上妻世海『制作へ』

——— 『制作へ』に収められた上妻世海の「制作論」には、以前から実存主義的な意味合いを感じていました。批評や美術史の文脈として成立してるんだけど、クローズドサーキットのなかで自己言及するようなものではなくて、むしろクローズドサーキットな構造に組み込まれていない人間の方を魅惑してる。だから、その魅惑がどう発生しているのかを明確にしていきたいと思っています。
その手始めとして、まずこの「制作論」が誰にどうインパクトを与えるのかというところから考えてみたいと思います。エリー・デューリングがプロトタイプ論で「なぜ作品にする必要があるんだ」と言ってたように、「なぜ上妻世海は制作論という形で書かなきゃいけないのか」ということを。
補足すると、この「制作論」はクローズドサーキットのなかで「批評を活性化するための論」ではなく、「クリエイティビティにコラボレートしていく機能を持つ論」だと考えているんです。むしろ批評的に読み解こうとしない人にこそ、ある種の作品として乱反射していく効果がある。実際に批評家やアカデミシャンではなく、クリエイターの人たちの方がはっきりと反応しているのがおもしろいところなんですよ。

西田幾多郎が「自己のなかで自己を観る」って言うじゃないですか。外で見ようとした瞬間に他者になってしまうので、モノを見るときには「内で観る」と。清水高志さんなんかは、「内で観る」ときには袋詰め的に役割が転換して、あるときは主体あるときは対象と二項がどんどん入れ替わりながら機会原因的に時空間を形成して、西田の「永遠の今」って話につながっていくと言ってる。西田幾多郎は、鈴木大拙との関わりもありつつ、禅の実践のなかで自分の感じた時空を言葉にしながら、こういうところにたどり着いているんだと思うんですね。「一の多」と「多の一」って問題から未来を考えて、相互否定的な領域としてとらえることで「永遠の今」になる。

ジャコメッティが絵を描いたり彫刻を作ったりするために、女性のモデルを目の前に立たせてポーズを取らせたときのエピソードなんですが、彼がずっと見てるだけなので、モデルの人がたまりかねて「アルベルト、なぜ貴方はそんなに私を見続けるの?」と言うんです。それに対してジャコメッティは、「なぜなら僕はまだ君のことを見ていないからさ」って答えるんですけど、実はポージングさせてからすでに6時間が経ってるんですって。これもさっきと同じ話で、「内で観る」ことができないと本当に見たことにならないって感覚があるわけですよ。

僕は修行のような実践をしてるわけじゃなくて、西田幾多郎や折口信夫といった人たちの言葉に導かれて、こういうところにたどり着いてるじゃないですか。だから、実践によって伝承してきたけど、今は失われてしまった日本人像みたいなものに乗っちゃうと、間違ってしまうとわかってるんです。むしろジャコメッティの悩みに近いわけですよ。なぜ内で観れないんだって悩み。これを解決する理論が必要だと思っています。

批評的で消費的なカルチャーの問題点は、主体っていうものを固定化した状況で、外側にある対象をどんどん新しいものにしたりヴィンテージにしたり、横滑りにモデルチェンジをしていくところです。欲望のサーキットにいろんなものが出てきて、「いいよね」「楽しいよね」「でもこれは面白くないよね」とか言って。僕の問題意識は、外側にあるものを内側から「観る」っていうことをどうやって成立させるかということ。「消費から制作へ」と言っているのは、こういった欲望のサーキットはもうやめましょうという話です。

これはおそらく時代的な背景もあります。僕たちの世代には色んなものが揃ってる。漫画ならWebでたくさん読めるし、月にいくらか出せば映画も見放題だし、音楽もYouTubeで聴き放題。新しいものもどんどん出てくるし、過去のマニアックなのも全部ある。昔のリッチ層がお金を使ってやっていたのと同じくらいのことを、かなり低価格で体験できる環境にいる。そういう状況で消費のサーキットを回していくって、最初から虚しさがあるわけですよ。だから、もうこっちのロジックに行ってもしょうがないと思っています。

つまり、ジャコメッティの悩みみたいな「観る」ってことと真剣に向き合ったとき、それは外側から見ることじゃないってところにしか行き着かない。どう考えても、内在=超越っていう帰結になってしまう。時代の潮流としても、次は制作的ロジックに行かざるをえないと思ってるわけです。

宮川淳が『鏡・空間・イマージュ』のなかで、個人の時代に代わるものは集団の時代ではなく非人称の時代だと言っています。鏡に反射されるイマージュと、鏡の外の持つ暗さみたいな比喩がありますよね。ラカン的な意味で、鏡の反射による同一性のレベルで留まっていたら、それはイマージュによるイマージュでしかないのだと。つまり、宮川淳が言ってる非人称の時代というのは、反射の世界から鏡の暗さの底に行くことで、非人称の私が現れるという話なんです。

日本語のなかには、非人称でしか使われないものが結構ありますよね。木村敏と坂部恵が共同編集してるシリーズなんかでも、日本語圏には「気」とか「情」とか、いわゆる中動態的な文法がたくさん残ってる。つまり、まだこの頃には「レンマ」的な観点があったんだと思うんです。

それで、ここの橋渡し役をやっていたのが、アヴァンギャルドの人たちなんだと思います。相関主義のど真ん中にいたヨーロッパの人たちが、 制作していくっていうプロセスのなかで、一点透視図法みたいな秩序立って整理された空間認識の間違いや不誠実さに気づいて、そうではない空間や時間のあり方を探求していった。

今、相関的なものに対して批評的なロジックが受け入れられやすいのは、最初から相関的としか思えない世界で生きてるからだと思うんです。だって、僕たちは身体的にさっきのクローズドサーキットにいるわけなので。ある種のイニシエーションを経由していないから、消費カルチャーしか持つことができない。

だけど、さっき挙げたような日本の哲学者たちは、また違う身体を作ってきた。これはかつてのアヴァンギャルドやサイケデリックの人たちがやってきたことにも近い。クローズドサーキットじゃないところにどうやって行くのかということに向き合ってきた。でも、それを言葉にしようとすると、消費カルチャーのアイテムになってしまう。じゃあどうすればいいか。それはもうイニシエーション的にウィリアム・ジェイムズが言う「二度生まれ」をしなきゃいけないわけです。つまり、消費的な肉体から、制作的な身体へ変化しないといけない。そのためには啓蒙ではなく誘惑が必要になってくる。

啓蒙というのは、教育システムのようなものを前提にしています。「カントを読んだら、次はヘーゲルを読みなさい」と、正しい道筋がすでに定まっていて、それをたどっていくことである種の市民的なマインドを獲得できるという話で。もし近代的な社会が成立している場所なら、これは何の問題もないと思うんです。だけど、もう僕たちはそういう世界に生きていない。だから、それぞれがさまざまなルートで、自ら身体を制作しないといけないんです。消費的な空間にいなければ、制作へと誘惑されるんですよ。誘惑された人たちは、それぞれ作り始めなきゃいけなくなる。だから誘惑する。

さっき話してもらったように、いい消費物を探して批評する人たちよりも、すでに音楽とかアートとかやってる人たちが僕に興味を持つのはその通りなんですね。でも、これは第一段階という気がしています。なぜなら、そういう人たちは初めからこっちに向かっていたわけじゃないですか。自分で身体を作りつつあった人たちだから、自分が感じていたことを言語化してて、おもしろいと反応してくれる。それで何か一緒にやりたいと思ってもらえる。

この第二段階として、消費に飽き飽きしているけど、まだこっちに来れていない人をどうやって誘惑していくかという問題があります。だけど、どうすればいいのか僕自身にもまだわからない。というか、これは誰もわからないんですよ。昔みたいに、自立的で市民的な主体を育てるといった確固たる目的があるわけではなく、特異な身体性を形成するという終わりなきプロセスに入っていく話なので、あとはそれぞれやるしかありません。

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——— そういった「潜在的なクリエイター」は、たぶんもう消費カルチャーに飽き飽きしていて、「この生、つまんなくない?」「退屈だ、生き難い」と思ってる。だけど、今は新しい消費物しか用意されてない。だから、この「つまんない」という実感がある身体性の人たちに、上妻世海の制作論は「実存的」な魅惑を放っているんだと思います。ただ、おそらく今は一部の感度のいい人にしか伝わってない。
もうひとつ、上妻世海の制作論がおもしろいのは、結構むずかしい言葉で書いてあるところです。内容を正確に理解しなくても、この本に書かれていることが「つまらなさ」を打開してくれそうな予感を孕んでいるのはわかる。誘惑した次は、それぞれのなかで芽生えてくる内発的なものを、自分で何とかするしかないってところまで持っていくのが、ひとつの役割なんだと思います。

何かを制作していくときに、批評的なものばかり読んでいたら、行動できなくなりますよね。だから「どうやって教養を身につけたらいいですか」といった間違った質問をする人には、自分が好きだったり興味がある人の伝記を読むことをよく勧めてるんです。ジャコメッティとかピカソとかマレーヴィチとか、誰でもいいんですけど、その人たちの人生とか参照してきたものとか、どういう風に考えながらやってきたのかとか、その時代や雰囲気とか、そういったものに興味を持ち始めたら、あとはまかせるだけだと思うんですよ。だって、いずれの人も密度の濃い人生を歩んでるし、いろんな人と出会ってたり、いろんなカルチャーに影響されながら、身体を作ってきたことに気づけるはずですから。

今の情報社会だと、その人たちが読んできたものを読んだり、その人たちが触れてきたものに触れるのがやりやすいんですよ。インターネット環境は、消費カルチャーに向いてるけど、制作カルチャーとも相性がいい。つまり、自分の身体に必要な素材は、すでにインターネット上にアーカイブされてる。ユーザー側が消費的な身体だと、そのネットワーク性が前景化してきて、出会い系とか友達作り系とかバズらせる系みたいなロジックになってしまうけど、インターネットが潜在的に持っているパワーはアーカイブ性にあるんです。

消費的に「ピカソの絵っていいよね」と終わる前に、ピカソの人生を追っていったら、四次元思考の話に行くし、当時の数学によって空間の捉え方が変わったこともわかる。文化的な状況もそうだし、第一次世界大戦といった歴史的背景にも詳しくなる。X線や電話が発明されたことで、コミュニケーションの考え方がどう変わったのかを知りながら、造詣が深くなっていくはずなんです。ピカソを知ろうとするだけで、めちゃくちゃ教養が必要になってしまう。

好きなものを外側から見て消費するんじゃなくて、まずは自分の内側にピカソを取り入れて、自分がピカソになる。それだけで身体が複雑になっていかざるをえない。そのプロセスさえ始まっちゃえば、どんどん自分が変化していく。自分が変化していけば、自分のまわりにいるパーティーが豊かになっていく。変化のプロセスを自分で止めない限り、あとは恐怖や不安と戦うだけなんです。変化を止めてしまいそうになる自分と向き合うだけ。ピカソを内側に取り込めないのは、自分が近代とか常識みたいなものを前提にしてるからで、そこでリミットが外せてないんだなと気づくことができる。

あとは好奇心の問題で、どんどんアナロジカルにつながっていく。そう「すべき」ではなく、そう「なる」。次のプロセスが勝手に決められていくから、やることを自分が決めていく必要さえなくなるわけです。もし選択しなきゃいけないっていう状況に置かれているとしたら、まだ消費的な身体だというだけ。この変化のプロセスに入ってから選択肢があるとしたら、身をまかせるか、怖いから逃げるかの二択なんです。

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——— 消費的な身体というのは、主体はいつも単一でしかない。主体が単一だから客体も単一で、ただ客体のバリエーションがあるだけだよね。主体と客体の関わりがつねに一対一で、ひとつの客体に飽きたら次の客体を選ぶという形で欲望がドライブしていくだけだから、どんな経験をしても主体も客体ももとのまま何も変わらない。だから、消費と呼ばれてしまう。
今言っていた「自分の内に取り込む」というのは、自分のなかのアナロジカルな群像を作動させるということだと思うんですよ。これは主体が一対一となる客体を選ぶことではなく、自分の中に取り込んで「半ば自分でもあるような対象」が別の「半ば自分でもあるような対象」とリンクしていく自動運動みたいなものを作動させるということ。「身をまかせる」というのを言い換えれば、主体としての自分を主客がつねに多重化してあるような境域に「溶かし込む」とも言える。でも、これは最終的に「飛び込むかどうかの決意」の問題とも言えそうだね。

主客未分の領域に入らないと、本当の変化って生まれないんですよ。だけど、多くの人が勉強して頭良くなるとか、資格を取ったり身分を得ることを変化だと考えてる気がするんです。勉強ロジックでピカソの伝記を読んで、知識を取り込もうとしてる。でも制作ロジックというのは、自分とピカソの間にある境目をなくすことなんです。いろんなものを身体に入れて「自分はこうしたいけど、ピカソはこうしないよな」って考えることができる。あるとき私はピカソになってるんだけど、またあるときは人と喋ったりして社会的な私を留めてる。そうやっていろんな人を自分のなかに持つというのは、自分の欲に従って生きない方法を身につけるってことでもあると思うんです。

僕の話でいうと、文化人類学者の奥野克己さんに誘っていただいて、今度ボルネオに行くんですけど、調べたらそこのプナン族ってほとんど裸で暮らしてるんですよ。家は外から丸見えだし、蚊もめちゃくちゃ多くて、マラリアにかかる可能性もある。冷静に考えて死ぬ可能性があるんです。だけど、自分のなかにさまざまな主体がいて、ビビってる自分とは別の自分が「いや、行くでしょ」って言ってくる。こうやって決断するのがいいのは、今まで内に留めていた問題が外化するからなんです。もう一人の自分が「行くでしょ、だってフィッツジェラルドも戦争行ったし」って言うんだけど、ヘタレな自分が「これはまずい」って震えてる。「ああ、でももう行くって言っちゃったよ」みたいなやりとりがある。

つまり、ジェイムズの純粋経験論みたいな主客未分の状態を保ちながら、いつでも主客が入れ替わるような場所に自らを置いて、あるときは主体として考え、またあるときは対象として自分を見る。さまざまなものを内側に取り込んでいくというのは、情報として理解するってことじゃなくて、自分がいて相手がいるという図式じゃない状況を作り出していくこと。そうすれば自分の変数は勝手に大きくなっていくんですよ。だって、取り込んだ相手になるのって、相当難しいじゃないですか。自分で自分をピカソだって思えるようになるには、ピカソよりピカソのことを知ってないといけないので。

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——— 制作ロジックとして内に取り込むか、あくまでも勉強ロジックとして対象を増殖させていくか。内に取り込むっていうのは、具体的にはミメーシス(模倣)ってことですよね。だって、ピカソを取り込むってピカソを真似ることじゃないですか。真似ることでピカソを身体にインストールするには、ピカソを十分に知ってなきゃいけない。対象を増やすのではなくて、真似るっていう機能をアナロジカルに増やしていく。真似る対象を豊かにするため、いかにアーカイブからアナロジカルにピックアップできるかというのが、いわゆるサバイブにとって重要になってくる。そんな話としても聞けました。

そうですね。たとえばヘンリー・ソローが好きな人の系譜ってあるじゃないですか。そういう人たちによってブックガイドが作られていくんだけど、僕には全然わからない。その人たちは、別に意識してそうなったってわけじゃなくて、どんどんアナロジカルに連鎖していった結果なんだと思うんです。さっきのプロセスに入ってて、その世界の住人になった。でも、これはスピリチュアルな話ではなく、単にそうなってしまうものなんだと。

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——— ピカソを内に取り込むとき、そのピカソって何かっていうと、ピカソの「層」じゃないですか。要するに、アナロジカルな構造そのものがピカソなわけで。さらにピカソが取り込んだ、たとえばアポリネールみたいな人がピカソのなかにも存在しているわけですよね。これは言ってみれば、アーカイブのネットワークにアナロジカルにアクセスする潜在性を自分のなかに取り込むってことなので、スピリチュアル云々という文脈ではなく、「情報論」として考えた方がいい。

そうなんです。陳腐な言い方になっちゃいますが、人って作品じゃないですか。さまざまなネットワークの凝縮点としての人が、ある形を留めているだけの話だと思うんです。だから、人に出会うことは、そこにアクセスすることになる。そこから無数の線が飛び出して、その線からまた無数に飛び出していかざるを得なくなるわけです。

僕もそのプロセスの途中だから、自分が今後どう変化していくのかわからない。ボルネオから帰ってきたときに、どんな自分になってるのかも。そういう風に変形を遂げていくときって怖いわけですよね。つまり、状態Aのことを自分だと思っている人って、自分がAとイコールでつながっていることを自己同一性と考えてるわけじゃないですか。Aとイコールって考えてしまう、このこと自体が問題だと思うんです。AからBとかCになるってことは、その人にとって同一性がなくなることだから、死ぬことと一緒なんですよ。私ではなくなるけど私ではあるわけで。

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——— やっぱりそこが面白いところで、「私は私である」「A=Aである」っていうのは、再帰性の問題じゃないですか。「私は私」って再帰していないと、私は私じゃないわけだから。だけど、人間が「作品」でネットワーキングの「節」だと考えれば、そこには再帰性は存在しない。マルクス・ガブリエルが「世界は存在しない」と言ったけど、これってつまり再帰性の問題だと思うんですよ。ガブリエルが言う「世界」ってのは「意味の意味」「包摂の包摂」ということで、つまり無限にメタレベルに上昇していくようなベクトルは「存在しない」ということ。A、B、C…という項同士が、ただ相互に参照して包摂し合う「意味の場」だけが存在していて、その「意味の場」において現れるモノが実在であると。
今の「ネットワークとしての人間」というのは、自らの身体性をガブリエルがいう「意味の場」に「同期」してしまうということだと思うんです。人間はA、B、C…といった項を、自らの身体性において「意味の場」として成立させる能力がある。ウィラースレフが『ソウル・ハンターズ』で説いたように、ミメーシスの能力がそれです。
自らを「意味の場」として成立させること、これは再帰性を免れ、項目間が自律的に結び合う、ある意味オートマティックなプロセスに自らを投企するということでもある。どこまでその自動運動に自分を溶かし込むことができるか。これはもう根性があるかどうかという、根性論みたいな話でもある。

それがさっき不安や恐怖って言ってたものですね。だってAの僕が、何かをやったらBになるかもしれないときって、Aとは別人になる可能性と向き合わなきゃいけないですから。怖がってるのは、結局Aの自分なんですよ。今この瞬間の僕はAなわけで、そのことは否定できないから怖い。でも、非人称の場で考えると、いつものプロセスなんだと認識できるので、この恐怖は薄れます。一度経験しちゃえば、変化するってことは普通になるので。実際、僕がこの変化のプロセスを認識するのは、ずっとAから変化してない人と会ったときぐらいです。

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——— Aから変わるのが怖いのは、Aが死ぬからですよね。でもこの小さな死を経験して、またBとして再生する。この「死と再生」っていうのは、通過儀礼の基本的なフェーズだと思います。プレモダンの通過儀礼には、そこで生まれてくるBがあらかじめセットされていた。でも、今はそのBがわからない。Aの自分が死んで生まれ変わったら、Bになるのか、Cになるのか、Dになるのか見えないなかで、死ななければいけないから、より大きな不安になってしまう。

不安は大きいんですけど、実際にAから急に特殊なBになれるわけではないんですよ。短期間でさまざまな経験をするとか、さまざまな人物を内面に取り込むのは、量的に考えても無理なので、部分的に小さな死を繰り返していくしかない。制作ロジックに入っても、完全に消費ロジックから切り離されるわけじゃないですし。だけど、ちゃんと標準偏差から離れた体験ができるということが重要なんだと思います。

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——— そこの制作的なプロセスにいる自分は、すくなからず多重化されてるわけですよね。多重化されてるから変わっていく。AからいきなりBにならなくても、AからA’やA’’ぐらいにはなると。すると、A’’’ぐらいで「これはBだな」ってなる。
具体的にアーティストで考えてみると、制作的な強度をずっと保っている人って作品が変わっていきますもんね。自分の極みのようなものをひとつ作って、自己模倣して似たものをどんどん量産していく人もいますけど、変化のプロセスのなかで別の極みのようなものを追求していく人には興味が尽きない。後者は死と再生を繰り返しているわけです。

それがまさにピカソですよね。基本的に変化のプロセスって、好奇心で惹きつけられてアナロジカルに連鎖して生成されるんですよ。だから、この制作ロジックのプロセスとインターネットは相性がいい。つながったり発信したりするだけじゃなく、アーカイブの深みや厚みを身体的に獲得できる。そして、これはアーティストやクリエイターに限った話じゃなくて、自分の軸を作っていくという普遍的なプロセスでもある。実は最初から「個」というものは与えられてないので、自分で「個」を作っていくという話で。もっと言うと、変化のプロセスに入ってないと、劣化していくと思うんですよ。貨幣が劣化していくみたいに価値が下がっていく。

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——— 今の「個」の問題は、結構重要かもしれないですね。例えば、パパ・ママ・ボクのエディプス三角形を説く精神分析も、基本的には「承認のお話」ですよね。ものすごく端折ってしまえば、人間として生きることは他者(神であり、言語であり、他人であり…)に承認してもらうことであると捉えられてる。制作的なプロセスに入って自分が変わっていくということは、この「承認のお話から降ります」という宣言でもある。
自分は制作的身体として、どんどん変わっていく。しかも、AからBに突然変わるわけではなく、グラデーションで変わっていく。つまり、実際は、AともBともCとも定位できない状態で、変わり続けていく。だから、自他ともに評価ポイントが特定できない。このプロセスの恐怖って、つまり社会的承認体系から外れていくことにも関係している気がします。

ピカソは友達から褒められて、承認されたと思って喜ぶことはなかったはずです。確かに彼も若い頃には、いろんな美術館に行き、いろんな人の作品を見て、それらを模倣していました。そうやって他の人を取り込んできた。それは褒めてくれる友達を目指していなかったということだと思うんです。もしかすると、制作プロセスに入ってしまうことは、承認を否定することなのかもしれません。青の時代には承認してもらえたけど、わけのわからないキュビズムの絵を描いたら認められないかもしれない。たまたまピカソは認めてもらえたけど、一般的には認められない可能性の方がむしろ強いわけじゃないですか。もちろん友達には止められるでしょうし。

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——— なぜそこに行くかというと、より強い承認を求めていたからわけではなく、行かざるをえないから行ってしまったと。それは相互に承認される社会のフィールドから、いったん外れてしまうことでもあるけど、外れないとアナロジカルに作動できない。しかも、そのフィールドから出て、承認される可能性を捨てるということは、ある種の契約を破棄することなんでしょうね。承認という価値は確固としてあるものではなくて、お互いに価値があるという確認が必要で、その契約によって成り立ってるので。

だけど、別に今いるコミュニティから外れたとしても、大丈夫なんですよ。絶対に別の人たちが出てくるはずだから、何も不安になる必要はないんです。なぜなら、何かを作るってことは、基本的に一人じゃできないからです。制作から流通から販売まで、自分だけで完結することはありません。むしろ何もしない方が孤独になるので、承認が必要になるんだと思います。

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——— 確かに、そのプロセスに入ってしまうと、同じようなプロセスを生きている人のことがわかってしまって、自然とリンクするからね。今こうやって僕らが話しているのもそうだけど、別にそれぞれの社会的な属性やポジションと関係ないところで、常に多様なリンクが発生してくる。そして、これは今回の本にも書かれてる「制作者の共同体」の話でもある。アーカイブを掘り下げていくと、共同体のなかでアナロジカルにネットワーキングもできてしまう。

ここまでネガティブな意味で使ってきた消費とか承認とか鑑賞とかって、外にあるものを使ったり頼ったり見たりってプロセスです。でも共同体にいれば、勝手につながっていくんで、そもそも友達作りたいということを目的にしなくなる。お金出しても行けないところに行けたりする。あとは自分のやりたいことやって、やるべきことにフォーカスするために、集中できる環境を作っていくのに頭を働かせるわけです。制作するから、自分も変わるし、まわりも変わっていく。これは何かっていうと、物語なんですよ。ずっと登場人物が変わらないなら、おもしろい物語にはなりません。

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——— つまり、創造性を自分のコアにしないと、目減りしていくだけで、もはや立ち行かないんだと。これはアーティストに限ったことではなく、今では企業においてもイノベーティブであることが最重要の価値となってきています。だから、上妻世海の制作論は、状況論的に言っても、有意義でおもしろい。
イノベーションには、メソッドがないんです。自分が置かれた環境のなかで、自らの身体性で以て自己判断できなければ、イノベーションの運動を起こすことはできない。つまりイノベーティブであるための「方法論」があるとすれば、それは「クリエイティブな身体性を持つ」ということに尽きるんだよね。
スティーブ・ジョブズでもジェフ・ベゾスでもいいんだけど、彼等はクリエイティブな身体性を持っていたと思う。アナロジカルな運動性を自分の身体に落とし込んで、統計やマーケティングに関係なく、なにが正解なのかを自己判断して、「これは正しいんだ」と直観的な確信をもって市場に挑んだ。根拠はないけど、アナロジカルな身体性による自己判断で「正しい」んだと。
では、「クリエイティブな身体性」を育むには、どうすればいいか。たとえば、ピカソを自分にインストールする。それは、必ずしもピカソみたいなアーティストになりたいという人に限らず、すべての「クリエイティブな身体」を望む人にとって有効になる。起業したいからジョブズの本を「参考にする」というんじゃダメで、むしろデヴィッド・ボウイを掘ってみる。そうすれば、この「掘る」というプロセスのなかで、起業に必要になるアナロジカルな身体性が育まれていく。
そうやって、読む人を「クリエイティブな身体性」へと誘う魅惑を孕んでいるのが、上妻世海の制作論なんですよ。クリエイティブなプロセスにどうやって参入していけばいいのか、さらに「クリエイティブな身体性」がどう機能するのかということまで、多角的に解像度の高い形で示して、読む人をコーチングしている。つまり、ただ読解して終わりじゃない。「クリエイティブな身体性」を獲得するための「エクササイズ」への誘惑であり、同時にこのテキスト体験自体が「エクササイズ」でもある。

僕はそういう意味だと、スティーブ・ジョブズをインストールすればいいと思うんですよ。ジョブズを掘っていったら、ジョブズで止まるわけないって発想なので。彼だって、元々はヒッピー青年だったわけだし、カリグラフィーを習ってたり、東洋思想をかなり深く信じてたわけじゃないですか。そうやってジョブズが形成されるまでには、さまざまなネットワークが彼に突き刺さっていって、そういった偶然性が潜在的にあって彼の形になった。だから、「ジョブズがすごいから、ジョブズが好き」で終わってたら、それはジョブズを取り込めてないんですよ。

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——— そうなんだけど、ジョブズを掘っていく最初の取っかかりとしては、ジョブズそのものに強く魅惑される経験がモチベーションになると思うんだよね。つまり、そこからアナロジカルに運動し始めるには、トラウマ的にインパクトのある魅惑を体験することが大事じゃないかと。魅惑体験というのは、ファンになるって消費行動とはまったく違う。そして制作論は、魅惑されたあとに掘り進めていく道筋も示してると思う。

そうですね。プロセスに入っていけば自らが形成されていくっていう話で。

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——— あと制作論には身体性の話がよく出てくるけど、これってハードウェアですよね。さらに人間の身体っていうのは、市川浩が言うところの「身」なんです。制作論が言ってるのは、「身」を変えるということじゃないかと。
その市川浩と同時代にソシュールを研究していた丸山圭三郎は、「身分け構造」と「言(こと)分け構造」という分類をしています。「身分け構造」はユクスキュルの環世界論みたいに、蝶が蝶の世界を見てるのは蝶の身体を持ってるからというもので、「言分け構造」は言葉で分節されたもので、人間の場合は「身分け構造」の上に「言分け構造」が乗ってると考えてました。ハードウェアの上にソフトウェアが乗っているような構造ですね。
さらに彼は、「言分け構造」が「身分け構造」のなかに陥入してるのが人間の特徴だとも言っています。これは「言分け構造」によって「身」の部分を変えることができるということなんです。この身体性の変容は、さっきの通過儀礼における死と再生みたいな、たとえばシャーマンに自分たちが知らないはずの「異言」が降りてきたりするような話です。これが上妻世海の制作論で言われる身体性につながっているんじゃないかと感じました。
最後にまとめると、上妻世海の制作論は、近代的なソフトウェアをどう変えても立ち行かないという状況に対して、「言分け構造」が「身」を変えるかのように、身体性のレベルを変えなければならないと明確に言い切ってる。まさにここが最大のおもしろさなんですよ。

その解釈、すばらしいです!

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2018年5月25日
インタビュアー: +M(@freakscafe