対抗/退行のためのデザイン

大林 寛 / Hiroshi Obayashi

2015.01.15

千葉シティの憂愁

港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。「別に用(や)ってるわけじゃないんだけど ──」と誰かが言うのを聞きながら、ケイスは人込みを押し分けて《チャット》のドアにはいりこんだ。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』

サイバーパンクの幕開けを告げたサイエンスフィクション小説『ニューロマンサー』は、こんな書き出しで始まっている。空想のコンピューターカウボーイは、未来の「複雑な世界」に翻弄されることなく、現実をサーフィンしていたようだ。

今から30年前に書かれた未来には、まだ60年代のサイケデリック文化の香りが漂っていた。かつてサイケデリアのグル的な存在であったティモシー・リアリーも、サイバーパンクについて、こんな予言を残している。

コンピューターはLSDなどの幻覚剤に取って変わる。Cyberpunk(サイバーパンク)は 実際のところPsyber-Punkであると。

サイケデリック文化では、さまざまな中央集権からドロップアウトした若者たちが、自分の幻想を「デザイン」することに価値があり、そこからDIY精神やコミュニティ志向、また『ホールアースカタログ』のような知のインデックスへの欲望が生まれていった。

そしてサイバーパンクの文化も、メインフレームによる集中処理への反発が始まりである。その精神を継承した若者たちが、自作したコンピューターを使い、サーバースペースのコミュニティを通じて、情報のインデックス化を進めていった結果が、現在わたしたちが利用しているインターネット環境である。ただしその価値は、幻想ではなく、現実を「デザイン」して選び取ることに変わっていった。

リアリーの予言が重要なのは、サイケデリアとサイバーパンクという二つの文化において、「意識の拡張」という共通の目的を明らかにしたからである。『ホールアースカタログ』の創刊号で、ノーバート・ウィーナーの『サイバネティクス』が、「意識の拡張」をもたらすツールとしてレビューされていたのも、偶然ではないかもしれない。

セットとセッティングの弁証法

幻覚剤を利用した経験によって、あらゆる人の「意識が拡張」して、精神が変容すれば、世の中をひっくり返すことができる。そんなことを夢想していたサイケデリアの時代に、リアリーが提唱し、ヒッピーたちの間で口承されていた、こんな知恵がある。

経験は「セット」と「セッティング」によって決定される。

ここで言われる「セット」とは、その人の個性や気分などの内的要因で、「セッティング」とは、天候や雰囲気などの環境、他者との適性、世論などの、外的要因を指している。つまり経験とは、媒介するもの以上に、わたしたちが置かれた状況に影響を受けるものだと考えられていた。これはサイケデリックな経験でなくとも、同じことが言えるように思える。

「セット」と「セッティング」のように、自分の内と外を分離して考えるのは、わたしたちが習慣的に主体というものを見立てていることに起因する。そのせいで自分と世界の間には、「境界」のようなものが設定される。サイケデリックな経験は、それをより強化するのかもしれない。

しかしこれはあくまで見立てであり、わたしたちが主観的なフレームで物事をとらえるために、空間を分節化して考えているにすぎない。確かなのは、「境界」によって主体の居場所を確保することで、わたしたちは初めて「意識の拡張」を感じられるということである。

そしてサイケデリアとサイバーパンクが地続きであれば、この「セット」と「セッティング」という知恵も、「複雑な世界」と呼ばれる場所を「デザイン」するのに、応用できるのではないかと考えている。

見えない都市の図と地

東方見聞録を幻想文学に仕立てた、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』の結末で、主人公のマルコ=ポーロが、世界という地獄に苦しまない方法について、こう語っている。

第一のものは多くの人々には容易いものでございます。すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします。すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることでございます。イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

ここには、「複雑な世界」と「意識の拡張」の関係が、見事に描かれている。なぜなら、地獄をやりすごす「第一のもの」は、「複雑な世界」に取り込まれることであり、「第二のもの」は、それに「対抗」する手段としての「意識の拡張」と、言い換えられるからである。

しかし実際は、幻覚剤やメディアによって「意識の拡張」が起きると、その比喩のとおり、わたしたちは気を大きくする。その結果として、幻覚剤の場合にはバッドトリップを、メディアの場合には感覚麻痺を、引き起こす可能性が高まる。

このように、「意識の拡張」と主体の喪失は、同時に起きている。わたしたちの意識と「複雑な世界」は、その「境界」において相互浸透している。だからわたしたちは、「複雑な世界」に「対抗」するために、「意識の拡張」を目指してしまうのではないだろうか。

もちろん「意識の拡張」とは内部から感じる印象で、「複雑な世界」は外部の景色であり、ただ視点を変えているにすぎない。しかし、はっきりとした実感を伴っている。つまり、わたしたちは意識によって、世界の「図と地」を反転させながら、世界を解釈し続けている。

生命システムとアーキテクチャ

生命をシステムとしてとらえたとき、「複雑な世界」になっていくことは、自然の摂理である。わたしたちの外部にある自然は、放っておけばエントロピーが増大して、無秩序に近づいていく。そこでわたしたちが生きていくためには、できるかぎり内部のエントロピーを小さくして、平衡状態をつくらなくてはならない。

言わば、自然に「対抗」して、「退行」していくこと。「退行」とは退化ではなく、自分なりの秩序を自然から選び取ることであり、生命として進化を遂げることを意味している。

この理屈にしたがうと、システム開発において、安定性や安全性を目指した標準化を行うのは、「複雑な世界」から単純な空間を見出し、内部に閉じ込めて「退行」させるためである。さらにそのシステムが拡張されていくと、また内部に複雑化が生じる。そうするとわたしたちは、またしても「境界」によって内部を分節化しなければならなくなる。

これは「アーキテクチャ」における条件のようなものなのだから、いろんな場所にシステムが構築されるたびに、「アーキテクチャ」のエントロピーは増大し続けていく。その様子は、自然が複雑化していくことと何も変わらない。

このように「アーキテクチャ」は、恣意的な人工物でありながら、「複雑な世界」を模倣する。システムの内部は、「境界」を通じて、外部の「複雑な世界」と相互浸透している。だから「アーキテクチャ」はエコシステムとして、世界とわたしたちの流動性を維持しなければならない。逆説的ながら、これが「アーキテクチャ」が必要とされる理由である。

デザインによる意識の拡張

「デザイン」されるべき場所。「意識の拡張」と「複雑な世界」が拮抗している場所。わたしたちの内と外を隔て、「アーキテクチャ」によって分節化される「境界」とは、「インターフェイス」のことである。

そこでわたしたちは、メディアによる「意識の拡張」を起こし、「複雑な世界」と価値を交換し、秩序を見出し、個性を獲得しながら、生き永らえている。これはマクルーハンの言う、メディアが「図と地」の間(medium)にあるという話にも一致する。

そこで「デザイン」は、「図と地」というゲシュタルトの関係に、意味を与える。そしてわたしたちに、「対抗」としての「意識の拡張」と、「複雑な世界」への「服従」を、選択肢として差し出す。

そのとき選択されるべきなのは、間違いなく生に向かう「デザイン」である。世界に「対抗」し、自身を「退行」させ、新しい秩序とユニークさによって、生きのびるための「デザイン」を、つまり「意識の拡張」を、目的にしなくてはならない。

「インターフェイス」における内と外の差異は、「デザイン」におけるコントラストやリズムに反映される。「デザイン」は、そうしたゲシュタルトと律動の配置であり、要素と空間の関係、言葉と沈黙の間のメッセージ、意味と無意味の差異として現れる。

千葉シティの空の「デザイン」は、わたしたちの「セット」と「セッティング」によって、その印象を変える。ハイなときもあれば、バッドなときもある。だから「複雑な世界」の空の色は、いつも移ろいやすい。わたしたちが「意識を拡張」させる場所は、そのことを前提にして「デザイン」されなければならない。