力を高めて健康を維持し、周囲の土地(ノタック)を見守りながらバランスを保って、このような病を初期段階で予防する方法を考えることです。この性質は、日本や中国、チベット、アーユルヴェーダのような、多くの異なる伝統医療のアプローチにも共通していると思います。モンゴルの医療はあまり知られておらず、もともと多元的で、他の「伝統的な」医療技術を受け入れていますが、モンゴル高原に特有の長年の実践も多くあるのです。

[図1]瀉血のために馬を捕まえようと投げ縄を投げる若い牧夫(モンゴルにて)

村津:
調査について言えば、ナターシャさんはテクストを基盤とする従来の民族誌(ethnography)だけではなく、民族誌映画(ethnographic film)も作成していますね。今世紀に入って、映像の技術的な発展と人類学におけるパラダイムシフト、特に象徴的な構造から実践や感覚に力点が移る中で、民族誌的調査を構成するものとして、映画制作に対する関心が高まっています。今日、映像人類学者は実験的なものからフィクション映画まで、さまざまな映画制作のスタイルを使っていますが、その中でも「観察映画(observational film)」は主要な位置を占め続けています。ナターシャさんも制作方法として採用している「観察映画」は、1960年代の移動可能な音声同録システムと軽量カメラの発達によって可能になった、ダイレクト・シネマやシネマ・ヴェリテ※5を含めた一群のドキュメンタリー映画です。ナターシャさんが「観察映画」という映像制作のスタイルに辿りついた経緯と、調査方法としてどんな特色があるのかを教えていただけますか。

ナターシャ:
私の学問的背景には動物行動学があり、以前はナチュラル・ヒストリー的な映画制作をしていました。ですが、2004年に初めてオーストラリア国立大学(ANU)に来て、博士号取得のための調査を実施したときに、民族誌的な映画制作が人類学的な調査の一部として認められていることを知りました。それで映画制作を自分のフィールド調査の方法として取り入れることができたのです。デイヴィッド・マクドゥーガルとジュディス・マクドゥーガル※6が私の大学を拠点としていたのは幸運でした。

観察映画は、観客がまるで対象と一緒にいて、自分たちが全体の一部かのように感じさせるように、異なるコンテキストで彼らを夢中にさせます。それは、時間や空間がごた混ぜに短いカットが編集され、必然的に没入しにくいものとは違うものでありたいのです。ANUに所属していたもう一人の有名映像作家のゲリー・キルディアは、全知の存在のような外部のナレーションで観客を動揺させるのではなく、いかにドキュメンタリーの「夢の中に」没頭させるべきかについて語っています。

観察映画制作は、スタイルとしても倫理的にも、自分が動物に関して伝えたいことと一致するように感じました。なぜなら、ナチュラル・ヒストリー的な映画制作は演出されることが多く、現実よりもドキュメンタリードラマのようだからです。観察映画は、フィールドの人々が展開する出来事を実際に記録するプロセスであり、用意されたスクリプトや計画に沿うものではありません。つまり、観察映画はコンセプトやアイディアに関しての方向性は持っていますが、フィールドに根付くことで影響を受けていく、現在進行形のプロセスなのだと言えます。

§

村津:
観察映画はあからさまなナレーションや演出を含めず、フィールドの実践に焦点をあてることで、物語の対象の方が映画制作者の計画よりも重要だと示しているのですね。この態度は人類学的な関わり方と一致していて、それが人類学的な映画制作として支持される理由かもしれません。デイヴィッド・マクドゥーガルといえば、彼は「観察映画が世界には見るべき価値があることが起こっているという前提に基づいている。そして、対象の持つ特有の空間的、時間的なあり方は、その見るべきもののひとつである※7」と述べています。ナターシャさんの制作した映画「ヨルング・ホームランド」は、場所のもつ時間やテンポを感じさせることに成功していると思いますが、このような効果をもたらすために考えたことを聞かせていただけますか

ナターシャ:
テンポとコンテキストを築くことは、デイヴィッド・マクドゥーガルから学んだ重要な観点で、私はそれをこの「ヨルング・ホームランド※8」の中で実践しました。私は自分が運営に携わっていた修士課程の民族誌映画制作コースにデイヴィッドをゲスト講師として招いたのですが、彼は映画の最初の5分間でテンポを描き、残りがどのように進むかを示すのだと話していました。つまり、ゆったりとしたテンポで始めたならば、その後の映画が同じようなテンポで進むことを観客は受け入れるのです。だから「ヨルングの時間」のゆったりとしたテンポを表現するために、映画の冒頭は静かな朝のシーンから始めました。町から離れたアボリジニーのコミュニティの中にいるということが、どう感じられるかも伝えたかったのです。大抵の場合は静かで、物事がゆっくり起こりますが、太陽が降り注ぐと、急に多くの活動が始まることもあります。

Vimeo: Natasha Fijn “Yolngu Homeland (Trailer)” (2015)

村津:
民族誌映画はマリノフスキーが言った、声のトーンや物の手触りなど、日常の数えられない質である「不可量部分(imponderabilia)」を伝える方法だと思います。不可量部分は民族誌家が調査するべき要素のひとつとされますが、社会的構造やナラティブと違い、テクストだけで表現することが難しいものです。ナターシャさんの映画「ヨルング・ホームランド」で、特に不可量部分的なものを感じたのは、海辺で一人の女性が、獲った魚を分け与えなかったことで海鷲になってしまった男の子の民話を語るシーンでした。このシーンを作ろうと思った背景を教えていただけますか。

ナターシャ:
その民話を取り上げることにしたのは、ヨルングの老人が語っていたからです。それは、私たちが捕らえた海の食料を調理していたら、ちょうど近くで海鷲が数匹のカラスから巣を守ろうとして騒いでいたときのことでした。彼女は私に実際の海鷲とコスモロジーの間のつながりを感じてほしかったのだと思います。この民話はよく知られたもので、ヨルング・ホームランドの学校教育のために英語で書かれていました。本で読むこともできますが、私はこの民話がどんなやり方で語ることを目指されていたのかを、田舎で物語られる正しい文脈の中で示したかったのです。これは子どもたちのための物語ですが、海鷲が頭上で鳴いている場所で座って聞く必要があるのです。そうすることで、物語の中の鷲と空を飛び回る本物の鷲のつながりを作ることができて、まったく文脈から外れた教室の本の中にある物語より、ずっと心に訴えるものになります。

この鷲は多層的な意味を持っています。海岸にいる実際の鷲であるというだけではなく、物語を聞いている子どもたちと直接的にもつながっている存在です。物語の中で、人間、つまり子どもたちの先祖が鷲に変身したことで、海鷲が彼らのトーテム動物かもしれないという点で、彼ら自身も鷲の一部であると考えられるからです。この動物は人間と鷲の間を変身することができるので、物語を聞くヨルングの子どもたちにとって意味深いものです。それはヨルングの人々が鷲のパースペクティヴで考えることを促すのです。

§

村津:
民話の的な側面だけではなく、ナターシャさんのおっしゃる「多としての存在(multiple being)※9」という概念も伝えているわけですね。このような不可量部分的な側面を伝える方法は、映画だけに限定されているわけではありません。近年、アメリカを中心として「マルチモーダル人類学(multimodal anthropology)」という概念が、映像人類学に代わるものとして提唱されています。この動向は、フィールドにおいても、人類学者が属する社会においても、さまざまなメディア環境が急速に発展してきたことを反映しています。このマルチモーダルという発想は、メディア関連の実践だけにとどまらず、感覚的・身体的を巻き込む民族誌にも広げられるのではないでしょうか※10。マルチモーダル人類学について、ナターシャさんのご意見をお伺いできますか。

ナターシャ:
私はさまざまな種類のメディアを用いた、マルチモーダルなコミュニケーションに賛成です。ポッドキャストの新たな動向や、調査を追究するためにオーディオを使うこともとても良いと思っています。学者たちはいまだに本というメディアによって自己規定する傾向がありますが、他の要素も取り入れていくことは重要だと思います。私は限られたアカデミックの聴衆だけではなく、一般の人々にもアイディアやコンセプトを伝えたいのです。アカデミアという枠を超えて、自分の研究に関心を持ってくれる人々に届けたいと常々思っていました。

私はさまざまなコミュニケーションのモードを試してみるのが好きで、ひとつひとつのプロジェクトにおいて、どのように伝えるのが一番いいのか考えてきました。2017年に私は「二つの季節 ~モンゴルのマルチスピーシーズ医療~※11」という観察映画を撮ったのですが、そこで多くの馬の瀉血(医療の目的で実践者が、さまざまな箇所に針を刺し血を抜くこと)の事例を撮影しました。また、ある作品は、医学歴史家が主催した、流動体に関するカンファレンスに出席したことに刺激を受けて始めたものです※12。私たちはそれを、新聞や雑誌で探査ジャーナリズム的なものを伝えるのによく使われる「Shorthand」というツールを用いて作りました。ページをスクロールしていくと、それに合わせてイメージが変化するのです。多様な静止画があることで、ストップモーションアニメーションのようになる。最終的に、3つの独立部からなるフォトエッセイになったのですが、瀉血についての調査を伝える新しい道具として「Shorthand」を使うことは、非常に楽しいことでした。

近年は、別の存在のパースペクティヴを得るために、GoProカメラも使っています。ちょうど今年の初め、コロナウイルスが私たちの生活に影響を与える前に、さまざまな聴衆に対して多様な方法でコミュニケートするためのひとつの試みとして、パートナーと他のアーティストと一緒に展示会を共同キュレートしました。その展示会は「モア・ザン・ヒューマン:人新世時代における動物※13」というタイトルです。ここで私が展示した映像は、気候変動に直面する人間と馬の経験に関わるために、馬に乗る若いモンゴル人の牧夫のヘルメットにGoProをつけて撮ったものでした。馬と牧夫は、残りの群れの馬を見つけるために、雪嵐の中を探索しなければいけない中で、人間と馬がひとつの存在としてどのようにランドスケープと関わっているかがわかる、素晴らしいフッテージになったと思っています。

また去年には、私が住んでいるところの周辺、オーストラリアの首都キャンベラから1時間ほど離れたところで、ひどい山火事があったんです。そこで私は火事で全焼した直後に、馬とその騎手が黒く焦げてしまった森林を横切るところを記録しました。モンゴルの凄まじい雪嵐から、オーストラリアの夏に火事を引き起こす異常な熱波まで、気候変動が環境に対して全く異なる方法でどのように影響しているのかを示したかったのです。私はこの展示で、2つの対照的なシナリオを、ひとつは白を中心に、もうひとつは黒をを中心とした映像として並べ、馬と騎手が変化しゆく彼らの世界を案内するというかたちで展示しました。

[図2]春の雪嵐の中でまとめて避難している子羊たち(モンゴルにて)

最終的には、人々に、自分自身が他の動物や土地との関わりを異なる方法で認識できるということを理解してもらうことが目的です。彼らの中には、家畜が道具になったり、消費される生産物になることを恐れて、肉を食べることを心配する人がいます。しかし、私は他の文化にいる動物へのさまざまなパースペクティヴや存在論を示すことで、彼らにそのような問題を超えて考えたり、動物と関わり合う方法がいかに異なっているかについて知ってほしいと思うのです。

私は奥野教授が代表をしているマルチスピーシーズ人類学に関する科研費プロジェクト※14の一員です。そのプロジェクトの一環で、日本で騎射のフィールドワークをして、2018年9月には東京の流鏑馬祭と京都の笠懸神事を観ました。また、二つの異なる文脈における人間と馬の感覚的エスノグラフィや社会文化的な関与を比較するために、去年9月にモンゴルのウランバートルで国際騎射フェスティバルを調査しました。更にこのプロジェクトの一部として実施されている連続セミナーの中で発表し、マルチスピーシーズ研究における私のアプローチを博士課程の学生に教えるために、東京へも行きました。この複数年のプロジェクトの一端を担い、マルチスピーシーズ人類学にフォーカスしている日本の研究者と関わる機会が与えられているのは、素晴らしいことだと感じています。

§

村津:
ナターシャさんがおこなっている、一般の人々へのアウトリーチの仕方や人類学的な参与のスタイルを広げていくアプローチはとても興味深く、刺激的だと感じました。人類学的な実践が多様な方法で実施されているという意味で、私たちが目指しているのは、ナターシャさんが提示する概念を借りて言うならば、「マルチプルな人類学」と言えるものかもしれませんね。今日はコロナウイルスやマルチスピーシーズ、そして今日の人類学的な取り組みについて示唆的な考えを聞かせていただき、本当にありがとうございました。

[図3]牧畜地近くの新雪に足跡を残す羊と山羊(モンゴルにて)

「More-Than-Human」特設サイト

師茂樹:
最初に、清水さんがしばしば東洋の古典、特に仏教などを使いながらご自身の哲学を展開されているのには、どういった背景があるのかということから、お話を聞かせいただければと思います。

清水高志:
そうですね。子どもの頃からインドの古典に親しんでいたというのもあるんですが、そもそも欧米の現代思想じたいが、だんだん今世紀になって東洋的ロジックを再びなぞり始めているところがあるように僕は感じているんです。主客二元論とか、二元論的思考を超克するというようなことは、これまで20世紀までの思想でも主張されてきたし、もちろんドイツ観念論にもそうした考え方はあるわけですけど、主体と対象のように相反する二極があると、その両者の拮抗した境界を曖昧にし、間を取るというもの、《a》かつ《非a》みたいなものを考えるというものが多かったんですね。例えば、デリダの脱構築主義なんていうのもそういうものだと思う。

しかし、インドの伝統的な思考には、《a》でも《非a》でも《aかつ非a》でもない第四の「テトラレンマ」というものがあって、それは《aと非aのどちらでもない》というものです。論理的思考というのは《a》か《非a》かを定めるものだというのが西洋の伝統的な考え方で、《a》か《非a》かのどちらかを取ったらもう間は成立しないというのが排中律ですが、それではインド人は納得しないんですね。《a》にも還元されないし《非a》にも還元されないのは何かというのを、彼らは常に考え続けているんです。

ところが現代の哲学もまた、そういうことを考えるようになってきています。グレアム・ハーマンのような哲学者は、対象というものがあると、それは内的構成要素にも還元されないし、それを取り巻く外的文脈にも還元されない、そうした中間的統一体がオブジェクトである、ということを言います。これまではいずれかへの還元主義だったというのですね。さらに小さい原子のようなものであっても、色々な性質の集合体としてあるのだから被構成的でもあり、だんだん大きなものへとボトムアップしていく出発点であるわけでもなく、どんなものも内部と外部の両要素に還元されない中間的なものとしてあって、そうしたものが相互包摂しあって全体としての世界ができている、と考えるわけです。これはある意味でネットワーク的な世界観とも取れる思想だし、《一と多》という問題にも繋がる。仏教が考えてきた世界にすごく近いと思うんですよね。

僕は何年かごとのサイクルで、仏教のことしか考えられないくらいに仏教にのめりこんでいることがあって、特に道元やナーガールジュナは去年からずっと読んでいます。ブッダの思想はその断片しか伝わっていなくて、その一つが「離二辺の中道(不常不断)」で、要するに《ある》ということと《ない》ということのどちらにも世界を還元してはいけないという独特の考え方。もう一つはいわゆる「縁起」です。十二支縁起の思想が当時からあったらしいということしか分からない。初期の部派仏教のいろいろな哲学はそこから発達してきたわけですが、そのなかでさきほどお話しした排中律をいかに超えるか、二項対立のどちらにも還元されないかたちで排中律をどう超えるかという問題は、非常に大きかったんじゃないかと考えています。

例えば、ナーガールジュナがおもに批判している説一切有部(せついっさいうぶ)の時点で、もうそういう試みが出ていたのではないかというふうに思います。西洋のロジックで普通に判断をするという場合、「ソクラテスは人間である」といったように、述語の中に個別の主語が包摂されて、それが《判断》というふうにみなされますよね。このとき、人間の中にソクラテスが入ったら、ソクラテスは非人間であるというところには二度と行かない。これが排中律的なロジックです。さらに「ソクラテスは人間である」「人間は死ぬものである」という具合に、この論理は階層性を持つことにもなります。これに対して、実はインドの否定形というのはそういうロジックだけじゃないといわれている。《これは壺である》という場合の否定形と、《ここに壺がある》という場合の否定形は違うとインド人は考えるらしい。

師:
そうですね。絶対否定と相対否定みたいな言い方をしますけども。否定をすることによって何か別のことを肯定してしまうという否定のあり方と、単に否定しているだけで別のことを何も言っていない否定の仕方があるということですよね。

清水:
そうです。ここには二つの考え方があるんですよ。主語のほうに複数の性質を帰して、「それ(主語)にはこういう属性がある」という言い方をする哲学もあります。シェリングはむしろそういう考え方をしました。例えば、「二等辺三角形は三角形である」という場合、主語《二等辺三角形》が述語《三角形》に属するようなんだけれども、「等しい二辺からなる図形である」という言い方もでき、このときのグループには正四角形も正六角形もいっぱいあるかもしれない。こんなふうに主語が一つの述語に属していくだけじゃない、むしろ主語のほうにいろいろな性質が属しているという考え方もできるよ、ということを言う人はいるんです。

ここで重要なのは、要するに述語で「何かがある」というとき、それが主語に属するという考え方をされた場合には、排中律が適用されないということです。説一切有部の思想には「法有」というものがあります。彼らは《~がある》という、この《ありよう》を主語化するんです。主語化して、その中にこういう《ありよう》があるというかたちで、さまざまな現象が起こってくるとする。そうやって彼らは《ありよう》やはたらきの主体、原因として、排中律を超えたものの存在を見出していくわけです。こうして生まれた主体(主語)においてこそ《ありよう》はあるし、この主語は西洋的な論理学で扱われるもののように階層性もないから、否定判断の対象とすることもできない。そのような主語として思考され得たならあるとしか言えない。

そうしたものが彼らの言う「法有」だし、彼らはそれによってこの世界そのものを肯定しようとしたんじゃないかと思う。けれども、それに対してナーガールジュナによる述語、《ありよう》の主語化の批判というのが仏教にはあって、それを『中論※1』の第二章がどれくらいしつこくやっているかということを考えてみたんですよ。

彼は主語が二重になるとか、はたらき、つまり《ありよう》が二重になるとか変な言い方をするじゃないですか。あれは何を言っているかというと、例えば、《はたらきa》があって、それを《主語a》に主語化しちゃうわけですよ。主語化してしまうのは、それを原因とするということなんですけど、その後、今度は《主語a》をこれが最初からあったかのように持ってくるわけです。それを《主語a2》とします。そうすると、それが最初にあったかのようにしてここからはたらきが出てきたという説明がなされるわけです。これは実際には、《はたらきa2》ですね。ここは実は循環しているんですが、《主語a》と《主語a2》、《はたらきa》と《はたらきa2》は、ここで二重になっているんじゃないかという言い方をナーガールジュナはしているんですね。

はたらきから主語を作ったのに、主語からはたらきが出てきたというんだから、これは《はたらきa2》じゃないか。ここで主語とみなされたものにしても、行為主体2(主語2)みたいなものが実際には二重に出ている。この循環が嘘だということを彼はものすごくしつこく言っているわけなんですよ。この図で大体の構造が説明できるんですが、上の《主語a2》と《はたらきa2》は「~においてある」、という《含まれる構造》ですね。これに対して下の《主語a》と《はたらきa》は、「~によってある」構造。このはたらきによってこれはある、というもの。こうした循環が生まれることで、《~がある》の《~である》化、みたいなものが起こっている。

彼は、そう発想してしまうことの欺瞞を執拗に問うています。主語とはたらきの両極で、こっちの極を原因として立てて反対側を帰結する、また逆の極を原因として立てて反対側を帰結する、というのは、本当はここは循環になっているから言えてないんですよ。だからこれは虚偽だということをしつこく指摘し、はたらきから即、主語が言えてそれらが同じものだというのは間違いであると。それなら両者は個別に切り離されて存在していて違うのかと言ったら、それもおかしいだろうということで、《はたらきa》と《主語a》の間には不同不異の関係が成立する。上の《主語a2》から《はたらきa2》についても、やはり不同不異の関係が成立するということになる。これら一つ一つを『中論』の二章の何番目の偈で言っているかを全部言える。それをすごく簡単な図にするとこうなるわけです。

師:
そういうことですよね。そして、はたらきというのが二重化するのはおかしいという話になるわけですけど。

清水:
二重化というのが分かりにくくて、それを言いたいがために、《去るもの》がさらに《去る》のはおかしいとか、「不来不去」という言い方をしている。あれは逆説的な否定としては言いやすいんだけど議論の本質が分かりにくいです。

今述べた循環が嘘であるということで、実のところ彼が何を考えているかというと、この構造は「離二辺の中道」に抵触するわけですよ。テトラレンマに抵触する。《~がある》ものを主語にすることで、《~である》というかたちにしてしまっているんですよ、実際は。そうやって対立二項の両極に交互に原因を帰している還元主義なので、これは「離二辺の中道」に当てはまっていない。

結局のところ、《~がある》という出来事の次元をせっかくテトラレンマ的に全部活かそうと思ったのに、全部主語化してしまったことで、《~であるのでも、~でないのでもない》という、ブッダが最初に言ったテトラレンマに抵触してしまうので、これをどうするかというのがナーガールジュナの本題だったと思うんですね。縁起というものも、《aがあるから、bがある》、《bがあるから、cがある》と表現されるけど、実際には全部主語化されたものが連鎖しているわけですよね。この主語が一つ一つループであるということをまず認めないといけない。

また主語化した前件・後件といったもの同士で、前件があるから後件がある、と語られるものも、前件から見て後件もあり、後件から見て前件もある、というかたちで読み替えないと成り立たない、それら相互もループであるはずだということを彼は執拗に論証していく。だから『中論』では「~によってある」「~においてある」ということが、前件からも後件からも繰り返し否定されている。これらの可能性をすごく論理的に周到に全部つぶしていっていますよ。

ここで重要なのは、「~によってある」「~においてある」ということが前件・後件のどちらかから一方的に語られてはならず、相互的、しかも同時に相互包摂でないと成り立たないということ。このあたりを執拗に考えているのが、おそらく『中論』の二章だと思うんですね。そこから出てくるのが相依性という考え方 —— あらゆる《a》が《非a》によってあり、《非a》も《a》によってある。それゆえ《みずからの本質》といったものによってあるのではなく、無自性で《空》なるものだ——という思想ですね。

師:
今のお話で非常に印象的というか、そうだなと思うのは、ナーガールジュナの『中論』で書かれているこういう議論は、今までは「論理を超えた」ものであるという言い方がよくなされてきました。だから「空というのは言葉を超えている」というふうに言われているわけですけど、それを現代哲学の道具立ても含めて整理していくと、非常にロジカルにナーガールジュナが理論を組み立てているというのが清水さんの目からは見えるということですよね。

清水:
そう。だから何一つ無駄がないし、妙なことを言っているようなことを一つ一つ考えていくと、それを絶対言わなければいけない理由があるわけなんです。「何があるから何がある、何があるから何がある…」ということを非還元的にしていくためには、「~においてある」というものも主語になった極の話ではなくて、反対側の極のことでもない。「aでも非aでもない」、また「非aでもないしaでもない」ということが同時に両方言えるというかたちで、考えなければならない。

そうすると縁起と言っているものも、全部主語化されたもの同士の作用だと考えるだけでは駄目で、それらが「~である」化しているのを否定するためには、相互にこれがあってこれがあるということを言って、そこで主語化されたという契機もあった、ということも考えて、両極を同時に否定するロジックを作っていかないといけないんです。これは例えば鈴木大拙が、まさに排中律の成立しない仏教特有の超論理の典型として《般若即非の論理》ということを言うときに、「aはaではない。ゆえにaと名づく」と言っていますよね。あれは『金剛般若経※2』に延々と出てくるロジックですが。

師:
そうですね。『金剛般若経』は延々そればっかりですね。

清水:
その「名づく」というのが何かと言ったら、この主語化ということなんです。「名づく」ということ、いったん現象が主語化され、主語に帰されるという契機が必要で、しかしそれも原因の還元の一方的な対象としては置かれないし、対置される《非a》も置かれないというかたちが作られねばならない。これが大事なんです。この二極が、同じでも異なってもいないということの論証を、中観学派では《一異門破(いちいもんは)》と呼んでいますね。

師:
「一異門を破する」ですね。

清水:
三論宗の吉蔵などはこの論理をそう呼んでいます。《一》と《異なる》もの、《a》と《非a》がどっちから見ても不同不異だというのが一異門破です。これは徹底した論理で、一異門破はあらゆるものすべてに言えるわけですよ。はたらきが認識だとすると、認識主体というのがあって、こっちも主語化しているんですけど、それによって認識(所縁縁)がある。それらは別でもないし、同じでもなく、不同不異なんです。ただそれが一つのユニットとしてあった場合に、むしろメタ一異門破みたいなものがあるわけです。これが一つの環界(環境世界)みたいなものを作る。

認識主体と認識、主体と対象世界は、それぞれ相依性においてあるので、これらは二重三重になっていくんですよね。縁起っていうのは、主語化したもの《a》があるから、主語化したもの《b》があるみたいなものになっていたじゃないですか、実際には。それはミクロで見れば、《はたらきa》⇔《主語a》なんだけど、《主語a2》と《主語b2》もループなんですよ。《主語a2》⇔《主語b2》というふうに。そういうロジックが前提としてあって、さらにだんだん考えていくと、これは環界ができていくということなんです。主客の主体と客体があって、それらの相依性の重層が環界の形成でもあると。

主体がはたらきかけることによってできる世界があり、世界によって主体も作られるという関係が、こうしてだんだん発展していく。縁起の説というのは、拡張的に読んでいくと、本来はたらきと主語のループであったところがさらに重層して、一異門破になって、メタ一異門破みたいなものができて、メタメタ一異門破ができていく。そうしたものだと考えると、それは結局《一と多》の問題になっていく。相依性の重層から、《一》や《個》が《多》、もしくは《全体の世界》と不同不異である、《一即多》という世界観がだんだんできてくる。これは『法華経』の思想なども混じって、のちに仏教的に展開されるけれども、最初のロジックはナーガールジュナの一異門破の話なんですよ。《一》とか《個》としてのものが世界と相即的にあるというもので。ナーガールジュナが論理的必然性を探求しながら言っていたことから、何種類もの二項対立を一異門破で調停する論理が重なって出てくる。それが後年の大乗仏教のさまざまな切り口になっていくわけです。

そして、このとき環界とともに出てくるのがパースペクティヴというもの。世界の眺めそのもので、道元がまさに《山河》と呼んでいるものです。

師:
今の主客と環界の形成の話というのは、まさに『正法眼蔵』の「現成公案」とかで言っていることと、同じ話をしている感じですね。

清水:
同じ話なんですよ。だから、ここで「これとこれの主語化が」といった話をしていると、抽象的な話に聞こえるけれど、そこから考えていかないと実は道元は分からないんです。例えば、道元は、舟に目を留めていないで対象を直接見ていると岸が動くように見えるけれど、自分が乗っている舟に目を留めると、自分が動いているのが分かるというような言い方をするけれども※3、それは自分が身を置いている一つ一つの環界の小さいループを考えて、世界の側のより大きなループも考えなさいということです。そう考えたときに、個というもののテトラレンマ的な独立性や不生不滅性が出てくるわけです。

同じく「現成公案」で、道元はまた、薪が灰になる。その薪にも先があって後がある。灰にも先があって後がある。それらは一つ一つ「法位」にある。生と死もそのようなものだとも語っていますね。これはもっと小さいループがあって、それぞれが単に被包摂的なものではないんだ、ということです。インド仏教は、超論理どころかまさに完全な哲学ですよ。対立二項のどちらにも原因を還元しないということを重層的に考えるという。だから「~がある」とか「~である」とかということを徹底的に展開していくと、パースペクティヴの話になるんです。ここからがまさに道元の展開なんです。

師:
普通はナーガールジュナって実在論の反対の立場みたいなかたちで言われますよね。でも今のお話だと、現代哲学の「新しい実在論」や「モノの哲学」と言われているものに近いというのは、大変興味深いと思いました。

清水:
ハーマンのオブジェクトの話も、外部と内部のどっちにも還元しないからかえってある、一つのモノが際立ってくるというロジックですが、仏教だと「~においてある」という包摂のテーマも相互的に考えるので、それが《一と多》の問題としておもに展開されているわけです。実在やオブジェクトは、仏教では《どちらにも還元しない》ということが相依性という観点から扱われたおかげで、一見真逆な《空》というものとして考察されたんですが、実際には表裏一体なわけです。

師:
ちなみに、先ほどのパースペクティヴの話を、もうすこし詳しく説明してもらえませんか。

清水:
その話を徹底して展開しているのが、僕は日本仏教の特徴だと思うんです。道元が実際にそれをやっているということは、ここまでの議論から逆に見るとはっきりと分かるんです。さきほどの話のように舟があって、中に人がいて、岸という対象があるというとき、舟という対象と人という対象同士は身心依正、どちらも相互生成的にあり、しかもさらに岸=環境があるんだけれども、これらすべての要素を完全に相互包摂とみた場合には、例えば、岸のほうが包摂する側として一方的にあるということはないわけですよ。おのおのが包摂の軸になる。このとき《一》が即《全》であるというのは、例えば、鳥が空を飛んでいてその環界と一体になっているとき、その空じたいはさらにメタ空(そら)みたいなものとの関係のうちにあるんだけど、今度はその環界そのもののループとメタ環界とのループを考えた場合には、どこからどこへ飛んだかとかそういう位置づけられるという問題じゃないわけで。

師:
「現成公案」の後ろのほうの話、「鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきは(きわ)なし」ですよね。

清水:
そうです。そうしてこんなふうに舟と私というものに対して岸というものがあるというかたちを考えると、それらの間に相即関係があって、こちらに岸というものもあるという関係を考えると、このループが何重にもなって、《一》も際立つかもしれないけど、《全体の世界》である《山河》全体というのが肯定されてくるということになってくる。

師:
そうですね。《虚空》という言い方を道元はよくしてますね。

清水:
この《山河》全体は《個》(《一》)と相互生成ですから、ある意味でお前もそれをつくっているんだという軸足にもなるわけです。さらに言えば、この認識主体と舟という一番小さいところから、《全体の世界》とそれに対する《超越的認識者》みたいなもの、両方の考え方まで出てきて、古仏の眼睛(ブッダの眼)とか、道現成とかいう言い方をしますよね。「而今の山水は古仏の道現成である」という、端的な世界の肯定が出てくる。

師:
「山水経」ですね。

清水:
「山水経」ですよ。そして山河は全体として構成されるんだけれども、それがすべてを包摂しているだけでもないし、もろもろの複雑な環界が、さまざまに別様にあるということも道元は認めていて、それらが皆パースペクティヴであるとすると、例えば《水》を見るのに、鬼はこんなふうに見るし、龍魚は宮殿として見るし、瓔珞(ようらく)と見るものもあるとか、いろいろな言い方をする※4。皆それぞれの環界、それぞれのパースペクティヴを持ってこの世界を見て、その世界が軸足になって、また個々のものを照らし出しているということを、さんざん道元は言っている。

この言い方じたいはこれまで考察してきたことの完全にロジカルな展開だけれども、それを自然に対するヴィジョンとしても語るわけですが、これが今人類学で語られているところの多自然論とか、パースペクティヴィズムと完全に重なってくると思うんですよ。文化相対主義や多文化論を超えた、多自然論ということを21世紀の人類学は語り始めていますが、徹底して考えるとまさに世界はそのようなものとしてしか捉えられない。

師:
『中論』が非常にロジカルにミニマムなところから積み上げていくとすれば、それを自然とか環境世界とか世界とかそういうものにバッと拡張して適用していったのが道元であるという、そんな感じでしょうか。

清水:
それが道元だし、またここで《個人》も出してくるのがそもそも禅だったと思うんですよ。臨済禅でも《人》というのが出てきて、《赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人あり》とか《主人公》とか。だから主客の主の方もある意味ではバーンと出すし、オブジェクトも出すし、世界も出す。

師:
やっぱり道元がすごいなと思うのは、「人は歩くけど、山も歩く」とか平気で言うじゃないですか※5。あれがすごくでかいですよね。

清水:
山中に人がいるんですよね。舟が山になったとしましょう。山の中で人が歩いているんだけど、これは一見すると作用主体と作用対象なんですけど、「山」が何か大きな環界との関係の中でさらにやっぱり動いているんですよね※6。こう考えないとこの世界は成り立たないし、だからこの(山の)中にただいる人はそれが分からないし、外(大きな環界)の側にただいるという人も分からない。このとき「外にいますよ」という立場で見ている人は、単世界論的な人です。人類学者の岩田慶治さんから見た大昔の博物学者フンボルトみたいなもの。

こっちは「山」の外の人で、こっちは「山」の内の人だとすると、それらの単にどちらであってもいけないというのが、「青山常運歩(せいざんじょううんぽ)」の話でしたね。そんなふうに一つ一つ考えると、それに続けて出てくる「石女夜生児(せきじょやしょうじ)」は何だろうとかね。児を生まない女が夜に児を生む。生まれることと生むこと、夜って何だろうとかね。児が生まれるから親ができる※7。それらが同時にできるということを考えろとも道元は言っているんですよ。

これはだから原因とか、元になったものと、後になったものの相互成立をめぐる謎かけであって、石女夜生児というのは、おそらく自分自身を生むのかなと。相依性のループは、なによりミニマムで単独的なものでもある。まずそれを見ろということなんですよ。闇の中で。誕生と闇の強烈なコントラストがそこに同時に浮かび上がってくる。

師:
さっきもちょっと言ったんですけど、『中論』がある意味言語を超えたものであると理解されるように、道元もこういうものは体感すべきものなんだという感じで理解されてきたと思うんですね。それがこういう綿密な、それこそ哲学的な思惟として構築されているというのは非常に面白いし、仏教学をやっている人間としても学びが多いと思いました。

清水:
しつこく『中論』や吉蔵を考えないで道元をパッと読んでも、何を言っているのかと思うだろうけど、六割ぐらい彼らの理論を考察することに力を注いで、四割ぐらいで道元を読むと言っていることが分かるし、そこで語られる世界が古来の日本人や、非ヨーロッパ圏のさまざまな人たちの世界観とも地続きなのが感じられてくる。そのあたりが印象的です。

師:
『中論』は、今の第二章などもかなり短いじゃないですか。『正法眼蔵』七五巻とかと比べたら。『正法眼蔵』があれほど執拗に、自然だの海だの舟だのということについて、ひたすら言葉を重ねていこうとしたのは何故なんでしょうね。

清水:
僕はあえて主語化をしようとしていると思うんです。表現ということで。不立文字とか言いながら、襟首掴んで「言え言え」とか言い合っているじゃないですか、禅の人って。「祖師西来意」《達磨はなぜ中国まで来たのか》を、樹の枝を口にくわえてぶら下がっている人に言え、とか訳の分からないやり取りまであって※8。「言う」ということ、一回表現して主題化するというモーメントがなくてはならなくて、しかもそれがまた「aがないから、非aがない」というふうに、還滅門(げんめつもん)的に捉えられたときに始めて《一》にして《全》なる世界が現成してくるという構造があるんですよ。道元ではそうした構造はかなり普遍的で、主客の話も、鏡の話になったりするでしょう?

師:
「古鏡※9」ですね。

清水:
認識主体としての心とか、眼とか、それが眺める対象としての古鏡といったものが「古鏡」では語られていますね。この古鏡にそれらが映っているというのも、相依性のループであり相互生成、フランス現代思想でいう鏡像段階みたいなものですよ。これが一つの一異門破です。しかしそれに対して、メタ一異門破の論理がすぐに始まるわけですよ。

それは何かと言ったら、この古鏡は《彼》と《我》、全部映すんだという話になる。そうすると別のものも出てきて、漢人(中国人)が来たら漢人が映るし、胡人(西域人)が来たら胡人が映るということが言われる。これは《全体の世界》に対するパースペクティヴが幾つもあるという話と同じです。そして鏡そのものが来たらどうするんだという問いかけがなされると、「木端微塵にする」(百雑砕)と言うんですよね。これは端的に対象世界を見ようと思ったら、メタ一異門破で、《一と多》の問題にいかないといけないということですね。

師:
さっきチラッと言っていた、還滅門的にという話ですね。

清水:
そもそも初期仏教から言われている十二支縁起は、「~があるから、~がある」というかたちで列挙していって、「無明」から「老死」にいたる苦の世界がいかに生まれていくかを説くものです。この流れを《順観》というんですが、これには《逆観》(還滅門)というものがワンセットであるんです。つまり「~がないから、~がない」というふうに十二支を逆に辿ることで、苦の世界が寂滅していく。

ところでテトラレンマの考え方は、「~でなく、~でないわけでもない」というかたちで、単純に「~である」ことを退けていますから、「~」にまた主語を安易に入れて話を蒸し返すのは無意味なんです。ナーガールジュナも『中論』でそうした議論を全部否定している。テトラレンマは一部の絞った命題についてしか言えない。『中論』では四種類に厳選されています(八不)。

これに対し、「~がある」の世界はもともと本当に多様なものです。説一切有部はいちいちそれらを主語化しましたが、あらゆるものにその世界を拡張し、しかもそれで排中律を超えようとしたんですね。縁起という思想は、そこではよく分からなくなった。しかしそもそも縁起の還滅門というのは、「aがないなら、b(非a)がない」ですけど、彼らがやった主語化を踏まえるなら、「(原因が)aでなく、非aでない」ということなんですよ。「~である」化しているわけですから。またここでは両極に相依性が成立しているので、それはもうテトラレンマの最終形態(第四レンマ)なんです。

これはもはや《主語a》がなんであるかという議論ではなくて、メタレヴェルの構造についての洞察ですから、還滅門を通じれば、あらゆる「~がある」について、テトラレンマが適用されると。第四レンマの典型は不生不滅とかそういうものと同じなので、例えば先に述べた「薪が灰になる」ということも、その変化や滅びやうつろいの中で、それぞれが第四レンマ的であることになる。もちろん生も死もそういうふうに考えられていて、生から死への移り行きがあるんだけど、それらの中にもミニマムな前と後があり、そのうつろい、移り行きがあって、それらじたいがテトラレンマ的に、その「法位」のうちにある。

有名な道元の「有時」も、「松も時なり、竹も時なり」と言うけれども、これは全部ミニマムに「時」だということなんですよ。その移り行きがあって、しかもそれが入れ子に重層化していて。色んな道元の不思議なロジック、例えば「画に描いた餅は食べられない」という話にしても※10、それをお題にして道元がひたすら何を言うかというと、画に描いた餅が対象としてあるかということではなく、画の餅をどう作って、描いていくのに何を用いたかということです。要するに、動作主体がオブジェクトをどう作るかという話に置き換えるんですね。それによって、対象がただ漠然と外にあるわけじゃないんだという話にしてしまう。この主体が対象世界を「作る」ということも、何かを表現したり言ったりすることがモーメントとして大事なように、きわめて大事なことなんです。

岩田慶治さんは、「道元は世界をつぶつぶと画に描いていくみたいに正法眼蔵を書いている」と言っているけれど、そんなふうに森羅万象を表現世界にもう一回裏返して、しかもそれは還滅門の世界でもあり、だからこそかえって不生不滅の世界でもあるんだということを、道元は語っていますね。

師:
仏教的な考え方からすると、こういう道元の理論にせよナーガールジュナにせよ、やはり悟りとか解脱とか、そういうものが目標としてあるわけですけど、清水さんの哲学が何を目指しておられるのかというのを、今聞いて考えていました。

仏教としては、皆で悟ろうということがあるんですが、さっきのお話のように表現者としての道元というものもある。清水さんの哲学も道元のように世界を表現していくというか、そういった方面への関心があるということなんでしょうか。

清水:
それはありますね。世界が表現しているものが「古仏の道現成」であるなら、悟ること、あるいは悟られたものとしての世界をどう見ていくかが問題であり、そうしたものの多様な表現の意味を解き、理解していきたいというのがあるんですね。晩年の西田幾多郎は、「自分の哲学は創造的モナドロジーだ」と言っていた。僕は若いころからまさにそれに共感していたんです。《一と多》が相即的であるとか、そういうことをただの概念で終わらせるのではなく、創造の極点に個々の人間がならないといけない。

創造というのは、世界の創造ですよ。世界制作の極点にある意味でいなければならなくて、それが自由ということでもあると思うんです。仏教で自由というものが感じられ、苦の繋縛から解き放たれるということがあるなら、まさにそうしたものだろうと。

逆に哲学の側から、近代思想の価値観をそのまま背負って、社会制度の中での自由ということを語っても、少なくとも僕は本質的に自由になった気がしない。人間的自由を超えた「モア・ザン・ヒューマン」な自由を求めること。それがこれからの文明の大きな課題でもあるというふうに僕は思っています。


「More-Than-Human」特設サイト「More-Than-Human」特設サイト

江川あゆみ:
「エコクリティシズム」と呼ばれる文学研究の、日本における牽引者のお一人である結城正美さんに、エコクリティシズムとは何か、また日本でのエコクリティシズムの状況、ご自身の研究について伺っていきたいと思います。

まずは、エコクリティシズムがどのような文学研究か。それが成立した背景や、これまでどんな展開を見せてきたのかをお聞かせください。

結城正美:
包括的に言えば、「エコクリティシズム」は人間と環境との関係をめぐる文学研究です。研究が組織的に始まったのは1990年前後です。1960~70年代に、それまでの白人男性作家中心の文学研究が見直され、人種やジェンダーの問題に目が向けられる修正主義的な動きがありました。そして、環境の時代が世界的に幕を開けた1970年代から、今エコクリティシズムと言われているような研究が個人レベルでは存在しはじめていました。しかし、個人レベルでは相互参照は難しく、学会がなければ共同研究や研究交流もなかなかできません。

エコクリティシズムはいくつかの変化を経てきました。これは波のメタファーで語られることが多く、「第一波」からはじまって、現在を「第四波」だと言う人もいます。最初期の第一波では、人間と環境の関係と言うとき、環境という言葉は主に自然環境、とくに野生の環境を指していました。研究者も白人研究者が中心でした。

その後、エコクリティシズムの内部から、自然環境に焦点を当てることを批判的にとらえる動きが出てきます。社会環境を視野に入れて、人種やジェンダーの問題も環境問題に結びついているという認識が共有されていきました。それとともに、研究者も人種やジェンダーの点で多様化し、国や地域も脱アメリカ中心的な広がりをみせます。なので、エコクリティシズムは非常に多様化している文学研究だと言えるでしょう。

エコクリティシズムには、文学研究における「キャノン(正典)」の問題も含まれています。文学研究と言うと小説が批評の対象に据えられることが多い。しかし、エコクリティシズムでは英語でいう“literature”(書かれたもの一般)が批評対象である点が大きな特徴です。

初期の頃に注目されたのは、「ネイチャーライティング」と呼ばれる自然環境についての一人称ノンフィクションエッセイでした。ノンフィクションエッセイは、文学研究でほとんど取り上げられてこなかったのですが、エコクリティシズムでは一人称ノンフィクションエッセイにこそ、人と環境との関係をめぐる深い思索が織り込まれていると考えられてきました。ほかにも、映画や漫画、アニメなどの文学表象に関わるものまで、広くエコクリティシズムの検討題材になっています。

私が今お話ししていることのほとんどは、この文学研究を組織的に生んだ研究者の一人であるシェリル・グロトフェルティの共編著“The Ecocriticism Reader※1”のイントロダクションに書かれています。彼女は、エコクリティシズムの特徴として、“open and suggestive”であることを挙げています。端的に言えば、間口が広い、ということです。そのため、エコクリティシズムという言葉自体に縛りがあるとして、「文学・環境」(literature and the environment)と言われることもあります。

オープンであることは、他分野との関連を重視する姿勢を含んでいますので、学際的なアプローチをとることもエコクリティシズムの特徴です。また、オープンであるとは、研究者だけで議論するのではないという意識の現れです。環境の問題に関わるわけですから、研究者以外の幅広い層の人たちと交流することが重要になる。一方、それが裏目に出て、文学批評理論として洗練されていないという批判が、エコクリティシズム内部からあったのも事実です。

21世紀に入り、国や地域を超えたトランスナショナルな視点が出てきました。人種問題が環境問題に関わっていると認識した上で、人種を超えて共通する問題に目を向ける研究が見られるようになりました。国や地域を超えたグローバルな地球環境問題への関心の高まりと、軌を一にしていると思います。

エコクリティシズムや「環境人文学」(Environmental Humanities)で醸成されている概念や切り口が持つ可能性として、私は、従来論じられていたことを新たにとらえ直して議論を活性化するはたらきに注目しています。

たとえば、奥野克巳さんを中心に日本で進められているマルチスピーシーズ研究。「マルチスピーシーズ」は、日本の環境文学の代表的作家である石牟礼道子さんの作品を論じる際にも「使える」概念だと思います。石牟礼作品では、人間とノンヒューマンの存在の交流が描かれています。

石牟礼作品はこれまで「アニミズム」や「共生」、あるいは水俣病の問題では「共苦」といった概念で、文学だけではなく社会学など多分野で議論されてきました。同時に、そうした議論は前近代を理想化していると批判する向きがあります。しかし、これらを「マルチスピーシーズ」という枠組みでとらえ直すと、批評的距離が生まれます。対話のプラットフォームが開けてくるのです。「共生」として語られてきた石牟礼作品のある一面を「マルチスピーシーズ」の見地から語ることで、より広い分野や世代の人たちと話ができる印象があります。

この「マルチスピーシーズ」という概念が提起する問題について、すこしお話をさせてください。まだ勉強中ですが、「マルチスピーシーズ」というのは「種」という概念自体を問い直す動きであると理解しています。

「人新世」(the Anthropocene)の問題は、現在エコクリティシズムでも環境人文学でも議論されています。その根底にあるのは、人類というとき「この人類とは誰のことか」(Who is this “we”?)という問いです。歴史家のディペシュ・チャクラバルティが言っていますが、現代に生きているわたしたちは、これまで一度も人間を「種」ととらえてきたことはないのではないか。人新世を「種」としての人間が“geological force”(地質学的に強い存在)になった時代ととらえるシナリオに対して、マルチスピーシーズ研究がどう切り込んでいくのか関心があります。

人間を「ひとつの種」として見るという問題を考えるとき、やはり石牟礼道子を参照したくなるんです。石牟礼作品には虐げられている人々が多く描かれます。社会的に差別を受けている人々、たとえば水俣病患者であったり、狂人だと思われている人は、他者を同じ人間として見ているところがあります。少なくとも石牟礼作品ではそう描かれています。

たとえば、水俣病患者がチッソ※2の社長に「同じ人間として自分たちのことを考えてもらいたい」とか、「同じ人間としてこの苦しみを一緒に考えてもらいたい」と言います。同じ人間としてチッソの社長や役員と向き合っているわけです。ですが、チッソの社長たちは彼らを人間扱いしていなかった。だから、平気で有毒物質を垂れ流していたわけです。被差別者が他者と「同じ人間」として向き合うとき、そこには「ひとつの種」と言える広い人間のとらえ方がある。そして石牟礼の描くそういう人々の世界には、蛸や狐や馬酔木との交流があり、マルチスピーシーズの関係が描かれている。

ですから、科学的な「種」の再考を含めて、人間をひとつの種としてとらえることを学ぶ上でも、石牟礼作品は示唆的だと思います。人類が“geological force”となった人新世の議論をするときに、自分たちが「ひとつの種であるとはどういうことなのか」という問題についても考えなくてはいけない。そのときにエコクリティシズムが重要な役割を果たすと思っています。

§

江川:
結城さんご自身がエコクリティシズムを始めたきっかけはどういったものなのでしょうか。

結城:
私はもともと田舎の育ちです。川や原っぱ、山など、自然豊かなところで毎日遊んでいました。今思えば、非常に恵まれた子ども時代だったと思います。家のぐるりに小魚が泳ぐ小川があって、祖母はそこで洗濯をしていたし、母は鍋を洗っていた。小川といっても生活に必要な水を引く用水路ですが、側面に苔が生え、タニシがくっついているような、本当に楽しい小川でした。家の敷地内を流れるその小川で、裸になって遊んでいました。

ですが、小学高学年の頃に、そこがコンクリートで三面張りにされてしまいました。小魚は姿を消し、時期になると湧いて出ていたホタルもいなくなりました。それには衝撃を受けましたし、怒りも感じました。なんでこんなことをするんだと。小学生の私は、建設会社が工事する現場を見ていて、言葉にならないモヤモヤしたものを感じていました。しかし、どうすることもできず、とくに行動を起こすわけでもなく、そのモヤモヤをずっと抱えることになりました。

大学に入り、師匠である野田研一さんの授業がきっかけで、アメリカ文学を専攻するようになり、修士課程に進みました。修士論文を書いているとき、シェリル・グロトフェルティと共にエコクリティシズムの生みの親の一人である、スコット・スロヴィックの集中講義がありました。そこで環境文学作品をたくさん読んで衝撃を受けました。「これも文学なのか」と、私の文学観が音を立てて崩れました。

でも、それらを読みながら、幼少期に感じた「なんできれいな小川をこんな風にするんだろう」というモヤモヤにつながったんです。そして気づいたらこの道に入っていました。ですから、自分の経験と学問としてのエコクリティシズムは分離していない。後付けかもしれませんが、分離していないところに魅力を感じたのかもしれません。

エコクリティックには、プライベートな生活と研究者としての自分を分けていない人が少なくありません。環境の問題は人間の問題であり、ローカルであると同時にグローバルであり、パーソナルなものとプロフェッショナルなものが絡み合っている。そのスタンスに惹かれて、気づいたらそっちに進んでいたという感じです。

§

江川:
結城さんは博士論文をサウンドスケープについて書かれ、そこから関心が多岐に広がっていかれたように思います。もし関心が広がるきっかけになった人や作品との出会い、あるいはご経験などがあれば、お聞かせください。

結城:
最初にサウンドスケープやアコースティックエコロジーに関心を持ったのは、修士課程でランドスケープについて学んだことと関係していると思います。指導教授の野田研一さんが「文学におけるランドスケープ」の問題を専門としていて、風景論についての講義を受けてきたからです。そのときに「なぜ見ることばかりなんだろう」と疑問に思ったのが出発点かもしれません。視覚中心主義は差別の問題とも関わります。ですので、視覚とは別の感覚経験から文学研究ができないかと考えていたように思います。

ちょうどその頃、テリー・テンペスト・ウィリアムスという作家の作品を読んでいたことも聴覚的経験に関心を持った理由だと思います。この作家は先住民文化に造詣が深く、彼女の作品を読みながら、先住民の口承文化や、「耳を傾ける」という心構えや態度に、非常に関心を持ちました。また留学先のネヴァダには先住民が多く、アジア系の私は親近感を持ってもらえたのか、部族の集まりにも参加させてもらえました。先住民文化に関心を持ち、そういう出会いもあって、サウンドスケープの問題に行き着いたように思います。

日本に帰ってきてからは、アメリカの環境文学ばかり研究していても、なんだか机上の空論という感じがしたんです。環境の問題はローカルな問題でもありますから、日本のことにも目を向けないといけないんじゃないかと思ったわけです。そこから、日本文学とアメリカ文学とを比較研究的に見るスタンスにシフトしていきました。それで石牟礼道子や森崎和江の作品を研究するようになりました。

§

江川:
結城さんはデイヴィッド・エイブラムの『感応の呪文※3』(原題 “The Spell of the Sensuous”)を翻訳出版されています。訳者あとがきでは、この本が“more-than-human”(人間以上)という言葉を学術的に用いた最初の著作だと書かれていましたが、この“more-than-human”という概念についてお話しいただけますか。

結城:
“more-than-human”は、おそらくマルチスピーシーズと非常に近い概念、インターチェンジャブルに使えるものだと思います。とはいえ、まったく同じではありません。マルチスピーシーズでは、種という概念の見直しも含めて、人間もひとつの種と考えることが根底にあります。“more-than-human”は、人間がいて、しかし人間だけではなく、それ以上の存在がいるということでしょうか。指しているのはそれほど違わないのですが、開かれ方がすこし違うイメージだと思います。

『感応の呪文』の章のひとつは、1998年に出版された『緑の文学批評※4』という、エコクリティシズムの主要論文のアンソロジーに入っています。私はこの翻訳を担当し、非常に優れた研究書だと感じていました。そのうちいろんな人の書くものに“more-than-human”という言葉が出てきたのですが、ほとんどエイブラムへの言及がない。それほど一般的な用語として流通しはじめたということです。

しかし、日本ではまだほとんど使われていませんでした。なぜ日本で“more-than-human”という概念が使われないのか考えたとき、エイブラムの翻訳がないからだと気づいたんです。重要な概念は、研究書が翻訳されているから広く使われるわけなので、これは自分で翻訳しようと思いました。

『感応の呪文』は、エコクリティシズムの「ナラティブ・スカラシップ」に相似したスタイルで書かれているのが、面白いところです。ナラティブ・スカラシップとは、従来の学術スタイルとは異なり、作品に描かれている場所に研究者が身をおき、文学テクストとそのテクストに影響を与えている場所というふたつのフィールドで分析をおこない、そのときの経験や思考の揺れをテクスト分析に織り込む研究手法です。ですから、そこにはパーソナルな思索が含まれています。

ナラティブ・スカラシップは、現在ではエコクリティシズムで一般的になりつつありますが、『感応の呪文』が出版された1996年当時はめずらしかった。この本は、エイブラムが博士論文を発展させたものだと思いますが、博士論文は学術的に書くことが求められています。しかし、その後に発展された『感応の呪文』を読むと、執筆スタイルがかなり工夫されていることがわかります。

まずイントロダクションが、学術的なイントロダクションとナラティブ・スカラシップ的なパーソナルなイントロダクションに分かれています。各章も学術的な章とパーソナルな章が交互に配置してあります。学術的に書こうとすると漏れてしまう思索の部分を取り込もうとしている。その試み自体が“more-than-human”への接近に必要な手続きだったのでしょう。従来の学術的方法では、おそらく“more-than-human”に接近することができない。つまり、あの本のスタイル自体が“more-than-human”なるものへのアプローチを示すひとつのかたちなのだろうと思います。

日本だと、管啓次郎さんの論考は初期の頃からナラティブ・スカラシップですね。

§

江川:
結城さんは今まで単著を2冊出版されていますが、2冊目の『他火のほうへ※5』では、食や汚染に関する論考と作家のインタビューが並べられています。その構成は、食を描いた文学テクストとの対話と、そのテクストを生み出した作家の身体的環境との対話を重視したものだと書かれていますね。ここには“academic”の言葉の語義とされる「研究のことばかり考えて外の世界を忘れてしまう」研究スタンスではなく、研究者による批評的モノローグにならないよう、他者に対して開かれた研究者の姿があるように思います。

対象へ身体的に参与していくこうした批評のスタンスから、文学から見た食の問題、汚染の問題、核・原発の問題へのアプローチなど、これまで取り組んでこられたことについてお聞かせいただけますか。

結城:
食の問題と汚染の問題はつながっています。これもきっかけは石牟礼文学でした。とくに『苦海浄土※6』の「水俣病わかめといえど春の味覚」という、忘れがたいフレーズ。なぜ有機水銀で汚染されているとわかっているのに、あの人たちはわかめを食べたのかと、不思議で不思議で仕方がなかった。その疑問が食と汚染の問題への関心につながりました。

食と汚染に関する議論では、食の安全性やリスクに焦点が当てられますが、水俣病わかめの問題は、それからことごとく外れます。社会的に非常に影響が大きく、読み手の心を揺さぶる石牟礼さんの文学世界に描かれている「水俣病わかめといえど春の味覚」というのは、どういう食の風景なんだろうと思い、食と汚染について考え始めました。これが私の食をめぐるエコクリティシズムの原点です。

汚染への関心はそこからさらに膨らんで、今取り組んでいるのは放射性物質による汚染の問題です。これには文学研究だけでなく、対話活動からもアプローチしています。エコクリティシズムの研究者の間では、「エコクリティシズムとは何か」(What is ecocriticism?)だけでなく、「エコクリティシズムは何をするのか」(What does ecocriticism do?)ということが、初期の頃から問われています。いろいろなタイプのエコクリティックがいますが、私自身は“doing”の方にいく傾向がある。専門として文学研究に従事していますが、それが行動につながるような機会には積極的に参加してきました。

そのひとつが高レベル放射性廃棄物の地層処分の問題です。高レベル放射性廃棄物は地上に貯蔵しておくわけにいかない。テロなどで狙われると大変なことになります。今すぐにでも処理しなくてはいけない。地下500メートルくらいのところに安全な形で隔離する地層処分が国の方針として選択されましたが、場所の選定は進んでいません。埋める場所を決める上で多くの人との対話が必要ですが、その対話が成り立たない。

高レベル放射性廃棄物は「原発のごみ」とも言われます。地層処分は、原発の問題ではなく、ごみの問題なのですが、やはり原発と関わるために、賛成・反対という対立軸が持ち込まれます。対立の場になってしまうと、当然ながら対話は進まない。でも地層処分をめぐる対話は絶対に必要なので、今はこの対話活動に関わっています。

この対話活動の一環として、2019年の秋に福井県鯖江市で開催された、原発のごみを考えるシンポジウムに参加しました。福井は原発銀座と呼ばれるほど原発が集中しています。ですから、登壇者はみんな結構ピリピリしていて、そのパネラーの一人がNUMO(原子力発電環境整備機構)という地層処分を進める組織の方でした。

NUMOの方たちは、日本各地で地層処分に関する対話型説明会をおこなっています。「非常に安全な技術で埋めますから、どうぞご安心ください」と説得するスタンスです。司会は作家の田口ランディさん。私はランディさんと一緒に何度か対話活動に参加していますが、彼女は分かりやすい言葉で重要なことをお話しになるので適任でした。そして、私は文学研究でこういった問題に関わる立場から、パネラーの一人として参加していました。

そのときに、上品に話をしても対話にならないと思ったので、私がすこし誘導尋問みたいなことをしたんです。「ウランの身になって考える」ということを説明するために、アメリカのネイチャーライターであるアルド・レオポルドの“Thinking Like a Mountain※7”(山の身になって考える)というエッセイを引き合いに出したんですね。このエッセイは、生態系という大局的な見地に立ったときに、人間のおこないがどう見えてくるかということを主題にしています。

それで私は「原発のごみを安全な形で埋めるといっても、埋められるウランの残りかすにしてみれば、人間のために徹底的に搾り取られた後に、ごみとして埋められるって、やってられないんじゃないですか」と言いました。驚いたことに、そうするとNUMOの方が「自分がウランだったら、これだけ人間に貢献したのにごみとして捨てられるって、ふざけんじゃねーって言いたい」って答えたんです。そのときに初めて、NUMOの方と通じ合った感触を得ました。対話の場が開けるかもしれないと感じたんです。

地層処分の対話の場をつくるのに、文学が有効な手段になりうると思いました。批判的な物言いだと喧嘩になってしまうので、文学を媒介に「こういうふうに語っているエッセイがあります」と言ってみる。対話を進めるためのコモングラウンドを形成するときに、文学が果たす役割は小さくないと思いました。このように、今はエコクリティックという立場で作品分析をしながら、そこで培ってきた考え方をアクチュアルな問題につなげることを試みています。

§

江川:
最後に「環境人文学」についても聞かせてください。環境人文学は21世紀に入ってから始まった人文・社会科学分野の協働の動きで、環境をめぐる文化的・哲学的枠組みを学際的アプローチから探ろうとするものですが、結城さんも里山についての協働的研究を実践され、その成果を共編著『里山という物語※8』として出版されています。この取り組みについても聞かせください。

結城:
『里山という物語』は、歴史学者の黒田智さんとの共編著書で、他の分野の研究者にも関わっていただきました。環境人文学という協働の取り組みはオーストラリア、北欧、北米でかなり盛んですが、それぞれ地域ごとに特定のトピックで議論されています。たとえば、オーストラリアでしたら先住民アボリジニの問題がかなりフォーカスされていますし、北欧ですと寒冷地特有の問題と気候変動、北米でもロサンゼルスならアーバンネイチャーなど、その地域特有の環境に関わるトピックが扱われています。

当時勤務していた金沢大学は、キャンパスが里山にあり、里山研究も活発でしたので、この問題は金沢でやるべきだろうと問題意識を共有する研究者が集まって取り組みました。共生のシナリオだけで進んでしまうのは危険だという共通認識があり、里山を言説や歴史の観点からきちんと分析をしなければと考えたのです。その成果をまとめたのが『里山という物語』です。

環境人文学は研究分野ではなくプラットフォームです。問題意識を共有する研究者が集まって協働しながら研究を深めていく場なので、問題意識が共有されていないと成り立ちません。専門知を深めて共有することと、実際に起きている問題への理解が、協働には必要です。

そこでいう問題はローカルなものもあれば、グローバルな気候変動や、先ほどお話しした放射性廃棄物の地層処分のような問題もあるわけですが、里山は金沢という場所にあったテーマでした。いずれも、アクチュアルな問題に向けた研究であり、対話のコモングラウンドを探る環境人文学的プロジェクトなのです。

§

江川:
文学的想像力を対話の場に用いていくということですね。それは文学的想像力が社会に対してなにができるかという問いへのひとつの答えかもしれません。本日は大変興味深い話をお聞かせいただき、ありがとうございました。


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Oddly Satisfying Videoとは何か

ここ数年、ネットで密かに増殖をし続けているOddly Satisfying Video(あるいはSatisfying Video)と呼ばれる映像群をご存知だろうか。この名前に聞き馴染みがなくても、Oddly Satisfyingな映像は度々目にしたことがあるかもしれない。Oddly Satisfying Videoとは、オンラインビデオのジャンル名のようなもので、「視聴者が心地よいと感じる出来事や特定のアクション」をドキュメントしたスタイルのもの。Wikipediaによれば、典型的な例として「木や泡、スライムといった素材を削ったり、溶かしたり、塗り付けたりするもの」「ドミノ倒し/Rube Goldberg Machine(いわゆるピタゴラ装置)」「手品/隠し芸的なもの」などがあげられている。「なぜかうっとり眺めてしまう動画」あるいは「不思議なよさがある動画」というのが、ニュアンスが近い翻訳になるだろうか。

Oddly satisfying videos are a genre of internet video clips that portray repetitive events or actions that viewers find satisfying. Typical subjects include materials (wood, foam, etc., and in particular slime) being manipulated (carved, smoothed, dissolved, etc.), domino shows, or parlor tricks.
Wikipedia: Oddly satisfying videos※1

以下はOddly Satisfying Videoの一例である。(YouTubeやInstagram※2で「Satisfying Video」などで検索すれば嫌というほど同じような動画を見ることができる)

YouTube: Satisfying Videos of Workers Doing Their Job Perfectly (2019)

YouTube: Oddly Satisfying Magnetic Balls | Magnetic Games (2017)

YouTube: Hydraulic Press | 9 Different Balls (2016)

YouTube: Oddly Satisfying & Relaxing Video to Help You Feel Calm (2020)

インターネット・ミームに特化した百科事典サイト、Know Your MemeのOddly Satisfyingの項目によれば、この奇妙な動画群がインターネット上で広がりはじめたのは、およそ10年前からと言われている※3。2013年にRedditで、「不思議なよさがある動画/画像」を投稿し合うOddly Satisfyingというサブレディット(いわゆる板)が立ち上がって以降、じわじわとそのポピュラリティが広がり、2020年4月時点では、420万人以上もの人々がこのサブレディットを購読している※4

また、Know Your Memeでは、Oddly Satisfying Videoから派生した、あるいは関係があるジャンルとして、物が偶然ぴったりとはまる場面を集めたPerfect Fit※5や、様々なものを縦横にキッチリと整列させて並べたものを俯瞰で撮影した写真をあつめたKnolling※6※7、水圧洗浄機の使用前・使用後を眺めるPower Washing Porn※8、また昨今日本でも認知度が上がりつつある、ゾワゾワとした感覚を味わう「トリガー」を共有し合うASMR(Autonomous Sensory Meridian Response※9)などを紹介している。

インターネットが炙り出す「非言語の感覚が規定するジャンル」

これらは一体何なのだろう?どの映像もひたすらぼんやり眺めてしまう不思議な魅力を持っているが、その魅力が何なのか、うまく説明するのが難しい。2018年、WIREDイギリス版ではOddly Satisfying Videoを紹介する記事の中で、この奇妙なムーブメントについて、YouTube動画トレンド分析の総責任者であり、YouTubeにおける動画文化を語った“Videocracy”(邦題『YouTubeの時代 動画は世界をどう変えるか※10』)の著者であるKevin Alloccaの考察を紹介している。

I think we’ve always had a desire to watch these type of things, but we just didn’t have a language for it. Now we do.
Kevin Allocca “The odd psychology behind oddly satisfying slime videos”※11

おそらく我々は元来こうしたタイプの動画を見たいという願望を持っていたのだけど、ただそれに名前がなかっただけなのです。(著者翻訳)

つまり、Oddly Satisfying Videoは新たに「発明」された映像形式ではなく、名前のない不思議な感覚に共感する人たちがインターネットによって顕在化したことによって「発見」された映像ジャンルであり、それまで視聴者がなんとなく共有していた「こういうタイプの映像」の非言語な感覚、いわば「よさ」に「Oddly Satisfying」という名前がついたことで、共感しやすくなり爆発的に広がったというわけだ。

このように、インターネットによって「発見」された事象というのは、実はOddly Satisfying Video以外にも多くの事例がある。例えば、RedditではOddly Satisfyingと近接するジャンルとして扱われているASMR※12も、Oddly Satisfying同様に、キーボードのタイピング音や、指でものをタップする音、ハサミの音、あるいはボブ・ロス(「ボブの絵画教室」の、あのひげのおじさんだ)のボソボソとした話し声といった特定の音に独特の心地よさを感じていた人たちがいたものが、「ASMR」という名前が付いたことで爆発的に広がった。

また、通称「蓮コラ※13」とともにネットで話題になった、小さな穴や斑点などの集合体に対する恐怖症の名称とされる、トライポフォビア※14という言葉があるが、これは実は正式な医学用語ではなく、小さな穴や斑点などの集合体が写った写真に同様の嫌悪感を感じる人々がいることからネット上で命名されたものであった※15。これもOddly SatisfyingやASMRと同様に、「ネットによって炙り出された恐怖症」と言えるだろう。

「Goods(よさ)」へのまなざし

Oddly Satisfying Videoが新たに発明されたジャンルではなく、発見された〜炙り出されたジャンルなのだとすれば、Oddly Satisfyingという言葉が生まれる前からOddly Satisfyingな要素を持った映像を制作している作家がいたはずである。

YouTube: Ralph Steiner “Mechanical Principles” (1933)

これは1933年にアメリカの写真家、Ralph Steinerによって撮影されたドキュメンタリー作品。ストレートフォトグラフィーの視点から歯車の動きなどをグラフィカルに切り取っている。工場の機械が淡々と物を製造する様子は、現代のOddly Satisfying Videoの中でもポピュラーなジャンルの一つだ。

YouTube: Charles & Ray Eames “BlackTop” (1952)

学校の校庭に清掃員が水をまいているのを見てその場で撮影したという、家具のデザインで知られるCharles & Ray Eamesの1952年の作品。洗剤で泡立つ水、乾いたアスファルトが湿って色が変わっていく様子などOddly Staisfyingな瞬間に溢れている。水の振る舞いをグラフィカルに捉えていく手法は先に紹介したRalph Steinerの1929年の作品”H2O※16”との類似が見られる。

YouTube: Charles & Ray Eames “Fiberglass Chairs” (1970)

FRPの椅子が手作業で作られていく過程をドキュメントした映像。ファイバーグラスにプラスチックを流し込み、プレッサーで型押しをする瞬間や、型押しからはみ出たファイバーグラスをカッターで切り取る瞬間などがたまらない。

どの映像にも物や事象に対するフェティッシュとも言える視線を感じることができる。後年Charles Eamesはハーヴァード大学での講演で、この眼差しを「Goods」という言葉で語っている。

YouTube: Charles Eames ”Norton Lecture ‘Goods’” 岩本正恵訳 (1981)

1971年にハーヴァード大学で行われた記念講義で、3枚づつスライドを映しながらCharles Eamesが「もの」(Goods)について語るというもの。上記の映像でも見られたようなモノ、事象に対してのフェティッシュな視点が語られている。

「もの」(Goods)というのはじつに魅惑的です。

布地には独特の魅力があります。布地そのものの外見、動き、感触──布で何を作るか、何を縫うかではなく、布地そのものの魅力があります。

そしてロープのかせも魅力的です。このごろはもうロープはかせでは売っていないでしょうか。おそらく物干し網はかせで売っているように思います。かせはお互いにつながっているように並んでいます。これだけで完璧な感じがします。かせをほどくのがもったいない。そのままとっておきたくなります。

リールに巻かれた網もみごとです。これは針ヤード、帆を上下させる動索です。すばらしい。船具屋などで売られている様子…巻きついている様子…この細部。これもまたすばらしいものです。

糸玉。糸玉を捨てるなんてできません。糸玉にはなにか特別なところがあります。封を切って使いはじめる直前の瞬間。まるで封印されたような状態の糸玉は、手放したくなくなるもののひとつです。糸玉の入っているあの鉄の道具もすばらしいですね。下から糸を引き出すと、永遠に出てくるような気がします。

小さな樽に入った釘。樽に入った釘もすばらしい。家で何かを使いはじめるとき、かならず「釘の樽を開ける」と言う人がいるでしょう。このごろは家庭に樽入りの釘はありませんが、何かを使い始めるときの、あとは減る一方のものを使い始めるときのシンボルです。

箱入りのお菓子。これも樽入りの釘に似ています。最初のひとつに手をつけたときは、樽入りのりんごもそうですが、まだまだあると思うものです。樽入りも釘もそうですが、いつのまにかなくなってしまいます。

紙束。夢に見たことがあるでしょう。じつに美しい。

封を切った包みにも独特の魅力があります。隅が破けているようす、まるで誘っているようです。最初の一枚を取り出す時の、あの特別な感覚。なにかが変わるような、あの感覚。

箱入りのチョーク。チョークは箱に入って並んでいる時が一番すばらしい。箱にもさまざまな種類があります。このごろでは箱入りのチョークにめったにお目にかからなくなりました。

薪の束。ある時期にはこのうえないあこがれの対象です。薪にも、あの感覚、最初に手をつけるときのあの感覚があります。最初の一本を取り出すと、もう束は崩れてしまう。そしていつのまにか、薪の束はなくなってしまいます。

これが「もの」(Goods)です。
Charles Eames “Norton Lecture ‘Goods’”

講義の中で「Goods」というものが単に「物質」の話ではなく「事象」についても語られていることに注目したい。この言葉自体は、非言語な感覚=「よさ」という言葉に近いニュアンスを包含しているのが興味深い。

「よさ」を先鋭化するインターネットのアーキテクチャ

このように、以前からOddly Satisfying VideosやASMRのような非言語の「よさ」は既に存在していた。ではなぜ、2010年代に入ってからこれらが再発見され、急速に広まっていったのだろうか。これは、2010年代に起こったインターネットにおける以下4つの構造の変化が関わっていると考える。

①YouTubeをはじめとする長尺のビデオコンテンツだけではなく、写真と動画の中間にあたるようなマイクロビデオと呼ばれる新しいメディアとグローバルプラットフォームが登場したこと。RedditにOddly Satisfyingのサブレディットが登場した2013年は、まさにVineが登場とともにTwitterに買収された年であり、それを追うようにInstagramが動画対応した年でもあった。

②Pinterest、Tumblrなどの映像やビジュアルといった非言語コンテンツにフォーカスしたソーシャルブックマーク/ミニブログサービスがミレニアル世代を中心にユーザーを拡大しはじめたこと。これらのサービスはInstagramやFlickrといった自身の写真をアップするという用途よりも、ネットで見つけたお気に入りの映像や写真、テキストを引用という形でクリッピングしていくという行為をベースにしており、さらにrepinやreblogという仕掛けによって、自分がフォローしている人がクリッピングしたものをさらに自分の場にn次的にクリッピングできるようになっていた。これにより、ウェブ上から本来の文脈から部分的に切り抜かれたパーツが蓄積され、交換されていくという動きが加速していった。奇しくも、Tumblrが熱狂的なユーザー層が評価されYahoo!に買収されたのも2013年である。

③上記1、2に該当するサービスがいずれもフォークソノミーの概念を導入していたこと。フォークソノミーとは、ひとつのコンテンツに対して、分類者が決めた統制語彙による分類法「タキソノミー」ではなく、ユーザー(Folks)一人一人が各々好きなラベル(タグ)をつけることができるユーザー主導型の分類システムのことである。1、2のサービスで自分が「よさ」を感じるコンテンツに巡り合ったとして、その時に類似したより多くのコンテンツをひきあてるためには、ラベル(タグ)が必要になる。そこで、自然にOddly SatisfyingやASMRといった、よさを指し示すためのタグが開発され、リファラビリティが高くなっていく。「よさ」にラベルがつけられた瞬間というのは、これらの非言語の「よさ」に明確に「ニーズ」が生まれた瞬間でもある。

④動画プラットフォーム上でのマネタイズのためのシステムが整ったこと。再生回数が稼げれば稼げるほど広告収入が入るという極めてシンプルなルールだ。グローバルプラットフォームで再生数を稼ぐには、非言語で、スティッキネスが高い(=じっと見入ってしまう)Oddly Satisfying Videoはビュースルー率も高く、収益化には極めて向いているジャンルであると言える。(最近、Oddly Satisfyingな動画が、「Promoted動画」としてあなたのInstagramやFacebookのタイムラインに流れてきて、じっと見入ってしまったことはないだろうか?)

非言語の「よさ」がオンラインビデオという形で「標本化」され、その標本が個別に参照可能になった。

それらの「よさ」に共感しシェアする人々が顕在化した。
やがて、フォークソノミーのアーキテクチャによってその非言語の「よさ」に名前がつけられるようになった。

名前がついたことで、より多くのニーズが生まれた。
このニーズによるマネタイズを狙ったユーザが、より「よさ」のある動画を量産していくことで「よさ」が先鋭化されていった。

プラットフォームのグローバル化により非言語の「よさ」が追求されるようになり、競合との差別化とのために見ている人が「よさ」を感じることを主な目的として先鋭化され、より生理的な心地よさがただひたすらに追求された結果がOddly Satisfying Videoの正体である※17

ここまではOddly Satisfying Videoがどのように登場したのか、考察を展開してきたが、ここからは主にOddly Satisfying以降に登場したいくつかの作品をとりあげながら、Oddly Satisfying以降の表現のあり方を探ってみたい。

Satisfyingな瞬間を彫刻化する

ストックホルムをベースに活躍する映像作家Andreas Wanner※18は、ずばり「Oddly Satisfying」と名付けられた動画シリーズに象徴されるように、まさにOddly Satisfyingをテーマに作品を制作している作家だ。3D空間上の物理シミュレーションを利用して、完全にループするように再現されたOddly Satisfyingな現象がポストモダン風のアートディレクションでパッケージングされている。

Vimeo: Andreas Wanner “Gummy Tron” (2020)

基本的にOddly Satisfyingな動画は現実世界での中毒性のある瞬間をドキュメントしたものが中心的だが、Andreas Wannerの作品は、そうしたOddly Satisfying動画の中の中毒性を分析し、それをシミュレーション空間上で再現するアプローチと言える。

パリをベースに活躍するCGアーティストのRoger Kilimanjaro※19もAndreas Wannerと同様、Satisfyingな瞬間をループ映像として再現するアプローチをとっている作家の1人だ。

YouTube: Roger Kilimanjaro “Sliced gold loops” (2018)

Andreas WannerやRoger Kilimanjaroのような作風が登場した背景には、Cinema4DやHoudiniのように3D制作環境で高精度な物理シミュレーションやパラメトリックな動きの制作が行いやすいようになってきたこともあるだろう。しかし2015年あたりから、FacebookやInstagramで再生される動画がフィード上で自動再生になり、かつ短尺の映像はループ再生されるようになったことがより大きな影響を与えていると考える。それは彼らのポートフォリオにYouTubeやVimeoのリンクだけではなくInstagramアカウントへのリンクがあることからも明らかだ。

シームレスにループ再生されるこれらの映像は、YouTubeやVimeoのように始まりと終わりがあるフォーマットとは時間の概念が異なる。ちょうどOddly Satisfyingのエポックである2013年の数年前に流行した、GIFのループアニメーション機能によって、うまく画像の中に時間の概念を閉じ込める手法、Cinemagraph※20に見られるような、いわば現象を彫刻化するような時間特性を持っている。

ウェブデザイナー、中村勇吾の初期の作品の一つである物理シミュレーションを利用した“JamPack※21”や、ハイスピードカメラで水の中に文字が落ちる瞬間を組み合わせた“DROPCLOCK※22”、トラス構造が物理シュミレーションに忠実に崩壊していく様子を描いた“CRASH※23”など、これらの作品は、前述したSatisfyingな瞬間の彫刻化という動きを予見していた作品とも言えるだろう※24

Satisfyingのメカニズムを利用する

アメリカのサイエンス誌『Discover』は2017年、Oddly Satisfying Videoに関する記事の中でOddly Satisfyingを心地よく感じるメカニズムを考察している※25

Hard answers may be lacking, but the oddly satisfying videos appear to tap into a subconscious urge toward what psychologists call a “just right” feeling. It’s the sensation that arises when we’ve put things in order, and serves as a useful cut-off point for simple tasks. It’s also what often goes wrong in individuals with Obsessive Compulsive Disorder (OCD). For reasons not quite understood, some people with OCD don’t interpret the sensory cues that indicate the job is done, leaving them searching fruitlessly for a sense of completion. The quest for finality often leads to things like continually arranging objects, checking doors repeatedly to see if they are locked or cleaning things uncontrollably.
“Why Are Oddly Satisfying Videos So … Satisfying?※26

どうやらOddly Satisfying Videoは、心理学者が“Just right feeling”(まさにぴったり感)と呼ぶ、潜在的な感覚に関与しているようです。“Just right feeling”とは、我々が物事を整理したときに発生する感覚で、人が「ある作業が完了した」ということを認識させるために生じる感覚とされていますが、強迫性障害(OCD)の患者の多くは、この感覚をうまく感じれないことがあります。この“Just right feeling”を感じ取ることができないため、「作業が完了した」と認識することができず、「作業が完了した」ということを認識するために無駄な作業を繰り返してしまう。それが、場所の配置を延々調整しつづけたり、ドアに鍵をかけたかずっと確認したり、延々掃除をしつづけてしまうというといった行動に現れるのです。(著者翻訳)

“Just right feeling”のような認知のメカニズムを応用することで、新しい表現を探索することが可能だろう。映像作家、菅俊一の映像作品『Imagine Yourself / その後を、想像する※27』では、シンプルな図で描かれている事象は、どれもがSatisfyingな瞬間なように見えるが、映像の中で最もSatisfyingな瞬間は、画面がブラックアウトしてしまう。

Vimeo: 菅俊一『Imagine Yourself / その後を、想像する』(2019)

しかし、肝心な瞬間は描かれていないにもかかわらず、なぜか我々の脳内ではそこで何が起こるのか、想像できてしまう。菅はこれらの人間の認知における補間能力に注目し「指向性の原理」を提唱している※28

また、「特定のタスクが終了した、ということを知らせるための満足感の伴う感覚」の想起はユーザーインターフェイスにおいても非常に重要な要素である。近年多く見られるマイクロインタラクション※29と呼ばれるユーザのアクションに付随する細かなモーションデザインは、ユーザーの“Just right feeling”を想起させ、ユーザーエクスペリエンスを向上させるためのデザインアプローチと言えるだろう※30

未知の「よさ」を探索する

最後に、2013年に公開された1本の奇妙なミュージックビデオについて、その監督2人(細金卓矢と杉山峻輔)への伊藤ガビンによるインタビューの一部を紹介したい。

YouTube: tofubeats “No.1 feat.G.RINA” (2013)

—— 今日はこの極めて評判のいいMVの「よさ」について語ってみたいわけなんですけどね。

細金:「よさ」ね。でもこれアップするまで受け入れられるかどうかまったくわかんなかったですよ。自信ないってことじゃないんだけど、判断基準がなさすぎて。

—— うん。「よさ」しかないからね。

スケブリ(杉山):そうそう、中身ない(笑)。

細金:だから「よさ」が合う人にはいいだろうけど、それがいったいどれくらいの数なのか、未知数すぎてわからなかった。

—— 結果、すごく受け入れられたよね。でも考えてみれば「よさ」を描くって、ミュージックビデオの根幹でもあるわけで。

細金:うん。だから発表したらみんなが「よさ」って書いてて、それはよかった。

「よさについて tofubeats No.1 feat.G.RINA 監督インタビュー※31

Oddly Satisfying Videoが顕在化する前段階として、本記事では非言語の「よさ」がオンラインビデオという形で「標本化」され、その標本が個別に参照可能になったことが引き金になっていると考察した。これは現在進行形の現象であり、Oddly Satisfyingという既存のジャンルに自己言及する形で先鋭化していく表現とは別に、新たな、未だ名前のない「よさ」を探索する動きは今日もインターネットのどこかで続いている。うまく言葉にできないもの、その非言語の感覚が何故か人と共有できてしまうもの、それらを発見するところからすべては始まる。

1948年6月、ドイツの米英仏占領区域でドイツマルクが導入され、ソ連によるベルリン封鎖が始まった。いわゆる冷戦の始まりである。アメリカでは1940年以来の平時徴兵が復活する一方、トルーマン大統領が軍における人種差別禁止の大統領令に署名した。7月29日、第二次大戦で繰り延べになっていたロンドンオリンピックが開幕、敗戦国の日本は参加を認められなかった。同31日にニューヨーク国際空港(のちのJFK空港)開港。8月には大韓民国(韓国)が、9月には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が相次いで成立した。日本では5月に美空ひばりがデビューし、7月に風営法公布、8月には渋谷ハチ公銅像再建除幕式が行なわれた。第二次世界大戦が終結して3年目の夏に、ブラックマウンテンで起こったことをお話ししたい。

2つのインタビュー

「私がブラックマウンテンに着いたのは1948年の夏だった」バックミンスター・フラー※1はインタビューに応えてそう言った。1971年10月3日、ワシントンD.C.でのインタビューだ。インタビュアーはメアリー・エマ・ハリス※2。1987年にMITプレスから刊行された『The Arts at Black Mountain College』の著者である。BMCのリサーチはハリスのノースキャロライナ大学における修士研究で、このインタビューのときにはまだ在学中だったと思う。彼女は修了してからもBMCのリサーチを続け、16年後に前述の大著を上梓。BMC芸術分野研究の第一人者と目されるようになった。

フラーがBMCに着任したちょうど70年後の2018年夏、文字起こしをしたままのそのインタビュー原稿を見た。ノースキャロライナ州西部地域アーカイヴズ(以下、NCアーカイヴズ)でのことである。タイプされた文字を読んでいく。話し言葉なのでそれぞれの単語は難しくないのだが、ベタ起こし※3ということもあって、言葉の意図を読み解くことは難しい。PDFをもらって帰ってしばらくそのままにしていた。

1年経った2019年夏、そのインタビューを粗訳してみた。やはり細かなニュアンスはとりにくいが、置き換える言葉を丁寧に探していくと、フラーが言いたかったことの輪郭が見えてきた。

そして秋(2019年秋)、三たびブラックマウンテンを訪れた。JFK空港で乗り換えてシャーロット空港へ。今度はちょうどお昼ごろに着く便である。シャーロットから85号線を走り、321号、40号と乗り継ぎ、ブラックマウンテンを越え、スワナノア渓谷を渡るともうアッシュビルだ。そして定宿になったモーテル「ダウンタウン・イン」に着いた。静かな部屋にしておいたよ、とフロントマンがいう。どうもありがとう、と入った部屋は、いつもと変わりない部屋だった。

今回の主要な目的のひとつに、NCアーカイヴズで1948年と49年の夏期講座を調査することがあった。しかし、いつものことだが充分な時間をとれるわけではない。フラーの資料がたくさんあることはわかっていたので、最初にジョン・ケージ※4の資料がないか尋ねてみた。ケージは48年と52年の夏期講座に講師として参加し、BMCとは深い繋がりを持つアーティストである。

「ケージの資料は図書館やトラストが持っていて、写真もここにはほとんどないの。でもインタビュー原稿ならあるわよ」
司書のサラはそう言ってタイプされた原稿のコピーを出してくれた。それは、『Black Mountain: An Exploration in Community※5』の著者、マーティン・デュバーマンが1969年4月26日に電話インタビューしたものだった。これも文字起こししたままの原稿だが、デュバーマン自身によるものと思われる校正が入っている。
「コピーを取ってもいいかな」
「PDFがあるから送るわ」
ものの数分でメールが届いた。

東京に戻ってすぐ、フラーとケージ、この2人のインタビュー原稿から夏期講座の読み解きをはじめた。

サティ・フェスティバルとメデューサの罠

フラーは1948年の夏期講座に講師として参加し、49年にはディレクターとして迎えられている。夏期講座だけではなくBMC全般において、外部から招聘されたただ一人のディレクターである。指名したのはアルバースだが、フラーはそれをこのインタビューを受けるまで知らなかったようだ。

フラーはBMCへの着任を偶然だったと言っている。もともと1948年の講師を頼まれたのは、シカゴの建築家でバウハウスへの留学経験があるバートランド・ゴールドバーク※6だった。しかし都合がつかなかったのか、その代役としてフラーに話がきたらしい。しかもフラーとゴールドバークとは面識がなく、共通の知人を通じての誘いというから、フラーにとっては本当に偶然のようなものだったのだろう。

1946年ごろからフラーは本格的な幾何学の研究に入っており、BMCの夏期講座に参加する直前にその後のフラー幾何学の核となる「ジターバグ変換※7」を発見している。それが1948年夏のBMCでのジオデシックドームの実験に繋がるのだが、フラーが本格的に注目を浴びるのはドームが実用性を帯びる50年代半ばまで待たねばならない。したがって、このころはまだまだ不遇をかこっていた時期だった。そんなフラーにとって、2度のBMCの夏はかけがえのない時間だったはずだ。そしてそれは、BMCにとっても同じだった。

図1[図1]1949年夏のBMC。ジターバグ変換の自作模型に囲まれ授業するフラー

インタビューは、1948年にフラーが「メデューサの罠(Le piège de Méduse)」のお芝居でメデューサ男爵を演じた話で始まる。たぶん写真を見ながらだと思う。演劇はBMCの芸術教育のなかでもベーシックなものだが、この舞台は少し事情が違ったようだ。

図2-1[図2-1]エレイン・デ・クーニングとフラー

図2-2[図2-2]機械仕掛けの猿を演じるマース・カニンガム

(以下、BFはフラー、MHはハリス、##は誰だかわからない。頻繁に発言してるところから、フラーとは親しい人のようだ。このインタビューのコーディネイターなのかもしれない。カッコ書きは筆者の補足。)

BF「これはウィレムとエレイン、失礼、マース・カニンガム※8とエレイン・デ・クーニング※9だ。エレインは私の娘役で、マースは猿(機械仕掛けの猿)の役だった。こっち(の写真)はその猿と踊っているところだ。そして……。」
##「おお、それが知りたかったの!バッキー!」
BF「シアターに参加したすべての人のなかで、私が考えられる完璧なキャストだよ。」
##「ほら、この帽子を見て!とても素敵な帽子!」
BF「私が作ったんだよ。」
##「あなたが?」
BF「うん、ベネチアンブラインドストラップで作った。」
MH「この帽子を?」
BF「そうだよ。」
MH「どっちの?」
BF「私が被ってる帽子」
MH「あなたの帽子……わかった! ラインがあるのに気付かなかった。 」
BF「私はこの小道具を長い間全部保管していたけど、移動が多くてもうどこにやったかわからなくなってしまった。」
##「バッキー、ジョン・ケージは出演していた?」
BF「いいや、彼は最後まで音楽を演奏していた。彼はこのハプニング全体を担当していたんだよ。」
MH「この人は誰?」
BF「それは、猿に扮したマース(・カニンガム)だよ。彼は猿だから、決して直立姿勢にはならなかったんだ。」

「メデューサの罠」はエリック・サティ唯一の戯曲で、ジョン・ケージがBMCで企画した「サティ・フェスティバル※10」に関連したパフォーマンスだ。もちろん当時にはまだ「パフォーマンス」という概念はない。フラーがインタビューで言っている「ハプニング」の概念もまだないが、同じことを指しているはずだ。戯曲や演劇とは言いたくない、新しい何かだったのだ。

パンフレットがあるので見てみよう。

図3[図3]「メデューサの罠」パンフレット。フラーはインタビューで、ブラックマウンテンの印刷所で刷った美しいパンフレットと言っている

タイトルは「メデューサの罠 一幕の詩劇 エリック・サティによる」。原詩はフランス語で、翻訳はM. C. リチャーズ※11。キャストは、メデューサ男爵にフラー、その奉公人にアイザック・ローゼンフェルド※12、娘の許婚にウィリアム・シュラウガー、男爵の娘にエレイン・デ・クーニング、機械仕掛けの猿にマース・カニンガム、ペイジ役にアルビン・チャールズ・フューの6人。

スタッフとして、監督:ヘレン・リヴィングストンとアーサー・ペン※13。振り付け:マース・カニンガム、ピアノ:ジョン・ケージ、舞台装置:ウィレム※14&エレイン・デ・クーニング、衣装※15:マリー・アウテンなど、そのほかさまざまな役割をあわせて14名、総勢20名で行なった演劇(パフォーマンス)である。こうして名前を並べるとその豪華さに驚く。フラーとケージはそれなりに知られていたかもしれないが、2人を含め、まだみんな無名だった。

ここで「メデューサの罠」を企画したジョン・ケージに話を移そう。ケージは1948年4月にカニンガムといっしょにBMCを訪れている。ニューヨークからカリフォルニアへと向かう大学を巡る「ソナタとインターリュード※16」のツアー(ダンスと音楽のツアー)を組んでおり、その一番最初の公演先がBMCだった。滞在は5日間で、公演の報酬は宿泊と食事だったという。

図4[図4]4月20日に公演されたカニンガムのダンスプログラム。音楽とピアノはケージ。ここでサティの「モンキーダンス」を踊っている

ケージはBMCの進歩主義的な教育方針に惹かれ、これまでに2度手紙を出している。1度目は30年代末、教員のポストを打診するもの。2度目は1942年に実験音楽センターの開設を要望するものである。どちらのラブコールも叶わなかったケージにとって、この公演はとても楽しみだったに違いない。

結果、公演は大成功を収め、ケージとカニンガムはアルバースからその年の夏期講座の講師を依頼される。ケージは、同じく講師として、彫刻家のリチャード・リッポルド※17と画家のウィレム・デ・クーニングを推薦した※18

ケージは自叙伝でBMCの印象を述べ、サティ・フェスティバルについても触れている。

ドイツ人が多いブラックマウンテンカレッジで、エリック・サティの音楽に触れる機会が少ないことに気がついた。ここでひと夏教えることになり、学生がいないこともあって、サティの音楽を紹介して聴いてもらおうと、夕食後30分のサティ・フェスティバルを企画した。そしてそのなかでサティとベートーヴェンを対峙させる講演を設け、ベートーヴェンではなくサティが正しいことを語った。
ジョン・ケージ「自叙伝※19

ケージは「音楽の構造」と「振付法」という二つの授業を担当していたが、「振付法」には履修者がいなかった(「音楽の構造」は7名が履修した)。したがって、サティ・フェスティバルは「振付法」の代替えとして考えたプログラムだったのだろう。

学校ではほとんどの人がドイツ人かドイツ気質だった。だから夏を通じて現代音楽全般ではなく、エリック・サティだけを取り上げたということで、とても反感を買ったんだ※20。アルバースはそれを少しでも軽減し、考えが理解されるようにと、毎回のコンサートの前に講義をするように求めた。それはうまく機能したと思う。
マーティン・デュバーマンによる電話インタビュー

ケージが「BMCはドイツ人ばかり」と言っているのは、ほかの文章でも目にしたことがある。ひとつの発言がさまざまに引用されているのだと思うが、印象に残る言葉ではある。あきらかにドイツからやってきた亡命芸術家への、ある種の感情が見え隠れしているからだ。

一方の“ドイツ人ばかり”のBMCの音楽講座は、伝統的なクラシック音楽教育が中心で、ディレクターを務めていたエルヴィン・ボドキーはバッハやショパンを鑑賞する「土曜の夕べ」のコンサートを企画し、ベートーヴェンの「32曲のソナタ」の講義を行なっていた。ベートーヴェンはご存じのようにドイツが生んだ偉大な作曲家である。

図5-1[図5-1]夏期音楽講座で催されていたコンサートのパンフレット。7月10日のプログラム

図5-2[図5-2]バッハ、ハイドン、ベートーヴェンといった名前が並ぶ

ロサンゼルス生まれのケージは、1930年、17歳のときに飛び級で入学した大学を中退し、ヨーロッパへ旅に出ている。最初に滞在したパリでピアノのレッスンを受け、ドイツ、イタリアと移動したが、大恐慌の影響で家が傾き、17ヶ月でLAに戻った。なので、けっしてヨーロッパに対する理解がないわけではない。ケージにとってもヨーロッパ文化はお手本であり、先導者だった。しかし多くのケージ研究が指摘するように、ヨーロッパから帰ってからは東洋的な偶然や不確定性に関心を寄せるようになった。ケージはサティ・フェスティバルでの講義をこう記している。

西欧の物質主義の出現とともに和声的構造が出現し、物質主義に対する疑問をいだきはじめたときに、それは崩壊していった。そして異なった東洋の伝統、心の平穏、自己を知ること、そういったことを、われわれが心から必要とした時期に、問題の解決として東洋に伝統的に存在しているリズム構造という問題に到達したことは興味深く、注目に値する。
ジョン・ケージ「サティ擁護※21

サティとベートーヴェンを対峙させる講演「サティ擁護」で語られた和声(=ベートーヴェン)とリズム(=サティ)の議論に、ヨーロッパ的伝統から離脱しようとする戦後アメリカ美術の萌芽をみることができる。この場合、東洋的云々はさほど重要ではないだろう。戦争も終わり、自分たちの表現を見つけはじめていたケージらアメリカの若いアーティストたちにとって、BMCで講義されているようなドイツのクラシック音楽は、かび臭く、否定すべきものだったに違いない。

しかし、学生の側からすると少し事情が違ってくる。第二次大戦から戻った退役軍人を支援するためのプログラムであるGI法案※22を利用して1947年秋にBMCに入学したアーサー・ペンは、テレビジョン・アカデミーのインタビューに応えてこう言っている。

ドイツのバウハウスにいた移民アーティストの多くが、アメリカの大学について知ることができなかったためか、ブラックマウンテンに定住し、そこで教鞭を執っていたんです。それで私もBMCに興味を持ちました。BMCは学校として認可されていなかったため、彼らはそこで自由に仕事を得ることができたんです。
Arthur Penn on studying at Black Mountain College※23

1948年秋学期から入学したロバート・ラウシェンバーグ※24も同じくGI法案を利用してBMCにやってきたひとりだが、彼もアルバースの厳格な教育に惹かれて入学したと述懐している。

つまり、バウハウス出身者に代表されるドイツ人講師と、その(アメリカ側からみれば)伝統的な教育に憧れた学生、そして、すでに新しいスタートを切っていたアメリカ人アーティストたち、それら三者三様のインタラクションが1948年夏のBMCで起こっていたのである。

いずれにせよ、このサティ・フェスティバルでの講義は、ケージが言うように“うまく機能した”わけではなかった。アルバースが心配したとおり、音楽講座の教員との軋轢は、和解不能なところにまで陥っていた。ケージの評伝にこういった記述がある。

ケージの講演は、この学校を2つの音楽陣営に分断した。ある指導者によると、何人かの学生がベートーヴェンのレコードと楽譜を燃やした。……学校の校長は、長引く論争を終わらせようとして、両陣営に台所で戦闘の準備をして、決着をつけることを提案した。ベートーヴェン派は仔牛肉のカツレツを手にし、反ベートーヴェン派はクレープ・シュゼット〔リキュールに火をつけて出すクレープ〕をつかんだ。校長の戦闘開始の呼びかけは、食べ物を投げ合う大乱戦となったようだ。
ケネス・シルヴァーマン『ジョン・ケージ伝 新たな挑戦の軌跡※25

訳文に「校長」とあるが、BMCに「President」は存在しない。ただ、ディレクター的な役割の人は決められていて、「Rector※26」と呼ばれていた。1948年8月時点のレクターは、アルバースである。このエピソードに間違いがなければ、アルバースが台所の決闘を提案したことになる。いかにもBMCらしい決着のつけ方ではあるが、厳格でならしたアルバースからは想像しがたい。しかし、そういう一面もあったと思えば微笑ましい。

だからと言って、これで決着がつくはずもなかった。音楽講座の教員たちの怒りは収まらず、理解者であったアルバースの退任もあって、ケージは1952年の夏までBMCに戻ることはなかった。

BMCの夏期講座は、1944年から「サマーインスティテュート」として、音楽(Summer Music Institute)と美術(Summer Art Institute)の2本立てでスタートしている。夏期講座には、この44年からとする論と、前回に紹介した建築と農業の実践講座「サマーキャンプ」が始まった41年からとする論があるが、実は1940年の夏に「スペシャル・サマーミュージックコース」という講座が開かれている。期間は6月16日から7月21日までの5週間、場所はエデン湖キャンパスだが、キャンパスができるまで避暑施設として運用していた名称である「LAKE EDEN INN」となっている。これがBMCが開講した一番最初の夏期講座である。

図6[図6]1940年のスペシャル・サマーミュージックコース、パンフレット

エデン湖畔の土地を手に入れて、長い夏休みに何かプログラムがつくれないかと考えたのだろう。それがサマーミュージックコースだった。ディレクターはハインリッヒ・ジャロウィッツ※27とエデュアード・スティアーマン※28。ジャロウィッツは第二ウィーン学派の中核メンバーとして活躍したヨーロッパからの亡命組でBMCの音楽教育を支えたひとりである。スティアーマンもやはりオーストリア生まれのピアニストで、渡米後もベートーヴェンのリサイタルで名を馳せた。つまりドイツやウィーンのクラシック本流の音楽家たちである。音楽系の教員たちには自分たちが夏期講座をつくったという自負もあったのだろう。名もなき美術講座の若い講師がフランスの異端者の音楽を学生に聴かせることだけでも受け入れがたかったに違いない。

そして、そのサティ・フェスティバルの最後に企画されたのが「メデューサの罠」だった。主演のフラーはシャイなうえ、もちろん演技経験はない。たぶんその素養もない。そのフラーをはしゃがせ、飛び跳ねさせたのは、のちに世界的にエポックメイキングな映画となる『俺たちに明日はない(原題:Bonnie and Clyde)』を監督するアーサー・ペンの演技指導だったというから面白い。フラーはインタビューでこう言っている。

MH「以前にお芝居をしたことはありますか? 」
BF「人生で一度もないよ。」
MH「しかし、アーサー・ペンはあなたに演じさせた?」
BF「観客と実際にコミュニケーションをとる方法について、彼から本当に多くを学んだよ。このことが長年にわたってとても役立ったと思ってる。」
MH「スピーキングや講義で?」
BF「そう。そのとき私は、おそらく演技できないだろうと思っていた。私は子供会など——知ってる?学校じゃないところ——の経験で、実際に演技するのに十分なほど自分を冷静にすることができないと知っていたんだ。詩的な表現を覚えることはできたけど、それを演技に適用することはできないと思っていた。でも、ケージとマースとアーサー・ペンは私にはできると確信していた。だから、『まあ、試すことを鍛錬するのは良いことだと思う』と言ったよ。そして、本当に私は演技のほぼ全部ができたんだ。とても難しい演技だったのに。私はステージに出ずっぱりだった。私のパートは何度も何度も続いた。だから私は、そう、演技することができたのだと思う。」

この舞台は、フラーにとって(内的な)転機となるものだった。まさに経験とは実験の結果に過ぎない。50年代以降のフラーの活躍にとって、この経験は大いなる糧となっただろう。また、ケージやカニンガムと親密な関係になったことも見逃せない。

BF「ジョン(・ケージ)と私は本当にとても暖かい友人関係を作った。ジョンはいつも私について書いているか、あるいは話していた。私も同じだった。
……
そしてジョンとマース、ナターシャが料理をし、私たちは毎日朝食を一緒に木の下で食べた。それは、私たちのための特別な時間だったんだ。……その夏を彼らと一緒に、新しい学校で、本当にとても楽しい時間を過ごした。
……
いくつかの壊滅的なできごとはあったが、それらも私たちがすでに話していた類いのものだった。ジョンとマースの地図(活動計画の話)は、本当にとても楽しかった。私もそうだが、彼らは話すことが好きだったんだよ。」

夏期講座は大成功だった。フラーはインタビューで、「冬のBMC(の学生数)は1ダースかせいぜい2ダース。でも夏はその10倍。少なく見積もっても100人は下らなかった」と述べている。フルに参加した学生がどのくらいいたのかはわからないが、ピーク時にはそれぐらいの人がいたのだろう。経済的にも夏期講座で大いに(とはいかないまでも、少しは)潤ったと思われる。

図7-1

図7-2

図7-3

図7-4

図7-5

図7-6

図7-7

図7-8[図7-1〜8]夏期講座での教員や学生たち。オフも授業中もあまりかわりはない。少しでも雰囲気が伝わればと思い、写真を選んだ

1948年の夏期講座終了後、フラーはシカゴのデザイン研究所※29で教鞭をとるようになる。デザイン研究所は、モホイ=ナジがシカゴに創設したニューバウハウスの後継校である。当然、ナジとアルバースは親交があるが、着任においてアルバースの口利きがあったのかどうかはわからない。フラーは、アルバースが深く信頼を寄せ、自分が退任したのちに夏期芸術講座を任せようと考えたほどの人物である。まったく無関係とも考えにくい。いずれにせよ、アルバース夫妻、フラー、ケージ、カニンガムらの親交はBMC後も長く続き、それぞれの生涯において欠かすことのできない関係を紡ぐことになる。

最初のジオデシックドームの実験

夏期講座に限らずBMCの授業は担当教員が自由に決めていたようだ。だからこそ、ケージもサティ・フェスティバルを開くことができたのだ。教育の自由に関して、フラーはこのように答えている。

MH「(BMCで)教師は本当に教える自由がありましたか?」
BF「ええ。あれ以上の自由はなかったでしょう。私たちは望み通りに何でもできた。それはとても良いことだったと思う。誰も何も言わなかった。教員の資格云々といったことさえも。」

フラーのドーム建築に協力したひとり、エレイン・デ・クーニングもこう言っている。

(夏期講座の)客員教員は何をどのように教えるかを知らされていませんでした。一部の人は、そういった自由に当惑させられました。ほかの人たちは、スポンサーによる精査や事前の宣伝、大規模な資金提供が必要となるプロジェクトに着手するよい機会だと考えました。彼らは彼らの目の前の情熱、その時に取り組んでいたプロジェクトを教えました。したがって、学生は新しい学習に伴う興奮と不確実性の恩恵を受けることができました。……フラーの夏のプロジェクトは、ベネチアンブラインドストリップの彼の最初のジオデシックドームを建設することでした。
Mary Emma Harris “John Cage at Black Mountain by Mary Emma Harris※30

エレインの言うとおり、フラーのプロジェクトは、直径48フィート、高さ23フィート、面積1500平方フィートにおよぶ、大きなドーム型構造体「ジオデシックドーム」をつくることだった。BMC着任前にその着想を得ていたフラーは、トレーラーハウス(移動式研究室!)にたくさんのドームの模型を積み込んでBMCにやってきた。そして、すぐにジオデシックドームの実験に取りかかった。それが初めてのドーム建設の実験とされているが、フラー自身の気持ちではそうではなかったようだ。

MH「あなたは…その夏に演技者になっただけでなく、ベネチアンブラインド※31を使用してドームをつくりませんでしたか?」
BF「うん、つくったよ。そのとおりだ。ちょうど利用可能な素材を持っていたので、それができた。 」
MH「それ以前にドームを建設していましたか、それとも…?」
BF「ああ、つくっていた。全部自分ひとりでやっていたよ。ジオデシックドームについて実証したかったんだ。私は自分でつくったモデルでいっぱいのトレーラーを持っていた。」
……
MH「ベネチアンブラインドタイプのモデルも、そこにあった?」
BF「いや。さまざまなタイプのジオデシックドームをつくったが、それはなかった。(BMCで使った)ベネチアンブラインドはアルミニウムを削って使用できるので、とてもたくさんの実験ができたんだ。」

結局、1948年夏のジオデシックドームの実験は失敗に終わった。しかし、そのことに対してフラーはあまり落胆はしておらず、うまくいかないことを予想できていたようだ。そして失敗はより良い結果のための経験であると考えていた。うまくいかなかった理由は資金や資材の不足と言われている。そういうことも多少はあったのだろうが、いろんな意見を統合すると単なる準備不足だったのだと思う。まだ時期尚早だったのだ。それをフラーはよくわかっていたのだろう。この失敗したドームは「The Supine Dome(あおむけのドーム)」と名付けられた。

図8-1

図8-2[図8-1,2]制作中のフラー(中央)

図8-3[図8-3]失敗したドームについて話し合うメンバー

図8-4[図8-4]失敗したドームに残って作業するエレイン

いくつかのコメントから、ドーム建築の実習より初回授業の講義がみんなの心に残っていることがわかる。フラーの3時間にもおよぶ熱弁は、聴くものの心を揺さぶったようだ。エレインは「バッキーはめまぐるしい勢いで話し、ボビーピン、洗濯ばさみ、5セントストアや10セントストアで買い集めたあらゆる種類のものを部品にして、幾何学的な可動構造をつくり……」とアクティブなフラーを、また、カニンガムは「バッキーのBMCでの講義は……当時すでに、世界を単一の存在として見なしていた彼の考え方についてでもあった」と思索的な内容について、それぞれ回想している※32。ほかにもこの講義についての記述は散見され、名講義だったことが伺える。きっとアルバースもこの講義に心を動かされた一人だったのだろう。

戦後アメリカ美術の発火点

1948年、BMCの夏期講座に参加した学生や教員のリストをここにアップしておきたい。なぜなら、このBMCの夏が戦後アメリカ美術と呼ばれる美術界の新潮流の発火点になったと思われるからである。

図9-1

図9-2[図9-1,2]1948年夏期芸術講座、学生・教員リスト最初のペーパーと記入後の最終リスト

たとえばケージからフルクサスに至るハプニングを軸とした音楽とも美術とも演劇とも言い難い“行為の芸術”の潮流は、この夏期講座から端を発していることは間違いない(ケージが最初のハプニングと言われるイベントをBMCで行なうのは52年の夏だったにせよ)。まだラウシェンバーグは登場していないが、ウィレム&エレイン・デ・クーニングやM. C. リチャーズ、また学生では、アーサー・ペンや、文中には登場していないがルース・アサワ※33といった、このあとに美術を超えて活躍する人たちがいた。そして写真の教員として、BMCにおいて多くの写真を残したビューモント・ニューホル※34のことも忘れてはならない。

ここに書いた人以外にも、ぼくが知らない「え、こんな人もいたの?」と思える人物がこのリストのなかにいるかもしれない。もし、そういう人いたら知らせてほしい。アメリカという新しい国が新しい芸術を育んでいく萌芽がここにあったのだ。そして彼らはそれに立ち会った実験者だった。そしてその実験は、美術のみならず、アメリカを中心として現在まで続くコンピュータやインターネット文化にも影響が及んでいる。それが、この1948年のBMC夏期講座が、「奇跡の夏」として語り継がれている所以である。

1948年夏期講座の話はこれで終えておこう。しかし、48年の夏に起こったことはこれだけではない。同年、この夏期講座をディレクションしたアルバースが退任し、49年にはフラー・ディレクションの夏期講座が始まる。次回はこの続きから話を始めたい。

タイポグラフィ、すなわち活字版印刷術は、金属活字(鋳造活字、メタル・タイプ)であれ、写植活字(写真植字用活字、フォト・タイプ)であれ、また電子活字(デジタル・タイプ、フォント)であっても、活字版印刷術創始以来550年以上にわたって「活字」を用いて言語を組み、配置・印刷し、テキストを描写・再現させる技芸であり続けている。

金属活字は鉛・アンチモン・錫などによる合金を文字の「型」に流し込んで作られる。写植活字は被写体である文字のネガ画像に光学技術を用いて印画紙に露光・現像して刷版用の版下となる。電子活字は文字形状に関する電子情報がコンピューター支援によって呼び出され生成される。

いずれにせよ「活字」は、文字の複製原形、つまり規格化された文字の「型(タイプ)」をもとに、繰り返し同じ形象で再生されることを前提とする公的文字のことを指す。

活字と活字組版は規格化されていることによって制御され形成される。組版を形成するにあたって、金属活字は四角柱の金属(ボディ)を組み合わせるので、同一規格がまず大前提となり、基本的にはその分割・倍数計算によって制御できていなければ物理的に版として成り立たない。

写植活字はレンズによる拡大・縮小の比率によって活字サイズが決定され、字送りと行送り(字間・行間)は歯車の噛み合わせ量によって制御されている。

電子活字に至っては、書体デザインから活字サイズ・行送りを含むすべてが0と1の電子情報によって管理・制御されているのだ。

同様に紙面設計も数値によって制御されている。まずは紙の大きさ、といった時点で既に数値の範疇であり、量産することが前提となれば当然規格化が求められる。また組版を紙面のどの位置に配置するのかという版面の設定、これも最終的には数値によって決定される。つまりタイポグラフィとは、活字そのものの生成だけでなく、のちの工程である組版・紙面構成・印刷、さらには製本に適応することを考慮しなければならない、数値と規格で制御された世界なのである。

「文字」の数値化と幾何学的構成

文字そのものを規格化・数値化する試みは、イタリア・ルネサンスに端を発する。その嚆矢はイタリアの古都ヴェローナのフェリス・フェリチアーノ(1433–79頃)だとされている。フェリチアーノは考古学者、古代ローマ大文字(碑文)研究家、また能書家・印刷人でもあった。

フェリチアーノはイタリア北東部の街ラヴェンナなどの古代ローマの碑文を研究し、それらから導いたローマ大文字の構成法を1463年に発表した(図1)。フェリチアーノは、古代ローマ人はコンパスと定規を使った数学的規則でローマ大文字を描いたと信じ、その再現を試みた。フェリチアーノは正方形を8分割、アルファベットの縦画(ステム)の幅を正方形の1/10と設定し、幾何学的にローマ大文字を構成した。

図1[図1]フェリス・フェリチアーノによる古代ローマの碑文の分析図(1483)

建築家レオン・バティスタ・アルベルティ(1407–72)は、それ以前の1450年代、フェリチアーノと同様の構成法に基づいたローマ大文字を碑文として残したが(図2)、その分析・構成法についての資料が現存するのか否かは不明である。

図2[図2]レオン・バティスタ・アルベルティによる碑文より(1450年頃)

フェリチアーノに続いたのは、パロマの能書家ダミアヌス・モイリス(1439–1500)。モイリスは1483年にローマ大文字を分析した『アルファベット論考※1』を著した(図3)。正方形と正円、そしてその対角線を基準値とし、正方形の縦1/13をステムの幅と設定している。そして各文字の下には字画同士の比例関係と幾何学的比例に関する短文を付した。

図3[図3]ダミアヌス・モイリス『アルファベット論考』より(1483)

1509年に刊行された『神聖比例※2』によってその名を知られるトスカーナ出身の数学者、フラ・ルカ・デ・パチョーリ(1445–1514)のローマ大文字の分析・構成理論が次世代に与えた影響は絶大だとされている(図4)。パチョーリは正方形の縦1/9をステムの幅と設定し、モイリスが施した正方形・正円・対角線をさらに細分化。またセリフを形成する円弧の設定をも示し、ローマ大文字が幾何形態によって構成できることを証明してみせた。そしてパチョーリはその学恩を、同世代で同郷の友人レオナルド・ダ・ヴィンチによるものだと1497年の『神聖比例』の草稿に記したのである。

図4[図4]ルカ・パチョーリの幾何学的構成によるローマ大文字(『神聖比例』 1509)

アメリカ・シカゴのニューベリー図書館に所蔵されている通称「ニューベリー・アルファベット」と呼ばれるローマ大文字の手稿が近年話題となっている※3

この手稿は1464–1525年の間に制作され、制作者不明としながらも、一部の研究者がダ・ヴィンチではないかと推察しているものだ。その真意のほどは定かではないが、なるほど、絵画を「まさしく科学」であると書き残した人物が描いたのではないか、と思わせるほどに詳細で、科学分析的に視覚化されたローマ大文字である(図5)。

図5[図5]ニューベリー図書館所蔵のニューベリー・アルファベット(1464–1525)

1525年には、ドイツ・ニュルンベルクの画家・版画家・美術理論家として北方ルネサンスの最も著名な芸術家アルブレヒト・デューラー(1471–1528)もあとに続いた。デューラーは著作『幾何学※4』で、パチョーリの理論を敷衍したローマ大文字とブラックレターを描いたのだ(図6)。

図6[図6]アルブレヒト・デューラーのローマ大文字とブラックレター(『幾何学』1525)

そして学者や芸術家たちがローマ大文字の分析を進める一方で、書字の本家である書家たちも書法の教科書で一斉にローマ大文字を発表し始めるのである※5

図7[図7]シジスモンド・デ・ファンティ(1514)

図8[図8]フランチェスコ・トルニエロ(1517)

図9[図9]ジェフロア・トリー(1529)

図10[図10]ジャンバティスタ・パラティノ(1550)

図11[図11]ヴェスパシアーノ・アンフィアレオのローマ大文字(1554)

図12[図12]ヴェスパシアーノ・アンフィアレオのブラックレター(1554)

このように碑文研究家だけでなく書家や建築家、芸術家も、皆一様にローマ大文字を方形の中に納め、分割し、定規とコンパスで構成し、規格化を行ない、再現・再構築を試みていた。

ではここで、なぜ彼らがローマ大文字そのものにこだわったのか、という根本的な問題について、若干ではあるが触れておきたい。E・P・ゴールドシュミットの著作『ルネサンスの活字本※6』には、以下のように簡潔に記されている。

彼らがローマの碑文に関心を示した第一の理由は、古典ラテン語の正確な綴りをぜひとも知りたかったからだろう。彼らは古典的著作が中世写本に筆写される際、乱暴で粗野な綴り字が使われ、原文が勝手に改竄される傾向があるのを知っていた。だから彼らは直接ローマの碑文・記念碑を見て、古代ローマ人が遵守していた通りの正確な正書法を学ぼうとしたのだ。……たしかに、ルネサンスの人文主義者たちは正書法を学ぼうとしてローマの碑文に興味を持った。しかし、彼らは現代人と同じように、古物研究・歴史研究等の見地からも碑文に関心を寄せ、古代ローマの石碑等に刻まれた銘文を解読する「碑銘(エピグラフィ)研究」にも真剣に取り組むようになった。こうして、ルネサンスの人文主義者は古代の石碑、墓石などに刻まれた銘文、碑銘を各地で探索しながら、精確かつ綿密に模写し、そのように蒐集された碑文は写本の形で集成され、見事な書体となって精確に復元されたのだ。
E・P・ゴールドシュミット『ルネサンスの活字本』

数値化し幾何形態に還元することは、なにもローマ大文字だけに限ったことではなかった。視覚的に表わすことのできるありとあらゆる図像表現、とりわけ古代ギリシャ・ローマの造形物は、彼ら人文主義者にとって格好の研究対象であり科学的・数学的・幾何的に分析された。

「美しいものはすべて古典的であり、古曲的なものはすべて美しい」、また、古代ローマ人はそうして「絶対的な美」「真の比例」の基準を設けたのだと彼らは考えていたからだ。

こうした思想を持ったのは人文主義者(ヒューマニスト)であった。彼ら人文主義者の科学分析的思考への執着は、中世以来の不透明な神の力ではなく、黄金分割に代表される古代ローマ期に培われた普遍的な入間の叡智を科学的に理論化しようとする思想を象徴するものだといえる。もっとも、これには確固たる根拠もあった。ユークリッドなどの著作が再発見され、幾何学の分野が著しく進歩していたからだ。また13世紀以降「0」を用いて少数を表現できるアラビア数字がローマ数字にとって変わっていたことも見逃せない。

「数によって道が求められなければならない。また、数によってすべてを理解することができる」と記したのは、人文主義者ピコ・デラ・ミランドラ※7である。

人文主義者にとって、数値換算とは学問であり、思想・知識・美の普遍化とその共有化を意味するルネサンス思想の一側面でもあったのだといえる。

だが、こうしたルネサンス思想を背景としながらも、金属活字の基となる「型」を作る活字父型彫刻師(パンチカッター)は、幾何学的に構成されたローマ大文字の形象をそのまま無批判に受け入れたわけではなかった。

パンチカッターはヒューマニスト・ミナスキュール(人文主義者の小文字筆記書体)を基に活字化した小文字書体、それに組み合わせるための大文字に古代ローマ大文字を採用した※8

しかしパンチカッターは活字書体を形成する骨格・バランス・字幅・濃度、さらには小文字と組み合わせるための整合性等々、適正な活字組版を生成するために必要な要素を考慮し、技芸者特有の眼と手、そして製造工程などの技術的経験則にしたがってローマ大文字の活字父型を彫刻した。つまり活字化することが目的ではなかったにせよ、数値化されたローマ大文字の構成法は活字製造の現場では机上の空論だったわけである。

やがて人文主義者がローマ大文字に施した数値化と幾何学的分析に異を唱える人物が現れる。

それがヴァチカン教皇庁図書館の書記官ジョヴァンニ・フランチェスコ・クレッシ(1534頃–1614頃)である。クレッシは、すべてのラテン・アルファベットの起源とみなされているローマのトラヤヌス帝の記念柱(紀元113年建立)の基壇にある碑文、通称「トラヤヌス帝の碑文(図13)」を、人文主義者の幾何学的規範によらない書法で提示した(図14)。

図13[図13]トラヤヌス帝の記念柱の基墳にある通称「トラヤヌス帝の碑文」(113)

図14[図14]ジョヴァンニ・フランチェスコ・クレッシによるローマ大文字 (1560)

クレッシは1560年に発行され、のち幾度も版を重ねた著作『多くの文字をそなえた手本※9』で「ローマ大文字を円と四角形で構成する必要はない」と印し、たとえ道具を用いたとしても最終的には人間の眼と手を用いて描くべきだとしたのだ。つまり身体性の復権である。だが、この考え方は人文主義の理念からの逸脱であり、結果「異端」として捉えられている。

クレッシの後を継いでヴァチカン教皇庁図書館の書記官を勤めたのがルカ・オルフェイ(生没年不詳)である。

オルフェイはシクストゥス5世(教皇在位1585–90)が推進した「ローマの都市改造計画」において、碑文用書体を監督する任務に就いた。

オルフェイが1589年に作った碑文の設計図は、手稿と銅版印刷による2種類が残されている。その2種類共にクレッシ系のトラヤヌス・ローマンを誇張した形状をしている。

コンパスを用いて描かれた手稿のローマ大文字(図15)は、9分割されたユニットを基準とし、肉厚の形状をしている。そしてもう1種はエングレーヴィング技法による精緻な銅版印刷によるもので、10分割されたユニットにコンパスの基点と円弧によってローマ大文字が構成されている(図16)。

図15[図15]ルカ・オルフェイの手稿(1589)

図16[図16]ルカ・オルフェイの銅板印刷のローマ大文字(1589)

シクストゥス5世に捧げられたこの2種類のローマ大文字は「シクスティーネ」と呼ばれ、ローマの街や建築物に刻まれた。つまりシクスティーネはローマの都市改造計画用の制定書体だといえる。

制定書体である以上、同一形状を求められる。クレッシの薫陶を受けながらも幾何形態を活用した背景には、「規格化」という必然があったのだ。

「活字」の数値化と幾何構成による規格化

1517年、マルティン・ルターによる九十五ヶ条堤題に端を発する宗教改革の嵐は、またたく間に16世紀のヨーロッパに広がった。やがてプロテスタントを押さえ込もうとするカトリック勢力の巻き返し現象が起こる。

フランスではプロテスタント勢力を排撃すべく、さまざまな手段が講じられた。その1つはルイ13世の治下、枢機卿リシュリュー※10が1640年にルーヴル宮殿内に王立印刷局を創設したことである。その目的は、国家の栄光を讃え、カトリック教を広め文芸を発展させることにあった。

ルイ13世の後を継いだ14世は、1693年、科学アカデミー※11に、新しい活字を製作するように要請した。科学アカデミーは委員会を組織し、研究を重ね、定規とコンパスで円を分割し、細密な幾何学構成の大文字と小文字のローマン体とイタリック体の原図を作成した。設計者は数学者ニコラ・ジョージョンら3名、銅版彫刻はルイ・シモノーである。

原図は大文字縦8×横6—8ユニットの方形、小文字縦15×横7—12ユニットに分割され、その1ユニットはさらに6分割されて48×48=2304の方眼によって書体デザインが生成されていた(図17)。この精度はもはや電子レヴェルに近い。

図17-1

図17-2[図17]フランス科学アカデミーの数学者ニコラ・ジョージョンらによるローマン・ド・ロワの設計図。銅版彫刻はルイ・シモノー(1693)

設計されたその書体を科学アカデミーは「ローマン・ド・ロワ(王のローマン体)」と名付けて、王立印刷局のパンチカッター、フィリップ・グランジャン(1666–1714)に活字化するよう指示した。

だが、グランジャンはこの原図に正確に基づいて父型彫刻を行ったわけではなかった。グランジャンは数学者ジョージョンの学理と精神を咀嚼しながらも、イタリア・ルネサンスのパンチカッターと同様に、技芸者として眼と手を用いて活字父型を作った(図18)。

図18[図18]活字化されたフィリップ・グランジャンによるローマン・ド・ロワ(1702)

活字生成における数値(理想)と技芸(現実)の相剋は、以後、後世のコンピュータ時代にまで連綿と続くことになる。

活字鋳造と組版における計測単位の基準・体系化

活字製造における活字サイズ(ボディサイズ※12)、そしてその活字を組版として形成するための計測単位を初めて規格体系として標準化したのは、フランス・ロココ期にパリで活字製造者として活動をしたピエール・シモン・フールニエ(1712–68)である。

とはいうものの、フールニエ登場以前の活字製造者が活字鋳造と活字組版において規格化をしなかったわけではなかった。規格化できていなければ物理的に活字組版が成立しないからだ。だが、その規格は活字鋳造所ごとに異なるものであった。活字製造と組版・印刷、さらには製本・出版すべてを自家で賄っていた家内制手工業の時代にあって、標準化はさほど問題ではなかった。また、活字の大きさと書体の種類(ローマン体とイタリック体程度であった)も少なかったこともその要因の1つにあげられる。

ところが時代が下り、活字鋳造と印刷の分業化が進み、活字を流通させることが求められるようになると「互換性」と「共有化」という問題が浮上するようになる。なぜなら、組版・印刷所が異なる活字鋳造所の活字を混用して組もうとする場合、物理的に「ボディサイズ」の大きさが統一されていなければ活字は組めないからだ。したがって、当時の組版・印刷業者にとって、ボディサイズの不揃いを解消することは切実な課題だったのである。

フールニエはボディサイズ間の比例関係を列挙した『比例対照表』を1737年に作成。それは異なるサイズ同士に比例関係を設定し、異サイズの活字が混用された際の不整合を解消するものであった。

彼はフランスのインチである「プース」を12分割し1プース=12リーニュと定め、さらに1リーニュが6ポイントに相当するように設定し体系化した。これが現在にまで繋がるポイント・システムの原形である。

フールニエはこのシステムを、1742年発行の『印刷活字見本』(図19)にあらためて掲載、1764年には『比例対照表』をさらに発展させたポイント・システムを『タイポグラフィの手引き』(図20)で発表した。そしてこのシステムは、次世代の活字製造者フランシス・アンブロワーズ・ディド(1730–1804)へと受け継がれていく。

図19[図19]ピエール・シモン・フールニエによる『比例対照表』は『印刷活字見本※13』に掲載された(1742)

図20[図20]1764年にフールニエは『比例対照表』をさらに発展させたポイント・システムを『タイポグラフィの手引き』で発表した

後世「ディド・ポイント」と呼ばれたこのシステムは、フランスの標準的なインチとの関係が今一つ不正確で、精度が悪かったフールニエのシステムを再整備したものである。

ディド・ポイントは、フランス、スイス、ドイツを始めとする大陸ヨーロッパの活字版印刷の標準値として普及し、コンピュータが一般化する近年まで採用され続けた。ちなみに、メートル法に換算すると1ポイント=0.3759ミリである。

フールニエのシステムを源流とし、19世紀末にアメリカで整備されたポイント・システムが「アングロ・アメリカン・ポイント」である。

アングロ・アメリカン・ポイントでは1インチを72分割したサイズ、1ポイント=0.3514ミリに設定されている。イギリスではこの設定値を1905年に採用、日本では1908年以降より新聞社を中心に採用され、金属活字による活字版印刷の現場で標準値として使用され続ける。

そしてコンピュータ制御による「DTPポイント」と呼ばれる現在のポイント・システムは、1インチを正確に分割したサイズ、1ポイント=0.3528ミリと設定され、これがコンピュータにおける計測単位の世界標準となったのである。

活字製造の数値による規格化と標準化は、単に合理化といった利便性だけでなく、量産規格品→流通→産業という意味においての「近代」を結果的に導くことになる。歴史的経緯から見ても、このフールニエの業績は来るべき産業革命を準備したといっても過言ではない。「型」による量産規格品「タイプ(活字)」の存在は、言語伝達以上の意味を持つのである。

さらに加えれば、「活字」が規格・標準化・量産化されて流通(普及)することによって「書記言語」の固定化も同時に推進される。「書記言語」の固定化とは綴字法、句読法、文法といった言語表記法の確立を指す。活字版印刷術の伝播の経路と、イタリア語、フランス語、英語などの言語表記法確立の年代順は、その軌を一とするのだ。

翻ってわが国における活字版印刷術はといえば、幕末から明治初期にかけて移植されたもの、といって差し支えないだろう。わが国の活字版印刷の祖、本木昌造(1824–75)は、残念ながら活字版印刷術の創始者ヨハン・グーテンベルクに相当する人物ではない。長崎のオランダ通詞であった彼は、出島で見たであろう活字版印刷術の移植と、その普及と発展に多大なる貢献をした人物なのである。

わが国における活字版印刷術は、活字版印刷用の機材と周辺機器、技術、書体デザイン(この場合仮名書体は含まれないのだが)を含む「物」と「事」のほとんどが移植によるものだ。

そしてその多くは、当時アメリカの統治下にあった中国・上海、もしくはアメリカ本土からもたらされたものだといってよいだろう。機材と周辺機器が導入されることは、同時に「サイズ」も導入されることを意味する。

アメリカにおける活字サイズの規格統一が合衆国活字業協会によってなされたのは1886年のこと。したがって本木昌造は、それ以前のサイズ体系を日本に導入したことになる。

規格統一以前、アメリカの活字鋳造所の多くが活用していたサイズ体系は、当時最大大手であったマッケラー・スミスズ・ジョルダン活字鋳造所が採用していたシステム、「ジョンソン・パイカ」に拠るものが大半だったとされている※14

このジョンソン・パイカは、かのベンジャミン・フランクリン(1706–90)※15が、駐仏全権公使時代にフールニエの活字鋳造所から印刷用資材一式を購入したという歴史的関連を持つサイズ体系であった。つまりフールニエに端を発するポイント・システムの日本上陸である。

本木昌造らはこうした活字サイズの倍数体系※16を、「号」(図21)という名称に置換し活用しはじめた。

図21[図21]号数制活字の体系

のちわが国では規格統一された「アングロ・アメリカン・ポイント」を明治末期(1908)以降に採用しはじめるが、従来の「号」体系のものと「アングロ・アメリカン・ポイント」双方が、金属活字による印刷の現場で併用され続けることになる。そしてこの1ポイント=0.3514ミリのアングロ・アメリカン・ポイントがJIS規格として制定されたのは1962年のことであった。

金属活字の次世代の組版機である邦文用写真植字機は、1924年に森沢信夫と石井茂吉の両氏によって特許出願され、5年後の1929年に初期実用機が完成した。写真植字では、当初アングロ・アメリカン・ポイントを採用していたが、のちにメートル法にしたがった「級」(図22)という単位に改められる。

図22[図22]写真植字のサイズ体系にはメートルによる「級」が用いられているが、その体系は号数とポイントの倍数体系に倣っている

「級」とは1ミリを4分割した0.25ミリを1級とする単位であり、今日の日本語用組版のDTPソフトウェアでもポイント・システムと併用されているものである。

4分割すなわちQuarter、略して「Q」、漢字に置換して「級」、これが写真植字の設定基準値となっている。写真植字では、この0.25ミリを基本単位として活字サイズと字送り、行送りを設定し組版が形成されるのである。

活字鋳造・制作におけるユニット・システム

産業革命以降、あらゆる生産活動は大規模工場での大量生産時代に突入していく。なかでも活字製造と印刷産業はその先陣を切って、機械の大型化と自動化を推進させた。

活字版印刷術創始以来、活字製造の工程は鋳型に鉛合金を流し込み、1本ずつ活字を鋳造し人間の手で組み上げていくという、多大な労力と時間を要するものであった。

しかし1838年にアメリカのデヴィット・ブルース・ジュニア(1802–92)が発明した手回し式の活字鋳造機「ブルース活字鋳造機」の登場によって、手動式ながらも鋳造の速度は格段に向上し生産性を高めていた。

1885年、アメリカのドイツ人オットマー・マーゲンターラー(1854–99)が、1行単位で活字を鋳造する機械、ライノタイプ自動活字鋳造植字機(図23)を発明し、1887年には同国のタルバート・ランストン(1844–1913)が、1文字単位で活字を鋳造し植字までできるモノタイプ自動活字鋳造植字機(図24)を考案、1989年には試作機を完成させた。

図23[図23]ライノタイプ自動活字鋳造植字機

図24[図24]文字入力用のモノタイプ・キーボード(左)とモノタイプ自動活字鋳造植字機(右)

これらの自動活字鋳造植字機では、字幅が1文字ずつ異なるラテン・アルファベットのキャラクタを、素早く自動的に鋳造することが目的であった。そのため合理的で効率的に製造できるシステムが考案された。

モノタイプのシステムでは、全角(em、1 : 1の正方形)を18分割し(ライノタイプは19分割である)、個々に字幅が異なるキャラクタの文字幅(セット・ウィドゥス)を18分割したユニットのいずれかの数値にあてはめ、数値管理によって活字を鋳造できるようにしたのである(図25)。

図25-1

図25-2[図25]モノタイプのユニット・システムは18ユニット。ユニット数は書体によって異なる。上はスコッチ・ローマン、下はバスカヴィル

例えば小文字のi、j、lは5/18ユニット、a、c、eは8/18ユニット、大文字のM、Wは18/18ユニットの矩形に納めるというようにだ。つまり個々のキャラクタ・デザインは、機械の都合と制約によって成立しているという側面を併せ持つ。またこのユニット・システムは、レター・スペース(字間)の調整にも応用された。

ユニット・システムは、全角を分割する単位が細かければ細かいほど必然的に精度は高まり、書体デザインは自然な形象に近付く。そのため時代が下がりユニットが細分化されるにしたがって書体デザインの精度は向上することになる。

先に人文主義者たちのローマ大文字の分割について記述したが、ユニット・システムの主たる目的は、機械による活字鋳造と植字工程の合理化であり、ローマ大文字を幾何学的に構成するためのガイドラインであったルネサンス期の分割法とは根本的に異なるものなのだ。

邦文写真植字にもこのユニット・システムは応用された。

写真植字には金属活字のように物理的な大きさ(ボディサイズ)がない。写真植字はガラス文字盤に定着されたネガ状の文字書体が、レンズによる拡大・縮小率によってサイズ決定されて光学処理で印画紙に焼きつけられる。したがって書体デザインをする際にも活字サイズを指定するためにも仮想の枠「仮想ボディ」を必要とする。

写真植字における和文書体の仮想ボディは、金属活字の四角柱と同様に正方形(全角1 : 1)である。そしてこの全角を縦横16分割(のち32分割)した「ユニット」の単位によって、邦文写真植字における欧文書体の文字幅が設定された(図26)。

また欧文、和文も共に0.25ミリ単位の制御だけでなく、級数個々に対応した16あるいは32分割ユニットの単位によって字間の調整をすることもできるようになったのである。

このユニット・システムは、次世代のシステムになって限りなく細分化されることになる。

1984年、アップル・コンピュータ社によってマッキントッシュ・パーソナル・コンピュータが登場し、情報伝達の構造を革新させた。文字組版でいえば、それまで印刷・組版業者専有だったものが、デザイナー、編集者だけでなく一般的にも解放された。

機械鋳造による金属活字においても写真植字の時代においても、活字制作と組版における調整可能な全角のユニット数は2桁以上になることはなかった。そのため、制作者は理想的な文字形象と機械との整合性の接点を求めることに必要以上に傾注しなければならなかった。

したがって、機械の制約に縛られない時代の手組用の活字書体のデザインが、ある意味で理想的であるという論拠が成立することにもなる。

しかし —— 現時点でのパーソナル・コンピュータにおける印刷用書体(デジタル・タイプ)は、任意のサイズに対して縦横1000分割(1000メッシュ)が基準値(図27)として設定され、フォント・フォーマットに電子信号として収納されている。また組版ソフトウェア上で1/1000単位でのレター・スペース調整も可能となった。さらにいえば、デジタル・タイプの制作現場では、それをはるかに超える数値(15000メッシュなど)での書体開発がなされており、それを1000メッシュに間引いてフォント・フォーマットとして生成しているのだ。

図26[図26]写真植字における16分割のユニット・システム

図27[図27]デジタル・タイプにおける1000メッシュのユニット・システム

かつて先人たちが求めてきた数値化、定量・定数化、規格化はむろんのこと、その精度は、もはや人間の眼と手の領域をもはるかに超え、紙にインキを転写するという物理的な再現の範囲(たとえば画面上・数値上では表現できているが印刷では細密すぎて表現できない極細の罫線など)をも軽々と超えてしまったかのようだ。ルネサンス以降、あまたのタイポグラファが営々と求め続けてきた理想的な書体デザインとタイポグラフィを実現するための制約は一切合切取り払われた、といった案配だ。

実際、パーソナル・コンピュータの登場以降、デジタル・タイプは加速度的に増え続けた。かつて金属活字も写植活字も実現不可能だった、筆脈の接続を要する繊細なスクリプト書体や手書きのニュアンスを有したカリグラフィ系書体、古典書体の覆刻、それにトラヤヌスの碑文に代表されるローマ大文字の碑文系書体、筆やペンなど筆記具のニュアンスが色濃く残った筆書系書体など、およそ現時点で考えられる文字形象のほとんどが、1000メッシュのフォント・フォーマットに落とし込まれコンピュータに実装できるようになった。

これをしてルネサンス以降、550年以上にわたって展開されてきたタイポグラフィの数値(理想)と技芸(現実)の相剋の終焉と捉えてよいのだろうか?

1990年、コンピュータ・プログラミングによってキャラクタ個々の形象がマッキントッシュ®︎の画面に現れる度に変化する書体「ベーオウルフ※17」(図28)が登場した。

図28[図28]エリック・ファン・ブロックランドとジャスト・ファン・ロッサムの設計による「ベーオウルフ」(左)。ベーオウルフの骨格はごくオーソドックスなローマン体(右)を基にしている(1990)

デザインはオランダの若いタイプ・デザイナー、エリック・ファン・ブロックランドとジャスト・ファン・ロッサム。彼らは、かつて先人達が追い求めた、人間の理性によって制御可能な領域にある書体デザインにはもはや興味なし、ともいわんばりに「べーオウルフ」を発表したのだ。

ベーオウルフは、その形象の奇抜さゆえ、単なるキッチュな書体として捉えられ、結果として時代の流行書体として消費される運命を辿った。だが、その奇抜なデザインの背後には、タイポグラフィの根幹を揺るがす問題が存在していた。

その1つは、規格化された文字の「型(タイプ)」をもとに、繰り返し「同じ形象で再生される」公的文字、という「活字の定義」を、ベーオウルフは「可変造形する活字」であるがゆえに逸脱しているという点。

さらにもう1点。文字活字が印刷によって現れる時につきまとうインキの滲みや掠れといった予測・制御不能の事象(ノイズ)は、既にコンピュータによって克服されたものとし、予測・制御不能の事象、あるいは文字を成立させていた人間が書くという身体性を含む不規則なリズムを、逆にプログラミングによって再制御・再現出させる、という点である。この2点においてベーオウルフの登場は正に衝撃的であったのである。

禁断の木の実といえなくもない未知なる領域に踏み込んだべーオウルフが登場して早18年たつ。しかし現在に至るもべーオウルフについて言及した論文がこの分野から出る気配はない。

紙面設計における規格化と数値化(1)

ブック・フォーマット

これまで文字・活字設計と組版における数値・定数化、規格化の概略を追ってきたが、ここからは活字書体が組まれ紙面に定着される際の数値・定数化、規格化を概観してみたい。

活字版印刷術が発明されるはるか以前の書写本の時代より、紙面に文字が記される体裁(ブック・フォーマット)は、段組(コラム)と呼ばれる様式によって形成されてきた。それは文字がテキストとして並べられた「書物」ほぼすべてに共通するものであり、たとえテキストの支持体が紙でも皮革でもなく、石などの鉱物であったとしてもコラムは存在してきた。

活字版印刷術の創始者グーテンベルクは、活字書体のデザインだけでなく、2段組というブック・フォーマットも当時の書写本に倣っている(図29)。活字版印刷術は基本的に既存の書写本を、機械を使って合理的・効率的に複製することから始まったのである。

図29[図29]ヨハン・グーテンベルクの『42行聖書』の本文組版(1450–55)

19世紀末、かつて誰も顧みなかったブック・フォーマットの重要性を説く人物が現れる。

それがイギリスでアーツ・アンド・クラフツ運動を提唱し、社会主義者として活動したウィリアム・モリス(1834–96)である。モリスがデザインに与えた影響は、あらゆる分野において語り尽くされてきた。

それはタイポグラフィの分野においても同様で、実際に彼の個人印刷所であるケルムスコット・プレスの活字書体、組版、印刷・製本など、モリスのタイポグラフィにおける事蹟についての研究書は、洋の東西を問わず数多く存在している。

モリスは紙面における組版の位置をどのようにすべきか、抽象的ではあるものの初めて提示した。

「文字組版の版面は、ノド(糸でかがられた中央部)の余白はもっとも狭く、天(上部)はそれよりもやや広く、小口(書物の左右の外側)はさらに広く、地(下部)はもっとも広くしなければならぬ。中世の書物では、写本であれ印刷本であれ、この規則からの逸脱はまったく見られない。……これらの間隔と位置の問題は美しい書物を制作するのに一番大事なことである」と記し、テキストが見開き単位で1つのブロックとして見えることが重要だと説いたのだった(図30)。

図30[図30]ウィリアム・モリスの版面設定

モリスに続いたのは、彼の直接的な影響下にあったイギリスのエドワード・ジョンストン(1872–1944)である。

ジョンストンは今日においても、近代カリグラフィの開祖として広く知られている人物であり、その著書『書字法・装飾法・文字造形※18』は、古典的な書法を具体的に示し詳細に解説したカリグラフィの教科書として世界各国で翻訳され、刊行以来現在まで途切れることなく発行され続けている名著である。

ジョンストンはその著作の一節で、ブック・フォーマットを以下のように具体的な数値で提示した。

マージンはテクストをほかの部分と分離するためには不可欠な余白の部分で、文字を読みやすくしかも美しく保つためにとても重要である。狭いよりは広いマージンのほうが無難だが、無闇に広く取るのは逆効果である。……各ページの中でのテクストとマージンの比率は状況次第で決まるので、感性に頼る部分が大きいといえる。そのためにもページサイズとそれに対応したマージンの定型を、あらかじめ何とおりか用意しておくと便利だろう。

ほかの各部とマージンとの比率は伝統にしたがう。すなわち地のマージン[4]は、天のマージン[2]の2倍になり、両脇小口のマージン[3]は一般に天と地の間の値を取る。

見開きで2ページ分を見た時に、テクストのふたつの段が並んでいるように見えるようにする。中央(ノド)に位置する各ページの左右小口のマージンは、実際にはひとつの空間として統合されて見えるので、ノドのマージンを小口の半分程度に狭くしておけば、双方のページを合わせたときに小口のマージンとほぼ等しくなる。初期写本のマージンの比率は、ほぼノド1.5、天2、小口3、地4となっている。このように十分なマージンを適宜配置することで、書物は格段に使いやすくしかも美しくなる(図31)。

図31[図31]エドワード・ジョンストンの紙面におけるプロポーション(1906)

このジョンストンの提示したブック・フォーマットをさらに詳細に数値化し、図式化してみせたのが、20世紀を代表するタイポグラファ、ヤン・チヒョルト(1902–74)である。

チヒョルトはドイツ・ライプチヒに生まれ、カリグラフィと伝統的なタイポグラフィを学び、1923年ワイマールでのバウハウス展に感化され、その前半生をいわゆるモダン・スタイルのタイポグラフィにおいて展開した(図32)。

図32[図32]チヒョルトによって編集とデザインがなされた『タイポグラフィ通信特別号※19』「タイポグラフィの基礎」(1925)

ナチの迫害を逃れスイス・バーゼルを拠点に活動した後半生は、伝統的な様式に基づいたタイポグラフィ(図33)に回帰。彼はタイポグラフィにおける2つの有用なる様式それぞれを理論・体系化し、さらにはそれを高次元で具現化したタイポグラファとして、いまだ論議の俎上にのぼり続けている人物なのである。

図33[図33]チヒョルトが晩年に手掛けた『十竹斎書画譜』(1970)

チヒョルトは生涯数多くの文学作品のブック・デザインを手掛けた。なかでももっともよく知られているのがイギリス・ロンドンのペンギン・ブックス社での仕事である。

彼はペンギン・ブックス固有の活字書体の選定法と組版規則を「ペンギン組版ルール」(図34)として定めた。また、ペンギン・ブックスの各シリーズのブック・フォーマットを作成し、高品質でありながらも大量生産を前提とした、合理的で汎用性のあるデザインを展開したのである(図35-A、図35-B)。

図35-A[図35-A]「キング・ペンギン」用のデザイン基準指定図と表紙用のフォーマット(1948)

図35-B[図35-B]「キング・ペンギン」用の紙面の最大版面と同シリーズ共通のタイトル・プレートのフォーマット(1948)

1962年、チヒョルトは自身が徹底的に調査・解析した、ブック・フォーマットの設定基準値と規範図式(カノン)を開陳した。『Willkürfreie Maßverhältnisse der Buchseite und des Satzspiegels※20』(図36)がそれである。

図36[図36]『Willkürfreie Maßverhältnisse der Buchseite und des Satzspiegels』の表紙(1962)

彼は歴代の書物を解析し、有用なブック・フォーマットの定数と規範図式を再構成してみせた。美学の分野では既に議論が尽きたはずの審美的要素の定数・図式化である。

チヒョルトは後期ゴシック期の写本工房の工匠ヴィラール・ド・オネクールの紙面構成図に含まれる調和的分割法(図37)や、チヒョルトと同時代の研究者ファン・デ・グラーフ(図38)、ラウル・ロザリヴォ(図39)などの分割法を具体的に図式化し、応用展開を試み、汎用性のある指標としてのブック・フォーマットを提示してみせたのだ。

図37[図37]ヴィラール・ド・オネクールの調和的分割法(13世紀前半)

図38[図38]ファン・デ・グラーフによる9分割の方法(1946)

図39[図39]ラウル・ロザリヴォによる紙面の縦横の9分割(1961)

しかし、これらはあくまでも基準値であって、絶対値ではなかった。なぜなら、書体の種類とサイズ、そしてそのウェイト(太さ)、字間、語間、行送り、組幅など、紙面における所与の関係はその都度異なるため、指標にはなるが絶対値とはならなかったからである。

そしてチヒョルトは、数値化することのできない定数「目」と「手」が良質の書物の均整をかたちづくるのだ、とその著作に印したのである。

紙面設計における規格化と数値化(2)

グリッド・システム

それまで1段組、2段組、3段組など縦の段組だけを考慮し分割されていたブック・フォーマットを、縦横共に細分割し、写真や図版(視覚情報)とテキスト(言語情報)のレイアウトを支援するために生まれたのが、「グリッド・システム」と呼ばれる格子状のガイドラインである。

グリッド・システムは、ナチの迫害を逃れ中立国スイスに身を寄せていた周辺諸国のグラフィック・デザイナーが、第二次世界大戦後に確立したシステムである。彼らはグリッド・システムを用いて視覚情報と言語情報を統合させ、さらに技術と美学を同時に結び付け、分析的かつ機能的で秩序だったデザインを展開していった。

このグリッド・システム成立の背景には、ディ・スティールやバウハウスなどに代表される20世紀初頭の前衛芸術運動の潮流から派生した「ディ・ノイエ・ティポグラフィ(ニュー・タイポグラフィ)」と呼ばれる機能的で合理的なタイポグラフィの存在があった。

「ニュー・タイポグラフィ」はロシア構成主義のエル・リシツキー(1890–1941)、バウハウスのラズロ・モホリ゠ナジ(1895–1946)、ヨースト・シュミット(1893–1948)、ヘルベルト・バイヤー(1900–85)、それにオランダのピート・ツヴァルト(1885–1977)などが提唱・実践したモダン・タイポグラフィである(図40)。

図40[図40]ラズロ・モホリ゠ナジ自身による「新しいタイポグラフィ」のテキストと組版(左、1923)と、エル・リシツキーの著作『諸芸術主義 1914–1924※21』(右、1925)

「ニュー・タイポグラフィ」では

タイポグラフィは機能的かつ合目的的であるべきであり、そのため歴史・宗教・民族臭が付着した従来のローマン体は使用せず、無機的なサンセリフ(日本でいうところのゴシック体)を用いること。さらに古典的な中軸揃えを破棄し、時代と生活の運動性に適応した能動性のあるアシンメトリー(非対称)の組版とする。新しい時代の視覚情報である写真術とタイポグラフィによる視覚効果の融合を計る。工業規格に合わせた標準化

などが提唱された。これを論理的に言語化し、体系化したのが若きヤン・チヒョルトである。

1940年代後半、補助的とはいえグリッドを利用した初めての印刷物が発行される。それはまだ未成熟なものとはいえ、規則的な原則に基づいた組版や図版の配置、ページ・レイアウトの均一性、そして題材の存在を客観的に捉えようとする次世代のモダン・タイポグラフィの特徴を有するものであった。

グリッド・システムの効用がもっとも具体的に示されたのが1958年に刊行されたスイスのグラフィック・デザイン誌『ノイエ・グラーフィク(ニュー・グラフィック・デザイン)※22』(図41)である。デザインはハンス・ノイブルク(1904–83)、リヒャルト・ローゼ(1902–88)、カルロ・ヴィヴァレリ(1919–86)、ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマン(1914–96)。やがてスイス・デザインの潮流を牽引することになるグラフィック・デザイナーたちである。

図41[図41]『ノイエ・グラーフィク』(1958)

『ノイエ・グラーフィク』は、ドイツ語、英語、フランス語の3ヵ国語と写真や図版などの視覚情報を同一誌面に視覚的に融合させることを目的としていた。彼らは活字サイズと行送りから導き出されたユニットを用いて誌面を分割し、数学的秩序に基づいたグリッドを活用しはじめる。

ブロックマンはのちにこのグリッド・システムを『グリッド・システムズ・イン・グラフィック・デザイン※23』(図42)としてまとめ、その生成法と活用法を説き、グリッド・システムの理念を以下のように提示した。

「組織化して明確さを得る」「本質的要素を理解し純化する」「主観性ではなく客観性を育てる」「創造と技術の制作過程の合理化」「色彩、形態、素材の統合」「面と空間に建築的支配を確保する」「能動的態度をとる」「建築的創造的精神による制作物の効果」「教育の重要性の認識」。

図42-1

図42-2

図42-3[図42]ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマンの著作『グリッド・システムズ・イン・グラフィック・デザイン』のジャケット(上)と本文(中・下) (1981)

またその利点を以下のように示した。

「視覚伝達において論拠を客観的に組み立てることができる」「本文や図版を規則正しく論理的に組み立てることができる」「本文と図版とが調和を保ちながら、簡素に編集・構成することができる」「わかりやすく、高度な均衡性を組織化するための視覚要素を組み立てることができる」。

このようなグリッド・システムの性格上、言語情報を主とする書籍にグリッド・システムが活用されることはほとんどなかった。そのかわり視覚情報を優先する雑誌、カタログ、図録などの冊子媒体のほか、ポスター、広告、販売促進物、展示ディスプレイ、サイン・システムなど、時代が求める新たな媒体に活用されることになる。

1960年代以降、グリッド・システムを利用したデザインは世界のデザイン界を席巻した。わが国も例外ではなく、すぐさまその方法論は転用され応用された。

しかしグリッド・システムを技法としてのみ取り入れ不用意に活用すると、紙面は画一化を招くことになる。つまり読者にとってはどのページを開いても同じような紙面が現れるという、硬直した単調なページ展開にしか映らなくなるのだ。一方デザイナーにとっては、単純にグリッドにそってレイアウトしていくのには効率的ではあるものの、一旦その枠から外れようとすると一挙にグリッドは扱いづらく堅苦しいだけの制約となる。その結果多くのデザイナーは、その堅苦しさをヨーロッパの合理主義に重ね合わせ忌み嫌うことになるのである。

だが、堅苦しい制約、硬直した単調なページ展開の要因はグリッド・システムそのものにあるわけではない。グリッド・システムはあくまでもレイアウトを支援するガイドラインであって、良質なデザインを保証するものではないからだ。つまり、チヒョルトが『紙面と版面の明晰なプロポーション』で記したように「数値化することのできない定数「目」と「手」が良質の書物の均整をかたちづくる」ことが、グリッド・システムについても同様にいえるのである。

紙面を構成する諸要素は、数値化することのできない意味と統語、語用などの所与の関係性によって成立しており、結果的には視感覚によって制御されなければならない。

ブロックマンらが活動したスイスの拠点はチューリヒであった。ほぼ同時代、同国のバーゼルでは1人の教師が工芸学校「バーゼル・スクール・オブ・デザイン」を拠点として、タイポグラフィにおける視感覚コントロールの可能性を試みていた。エミール・ルダー(1914–70)がその人である。

ルダーは1957年に発売されたサンセリフ書体「ユニヴァース」を用いて、それまで静的な二次元空間に安住していた紙面空間を、擬似的とはいえ三次元化させ、なおかつ動的均衡を保有する紙面が可能であることを実証してみせた。

ユニヴァースは、1957年にアドリアン・フルティガー(1928–)※24がデザインしたサンセリフ書体である。ユニヴァースは設計当初よりファミリー※25展開することを前提にデザインされた初めての書体であった。

その特質は、英語、フランス語、ドイツ語など異なるラテン・アルファベットを組んでも、どの言語も破綻のない均質な組版が得られるという、かつてどの書体もなし得なかったことを可能にしたことにある。また、ライトからボールドウェイトまでの組版濃度(グレートーン)の段階に均等なグラデーションを持たせることができる視覚的な書体であった。

フルティガーはこの均質な書体をデザインするにあたって、縦画(ステム)の幅などはある程度の定数化をしたものの、印刷される黒と印刷されない白との濃度バランスをはじめ、そのほとんどを眼と手を使ってデザインした。

ルダーはユニヴァースの持つ特性を最大限に生かした動的で奥行き感のある紙面を、グリッド・システムを援用し視感覚コントロールによって現出させることに成功する(図43)。欧米諸国では60年代から80年代にかけて、こうしたグリッド・システムを活用したバーゼルやチューリヒのデザイナーの影響を色濃く受けたデザインが次々と生み出されていった。

図43-1

図43-2[図43]エミール・ルダーの著作『タイポグフィ』(1967)は、タイポグラフィにおける視感覚コントロールについての事例が数多く掲載されたタイポグラフィの教科書。掲載図版はユニヴァース・ファミリー(上)と、ユニヴァースを用いた「グレーの階調」(下)

80年代中期以降になると、ルダーの跡を継いで「バーゼル・スクール・オブ・デザイン」で教壇に立ったウォルフガング・ワインガルト(1941–)が行ったオフセット平版印刷における実験的タイポグラフィの強い影響と、パーソナル・コンピュータの出現によって、グリッドは重層化され、なおかつ限りなく細分化され、遂には方眼紙レヴェルからビットマップ・レヴェルにまで細分化される。

そしてグリッド・システムは、脱構築主義の潮流と相まって、一挙に解体への道を歩むのである。それをデザインの分野ではニュー・ウェイブ・タイポグラフィ(図44)と呼んだ。

図44[図44]ズザーナ・リッコとルディ・バンダーランスによる『エミグレ』誌の本文。ニュー・ウェイヴ・タイポグラフィは、コンピュータを用い始めた世代が牽引し、1980年代後半から90年代中期にかけて、世界的な潮流となった(1984–2005)

ルダーが提示した紙面空間は、視感覚コントロールによらないレイヤー機能とスリー・ディメンション機能で簡便に実現するようになった。視覚情報と言語情報はデジタル支援によって幾重にも重層化し、テキストは画像と化し、画像は視覚「言語」として画面上でテキストと等価となった。

さらに画像は動画となり音声情報までもが付与された。まさに、ブロックマンが掲げたグリッド・システムの理念の1つ、視覚情報と言語情報の統合、それ以上の実現である。ブロックマンが著作『グリッド・システム・イン・グラフィック・デザイン』を『グリッド・システムズ・イン・ブック・デザイン』としなかった1つの理由がここにある。

その後のタイポグラフィの進展

視覚情報と言語情報の統合を目指したモダン・タイポグラフィが加速度的に進化(?)する一方で、伝統的タイポグラフィはその後どうなったのであろうか。

だが、そもそも伝統的タイポグラフィとは一体何を指すのだろう?

一般的に「本を読む」とは、テキストそのものを読むことを指している。むろん視覚情報から「読み取る」ことはできるが、それは視覚情報を受け手が言語化することであって、言語そのものを読んでいるわけではない。したがって、ここでは伝統的タイポグラフィを「言語情報を主とするタイポグラフィ」と仮定して、まずは話を進めてみる。

言語情報を主とするタイポグラフィでは、印されたテキストから内容を理解する。紙面に印されていない視覚情報や音声情報は、読者の内的対話や想像力(イマジネーション)によって補完される。つまり言語情報を主とするタイポグラフィには「足りない情報」という贅沢な「余地」が残されており、その余地が読者自身によって埋められることでテキストは一応の成立をみる、といえなくはない※26

モダン・タイポグラフィでは、この余地をあらかじめ補完するために写真や図版という視覚情報が用意され、さらには受け取られ方を限定すべく視覚情報と言語情報は制作者の能動的態度でもって視覚的に制御される。

これが言語情報を主とするタイポグラフィとは異なるニュー・タイポグラフィとモダン・タイポグラフィの歩んだ道であり、ひいては、受け手の介在の余地の少ない一元的な情報の伝達にとって効力を発揮することになったのである。

とはいえ、言語情報を主とするタイポグラフィとモダン・タイポグラフィを分かつ境界線は限りなく曖昧だ。なぜなら、受け手個々によってその受容の仕方は結局は千差万別だからだ。

1996年、アメリカに移住したチェコ出身のタイプ・デザイナー、ズザーナ・リッコ(1961–)と、オランダ出身のグラフィック・デザイナー兼編集者ルディ・バンダーランスの2人のデザインチーム「エミグレ(移民を意味する)」が「ミセス・イーヴス」という名のデジタル・タイプを発表した。

彼らは1980年中期よりマッキントッシュ・コンピュータを使って数多くのデジタル・タイプを制作してきた。なかでも当時のデジタル環境を考慮した、自虐的とも諧謔的とも受け取られかねない疑似ビットマップ・フォント※27「ロウ・レゾ(低解像度)」(図45)の登場は、センセーショナルであった。

図45[図45]ズザーナ・リッコのデザインによる「ロウ・レゾ」のファミリー。1985年に設計され、2001年にも改刻されている

それは、既に1000メッシュでのアウトライン・フォント※28を実装できる時代にあって、あえて目の粗いビットマップ・フォントを制作し、それがデジタル時代の読者の「眼の慣れ」に適しているという主旨だったからだ。

彼らはそれらの書体を用いて自分達の媒体であるデザインとタイポグラフィの雑誌『エミグレ』を発行。そこで展開されたのが先に紹介したニュー・ウェイブ・タイポグラフィである。彼らはこの潮流を牽引した第一人者でもあったのだ。

1996年、それまで独創的な書体だけをデザインしてきたズザーナ・リッコは、初めて古典書体を手掛ける。「バスカヴィル」の復刻「ミセス・イーヴス」(図46)である。

図46[図46]古典的な組見本が掲載された『ミセス・イーヴス』の書体見本帳(1996)

バスカヴィルはイギリスのジョン・バスカヴィル(1706頃–75)を源流とする活字書体で、20世紀初頭から現在まで、書体メーカーが必ず時代のテクノロジーに適合させて復刻してきた定評ある書籍本文用書体である。

リッコはこの「ミセス・イーヴス」の制作を境に、再び紙の上のタイポグラフィに戻ることを宣言し、古典書体を現代の読者の時代性と需要に適合するように最新のデジタル技術を援用して、デジタル技術でなければ実現不可能な書体を復刻(改刻)させた。

ミセス・イーヴスには、リガチュア(合字)(図47)が随伴書体として付加されており、「リガチュア・メーカー」と呼ばれるアプリケーション・ソフトを介して生成される。その本文組版は、過剰なほど擬古典的ともいえるが、リッコのミセス・イーヴスにおけるこの試みは、本文用書体開発における多様な可能性を示すことになった。

図47[図47]「ミセス・イーヴス」には、通常のローマン体、イタリック体、スモール・キャピタルのほかに、過剰ともいえるリガチュアが100種以上も存在している(1996)

こののち、従来の書体(金属活字・写植活字)を単にデジタル・フォーマットに置換するだけに安住していたタイプ・デザイン界は、本文用書体の開発において、本来なにが必要で、そのためにコンピュータはどのように活用できるのか、という視点を持つようになる。そしてその手始めにタイプ・デザイナーたちがしたことは、古典書体の見直しと、その現代的解釈による改刻なのであった。

イギリスのペンギン・ブックスでは2004年に『グレート・アイデアズ※29』(図48)を刊行した。このシリーズは、古典から近代までの名著を復刻したもので、いわゆるペーパーバックと呼ばれる、ごく当たり前の読み物(言語情報を主とするタイポグラフィ)であった。

図48[図48]2004年に刊行された『グレート・アイデアズ』の本文組版。その組版は伝統的な様式にしたがった中軸揃え

使われている書体は金属活字でも写植活字でもない、デジタル・タイプの「ダンテ」という書体である。ダンテの源流はルネサンス期に印刷・出版人として活動した人文主義者のアルダス・マヌティウスの工房で使われていたローマン体で、1946–56年に金属活字として改刻され、近年になってデジタル化された書体である。

『グレート・アイデアズ』の組体裁は、伝統的タイポグラフィの様式に乗っ取った一見何の変哲もない様相を呈している。そこには新奇な書体は使われておらず、また目新しい組体裁があるわけでもない。しかし、用いられている書体は古典書体を改刻したデジタル・タイプで、組版はコンピュータ支援によるアプリケーション・ソフトなのだ。そして、それはわが国の文庫本や単行本における現在のタイポグラフィの状況とまったく同様なのである。

最新のテクノロジーを用いながらも、従来と異なることのないタイポグラフィ。「言語情報を主とするタイポグラフィ」は「なにも変わらなかった」のか?

否、変わったのである。これがタイポグラフィにおけるわずかばかりの変化であり進展なのだ。

言語を活字によって記述する。

ただそれだけの事にタイポグラフィは存在し、ただそれだけのためにタイポグラファはグーテンベルク以来、550年以上にわたって膨大な時間と労力を注ぎ込んできた。

そしてその背景には必ず数値化、定量・定数化、規格化が存在し、同時にそれを支える眼と手という身体が存在してきた。

文筆家も読者もほとんど無自覚のままそれを受け入れている。むろん、それは否定されるものではなく、むしろ無自覚でいることのほうが幸せではないか、とも思う。だが数値化、定量・定数化、規格化は今日ある「近代」を根底から支えた思想であり、その意味でいえば活字版印刷術(タイポグラフィ)こそ近代そのものだといえるのではないか。だからこそ、せめてその一端でも知っておいてもらいたいと思うのである。

「近代は終わった。いや、終わってはいない」、「モダンとは、モダニズムとは、モダニティとは」と、さまざまな分野で「近代」は語られ続けてきた。決して意識されることのないタイポグラフィを通して ——

そしてそのテキストを印すための書体のほとんどが、明治初期以来使われ続けてきた「モダン」な書体「明朝体」に属し、現在200を優に越す明朝体の中から選ばれた1つの明朝体であることも意識されることはない。そう、このテキストでさえも※30。それが言語社会を支え続けてきたタイポグラフィの尽きせぬ魅力なのである。

タイポグラフィとしてのスタイルシート

タイポグラフィでは、文字や単語は機械的な手法で生み出されます。……(サイズや位置などの)情報は他の人に渡すことができ、別の機会にまったく同じものを再現することもできます。
フレット・スメイヤーズ『カウンターパンチ※1

タイポグラフィとは、人の手によって直接描かれるものではなく、機械的な手法によって生成されるものです。そして、その書体や文字サイズや行間といったものをデータとして定義でき、そのデータをもとにまったく同じものを再現できるものでもあります。

図1

ここに示したのはウェブサイトやモバイルアプリケーションなどの表示スタイルを記述する言語であるCSS(カスケーディング・スタイル・シート)のコードです。これによって書体や文字サイズ、行間、そして文字サイズを基準にしたスペーシングなどが定義されます。このコードをもとにして、ウェブブラウザなどユーザーエージェントという機械が文字を整形して表示する。これは表示する環境が変わっても再現可能です。タイポグラフィの定義を見れば、こういったCSSのコード片も、タイポグラフィであることがわかります。

紙面に文字を配置する技術として数百年の歴史を持つタイポグラフィですが、近年はパソコンやスマートフォンなどデジタルデバイスの画面にもその領域を広げてきました。本稿ではウェブサイトやアプリケーションなどのオンスクリーンメディアにおける実践を題材にして、タイポグラフィを考察していきます。

音楽と数学から考えるタイポグラフィ

欧米のタイポグラフィの本を読んでいると、必ずと言っていいほど出くわすのが音楽の話です。しかも「リズムを意識しましょう」とか「ハーモニーが大切です」とかいった抽象論や精神論ではなく、 数学に基づいた音楽理論をもとにタイポグラフィを解説している例が多々あるのです。

図2Robert Bringhurst “The Elements of Typographic Style※2

この図版はカナダの詩人でありタイポグラファーのロバート・ブリングハーストが書いた『The Elements of Typographic Style』という本に掲載されているもの。それぞれ本の見開きの状態が示されていて、ページの縦横比をいかにデザインするかということが語られています。いちばん上は縦長の本でページの縦横比が1 : 2。いちばん下は正方形の本で比率は1 : 1。さらにその間に様々な縦横比のバリエーションがあり、これらのページの比率はすべて音楽における音程の周波数比になっているのです。

図3

音の高さは周波数によって決まります。ここでは基準となる音と各音程との周波数の比率を示しています。ユニゾン、つまりまったく同じ高さの2音の周波数比は1 : 1で、オクターブ上の音は1 : 2になります。こういった音程の周波数比をページの寸法に適用しているわけです。

またこれらの数字を見ていくと、わたしたちに馴染みの深い比率が多く含まれています。たとえば画像や映像のアスペクト比でよく使われる、短7度の16 : 9や完全5度の3 : 2、完全4度の4 : 3といった比率があります。また短6度の5 : 8は黄金比に近く、減5度(増4度)の1 : √2は白銀比です。

音楽と諸芸術は、数学の姉妹である。全ての芸術と同じように、音楽もまた自然の法則に基づいている。
ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマン『グリッドシステム ― グラフィックデザインのために※3

タイポグラフィに数学的思考を取り入れモダンデザインを牽引したヨゼフ・ミューラー゠ブロックマンが言うように、デザインと音楽には深い関連性がある。つまり、タイポグラフィの背後には必ず数学的なロジックが潜んでいます。当然、最終的にはデザイナーの「眼」で見て判断されるわけですが、その前に音楽や数学のロジックはガイドラインとして大いに力を発揮するのです。

音楽には様々な要素が複雑に関係しており、そのコアになるのはハーモニー、リズム、メロディという3つであると言われています。「ハーモニー」は、複数の音の調和のこと。ギターやピアノで弾くコードや、オーケストラなどでたくさんの音が同時に鳴ったり、アカペラで声がハモったりといったものを想像してください。「リズム」というのは、音楽の時間的な変化。もっともわかりやすいのはドラムやメトロノームなどの拍。「メロディ」は、旋律とも言いますが、たとえばロックバンドのヴォーカルやジャズのピアノソロなどで表現されるものです。

この音楽の3要素に沿って、それぞれがタイポグラフィにどう関係するのか、またその背後にどのような数学的ロジックがあるのかを見ていきたいと思います。

ハーモニー

「ハーモニー」とは音が協和すること、つまりいくつかの音が合わさって心地よい響きを生むことを言います。日本語で「調和」とも訳されます。音の高さは振動数によって決まるという話をしましたが、音が調和するということはつまり、振動数の比率がちょうどいいバランスになっている状態です。

タイポグラフィにおける調和とは何かというと、文字サイズや行間、グリッドのカラム幅など、様々なサイズが美しい比率で画面上に共存している状態です。今回はその中でも、文字サイズの調和について考えてみます。

図4

オンスクリーンメディアでは、本文、見出し、キャプション、ボタンといった様々な文字サイズのテキストが要素となって画面が構成されます。そこでは、たとえば見出しを本文よりどのくらい大きくするか、またキャプションをどのくらい小さくするかといった選択によって、画面の調和が決まってくるのです。このときに、それぞれの文字サイズを場当たり的に決めるのではなく、あらかじめ一連のサイズを用意して組み合わせながら画面を構成します。ここで用意される一連のサイズを「スケール」と言います。

文字サイズのスケールは、音楽におけるスケール、つまり音階に当たります。このスケールを無視して適当に弾いていたら、調子外れな演奏になってしまうので、曲に調和するスケールに沿って演奏するわけです。これは文字サイズも同様です。ボタンの文字サイズがコンポーネントによってバラバラだと、調和が得られません。タイポグラフィ設計は、まず文字サイズのスケールを定義するところから始める必要があります。

文字サイズのスケールを考えるときに役立つ手法として「モジュラースケール」というものがあります。スケールの各サイズを経験や勘にもとづいて決めるのではなく、意味のある一連の調和した比率をもとにしようというものです。これは文字サイズに限らず、たとえば本のページの縦横比やグリッドのカラムなどにも使われるものです。

モジュラースケールは音階のようなもので、あらかじめ用意された、一連の調和したプロポーションです。それは言わば、目盛りが一定ではなく、寸法が均一ではない物差しです。
Robert Bringhurst『The Elements of Typographic Style』

ブリングハーストは、モジュラースケールを「物差し」にたとえて説明しています。物差しは、目盛りが1mm単位で長さ30cmといった具合に、目盛りが一定間隔で並んでいて寸法が決まっています。しかし、モジュラースケールというのは目盛りが一定間隔ではなく、かつ寸法も自由に伸び縮みさせられる物差しだ、とブリングハーストは言っています。

また彼はその書籍の中で「モデュロール」という寸法体系にも触れています。モデュロールとは、建築家のル・コルビュジエが考案した、人体と黄金比にもとづいた寸法体系で、どうやらこれがモジュラースケールのもとになっているようです。

図5

図6ル・コルビュジエ『モデュロール』

モデュロールは、人間の身長とヘソの位置、そして手を上げた高さなどが黄金比になっているとして、これらをフィボナッチ数で分割して作った寸法体系です。ル・コルビュジエはこのモデュロールをもとに、建物だとか家具だとかを作りました。このモデュロールにおける黄金比のように、なんらかの調和する比率をもとにスケールを作り、そのスケールをタイポグラフィのガイドラインとしよう、というのがモジュラースケールの考え方です。

図7“Modular Scale※4

実際にモジュラースケールを作る場合、最初に基本となる文字サイズを決定します。まずはウェブブラウザのデフォルトである16pxとしてみます。次に、その基本サイズに掛け合わせる比率を決めます。ここでは1.25としています。この比率が大きいほど、文字サイズ間の差が大きくなる、いわゆるジャンプ率が高くなるということになります。その結果このような一連のサイズが得られるので、この中から各要素に適用するサイズを選びます。たとえば本文が16pxで、大見出しが39.0625px、キャプションは12.8px、という具合です。

図8

図9

こうして見ると小さいサイズから大きいサイズまできれいに並んでいるように見えます。しかし、実際にこのスケールを使ってみると、あまりうまくいかない。とくにベースの本文サイズの周辺にバリエーションがないと使いづらい。ではベースのサイズに掛け合わせる比率をもっと細かくすればいいかというと、今度は大きいサイズで選択肢が増えすぎてしまって、サイズ間に差が生まれにくいスケールになってしまいます。

図10

いま作ったモジュラースケールは、ベースの文字サイズに対して一定の比率を掛け合わせてできた「等比数列」です。これは隣り合う項の比率がつねに等しい数列。どうもこの等比数列が、文字サイズのスケールには合わないのではないか。そこで登場するのが「調和数列」です。

調和数列というのは各項の逆数を並べると等差数列になる数列です。ピタゴラス音律や倍音など「ハーモニー」に関連していることから調和数列という名前で呼ばれています。

図11

数学的な定義から見ていくと、図の上が調和数列、下が等差数列です。調和数列の例は1、1/2、1/3、1/4というように、分数のかたちをしています。これらの分数の逆数、つまり分子と分母をひっくり返すと、下の等差数列になります。等差数列というのは隣り合う項の差がつねに等しい数列です。この例では1、2、3、4と隣り合う項との差がつねに1です。このような等差数列の各項の逆数を並べると調和数列が出来上がります。この調和数列は、音楽に由来するものです。

図12調和数列と音程※5

ギターやヴァイオリンといった弦楽器を想像してみてください。ある弦の開放、つまりフレットを押さえずに弾いた音が「ド」だったとします。次に、弦の長さの半分のところを押さえて弾きます。すると弦の音の鳴る部分の長さは1/2になる。これが何の音になるかというと、さきほどの「ド」のオクターヴ上の「ド」の音になるのです。今度は弦の長さの1/3のところを弾く。すると「ソ」の音になります。このように弦の長さを1/2、1/3、1/4というふうにどんどん短くしていく。こうして得られた音と弦の長さを並べると、下の図のようになります。

図13倍音列

この音階は「倍音列」と呼ばれるものです。楽器や人の声は、たとえば「ド」の音を出していてもドの音だけが鳴っているわけではなくて、同時に色んな音程の音がごく小さく鳴っている。このように基準となる音のほかに鳴っている音のことを倍音といいます。この倍音のうち、どの音が大きくてどの音が小さいかといったことが楽器によって異なり、それが音色に関係してきます。さきほどギターの弦の押さえるところを変えて得たこの音階が、まさにこの倍音の構成になっているのです。

また、この倍音列の構成音を順に見ていくと、低い方から順にド、ド、ソ、ド、ミとなっていて、「ドミソ」という音のグループが表れます。このドミソというのはCメジャーのコード(和音)の構成音です。これはギターでまず最初に習う基礎的なコードです。

つまり倍音というのは、ある音を鳴らしたときにかすかに鳴って豊かな音色を作るものであると同時に、それらを抜き出して同時に鳴らせば美しく調和する和音のもとになるのです。そういった理由で、このギターの弦の長さにあたる1/2、1/3、1/4という数列は調和数列と呼ばれています。

図14

この調和数列を文字サイズのスケールに当てはめてみます。基準の文字サイズ16pxに1/2、1/3、1/4という分数をそのまま掛け合わせると、小さいサイズしか得られませんので、さらに一定の整数を掛け合わせます。ここでは8を掛けていますが、この数字はなんでもかまいません。この数字が小さいほどスケールは大雑把になり、大きいほど目が細かくなります。

図15

この図の上が「調和数列にもとづくスケール」で、下が「等比数列にもとづくスケール」です。調和数列のスケールはサイズが小さいほど密で、大きいほどまばらになっているのがわかると思います。等比数列のスケールにあった、さきほどのベースサイズ周辺のバリエーションが足りないという問題が解消されました。

調和数列をもとにした文字サイズのスケールにはもうひとつ特徴があります。それは日本語や中国語など、全角文字を並べたときに、図のように数文字ごとに幅が揃うということです。たとえば、本文8文字と、見出し3文字、キャプション10文字が同じ幅になる。

図16

ハーモニーの例として、文字サイズのスケールに調和数列を応用する手法をご紹介してきました。しかし、調和数列にもとづいているからこれは美しい、読みやすいなどと因果を逆転させることはできません。重要なのは、それぞれのサイズが意味ある比例にもとづいた秩序でデザインされているという事実なのです。

リズム

次にリズムです。リズムはあらゆる音楽の出発点であると言われ、まさに音楽の核をなす要素です。音楽というのは時間の芸術です。リズムが止まるとき、音楽もまた止まります。またハーモニーやメロディのない音楽は想像できますが、リズムのない音楽というのは想像できません。たとえばアンビエントとかフリージャズとか、明確なビートがなかったり、ビートが不規則だったりするとしても、それが音楽である以上は必ずリズムが存在しています。

タイポグラフィには縦のリズム、「ヴァーティカル・リズム」という概念があります。これは横組である欧文のタイポグラフィに由来する概念で、行の折り返しによって生まれる行間や、要素間の余白に一貫性があるかどうか、という視点です。この縦のリズムに規則性がないと、読みづらかったり、情報のヒエラルキーが正しく伝わらなかったりします。これはビューが縦方向に長くなるスマホではとくに重要な視点です。本の組版では本文(ボディテキスト)の行送り、CSSでいうところのline-height(行の高さ)が縦のリズムの基準になります。

たとえば、このようなページなどの本文部分。本文の行送りが28pxだとしたら、段落間の余白はその1行分の28px、中見出しの上は2行分の56pxアケる、といった具合です。しかし実際のウェブサイトやアプリケーションでは、このようなシンプルなビューだけではありません。

図17

次の例は、ニュース記事などで使用されるカード型のUI(ユーザーインターフェース)。この小さなカードの中だけでも複数のサイズのテキストがあり、情報の主従関係や重要度といったヒエラルキーがあります。またカードを複数並べるときのカードどうしの余白や、見出しの上下の余白などにも注意を払う必要があります。この場合、本文の行送りだけを単位にしていては、とてもレイアウトできません。

図18

ではどうするかというと、リズムを構成するビートを細かく分割して、状況に応じて組み合わせるのが有効です。いわばシンプルな4ビートだったのを16ビートにするような、そんなイメージです。テキストの行送りは4px単位、コンポーネントのスペーシングは8px単位、そしてさきほどのように本文は行送り単位、という3つのスペーシングユニットを組み合わせる手法を紹介したいと思います。

4pxグリッド

まず4pxグリッド。これがすべてのリズムの最小単位になります。これはテキストの行送りに適用します。つまり、すべてのテキストのline-heightの計算値が4pxの整数倍になるようにします。

カード型のUIを例に考えてみましょう。ここにはラベル、タイトル、ディスクリプション、メタデータといった、文字サイズの異なる要素が並んでいます。

図19

これらをこのように、すべてのテキストの行送りを4px単位に揃えます。最小単位は必ずしも4pxでなければいけないわけではないですが、計算のしやすさや、最適なサイズを考えて、取り扱いやすい4pxを行送りの単位としてみました。

図20

CSSでは、すべてのline-heightが4pxの整数倍になっています。

図21

8pxグリッド

次に8px単位のグリッド。コンポーネント内のスペーシングや、コンポーネントどうしのスペーシングが8pxの整数倍になるようにします。とは言え、8px単位でどのように配置してもいいとなると、システムとして一貫性のないものになってしまいます。そこでさきほどの文字サイズのスケールと同様に、あらかじめ使うべきスペーシングを「スケール」として定義しておくのがよいでしょう。

図22

たとえばさきほどのカード型のUIが並んだ画面。見出しの上下のスペーシング、カードどうしのスペーシング、カード内のテキスト間のスペーシング、それらすべては互いに影響しあって情報のヒエラルキーを表現しています。これらを8pxを単位に配置するとき、どのようなスペーシングのスケールを定義すべきかについて、いくつかのパターンを考えてみたいと思います。

もっともシンプルなのは、8pxを2倍、3倍、4倍……と大きくしていくパターン。その結果出来上がるのは8px、16px、24px……というスケールです。

図23

このスペーシングを図にするとこのようになります。これでは大きいサイズになったとき、スペーシング間の差があまり感じられず、コンポーネントによって使うスペーシングにばらつきが出てしまいます。

図24

次に8pxのユニットを16px、32px、64px……と2倍に増やしていくスケールです。これでは差が極端になって、実用性がないのがひと目見てわかります。

図25

図26

スペーシングスケールの最適化

どのようなスペーシングスケールが最適なのか。それは8pxのユニットに1、2、3、5、8、13というフィボナッチ数を掛け合わせていったものです。

図27

フィボナッチ数列は、1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, …と続き、各項の値が前の2つの項の合計になっています。そして隣り合う項の比率がどんどん黄金比(1.618)に近づいていくという特徴があります。

図28

フィボナッチ数を使ったスペーシングのスケールを利用すると、サイズ間の差が大きすぎず小さすぎず使いやすい。

図29

さきほどのカードUIの例に、8pxにフィボナッチ数を掛け合わせたスケールでスペーシングを構成してみるとこうなります。

図30

本文の行送りだけですべてのリズムをコントロールするのは無理があるので、いくつかのスペーシングユニットを組み合わせること。また、ただユニットに沿わせるだけではなく、そこに一貫性を持たせるためにスペーシングスケールを作ることが、タイポグラフィにおける縦のリズムにとって大事なのです。

メロディ

最後に音楽の3要素の3つめ、「メロディ」について。メロディの語源はギリシャ語で「歌うこと」を意味する「メローディア(melōidíā)」という語で、このメローディアという語はさらに「歌(mélos)」と「詩(ōidḗ)」という2語の合成語です。音楽のルーツがどういうものであったのかということについては諸説ありますが、メロディは語源に「詩」があり、どうやらそのルーツは「言葉」なのがわかります。まず伝えるべき言葉があり、それに節をつけて歌ったものがメロディなのです。

ここでの結論は単純です。メロディのルーツが言葉であるように、タイポグラフィにとってもっとも重要なものも、やはり言葉ということです。どのようなタイポグラフィも、伝えるべき言葉が最初にある。言葉で書かれたコンテンツを届けるということは、歌手が歌うということであり、ピアニストがソロを弾くということです。そのときタイポグラフィに求められるのは、そのメロディを力強いリズムと美しいハーモニーで支えること。よい伴奏者、優れたバックバンドであることだと思います。

図31

この画面は、iOS Safariのリーダービューです。ウェブサイトのスタイルをプレーンなかたちにリセットして、書体、文字サイズ、カラーなどをユーザーが選択して読むことができます。同様の機能はChromeやFirefoxなど多くのウェブブラウザで、モバイルでもデスクトップでも提供されています。このようなビューでは、デザインしたタイポグラフィが無効になるわけです。

しかし、これこそがオンスクリーンメディアにおけるタイポグラフィのもっとも素晴らしい点です。ユーザーにとって読みにくい書体があったり、見えにくい色があったりしても、その障害を乗り越えてコンテンツを届けられる可能性がある。そして、このようなアクセシビリティを支えているのがHTMLというものです。コンテンツが適切にマークアップされているから、アクセシビリティの提供が可能になる。

それなら最初からユーザーにすべて設定させればいいじゃないか、と思う方もいらっしゃるかもしれません。たしかにすべての人にとって読みやすいタイポグラフィは不可能かもしれませんが、それでもタイポグラフィを追求することには意味があります。

開かれたタイポグラフィのために

タイポグラフィには文字によって情報を伝達するという明白な義務がある。いかなる議論や考察も、タイポグラフィをこの義務から解放することはできない。読むことができない印刷物は、目的を失った制作物である。
エミール・ルーダー『タイポグラフィ※6

これはエミール・ルーダーが印刷物のタイポグラフィについて語った言葉ですが、オンスクリーンのタイポグラフィにも適用できます。すべてのタイポグラフィは、より多くの人に、より間違いのないかたちで、よりわかりやすく、そしてより美しく「伝える」ためのものなのです。

わたしがオンスクリーンメディアのタイポグラフィに取り組みはじめたときには、音楽や数学の理論を参照するとは想像していませんでした。ここにたどり着いたのは、制作の現場で直面した具体的な課題を解決しようとした結果です。異なる文字サイズのテキストをうまく配置できないかとスケールを試行錯誤するうち、いつしか数列のようなものが導き出され、それはどうやら音楽に由来する調和数列らしいことがわかるといった具合に、少しずつかたちをなしていきました。これは楽典を学んでから音楽を聴きはじめる人がいないのと同じかもしれません。

タイポグラフィの作業をしていると、いつしか偏執的に細部を追求しています。その度に、独りよがりの美意識を読み手に押しつけているのではないか、誰も望まない完璧さを求めているだけではないのか、と不安になります。そういったときに、タイポグラフィの歴史を見つめ直したり、音楽や数学などの知恵から学ぶようにしています。その理由は、すでに完成された世界を新しいメディアで再現したいからではありません。これは、まだはじまったばかりのオンスクリーンメディアのタイポグラフィの可能性を、より開かれたものにするための試みなのです。

1行のコード

ソフトウェアと、それを記述するコンピュータ・プログラムは、今日もっとも身の回りに溢れ、私たちの生活の中に偏在するメディアとなった。コンピュータはプログラムに書かれたコードを翻訳、解釈、実行することで、大量のデータを処理し、その結果を表示したり、コンピュータ同士でやりとりする。人々は、コンピュータのプログラムを作成するだけでなく、ソフトウェアを日常的に使用することで、ものごとの見方や考え方を形作っていく。私たちは、プログラム・コードをつくるだけでなく、プログラムによってつくられている。

プログラムは、コンピュータと人間の双方が理解可能な、人工言語によって記述されている。プログラムはコンピュータと人間のコミュニケーションの記述であり、より一般的には(分析や解釈の対象となる)「テクスト」である。そこには、アルゴリズムだけでなく、プログラム制作の前提、目的、過程、改良の過程が埋め込まれている。さらに変数や関数の名付け方や、アルゴリズムの注釈や解説といったプログラムのアルゴリズム以外の部分にも、さまざまなものごとを書き込むことができるし、逆に人間にとって理解しにくいよう難読化することもできる。プログラムは数学/数値的、論理/構造的な言語であると同時に、文化/人文的、思想/哲学的なテクストでもある。

実用的な、あるいは有用なプログラムの多くは、正しく、効率よく実行すること、あるいは保守や改良、再利用がし易いことが求められている。それらを巧みなバランスで実現したコードはしばしば、コンピュータ・プログラミングの「ART(技芸)」と呼ばれる。しかし、そうした自明な目的や有用な機能がないプログラム・コードでありながら、多くの人に共有されているものも存在する。そのひとつの(代表的であり、極めて早い時期の)例が、「10 PRINT」と呼ばれる1行のBASICプログラムである。

10 PRINT CHR$(205.5+RND(1));:GOTO 10

10 PRINT「10 PRINT」プログラムをVirtualC64(Commodore 64のエミュレータ)上で実行している様子

Commodore 64という、米コモドール社が1982年に発売開始した8ビットの家庭用コンピューターで、この極めてシンプルなコードを実行すると、斜め線、または逆斜め線のグラフィック記号がランダムに1つづつ、左から右、そして上から下へと表示されていく。画面が一杯になると2行ずつスクロールし、このプログラムは(中断するまで)永遠にこの表示を繰り返す。当時のコンピュータの速度は遅かったので、記号が画面を埋め尽くすのには約15秒かかる。しかしこのたった1行のコードが、当時のさまざまななパーソナルコンピュータに移植され、さまざまなバリエーションが生みだされた。そして、Commodore 64の誕生から30年を経た2012年、この文化的工芸品としてのプログラムを、ソフトウェア・スタディーズの視点から詳細に分析した本※1がThe MIT Pressから出版された。本のタイトルも『10 PRINT CHR$(205.5+RND(1));:GOTO 10』である。

ジェネリックでないコード

今日の、使いやすく、わかりやすく、役に立つ、そして技芸に優れたソフトウェアからみれば、こんなちっぽけで単純な迷路生成プログラムは、取るに足らないもののように見える。しかしそんな、40年近く前のマイクロコンピュータのための1行のプログラムに対して、今なお多くの人が関心を持ち、議論し、さらには今日のコンピュータにも移植され、さまざな修正版が実行されているのはなぜなのだろう。

まず重要なのは、このプログラムが非常に短いことである(おそらくこれ以上に短いものは、“hello, world” くらいのものだ)。今日の大規模データを活用した計算論的(computational)な文化分析手法(cultural analytics)が、対象そのものに触れることなく、そのマクロな傾向を把握しようとするのに対し、このコードは私たちに、ミクロな「精読」を要求する。しかしその精読は、限られた専門家による精読ではなく、(コードが短いがゆえの)万人に開かれた、そして対象に自由に手を加えることができるような精読である。

伝統的なプログラミングにおいては、プログラムで記述しようとする対象を分析し、それをなるべくシンプルなかたちで抽象し、(人間にとって)わかりやすい形で表現することが推奨されてきた。こうした機能の抽象化によって、コードの汎用性、再利用性を高めたコードを「ジェネリック・コード(generic codes)」と呼ぶとすれば、「10 PRINT」のように、(キャラクター文字を使って迷路のような模様を生成し続けるという)ある限られた目的のために作られたプログラムは、「スペシフィック・コード(specific codes)」と呼べるだろう。

スペシフィック・コードという呼び名は、ジェネリック・コードの対義語であるだけでなく、米国の美術家ドナルド・ジャッドが1964年に提示した「スペシフィック・オブジェクト」という概念にも由来している※2。ジャッドのこの概念は、50年代から60年代に制作された、アメリカ美術の新しい傾向の特徴分析から生まれたものである。「彫刻でも絵画でもない」このスペシフィック・オブジェクトのように、スペシフィック・コードはプログラム・コードであるだけでなく「テクストでもポエトリーでもある」。一般的で汎用のコードは、コードそのものよりも、コードが記述しているアルゴリズムとその実行結果が重要であることが多い。それに対して、スペシフィックなコードは、コードそのもの、そこに何がどのように記述されているのかが重要である。つまり、コードの実行結果(例えば「10 PRINT」が描く迷路自体)だけではなく、コードを実行した主体がその実行をどのように受容(観賞)したのか、コードの実行中に何が生み出されているのか、そしてそれらが指し示しているものごとは何なのか、ということに思いを馳せなければならない。

ミニマルであるが故に、固有のものであると同時に拡張的でもあるスペシフィック・コードは、ユーザーにシステムやツールを提供するのではなく、ユーザーとしての、つまり個人の使用から見たコードの内在的な可能性を探求し、それを限りなく拡げていこうとする。通常のプログラミングにおける有用性や再利用性のような、客観的な価値や機能を実現するのではなく、その意味や価値は状況や文脈(コード以外の環境)に大きく依存している。スペシフィックであるということは、ジェネリックでないだけでなく、それが異質であり、強いインパクトを持っている、ということでもある。

テクストとしてのコード

スペシフィック・コードが現れる代表的な場として、「コード・ポエトリー」と「ライヴ・コーディング」の2つがあげられる。コード・ポエトリーとは、その名前の通り、コードを用いて詩を書くことである。その代表的なサイトの一つである、Source Code Poetry※3には、このような規範が書かれている。

  • どんな言語でもいい:あなたが一番好きな言語で書いてください。
  • コンパイルできること:とはいえ、インタープリタ言語で書かれたものでも受け付けます。
  • 韻を踏むこと:とはいえ、現代の名作は規範を逸脱しています。

このサイトには、さまざまなコード・ポエトリーの作例が掲載されている。中でも、Python言語で書かれたこのMike Heatonの詩はもっとも短いものである。

t = 0
while True:
    print("Nothing lasts forever.")
    t += 1

「10 PRINT」と同じように、単にテキスト出力を無限に繰り返す(だけの)ものであるが、時間を表す変数名の「t」と出力を繰り返す文の間には、意味の詩的な結びつきがある。

2012年に刊行された「code {poems}※4」というアンソロジーには、55のコード・ポエトリーが掲載されている。これらは、プログラム・コードとして実行するよりもむしろ、テクストとして読まれることを意図している。例えば、Daniel Bezerraの「UNHANDLED LOVE(処理されない愛)」は、C++のプログラムではあるが、その実行結果ではなく、プログラムのエラー管理機能としての「例外処理」が持つ意味を用いた詩である。

class love {};

void main()
{
    throw love() ;
}

Richard Littauerの「Import Soul」も同様に、Python言語としての意味とテクストそのもの意味が重ね合わせられている。

# This script should save lives.

import soul

for days in len(life):
  print "happiness"

Daniel HoldenとChris Kerrによる、「./code–poetry※5」は、逆にコードの実行結果に着目したものである。そこにはコードの実行時に具体詩、あるいはアスキーアートのような視覚的出力が生まれる、実行詩としてのコード・ポエトリーが数多く収録されている※6

./code --poetry./code –poetryトップページの「turing.poem」のスナップショット

パロールとしてのコード

ライヴ・コーディングは、プログラム・コードを直接操作しながら行うライヴ・パフォーマンスの総称である。その起源は、21世紀初頭のラップトップ・ミュージック、さらには80年代のFORTH言語の音楽制作への使用に遡ることができる※7。今日のライヴ・コーディングは、Algorave※8というクラブ文化との融合や、プログラミング教育への応用※9など、多様な文化と結びついている。

ライヴ・コーディングのスタイルには、白紙のエディターから始めて、その場で一からすべてのコードを書く人から、事前に用意していたコードのフラグメントを、DJのようにその場で組み合わせていくスタイル(CJ:コード・ジョッキー)まで、さまざまなやり方がある。しかし、基本的にライヴ・コーディングにおけるコードは、音のようにその場で生まれ、その場で消える。コード・ジョッキーのように、事前に準備しておくことはあっても、パフォーマンスの場で一度実行されたコードを、そのまま別のライヴで再利用することはない。

ライヴ・コーディングの場におけるコードの現れ方を、もっとも特徴的に体現しているのが、ライヴ・コーディング運動の提唱者の一人であり、自らが生み出した TidalCycles※10というライヴコーディング言語を用いて行われる、アレックス・マクリーンのパフォーマンスだろう。彼が2018年11月に来日した際に出演した、DOMMUNEでのライヴの様子が以下に記録されている。

YouTube: Alex McLean (Yaxu) live on DOMMUNE Tokyo, 14 Nov 2018

TidalCyclesという言語が、少ない入力で迅速に出力(パターン)を変化できるように設計されているため、アレックスが書くプログラムは決して長くはなく、どんなに長くても数行で、全体が1画面の中に収まる程度である。ライヴ・コーディングにおいては、ディスプレイが身体であり、この身体をパフォーマーと観客が共有することから出発していることを考えれば、常にコード全体を一望できることは、ライヴ・コーディングの演奏者にとっても、リスナーにとっても、重要な意味を持っていることがわかる。

しかし何よりアレックスのコーディングで印象的なのは、コードの入力のしなやかさと、書いたコードを実行し終わるとすぐに消し、新たなコードを次々と書き続けていく、エフェメラルな姿勢である。プログラム言語というと、どうしてもアルゴリズムを正確に記述するラング(規則体系としての言語)を思い浮かべがちだが、アレックスのライヴ・コーディングにおけるコードは、話しことばとしてのパロール(個人的な発話)である。コード入力の行き来はアレックスの思考の構造を垣間見せ、カーソルの揺らぎはアレックスの思考の状態を反映している(ように見える)。このパフォーマンスでは、映像のちょうど18分のところで突然コンピュータがクラッシュし、再びそこからライヴを再開するのだが、そんなハプニングも決してエラーやミスには感じられない。日常の会話においては、言い直したり、中断する(させられる)ことは茶飯事である。パロールとしてのコードは、スペシフィック・コードのもうひとつの重要な特徴である。

通気口としてのコード

ソフトウェアが日常のインフラストラクチャーとなり、スマートフォンが生活の日用品となった今、それらは生活の中で、ますます見えなくなっている。人間は、スマートフォンを運ぶメディアとなり、人々のものの考え方や行動は、暗黙のうちにソフトウェアによって操作管理されている。冒頭で述べたように、プログラム・コードは確かに人間がつくったものであるが、逆にプログラムによって人間なるものがつくられている。

そうした状況の中、個人、あるいは市民としてのエンドユーザーが、自らの手でプログラムを書き、それを実行することに、一体どんな意味が残っているのだろうか。本稿で取り上げたいくつかのスペシフィック・コードは、

  • 極めて短いミニマルなコード
  • 正しさよりも大切なものがあるコード
  • アルゴリズム以外の部分も重要なコード
  • 環境や文脈に依存するコード
  • 実行する必要のないコード
  • 話し言葉のように生成され消滅するコード

といった特徴のいくつかを持つ。それはいずれも、IT/SNS企業やエリートハッカーのように超越的に見える何者かが提供してくれる、使いやすく、わかりやすく、役に立つものとは違うかもしれない。しかしスペシフィック・コードは、自分でつくり実行するものであり、変更できるものであり、他の人たちと共有できるものでもある。その意味で、スペシフィック・コードは、究極のエンドユーザー・プログラミングであり、今日の資本主義と監視社会の中で、個人が自由に息をするための、通気口のひとつにもなる。だから僕自身、個人が生き延びるための通気口としてのスペシフィック・コードを書き、そのことについて、もうしばらく考え続けたいとも思っている。

はじめに

本稿では、イギリスのタイポグラフィ専門雑誌『フラーロン(The Fleuron)』誌を探ってみる。その活動期間は、1923年に発行開始し1930年までと短く、ほぼ1年に1号発刊という計画で、7号目で幕を下ろした。その発刊の経緯と編集方針、同時代へのタイポグラフィを巡る視点を調べ、その後の雑誌類への影響を比較し、現代に残したその意義を考えてみる。

なお、本稿をまとめる前に、筆者はこの雑誌の体裁上の解剖を試みた。つまり、印刷部数、判型、本文組版、扉と目次、ノンブルと柱、内容構成、執筆者とその特徴、広告主、資金調達、定価設定、編集者による執筆者の選択、内容構成上の差異などを調べたが※1、ここではそれを踏まえている。

日本でいえば大正12年から昭和5年までの間に、ロンドンで発行された『フラーロン』は注目されることが少ない。この雑誌に掲載された論文内容と発行を支えた人物の行動は専門的かつ地味であるために、日本ではその存在はごく一部でしか知られていない。例えば英文学者の小野二郎氏が『書物の宇宙』の中でわずかに紹介しているに過ぎない。その後は『欧文書体百花事典』に多少のスペースを割いて紹介がある。その他の日本で発行されるデザイン関連やタイポグラフィ関連の雑誌などでの言及は、不思議なことに筆者の知る限りでは皆無である。タイポグラフィがグラフィック・デザインと切り離されてきている事実がうかがえる現象だ。

革命的な電子技術が進む現代にあって、『フラーロン』の志向と姿勢は何を示唆するだろうか。意欲的な評論・論考集として再評価されることがあるのだろうか。時代との格闘から生まれたこの雑誌をたどってみる。

Set of the fleuron

1. 時代状況(19世紀末から20世紀初頭)

ヴィクトリア朝のタイポグラフィ

19世紀のイギリスの印刷業を席巻した現象は、いわゆる「ヴィクトリア朝のタイポグラフィ」と呼ばれた印刷物と活字の暴発現象である。19世紀は「世界の銀行」「世界の工場」と呼ばれたイギリスが最も活力を発揮した時代で、世界の経済を支配したと言われる。植民地政策と産業革命後の経済的な果実に酔いその隆盛を謳歌していた64年間の時代にあって、その時期のタイポグラフィは旺盛な商業活動を支援するための商品・製品の宣伝活動による激しい競争から出現した。時代の息吹を遺憾なく発揮したこの状況を「ヴィクトリアン・ディライト(Victorian delight)」と表す言葉もあるほどで、社会はこの高揚した雰囲気を受け入れていた。

さらに品物や催し物の情報を多くの人々に伝えるためには大声が有利であることから、文字情報はその声を代弁して特大サイズや極太の特製の奇妙な文字で訴求された。それは活字の乱舞とも呼べる様相を呈し、文字活字による乱雑・強烈な視覚の衝撃を意図した印刷物を輩出したこの時代を如実に物語っている。その様式は雑誌や書籍の一部にも影響を与えて、タイポグラフィの伝統が崩れて品性を欠き、粗製濫造気味の活字や印刷紙面が急増し、識者の苦言を許す、という混沌とした状況にあった。そこでこの動きに異議を呈し危機感を抱いたことで起きた動きが、印刷改革や手工芸的な意義の復活だった。これは同時並行的にいくつかの緩やかな組織的行動としての批判的な提起だった。

アーツ・アンド・クラフツ運動

19世紀後半のイギリスでは、アーツ・アンド・クラフツ(以下、A&C)運動が起こった。その理由は大きく分けて3つあるとされる。

  1. 遠因として、ジャン・ジャック・ルソーの思想への共鳴がある。
  2. 機械生産による製品の質の低下への不満が起こった。
  3. 懐古主義への傾斜が高まった。

ルソーとの影響関係については、筆者は未調査のため、言及は避ける。この運動への直接の影響を与えた人物はピュージン(1813–52)とジョン・ラスキン(1819–1900)で、両人は中世芸術を讃えてゴシック様式の復活いわゆる「ゴシック・リヴァイヴァル」を唱道した人物だ。彼は1871年に「セント・ジョージ・ギルド」を構想して理論を実践に移したことで知られ、教育面で貢献したと言われる。彼にとって装飾とは神の啓示を受けた自然の豊かなフォルムの再現であり、その自然観は「芸術のための芸術」という芸術の理念との密接な関係を推進する核であった。後に社会改革に強い関心をもち、道徳観を重視した。そこから機械依存の大量複製への嫌悪を抱いていた。また、これらの動きに加えて、1884年に「アート・ワーカーズ・ギルド」の設立を試みる。これはアート(美術またはその技芸)とクラフト(工芸)の展示発表を進めるという組織だったが、ギルドという語は、そのまま中世への志向を強く暗示する響きだったことだろう。

ラスキンの考えに影響を受けて、実践面で誠実に実行したのがエメリー・ウォーカー(1851–1933)だった。書籍やアートに関しての博識さにおいて彼を凌ぐ者はいなかったほどだったと言われている。そのウォーカーの刺激と支えにより、ウィリアム・モリスは最後の華を咲かせた。モリスはいくつかのアートを実践した後にたどり着いた総合的な成果を発揮できる分野として、書籍製作に取り組み、ケルムスコット・プレスを開設して、晩年の時間を注いだ。モリスの製作した書籍は、その判型の大きさと材質の贅沢さ、独自の活字書体の使用で存在感を示していた。

また、A&C運動は欧州の一部の動きとも関連があるだろう。例えば20年ほど続いたドイツのアール・ヌーヴォも改革運動としてあり、日常生活の中での芸術の必要性を訴えた。この運動は具体的には有機的な自然観を基本とした植物の造形を生活の身辺に散りばめる装飾賛歌であった。いわば、近代の夜明けを喜ぶどこか無邪気で純粋で遊戯的な趣向の発露に見える。建築デザイン、書籍、活字書体では装飾的な造形言語という新しい思想の登場を見たし、生活を美的に形作ることを目指した。エックマンやベーレンスが設計した活字書体は、独特な曲線とブラックレターが融合していた。

だが第1に、それはタイポグラフィという長い歴史的な観点からするとその影響力と説得性はわずかであり、現在では実験的な試みと言える。第2に、時代への批評というよりは提案であり、強いカウンターとは言えない。とはいえ、この時代の活字書体におけるブラックレターとの関連では、この「有機的自然観」はドイツの狂った悲しい時代を覆った見えにくい裏のキーワードであろう。いずれこの点は追求したい。

私家版運動

日本ではおおむね「私家版印刷所」との訳語が定着している「プライヴェット・プレス」は、個人規模での印刷・出版活動の拠点として位置づけられている。私家版印刷所の定義については、マルティン、クローディン、ポラードなどという書誌学系の権威者による試みがあるが、その見解は微妙に異なるので、彼らの定義での共通項目をまとめてみるほうが分かりやすい。つまり「私家版印刷所の運営形態は個人または少人数によって所有されて使用される規模であり、その製作物は独自の主張や理念や趣味に基づいた書籍が主体である」と定義してみる。

私家版印刷所の一般的な特徴は次のように3つあるだろう。

  1. 印刷所の所有者の趣向・主張が、その印刷物(多くは書物)の全体に明瞭である。
  2. 印刷所の所有者自身の著作よりは既存の文芸作品を書籍化する。
  3. 印刷所の所有者は印刷の実践家であることが多く、印刷機やその操作にも詳しく、印刷用紙・活字書体・製本材料および製本様式についても独自の観点から選択する。場合によっては活字書体にこだわって独自の書体を製作することもある。

以上のことから、企画発案者と製作者が同一人あるいは同僚同士であり、作業の分業化が少ないことが、商業主体の印刷出版と異なる点だとわかる。だがまた、簡易様式の印刷物も多く印刷発行したことも事実だったようで、必ずしも書籍に限定しないという見方もできる。何れにしても、「年金受給者の暇つぶし」だと揶揄されることもあったほど趣味的要素が強い。

私家版はイギリスで1757年ころに設立されたホーレス・ウォルポールによるストロベリー・ヒル・プレスが最初とされる。ウォルポールは大物政治家の息子で、自身も政治の世界に踏み込んだが、(イギリス絵画の庭園に関する)歴史家、詩人、小説家、劇作家、論説者、古物収集家、印刷人などと多方面に手を広げた。また、彼につけられた肩書きは、「美の判定者」だった。

その他の主な私家版印刷所またはそれに準じる印刷所が20以上挙げられるが、そのうちよく知られた名前を挙げてみる。チャールズ・ウィティンガムが設立してその甥で同名の人物がウィリアム・ピカリングと手を組んだチジック(チズウィック)・プレスを皮切りに、20社近くが生まれている。チジック・プレスの活動は1844年にイギリスを代表するオールド・ローマン体活字のキャズロン書体を復活させたことで名を知られている。さらには、蔵書6万冊を誇る世界有数のミドル・ヒル・プレス、珍しいところでは農民だったチャールズ・クラークのグレート・トーサム・プレス、神学博士によるダニエル・プレス。

また、19世紀後半になるとローレンツ・シェパードという尼僧によるスタンブルック・アビィ・プレスが異彩を放って、その後引き継がれておよそ100年間活動を継続させた。芸術家に依頼して作らせた木版彫刻をイラスト図版として印刷に多用したヴェイル・プレスや、ウォーカーの指導のもとにジョーン・ホーンビーが設立したアシェンディン・プレスが、50部程度の印刷数とはいえその存在を際立たせていた。そして、私家版の仕事をひとつの社会運動のようにその影響を誇ることになったケルムスコット・プレスが登場する。1900年にはウォーカーとコブデンサンダースンによるダヴス・プレスの設立をみる。

『フラーロン』の発行前後にも個人的な印刷所が数社現れて、賑やかな様相を呈している。中でもギヴィングスらのゴールデン・コッカレル・プレスはその組版と印刷の質の高さで群を抜いていた。彼らは「書籍の印刷と出版のための共同社会」という理念を基に、優れたタイポグラフィの実現という夢を抱いて、安価な書籍の提供を目指して設立した。

カトリックへの改宗

西洋の出来事を語るには宗教を切り離せない。イギリスでは国教会(聖公会)という、新教と旧教の中間的性格を帯びている宗教が支配している。中世の複雑な事情が関わって、教義はカトリック式ではあるがプロテスタントに近いという信仰形態が支配的である。何事にも極端を嫌うイギリス人気質が影を落としているようである。宗教改革以来イギリスではカトリック信仰は違法だった。

19世紀になってカトリック教徒が法的には差別から解放された。国教会の刷新を目指すオックスフォード運動や中世志向のラスキンの行動もあって、19世紀中頃から著名人のカトリックへの改宗が続いた。たとえば先に挙げた建築家のピュージンをはじめ、劇作家のワイルド、画家のビアズリーなどで、20世紀でも作家のチェスタトン、グリーン、詩人のエリオットなどもいた※2。タイポグラフィ関連では、エリック・ギルもハリー・ペプラーも1910年代に改宗している。そしてこの改宗は時代の動きを象徴してもいた。「社会主義とカトリック信仰は、相互に影響し合い、強化し合ったとされる。産業主義(資本主義)の矛盾に対して社会改良を目指すという方向性で、両者は一致※3」して、芸術や工芸の実践への背景として時代を揺るがしていた。

カトリックへの傾斜は、製作物に反映したという。「アーツ・アンド・クラフツ運動とキリスト教、とくにカトリック的な傾向とは親和性があったが、アーツ・アンド・クラフツ運動の成果として登場した私家版運動で刊行された作品にも、そういった傾向のタイトルが目立つ※4」という指摘があり、絵画や挿絵を偶像崇拝につながるとみなすプロテスタントとは異なって、「私家版のほとんどが旧約聖書に基づいている※5」ことでカトリック的な傾向がうかがえるとのことだ。たしかに豊かな装飾性とカトリックとは教会建築にも深いつながりがうかがえる。書籍印刷という広い意味での造形行為の裏にも、宗教が隠れているのだろう。興味ある指摘だ。

また、本テーマの中心人物の一人スタンリー・モリスンは、19歳でカトリックに入信している。彼の母親が資本主義への嫌悪を露にした理神論者で、社会主義思想に共感したことで、その影響が色濃いとされる。彼はプロテスタントではなかったので改宗ではないが、カトリックに共感した。

新タイポグラフィ運動

『フラーロン』誌が閉じられる頃、大陸では先鋭的な新タイポグラフィ運動の胎動があった。ヨーロッパでは新しい職種を確保しようとして活動を始めた美術系(アート志向)のグループが躍り出た。そのグループは後には商業印刷の分野に進出し、グラフィック・デザイナーと呼ばれた。旧来のままで工夫が見られないような印刷物の停滞状況に対して人々の感性に鮮明な造形で訴求することを目指す新しい職種がドイツを中心に動き出した。

イギリスの産業革命が遅れて波及したドイツでは、印刷所の内部で行われていた組版作業を新しい考えで人々の前に提出し、社会との関連を意識したいわゆる「デザイン的思考」に基づく業種の必要性が叫ばれた。大量消費に裏付けられた大量生産方式という工業化社会の原則には、製造現場での部品類の規格化が必須であった。それには同時に単純化を求められた。工場では流れ作業による製品加工が主役となり、単純な作業と単純な部品の積み重ねが製造工程を支えた。そして、時間の短縮と経済性が結び付けられて、直線的なスピード感と鋭く明快な造形が好まれる傾向が顕著になり、グラフィック・デザイン上でもそれを反映した幾何学的なサンセリフ(ジオメトリック・サンセリフに分類される)が編み出された。この書体群がポスターなどの図案における文字類の大胆な配置に適合したことで、視覚上の斬新な衝撃を伴った力強いデザインが躍り出た。

この動きは、やがて革命後のロシア、オランダ、ポーランドやチェコなどにも広がった。構成主義であり、「新タイポグラフィ運動」であり、イギリスはこれらにほぼ無反応を装ったことが特徴的である。この運動の主導者はマックス・ビルやヤン・チヒョルトだった。これはやがて「モダン・デザイン」という風を起こす契機となったが、その中心地はスイスへと移っていった。

そして1950年代後半から洗練されたサンセリフ書体の登場が登場する。ジオメトリック・サンセリフの冷たさと可読性への疑問から、ネオ・グロテスク系書体が誕生し、モダン・デザインを支えた。このサンセリフを主とするデザインが機能主義と結びついて装飾性が雑音として徹底的に排除され、消毒したような潔癖さが印刷デザインを席巻する。これはプロテスタント系に特有の体裁と言える。ドイツやオランダで顕著な動きが見られた。

見落としてはならないことは、この運動が商業活動を支援する技能として認識されていたことだ。それはあくまで広告分野でのデザインの刷新であり、大胆で自在なレイアウトを提示し言葉(文字活字)とその自由な配置(例えば紙面を大胆によぎる斜めの配置)や罫線による誘目性の発揮にあり、文芸・科学・そのほかの論文類や著述による長文のテキストを主とする書籍・雑誌には対応し難いデザインであった(チヒョルトは後半生でそのことを痛感した)。いわばその内実は「商業美術」「広告図案」などという和訳語が当時の日本で使われた部類であり、タイポグラフィの根本からの刷新とは言い難い現象だった。だがその言葉の意味をいっそう増幅してコノテーションを強調する刹那的で強烈な一撃は、一種の視覚上の圧力によって物欲を刺激することで成立する消費行動への誘導という広告の基本原則と合致して、その影響を無視できない。刺激はさらにいっそうの強い刺激を無限連鎖的に要求する本能的欲求があることから、この紙面刷新はやがてアメリカで1960年代に心理学の援用でまとめられた広告理論の成立に、なにがしかのヒントを提供したのではないかと推測できる。

2. 雑誌『フラーロン (The Flueron)』の発行へ

フラーロン協会

『フラーロン』が発行される前年の1922年夏の終わりには、「フラーロン協会(The Fleuron Society)」というグループが結成されて、活動の話し合いが行われている。だがこの会はそれに先立って、30歳代前半と20歳代前半の2人の男の出会いから始まっていた。この会の主唱者である1人はオリヴァー・サイモン(1895–1956)で、ヘラルド・カーウェン(1885–1949)が興したカーウェン・プレスの一員であった。もう1人が当時クロイスター・プレスに席を置いていたスタンリー・モリスン(1889–1967)だった。

Oliver Simonオリヴァー・サイモン

Stanley Morrisonスタンリー・モリスン

2人の呼びかけに応じて集まった会員は、一家言をもつ3人だった。月刊文芸雑誌『ツデイ(Today)』の編集者だったホルブルック・ジャクスン(1874–1948)、当時ペリカン・プレスの主宰者だったフランシス・メネル(1891–1975)、アーデン・プレスやシェイクスピア・ヘッド・プレスの設立者バーナード・ニューディギット(1869–1944)。

最初の会合では、サイモンが示した協会の基本方針について、メンバーの意見は激しくぶつかった。方針の趣旨は、このころに開発された機械組版でも手組みに匹敵する品質保持を求めて新しい技術との協調の道を探り、タイポグラフィの可能性を開くとする意見だった。ここでいう機械組版とは、主には19世紀末に開発されたモノタイプ機とライノタイプ機で、前者は活字を自動鋳造して文字単位で組む方式で、後者は同じ自動鋳造組版機ながら、行単位で組む方式である。この趣旨に対してニューディギットだけは、手組み組版の優越性と手漉きの印刷用紙の使用というような、ハンディ・クラフトを主張する強硬な意見を通した。他のメンバーがどのような意見だったかの記録は残っていないが、大勢はサイモンの趣旨にほぼ賛同していたと思われる。この2つの意見の溝は最後まで埋まらず、協会の会合はわずか2回目でその花をしぼませてしまった。サイモンによればその議論の様子は「嵐」のようであり、メネルによれば自分は嵐に手を貸した覚えはないし、あの議論は見解の「相違」にすぎないという冷静な受け止め方だった。

雑誌名の決定

結局のところ会は解散し、サイモンとモリスンという当初の2人が自費で雑誌を出版することを決意した。「フラーロン」という先のグループの名称はフランシス・メネルの提案で、この麗しい名前をモリスンは気に入っていた。ちなみに、「フラーロン」とは印刷の専門用語で、花形装飾活字のことで、現代ではPi fontsあるいはdingbatとも呼ばれる類の紙面を彩る花や葉の模様で、文字以外のキャラクタである。

雑誌名の当初の案では、タイポグラフィという語をメイン・タイトルに掲げるつもりだったのだろう。モリスンが1922年10月8日にサイモン宛に送った手紙には「タイポグラフィというタイトルはかなり固いし、一般の人には技術的な連想が先立って、自由な雰囲気をまったく感じさせない。このフラーロンには、歴史的でロマンティックな趣を示せる響きがある。これこそ我々が表明する必要のあるものだ」と書かれている。そこでこの雑誌でフラーロンという名前を継承し、タイポグラフィという専門語は『フラーロン』の副題”A Journal of Typography”という形で収まった。ちなみに、モリスンは『フラーロン』発行と同じ1923年には、すでにモノタイプ社の活字開発計画のアドヴァイザーとして契約を交わしていた。その後そこから生み出された古典書体の復刻と新書体の新刻による活字書体の数々の登場は、モリスンが強烈な集中力で古典書体を発掘したことを物語り、現代の欧文用書体の豊かな発展の基礎となっていることは重い事実である。

この雑誌の発行意図については、最終号である7号の「あとがき」でモリスンが次のように明快に総括している。

その意図は、活字、印刷紙面、書籍デザインに関わる問題を詳細にわたって議論することにあったので、現在の商業雑誌でできるようなことを遂行するのではなかった。つまり、イギリスの印刷人が調べようとすればできたはずなのに、いままで放置してきたヨーロッパ大陸の印刷業を歴史にとどめること、印刷人・読者・書籍商・職人との関係を理解すること、イギリスの印刷人の知識を広げ、印刷に対する意気込みを強めることが目的である。
顧客と書き手に対して責任感を強めることによって、印刷人が職人の高い水準を目指すように励まされることが望まれていた。
スタンリー・モリスン『フラーロン』7号「あとがき」

ここに当時の印刷業界では何が欠けていたのか、また望ましい印刷物の質とは何か、という問題意識の独自性がうかがえる。商業雑誌とは一線を画すという厳しい覚悟が明瞭だ。

編集者のサイモンとモリスン

そして、『フラーロン』が動き出す。その編集担当者は、前期4号はオリヴァー・サイモンで、後期3号はスタンリー・モリスンだった。机1つと電話1つで間に合うようなロンドン市内の事務所で雑誌の発行が管理され、原稿や手紙をタイプし整理する女性の秘書兼タイピストが1人雇われていたような極めて小規模の版元だった。この2人の担当した号は、それぞれの個性と思想を反映した編集を示している。各号の小論の執筆陣の選択とその内容、また構成やページ数にもそれが明瞭に現れている。

前編・後編のページ数比較前編・後編のページ数比較

各号の記事の内容と分量(単位:記事数)各号の記事の内容と分量(単位:記事数)

記事の内容と分量(単位:記事数)記事の内容と分量(単位:記事数)

前編・後編の記事の内容と分量(単位:記事数)前編・後編の記事の内容と分量(単位:記事数)

前編・後編の広告主(単位:広告数)前編・後編の広告主(単位:広告数)

サイモンは、1919年にカーウェン・プレスという商業印刷所に入社し、やがて主任となって働く傍らその印刷所の名を挙げる働きによって知られた。1924年には「ダブルクラウン・クラブ」という会を設立し、1936年には印刷雑誌『シグネチュア(Signature)』を創刊した。著作もあり、その筆致は平明である。彼の両親もそして彼もウィリアム・モリスの影響を濃く受けている。装飾的要素の濃いデザインを好んでいて、印刷紙面に図版の役割を積極的に活用する趣向を持ちつつ、ドイツの印刷文化の賛美者でもあったそうだ。モリスンによれば、サイモンは議論を好まず、他者に与える印象は薄いようだと言う。大人しく寛容な性格だったと思える。

他方モリスンについてはここに紹介するまでもないほどで、タイポグラフィに関して多くの著作(書籍と論文記事は約180点)を出版した人物だ。日本のデザイナーでは、タイムズ・ニュー・ローマン書体の生みの親だと言えば分かるだろう。彼の基本姿勢の背景には、おそらくイギリスで最初のタイポグラフィの技術書として知られるモクスン著『印刷術における機械操作の実践(Mechanick Exercises on the Whole Art of Printing)』が濃い影を落としているはずだ。そこにはモクスンの姿勢が表明されているからだ。「タイポグラフィの実践者とは、独自の判断力と自らの揺るがぬ理性(Solid reasoning)を基に行動できて、他人を指図して、終始タイポグラフィに関する手作業と実際の操作の全てを遂行できる者である」という記述だ。その中から若きモリスンが掴み出した語は「揺るがぬ理性」、つまり「確固たる論理的思考」を意味する語だった、と紹介するに留める。

市井の読者のために

先に記したアーツ・アンド・クラフト運動とプライヴェット・プレスの行動は、機械に頼る製品の画一性を助長する近代式生産方式に対して、手のぬくもり感の喪失を嘆くものであるとして、一部の職人や思想家の共感を得ていた。

他方で、モリスンやメネルが志向したタイポグラフィ観は、その2つの動きに刺激を受けたとはいえ、異なっていた。それはよりいっそう市井の読者を念頭においていたし、経済生活にも資するものであるべきだという考えが濃厚だった。いいかえれば、印刷の本質は大量複製であって、実利的な目的を本来的に有しているという認識の下に、技術の新しさだけに溺れず、社会の伝統や慣習を重んじつつ技術の長所を上手に使いこなす、という向日的かつ慎重冷静な姿勢だ。そしてその目的遂行のために、歴史に踏み込んで学ぶという側面があった。その姿勢は単なる伝統保守主義者とは異なる性格を帯びていた。

『フラーロン』に使われた活字

この雑誌で使われた活字について、若干ながら付記する。全7号で4書体が選ばれている。サイモンが担当した前半の1〜4号では、3書体である。1号は14ポイント(以下「ポ」)のギャラモン書体、行間ベタ(行間なし)、2号は14ポのバスカヴィル書体、行間ベタ。3号は11ポのキャズロン書体、行間3ポ、4号は13ポのキャズロン書体で、行間1ポ。モリスンが担当した後半5〜7号では全て14ポのバルブ書体で、行間は1.5ポで共通している。ちなみに行長を見ると、前半4号は1ページ38行、後半3号は33行が主である。組み幅は前半が33パイカ(396ポ、約140 mm)、後半は32.5パイカ(390ポ、約138 mm)と計測できた。

使用4書体は全てモノタイプ社製造の活字である。ギャラモン書体はジャノン系であり、フランスの17世紀前半のスダンのジャン・ジャノンが設計した(16世紀のギャラモン書体の模造)書体がモデルである。ギャラモン書体はおそらく世界で最もよく知られた欧文書体の代表格であろう。バスカヴィル書体は、18世紀のバーミンガムのジョン・バスカヴィルが設計した。キャズロン書体はロンドンのウィリアム・キャズロンが設計し、イギリス製初の独自書体の誕生として歓迎された書体をモデルにした。バルブ書体は18世紀フランスのフールニエが設計した書体をモデルにしている。バルブとはフールニエに協力した印刷者。モノタイプ社にはフールニエの設計書体をモデルにしたフールニエ書体もあるが、バルブ書体に酷似している。その理由はここでは省略する。

The fleuron

The fleuron

The fleuron

The fleuron

The fleuron

The fleuron

The fleuron

3. 同時代のさまざまな運動との相違

『フラーロン』が世に出た契機は、時代が抱える課題への対応だった。印刷の改革を巡るかまびすしい動きに一石を投じる意図があったと観察できる。彼らの提言には、印刷関連業者の自覚を促すという啓蒙の意図もあった。その行動がどのような言論の形で受け継がれたかを、同時代およびその後の主な定期刊行物から探って位置づけを試みよう。

産業革命という動力エネルギーの発明から起こった大地殻変動により、家内制手工業から工場制機械工業へという製品製造現場の激変があった。そこでは、大量複製への焦りと希望とが織り混ざった美的価値および装飾的価値についての見解を孕みつつ、一部で活字とその演出法についての議論を巻き起こしていたが、果たしてどんな評価や試行があったのだろうか。

アーツ・アンド・クラフツ運動との比較

ここでは目的、手段、装飾の3つの側面で、主にA&C運動の支柱としてのモリスの書籍設計の理念と比較してみる。モリスがラスキンの中世の正当化に同調して「ゴシック・リヴァイヴァル」の洗礼を受けている有名な事実も不可欠な背景である。モリスンが「(1851年開催の)大博覧会ではゴシックの唱道者ピュージンがデザインした中世の装飾や復活したブラックレターの活字は、当時のタイポグラフィの帰結のひとつだった。文字よりも重要だったのは復古の精神だった。それは産業の前進を強く批判するもので、前の世代を熱くさせた精神だ※6」と言うように、ゴシックの復活という残照がまだ覗けた背景がある。

第1に目的から眺めると、『フラーロン』発行がA&C運動の影響下から生まれたことから、この運動との共通点は無視できない。モリスンは、A&C運動に一定の評価を与えていた。それは主に「モリスの産業主義への抵抗が感傷的ではなく社会的だった※7」からで、思想的背景への共感だった。モリスの抵抗は社会主義者としては当然な姿勢だ。産業主義への突入と人間の手仕事の軽視への危機感と社会改革が絡んだ運動だからこそ、モリスンの賛同があったのだろうが、評価は全肯定ではない。その理由は、おそらくモリスのアート志向と耽美主義傾向への疑問からだろう。

もうひとつの共通点があるとすれば、それは「優れた製品」を実現し提供する目的にある。この場合の「優れた」という語の英語はfineであるが、洗練された仕上がりを意味する。きめ細かく丁寧で、しかも機能面だけでなく心理的にも満足感や喜びを与える製品。ただしこの優れた製品の中身つまり実践に立ち入ると、そこにはA&C運動との相違が現れる。

モリスンはモリスの行動に限界を感じていただろう。つまり機械化への傾斜を忌避するのではなく、工芸的要素を活用しつつ、量産の可能性に希望をつなげて、機能性と経済性を重視していたことに伺える。工芸的要素とは活字の原型(父型)がグーテンベルク以来500年間近くは手によって彫られていたことを指し、その手作業によって生じる避けがたい限界が示す「金属活字」独特の姿であろう。読まれることを前提とする文字造形への繊細な神経とその実現へ向けての沈黙の中で作業が続けられる飽くなき姿勢である※8

また、ここでいう機能性とは製品としての直接的つまり身体的、それと間接的つまり心理的な「有用性」、この双方であり、経済性とは効率的生産による「価格の抑制・適切さ」であり、人々の日々の生活つまり経済的行動への貢献である、と解釈できる。大量生産による製品の画一性は、それ自体が大衆に同一の品質を安価で保証するというメリットに転化されていて、それが社会貢献となる。解決すべきは粗雑な製品という質の問題であった。総じて、モリスは理想主義的であり、モリスンは現実主義的であろう。

第2に手段で眺めると、A&C運動の趣旨には機械文明への嫌悪があった。彼らの拒否する「機械」は熱エネルギーを動力機関として利用する自動方式であり、受け入れた機械は旧式の木製手動式であったが、素朴ながら一定の構造を有した力学的な動作器具すなわち機械であることに変わりはない。機械とは何かの定義がないために、曖昧さを残している。加えて産業主義の進展で分業化が進み、職人が責任感を喪失しかねないことにも危機意識があった。

機械の活用では、A&C運動の後に生まれた『フラーロン』の編集方針とは異なる。既に触れたように、『フラーロン』は新しい技術を利用して、産業の枠組みを経由して受け手に的を定めた外向的な行動だったが、A&C運動では素朴な機械と道具それに手工芸に依存する中で、内向的に充足した作業工程と作業環境を是としていた。

第3に装飾要素の扱い方の差異は何か。装飾過剰気味のモリスは、優れた製品には装飾が不可欠だと理解し、装飾は生活に豊かさを添える要素であるとして、第三者にもその鑑賞を求めたし提供したのだろう。だが、装飾の美は、モリスが描く理想的な民衆にはふさわしいし、とりわけ忙しく動く近代人の心身の一部を潤しうるが、モリスが支持する労働者階級には装飾を生活の中で鑑賞する余裕があったか疑問である。さらに、モリスはアートに傾いたために、無意識的であろうがつい大判の仰々しい装飾を加えた重い書籍を堂々と製作した。教会の奥に鎮座して鍵がかけられた権威的な聖書を彷彿とさせるほどの存在感を誇示する書籍である。

『フラーロン』では、全号を通しての紙面デザインが一定の回答を用意していたと見ることができる。つまり、テキストが主であり装飾性は乏しい。扉のデザインは簡素であり、装飾要素はアクセント程度である。だが、モリスンには「利便性はタイポグラフィの技芸にとっては始まりではありえても、最終目的ではない。……装飾のある書籍を提供することは、無視すべきでないタイポグラフィの技芸の一面である※9」という理解があった。功利性一本やりの造形行為・技芸には、モリスンは反対だった。つまり「適切な装飾」という考え方を主張するのであろうが、その「適切さ」には曖昧さが残る。何を念頭に置いているのか。そこには「フラーロン派」の一員であり、若きモリスンにタイポグラフィの手ほどきし、1923年にナンサッチ・プレスを起こしたメネルの理念と実践が、この曖昧さを解く鍵になるだろう。

つまり、メネルの組版演出の特徴は、出版物ごとの書体選択の多彩さと「隠喩に富んだ印刷(allusive printing)※10」にあるとされている。このprintingはtypographyと置き換え可能だろう。オーナメントの使用は内容と著者との関連で選択する、というその有効性を重視していた。つまり、オーナメントに意識的な機能を発見した。言葉だけに喚起されて思い描くだけでなく、装飾要素の挿入によって膨らむ想像力への点火による、読書の楽しみを味わう場の提供である。読み手と作り手とのつながりを強化する相互共感を活用した心理的な機能主義であり、書籍の装丁と一体化した活字と組版と飾りの交響が生み出す理性と身体感覚と心理反応の面で満足させようとする演出である。ここにモリスの装飾に対する姿勢との違いが明らかである。

ちなみに、A&C運動は日本の民芸運動の唱導者で主役である柳宗悦と比較できる。A&C運動の思想の核は復古へ向かう精神と一神教の神と装飾にあり、モリスなどの社会主義者による民衆への視線にあった。ただその視線は彼らの生み出したモノの中に見えにくい。他方で民芸運動では職人への眼差しはA&C運動よりは明確であり、その思想の核となるヒントは仏教の中にあった。西洋の二項対立思考という発想の原点を疑わないで揺るがない態度に対して、柳の発見は鈴木大拙らの紹介した禅の高踏的で孤高の精神から導き出された二項対立以前の宇宙的な混沌状態にその行動の核を求めている。さらにその先に浄土教の民衆救済への傾斜がある。つまり善悪や美醜という相対立する2つの価値が生じる以前の状態があるとの認識を出発として、名も無い庶民の無私の習慣的な創作(あるいは製作)行為に理想を発見した。まことに斬新である。

翻って『フラーロン』派の動きは、むしろ柳らの行動と重なるだろう。人々の生活の基盤を支える裏側の立場を自覚することから社会にモノを送り出すという意味で、共通点がある。つまり、少なくともunsung hero(讃えられない主人公=影の功労者)的な部分だけは共通するはずだ。己の労働にひたすら取り組む無垢の姿勢であり、生活の中で必須な部分だけを想像し、創造への昇華の意識もない繰り返しの地べたの日常行為は、評価の有無は眼中にない一種の超越的な態度と言える。

柳の独自性は、言葉に頼らないこの国の伝統を受け継ぐ職人の現場に対して、初めて言葉による根本的で意識的な考察を残したことにあるだろう。だが、言語化したことによって、匿名性の中での仕事に職人はかえって己の働きが外部から眺められたことを意識せざるを得なくなり、当惑したのではないか、という危惧もある。無自覚が意識された時に成長は始まるのが常ではあるが、近代は果たしてこの当事者の外部からの好意的で夾雑的な鑑賞や評価を果たして回避したのであろうか、それとも昇華したのであろうか。

私家版運動との比較

ここでは読者への意識、印刷への動機、製作物への価値観、それにタイポグラフィについて、19世紀中頃から盛んになった私家版印刷と比較してみる。

第1に読者という存在の意識はどうであったか。『フラーロン』は印刷業者を対象として、彼らに読み手の存在を意識させるよう促したが、私家版印刷の考え方に影響を受けているとはいえそれとは異なり、市井の読者への意識が濃厚だった。それは私家版にありがちな、自己の美的価値観の発露の手段としての書籍製作という、自足して閉じ籠る志向ではない。私家版では読者は極めて限定された中での、価値観の共有が前提でもあった。

モリスンは伝統主義者ではあるが、盲目的な伝統保守とは異なる言動を示した。印刷の本質である複製技術の長所を社会の伝統や慣習を重んじつつ適切に使いこなすという慎重だが向日的な理念だった。その裏には大方の読者は(とりわけ活字書体において)保守的であるという認識があった。その保守的な受け手には慣習という容易に崩せない深層が埋まっているとの判断だろう。慣習という同一地域で暮らす人々の文化の下層に堆積する無意識に近い錘(おもり)は伝統に裏付けられて存在する、という認識がモリスンの思想の核にあるはずだ。そこで慣習的受け手に届ける目的遂行のために、歴史に踏み込んで慣習や伝統の役割を確認する必要が求められた。したがって、伝統の解釈が後ろ向きに働かない。この考えはいわばリテラシーの向上による「近代読者」が成熟期を迎えていた時勢への必然の対応として生じたものだろう。

第2に印刷に対する動機を比較する。私家版運動を「内向的」と評したが、行動の裏には反抗心も隠れていた。それは当時の無秩序な印刷物への静かな抵抗でもあり、表立って声高に主張しない紳士的な態度のようでもある。だからこそ彼らの言葉は鬱屈の中からの辛辣なユーモアとなって周辺に波紋を投げる。私家版での印刷(および裝本)は、既存の文芸作品を素材にした書籍形態の美の追求のための手段だった。他方でモリスンらの印刷の位置づけは、自己または他者の追求テーマや見識を広く公表する手段だったのであり、健康な志向だろう。その意味で彼にとって活字は、公のものだったのかもしれない。議論を起こし提供するための基盤的な、言わば民主的な支持媒体だったのだろう。

第3に製作物への価値観を比較してみる。私家版印刷の評価では、モリスンはそこに見られる閉塞的な習癖と個人の美的趣向の追求とは一線を画していた。モリスの原点である装飾の価値と職人の責任感に共感しつつも、それだけでは限界があると考えていた。モリスンは印刷では美の追求のあまりに優先課題が看過されることに警鐘を込めて、「美は望ましい。そして美は求めなければ現われるものだ。美のための美、あるいは変革のための変革ほど、タイポグラフィにとって災難を引き起こすものはない※11」と指摘している。製品の「用」が十分にしかも無意識の上に機能すれば、そこには「美」が自ずから沁み出てくると解釈できる。もし「用の美(beauty of utility)」という語が常用の英語にあったならば、モリスンはそれを採用したはずである。書籍という形態とそれが秘める内容が統一的に造形化される先には、充足感からの喜びという心的機能性が立ち現れるはずだという考えであろう。

次に具体的な面で比較してみると、エゴイストで嫉妬心が強かったダヴス・プレスのコブデン・サンダースンは、モリスの書籍製作を批判している。「彼の作品はすばらしいし、それ自体が時代を画するもの」との一定の評価はあるものの、「彼(モリス)の行なったことの多くはタイポグラフィの点からは見当違いだし、著者の思考表現がなされるべきページを完全に破壊している」と、素人性と過剰なデザイン志向を退けている※12。書籍デザインにおける表現主義の弊害の指摘だ。サンダースンの書籍に対する思想はモリスと異なる。彼が完成した書籍のたたずまいは簡潔を旨としているために、装飾的な要素を排除していて、プロテスタント的特徴を示す。したがって、サンダースンは流行思潮を気分的に捉えた気取りではなく、あくまで批評精神を思想の表出として挑んだ私家版印刷者だと言える。

また、ある解説では「頽廃的な印刷はつねに装飾的な印刷である。タイポグラフィの想像力がうまく働かないと、装飾的になる」というジャクスンの引用に続き、これを最も熱心に採用したのがバウハウス派であるとしている※13。モダニズムがこの辺りで「カルヴァン主義者のスタイル」の延長と確認できる。

第4にタイポグラフィの面での違いを見てみる。モリスンは活字書体の設計においてもモリスの有名なヴェネチアン系のゴールデン書体を評価していない。この書体はケルムスコット本全体の約5割で使用されている。私家版の活字ではジェンソンとその同時代人のヴェネチアン系をモデルとした活字が多くを占めていて、モリスの影響に対するモリスンの批判は激しい。たとえば有名なゴールデン書体は「醜い」し、私家版が使う同類書体は「これ見よがしで、悪名高い出来損ない※14」だと切り捨てている。そして「すぐれた印刷という大義は、自分専用の奇妙な様式のための下品な狂気で台無しになっている※15」として、ケルムスコットとその亜流に厳しく反発している。

ヴェネチアン系の代表であるジェンソンのローマン体の文字造形に対するモリスンの批判は、大文字の字幅と高さに向けられている。とりわけ高さがアセンダー・ラインと同じであって際立ち過ぎること、それに小文字hやeが読み手の眼を捉え過ぎて読書行為に支障がある、さらに「見栄を張ったg、e、b、yの文字と突出した大文字でルネサンスの活字に忠実だ※16」などと、読者の目を止めてしまう文字造形を批判している。この指摘は、彼の「理想の活字を求めて(Toward The Ideal Type)」という『フラーロン』で発表したエッセイに披露されている。読者は文字の1つずつを読むのではなく、文字を通して単語の輪郭を認識し意味を読み取り続けるが、文字のわずかな不慣れな造形が視覚の躓きを起こして、意味への瞬時の経路を妨害してはならないという意味である。

『フラーロン』の同時代の雑誌

『フラーロン』以外で英国内での「印刷改革運動」の流れの中に、いくつかの雑誌が手を挙げていた。ここでそれをチェックしてみる。

『インプリント(The Imprint)』

『インプリント』は1913年に月刊を目指して出発したが、9号を発行してあえなく終結した。1月から8月までは順調に月刊で発行できたが、9号は11月発行となり、それが最終刊となった。創刊号の巻頭で発行人であるジェラード・メネル(フランシス・メネルの従兄弟)と思われる匿名の記録欄があるが、そこには詩人・画家であるウィリアム・ブレイクの言葉「輝かしい夜明け」がこの雑誌の理想だと紹介されている。高揚感が伝わる一節である。ちなみに、ここで専用された活字書体は、キャズロン書体をモデルにしてモノタイプ社で急造された「インプリント書体」として知られている新しい活字である。

この雑誌に関係した人物を調べると、意外と多くの者が参画していた。編集担当はリトグラファのE・ジャクスン、タイポグラファのJ・H・メイスン、カリグラファのE・ジョンストン、そして印刷者のジェラード・メネルの4名で、専門分野が異なることが特徴である。その他に諮問委員会として桂冠詩人のR・ブリッジ、中央美術工芸学校の初代校長であるW・R・レザビー、印刷人のデヴィーン、アシェンディーン・プレスのS・J・ホーンビーを含む33名が名を連ねている(5号以降は32名)。有名な私家版派が際立つ。

執筆陣は91名が寄稿し(このうち4名は共同執筆)、87の記事が発表された。毎号平均では、同一人物による複数執筆と匿名執筆を含めて10名が書いている。際立った寄稿者では8回発表した者がメイスンと古書販売人のエヴェラード・メネルの2人。7回発表者はE・ジョンストン、肩書き不明のD・パウエル。6回発表者は物故者で「尊師」と称号のある19世紀の書誌学者T・ディブディン。5回発表者はリトグラファのE・ジャクスンである。これらはほとんど連載記事である。珍しい人物として、フランシス・メネルの母親で詩人のアリス・メネルが2号に児童書の挿絵について寄稿している。また、モリスンが24歳にして初めて発表した論文「典礼書に関する覚書」が8号に見られる。最終号では6名しか書いていないが、急激な状況の変化がうかがえる。その理由のひとつは第一次大戦前夜の英国社会の経済状況の混乱とそれに伴う資金面での困難であり、もうひとつは、意見の相違であったと報じられているが、詳細不明だ。

『インプリント』の主な対象は印刷業界であり、その内容は主に業界への提案だった。印刷を工芸分野の価値ある地位へ引き上げようと、印刷関係者への自覚を促す企画だった。全号の目次を眺めると、印刷関連(方式や機械や用具類)などが最も多い記事であり、次は評論関連であり、ビジネスに関する記事が3番目に目立つ。その他は装飾や挿絵や書籍などに関する記事が占めている。

また「『フラーロン』は『インプリント』で示されていた課題を引き受けた※17」と『モダン・タイポグラフィ(Modern Typography)』の著者ロビン・キンロスはまとめている。だが、同じように業界向けを意識したとはいえ、『フラーロン』はいっそうの広い範囲からの執筆者とテーマを特徴としている。また、キンロスの『フラーロン』に関する見解は「印刷業界に向けて語りかける明確な意志はないが改革運動内あるいは集まりの中での議論のための手段として間違いなく機能した※18」と、実践的ではなく内輪だと見ている。これには創刊号での「発刊にあたって」という類いの宣言が見られないことも関係しているだろう。だが、『フラーロン』は「議論ための手段」ではあるが、広角的内容を扱い、海外からの執筆者の寄稿もあり、ヨーロッパへの一定の広がりは推測できるし、雑誌の意図を広く欧州諸国にも知らせる思惑もあるだろう。川の底流に細々とだが流れを繋いでいたような現象に見える。時代状況への反応ではあったが、その流れは時代を超える意義を伝えていたようだ。それこそ静かな波及効果で良しとする抑制的で一種紳士的な態度と言える。

『インプリント』と『フラーロン』との関係では、やはりキンロスの解説が参考になる。『インプリント』は「『フラーロン』およびその後に現れた他の雑誌の精神的な母体であった※19」。この言葉は、この2誌の影響を位置づける上では重要な指摘であり、その後の印刷改革運動の先駆けとしての存在を評価している。

ダブル・クラウン・クラブ(Double Crown Club)

ダブル・クラウン・クラブでは、『インプリント』誌以上にA&C運動の影響は濃厚である。1924年10月に結成して、40年以上継続した会合である。設立会員はサイモンのほかに出版人かつ多方面で活躍したS・ロバーツ、出版人のF・シジック、タイポグラファで音楽系出版者のH・フォス、それにG・メネルであった。初代の会長はロバーツが務めた。年数回の不定期な集まりであって、タイポグラフィや書籍製作についての論文が食卓を囲んだ会員に配付されて、議論が交わされた場(ダイニング・クラブ)であった※20。モリスンは設立会員としては名前の記録はないが、何度か参加している。1964年のクラブの40周年記念講演で、晩年のモリスンはクラブの功績をこう語っている。

印刷人とデザイナーだけでなく読者の執事たる出版者が参加することで、「読者と向き合う必要のある出版者と奇行と乱暴をはたらくデザイナーが向き合うことを気づかせた※21」。

モリスンの伝記作家であるJ・モランは、モリスンを公平に見つつも、名を遂げたモリスンの晩年の言動に対しては批判が目立つ。だが、「奇行と乱暴をはたらく」のは「デザイナー」だという指摘には耳が痛い人もいるだろう。これは活字設計について「設計者の親指の指紋は不要だ」というモリスンの名言を思い出させるし、その先には、グラフィック・デザインにおいて、デザイナーが往往にして「私流」を付加したがることへの批判が見える。「これが私のデザインだ」という、まるで電柱に自分の証拠を振りかける犬の行為に似て、そこで自足する現代の職業人の一面だ。グラフィック・デザインもタイポグラフィも、与えられた素材を視覚化・現実化させる行為であり、それはハーバート・スペンサーが「(タイポグラフィにとっては)テキストはレゾン・デトル((raison d’etre)」だと言うまでもなく、第三者が用意または表現した素材なくてはあり得ない技芸であり、つまりは代弁的な再現行為であり、あるいは追創造行為でもある。

ダブル・クラウン・クラブの形式を雑誌発行という公開の場で発展させたのが『フラーロン』であるとも言える。キンロスは「これらの改革運動の快楽主義的で自己閉鎖的観点は、ダブル・クラウン・クラブで崇められた※22」と述べて、広がりを見せない仲間内の趣味の場だとして厳しい視点で観察している。しかし、「快楽主義的」は何を指しているのか。キンロスが支持しているように見えるモダン・タイポグラフィでの抑制的な組版も、その清楚な空気感も「快楽主義的」ではないと言えないだろう。余分な要素を全て取り払う行為は合目的性だけを追求し、息つく暇さえ排除する一直線的な紙面展開は一定の緊張感を読者に与え続け、その非装飾的で張り詰めた無機質性を是とする。それも一種の無意識的な快楽追求ではないだろうか。ここで引用しているキンロスの著作の本文と見出し類は同一書体と同一サイズで組版され、余白がその分節化を暗示している。

カーウェン・プレス

基本的にカーウェン・プレス(Curwen Press)は端物と広告の印刷物を得意としていたが、美術家や挿絵画家が集まる場でもあって、カーウェン一家の後を引き継いだサイモンが活字と挿絵との独自の分野を築いた。やはりキンロスによれば、この印刷所は「とりわけ良質の食事とワインを連想される、文士風であるが深刻過ぎない世界だ※23」と分かりやすく例えている。「深刻過ぎない」という部分こそ、モリスンとは異なる挿絵とテキストとを同等に扱って特徴を見せていたサイモンの真骨頂だろう。自分の楽しみを優先する姿が見え隠れする。この時代に多く存在した私家版印刷者の典型のひとつだ。フラーロン派の両頭の一人にもこの理念の表出を許したことは、互いの懐の深さに起因するだろう。

『ペンローズ・アニュアル(Penrose Annual)』

1895年という早い時期にグラフィック・アートの評論を目的として発行された年1回発行の雑誌が『ペンローズ・アニュアル』である。1982年まで87年間続いて貴重な記録を残した息の長い定期刊行物である。『フラーロン』よりは28年早い刊行であるため、その当初の発刊趣旨は『フラーロン』とは無関係である。「グラフィック・アート」という言い回しにも美術への憧れあるいは負い目が伺えるとするのは言い過ぎか。

発行数とページ数が共に多く、統計と分析は物理的に不可能だが、印刷に関連する事柄を全方位から集めて評する雑誌であると総括できるだろう。グラフィック・デザインの製品類の紹介や評論、最新式印刷関連機械や機材や技術、インキ類、用紙、特殊加工法などの情報紹介が主体と言える。かつて数点を手にとって眺めた経験では、印刷技術面のページが多かったという印象が残っている。したがって、タイポグラフィに関する記事は主ではなく、モノタイプ社の広報担当だったビアトリス・ウォードやモリスンやチヒョルトらが寄稿した1930年代だけは、例外的に当時のタイポグラフィへの熱気を伝えることに注目したのではないか。

その編集の守備範囲が広いことは特徴のひとつだった。この年鑑雑誌の発行期間それ自体が近代印刷の歴史と重なる時代の傾向を映すだけでなく、印刷の可能性も探った印刷ジャーナリズムでもあるだろう。それだけに筋が通っていて、グラフィックつまり写真図版などの視覚要素のカラー印刷が主体となる制作物の変化の様子を追跡できるだろうし、視覚要素が大胆に展開して読者の興味を引くなど、その編集方針の勢いが時代を貫いていたと想像できる。

また、組版と印刷の技術形式が進展する時代の課題に取り組んでもいた。めまぐるしく変転する目の前の問題解決へのヒントを機を見て旬に提供していた。そのため、印刷やデザインの新情報をいち早く取り入れるには重宝であり、時代と共に歩む息の長い雑誌たりえた。ただここには、手工芸の要素は見られない。それが過去の技術であるからだろう。つまり、A&C運動の痕跡はうかがえず、グラフィック・デザインと多色印刷再現技術の輝かしい可能性を追っている。色彩豊かな図版と文字組版との意欲的な合体を疑うことなく試みた媒体と言えよう。

新タイポグラフィ運動との関連

グラフィック・デザイナーがタイポグラフィを担う宣言があったことで、「印刷デザイン」とも言える技芸の登場があった。それは時代の技術の進展とも密接だった。カラー印刷の本格化とオフセット平版印刷と新しい組版方式の登場、それにサンセリフという新分類書体の本格的な登場とも時期が一致することで、グラフィック・デザイナーを刺激して活躍の場を増やした。だがその反面でタイポグラファの役割と立場が霞んだ。

新タイポグラフィ運動に対するモリスンの私的な場での意見が残されている。1937年にしたためられたモリスンのアップダイク宛の手紙だ※24。ドイツを中心とする新タイポグラフィ運動に対して憤慨しているくだりがある。いわく、かれらの言動は「空念仏だ」、「様式と感覚をすり替えたがっている」として、アップダイクの吐いた「汚れた自己顕示欲だ」「利己主義がはびこっている」との言葉に賛意を示している。アートに傾斜する大陸のグラフィック・デザイナーへの不信の表明である。

アートとデザインの分岐点は、誰がオリジナル・メッセージ(独創的視点)を用意するかどうかである。この2つの語の基本的な概念をまとめれば、アートは非実用性、個から個へ、自作自演、独創性の自己表出(圧出)で内発的であり、独創性が評価の重点であり、基本は単品製作。デザインは実用性、個から多へ、計画・統合・設計、ある概念の実現化であり外発的であり、条件・制約が伴い限定的で具体的な創意工夫が不可欠で、基本は複製されるものが多い。デザインにおける創造性とは、第1次の(オリジナルな)言葉・概念の視覚化・現実化における第二次創造あるいは追創造(再現)にあるといえる。

Artがギリシャ語arsに発して、「人の関節・腕の動き」などの原義があり、Designはde「下に」sign「記す」の2つの合成語だとされている。前者は人間の個人的な発露と身体の動きが基本であり、後者は人が人に意志・情報を説明する・伝えるという行為に直結していた。そこからも相違を理解できそうである。

アートは多様な解釈を許容し予言的でもあり問題提起的でもあり、時代を超越する普遍性を内包する。デザインは平面や立体を問わず一義性や機能性を求められる時代直結の造形行為である。しかしまたデザインは、社会生活に直結する故に、問題提起型もありうる。

ちなみに、モリスンのアートの定義は「技能によって知的に熟考され意図されたあとのひとつの結果だ、と定義できるかもしれない※25」とあっさりしているが、実は警戒心が働いている。「この時点(1851年の大博覧会:筆者注)以降、アートは魔法の言葉となった。アートと名のつくあらゆるコースの講座があって、アート雑誌が出版された。また木彫りアート、刺繍アート鉄製品アート、調度品アートなどが流行った※26」と、言葉の意味の無制限な拡大に懸念を示している。

また、タイポグラフィはアートかデザインかという問題では、チヒョルトとウォード女史を紹介しつつ検討したC・ビゲロウの小論の中に見出せるとのことだ※27。興味ある重要なテーマだが、その論を未読のためにここでは割愛し、いずれ検討したい。ここでもアートという語の広さをどのように把握するかが基本となるだろう。この2つの外来語の和訳が定着していないことが、我々の基本的な理解を妨げていると観察できる。

4. 『フラーロン』誌と後続雑誌との関係

状況の変化

グラフィック・デザイナーが登場し、その後の印刷関連の状況を変貌させた。伝統的な長文用活字組版と、消費されるデザイン的要素が先行する作業、この活字を巡る作業環境の二極化が生じた。書籍印刷と商業広告印刷の役割が自覚されたともいえる。19世紀の商業印刷と大量消費社会の出現でもその変化はあったが、そこにはおよそグラフィック・デザイナーという自覚された職業集団の存在はなかったと想像できる。

その当時の印刷物、主にポスター類や端物類に見られるデザインには、計画的な設計という視覚要素の演出を活字書体の個性の衝突で圧倒する勢いで満ちている※28。活字のサイズと種類の多さが混在し、底抜けな活気がありカオス的であるが、現代から見れば焦点が定まらない粗雑さが際立つ。文字情報が窮屈さの中で未整理で効果を減じている。文字組版作業上の混乱を整理するにはそれなりの苦労や工夫があったと容易に想像できるが、訓練された職人の手技かどうか疑問でもある。

『フラーロン』誌が発行されていた時代の前後での印刷改革運動では、盛んな議論が続いていた。それは数人規模の印刷関連者による小集団行動で、雑誌類の発行で自らの主張を印刷物によりその質的な意識を具現化して発表することだった。

また大陸での新タイポグラフィ運動は、その意図がどうであれ、資本主義経済での生産者と消費者との関係の密接化、言い換えれば消費者を説得するまたは囲い込むという意味では、経済活動に寄与した。だが、書籍と広告物の印刷量の差は一般的には桁が異なるほど大きいし、市場規模や普及度も異なる。その差はまた影響の範囲や目的とする対象の層にも関わる。そこで両者の条件や制約を無視して現象だけに言及することは、ことの本質を見失いかねない。つまり、モリスンの語る「経済活動に資する」面が現実化しているとは言い難い。モリスンは物質的貢献(製造費とその定価の抑制)が同時に市民の精神的生活(読書など)を支える上で役立つことを願っていたと思える。モリスン自身が図書館通いを続けて書籍を資料として読み込んだ経験からも、それが想像できる。

主なタイポグラフィ関連雑誌

『フラーロン』の影響を英国内で眺めてみる。まずは時代順にいくつかの雑誌をとりあげて、『フラーロン』との影響関係を検証する。ここで取り上げる雑誌媒体は、いずれも第二次大戦前後からの数十年間ほどに試みられた企画である※29

この時代の雑誌の特徴としては、2つあげられる。1つはグラフィック・デザイナーが編集を担うことから誌面が色彩に溢れ、情報整理の徹底によりレイアウトに多彩な変化または統一感を加えたりしたこと。すなわち情報の整理として視覚要素が優先・有効視されて前面に現れた。グラフィック・デザイナーは実践家であるために、テーマに対して学究的な姿勢がとれない。そこから雑誌の内容は、現実的な課題への実践的な対処法または意見表明が多くなる傾向がある。

もう1つは、印刷出版業が印刷業と出版業に分化する現象が固定化されたことだろう。出版業が独立する傾向が濃厚となった頃から、グラフィック・デザイナーが表紙デザインや編集に関わる行動が見られた。同業内での分業制の確立がもたらした時代に登場したグラフィック・デザイナーの幸運な門出だった。しかし、半世紀後には技術のDTP化に見られるデジタル革命の影響で分業制が崩れ、統合化現象が発生している。

『タイポグラフィ(Typography)』誌と『アルファベット・アンド・イメージ(Alphabet and Image)』誌

『タイポグラフィ』誌はロバート・ハーリングが企画し、1937年に発行された定期刊行物である。全8号を発行して1939年に廃刊したが、1946年に彼は『アルファベット・アンド・イメージ』(以下A&I)というタイトル変更によって再発行を試みた。このとき、『タイポグラフィ』誌の印刷出版で協力した印刷者ジェイムズ・シャンドがこの雑誌の発行に関わった。

この時代の印刷現場を巡る状況の変化を語るには、第一次世界大戦を無視できない。雑誌発行の困難さが想像できるからだ。戦後でも印刷業界には頑迷で保守的な工芸職人が生きていて、グラフィック・デザイナーが志向する新しい動きには興味を示さないあるいは無視という態度だったのだろう。

ハーリングは、この印刷関連で一定の役割を果たしていた美術工芸の職人と、新しい職業人であるグラフィック・デザイナーとの仲を取り持つことを志向していた。グラフィック・デザイナーを「美術家と印刷名人(親方)により歓迎される、見失われた技術者※30」と位置づけしていた。この雑誌ではページ物という書籍デザインへの意識は少なく、主に端物印刷物や新しい製作物を紹介することに意欲的だったようだ。そこには19世紀のタイポグラフィの復活を匂わせる意図があり、一種の復古的雰囲気が見られる。1950年代に19世紀のスラブ・セリフ系書体の復活をみることにつながるだろう。

『タイポグラフィ』誌はやがて方向転換を試みた。タイトルが活字に集中し過ぎていると反省して、『アルファベット・アンド・イメージ』という柔軟な誌名の下での写真などをはじめとする、グラフィックな要素を取り入れた紙面や記事に方向転換した。その点で、すでにここには『フラーロン』誌の趣とは異なる傾向を明らかにしている。ただ、この発想の根底には、職人を共同の作業の良き相手としてどのように互いに刺激し合ってグラフィックな展開を可能とするのかが模索されている。この一部分は『フラーロン』からつながる意識と重なる。つまりモリスンの「印刷人が職人の高い水準を目指すように励まされることが望まれていた※31」という印刷現場の意識改革が前提とされていたことに通じている。

いずれにせよ、この2誌には、『フラーロン』の影響は見られないと判断できる。大陸からの新タイポグラフィ運動が持ち込まれた状況下で、独自性と伝統を意識した結果の、カトリック的な装飾性への憧れがこぼれ出たのではないだろうか。

『タイポグラフィカ(Typographica)』

タイポグラファでありグラフィック・デザイナーでもあり教育者でもあったハーバード・スペンサーが弱冠25歳で1949年から発行した雑誌がこの『タイポグラフィカ』である。スペンサーは1920年代に大陸で起こった「モダン・タイポグラフィ」つまり「モダニズムへの理解と賞賛」を英国のグラフィック・デザイナーに紹介する役割を果たした※32。さらに彼は1964年から73年の間に先に紹介した『ペンローズ・アニュアル』の編集長も務めた時期がある。

本誌は新旧2つのシリーズに分けられる。旧シリーズは1949年から59年の間に16号を、新シリーズは1960年から67年の間に同じく16号を発行した。1巻の平均ページ数は旧シリーズでは40で、新シリーズではその1.6倍の65である。本文書体の使用状況は資料不足のため今のところ不明であるが、かつて手にした記憶ではサンセリフ体が主要書体だった。

この雑誌の目次一覧を概観する限り、テーマはタイポグラフィだけでなく、人物の評論や紹介、サインやレタリング、写真、デザイン・印刷、書籍、その他を扱っている。旧シリーズでは①タイポグラフィ、②デザイン・印刷、③レタリング・サイン・文字・記号の順で記事が多く、新シリーズでは①レタリング・サイン・文字・記号、②人物評論・人物紹介、③タイポグラフィ、の順位となる。新シリーズでは④にデザイン・印刷が続く。

内容は歴史に遡る調査や研究を奨励する記述ではなく、その時代に発生している問題または将来への問題提起を主に含む。それはタイポグラフィを巡る技術と社会へのコミットが盛んになりつつある時代の必然と言えよう。つまり、モノフォトやルミタイプなどを代表とする写植組版とオフセット平版印刷が主流となりつつあった印刷の新技術の洗礼を受けていた時代で、多くの課題が山積されていた。

『タイポグラフィカ』の背景には、研究調査という時間を許さない時代の速い流れがあって『フラーロン』のような学術的なテーマが見られないことが特徴である。つまり、歴史を貫くような思想的な姿勢は見られないが、同時代の目前の現実と向き合う姿勢は顕著だったと言えよう。

スペンサーの英国でのタイポグラフィにおける貢献は、大陸のモダニズムと新タイポグラフィの紹介と普及にあった。それは主にチヒョルトを通した理解であった。しかし、キンロスはこの2人を次のように比較している。

チヒョルトが自分の全経験において美的かつ理想的に魅了されたタイポグラフィに固執し続けた一方で、スペンサーの指導には少なくとも明らかにそのような部分はなかった。それはビジネスマンの日常世界のためのタイポグラフィであって、そこでは造形の簡潔さは効率とコスト節約を意味したし、思想的な含みはなかった※33

スペンサーの実利的で現実重視の姿勢と、チヒョルトの厳格で精緻で完璧さを追求する、スタイリッシュで緊張感をはらんだタイポグラフィ観が、ここで要領よく紹介されている。妥協的で現実重視の英国人気質と、理論的に頑固で理想追求型のドイツ人気質の違いにも見えてくる。英国のペンギン・ブックスでの仕事を契機に書籍タイポグラフィを捉え直したチヒョルトが、その後に英国のデザイナーやタイポグラファに影響を与えた背景には、スペンサー流の現実的な解釈があったということでもある。

スペンサー以前には、地味ながらアンソニー・フロショーというタイポグラファで印刷者がいた。フロショーもチヒョルトの影響を受けていたが、そのデザイン意識の新しい捉え方は印刷現場との違いをいっそう強く意識せざるをえなくなり、1950年代以降はタイポグラフィの教師となってグラフィック・デザイナーを育てた。彼の熱心な教育活動はグラフィック・デザイナーが英国に出現した時期と重なる。

『印刷歴史協会誌(Journal of the Printing Historical Society)』

Journal of the Printing Historical Society印刷歴史協会誌 表紙

1964年に設立された団体である歴史印刷協会が発行する雑誌がこの『歴史印刷協会誌』である。設立会員はレディング大学のタイポグラフィ教授のJ・モズリー、タイポグラファで歴史家のJ・ドレイファス(1918–2002)、タイポグラフィと印刷史の研究家J・モラン、M・ターナー、レディング大学のタイポグラフィと視覚伝達の名誉教授のM・トゥワイマン(1934–)、D・チャンバース、ドイツ生まれで英国に移住したタイポグラファで活字設計家のB・ウォルプ (1905–89)である。モズリーなどがいることで分かる通り、レディング大学とのつながりが深く、いわば重鎮とも呼べるタイポグラフィまたはグラフィック・コミュニケーションの専門家が集まって学術的な研究成果を発表している機関誌だ。

その活動目的は前付けページに明記されている、次の3つである。

  1. 印刷の歴史の研究を促進し、その関心を高めること。
  2. 印刷機、記録、過去の道具類の保存を進めること。
  3. 上の2つの目的に関する出版物を制作すること。

具体的には、印刷の技術と資材の歴史、個々の印刷人の歴史、業界組織の歴史、それにこれまで扱われていない事柄についての、権威ある記事を出版という形で世に問うことを意図している。年1、2回発行するこの刊行物には歴史に埋もれている課題の掘り起こしと追求があって、その研究成果は興味深く読める。その意味では、『フラーロン』の趣旨と内容をもっとも強く受け継いでいるし、名称から明らかなように『フラーロン』よりも徹底して「歴史」を探っている。ただし時代の課題と取り組んだ『フラーロン』の趣旨はここでは欠けているが、その行動には『フラーロン』が刺激として働いていたと推測できる。それはアカデミックな方向への傾斜だろう。

1965年発行の第1号の前書きでは、この定期刊行物が発行された頃の事情が2つ述べられていて、興味深い。①冒頭での当時の歴史的資材の散逸への危機感が表明されていること。また、数世紀続いた印刷の本質的な部分が変わらない時代がついに消えつつあることも指摘されている。つまり写植(英国では「写真組版(photo-typesetting)」と呼ばれた技術)の出現があって、金属の活字と活字版印刷が消えつつあり、それに伴いプロセス製版とオフセット平版印刷が時代の趨勢となっていることを指している。②オックスフォードとケンブリッジの両大学印刷局が歴史的に価値ある証拠文書・資料を努力して収集したこと。それに反して、例外はあるものの、博物館が何も援助していないことを取り上げ、その原因が「印刷が片隅の手工芸なので語られ得ないからであり、昔から業界がロンドンに集中していることで地方都市の誇りが元気を失っているからだ※34」という事情を指摘している。

Journal of the Printing Historical Society印刷歴史協会誌 目次

その他の雑誌

先の3点の後に現れた雑誌類の特徴は、グラフィック・デザインとタイポグラフィを統合するという意味で、写真図版類が格段に増えて、視覚要素と書体との競演となった。だがそれは、「新しく現れたタイポグラフィ中心のデザイナーたちの集団が展望も議論の場もなく片隅にいて追いつめられ、国内に閉じこもった」という指摘※35にあるように、次に起こる大陸の新タイポグラフィとの違いがうかがえるし、『印刷歴史協会誌』が、その後に英国に現れる雑誌類の特徴と異なっていることは明らかだ。たとえば、以下のような雑誌である。

『ベースライン(Baseline)』

この『ベースライン』はデザイン関連用具・用品や転写式活字書体シートを製造販売するレトラセット社が1979年から発行した。マイク・ディンズが設立者のひとりで、編集を長く担当していた。主なテーマは活字とタイポグラフィであるが、グラフィック・イメージを気楽に楽しみながら多少は学べるという内容が特徴のようで、グラフィック・デザイナー向けの情報誌的な位置づけができる。1990年代中頃にはレトラセット社が離れて、デザイナーらが集まってこの雑誌の発行を継続させていた。

『アイ(Eye)』

評論家のリック・ポイナーが1990年に発刊した雑誌が『アイ』で、当初は編集を務めていたが、その後は多くのグラフィック・デザイナーが編集を順次担当していて、誌面の活発さと大胆さが特徴である。ポイナーはグラフィック・デザインやグラフィック・コミュニケーション分野の評論と解説が専門である。

後に、彼はタイポグラフィのニュー・ウェイブ関連誌にも広く興味を示している。読むことを拒否・排除するデザイン『The Graphic Edge』、陶酔・幻覚を思わせる画像を使用した『Get the Message?』、『Typography Now』などにも関わった。

この2誌を含む後発の雑誌では、大陸のモダン・タイポグラフィが影響を及ぼしていて、装飾要素は意図的に避けられているのも特徴である。

『タイポグラフィ・ペイパーズ(Typography Papers)』

Typography Papersタイポグラフィ・ペイパーズ 表紙

この『タイポグラフィ・ペイパーズ』は前の2誌とは異なる例外的存在である。1996年からレディング大学のグラフィック・コミュニケーション部のP・スティッフが発行を開始した、本格的な論文を集める不定期刊行物だ。編集担当者は途中の号から各号により異なることが慣例化している。この誌面にもモダン・タイポグラフィの影響が見てとれる。執筆陣が『印刷歴史協会誌』と交差・重複する。

Typography Papersタイポグラフィ・ペイパーズ 目次

5. 『フラーロン』誌の現代的な意義

まとめ

『フラーロン』の基本には人々に伝える価値のある課題を提起するという意識があり、書籍という小宇宙的に統合された伝達形態への期待がある。いわゆる端物や広告物は消耗品であり、期限付きでその当面の価値を失う媒体だが、書籍は国境(空間)と時代(時間)を越えて回遊する永続性を秘めた存在であるとの認識があったのだろう。

モリスンはタイポグラフィの主たる領域を書籍製作に集中していたことで、際立っていた。この点で彼と距離をおく専門家が彼の見解に対して異論を挟んでいるが、それは論点の比重の置き方の違いであり、批判者も知る通り、モリスン自身は広告などの商業印刷の場を当然ながら認めていたし、両者の差異を語っている。

『フラーロン』は、その後のタイポグラフィの研究という面では貴重な足跡を残した。その価値には、以下のような特徴がある。

  1. タイポグラフィの質の向上を目指した考察・分析などの掲載。
    基礎的な参考資料となる財産であり、知識のための知識に終わらない理知的な問題意識を秘めた内容であるため、見解の宝庫となっている。
  2. 学術的な研究対象として一歩を踏み出す契機となった行動。
    タイポグラフィが書誌学の補完的な位置づけであった状況から、書誌学から独立できうる可能性を秘めた対象として、一定の水準にまでタイポグラフィ研究を押し上げる契機を与えた※36
  3. 書籍製作での読者への配慮の意識。
    活字の選択という実践には活字書体の特徴に関する知識が必須であることから、自ずと可読性への配慮、つまり読み手を意識化する行動を優先した。

またデザインの面では、装丁や装飾要素の点で、『フラーロン』の中で一定の節度のうちに提示したことも追加できるだろう。それはおそらく モリスの実践とその理念との差異を提示していて、抑制的で密かな喜びを詰め込んだ。

このように『フラーロン』の特殊性は理念を設定して後に実践で示す行動力にある。理念には歴史との対話が必須で、そこから同時代の状況批評を試み、論考を示し、あるべき手法を駆使して安価で良質の書籍類のための参考となる見解の提示だった。それはタイポグラフィの社会的役割を自覚した課題追求だった。

また、新技術への対応の姿勢を示して、現代的な課題への示唆も引き出せる。デジタル革命期の現代では、かつての職人の責任感は、今や組版技術の開発に携わるエンジニアにはタイポグラフィへの深い理解を必要とすべきだという意味の自覚と言い換えても良いだろう。

『フラーロン』の後を受けて、『印刷歴史協会誌』がタイポグラフィを本格的な学問の一分野として確立させている。『歴史協会』の機関校が美術大学にあり、そこでタイポグラフィが一教科となった本格的な研究が教授陣を中心に展開されている。この現象には『フラーロン』などで、タイポグラフィ研究の可能性を開いたモリスンの功績が影を落としているだろう。

後記

『フラーロン』が世に問い始めて90年余りが経過し、世紀も変わった。現在のタイポグラフィ関連の革命的技術では、中心となる活字は金属やネガフィルムという物質性から離れて不可視・不可触のデジタル信号を通して画像化する何物かへと変貌した。「活字は彫られたものである」とするモリスンの原点認識は今や牧歌的な響きに聞こえるが、タイポグラフィが書記言語による伝達方式に関わることに違いはない。

しかし、活字とはなんだろうか。個人的な修辞を許されるならば、活字は書き手の言葉をいったん「凍結」させると言えるだろう。書き手の熱を帯びた文字が書体という「凍結」された公的な文字として読み手に届けられる。読み手の前に現われ心の中で音読される。読む行為のエネルギーによって文字として活字は「溶解」されるが、その直前にかすかに化学変化を起こすようだ。それは「書体」に変換された文章(組版)から生じる表情だ。このとき溶解された活字に血が通う。まるで毛細血管を巡る血液のように、意味という血液が流れ始める。言葉は血流となってわずかに「増幅」する。流れる意味の増幅作用のエネルギーによって読み手の音声に変わる。それにはテクスチュアとしての組版表情が関わっているかもしれない。読み手の内的音声が己のリズムを獲得しつつ意味の流れに没入され始める。活字は水や空気のようでありながら、色も味も誘惑もあるのかもしれない。

タイポグラフィの本質は伝達媒体の中の文字情報の整理であり、その文字表記法にも深く関わる。『フラーロン』から読み取るべきは、技術や技芸と学問の成果との緊密な連携の再確認から始めることにあると言える。それは内向きでは開けない地平だ。

リル・チージーな夏の終わりのイグジット⛵

Don’t call it a come back! ウチら全部忘れるために刻んでるだけ。忘れたくないだけ。暑すぎてどうかしてんの? マブい生命線が導火線?空がタイダイ色だね、ユノウセイン? ハリウッドドリーミンっていうかGames? 3人でクロムハーツするSTAY PINK。ウチらSo Highな国民だからHIコクミンだぜナァミーン? ってコクミンドラァグでセミ鳴いてくミーンミーン。そのあと止まってシーンとする。

ウチらαネオいサマーヌードで夏だけプリ(ズム/ミティヴ)っちゃってるちゃってってるたったひとつのチャネル。勝手に掘ってるトンネル。スラッシュで区切るプロフィールよりもクラックよりもクラッシュする今(する今)。キチン質のきちんとしたキッチンにいるクソスニッチに特攻(ぶっこ)む。まだ夏を終わらせない。

と寝たふりでネタ振り。Netflix & Chillも積もれば山となって街の景色変える like 渋谷をジュラ紀に戻す。ジェラってる暇ない甘すぎてるbaby。ニューシットの「Soホントにそれは躁」をチェックしてフォローして。フォロバよりも転ばして滅ぼして。でもバズよりバグというかバグっちゃう前にハグしてよ、今すぐ。でもハグされたらバグっちゃってテクノブレイク。

アダムスキー型の鉄板が飛ぶ新大久保。チーズティー飲みながらホットク頬張ってWOAHキメてくリル・チージーな夏の終わり。ピーチ烏龍茶にミルクフォームをトッピングしてサマー。ウチらネオチンピラばりにアリノママ。ゾロアスター? アーリマン。悪魔だってすうはあ息するみたいに崇拝してた? でも崇拝もロールモデルも平静でいられない。そういうの平成でおしまい。

CBD99%のクリスタルをヴェポライザーで蒸せば、アナーコフェミニズムとネオリアクショニズムを両立させた法案・草案(仮)が立ち上がる。シュプレヒコールは「マジ令和ナメんな」。ラディカルで卍ベリーなシスヘテロシステム。ならもう普通にTHCでよくない? なくなる電池。ウチらだけの聖地。朝からちゃんと巡礼。

ペヨーテばりにペヨってて、コヨーテばりにアグリーなんだけど、アグリーなしじゃウチらサンノゼまでカリフォルニアハイウェイ。ヒッチハイクしてもアウトロー俳句よりもビッチ短歌で灰食って徘徊ってかフライハイ。パタフィジックな懐古趣味じゃいられない。イラレ立ち上げたまんま前乗りして火葬の前撮り。

彼女がタピをカラダに入れる。硬さは睾丸と同等。平等じゃ物足りない like 男の潮吹き。けど進化心理学や進化生物学の最新研究は、人間の本性をミソジニックに暴く。ブレグジットの先のブリブリのアセンブリ。資本主義のパーリーはリアルすぎるから今すぐイグジットしよう。泣かないで、ダンディ・ウォーホール。

エコーチェンバーで高めるテストステロン🥦

わたしの彼ピはオルタナ右翼でヒプノティックなタオイスト。インフルエンサーのサイキックインカムに頼って生きるアンフルエンサー。AMSRで自己催眠かけてアムスで脳イキ狙ってる。非合法なSISSY系のPMVをディグってる。当然いつもスマホの指示待ちしてる。

彼はセックスしてるときも、アルファメイルのことばかり考えてる。インテル入ってるみたいにかなりインセル入ってる。ブラックピルを飲んだフーディーな加速主義者でスローな過食主義者。今日も半グレで賑わうサウナ。筋肉の厚さと男性器の大きさは奇妙に反比例する。

遅れて来たアーリーアダプターは知ったふり(act like you know)。人権MAXで殴る蹴る噛みつく。アイデンティティとシチズンシップはバックの取り合い。ガチでリッチなホモノーマビリティ。確証バイアスで信念を固めてリベラルな正論を全力ツイート。ぶらさがってるコメントはキショいのもマジなのも全部わかんなくて届かない。スシ詰めのキャリオケで中飛びするみたいにウチらずっとピンとキてないからすぐキて。

なりたいカラダをジムで手にするアシッド共産主義者。エコーチェンバーでテストステロン高めてる。レッドブルにアルギニンとシトルリンと亜鉛とクエン酸を混ぜて飲んでる。骨盤底筋にオットピンを塗りたくって羽目を外す like 人生どうでもイリーガル。覚えてる? リアルに触れたらジンジンしてボンヤリする。

本ばっかり買ってた彼に最近言葉が語りかけて来ない。都市も遠ざかって最近服のことばかり考えてる。意味よさらば。悲しみよこんにちは。服と顔と表情と声でディープラーニングするネオルッキズム。ハードに世界をDRIPするならテキストよりモード。

ハイブランドはお高いふりのまま、ストリートカジュアルはインフレで、コリアンブランドも出尽くして、今はインドネシアが熱いじゃない。フォーマルに逆張りするとストリートがマイナーチェンジで勝つ。ウーシーランとウーヨンミのコラボまだだっけ?

マノスフィアの父権主義者はメス堕ちを誘う。ドライオーガズム専用アプリとエネマグラIoT。ディアスポラのクンダリーニ。ディストピアでのクンニリングス。ディスカウントストアでクウネルアソブ。この橋渡ったところでキスしたい like 1時間に1本のバス。苦いキス、甘いペニス。これはただの夏。

懐かしさと気恥ずかしさのAESTHETIC🐬

ごめんね、ウチらネオヒューマンよりも寝起きでNEWoMan。これが新宿クリーンサウススタイル。キューバンなメンズとランウェイをUターン。世界はゲットーってかここは地元のロードサイド。クソみたいにウチらMinna Rich。純トロ同クラのビッチとペニバンでベスパでニケツで卍快調。ランブレッタでドーバーから飛び降りるストリートマーケット。

ビッチでもビッチでなくもない名前をドロップ。ウチらの365日24時間の這いつくばってイキは、かつてないヤってイキだし、息するみたいにイキってる。一人で死ぬ(die alone)気ないし、死んでも友達と一緒(die VLONE)。バブーシュカ被ったまま歌舞伎町サイケデリア。素朴パリピは失うと老化する。闇堕ちにも品格がある。

見てと見んなのフィラメントの揺れがわかんないとハラスメントはなくなんない。恨み晴らすメンソールの洋モクがウチらのトレードマーク。ギャングとヘッズ、大人と子供、女と男の間で、ウチらだけのかわいいを見つけるのがゴール。身体で感じるとジョークで頭で考えるとエシック。電マよりレンマ使ってく。メンチ切ってくるならホームセンターでギったレンチで顔面ミンチかレンチンしたメンチで(そのあとほらね、わかるでしょ?)。

知りたくないことばかり知りたくなるのはなんでだろう?知っちゃうとすぐ思想変えちゃうわたし何か悪いことしてる?転向(テンコ)しないの怖くない?変化だけが変化しないんだって。変節だけが思想だって。いなくなっちゃってわかんないし執着(ストーク)したら死んじゃう。憂鬱(フレンド)に相談しながらテキスティング。さよならだけが沈静化。

ジョブズ亡きあとのアブロー。キラキラしてるものが虹色に見えちゃうポリティクス。コンプライアンスとコンプレックスの狭間で朝まで吸って吐いてる。コントレックスで流し込むコーンブレッズ。今すぐ買いに行ってボーイ・ミーツ・バールもしくはパール(口唇期的ジェムリンガ)。だってガールはもういない。透明少女は台風でさよならって話。

OK、コンピューター。クラフトワークが新世界を予言して幾星霜。Lay low, nobody move until I say so. 分裂病者とAirDrop痴漢のダンスパーティー。懐かしさと気恥ずかしさのAESTHETIC。カチッて押し込む三角形のプレイボタン。グライコだけが光ってる。地元のショッピングモールは潰れてしまった。ここにティファニーはもう来ない。I think we’re alone now.

セフレとソフレのマテリアルワールド🦋

ヒト科が無理な晩夏に提唱されるポストコンテンポラリーデス。セフレからソフレにハッテンした恋をファッショウェイブにするパームエンジェルズ。房中術仕掛けてくるE-boy対策で、クリトリスに毒薬を塗るのはE-girlのエチケット。背中まで45分。

健康管理とオーガズミック瞑想。脊髄反射と生体電子エネルギー。何かがクソエロいんじゃなくて、お前の頭の中が勝手にクソエロいんだし、結局エロいと痙攣って同義じゃない? つーかノリノリにノッてる女の子みんなエロくない? like 折口信夫を静脈注射して死者のショー。

夏なのに彼ピッピとつながれない。白Tにぶん殴られる一人称ビュー。歯茎に白い粉をこすりつけるシュガーダディ。Tohjiみたく雪山ではしゃぐウチら寒っ。Meganみたくボムなヒップで、ELLEみたくKawaii Bubbly Robbery。タクティカルにRun The Jewels.

トリュフフレーバーのスナック無条件興奮。寝まくって食べまくってしゃべくってる。コンビニつくった神様がボースティングしてて神。ほんのちょっとも困ってないってことに対して困ってるって顔してる。ダンスフロアのパッションフルーツ。ポルチオ揺らすローライダー。あいつらスタンばってる横で本番。ガスパンとホーチキでso far.

プラザ合意のときのビルボードHOT100トップが“Money For Nothing”だった皮肉。いまだにI want my MTV。ウチらニューヨークのイギリス人でエイリアン。そのチャートに入ってた“Material Girl”。ウチらにはマテリアルワールドさえ遠い。パパとママがネオン焼けした黄金の国ジパング。手を伸ばすより先に掴んでるエコノミックアニマルニトライト。

今は誰もが気軽に呪いをかけられる。恋し恋され保存される聖像(アイコン画像)。手短かに神の存在証明を済ませるイットガール。鮮烈に刺さってきてほしいだけ。死んじゃったラッパーみたく刻んでくだけ。左右にスワイプして就職先マッチングさせれば普通によくない? でもこれってUIが悪いよね?

メスイキ化する世界で消えた記憶🍄

ウチらの生まれた街のコンテナみたいなキャリオケ。先行って待ってる間にまくのはマキビシとまざふぁきびちとガンジャってことはリアルニンジャでヒップホップ。Kunoichi Moneyゲトってもゲットーだし、もうアガってくだけ。ダレもナニも落とさないレースじゃアジられても飛べやしない。ギャングキング読んでたらずっと3時。Justified and Ancient of Mu Mu.

メスイキ化する世界はエイジ・オブ・アクエリアスとテイストが違う。マウンティングで精神のあおり運転。No RuleなムードがFabulous。バイト受けるノリで絶滅しあおう。生命力の高い死に生殺しにされる生存を生暖かく見守る死。シンギュラリティは今何時?(渋谷で5時!)

この場所の外部は別の場所の内部。内と外で実体化することがプロブレム。泥水からシャンパンだし棺桶からロブるスター。結局はビッチかウィッチを選ぶ人生。選んだらきっちりスイッチ。片割れに目もくれない配色ステッチ。この惑星のニュースに飽きたら特異点の向こうへin da sky.

ウチらまわりでウチらが一番大きな主語。しゅごいおっきいってスピットしたげる。電車で脚広げたソーリーなメンズより、ステージで脚広げるブーティーなビッチーズ。だってあいつらムショに行ってなくない? ウチら河原で橋の下で水道管の上で歩道橋で溶けてくシーンをTwerkしながらトロトロになって見てる。

川崎ナンバーのバンで遊びに行こうよホーミー。先輩が来たらすぐホットポットスポット。夏の夜風に吹かれてハンドルKILL。次の瞬間、脳内の図像がフラッシュ。そっから秒でフラッシュバック。リアルに記憶も今も同じになってく like 体育館の屋根の上履き。

ウチらの回帰するランウェイ。少しずつズレながら変わってく刻んでく。これ秒でリアル。ウチら忘れたくないだけ。全部忘れるために刻んでるだけ。この空にリミットはない。うれしはずかしレイドバック。持ってきてるレイノヤツ。そっから記憶消しに行こうよ。見慣れた景色もネオくなってskrrr!skrrr!

深夜のドラッグストアカウボーイってかウチら💉

ウチらはウチらの話しかしない。ウチらが話せばウチらの話になる。誰かが話したことをウチらが話せばそいつはウチら。だから永遠のランウェイが終わるまで(アプロ)プリってる。ずっとヴァーチャルでローカル。フッドはどこにあるのっつってどこにでもあるフッドがフッド。ウチのフッドじゃないウチらのフッド。

ウチらのルーツは収束しない。ウチらの拡散する根(リゾーム)。ロックは自殺でヒップホップは他殺を志向すると言うけれど。なにもかもKIMONO。赤い着物でかちこむチームSKIMS。階段上ったところにいる目出し帽被ったGOLDIE的なTRICKY風のBANKSYワナビー。ダチの姉ちゃんが警棒持ってるって。

気分じゃないときでもキテるマブからの手紙。目が覚める河川敷。卍る売ってるばあちゃんが放火でパクられてる間にもパクってる。三白眼とパキパキの睫毛。意思する前に石(stoned)する。タイムズの看板すぐのドンキで買ったハンマーをラップでぐるぐる巻きにする。

誰も見てない電車が来るタイミングですべてがはじまり、すぐに終わる。その瞬間がゆっくりバチバチに弾けてる。カヌー漕ぐみたいにオールを振り回す。まるで映画のワンシーンだけどunseenの束の間、全部見失って安心できない。アイパッチの向こう側でぐじゅぐじゅになってる眼球か世界か、そのどちらかどちらも。

ドラッグストア、眩しくてイラついてる。ドラッグストア、牧場に血の海。ドラッグストア、ノーATM。ドラッグストア、カード何枚目? ストゼロ欲しいだけなのに、クルーのママがちんたら金数えてて、クソ時間経過してブチギレソウ。畑の真ん中の土埃まみれのドラッグストアの美容部員やるってどんな気分?

「ムー大陸」は23時に閉まる。電車で一駅だけどチャリ倒しながら歩いたらすぐ。白線の上、まだ24時。コスメに不時着する白い歯。鏡月のビンだっけ? かちわられて血がついてヌルヌルする。アブストラクトじゃない行動訓練。グリップのギザギザしてる金属。ずっと記憶飛ばしてる。ずっと嫌な夢見てる。

死ぬまでの数分をどう過ごす? 目を瞑るか開けるかすれば、セイタカアワダチソウが生い茂っていて。ねえ、ずっと生い茂っていて。ウチらの死骸を草葉の陰に隠していて。ねえ、お願い。ウチらの話だ。ウチらの話をしよう。

2018年の夏、アッシュビル滞在中は毎日雨だった。「雨が続くね」とアーカイヴセンターの司書に話しかけたら、「夏は毎年よ。それを理由に夫は9月までペンキの塗りかえをしないの」彼女はたしかにそう言った。

なのにBMCのサマーインスティテュート(以下、夏期講座)が続いたのはどうしてだろう。雨期なら避けるはずだが、夏期講座の写真を見ても雨の気配はない。

不思議に思って調べてみた。2018年の7月と8月をみると、晴天は少なく曇りがちで、にわか雨も数えれば二日に一度程度の降雨。一日中降っている日は1ヶ月通して7〜8日ほどだった。東京の梅雨と比べてすこし少ないぐらいだろうか。毎日が曇天でいつ雨が降ってもおかしくないような天候だったが、実際に降っている時間は短かったのかもしれない。

気温は15度を下ることはなく、30度を超えることもない。湿度は50%程度で過ごしやすい。そういえば、エデン湖キャンパスはもともと避暑地として使われていた別荘だった。それに今はサマーキャンプ地だ。好天が続く秋に比べれば、夏は雨が多いということか。

1944年の夏期講座

ライスがBMCを去った1940年、学長は演劇を専門とするウィリアム・ロバート・ウンシュ※1が引き継ぎ、美術関連の指導は引き続きアルバースが担当した。ウンシュはロリンズ大学からライスと行動を共にしたひとりであり、地元であるノースキャロライナ大学の出身だった。ライスの“解毒剤”とする評価もあるが、彼は学生の話をよく聞き、明瞭で深い洞察力を持つ、民主的かつ進歩的な人物だった。

ウンシュは、自分がどうして学長に選ばれたのか疑問に思っていた。たぶんそれは、謙遜ではないだろう。彼にはライスのような独善的なところが全くなく、逆にリーダーシップを執らないところが評価されていた。

図1[図1]ブルーリッジキャンパスにて教員たちの写真。中央がロバート・ウンシュ

前回にも書いたとおり、夏期講座(summer camp)は1941年から開かれている。時期を考えれば、開講にはウンシュの判断があったと思われる(あるいは、そういうことに反対しない人物としてウンシュが選ばれたのかもしれない)。

最初は農場や建築の実習を主体としたボランティア労働との単位交換制度といってもよく、エデン湖への移転が完了した44年から、夏期美術講座(Summer Art Institute)や夏期音楽講座(Summer Music Institute)が開講されるようになった。この夏期講座が、多くの人がイメージしている「ブラックマウンテンカレッジ」なのだと思う。

まずは、44年夏期講座のパンフレットから見ていこう。これまで同様、農場体験や建築実習を対象としたサマーキャンプも開かれているが、この年から、サマーセッションとして音楽と美術の講座をスタートさせている。下記は担当した教員である(パンフレットどおりの表記)。

音楽講座:Marcel Dick, Joanna Graudan, Nikolai Graudan, Rudolph Kolisch, Ernst Krenek, Lotte Leonard, Yella Pessl, Edward Steuermann, Frederic Cohen, Heinrich Jalowetz, Edward E. Lowinsky, Gertrude Straus, Elsa Kahl.
ゲストとして:Agnes de Mille, Virgil Thomson, Mark Brunswick, John Martin, Aaron Copland, Herbert Graf, Doris Humphrey, Paul Green.
美術講座:Anni Albers, Josef Albers, Victor D’Amico, Joseph Breitenbach, Jean Charlot, Jose de Creeft, Walter Gropius, Barbara Morgan, J. B. Neumann, Amedee Ozenfant, Bernard Rudofsky, J. L. Sert, Howard Thomas.

音楽講座では、ウィーン交響楽団で活躍したユダヤ人のマルセル・ディック、ユダヤ系オーストリア人で左利きのヴァイオリニストとして知られたルドルフ・コーリッシュ。ゲスト講師として、ニューヨーク出身でやはりユダヤ系のアグネス・デミルらの名前が見られる。ジョン・ケージやマース・カニンガムが参加するのは、まだ先のことである。

芸術講座は、アニとジョセフ・アルバースを筆頭に、MoMAエデュケーション部門の創設ディレクターだったビクター・ダミコ、バウハウス初代学長のヴァルター・グロピウスらの名前が並ぶ。シュルレアリストの写真家ジョゼフ・ブライテンバッハは、ミュンヘン出身のユダヤ系ドイツ人。校舎ピロティに壁画を残したジーン・シャーロットはフランス、パリの出身。やはり移民(亡命者と言った方がいいか)が多くを占める。個人的には70年代はじめに読んだ『みっともない人体』のバーナード・ルドフスキー※2の名前をみつけて少し興奮した。

図2[図2]1944年夏期講座パンフレット。表紙(左)、中ページ(右)

BMCがヨーロッパからの亡命芸術家の受け皿のひとつであったことは厳然たる事実だが、さまざまなエッセイに「ユダヤ的」と書かれているのは、実際どう言うことを指しているのか、東洋人のぼくにはよくわからない。しかし、こうして名前を並べてみるとユダヤ系の教員がいかに多かったかはわかる。それは移民国家アメリカにおいても特殊なことだったのだろうということぐらいは想像がつく。そして、そのユダヤ的なるものがBMC内部になにか軋轢のようなものを生んでいたらしいことは、残された文章のいくつかから読み取ることができる。しかしそれでもなお、他者を受け入れようと繰り返す葛藤がBMCの魅力になっていることは間違いない。

話を戻そう。音楽、芸術、両講座ともリベラルアーツ科目も履修できるようになっており、そちらは常勤の教員が担当した。ちなみに学長のウンシュは、「演劇(Drama)」と「作文法(Composition and introductory writing)」の授業を受け持っている。演劇はのちの夏期講座で重要な役割を果たすことになる。

パンフレットには、授業料についても書かれている。サマーセッションの受講料は、滞在と授業料を含めて400ドル。しかし受講生の経済状況によって、最低150ドルまでは考慮される。キャンプは定員20人で週14ドル。部屋、食事、および設備使用の費用が含まれている。参加期間は1ヶ月以上であれば自由だったようだ。安いのか高いのかよくわからないが、経済的に余裕のある(そして進歩的な考えを持つ)者しか、こういう学校には関心をもたないだろう。しかも戦争の真っ最中なのだ。ほとんどが北東部かニューヨークからの学生だったという。パンフレットから引用する。

夏期講座では学生がブラックマウンテンカレッジを試すことができ、そしてブラックマウンテンカレッジも学生を試すことができます。カジュアルな好奇心からサマーセッションに参加したのち、多くの学生はカレッジコミュニティの正規メンバーとして残っています。……ワークキャンプに志願できるのは、高校2年生以上、または大学生です。キャンプ参加者は地域社会の一員として責任を負い、地域社会の生活に貢献する能力が必要とされます。……参加者は1日5時間労働、一部の人は、部屋と食事の費用を稼ぐために8時間まで働くことができます。これらの時間は単位互換にも使うことができます。
“Black Mountain College Bulletin”, 1944

キャンプでの労働は、5時間を学習として行ない、プラス3時間働けば報酬があったようだ。寝食の足しにと書かれているが、前述のとおり、生活に苦労している学生は少なかったはずである。

BMCのカリキュラム

通常のカリキュラムについても書いておこう。毎年発行される学校案内には、理念やコース内容、教員紹介、募集要項について書かれている。ごく一般的な学校案内といっていいだろう。違いがあるとすればその内容だ。

図3[図3]BMC学校案内。右が1936–37年版(ほかは不明)

各授業は教員の専門によって提案されるので、芸術、哲学、社会学から生物学、化学、物理学まで、バラエティはあるが体系化されているわけではない。本来はリベラルアーツ全域をカバーしたかったのだろう。しかし、学校の規模から考えてそれは難しい。そのため、教員と学生が相談しながら、それぞれが複合的なコースを組むようにしていた。

最初の2〜3週間で授業を見学し、その後、履修コースを決める。全てが少人数のクラスなので教員との相性が一番の問題となるが、上級生によるいわゆるメンター制度のようなものがあり、彼/彼女らのアドバイスが一番有効だったという。選択後のドロップアウトも自由だったようだ。

新入生は、まず入門コース(introductory courses)を取ることが推奨された。入門コースにはアルバースのドローイングやライスの古典学などがあったが、受講しない学生もいたようだ。必修と書かれた資料もあるが、履修しなくても問題なかったのだろう。

教室は決まっておらず、ロビーや食堂、屋外などいろいろなところで開講されていた(もちろん教室はあった)。当時にしては珍しく、スーツにネクタイのようなスタイルの教員はほとんどいない。学生の服装も自由だった。学生も教員もファーストネーム、あるいはニックネームで呼び合っていた。

BMCの教育構造の特色は構造がないことだ。全てがプロセスだったのだ。

図4-1[図4-1]アルバースのドローイングクラス

図4-2[図4-2]エリック・ベントレーの歴史クラス

図4-3[図4-3]化学実験室で実験する学生

このように書けば、何もかも自由なようだが、決まった制度はあった。一般的な学習課程として、新入生はジュニアクラス(the Junior Division)からはじめ、広汎にリベラルアーツ科目を学び2年間基礎教養を積んだあと、シニアクラス(the Senior Division)に入るための試験を受ける。シニアクラスは専門課程で、個々人でテーマを決め、卒業に向けて研究する。

進級・卒業に関する単位取得の規定や要件はなく、認定は教員の総合的な判断によるものだった。ただし、他大学との単位互換のための単位規定はあった。成績もつけられていたようだが、それを学生たちに伝えることはしなかった。

出席名簿などの資料から、多くの学生は卒業前に退学したことがわかっている。入学したおおよそ1200人の学生のうち、卒業した者はわずか60人程度だったという※3

在学した人たちの手記を読んでいると、いわゆる“卒業”にはあまり関心がなかったようだ。卒業したところで何らかの学位が取得できるわけでもないのだから、当然と言えば当然だ。やはり、学校というよりコミュニティという意識が強かったことが感じられる。

アルバースの講義ノート

最初にNCアーカイヴズを訪れたとき、突然紹介してもらったものだから何があるのかもわからず、とりあえずアルバースの資料を出してもらった。

そのなかで、ぼくが興味を持ったのは、アルバースを招聘するときの書類やアルバースが書いた寄付を求めるための手紙である。前者は第1回で少し触れたが、後者はスキャンしたきりになっている。まぁ、お金を無心しているだけで面白い話ではない。アルバースは英語が全くできずに赴任してきたはずだが、すぐに英語で手紙を書いている。多少英語ができたアニが代筆したか、秘書がついていたかのどちらかだろう。

図5-1
図5-2[図5]アルバース自筆の手紙(1939年7月)

資料のなかにはたくさんの写真があって、授業風景からアルバースが熱心な教育者であったことが伺える。しかし、制作しているところの写真は不思議なほどない。この時期アルバースは、ブラックマウンテン時代を象徴する落ち葉のコラージュや、リトグラフによる線の抽象構成などを精力的につくっており、1936年から41年の5年間にギャラリーや美術館で21回以上もの個展を開いている※4

図6-1
図6-2[図6]ジョセフ・アルバー