人間と動物、一から多への視点

More-Than-Human座談会 #01

奥野 克巳 / Katsumi Okuno

近藤 祉秋 / Shiaki Kondo

2021.03.08

奥野克巳:
この「More-Than-Human」シリーズ※1では、「マルチスピーシーズ民族誌」と「環境人文学」とその関連領域で、この10年ほどの間に国内外で顕著な研究活動をされてきた9人の研究者に対し、日本国内の研究者がインタビューをおこなってきました。その内容が、2020年7月から2021年1月にかけてÉKRITSで日英両語の記事として公開されています。

この座談会では、監修者の私と近藤祉秋さんが全体を整理しながら、広島大学大学院博士課程後期文化人類学専攻の大石友子さん※2と東京大学大学院博士後期課程フランス文學専攻の中江太一さん※3を招いて、これらの記事を読んだ感想や解釈を述べてもらい、理解を深めていきたいと思います。

本日は、3つのテーマによってインタビュー記事を3つずつに分けて、話を進めていきたいと思います。



マルチスピーシーズ民族誌と環境人文学の整理

奥野:
ここ数百年の間、人類は、人間にとって住みやすい場所を作ったり、快適な暮らしを送ったりすることを追い求めてきました。そのことは表面的にはうまくいっているようにも見えますが、実際はその恩恵を十分に享受できる人とできない人の間に格差があります。

また人類は、人間が住んでいるこのかけがえのない地球をズタボロにしてしまっただけではなく、そのことが新型コロナウイルスのような感染症をもたらすという、人間自身へのしっぺ返しとも思える事態に直面しています。そんな中、人間本位の振る舞いをこのまま続けていいのだろうかと反省し、とことん考え抜こうとする人たちが現れてきました。

人間だけが地球上に暮らしているわけではなく、他の生き物「とともに」生きてきたことに思い至り、地球や環境のことを考え直そうとする新しい思想は、研究者にとって馴染みの薄い土地でおこなう長期のフィールドワークと民族誌という、これまで文化人類学が培ってきた学問の強みと合流しました。そして、「複数種の民族誌」つまり「マルチスピーシーズ民族誌」というジャンルとして、21世紀以降に生み落とされたのです。

さらに同時期に、地球規模の環境変化に対する強い危機感と、それにともなう人間観の変化を背景に、人間の世界のみを研究対象としてきた旧来の人文学のあり方を自己批判的に問い、環境哲学、環境史、エコクリティシズム、環境をめぐる人類学などを横断的に結わえた「環境人文学」と呼ばれる学際的な領域が立ち上がってきました※4

エコクリティシズム研究者ウルズラ・ハイザは、環境人文学を総説する論文の中で、複数種によって構成されるコミュニティとして人間社会を捉え直そうとしているマルチスピーシーズ民族誌を、人間中心主義へ対抗する際の参考になると評価しています※5

まずは、マルチスピーシーズ民族誌と環境人文学について簡単に整理してみました。

工業化される家畜、動物から見た人間

奥野:
さて、この「More-Than-Human」シリーズの中で、マルチスピーシーズ民族誌が何であるのかに言及しているのは、ただひとりゴヴィンドラジャンさんだけです※6。彼女はヘルムライヒとカークセイを引用しながら、マルチスピーシーズ民族誌には、人間以外の動物や物質の持つ特有の歴史や伝記を表現したものをたどることへの関心があり、それは、より広い学問分野との対話の模索の中で、人間と人間以外の関係性がどのように形成されているのかを考察し、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、医療や資本をめぐる言説や実践までも視野に入れる研究を生み出してきていると述べています。

また、人間を含むさまざまな存在の異なる作用や働きによって、社会がどのように構成されるのか探究するジャンルであるとも述べています。おそらく彼女が述べている定義に当てはまるマルチスピーシーズ民族誌は、この「More-Than-Human」シリーズだとブランシェットさんのものになると思います。

ゴヴィンドラジャンさんが取り上げたのは、インドの中部ヒマラヤのクマオンの人たちと5種の動物との「状況化された関係性」です。人と動物との関係性が、中央と辺地、ヒンドゥー・ナショナリズムと動物愛護運動、女性と家父長制、近代と伝統といったさまざまな二項との関わりの中で、人間に多様で複雑な行動を引き起こし、それが動物に影響を与え、さらに人間の行動や思考を方向づけるという絡まり合いを描き出しました。

例えば、都市のよそ者が山村に持ち込んだサルと在来のサルに対して、クマオンの人々の取る特有の振る舞いがどのように描かれているのかを見てみましょう。動物愛護団体は、農家を襲うサルを銃撃することに反対しています。他方、サルは神の使いであるため殺してはいけないと主張するヒンドゥー・ナショナリストもいます。そうした諸派の理念に森林警備隊は、現実的にどう対処していいのか途方に暮れるのだと言います。そんな中、果樹園を荒らしたサルを毒殺してしまったことに罪悪感を抱いて、サルにエサを与えている人がいたことを、ゴヴィンドラジャンさんは振り返っていました。倫理的・宗教的な問題と経済的な生活の間で引き裂かれた人たちの苦悩を描いています。

もうひとつエピソードを取り上げます。豚を飼育するダリット・カーストの人たちは、豚は野生化してイノシシになったと言います。ダリットのある男性は、イノシシのことを「家畜-野生動物」と呼びます。そうした言説の背景にあるのは、野生のイノシシを脱走した豚の子孫とすることで、豚肉の消費を不浄だと見て蔑視する支配カーストを暴力的な偽善者だと規定する対抗的な考えです。ゴヴィンドラジャンさんの研究は、状況に応じて生まれる種間の関係性に焦点をあてることで、マルチスピーシーズ民族誌の光源から、人間社会に横たわるさまざまな問題を照らし出していました。

豚に関して、ブランシェットさんは、1950年代以降に工業化され、今日極度に工業化された養豚飼育される豚と人間の関係を取り上げています※7。1920年代から50年代が工業化の最盛期だったのですが、現在、豚が工場での工業的労働により、ますます工業化されているというのは驚きました。

種付け用の雌豚の飼育、繁殖畜舎、飼育畜舎、食肉処理場、後処理施設を一企業の傘下に収める垂直統合が進められ、家畜の生から死までが高度な管理下に置かれ、販売される豚肉の品質の均質化が目指されます。すべての豚の体重を生後半年できっかり280ポンドにするために、人間の労働が集約的に注ぎ込まれるのですが、そのことのためにかえって、これまで以上により多くの人間の労働力が必要とされるのです。また、そのプロセスの管理とエンジニアリングのために、人間の組織形態も作り直されつつあると言います。

そんな中、豚は工場内で単調な生活を強いられています。人間が雌豚に触れると動揺させてしまい流産させる可能性があると言います。そうした豚の知覚に関する専門知識は、季節労働者から季節労働者に伝えられるのですが、他方で上級管理職は確率や統計モデル化に専門的に従事するため、仕事内容は職種によって全く異なっている。現代の豚肉生産は、人間中心でも豚肉中心でもなく、収益を高めていくことが中心に置かれた資本中心だと言います。彼は、生き物に関わることの価値を今一度考え直してみることによって、生産性や効率性を軸に置く今日の工業化された養豚業が脱工業化されることが目指されるべきだと唱えていました。

続いて、サルに焦点をあてた調査研究に関するインタビューに答えてくれたのが、ナイトさんです※8。ナイトさんはマルチスピーシーズ民族誌ではないのかもしれませんが、これまで一貫して人間と自然の関係を調査研究の対象としてきました。ナイトさんは、初期の民族誌『狼を待ちながら(Waiting for Wolves)※9』(未邦訳)で、和歌山の山村を取り上げました。日本の山村の過疎問題とは量的・質的な問題であり、人間の活動の減少が、環境の不活性化に結びついていて、“encroachment”つまり野生動物の里への「侵略」が引き起こされたのだと見ています。

過疎の村ではサルが人間に対して恐怖心を抱かなくなり、大胆に振る舞うようになります。逆に人間がサルを追い払うようになり、サルにふたたび恐怖心が芽生えることもあります。そうした観察を経て、ナイトさんの関心はその後、サルや動物が人間に対して感じる「魅力」へと移ります。日本のモンキーパークは、サルが人間に対して恐怖心を抱かなくなることで成立しているという事実の再発見は、とても興味深いものでした。

ナイトさんのアイデアは、こういった経験主義的な人類学の手法を通じて、人間の視点から「人間-サル関係」を見るのではなく、サルの視点から「サル-人間関係」を見るというユニークなものに発展してきたように思います。サルが人間からエサをもらうというのは、サルが人間に対して恐怖心や警戒心を感じなくなっているということです。

ただ、サルは人との間で一対一でエサを受け取るのではなく、大抵の場合、サル同士での競合があるので、一対多の関係があるのだと言います。こういうふうに見てくると、動物への人間のエサやりというのは、とても興味深いテーマをはらんでいるものに見えてきます。ナイトさんは、エサやりは日本では娯楽的な要素を含んでいると見ていて、今後モンキーパーク以外の日常的な場所での種を超えたエサやりに関する調査研究を企画していると言います。

ここまでが、第1部で取り上げる3人のインタビュー内容の概要でした。

ラディカ・ゴヴィンドラジャン:種間関係の複雑なプリズムを通して映し出される人間世界

大石友子:
三人とも、調査を始めた時点においては、マルチスピーシーズ民族誌的な関心や問題を抱いていたわけではなかったことに言及していましたね。しかし、それぞれの目的を持ってフィールドワークを進めていく中で、マルチスピーシーズ民族誌的な研究への移行があったということが共通していました。

このような過程の背景をすこし考えてみると、まずひとつ目には、文化人類学が人間以上の領域に踏み込み、自然と人間が交錯しながら生み出す世界をめぐる学問として再編されつつあるということがあると思います。

もうひとつは、ラトゥール※10やハラウェイ※11が言うように、私たちは人間以上のものたちと切っても切り離せないような現実の関係性の中で生きていることがあると思います。フィールドワークにおいては、人類学者も、現地の人々が多様な形で築いている人間以上のものたちとの関係性に巻き込まれざるをえないことが深く関わっているのではないでしょうか。

奥野:
自然と人間が交錯しながら生み出す世界をめぐる学問として、おそらく文化人類学がまるごと再編されているわけではなく、その一部が再編されつつあるのだと思います。

ラディカ・ゴヴィンドラジャンさんのインタビューに関して、何か気になった点はありましたか。

大石:
ゴヴィンドラジャンさんは、奥野さんからご説明いただいたように、ヤギ、ウシ、サル、ブタ、クマという5種類の動物に注目しており、人間と動物の状況化された関係性からさまざまなテーマについて記述していくというアプローチが大変興味深いと思いました。

人間と動物の関係と言うと、人間とある特定の種類の動物を取り上げ、一対一の種間関係に注目をした研究が多いような印象があります。私も研究を始めた当初は、マルチスピーシーズ民族誌として多様な種を取り扱うというより、調査対象であるタイ東北部スリン県の象を扱う技術に長けた人々として知られるクアイの人々と象の一対一の種間関係に注目していました。

しかし、人間を多様な種との関係性の中で生成される存在、つまり単一で独立した存在であるhuman-beings(人間-存在)ではなくhuman-becommings(人間-生成)であると考えると、多様な状況に置かれた動物との関係性が、いかに私たちの存在のみならず、社会であったり、社会関係を構築しているのかを描き出すことが重要になります。ゴヴィンドラジャンさんの取っているアプローチはそれを可能にしてくれるものだと思います。

私も最近では、クアイの人々と象の関係を中心としながらも、家畜である鶏、豚、牛、そして、犬、森、精霊といったものを含めて研究を進めており、長期の調査に入ろうとしている段階なので、非常に参考になりました。

中江太一:
大石さんが話されたこととも重なるのですが、ヤギ、ウシ、サル、ブタ、クマの5種類の動物と人間の関係を問うことで、単線的な物語に落とし込んでしまうのではなく、人間と複数の動物の間で織りなされる複雑な現実を、複数のプリズムを通して多元的なまま提示しようとする姿勢に感心しました。この点では、ゴヴィンドラジャンさんが本質主義的だというフェミニズムの考えを否定しながら、状況化された関係性において人間と動物の関わりを捉えようとすることと、密接な関連があるのかなと思います。

5種類の動物の中でもっとも興味を惹かれたのは、ヒンドゥー教において神聖視されているウシをめぐる議論でした。在来のウシと外来のジャージー牛に対するインドの人々の反応というのは、マルチスピーシーズ的なアプローチに共感しない人々にも訴えかけるような説得力があるのではないでしょうか。

つまり、社会問題を扱う上で通常は前景化されない動物を研究の中心に据えることによって、経済と政治の難題、すなわち酪農の生産性向上に貢献する外来種のジャージー牛を重んじる経済的観点と土着のウシを神聖視するヒンドゥー・ナショナリズムとの軋轢がくっきりと見えてくるからです。経済的効率性と排外主義の対立は、インドのみならず世界中の普遍的な問題ですが、インドの一地域社会の、それも動物という細部に焦点を与えることで、普遍的な問いというものが見えてきます。フィールドワークと民族誌のダイナミズムが感じられました。

ゴヴィンドラジャンさんの議論でもうひとつ関心を持ったのは、クマとの性行為を想像する女性の逸話でした。異類婚姻譚で見られるような想像力が、今もなお現実的な力を持っているということに驚きを覚えたからです。どの動物の話も興味深く、近く翻訳が出版されるとのことで、今から楽しみにしています。

奥野:
前半部分は、種を越えた人間と動物の間で、状況に応じて生み出される関係性を見ていくことによって、われわれが人間の世界のことだけから接近していたこれまでの人類学的なテーマを、また別の角度から照射することになるという意味合いですね。

中江:
はい。排外主義については、通例カースト制とか移民の観点から語られるのではないかと思いますが、人間と動物の関係から考えることで新たな視野が開けてくるということです。

奥野:
それはゴヴィンドラジャンさんのマルチスピーシーズ民族誌の顕著な特徴ですね。私も翻訳出版が楽しみです。

アレックス・ブランシェット:労働者の振る舞い、豚の感受性、人類学者の経験が交錯する養豚工場

大石:
ブランシェットさんは、極度に工業化された生き物としての豚と資本主義的な人間の労働の搾取に注目をしながら、養豚の垂直統合がおこなわれている企業でのフィールドワークをおこなっています。インタビューでは、ブランシェットさんが実際に繁殖畜舎で仕事をしている際に、彼なりの動物に対する振る舞いとして犬や猫にするような手つきで牝豚を撫でたところ、同僚から大声で「豚に触らないで!」と言われたというエピソードが印象に残りました。

この出来事から、ブランシェットさんは、工場内での豚の単調な生活は、振る舞いも含む労働者の多大な労働に裏打ちされていることに気付きます。一方、労働者は自らの振る舞いが豚に対して何らかのサインとなってしまう可能性に注意を払っており、豚の感受性が労働者の振る舞いを生成していると言います。つまり、そこには豚と労働者の相互生成の過程が存在していると考えられます。振る舞いと感受性に基づいた人間と豚の関係性が、床ずれ、流産、肉の質といったような形で、豚の身体に現れている点も大変興味深かったです。

このエピソードでは、労働者の振る舞い、豚の感受性、そしてブランシェットさんの経験が交錯しています。豚と必要以上の関係性を構築してしまわないよう、労働者は制御した振る舞いを余儀なくされていました。その中で、振る舞いを通じたサインの送受信によって親密な関係性を築いてしまう可能性のある相手として、豚の主体性が逆説的に現れているようにも思います。

このような均質な肉を生産するための養豚において、労働者と豚が共有する空間は、人間と動物が切り離されて管理された空間というよりも、ハラウェイが『犬と人が出会うとき』で論じているようなコンタクト・ゾーン(接触領域)としての性質を持っているのではないかと感じました。出会いによって、すべての主体、ここでは労働者や豚が、それまでには存在しなかったような新たな主体として変容してしまうような可能性が常にあるのです。

しかし、養豚においては均質な肉の生産という目的があるので、その出会いや変容によって生じる豚の産仔数や肉の質が変動する可能性を排除する必要があります。そのため、あえて出会わないことを積極的に生み出す実践がおこなわれていると考えられそうです。

中江:
ブランシェットさんの話は、動物の搾取という観点から語られることが多い畜産業について、そのような問題にも十分な配慮をしつつ、動物を畜産業の被害者とみなすありがちな物語に回収しない姿勢を感じました。

とくに気になったのは、通常非熟練労働としてみなされる家畜産業肉体労働を、動物に関する暗黙知の次元で捉えて、労働者の動物への関わり合いをつぶさに見ていこうとするところです。例えば、何十万頭の豚の出産に立ち会ってようやく身に付くような子豚の扱いであったり、出産を控えた雌豚への振る舞いなど、畜産業に携わる労働者には動物に関する深い知識が求められていると言います。畜産業の労働の中に動物との濃密な関係性を見ていこうとするところに迫力を感じました。

もうひとつ、すこし論点がずれるかもしれませんが、アメリカの畜産業において可能な限り効率よく食肉を提供すべく徹底的に管理下に置かれた豚は、たしかに被害者でもあるかもしれませんが、同時にある種の主体として現れるという点にも興味を惹かれました。ブランシェットさんのインタビューでは、それほど前面に出ているわけではないんですが、動物や植物を支配的な力を持った人間に搾取される客体として捉えるだけではなくて、動物や植物の視点に立ったときに見えてくる主体性に着目するのは、今ホットな話題かと思います。

例えば、進化論的な視点によって見えてくる植物の知性であったり、家畜の進化の問題です。『植物は未来を知っている』によれば、人間がトウガラシの新種を生み出すことで、豊かな食生活のために利用しているように見えるのですが、トウガラシの視点に立ってみれば、カプサイシンという中毒性の物質を人間に摂取させることで、自らの遺伝子を原産のメキシコだけでなく、世界各地に伝播していく戦略として考えることができます※12。その意味でトウガラシが人間を利用しているという議論を思い出しました。

また『家畜化という進化※13』という本では、家畜化された動物の方にもメリットがあるからこそ、自ら人間に近づいていったのではないかという指摘があったと記憶しています。動植物や地球環境を一方的に被害者としてみなすことは、ある意味で新たな人間中心主義なのではないかなということを考えていました。

ジョン・ナイト:動物はどんな気持ちで人間に向き合うのか

大石:
ナイトさんのインタビューは、ブランシェットさんのインタビューと重なる部分を感じました。ブランシェットさんは、労働者の振る舞いが豚にとってサインとなってしまうという点で、人間と動物の間にコミュニケーションが生じる可能性が逆説的に示唆されていたと思いますが、ナイトさんは、私たち人間がコミュニケーション可能な動物に関心を抱いているので、相補的になっています。

ナイトさんは、人間とサルの実際の関わり合いを、ゴッフマンの人間同士の相互交渉に関する議論からインスピレーションを受けつつ明らかにしようとしている一方で、霊長類学の見方も取り入れることで、サルの視点からも理解しようとしています。そうすることで、人間の視点のみからサルとの関係性を描くことを避けようとしています。人間の視点や語り以外から人間と動物の関係性を考察したり、多様な種の交錯を描き出すのは、マルチスピーシーズ民族誌にとって重要なことではないでしょうか。

一方で、そのような理解や記述が可能であるのかについて、マルチスピーシーズ民族誌においても試行錯誤がおこなわれており、さまざまな可能性が提示されつつある段階にあると思います。そこでは、何を動物から見た視点であると考えるのかという問題とともに、いかに描き出すのかという大きな2つの問題があります。

その中でも、動物から見た視点と言ったときに、例えば、ヴィヴェイロス・デ・カストロ※14や、このあとに出てくるエドゥアルド・コーンさんが描き出しているような、アマゾン先住民のパースペクティヴィズムにおいては、人間も動物も自らを人間とみなし、他の種は人間でないものとみなすものの、異なる身体によりパースペクティヴの差異が生じるという存在論が提示されています。そこでの人間の視点や語りは、必ずしも人間から見た人間と動物の関係性ではなく、動物から見た視点も含み込んでいるのだと思います。

また、こうしたアマゾン先住民のパースペクティヴィズム以外にも、私が調査をおこなっている象と暮らすクアイの人々も似たような存在論を持っています。彼らはまず村と森を対置させています。この対置は、一見すると「自然と文化」や「自然と人間」といった二元論のようにも思えるのですが、彼らは村も森も多様な生き物からなる「社会」だと言うのです。そのため、私たちが人間による統御の有無に基づいて象を野生象と飼育象に区分するのに対して、彼らは野生象は森の中で精霊や他の動物との関係性の中で社会化された象であり、飼育象は村の中で人間や、犬、ときには車などの人工物も含めたものたちとの関係性の中で社会化されている象であると捉えています。

彼らによれば、象だけではなくすべての生き物がそれぞれの領域で「社会化」されているのですが、だからといって同じ見方をしたり、コミュニケーションが常に成立するのではないそうです。なぜなら、それぞれの身体が異なるために、視点の差異が生じるためです。

タイにおいてクアイの人々は象の扱いに長けている人々として知られており、実際に彼ら自身も象を家族と呼ぶような親密な関係を築いています。しかし、クアイの人々は、このような差異の存在を前提にしているため、象のことを完璧に理解するということは絶対に不可能だと言い切ります。だからこそ、クアイの人々は象の行動を常に解釈し続け、象が身体を用いて伝えようとしているさまざまな意図や感情を読み取る努力をしながら、象との相互交渉を成立させようとします。

こうしたクアイの人々の提示する世界のあり方から考えると、動物の視点から人間と動物の関係性を捉えることがとても困難なことであるように感じます。一方、そこで成立している実践、クアイの人々であれば象との相互交渉を、詳細に追っていくことの中に、動物の視点を部分的に理解したり、自らの視点に内包する可能性があるように思います。

ナイトさんの場合は、霊長類学が明らかにしているサルの振る舞いなどを参照しています。霊長類学の提示する見方をサルの視点として捉えることができるかということには、議論の余地があるかもしれません※15。しかし、霊長類学の提示する見方など、人間から見た関係のあり方だけを前提としていない視点に注目していくことが重要だと、私自身は考えています。つまり、ナイトさんのように、人間中心主義的ではない見方を提示している霊長類学者たちの見方を、動物の視点を理解するために取り入れていくということです。また、そうした人間以外の視点の記述方法については、人類学がエコクリティシズムなどの文学から学ぶことが多分にあると思っています。

奥野:
サルが人間に接する際に、サルが自らと人間の関係をどう捉えているのかをナイトさんが考えているのは興味深いですね。サルが人間を怖がったら、人間には近づくことができないはずです。

他方で、人間は自分に危害を加える者ではないし、危害を加えようとしても大したことがないと判断して、恐怖心を感じることがない場合には、サルは人間の傍にやって来ることになるわけです。そうしたことから、ナイトさんは、サルの人間観、人間に対してサルが抱く恐怖心や魅力について考えています。

人間がサルにエサを「贈与」すると、サルがそれを受け取るという「贈与交換」が成立している場合、サルは人間に対して恐怖心など持っていないことになるでしょう。逆に、サルがエサを受け取らなかったり、エサをチラつかせても近づいて来ようとしなければ、サルは人間に対して恐怖心や警戒心を抱いているということが読み取れます。そうしたことを視野に入れて進められているナイトさんの研究は、とてもユニークだと思います。

それに加えてもうひとつ、今の大石さんのお話の中で、野生象・飼育象ともに社会化されていると見ている話とともに、クアイの人たちが、象のことは絶対に理解できないところから出発しているからこそ、解釈を積み重ねているという話も、非常におもしろかったです。

大石さんがパースペクティヴィズムを引いて話されていた点で、ひとつ思い出したことがあります。最近ある動物行動学者から、私の論文で、ヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティズムと、狩猟民が動物のパースペクティヴを読み取った肯定的な論評に対する姿勢を批判されたことがありました。批判のポイントは、動物のパースペクティヴが分かるなどとは信じられないというものです。それは人間の側から動物が世界をどう見ているのかを一方的に読み取ってしまっている人間中心主義だという批判でした。

私は、パースペクティヴィズムだけでなく、ナイトさんの見方なども含めて、動物の視点をめぐる人類学の議論は、自分の飼っている犬や猫がどう感じているかを想像するのと同じではないかと思います。これは常識的な見方に基づいていて、動物の考えていることがなぜ簡単に分かってしまうのかと疑問視する動物行動学者とは、異なる層位にあるのではないかと思うのです。

パースペクティヴィズムは、基本的に「不可知論」ではなくて、動物の視点を知ることができるというところから出発しています。とくにエドゥアルド・コーンさんは、そうした傾向が強いです。

コーンさんの著作『森は考える』では、「案山子(かかし)」についての議論がなされています※16。エクアドル東部のルナの人々は、害獣であるメキシコメジロインコを遠ざけるために、案山子を毎年トウモロコシ畑に立てます。ルナの人たちは、案山子に猛禽類の顔を描くのですが、人間には全然猛禽類に見えません。しかし、メキシコメジロインコには、どうやらそれが猛禽類に見えるようなのです。つまりメキシコメジロインコは、案山子を捕食者である猛禽類だと見て、トウモロコシ畑に近づいてこないのです。

ルナは、インコにはその案山子が天敵に見えることを知っていて、案山子を毎年作っていることになります。有名なネーゲルの『コウモリであることはいかなることか※17』をめぐる議論に接続して言えば、コウモリであることがいかなることかを、人間は知ることができるということになります。

これは清水高志さんが、『実在への殺到』の第1章の「ヴィヴェイロス論」で指摘されていることにも通じます※18。パースペクティヴィズムでは、他の生物種の視点を人間が理解します。例えば、アメリカの先住民は、ジャガーが血をマニオク酒として見ると言います。この見方は、人間だけが特権的な場所に立って、自然=動物を外部化することを回避していると捉えられます。そのことで、パースペクティヴィズムは、人間中心主義に陥ることから逃れていると言うことができるわけです。

さきほどの動物行動学者からの批判では、パースペクティヴィズムは人間中心主義でしたが、他方で、パースペクティヴィズムは人間中心主義を回避しているとも言えるのです。

中江:
今話題に出たパースペクティヴィズムと自然科学者の応答という点に関して、私は対立的に捉える必要はなくて、むしろ相補的に考えるべきではないかと思います。不可知論的に考えない人類学の前提については賛同しますが、それと同時に自然科学的な知見を活かすこと —— 例えばナイトさんのインタビューに触れるなら、霊長類学の知恵を借りサルの生態を知ること —— によって新たに見えてくるものもあると思うので、自然科学とも常に対話しながら研究していく姿勢は重要ではないでしょうか。

ナイトさんのインタビューでおもしろいと思ったのは、野生と人間社会の境界の流動性の話です。馴染みのある日本の里山の問題からアプローチしているので、すんなりと理解できました。この野生と人間の社会の境界の流動性については、ゴヴィンドラジャンさんが、サルとイノシシをめぐる話でも言っていた「状況化された関係性」、「家畜-野生動物」という話とも連関していると思います。

もうすこし具体的にいえば、英語に野生動物の農村部を意味する“encroachment”という単語があるということに驚きました。野生動物の侵入をもたらす過疎の問題が里山の荒廃と密接にかかわっていることは常識的に分かりますが、それを人口の減少という量的な問題ではなくて、人間の活動の減少という質的な意味で捉えべきだという指摘に目を開かされました。活動というのは、農作業や森林の管理であったり、森や村の間での移動のことですが、野生動物の侵入を招く農村の過疎化は里山環境の不活性化を意味しているのは、とても興味深いです。

奥野:
重要な論点を出していただいたと思います。まず中江さんによる冒頭の指摘は、その通りですね。自然科学者と人類学者の見方が違うという点に関しては、対話して考えていくことが大事だと思います。ナイトさんが取り入れようとしているように、霊長類学がどのように見ているのかをもっと知りたいです。

もう一点、“encroachment”に関して、ナイトさんと同じようなことを言っている本を思い出しました。2020年に出た新書の『獣害列島※19』です。オオカミを絶滅させたり、絶滅しかけたトキをかろうじて救うなど、日本人はこれまで、あちこちで野生動物の住み処を奪ってきたとされます。しかし、近年全国で、野生動物が増えているらしいのです。それは、太平洋戦争後に日本の森が復元され、保護されることで、野生動物にとってよい餌場が生まれたことに関わっているようです。

ナイトさんの言っていることに近いのは、過疎化して、山村に人がいなくなって、年寄りばかりになってしまったために、野生動物が人間に対して恐怖心を感じなくなって、農作物を狙うようになったと、著者が見ていることです。獣害が増えているのは、そのためだと言うのです。山村の過疎問題とは量的・質的問題であって、人間活動の減少が環境の不活性化に結びついて、“encroachment”が引き起こされたというナイトさんの見方に重なります。

種が蠢き、感覚を拡張するマルチスピーシーズ研究

近藤祉秋:
最後に私からもすこしコメントしておきます。

大石さんは、通常の人類学では動物一種対人間みたいな形で、問題を設定しがちであったというところから、マルチスピーシーズ人類学を学び始めて以来、複数種の絡まりあいとして考えるようになったとおっしゃっていました。従来の人類学とマルチスピーシーズ民族誌の視点の違いに関して、またナイトさんはマルチスピーシーズ民族誌ではないのではないかという点も奥野さんから出てきましたけど、そのあたりについてコメントしたいと思います。

人間と動物の一対一で見てしまいがちだったという点は、欧米圏の人類学で1960年代や70年代に論じられてきた動物のシンボリズム研究の前提から、そうなるしかなかったんだろうなと感じます。動物というのは自然的な存在であり、人間は文化的な存在であるというのが絶対不動の前提として議論が始まります。その中で、文化を持ってる人間が主体で、それが動物とか自然物を分節化して、分類していく。動物はあくまでも記号として人間社会の中で役割を果たすというのが、動物のシンボリズム研究の前提だったと思います。

その後、1990年代から2000年代にかけてヴィヴェイロス・デ・カストロとかティム・インゴルドとかが出てくると、動物は記号ではなくて、主体性やパーソンフッドを持ったものであったり、人間との連続性があるようなものとして考えられなければならないということ言われるようになります※20。ナイトさんはこの時代の議論を引っ張ってきたひとりだと考えることができると思います。

ただ私も、そこからマルチスピーシーズ民族誌の議論までは、どこか距離があるような感じを受けています。ここで重要なのは、科学技術の人類学の研究者によってマルチスピーシーズ民族誌が提案されたということじゃないかと思います。

これまで一般的になされていた人類学の調査は、狩猟や牧畜民、農耕民などの小さいコミュニティに入り込んで調査するタイプのものでしたが、そうすると哺乳動物とか鳥類とか、人間の目につきやすい生き物につい視点が向かってしまう。実際に現地の人たちが生業や儀礼を通して関わっていたり、現地語でも名前がついてる場合が多いですから。

他方で科学技術の人類学系の研究をすると、例えば微生物を見ると、すごく小さなものの中に多様なものが絡まり合う生態系があるという場合もあります。例えば、チーズがいい例かもしれません。こういう世界になると、一対一で考えるということによって、見過ごされる世界があるということがはっきりします。だからこそ、科学技術の人類学が「人と動物の人類学」ではなく、「マルチスピーシーズ民族誌」という言葉を提案することができたのではないかと考えています。

大石さんが身体性に触れていましたが、私も最近「人間以上の感覚」について考えています。つまり、パースペクティヴィズムがやや視覚に寄りすぎていることが気になっていて、例えば嗅覚を通した関わりも考えていきたいのです。ナイトさんが記事の中で議論されていた、日本における獣害の話にも関連しますが、宮崎県の焼き畑をやっていた山村で、イノシシが鼻を通じて、人間やその他の存在とどのように関わっているかについてお話します。

イノシシは、目が悪い動物です。だから、イノシシが生きる上では視覚よりも嗅覚が重要です。奥野さんが言及されていたメキシコメジロインコは、天敵の猛禽類がいるかいないか視覚を使って見極めてから、畑を荒らすか否かを決めていたのに対して、畑を荒らそうと狙っているイノシシは、嗅覚を使って関わり合いを持ちます。

ルナのインコ脅しでは、インコにとって猛禽類に見えるようなものを作りますが、日本の山村では、人間の髪の毛や古着を畑に置いて、イノシシ除けをします。たとえ人間の姿がそこになくても、イノシシにとってはそれらが人間の存在を意味することを知っているからです。つまり、これらはイノシシにとって人間を意味する「換喩(メトニミー)」としての表象だと考えられます。

さらに先行研究※21では、村人が焼き畑をやるのにいい場所を探す上で大事なのが、イノシシが山芋を掘った穴があるかどうかだという話もありました。なぜかと言うと、焼き畑が終わった後、数年間経って地面の養分が回復した土地では、大きな山芋が育つようになります。イノシシはそれを鼻で嗅ぎ当てて、掘って食べています。回復してきた地面の養分で育つ地中の山芋は、人間の目には見えないかもしれないけど、イノシシが鼻を使って掘ることで可視化されるのです。

人間を超えた感覚器官があって、その力があるからこそ、イノシシは人間と対峙することができるし、逆に人間はイノシシの鋭敏な嗅覚を逆手にとって、畑を守ることもする。他方で、イノシシの嗅覚を使って地面の養分の回復具合を可視化するときのように、自分の生活に役に立てたりもする。

このように、感覚を通じたかなり複雑な関係性、駆け引きがあることがおもしろいと感じます。単に人間とイノシシの関係で閉じるのではなくて、山芋とも関わっていたり、そのような絡まりあいに開かれているということも合わせて考えなければいけないと思いました。

次に、中江さんがおっしゃった自然科学との対話について、すこしコメントをしておきます。2010年に『カルチュラル・アンソロポロジー』という雑誌でマルチスピーシーズ民族誌の特集が組まれました。その寄稿者のひとりに霊長類学者がいます。アグスティン・フエンテスという人なのですが、その方はバリの寺院近くに住んでいるサルを研究しています※22

フエンテス自身はもともと霊長類学者なので、サルの行動を調べるために痕跡とか糞とかの調査をしているのですが、それに加えて、サルと関わりを持つ村人に聞き取りをおこない、文理融合的なアプローチで研究をしています。マルチスピーシーズ人類学にもさまざまなアプローチがありますが、自然科学者自身が人文科学的な研究方法も組み合わせて研究を進めていくという方向性もあるわけです。

それに対して、人類学者は何をするべきか。私はマルチスピーシーズ民族誌家と自然科学者との関心の違いを、うまく生産的な対話に結びつけることを目指すべきではないかと考えています※23。マルチスピーシーズ民族誌家が主に訓練を受けているのは人間社会のフィールドワークなので、生態学者と比べるとどうしても人間寄りになってしまうかもしれないけど、それに加えてフィールドワークを通じて自然観察もおこなうことができます。

例えば、私が関心を持っているのは、内陸アラスカの鳥と人間の関係なのですが、鳥類学ではアラスカの鳥の渡りに関する研究はたくさんあります。渡り鳥の中には、さまざまな理由で秋になっても渡れなくなった「残り鳥」がいます。残り鳥が村の近くをうろついていると、内陸アラスカ先住民の村人は捕まえて、冬の間飼育して、春になると放鳥してきました。

取り残されてしまった鳥たちとアラスカ先住民の村人がどのように関わっているかは、鳥類学の検討や関心の対象にはなりません。しかし、イヌ以外の動物を飼育しないはずの内陸アラスカ先住民の人々が、野鳥の一時的保護をしていることは、マルチスピーシーズ人類学的にはおもしろいことになりえます。

このように、通常は自然科学者が関心を持たないような人と他種との関わりに、フィールドワークを通じて迫っていき、自然科学者との対話の糸口としていくのも、ひとつの方向性として考えられるのではないでしょうか。

奥野:
最後の論点ですが、残り鳥に対する人々の扱いは、鳥類学者や生態学者の研究の視野から漏れ落ちる可能性がある。それに対して、人類学者はその問題を拾い上げられる。それらを持ち寄ることで、互いの対話に発展させていくこともできるだろう。それがマルチスピーシーズ民族誌研究の意義のひとつになるのではないか。そういった指摘ですね。

最初の方の論点は、嗅覚からマルチスピーシーズ世界に接近するということでした。案山子は「嗅がし」だともよく言われます。日本では、案山子はもともと猪や鹿、サルに人間の臭いを嗅がせることによって、人間が周囲にいることを想定させる仕掛けだったとも言われていますが、そういった感覚の領域にまで研究を拡張していくことができるのではないか。

加えて、そのことが、人間と動物と、その関係を媒介する案山子との複数者の関係であるのと同じように、猪と人間の一対一の種間の関係だけではなく、猪と人間の間に山芋が入って、マルチスピーシーズ民族誌が説く絡まり合いという視点に開かれていく。こうしたアイデアは、とても興味深いと感じました。

1996年刊行のデスコラとパルソン共編の論集『自然と社会※24』の若き著者であったナイトさんは、人間と動物(非人間)の関係の問題を人類学の中に持ち込んだパイオニア世代でした。今から振り返ると、そのあたりが、人間とシングルスピーシーズ(単一種)との関係をめぐる人類学的な研究が始まった時代だったのではないか。その後、微生物などの「多なる存在」を取り上げる「科学技術の人類学」の進展により、一から多へ、つまりマルチスピーシーズ(複数種)にシフトしてきたのではないか。そんな近藤さんの「マルチスピーシーズ誕生秘話」の見立ても、非常に魅力的でした。


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