モア・ザン・ヒューマンの人類学から、文学、哲学へ

More-Than-Human座談会 #03

奥野 克巳 / Katsumi Okuno

近藤 祉秋 / Shiaki Kondo

2021.03.10

環境と身体をつなげ、フィールドで文学を聴き、仏教で経験世界を観る

奥野克巳:
それでは、第3部に入ります。今回も広島大学大学院博士後期課程文化人類学専攻の大石友子さん※1と東京大学大学院博士後期課程フランス文學専攻の中江太一さん※2の話をうかがいながら、近藤祉秋さんと私で進めていきたいと思います。

第1部と第2部では、マルチスピーシーズ民族誌およびそれに近い人類学者たちのインタビューでしたが、ここからは環境人文学と呼ばれる複合的領域へと歩みを進めて、「More-Than-Human」シリーズ※3に掲載された、石倉敏明さん、結城正美さん、清水高志さんのインタビューを取り上げます。

まずは、唐澤太輔さんによる石倉敏明さんのインタビュー※4。この石倉さんの知的冒険では、中沢新一さんの『対称性人類学』の複論理という理論的な課題を「外臓」という概念を通じて深めているのがとても印象的でした。それは、食を通して人間の身体と環境の関係を考えることにつながっています。

身体の内側の、口から肛門の周囲に発達した内臓を、手袋をひっくり返すように外側にひっくり返したものが、身体の外部に広がる里山、里川といった環世界で、それを石倉さんは外臓と呼んでいます。外臓から内臓へ食べ物が入り込んで、外臓と内臓によるループ状の絡まり合いによって世界はできており、他者から見ると、自分自身の身体も外臓の一部であるというアイデアが示されていました。

石倉さんの外臓論は、多様な思考実験に開かれています。外臓論で考えると、身体の中に収められた、主体として成立している「自我」から出発することは難しくなり、食べることをベースに、デカルト主義を乗り越える手がかりにもなる。食べるもの、食べているものが生み出される外臓と、食べる「主体」である内臓がどうつながっているのかを見ていけば、自然と人間の関係を再考する可能性が見えてくるというわけです。

また、食べることは、食べることと食べられることの二元論ではなくて、朽ちて地球に食べられるという三層で見ていくべきなのではないか。それは、自然の循環と人間の文化の循環を連続的なものとして考えるためのポイントだと、石倉さんは述べていました。そうした環境と身体、外臓と内臓の大いなる循環を足がかりとすることで、日本では、人、生物、自然、神仏の共生関係の形成によって「共異体」が生み出されるに至ったのではないかと、論は進んでいきます。

共異体とは、あらゆる差異によって個々の生命存在がつながっていること。例えば、ブッダが悟りを開いた菩提樹の木は、誰もがそこに座ることができる場所です。種として、それぞれの土地に根を生やすことができる、柔らかな中心としての共異体が、そこにはあるのだと言います。石倉さんは、そのイメージを実体化してはいけないとも言っていました。

石倉さんたちのコレクティヴは、第58回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館展示で、この共異体の思想をテーマ化しています。沖縄や八重山・宮古諸島に散在する津波石はもともとはサンゴ石灰岩で、海中生物の化石が付着していたもので、その後津波によって陸上にもたらされ、動植物が共生する場になりました。これは多様な存在がつながっている人間と非人間の共生のモデルなのです。石倉さんたちは、この津波石やフィールドワークで得た卵生神話を踏まえて、創作と実践をおこないました。

アートと人類学の結びつきは、人類学の表象の危機以降の苦闘のひとつの結果だそうです。そして、人類学を知的生産だけに閉じ込めるのではなくて、他の学問領域とアートの架橋をしながら、越境的なインターフェイスとしていくのが、人類学におけるひとつの展望ではないかと結ばれていました。

次に、江川あゆみさんによる結城正美さんのインタビューです※5。ある学問領域だけではなくて、そこから他の領域や多様な実践者たちとの対話を進めていく姿勢は、先ほど大石さんから指摘があったように、最近の文化人類学ではようやくひとつの流れになりつつあるのかもしれません。それに対し、エコクリティシズムあるいは環境人文学では、研究者だけではなく幅広い層と交流・意見交換することが早くから重視されてきたことが、結城さんのインタビューからうかがえました。

チッソの社長は、水俣の漁民を人間扱いしていなかった。そのこととは対照的に、石牟礼さんの水俣文学の世界では、蛸、狐、馬酔木などと人が交わる世界が描かれています。人間をひとつの種として学ぶ上で、石牟礼作品は示唆的です。

結城さんの初期の研究関心は「サウンドスケープ」にあったようで、ファインさんやコーンさんがインタビューで述べているテーマにも重なるところがありました。研究方法の自明性をずらし、視覚ではなく、聴覚によって文学作品を見ることで鍛えられた知性。それはやがて、テクストとそれが書かれた場所での経験や思考の揺れを扱う「ナラティブ・スカラシップ」という研究スタイルへとつながっていったのではないでしょうか。

人類学のフィールドワークにも似た当該場所でのテクストの読みは、アクチュアルな問題に対するエコクリティシズムの積極的な関心にも影響を与えているように感じます。“What does ecocritism do?(エコクリティシズムは何をするのか)”の中の“do”が、結城さんが示すエコクリティシズムのアクチュアルな問題に対する方針です。

結城さんは、原発ゴミを考えるシンポジウムで、あるネイチャーライターの「山の身になって考える※6」というエッセイのタイトルを引いて、ウランの地層処分を進める組織の人たちの前で、ウランの身になって考えればゴミとして捨てられるというのはやってられないのではないか、と発言しました。それに対して、その組織の人たちから共感の言葉が寄せられて、対話につながったと言います。文学作品に言及したことで、対話を進めるための共通基盤が生まれたのです。

アクチュアルな問題に対するエコクリティシズムの姿勢は、環境危機や自然をめぐる問題に向き合うための、多くのヒントを与えてくれたのではないかと感じます。

最後は師茂樹さんによる清水高志さんのインタビュー※7。石倉さんのインタビューでは、デカルト主義的な「自我」、二元論思考、如来蔵思想の日本での展開、菩提樹でのブッダが始めた仏教の世界の広がりなどがしなやかに論じられ、哲学や仏教がマルチスピーシーズ民族誌、自然と文化の人類学、それから環境人文学を進める上で、参照すべき知の蓄積を孕んでいることがうかがえました。

それとは逆の方向から、哲学や仏教が、マルチスピーシーズ民族誌や環境人文学の見据える問題に対してどう接近しているのか見ることも重要です。西洋哲学には、古代ギリシャ以前から人間以外の存在者を取り上げる思索の系譜があります。それを踏まえて、20世紀のミシェル・セールの哲学を押さえながら、近年の実在論にも通暁し、そこに仏教に加えて、人類学までも見渡しながら最先端に位置しているのが、清水高志さんではないかと思います。

二元論思考をどう乗り越えるのかという西洋哲学の関心が、清水さんのインタビューの出発点にはありました。哲学ですから抽象度は格段に高くなりますが、追っていくと非常におもしろい。

《a》か《非a》のどちらかを取ると、その中間は成立しないという「排中律」を超えて、インド古来の伝統的な思考では、《a》でもなく《非a》でもない「第4レンマ」という思考の枠組みが考えられてきました。そうした議論は、近年のグレアム・ハーマンらによるオブジェクト指向哲学でもなされてきているのだと、清水さんは言います。

また、2世紀のインドの中観派の仏教僧ナーガールジュナは、《主語a》を立てると、《はたらきa》によって、《主語a》があらかじめあったように思えると言います。あらかじめあったように思える《主語a》を《主語a2》とすると、《主語a2》にも《はたらきa2》が出てくる。このロジックは循環的です。

ナーガールジュナは、《主語a2》と《はたらきa2》を「~においてある」構造、《主語a》と《はたらきa》を「~によってある」構造として問題を整理しています。その上で、ナーガールジュナは「~がある」が「~である」に変容してしまうはたらきの二重化の問題を執拗に問うたのではないかと、清水さんは指摘していました。

ナーガールジュナの『中論※8』の第2章では、この「~によってある」と「~においてある」という前件と後件が相互包摂している点が論じられます。《a》は《非a》によってあり、《非a》も《a》によってあるということは、それぞれが本質によってあるのではなく、「無自性」で「空」だというのが、中観派で示された相依性の考え方です。仏教の「空」の観念は論理を超えたものではなく、こうした論理を突き詰めた後に出てくるロジックなのです。

こうした流れを押さえながら、清水さんは、《a》でも《非a》でもない、《非a》でも《a》でもないということが同時に言えるためには、両極を同時に否定するロジックが必要であり、その点に絞って考えようとします。そこに主体と客体があって、相依性の重層化により「環界」が形成される契機を見るのです。

この環界とは、世界の眺めのことで、日本の鎌倉時代の道元禅師がいう山河のことだと、清水さんは指摘されていました。否定を組み込んだインド哲学からの系譜の果てに、道元の『正法眼蔵※9』では人が出てきます。山や川があるという単世界的なものではなく、人と山河が相互包摂する環界が、より具体的な山河の景色の中に綴られているわけですね。道元はあえて主語化を試みて「言うこと」によって、《a》がないから《非a》がないという「第4レンマ」によって捉えられたとき、一にして全なる環界が現成するのだと。

諸存在は、それぞれの環界、それぞれのパースペクティヴを持ちながら世界に向き合っている。そう考えると、世界が人や個物を照らし出しているとする思考は、人類学の多自然主義やパースペクティヴィズムにも通じている。ナーガールジュナによって突き詰められた、《a》でなく《非a》でもないという第4レンマを手がかりとして、二元論思考の乗り越えの行きつく先を、禅における人と事物、世界を視野に入れた環界の現成の中に見るのです。そしてそれが、近年の人類学がアマゾニアのフィールドワークで見出した思想にまでつながっていると指摘していました。

すこし長くなりましたが、以上が第3部の概要になります。

石倉敏明:体内と風景を地続きのものとして生きる

大石友子:
これまでのインタビューから、マルチスピーシーズ民族誌では、人間以上の視点を取り入れた民族誌の記述のみならず、民族誌映画やアートの制作など、多様な実践がおこなわれていることがわかりました。こうした実践をおこなう上では、人類学、文学、哲学などが交差する領域で、さまざまな概念や思想を手がかりとしながら表現方法を探求することが重要になります。この第3部のインタビューでは、そうした概念、思想、表現方法の広がりが提示されていました。

石倉さんのインタビューでは、そのためのヒントになる概念が多数提示されていたように感じます。私は物事を考えるときに四次元モデルをイメージすることが多いのですが、「外臓」という概念は、そのイメージにも重なりました。

また、石倉さんは食に注目をすることで外臓の概念を考えたということですが、たしかに食は生き物にとって必要不可欠なことで、そこでは多様な種が交錯しています。食からつながりを捉えることで拓けてくるものがあるというインスピレーションを得ました。例えば、「共異体」の議論から、人間と動物を「共食」の関係として捉えることができるのではないかと感じました。

共食とは、簡単に言うと、食事を共にすることです。現代はひとりで食事することも多いと思うのですが、人生の中で誰とも食事を共にしたことがない人はほぼいないと思います。その中には、人間とだけではなく、ペットとともに食事をとる人もいるのではないでしょうか。それぞれの食事を、同じ時間に同じ空間でとるということです。

共食に関して、人類学ではカーステン※10が、血縁関係と婚姻関係を前提とした、従来の親族や家族というつながりは、食事を共にすることで獲得されるケースもあると論じていました。これは共異体をベースにしても考えることができるのではないでしょうか。

私の調査地の人々は稲作をして、米を自給しています。そうした人間の労働で作られた米は、人間はもちろんのこと、家畜として育てている鶏や豚、家の番をしている犬、一緒に暮らしている象にも分け与えられます。これを、同じ米を家の敷地内でともに食べる共食とも捉えることができます。また、すこし違う角度から見れば、家畜に食べられるものという視座から、人間の労働を考えることができるように感じました。

このように、食や外臓といった概念は、つながりのイメージを大きく広げてくれるもので、新たな視点をもたらす可能性を持っているのではないでしょうか。

中江太一:
私からは大きく2点あります。まず最初に、食という媒介項を通じて人間の消化器官である内臓と、目の前の風景あるいは自然である外臓が地続きになっているという、石倉さんの発想がおもしろいと思いました。それは、人間の身体を一、その外の自然を一として、一対一の対応で考えたものではありません。人間の身体を内臓という複数のものとして考え、消化=分解の過程で多数の微生物が絡み合い、自然の方でも同様にさまざまな生き物たちが生産者、消費者、分解者という形で絡み合っている。こう考えると、石倉さんは一と多の問題を考えようとしているのではないかと感じました。

内臓と外臓の話は、デイヴィッド・モンゴメリーの『土と内臓』の議論を想起させます。この本でも、人間の身体とその中に住む微生物の関係と、土とその中に住む微生物の関係がアナロジカルに捉えられています。しかし、石倉さんの言葉で言えば「外蔵」に関してはすこし違った視点で、植物と土中微生物の間の贈与とも言える互恵関係の話が出てきます。

植物は、微生物を誘引するために化学物質を出してエサを供給していますが、微生物の方では植物を病原菌から守ったり、植物から出るトリプトファンを植物成長ホルモンに変えたりして助けになっているという意味での互酬的な共生関係であって、相互のコミュニケーションがおこなわれているという話です※11。石倉さんの話とは若干ずれるのですが、食べるという関係ではなくて、贈与の問題としてもマルチスピーシーズを考えられるのではないかと思いました。

最近は思想の分野で「贈与」の話が盛り上がっていますが、岩野卓司さんの『贈与論※12』という著作の一節では、「人間の贈与の慣習がいかに高度な文化を担っているとはいえ、人間は動物であるがゆえに、根本的に贈与する存在なのではないか。だから、贈与の概念を考え直す必要があるだろう」と書かれていて、人間中心的な贈与の議論を動物へと拡大していく必要性が説かれています。私個人は、動物に限定せず、人間を含めるか否かを問わず、マルチスピーシーズの贈与論まで発展させられると考えています。

食と微生物の話で言うと、小倉ヒラクさんの『発酵文化人類学※13』という本にもその一端が見られます。小倉さんは、マリノフスキやモースの贈与論、ベイトソンの議論を受けつつ、微生物と人間の関係を贈与によって捉えています。酒やチーズといった身近な例を取り上げながら、自然と人間が渾然一体となって織りなす生命の贈与のネットワークの中で人間と微生物の関係を見ると、自由意志の主体としての人間ではなくて、人間という存在が交換やコミュニケーションといった関係によって現れるのがわかると書かれています。この先にはマルチスピーシーズ贈与論のようなものが出てくると期待できます。

もうひとつは、石倉さんの話が非常にダイナミックで、人間と自然の関係について大きな見通しを示唆してくれる一方で、西洋思想についてはやや単純化しすぎる傾向があると感じました。これは現代思想全般に言えることかもしれませんが、デカルト的自然観が本当に西洋の自然観として有効なのか疑問が残ります。

たしかに非西洋の自然観の意味を探る上で、その特徴を強調するためには有効に機能すると思いますが、実際のところ西洋の思想や文学において、デカルト的自然観と十把一絡げにまとめられないようなものがたくさんあります。安易にデカルト的自然観を持ち出すと、藁人形のようになってしまう疑念があり、西洋内部での差異にも目を向けてもよいのではないかと思いました。

その意味で、先ほど取り上げたパンディアンさんがヘルダーやニーチェの名前を出しているというのは意義深いと思います。ヘルダーについて言えば、他者や他種への共感性の伝統を、18世紀ドイツの哲学者にまで遡っている点に、デカルト的二元論と大きく括ってしまう問題点を避けるヒントがあります。ニーチェについては、「思考するということ、理解するということは、必ず情動的で、根本的に感覚的かつ身体的、そして経験的なもの」と語られていました。それと合わせて、心身二元論を内破するようなアイデアが、西洋思想の中にも存在していることを示していると思います。

奥野:
タイのフィールドで、種を超えて米が食べられている現象を、食糧の分かち合いとして、共異体の枠組みで見ることもできるのではないかという大石さんの見方は、研究展望として発展性がありそうですね。

中江さんからは、石倉さんのアイデアをマルチスピーシーズ贈与論に発展させていくことへの期待が語られるとともに、西洋の思想を一枚岩的に捉えることを疑問視するコメントがありました。

結城正美:文学作品に書かれた場所のテクストを読む

大石:
結城さんのインタビューを読んで思ったのは、エコクリティシズムと人類学で類似している部分が多いということです。とくに従来論じられていたことを新たに捉えなおして、議論を活性化していくという部分については、人間のみを主体として論じられてきた概念を再考し、議論をより深めようとしているマルチスピーシーズ民族誌の取り組みと重なっています。

また「エコクリティシズムとは何か」と「エコクリティシズムは何をするのか」という2つのことが問われていましたが、先ほど奥野さんもおっしゃっていたように、これは人類学にも共通する問いです。つまり、「人類学とは何か」と「人類学は何をするのか」ということです。

「人類学は何をするのか」については、開発人類学や公共人類学でも問われてきました。そこでは、開発事業などへの人類学的な手法や知識の応用、また現地の人々への応答に関して、実践や議論の蓄積がおこなわれています。それに加え、人間以上の存在を取り扱う人類学においては、ファインさんやコーンさんのように積極的に創造的な実践をする人類学者も多くいます。

こうした人類学の取り組みを踏まえつつ、「何をするのか」という部分においてマルチシピーシーズ人類学やエコクリティシズムは、人間以上の存在との関係に巻き込まれながら、分野横断的に取り組んでいくことができるのではないかと思います。とくに結城さんが述べられていた「学術的に書こうとすると漏れてしまう思索の部分」を取り込み、ファインさんの言う「不可量部分」の表現を試みながら、アクチュアルな問題に働きかける実践を、共同しておこなっていくことができると考えています。

中江:
結城さんの議論で興味深かったのは、文学研究がテクスト解釈から外に出て、フィールドワークをも包み込むものに変化している点でした。客観的で実証的、あるいはテクスト中心主義に陥るのではなく、文学研究・批評は、ナラティブ・スカラシップを含めて、書き手自身の新たな感性やヴィジョンを創造し、言語化していくことへと変わりつつあるのかもしれないと、改めて思いました。

その意味で文学研究もネイチャーライティングと親和的になり、また人類学の民族誌的アプローチと近いものになっているのかもしれません。結城さんがインタビューの中で自身の生い立ちや、なぜエコクリティシズムを研究しようと志したかについて語っていること自体にも、実践的な意味があったのではないでしょうか。

私の研究分野に引きつけて言うと、フランス文学の領域においては、マリエル・マセという本格的な文学研究者だった人が、コーンやインゴルドらに触発されて、詩をマルチスピーシーズの観点から読み直すだけでなく、幾分かナラティブ・スカラシップを意識しているように見えるエッセイの中で、環境問題と文学の双方を自由に横断しながら、人間と他種の関係を新たに結び直すことを模索しています。

マセの“Nos cabanes”※14と題された著作では、われわれ(nous)、結ぶ(nouer)、結び目(noeud)といったフランス語では「ヌ」という音を含む語を中心とした、一種の言葉遊び的自由連想に基づいて思考が展開されています。具体的には、われわれ(nous)を構成する主体を人間だけでなく、他種へも広げていったときに、その主体をどのように結び(nouer)、またほどいて(dénouer)いくのかということを考えています。

しかしながら、環境人文学と呼ばれる領域において、文学研究の立場から何ができるのかということは、さらに考えていく必要があると思います。今私が考えているのは、次の2つの方向性です。

ひとつは、新たな時代の新たな感性を表現する言語を見つけ出すこと。これはネイチャーライティングやナラティヴ・スカラシップなど、ノンフィクションのジャンルによって実践可能な領域だと思います。もうひとつはフィクションでしかおこなえないこと、あるいはフィクションと現実の関係をさらに考えていくことです。

私が研究している無人島小説(ロビンソン物語)を切り口に話してみます。無人島小説というのは、作家が作品の舞台を訪れたことがないという意味で、極めてフィクション性が高いジャンルです。しかし、その中では、いかにして人間と自然、あるいは動植物が関わっていくのかが大きな主題となっています。

とりわけ、ミシェル・トゥルニエという人は、『フライデーあるいは太平洋の冥界※15』において、動物であったり植物を模倣することで、人間を超えた存在に生成していくロビンソン物語を書いていました。近く公開される拙論文※16では、とくに植物とロビンソンの関係に焦点を当てて、植物的ロビンソンとも言えそうな特異な人間像について書いています。

他にも例えば、近藤祉秋さんが『たぐい vol.3』で分析されていた多和田葉子の『雪の練習生※17』も、ホッキョクグマを主人公にしていますが、トゥルニエの小説同様にフィクションでしか作り出せないマルチスピーシーズ論だと思いました※18。人間と動物や環境の関係を新たに考え直す契機になるという意味で、フィクションの力をもうすこし考える必要があるのではないかと思います。

インタビューに引きつけて言うと、パンディアンさんがデビット・シュルマンの“More than Real※19”を参照しながら、16世紀の南インドの文学作品では、想像が単に作り話ではなくて、現世的で極めて生成的な力として捉えられていたという指摘が参考になりそうです。フィクションは単なる虚構ではなく、現実へと働きかけていく力を持っているのだと思います。

もうひとつ、気になったのは「人新世」という用語に関してでした。これは「More-Than-Human」シリーズの魅力でもあるのですが、話し手の思考が必ずしも共有されているわけではなく、それぞれの立場に差異があって、それが明瞭になるのが人新世という用語だと思います。9つのインタビューの中で、結城さん、コーンさん、パンディアンさんの3人が人新世という言葉を使っていますが、それぞれこの言葉に対する距離感が違いました。

人新世という言葉が頻繁に出てくる背景には、コーンさんが存在論的な分析が倫理的な問いへと移り変わってると言われていたように、現代社会の問題に対して、人類学や文学研究がいかにして関わっていくのか意識していることがあると思います。

結城さんは人新世と呼ばれる、人間の影響力が地質学的にも現れるとされる時代において、マルチスピーシーズやエコクリティシズムの領域で何ができるのかということを問うています。人新世の枠組みから自身の研究の立ち位置を見据えているコーンさんと結城さんに対して、パンディアンさんは人新世という用語そのものに懐疑的でした。この概念が「あまりにも一般的で、物事を丸く収めようとしすぎている」という懸念が表明されていたのです。

パンディアンさんが人新世というときに考えているのは、古い言い方かもしれませんが、大文字の歴史=物語(l’Histoire)というものと、複数の小文字の歴史=物語(des histoires)の対立のことかもしれません。世界中の人間と歴史を単一化してしまう人新世という言葉の背後に隠れてしまう複数の歴史=物語を紡いでいくことは、欠かせない作業だと思います。人新世というもっともらしい概念に寄り添わずに考える可能性も探るべきではないでしょうか。

議論を戻すと、ブランシェットさんのインタビューの中で、すでに人新世というフレームからこぼれ落ちる問題が出てきていました。アメリカという最も資本主義の発展した国においても、産業間の分断があるという話です。工業型畜産を調査すると、未だに畜産業では垂直的な統合が求められ、現代的でなく近代的な工業化が進められていたのです。アメリカの中にも複数の歴史=物語があるという見方は、人新世という概念によって隠されてしまうリアリティーがあることを示唆しているように感じました。

すでに長くなってしまいましたが、大石さんが言及されていた不可量部分についても、すこし話を続けます。英語圏の人類学研究を紹介することで日本の研究との差異を問うことも、このシリーズの目的のひとつだと近藤さんから話がありました。私はフランス文学を専門にしているので、フランスの人類学と文学の関係ということから不可量部分についてコメントしたいと思います。

ヴァンサン・ドゥベーヌという文学研究者が「第二の本(deuxième livre)」という概念を提示しつつ、フランスの人類学者たちが専門の民族誌とは異なる、文学的な著作を著していたことを詳細に分析しています※20。人類学を研究分野として確立させようとした1920~30年代において、アマチュア旅行家や植民者、あるいは宣教師たちの、訓練を受けていない非専門的な記述を退け、同時に文学からも厳密な距離を取ることが求められました。つまり、直接の観察に基づく客観性が要求されて、文学のような主観的描写は棄却されたと指摘しています。

ただ、その後に研究対象となる民族がどのように考え、感じるのかという心性(mentalité)がモースらによって問われるようになると、その状況が変わってきたと言います。調査対象の社会や人々の考えであったり、雰囲気(atomosphère)を読者に伝えるべく、客観的な研究者は同時によき文学者であることが要求され、レヴィ=ストロース、ミシェル・レリス、マルセル・グリオール、アルフレッド・メトローといった人たちが「第二の本」を書くようになったと指摘しています。

客観的な民族誌では記述できない、フィールドワークによって感じた現地の雰囲気や人々がどのように考えているのかといった不可量部分を、いかにして伝えるかという点に関して、フランスでは「第二の本」というジャンルが伝統としてあり、この傾向は、ピエール・クラストルやフィリップ・デスコラを経て現代まで続いている気がします。

奥野:
なるほど。フランスでは、実生活の不可量部分をどのように文字の中に書き込んでいくのかについて、関心を抱き続けてきた伝統があったということですね。

中江:
そうです。例えば、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造※21』のような学術的な書物だけでなく、『悲しき熱帯※22』を書いたり、レリスも『幻のアフリカ※23』を書いたりしました。不可量部分をいかに記述するかというテーマが、このインタビュー集では一貫して問題になっていたと感じたので、すこし補足しました。

奥野:
派生的にさまざまな論点が出されました。これは裏側から見れば、人間が取り巻かれている環境や動物、人間以上の諸存在を取り上げるジャンルとして、人類学のフィールドワークと民族誌や現実的な諸課題、文学批評におけるテクストと、結城さんが取り組まれているようなナラティブ・スカラシップやアクチュアルな問題とが、方向性を共有しながらつながっていて、交差する部分が多々あるということかもしれませんね。

清水高志:主客の相依性が重層化して環界が現成する

大石:
清水さんのインタビューは、人類学やフェミニズム研究におけるアイデンティティや主体の議論をイメージしながら読みました。

アイデンティティの議論を大雑把にたどると、従来のアイデンティティは、日本語で「自己同一性」と訳されるように、その人の本質として固定的で単一的なものとして静的に理解されてきました。それが現在では解体されて、そもそも本質的で固定的なアイデンティティなど存在せず、さまざまな文脈や実践の中で立ち現れるものとして動的に捉えられるようになったと理解しています。例えば、ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』やバトラーの『ジェンダー・トラブル※24』では「分裂」という言葉が使われていたりします。

また、ハラウェイはその後の著書『犬と人が出会うとき』で、人間と動物との関係性に注目しつつ、関係性の中で、相手との関係性自体も内包しながら生成される主体のありようを示しています。ここでは主体と客体が相互構成的で、生成し続けるという視座が提示されており、インタビューの議論とも接続性があるのではないかと思います。

人類学やフェミニズム研究でこうした議論が出てきたのは1980年代頃からだと思うのですが、それと重なる議論が古くからの仏教哲学の中にあったということには驚きました。英語圏やフィールドにおける思想だけではなく、身近な宗教やアニミズム的な思想から思考する重要性を感じました。

中江:
清水さんの議論は、そのインタビューで完結している印象があり、どう広げていいのかわからないですが、《a》か《非a》のどちらかを取るというような排中律のアポリアを避け、その中間をいかにして考え記述するのかという着眼点に魅力を感じました。

インタビュアーの師さんも指摘していましたが、もうひとつおもしろいのは仏教の文脈で直感的に捉えられきたナーガールジュナや道元の思想を、ロジックを使って説明しようとするところです。これは東洋哲学の西洋哲学化ではないかと思えました。つまり、西洋哲学を東洋哲学によって乗り越えるだけではなく、清水さんの思考自体が東洋哲学の相互包摂になっている印象を受けました。

清水さんは相互包摂という言葉をよく用いますが、ここでは環界というものがいかに生成してくるのかというところで相互包摂を持ち出しています。主客の主体と客体が独立してあるのではなく、「相依」的に —— つまり互いに依存し合ってるということだと推測しますが —— 関係しあうことで、折りたたまれるようにして世界が出現してくる。そのようなダイナミックなヴィジョンにとても感銘を受けました。

奥野:
ありがとうございます。いずれもいいまとめだったと思います。

マルチスピーシーズ民族誌や環境人文学が、具体的な現実やテクストやアクチュアルな問題に向き合う中で、記述考察と実践を深めていくのに対して、哲学や仏教思想は、それらの土台に横たわる論理の問題を深く探究します。哲学と仏教がマルチスピーシーズ民族誌や環境人文学を補強する役割を担っているとも見えます。こう言うと、すこし道具主義的過ぎるかもしれませんが。

たしかなのは、哲学者の清水さんと仏教学者の師さんが、お互いの専門の交差を通じて深められる西洋と東洋の哲学的思索は、環境人文学を進める上で、他の生物やモノそのもの、人間がそれらとともに生きてきたことの意味や問題を根底から考えるために、欠かせないものだということでしょう。

記号から他者の身体性へと向かう環境人文学

近藤祉秋:
大石さんがお話しされていた、エコクリティシズムとマルチスピーシーズ人類学の目指している地平が似ているという点から応答していきます。エコクリティシズムの研究者との対話をおこなう研究会やシンポジウムに参加させていただく度に、よく似た感想を抱いてきました。重要なのは、第1部で述べた、人類学は記号としての動物から他者としての動物へと論じられる対象が移ったことなのですが、エコクリティシズムでも鍵概念となる「交感(correspondence)」の意味が変わってきています。

野田研一さんによれば、エコクリティシズムでは、ロマン主義的な「交感」からポストロマン主義的な「交感」へと転回が生じてきたそうです。ロマン主義的な「交感」では、自然界は人間の側に吸収されてしまうものとして考えられていたのに対して、ポストロマン主義的な「交感」では人間性によって必ずしも回収されないような、他者としての動物や自然を考えるようになったとされます※25

この変化は、人類学が人間社会内の記号としての動物から、ままならぬ他者としての動物の身体性に議論を向けるようになったことと非常に似ている気がします。これは、今後もエコクリティシズムの研究者の方々と話してみたいポイントのひとつです。

中江さんからは、デカルト主義批判を安易にやっていいのかという指摘がありました。最近この話に関連して、英語圏の研究者自身が二元論の乗り越えを目指すようになってきていることも、興味深いと考えています。その動きの中で、西洋以外の言語での思考の可能性について、これまで以上により真剣に取り組んでいるように感じています。

存在論的転回以降の人類学とも関わりが深いアネマリー・モルやアクターネットワーク理論を応用した分析で有名なジョン・ローが “On Other Terms”という論集をまとめました※26。これは、英語以外の言語の概念を取り上げて、それを基盤とした社会科学の可能性を考えるという趣旨で編まれています。英語圏で活躍してる人類学者自身も、そうした方向で考え始めているわけです。

ヴァンサン・ドゥベーヌのフランス人類学における「第二の本」の話とも関連しますが、まだまだ日本にいる私たちが知らなかったような、それぞれの言語での人類学とか、人類学以外の分野での動向があり、そうした領域との対話をどう進めていくかが、最近はおもしろいと考えています。企画の振り出しに戻るようですが、さまざまな言語や分野の壁を超えて学び続けたいと、改めて思わされました。

奥野:
さて、座談会の第1部から第3部まで、「More-Than-Human」シリーズの9つのインタビュー記事に関して、いくつもの大切な論点が出されたのではないでしょうか。この座談会は、とくに結論を出すことなく、オープンエンデッドのまま終わります。この先は、それぞれがマルチスピーシーズ民族誌や環境人文学に関わる中で、考えていくことができればと思っています。

また、この記事を読んでいただいた方々に、「More-Than-Human」シリーズで紹介した領域で、今何がなされようとしているのか、そのイメージと情報が提供できていれば幸いです。


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連載記事「More-Than-Human座談会」