吉田真理子:
2020年に刊行されたばかりのご著書“Porkpolis※1”は、工業的な養豚業をひとつの全体として分析していて、非常に示唆に富んでいると感じました。資本主義システム下の畜産業というのは、豚の一生のあらゆる時点から利益を得るべく、きわめて特殊な人間労働を前提としている。均質な豚を集約的に生産し、高い効率性と収益性を実現するために垂直統合や標準化、独占化がおこなわれていて、その大きなプロセスの中で、労働者もまた「飼いならされて」いるように思えます。動物の身体的条件と人間の労働形態の変化を考察するアプローチはとても興味深く、マルチスピーシーズ人類学でさらに深く議論されるべき点だと思いました。まずは、ブランシェットさんが現代の資本蓄積の形態や、人間以外の種の結びつきについて考えるようになったきっかけを聞かせてください。

[図1]Alex Blanchette “Porkopolis – American Animality,Standardized Life,and the Factory Farm” (2020)

アレックス・ブランシェット:
私は、マルチスピーシーズ民族誌の問題への関心や、動物の問題への関心がきっかけでこの研究プロジェクトを始めたわけではないんです。特に調査を始めた2005年ごろは、こういったことよりも、幼少期を過ごしたオンタリオ州(カナダ)の農業地帯について考えていました。当時あの地域では、飼育する家畜の数をどんどん増やしていました。鶏は特に顕著で、豚もある程度増えていました。それで、自分が育った地域社会に何らかの形で貢献できるような論文を執筆したいと思っていました。2005年当時、工業化された農場について書かれたものというと、消費者倫理の観点からのものが多かったんです。「これを食べることは何を意味するのか?」といったような。けれど、畜産業によって変わりゆく地域社会で生きることや、工業型畜産における日々の労働を取り上げたものは比較的少なくて。家畜動物を大量生産しているところで生活し働くとはどういうことなのか考えていたんです。1年に700万頭もの豚を産ませ、育て、殺す場所とはどんなところなのか。

それである夏、車でアメリカ中を走り回り、いろんな企業を見学するうち、経営者や役員が養豚の未来について明確なビジョンを持っている拠点を見つけました。彼らにとって、産業資本主義的な哲学や目的論というのは、養豚にまつわる全てを「垂直統合」することにありました。垂直統合というのはつまり、種付け用の牡豚の飼育、繁殖畜舎、飼育畜舎、食肉処理場、後処理施設などをすべて一つの企業の傘下に収めることです。家畜の一生をより高度に管理し、より均質な豚を生み出すというのが垂直統合の目的でした。中西部やグレートプレインズを初めて訪れたとき想像していたのは、家畜の一生を科学技術によって支配する大規模な事業でした。

けれどこうした地域で生活し、仕事をするうち、実際はかなり脆弱なプロジェクトであることがわかりました。彼らは豚の身体を管理して徹底的な均一性をはかったり、新たな価値を生み出すための拠点を探したりしていましたが、なぜそうするのかと言えば、さらなる利益や成長を見込めるだけの余地が尽きた養豚業の現実に直面していたからです。豚というのは、過去150年間の工業化の対象となってきた生きものです。

そういうわけで私の本は、ある企業があらゆるものをどう強力に支配するようになったかを描いた典型的な告発、つまり企業による支配の民族誌というより、すでに極度に工業化された畜産業になんらかの成長を見出そうとする企業の試みを分析したものになりました。

個々の豚は支配され深刻な被害を受けているかもしれない。その一方で、ビジネスモデルとして工業化された豚が、ある種の主体として現れていることに気づきました。日々の仕事や生活は、資本家が豚から新しい価値を絞り出すため組織化されていました。

労働と動物の関係について言うと、工業製品としての豚の民族誌を書こうとしたんです。“Porkopolis”は一般的な豚の話ではなく、時代を超越した生物学的存在の話です。そして、「工業製品としての豚」とは、ある意味では資本主義的な人間の労働搾取と結びついた生きものを指します。賃労働をめぐる関係性のなかで不均衡に出会わされ、知覚され、生成される生物種です。そんなわけで、超工業化された存在形態を囲い込むことで生じる、人間のさまざまな主体性、意識のありよう、労働作業を考察しました。

§

吉田:
複製可能な畜産モデルをもとに工業化される動物は他にも色々ありますが、その中で豚を選んだのはなぜですか。

ブランシェット:
それにはいくつか理由があって、私は豚を、極度に工業化された最初の動物と捉えています。例えば畜牛は、少なくともアメリカでは今でも不均質な面があります。農家が所有する牛舎や牧場がまだ残っていて、牛たちは一生のほとんどを広大な牧場で過ごし、最後に飼養場に入ってから食肉処理場へ送られます。また、養鶏を現代の工業化された畜産業のモデルと見なす人もいます。けれど養鶏が工業化されたのは比較的最近で、実は1950年代に入ってからなんです。私は、最近の工業化や1980年代にあった出来事だけに因らない生物種を取り上げたいと思っていました。それはより長い時間軸で工業化されてきた動物を研究したかったからです。

もう一つの理由は、組織形態です。通常アメリカでは、養鶏業は契約ベースで組織化されています。例えば、食肉加工会社や飼料製造会社は、表向きは自営の養鶏農家と契約していたりします。一方養豚業は、半分は養鶏業と同じような契約ベースで、もう半分は、彼らの言葉を借りれば「契約を超えた」事業形態の企業体です。

私が着目したのは後者でした。こうした企業は、建物と土地のほとんどを自社保有していて、ほぼ賃労働のみで経営していました。契約している畜産農家はほんの一部で、実質的には畜産家を必要としていません。調査当初、私は、初歩的ながら一筋縄ではいかない問題意識を持っていました。「工業型畜産」の「工業」とは何か。また「産業化された養豚」の「産業」とは何かという問いです。私が取材した企業は、資本主義の本質について明解な哲学を持っているように見えました。なかでも、自社の事業を、産業主義のいわゆる発展史的段階を通過していると捉えている経営者がいました。請負契約やもっと古い家庭内労働の「出力」システムを、工場生産や垂直統合、直接所有へと変えていった産業は数多くありますが、こうした産業を踏襲していると考えていたんです。

2010年代初頭、豚という生物種は、いわゆる「工業型」畜産のプロセスを検討するにあたって、最も興味をそそられる対象でした。世界中で畜産というものが垂直統合された企業によって次々営まれるようになっていたので、タイムリーなプロジェクトでした。しかし、蓋を開けてみると不思議なほど時代に即していない。ポスト工業化時代のアメリカにいるのに、地方では強い意志を持って工業化がおこなわれているんです。

§

吉田:
豚の一生を通して、工業型畜産が再編成しているのは人間社会だけではない。飼料工場、遺伝資源センター、養豚場、食肉処理場、ペットフード工場、豚骨の粉砕施設といった「ドムス」と人間・非人間の関係性も組み替えているということですね。ブランシェットさんは、経営者から日本の製造業の理論に関する講義を受けたそうですね。現代のアメリカの養豚産業が、第二次世界大戦後の日本の生産システムをベースにした垂直統合モデルとして構造化されている点に衝撃を受けました。

ブランシェット:
私も驚きました。アメリカでは特に、これらの企業に取材するのは難しくて。何でもかんでも社外秘にするわけではないにせよ、多くの企業は大体慎重になります。ですからひたすら正直に、自分が何を調査しているのか伝えました。私が初めに関心をもったのは、「工業型畜産」において「工業的」であるとはどういうことかという点でした。アメリカでは、「工業型畜産」という言葉は否定的に捉えられます。通常は軽蔑を込めて使われる言葉なので、この問い自体、相手を動揺させるだろうと思っていました。しかし、驚いたことに、役員や経営者と話すと、「我々もその問いに興味があります」と言うんです。興味、と言っても明らかに私とは違う意味での興味でしたけど。彼らが何をしていたかと言うと、統計やリーン生産方式、品質改善モデルなどを従業員や経営者に講義していたんです。

製造業理論の授業を一緒に受講するうち、研修の目的がわかってきました。まず第一に、動物種を垂直統合することの複雑さを理解するということです。豚が一生を通して通過する作業場ひとつひとつに、個別の歴史、文化、物質的な労働プロセスがあります。食肉処理場の工業化の歴史は、1860年代にシンシナティで始まりました。一方、農場における専業化と工業化が押し進められるようになったのは、かなり最近の話です。食肉加工の町で生まれ育ち、地元経営幹部としての地位を築いた人間は、地方の農場で動物に囲まれる生活をしていた人間とは全く異なります。また、母豚に人工授精をするという行為プロセスそのものは、フォード主義的な解体ラインに沿って一日に1万9000頭の豚を処理する行為と根本的に異なります。ですから、研修の目的は、まず第一に、異なる背景をもった者同士がお互いをよく知るための場を提供することでした。あるCEOは、「私たちは豚を統合したが、次は人を統合しなければならない」と話していました。また、研修には、母豚の授精、豚の出産、ハムのスライスといった特殊なタスクから、定量的な共通言語を取り出すという目的もありました。

また当時(2000年代初頭)、このような事業が目指す輸出の割合は、私の想像をはるかに超えていました。彼らは、できるだけ多くの豚肉をアメリカ国外、特に日本と韓国に輸出しようとしていました。これらの国々の卸売業者は、高品質の豚肉をより高価格で買い付けます。一部の企業は、すでに高価値をつけられた豚からさらに価値を生み出すために、より多くの肉の部位を見つけることに熱心になっていました。第二次世界大戦後の製造原理の知識を身に着け、多くを語ることができたら、世界中の卸売業者とより良いコミュニケーションがとれ、卸売業者のみが持つ特有言語を体得できると考える人もいました。

もう一点補足すると、これらの研修授業は品質向上クラスと呼ばれています。経営者の言う「品質」とは、生産過程で生じる不均質さが減るということです。豚を生産するための労働プロセスや周辺環境、豚に与えるものの変数が減ることで、より均質な肉質になることを目指しているんです。品質とは均一性のことであり、世界の卸売業者がブランド化において最も重視している点です。

研修では、21世紀初頭における生きものの工業化が何を意味するのか観察できて、興味深かったです。自動車工場で生まれた認識論を取り上げながら、その理論を今度は生物学的な存在の生成にあてはめていくということがおこなわれていました。しかしこれはあくまでも研修です。時間をかけて豚を均質化していくことは、経営者の研修だけで達成できるものではありません。繁殖のための遺伝子設計や飼料ペレットの生産、そして、種付け用の牡豚、牝豚、子豚、死骸など、様々な豚に対する振る舞いに至るまで、豚の生死サイクルのあらゆる段階で新しい管理とエンジニアリングが求められます。

[図2]生後約4ヶ月の豚を検査する男性

§

均質な豚肉をつくる

吉田:
現代の日本の養豚業は輸入豚の3割近くを米国に頼っており、世界的な物流インフラに大きく依存しています。国内の飼料産業も輸入の飼料原料なくして成り立ちません。日本のバイヤーは、より高い収益性を得るために仕入れを拡大し、日本ではなく米国で加工費を支払ったり、付加価値のある製品を入荷したりしています。“Porkopolis”では、バイヤーと販売者がカットの種類だけでなく、特定の風味を出すための豚の太り具合も指示している点を指摘されていますね。色味や水分保持量、寿命が、品質を維持する上で非常に重要であるという点も興味深いです。国境を超えた分業形態を特徴とするグローバル物流は、均質な豚肉づくりにどう関係しているのでしょうか。物流が多様化する中で、人間の労働はどのような形をとっているのでしょうか。

ブランシェット:
これらの企業がどのように、時とともに均質化してゆく動物の飼育と食肉加工を実現しようとしているかという質問ですね。経営者が豚のライフサイクルを標準化し、自分たちや従業員をも標準化した生活に組み込んでいるのを間近で見て、現代の工業型畜産に関する理解が覆されました。はじめに立てていた仮説というのは、自動化が進み、テクノロジー主導で景観や動物の生活が支配されるにつれ、人間の労働力に依存する部分が少なくなるというものでした。工業化の過程で賃金労働者が減っていくという典型的なストーリーです。しかし、豚が室温管理された屋内で、自動給餌機などを使って飼育されている反面、人間の膨大な労働力が必要とされていました。もっと均質な豚を作るためにはもっと多くの人手が必要です。少なくとも、豚が生まれてから死ぬまで、より多様な作業や介入が必要になってきます。

高度に工業化された食肉処理場は、COVID-19のウイルス感染の温床として広く知られるようになりましたが、ここでも、2,500人もの人々がベルトコンベアに沿って働いています。動物の身体や筋肉に個体差があるので、何千人もの労働者が同じ動きをして、腱や脂肪の割合が異なる動物ひとつひとつをその場で調整しながら均一に切り分ける必要があります。全ての豚の体重を生後6ヶ月できっちり285ポンドにするには、信じられないほどの集約型労働が求められます。豚の生死のサイクルを通して、労働プロセスが介入する部分は次々に発見され、増えているのです。ある意味、生きものの標準化というのは、人間の労働が豚の存在そのものにさらに深く介入できるよう、豚を解体して再構築することかもしれません。つまり、豚そのものを、より多くの労働力を生み出すための肉の土壌のようなものに変えてしまう。感染症が個体間で伝染しないよう勤務時間外の行動を監視することから、豚の表皮に特化した新しい労働、人工授精、さまざまな薬の投与、屠殺して、豚をより細かく分解することまで、全てが含まれます。工業製品としての豚が今まで以上に労働力を必要としているのは明白です。

§

吉田:
商品化の過程で、個々が質的に変質することなく、継続的に拡大していくシステマティックな事業形態をとっているというのはとても興味深いです。一例として、1,000以上の商品コードをもつバーコードのインフォマティクスを取り上げていますね。また、経営者が生物種を定量的に再生産する装置として「群れ(the Herd)」を定義づけ、豚の品種が統計的に導き出された生命の単位に変わる様を分析されているのも示唆に富んでいました。こうした拡張は日本の養豚業でも見られます。例えば「三元豚(3品種の豚の交配種)」や「四元豚(4品種の豚の交配種)」のような交雑豚生産から資本主義的な価値が引き出され、日本の高級豚肉ブランドの基礎を築いてきました。標準化された豚の一生は、アナ・チン※2の言う「スケーラビリティ」の文脈の中でさらに議論できるでしょうか。工業製品としての豚肉を、拡張性のあるスケーラブルなプロジェクトとして捉えることについてどう考えますか。

ブランシェット:
こうした事業の設計者にとって、「スケーラビリティ」の実現は理想的、あるいは幻想のようなものだと言えます。スケーラビリティとは、1頭の豚を生産することと700万頭の豚を生産することに違いがないという意味だと理解していますが、そうしたスケーラビリティはぜひとも実現したいでしょう。しかし実際には非常に困難で、常に失敗しているように見えました。例えば、豚の生産を年間600万頭から年間700万頭に増やすということは、労働プロセス(殺処分のスピード向上など)と生態系(豚の感染症の増加など)の両方を変えることを意味しています。にもかかわらず、多くの点で、これらの事業はスケーラビリティ、あるいは私が「総体の生成(totality-making)」と呼ぶ概念を前提としています。より多くの豚肉を無限に作ろうとしているんです。無限に標準化でき、無限に多くの製品を生み出せる動物です。おっしゃる通り、豚から生み出される製品には現在1,100個のプロダクトコードがあり、さらにもう数百個のプロダクトコードが生み出される未来が予測されています。これらは実験テストの領域のようなものかもしれません。より多くの豚の体の部品を作るだけでなく、モジュラーモデルを開発しようとしています。世界中で、特に南米や東欧のような穀物価格の安い地域で簡単に再現できるモデルです。実現はまだ先ですが、こうした事業は実際に販売される豚肉だけでなく、このような事業を世界中で再現するための投機的な未来にも収益性を見込んでいます。

一方で、実際のところそういったモデルは常に失敗しています。私が考察したかったのは、家畜の集約性を維持すべく人間や人間社会が追求する、継続的かつ終わりのない変容です。企業は、工業製品としての豚肉を生み出すインプットとなる、エンジニアリング的な人間の存在形態に着目しなければならないことを認識しています。豚そのものではなく。これも、豚の群れを維持し拡大し続けるためです。親族関係、男女関係、人種関係、階級関係など、日常的なことが改めて問われるようになっています。高齢化が進んだり、地域の農村生態系に感染症が蔓延するにつれ、肉体的な人体を持つことの意味さえも産業システムの問題点として認識されるようになっています。調査中、完全にはそれを理解できていなかったのですが、最終的には養豚そのものの解明ではなく、豚の集約にこれまで以上に対応できるよう人間の組織形態を作り直す試みに焦点を当てました。

[図3]発情徴候を確認されている牝豚と、遠隔操作で唾液に含まれるフェロモンを飛散されている種付け用の牡豚(写真左側)

§

知覚する生物種

吉田:
あなたは、サラ・ベスキーとの共編著“How Nature Works: Rethinking Labor on a Troubled Planet※3”で、サプライチェーン資本主義を、労働者が同じやり方でおこなう反復作業と、集合的な暗黙知(刺激による牝豚の発情誘起など)双方を伴うものとして位置付けていますね。人間と豚をめぐるこうした単調な生産労働は、豚の意識や知覚をどうコントロールしているのでしょうか。

ブランシェット:
“How Nature Works”では、公に語られる工業型畜産を批判検討するのが目的でした。誰も観ない深夜帯に放映される養豚システムの告発番組などは、非常に限定的な視点しか提供していません。人の手による作業がほとんどなく、機械がほとんどやってくれて、人間と接触せずに機械の中を通過していく存在として豚が描かれるので、退屈で単調なものに見えるかもしれません。

しかし実際には、豚の体重が45kgを超えるような成長期を除いて、すべての業務に人間の労働が介在しています。私が調査した企業では、豚の飼育・繁殖をおこなう畜舎に約2,000人の従業員がいました。論文で考察したのは、豚が信じられないほど単調な生活をしていて、その単調さが彼らの体にはっきりと表れている、という点でした。妊娠した豚は、飼育箱の中に一日中横たわっているので床ずれを起こします。逆説的かもしれませんがここで重要なのは、非常に単調な存在が多大な労働に裏打ちされているということです。それに気付いたのは、第6繁殖畜舎と呼ばれる、人工授精と子豚を出産する豚舎で仕事していたときでした。よく同僚から、豚の前でどう振る舞うべきか教わっていたんですが、あるとき、牝豚を犬や猫を撫でるような手つきで撫でてみたんです。それが私の知っている、動物に対する振る舞いでした。すると同僚が大声で「豚に触らないで!」と。個体に注意を払うといういつもと違う振る舞いが、牝豚を動揺させ、興奮させる危険性があったんです。豚はケージの中で暮らしていますから、そういうことが起きると流産に繋がる可能性もありました。

また、勤務中ずっと豚に見られていたのを鮮明に覚えている労働者もいました。豚たちは常に彼らの身体を解釈しようとしていたそうです。そこで私は、アグリビジネス業界の雑誌で、豚がどのように色や音、人間行動を認識し、それらが産仔数や豚の「出来高」にどのような影響を与えるのか、といったことに関する情報や研究論文を読むようになりました。そして、単一のタスク、例えば発情や代謝だけをおこなう豚の労働に関わるとき、労働者は自分の身体や振る舞いが動物にとって意味のあるサインを出している可能性に注意を払わなければなりません。均質に育てられた豚の周りで均質な行動をとろうとする労働者を観察していると、豚の感受性自体が労働者の振る舞いの生成に関わっているような感覚がありました。工業化が進むにつれ、免疫系やホルモン系、神経系に至るまで、人間労働の対象として扱われる動物が多面化していくのがわかりました。

もう一つ重要なのが、アメリカで家畜産業は、しばしば非熟練の「肉体労働」として語られます。反復的で、単調な労働が多いというのがその理由です。私の担当業務のひとつに、人工授精のため母豚の背中に一日中座り続けるというものもありました。けれどそのシステムを支える労働者の専門知識にも注意を払う必要があります。実際、養豚場では、動物のライフサイクルに関するさまざまな深い知識が求められます。例えば、40万頭の出産に立ち会って初めて身に着くような、子豚を正しく取り扱うための技術。これは非常に脆弱な養豚システムを支えている知識の一つです。

§

吉田:
豚の知覚に関して言語化されない専門知識が、ある部門から別の部門の季節労働者へと伝搬されることはありますか。管理職がそうした知識を、入ったばかりの労働者に教えることはあるのでしょうか。

ブランシェット:
はい。私に仕事を教えてくれたのは、グアテマラシティからアメリカのグレートプレインズに移住してきた人でした。彼は長年豚の畜舎で働いた後、最終的に下級の管理職のポジションに就いていました。いろんなことをよく知っていて、他の同僚も知識の宝庫でしたね。養豚場や食肉処理場で働く労働者は入れ替わりが激しく、多くが勤続1年未満だったりするのですが、驚いたことに、養豚場で一緒に働いた同僚の多くが、過去10年間で他の豚肉製造企業で働いたことがありました。中西部全域の工業型畜舎で働いたことがある友人もいました。彼らは多くの企業で働いていたので、いろいろなコツややり方を身につけていました。

一方で、上級管理職は生身の豚と関わりを持ちません。確率や統計、モデル化といったレベルで、18万頭の母豚の出産や、700万頭の豚の生産増大に注力しているからです。あまり一般化したくはないですが、どのようにしてプロセスを実行するかという知識が、従業員の入れ替わりを超えて伝播され、磨かれ、翻訳されているように感じました。

§

工業型の動物性とは

吉田:
ディクソンで調査されていた当時、2000年代半ばのアメリカの大不況とその他の社会経済的な落ち込みが、労働者のダイナミクスに影響を与えていたと思います。分業によって労働者同士が隔てられているどころか、経営者が労働者の顔を見ることすらできないバイオセキュリティゾーンの特性も興味深いです。豚の生命世界に関する経営者の知識と、労働者の日常知識との間には、対照的なギャップがあるように思います。

ブランシェット:
管理者と労働者の間にある産業階級的な隔たりは決して単純なものではありません。それだけでなく、動物や畜産に関する経験も根本的に異なります。垂直統合されたシステムでは、「労働者」と呼ばれる人たちは、動物のある一面だけに特化した作業に従事する傾向があります。豚の感染症がある場所から他の場所に広がることが懸念されるような、バイオセキュリティの問題もあって、基本的に異なる作業場を労働者が行き来することはあまりありません。本の中で、一緒に働いていた女性の同僚について触れていますが、彼女は子豚の扱いには非常に慣れている一方、屠殺場に足を踏み入れたことは一度もなくて。おそらく、生後21日以上の子豚を見ることもないと思います。牝豚の生殖本能を刺激する方法について、実地経験にもとづいた知識を持っている労働者もいましたが、屠殺場や、種雄の精液が抽出される場所で働いたことはおそらくないはずです。つまり、人間と豚との親密な関わりがあったとしても、あくまで緻密な分業の発展を前提とした資本主義的な親密さです。

対照的に、管理職の人たちは豚の生死のサイクル全体を改善しようとします。彼らの業務が対象にしているのは、豚の精液から1,100種類の製品までの全てです。彼らが向き合っているのは、私が思い浮かべるような、畜舎で寝そべっている個々の動物ではなく、家畜なんです。給餌や地域の天候パターンは、消費肉になる豚の構成要素であり、影響を与えるものとして捉えることができます。また、彼らは、先ほどお話しした製造理論も含めて、動物の繁殖、出産、飼育、屠殺という全く異なる行為を一つのプロセスとして捉えるための認識論を開発しようとしています。個々の動物ではなく、垂直統合された豚をモデル化していると言えます。

§

吉田:
「資本新世(Capitalocene)」において、そのような親密さを検討することは非常に重要ですね。そのような資本主義的な親密さをもって、彼らは生産サイクル全体を組み立てラインのように捉えているんですね。最近のインタビュー※4の中で、ブランシェットさんが「現代の豚肉生産の現場は、人間中心でも豚肉中心でもなく、むしろ資本中心である」と指摘されていた理由が今なら理解できます。

ブランシェット:
そうですね。私は「人間中心」という言葉が好きではありません。ある種の画一化された人間性の名の下に、生態系や種の支配を暗示した言葉のように思えるからです。工業型畜産は、異なる種の間の搾取と同一種の間の搾取が同時におこなわれている場として見る方が良いと思います。そこでは、人間の労働者を搾取する余地を生み出し続けるように豚が形作られています。逆に言えば、私がいた地域は、動物の繁殖を最大化し、屠畜のスピードを加速させるために組織された企業街のようなものでしたが、「豚中心」とは到底言えません。あくまで資本主義的畜産の中で生産性の増大をはかる場所にすぎません。新しいモデルや指標、品種を生み続けながら、常に収益性を高めていくのです。

§

吉田:
東京の豊洲市場でも、連動した株式所有、高度に管理された売場、整備された競売システムという形で垂直統合が採用されています。しかし、垂直統合されたネットワークの中での分業を見ると、養豚業とは大きく異なるように思います。仲卸業者は、特定の業界ギルド内での家族経営が基本です。仲買人は特定の魚種と関連する専門分野の仕事に割り当てられます。卸会社の社員も、特定の魚種に特化した訓練を受けていることがほとんどです。この違いは、労働者が特定の経済的ニッチを支配しているかどうかの違いと捉えることができるかもしれません。

ブランシェット:
そうですね、畜牛に関しても似たようなことが言えるかもしれません。養豚場で一緒に働いていた同僚の多くは、牧場や肉牛の肥育場で働きたいと考えていましたし、実際そういう業務の方が給料が高いんです。しかし人種差別的な背景から、グアテマラやメキシコ出身の人々に開かれた雇用形態は、養豚場での仕事だけでした。たとえそれまでメキシコ北部の牧場で働いていたり、似たような就労経験があったとしてもです。牛は歴史が深く、昔から貴重な労働力とされている文化的にも経済的にも重要な生きものでした。この点では、豚と牛という異なる種の間に、人種階級的なヒエラルキーがあったように思います。私には、ある動物種が別の動物種よりも多くの技術や専門性、知識を必要とするとは思えません。にもかかわらず、異なる動物種の間で人種的な分業が正当化されていました。

[図4]食品加工工場に輸送されてきた何千頭もの豚

§

吉田:
あなたは、“Porkpolis”の中で、ポスト人間中心主義的なバイオセキュリティについて、以下のように指摘されていますね。

家畜動物を屋内に閉じ込めること自体は、他の生物との予期せぬ接触(例えば人獣共通感染症の病原体の宿主になりやすい野生のガチョウなど)によるウイルス感染を避けるため正当化されることがある。一方、生きものを工業化することに注力してきたこの地帯は、それが生み出す予測不可能なリズムがいかにして豚の感染症に巻き込まれているのかを示している。もはや人間社会は豚の感染症をため込む「貯蔵庫」の中核なのだ。

私はコロナウイルスを含む人獣共通感染症について、これと似たようなことを考えていたんです。新自由主義的な資本主義社会において、気候危機の問題は同じ生産モードに起因しています。また、自然の過剰搾取によって、人間と人獣共通感染症の宿主動物の接触や近接性が問題視されていますよね。つまり私たちは、社会全体に跳ね返ってくる新たなリスクに身をさらしているわけです。そう考えると、本の最後で脱工業化を指向されているのが非常に興味深いです。脱工業化という概念は、人間と人間以外の生物社会をどのように定義し直していると思いますか。

ブランシェット:
その読み方は素晴らしいですね。アメリカでも、他の社会でも、私たちが期待するほど脱工業化が進んでいないというのが現実です。今日のアメリカで、工業セクターに就く人が少なくなってきているのは事実ですが、一方である地域では超工業化が進んでいます。5,000人もの人々が年間70億頭もの家畜の生産に携わっている。つまり、ほとんど前例がないほどの過度な生産性を獲得しているということを意味します。現在、私たちの日常生活にかかわるほぼ全てのものが、工業化された生産過程から生まれています。気候パターン、水運、航空なども、より工業化されています。製造業の従事人口が減っていたとしても、現実の生活は工業的な労働力によって媒介され続けている。ひょっとすると、1920年代や1950年代よりもさらに過度に工業化されているかもしれません。

現代のアメリカの農業について考えるとき、「工業化」というと、化石燃料や機械の多用だったり、大規模生産を指しがちです。でも私は、産業資本主義の観点から工業化(と脱工業化)について考えています。産業資本主義とは、人間労働に対して不均衡なほど多大な社会的、集団的価値を置き、労働力を搾取するための新たな場所を開発し続ける時代です。豚がその最たる例です。豚という動物は、150年に及ぶ複合資本主義的なエンジニアリングを内包しているのです。1頭の豚から、何百種類、何千種類もの製品が生み出されます。豚は、労働によって膨大な数の製品に形作られ、知られ、接触される動物でもあります。調査を経て、私は脱工業化を、意識的で、野心的で、最終的にはポジティブな方向性を見出すプロジェクトとして、どう捉え直すべきか考えるようになりました。今私たちが一丸となって達成しようとしているテーマだと思います。労働者の追放ではなく、共同体としての急進的な政治目標を意味するものです。労働を減らし、労働の対象とするものを減らすこと。社会貢献と言ったときに、生産性や効率性を軸に考えないこと。むやみに働かせず、生産プロセスを非効率にさせておくことに価値を見出すこと。労働を介してではない方法で、豚やその他無数の生きものと関わり合うこと。それがこの本の結論ですが、今後も私が取り組むテーマです。

現在、シカゴのユニオンストックヤードが残した影響、廃墟、遺構についての長期調査を進めています。この食肉加工場は1860年代から1940年代にかけて、現代の私たちがイメージするようなアメリカの産業主義の多くの面を生み出しました。例えば、ヘンリー・フォードは、自動車の組み立てラインのアイデアをこの食肉加工の解体ラインから得たようです。今、シカゴの16ヶ所を調査中ですが、住民はこの閉鎖された食肉処理システムを社会的にも生態学的にも継承することが何を意味するのか、すべてを過去の遺物にすることが何を意味するのかを考えているようです。引き続き現場の人々と一緒に、「真の意味でのポスト工業化、脱工業化の瞬間に到達した」と言えるのはどういうことなのかを理解したいと思っています。脱工業化をめぐる集団的実践とは何なのか考えていきたいですね。

§

吉田:
シカゴの労働組合のストックヤードに関する調査プロジェクト、おもしろそうですね。おっしゃるように、モノを生産することを中断する、というのはある意味能動的かつ再帰的な実践と言えます。この点を念頭に置いた上で、〈自然〉を過剰に酷使する中で何が生まれているのかを深く考える必要がありますね。私たちの〈自然〉との関係の再考にも繋がりそうです。興味深いお話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。


§

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