苦しみを堪え忍ぶことに誇りをもてるような、労働の必然性に結びついた苦しみではない。
そうではなく、無意味な苦しみである。
この種の苦しみは、魂を傷つける。
なぜなら、概して、この種の苦しみの不平を言おうとすら思わないからである。
シモーヌ・ヴェイユ『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』

プロローグ:r/place的主体?

まず、全体を象徴するイメージから始めてみます。分散化と多様性、そして善意と悪意に対するイメージです。

社会のなかで(少なくとも主観として)善意を持つ人は少なくありません。しかし、その善意の発露としての抗議運動は、なかなか成果をもたらさないという当たり前の現実があります。たとえば、ウォールストリートや国会議事堂の前に人が集まったという事実は、何かを変えたと言えるでしょうか。最近ではFacebookの情報漏洩に関連した対抗運動(後で説明するESG投資の一種)で、同社の株価が多少下がりましたが、すぐに回復しました。

よくある意見は、それでも抗議には意義があり、為政者がそれを気にするということを通じて運動は現実を変える、という考え方です。しかし、あまりにも遠い目標や間接的な実現を目指して、フィードバックのない活動を続ける精神力を求めることは酷ですし、抗議のための抗議に堕してしまわないことをチェックするのも困難です。

散発的な善意は、何かしらの形でつながらないと成果を出すことは難しいと言えます。ですが、運動を上から集権化する「革命運動」は、さらなる悲劇(ナチズム、ソ連の虐殺、またそれらをコピーした様々な暴力的支配)しか生みませんでした。

2017年、「ブロックチェーン」が「(制度・社会的に)何かを変える技術」として騒がれましたが、その際、キーワードになったのは「集権化」ではなく「分散化」です。しかし、そもそも分散化とは何でしょう? 分散化や分権化によって何が「良く」なるのでしょうか? これだけ価値観もコミュニティもバラバラになった時代に、無邪気に「良い」なんていう言葉を使えるのでしょうか?

それを考えるためのヒントが、次の映像です。

YouTube: Reddit Place (/r/place) — FULL 72h (90fps) TIMELAPSE (2017)

この動画は、72時間という制限のもとで、ネットワーク上で共有された100万ピクセル分のキャンバスを、一度に一人1ピクセルずつ自由に変更し、集団で編集する仕組みによって作られました。このキャンバスは「r/place」と呼ばれ、ロックがかけられているわけではないので誰でも編集に参加できます。描いたピクセルは、意味があろうとなかろうと、他人によって勝手にどんどん上書きされていきます。

その結果は? ぜひ、リンク先の動画を観てください。

r/placeの意義についてはこれから説明します。が、まず動画を見てもらったのは、そもそも分散化と善意や悪意を合わせた制度によって生じる事態について、わたしたちは言葉や観念による想定しか持っていない場合が多いからです。

分散化という言葉だけでは、海中で分子が勝手に混ざって意味ある秩序ができるという話のバリエーションのようにしか聞こえないかもしれません。その手の話は結局、マクロな権力に対して何もできませんでした。

同様に、当初は「新しさ」があった暗号通貨やブロックチェーンも、2018年に入って急激に国家規制の対象になり、「思想的含意を持つ技術」という意味では瀕死の状態で、技術の幻滅期※1へと向かっています。

こういった背景の元では、「理想主義ではダメ。もっとシニカルに現実を見よ」とあなたも言うかもしれません。

しかし、そういう態度の延長線ではない別の可能性を、r/placeの動画には感じます。

この文章では、その可能性を少しだけ展開してみます。現実逃避のために「現実を見ろ」と恫喝するアジテーションや、あえて手段を考察しない抽象的希望以外の道をみつけたいからです。

ブロックチェーンと分権化の夢

2017年、多くの人がブロックチェーンという新しい技術、そのアプリケーションである暗号通貨に対する夢を語りました。中央銀行の死。権力分散化の夢。貨幣発行の自由化・市場化によって、既得権益や国家運営の失敗によるインフレから脱出すること、中央集権的な権力によらない、自律した多様な価値観による社会設計、等々。

たとえば、暗号通貨技術を法定通貨に応用すれば、ゼロ以下の金利を柔軟に用いた新しい金融政策ができるようになるという、ゲゼル型マネー※2の実現も論じられています※3

しかし、そもそもマイナスの金利がかかってしまうほど人や企業がお金を使わない原因が、現実主義の蔓延によって「希望や夢」を削られすぎているからだということも考えられます。 もしそうなら、金融政策技術の効率化を進めても、無駄な処方かもしれません。

希望を語ることの愚かさは、『カラマーゾフの兄弟※4』の大審問官が、あるいは現実に生きる政治エリートが熱く語ってくれます。大衆は愚かだから数字でコントロールするしかない。未来への希望で熱を持った奴ほど危険なものはない。そもそも人の心が抱えているファクターなどわかるはずがない。しかし、『カラマーゾフの兄弟』では、現実主義を語るイヴァンが自らの欺瞞に耐えきれず発狂し、理想を語るアリョーシャが彼を救出します。現実主義が、現実主義の観点から見て間違っていることもありうる。そんな漠然とした感触を抱くよう、あの小説はできています。

もちろん、小説は判断の根拠にならないとはいえ、わたしたちは現在、あまりにも理想や夢それ自体を語ることを恐れすぎている気もします。そんな状況のもとで、テクノロジーは再び理想を語ることを可能にしてくれるのでしょうか?

どうなるのが「良い」?

分散化の「夢」を描くには、まず、分権化テクノロジーはいったい何を思想的、倫理的、政治的に可能にするのかについて考える必要があります。つまり、記録・認証・管理などのシステムを分散化・分権化すれば、実質的なガバナンスも分権化できるのか、について、です。分権化は、「何を」「誰にとって」「良く」するのでしょうか?

そもそも問題は、わたしたちにとって何が「良い」ことなのかを、漠然としか思い描けないことにあります。共同体にとって「良い」ものを積極的に定義するのは難しいことです。答えを出せない問題とも言えます。

かつてウィトゲンシュタインは、「ある規則に従っていないということを指摘することは可能だが、その規則を明確に定義することはできない」という意味の指摘をしました※5。ウィトゲンシュタインの指摘は、一見そのような不定さを持たない「+の記号が意味する規則」のようなものまで含んでいました。また同様のことは、現在の技術において、パターン認識で雑多な画像から「猫らしきもの」を選ぶことはできても、「猫であることの画像的特徴」を定義として明示的に宣言・列挙・記述することはできない、というような事態にも現れています。

また、過去の革命運動は、本来書き下すことができない夢や希望を「理念」として定義してしまい、それに従わない人を内部闘争で追い落としたり、都合の良い解釈に従わない人を「反動的」であると非難することで惨劇を生みました。

つまり、「良い」は定義することが難しく、かつ、定義すると形骸化しやすいのです。

正義を声高に語る人たちに感じる鬱陶しさや胡散臭さが、わたしたちに現実主義を強いている理由の一つでもあります。あるいは、20世紀の共産主義の理想や思想が、いったいどれだけ多くの人命を奪ったのかという歴史をみても、中庸な現実主義しか選択しようがないという判断は必然であるようにも思われます。敵が理想ではなく利益を求めている限りは、交渉の余地があるのです。

一方、ポジティブに何かを得ようと求めるのでなく、マイナスを減らすという思考もあります。

「ポジティブな目標はわからないが、これだけは嫌だということは割と簡単にわかる」と仮定できるなら、これは有効な方針です。たとえば、統計的なAI技術の多くは「損失関数」という指標を使って、「損失を減らす」ことで学習します。「損失」を定義できる程度の漠然とした方向性は研究者によって与えられても、損失の低減を具体的に達成するポジティブな方法は、研究者にも、学習に成功したAI自身にも、最後まで明示的なルールとしては不明であることがほとんどです。それでも学習は達成されます。「規則は定義できないが、使える」というウィトゲンシュタインによる指摘の現代版です。

また、このように考えても、必ずしもその場の微調整だけで済むわけではありません。局所的な調整が連鎖する仕掛けは、目標が漠然としたままでも作り込むことができるのです。

そこで、「減らしたい損失」を「組織によって生じる、いろいろな苦痛」と仮定してみます。組織や社会から要請されても、嫌なものはイヤだと言いたいわけです。しかし、組織の内部で勇気を出して発言するのは難しいものです。哲学者ハンナ・アレントは『全体主義の起原※6』や『エルサレムのアイヒマン※7』などで類似の問題を深く分析して、組織の命令に従うだけではなく、ある種の勇気、命を危険にさらして命令に逆らい、人類にとっての正義を維持するような判断を個人に求めました。勇気はおそらく重要で、必要です。しかし、個人の勇気に依存しすぎたガバナンスは持続可能ではないでしょう。勇気のある人は少ないし、増える見込みも特にないからです。

勇気を必要とせずに、嫌なものはイヤだと客観的に伝える仕組みが(昔は無理だったが)今なら作れる。もしそうなら、少しは希望があるのかもしれません。

薄められた全体主義としてのブラック・ガバナンス

ナチスや旧ソ連その他のような、虐殺さえ伴う真の全体主義は、現在の世界では今のところ少数派です。一方、たとえば日本のブラック企業のように、現実主義・利益の名のもとに、言葉の裏読みと忖度、恫喝を伴う「脱落してもいい全体主義」のようなガバナンスを伴う組織は無数にあります。

ここで、殺戮を伴わない薄められた全体主義を、「ブラック・ガバナンス」と呼んでみます※8

ブラック・ガバナンスを正確に定義するのは難しいことでしょうが、簡単にその特徴をスケッチしてみましょう。以下に二つの概念的な図があります。

ブラック・ガバナンスの概念図

まず、左の図から説明します。

極端な中央集権性と予測不能性:a

権力が最上位の一極に集中します。その方が、臨機応変な環境への対応や既存の慣習・制度を無視した大胆な行動ができるので、他の優柔不断な組織に対する優位にもなりえます。しかし、中枢の指示に対する予測不能性が高まり、組織メンバーにとっては、その不安定性が恐怖や不安、さらには忖度の源泉にもなります※9

非現実的な要求:b/苦痛:b´

上位者からの指示は「絶対修正できない目標」の達成を要求することがあります。白丸は、通常の階層的(官僚的)組織のなかで機能するメンバー、黒丸は、命令・恫喝・皮肉によってストレスや苦痛に晒されているメンバーを表します。

命令:c/恫喝:c´/シニカルな自己満足:c″

ブラック・ガバナンス下では、上位者からの(しばしば非現実的な)命令は、責任逃れのため抽象的で、かつ手段が明示されません。また、上位者しか知らない隠された組織内事情があり、命令と、それが現実的に(あるいは事後的に)意味するものの乖離が生まれます。そのため、命令される側は、命令の意味と解釈を巡る忖度や不安を感じ、命令する側は、意図あるいは事実を知らせず恫喝したりします(c´)。また命令する側に、隠された事情を知らない者へのシニカルな態度や侮蔑、その裏返しとしての自己満足(あれはそういう意味じゃないこともわからないの?)などが起きることがあります(c″)。また、恫喝が強くなると、命令する側の責任逃れだけではなく、過剰な忖度や癒着により、下の階層が持っているはずの情報が、その上の 階層にフィードバックされなくなり(c″で示される自己に回帰する矢印=組織内での不透明性)、そもそも何が起きているか誰も把握できないため、組織の外部から見た不透明性(d´)も強化されます。

外部からの視線:d

左の図では、まだ外部からの視線が通る隙間、すなわち透明性が残されていて、批判や改善、指導の余地があり、ストレスが緩和されることがあります。

一方、極端にブラック化が進むと、やがて右の図のように組織全体がブラックボックス化していきます。

シニシズムの連鎖:b1 > b2 > b3 > a´

指示の曖昧化や忖度、組織内の裏情報を知っている上位者からその情報を持たない者へのシニカルな侮蔑が連なり、何度も反復されます。その結果、常に「自分の一つ下の階層は現実を知らない」というシニシズムの連鎖が作られます。また、この連鎖で最上位以外の階層では、上の階層が持つ意図が誰にもわからないので、不安からイエスマンが増え、上位者はますます「意図を不明にする」ことによりコントロールをかけられるようになります。なお、この構造で、上位者は下の階層を分割統治するため、各メンバーの横のつながりを絶ち、基本的に最上位者に縦にぶら下がるだけの構造を目指します。図では、そのことを縦に走る境界線で表しました。なお、図が煩雑になるので加えていませんが、すべてのメンバーに同様の隔離があると思ってください。

また組織全体を見ると、下の階層からは情報が吸い上げられず、上の階層は自らの組織事情以外は考慮しない、環境からの入力と無関係な組織となります。

外部からの不透明性:d´

シニカルな自己満足と情報の遮断が支配的になること(c″)により、内部の指示系統を外部からトレースできなくなります(同時に、内部にある他の情報経路からも見えなくなります)。不可視であることで、上位者の理不尽な「裁量」権の発生を、どこからもチェックできなくなります(d´)。

上記の事柄により、苦痛がメンバー全体にひろがります。右の図では、この状況を真っ黒になった全体像として表現しています。

なお、図に描かれていない特性としては、

  • メンバーが組織の外に出る(=逃げる)ことのリスクと困難(生活を利用した支配)
  • 拡大以外の目的の消滅(ガン化)

もありますが、企業からの退出が難しいのは日本の特殊事情である可能性もあるので、除外してあります。また、ガン化は図に表現しづらいので描いていませんが、そもそも多くの企業は拡大以外の目的を持たないとも言えます。

ブラックな組織、アンフェアな組織には、それなりに自然な存在理由があるのかもしれません。意思決定の迅速さ、決してくじけない拡大への意志などは、たとえばナチスの拡大に貢献しましたし、サービス残業は企業にとっては単純に好都合です。激しい資本主義的競争と実需の後退により、現実的には世界、国、企業、家族、個人、あらゆるレベルで最終的にブラック・ガバナンスに至らざるをえないのが実情だとしたら、その外側に出る方法は、そもそも存在するのでしょうか?

歴史上の全体主義は、まさに「全体」、たとえばアジア全体や日本全体などの大きなスケールに現れますが、ブラック・ガバナンスはあらゆるスケールで現れます。ブラック・ガバナンスは、ブラック個人 < ブラック家族 < ブラック企業 < ブラック国家 < ブラック世界システム、という入れ子になるのです。

以下の図を使って、このことをもう少し補足しましょう。

ブラック・ガバナンスの入れ子構造

たとえば、適当にスケールを決めて組織を見てみると、以下のことがわかります。

ブラック世界システムW(以下「´」が付く場合はそのスケールでの最上位者を表す)

先進国でも、たとえばドバイやスイスでは、国内の人々は幸せに生きているように見えます。しかし、世界全体から見ればこれらの国は特権的な地位にあり、その経済はタックスヘイブン税制に支えられていると言えます。租税回避地であることにより金利差の分だけ、必ず儲かるためです。そしてそれは、不正や搾取を行う、すでに豊かな人々に利用され、格差を増幅させます。そもそも近代世界システムが出現する過程で、西欧系社会が非西欧系社会を支配するという構造ができてしまっています。なお、Wにおける最上位者(W´)は、現状アメリカや西欧を起源とする先進国となるでしょうが、中国など他のアクターも比較しうる力を持つので、異なるタイプの寡頭制への移行も生じています。いずれWはそのブラック・ガバナンス性を失うのかもしれませんし、アクターだけ交代して同じ構造が続くかもしれません※10

ブラック国家S

南北問題がWというもっとも外側の構造としてあるのに対し、その下位メンバーである発展途上国内では、さらに独裁者(S´)に統治され、いわゆる「開発独裁」が行われるという入れ子構造があります。

ブラック企業C

上に見たように、企業(などの組織)内には、理不尽な裁量権を持つ上司(C´)がいて、低賃金や長時間労働が常態化しています。ブラック国家内部にブラック企業が生じる頻度は高まりそうですが、先進国においても、企業組織内あるいは外部委託関係に、裁量権由来の圧力が強く働けば、劣悪な労働環境は容易に生じることがあります※11

ブラック家族F

企業のメンバーは、家族を持っている場合が多いでしょう。その内部に、強い発言権を持つ誰か(F´)とそれに従う者がいるという家庭においては、子供への圧政、あるいは無関心が働きます。なお、家族という組織には、脱退が極めて困難という特徴もあります。

ブラック個人P

さらに、家族のメンバーである個人の内部で、精神的な独裁者あるいは脳の一部(P´)が、自分の体を無理やり酷使して物事に取り組むことがあります。それによって達成感が得られますが、酷使されたPの体(あるいは精神)は壊れてしまいます。しかも、このタイプの個人は、同様の酷使をしばしば他人に強制します。

さらにこの見方を敷衍すると、全体主義のように「増える」ことだけが目的になった(実際の生体での)癌細胞も、ブラック・ガバナンスの例と言えるかもしれません。

以上のブラック・ガバナンスについての説明は、具体的な規模の違いや、地域や歴史の違いなどを見ていない抽象的なものです。これに対する反論として、対応はそうした個別のケースにより異なる、あるいは一見同じように見えるケースが実は全く違うタイプの事例である、といった指摘がなされるのが、近代的な社会科学の常道です。たとえば、アレントも「ファシズム」と「全体主義」という言葉をまったく違う概念として区別します(前者は国家の占拠を目的とするが、後者はそもそも国民国家という制度自体を廃棄するものとして)。

しかし、個別のケースに取り組むことを続けていった結果、専門が細分化していき、問題の全体像や対策が誰にも見えなくなるということがありえます。アカデミズムの視点で見ると、一次近似から二次近似、さらに三次近似…へと進み新しい知見を得られるなら、反例提出と理論のパッチ当て作業には意義もあるでしょう。しかし、近似レベルの向上とセットで、現実に対する影響力の尺度もないと、単に最適化とすべての事例を包摂できる力を持った複雑なモデルが良い、ということになりがちで、過去の例外的事例へのオーバーフィットを防ぐ手段がなくなってしまいます。

したがって、たとえ紋切り型に見えてしまうとしても、直観的な一次近似の方が影響力が強いなら、あえて単純なモデルを選ぶべき局面もありうるでしょう。

図で示したブラック・ガバナンスは、いつの世でも変わらず、どのスケールでも繰り返される「変えようのない現実」に見えます。しかしながら、様々なスケールで似たような構造がありそうなことに希望があるとも言えます。もし、すべてのレベルで似た構造が支配しているなら、あるレベルで発見されたブラック・ガバナンス構造への対抗手段が、他のスケールにも転用しうるからです。

こんな言葉もあります。

闘争は、とりわけ派生的命題にかかわる企業という枠組を逸脱するものだ。闘争は直接、国家の公的支出を決定する公理や、国際組織(たとえば、多国籍企業はある国に置かれた工場の閉鎖を勝手に計画できる)にかかわる公理を対象にする。これらの問題を担当し、世界規模の労働にかかわる官僚機構やテクノクラートたちによる脅威そのものを祓いのけるには、局所的な闘争が国家レベルや国際レベルの公理を直接の標的としつつ、まさに公理が内在性の場に挿入される地点で行なわれなければならない(この観点から注目されるのは農村地帯における闘争の潜在性である)。

ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』

要求がいかに些細であれ、人々が自分自身の問題を提出したり、それらの問題がより一般的な解決をえるための個別的な条件を決定しようとするとき(革新的形態として個別的なものにこだわること)、その要求はつねに公理系が許容できない一点を提示している。同じ歴史が繰り返されていることには驚くばかりだ。最初はささやかなマイノリティの要求が、それに対応する最も些細な問題さえ解決できない公理系の無能と出会う※12

ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』

なお、ここまでに挙げたブラック・ガバナンスの属性は、ほぼアレントの「全体主義」から借用しています。彼女は、旧ソ連の全体主義が、衛星国に縮小・複製されたという記述を残していますから、「全体主義の空間的な移動、縮小」までは同意せざるをえないでしょう。一方、縮小や拡大が「世界システム」や「個人内部」まで及ぶことを認めるのは、躊躇するかもしれません。

しかし、仮にこの縮小が際限なく続くなら、どのスケールでも中心になるメンバーが必要で、それは入れ子になるため、中心は先に示した右の図のように重なります。極端に単純化したこの図では、「たった一人のブラック個人」が世界全体のブラック・ガバナンスを左右してしまうことになり、明らかに間違いです。ただ、入れ子構造自体はありうるとすると、「どのスケールで際限のない中心の共振が不可能になるのか」は興味深い課題です。それをヒントに、違うスケールのブラック・ガバナンスを修正する手段を発見しうるからです。

なお、アレントは、「全体主義」の構造的特徴を、先にブラック・ガバナンスの箇所で触れた命令の意味と解釈を巡る恣意性と、それがタマネギ状に重なり、誰も組織目標を信じていないが、シニカルな自己満足と下層のメンバーへの「現実主義」的恫喝によって動くことではないか、と示唆しています※13。もし、「命令解釈の恣意性」や「信じていないが、実行すること」に多少の苦痛が伴うなら、その苦痛をシグナルに、この構造が働きすぎる前に止める技術的解決策、ガンが増殖する前に免疫する方法があるかもしれません。

このような対抗手段として「苦痛の最小化」という最小限の指針を導入するとして、どうやったらそれを実現できるか。その具体的な方法を、後半で考えてみます。

分散化は暴力のメタに立てるか?

冒頭で触れたように、ビットコインなどの暗号通貨への支持は、そもそも投機以外の目的を持っていました。中央銀行と政府が独占してきた通貨発行権、それに伴うアンフェアな澱みを、ピア・ツー・ピアによる分散化によってなくす、というような主張です。

では「(通貨発行権に伴う)アンフェアな澱み」とは何でしょうか? また分散化はそれを解消できるのでしょうか?

具体的に、リーマンショックのようなシステミックリスクについて考えてみましょう。政府の政策と私有財産の関係については、非常に多くの因果関係が想定できます。が、一つサンプルがないと検討できないので、たとえば以下のような因果関係を想定します。

①デリバティブで貸借関係の依存性が非常に複雑になる
②どこかが破綻
③複合的なシステミックリスクが現実になる
④市中民間銀行や投資銀行が破綻(しかける)
⑤カウンターパーティー(負債)へ波及(しかける)
⑥株・債券等の市場が崩壊(しかける)
⑦破綻をなかったことにするために一部に公的資金注入(増税・国債発行など)
⑧貨幣発行量増加 ※ポイント1
⑨その時点での国内貨幣の実質価値低下
⑩景気破壊
(ここで終わらない場合、以下が続く)
⑪政府が信用を失う ※ポイント2
⑫政府の財政破綻、 ハイパーインフレ、中央銀行破産のいずれかにより既発銀行券が紙屑と化す

このモデルで、暗号通貨やブロックチェーンによる分散化が効くポイントは2箇所あります。

一つは、暗号通貨では貨幣発行量のコントロールが分散化できることです(※ポイント1)。分散化が機能していれば、システミックリスクの責任を無関係な国民に負わせるというような国家による責任転嫁を、少数の決定者では起こせなくなるでしょう。このような責任転嫁の究極のかたちは、本来不可能に近いレベルの「投資=軍備」を国家が行い、その後破綻する「戦争」かもしれません。

もう一つ(※ポイント2)は、そもそも少数が恣意的なコントロールをする政府・中央銀行の発行する貨幣を持つ(=貯蓄する)のをできるだけやめる(たとえば暗号通貨を使う)、という選択が可能になることです。政府と中央銀行は独立して意思決定するというのが建前ですが、ここでは実質上そのように運営されていない(一体化している)という立場をとります※14。国家の機能から貨幣発行をより原理的に切り離すわけです。

しかし、これらを可能にする暗号通貨を国家が許せないかもしれません。 上記2箇所のポイントを国家が嫌い、かつ、不法な行動をする暗号通貨ユーザーが多ければ、違法行為を抑制するついでに(それを理由に)暗号通貨そのものを違法にしてしまえばいいでしょう。

国家は法、あるいはその背後にある警察、そして軍隊によって暴力を行使できます。論理とは無関係に、あるいは後付けの適当な理由で、「駄目なものは駄目」と言い、国家にとって都合の悪い制度を禁止できます。同時に、革命的技術は革命的であるからこそ悪意を持つ人も真っ先に流れ込むという事実が、国家による禁止を補完・正当化する論理として働きます。事実、2017年に暗号通貨として可能になった投資には詐欺的なものが大量にあったようです。

もちろん、行政や官僚が何もかも禁止したいという意図を持っていると想定する必要はありません。しかし、たとえば官僚が、テクノロジーによるイノベーションに合わせて金融の非特権化を進めよう※15としても、法案にする際、彼の意図と無関係な横槍や権力闘争で歪められることは大いにありえますし、そのプロセスも往々にして不透明です。

分散化は「市場外部性処理装置としての国家」に代わってその必要性を補えるのかという疑問もあります。たとえば、国民皆保険のような、有無を言わせぬ強制加入によってのみ成立する国家的福祉制度の代替物を、分散的に与えることは困難でしょう。

あるいは、(大きなブロックチェーンへの攻撃は今後も難しいと仮定しても)「一つのチェーン」という単なる公開記録の正当性が、国家による暴力的強制よりも、人々が従うべき強い根拠と成りうるのか? ブロックチェーンは暴力という裏付けを持たない、単なる事実のようなものです。フェイクニュースとパワーゲームに明け暮れる現実主義の人々は、まさにその真逆、権力への意志によって真理や事実を政治的に生産するという世界に生きています。そのような時代に、単なる事実が力を持つことを、想像するのは難しいかもしれません。

また、そもそも分散化したブロックチェーンがあったとして、それは別の力関係、たとえば「分散化によって中央集権化の弊害を除くと主張をする、中央集権化したグループ」によって事実上支配・寡占され、制度の形骸化が起きることもありえます。 その時、暗号通貨の重要なポイントの一つであった恣意的なコントロール不能性が、理論や建前ではなく、事実として失われます。

中央集権でしかできないことと分散化すべきことを棲み分ければいい、という主張もよく聞きます。しかし問題は、中央集権部分が、あるいは分散化部分が、「棲み分け」のような平和的共存を望むとは限らないことです。

否定的理想、可能な一歩はどこに?

これまで語ってきた具体的な技術、ガバナンス、そして国家と暴力という制度から、いったん少し抽象的な思想へ視野を広げて、希望を探ってみましょう。

そもそも、EUや国連のような国家間共同体、あるいは全体主義的な世界観による共同体以外に、国民国家の上位、あるいは外部に立つ制度は構想しうるのでしょうか?

2017年の暗号通貨ブームの到来と共に、人々はこぞって新しい貨幣、可能な通貨制度、さらには新しい組織原理や分散国家のようなものまで、次々に発表し始めました。それらたくさんの夢(ハードフォークによらないアップデートが可能な暗号通貨「Tezos」、AIの共同所有開発を目的とした「SingularityNET」など)の一方で、挫折(EthereumでのDAO破綻から詐欺的ICOブームへの流れ)もまた経験されました。この挫折は、真っ当なガバナンスの欠如、あるいは本来の開発者の意図を裏切り詐欺を主導するブラック・ガバナンスによるものだったと言えるかもしれません。

しかし、貨幣制度あるいは社会制度をゼロから構想できる、ブロックチェーン上のプロトコル策定という構成的権力の観点からすれば、多様な制度設計に伴うブラック・ガバナンス的失敗例を見せてくれるこれらの事例に、希望を見出すこともできるはずです。前述した通り、同じ構造がスケールを超えて繰り返すなら、同じ処方箋で他のスケールを持つ制度を変えうるからです。

では、もしブラック・ガバナンスをあらゆるスケールで変更できるとして、どんな状態を目指すのか?

様々な理想を語ることはできます。しかし、20世紀にナチズム、共産主義という原理がもたらした災厄は、肯定的な表現で記述された無制約な理想と、そのルールに起きる形骸化が、単なる虐殺の道具になることを繰り返し見せつけました。その結果が、理想や原理よりも拝金とプレイヤーたちの損得勘定の方がまだまし、という現実主義なのかもしれません。

ですが、理想や原理を完全に捨て、拝金とパワーゲームにすべてを還元してしまうことは、虚無からの全体主義というナチス以前の状況を復元するのではないでしょうか?

そこで、「肯定的ではない理想」を考えてみます。

肯定と否定は、反転しただけで同じ、とつい言いたくなりますし、また、否定は時に無内容に見えます。

しかし、たとえば、その都度「これは違う」という形で、境界を外側から徐々に限定していくような方法はどうでしょう?

その時、境界の内側が肯定されたわけではないとは言え、とりあえず駄目なものを否定することで境界の形は徐々に限定され、不確実性の度合いを境界線の幅に反映させることもできます。こうして描かれる境界は、たとえ否定だけで描かれていても「無内容」ではありません。

境界の形を前もって知る方法がない場合、その形を肯定的に「定義」することはできませんし、むしろ、「しない方がいい」のです。

もし、無理やり定義してしまえば、その定義と現実のズレが、肯定的目標の形骸化を生むからです。あるいは、現実とズレた肯定的目標の「ほんとうの意味」に対する忖度が始まってしまうかもしれませんし、さらには、自分たちは目標の「ほんとうの意味」を知っているが他の人間は知らない、という形でシニカルな自己満足が顔を出しかねません。

たとえば、AIによる顔認識の技術では、明示的なルールを記述することはできませんが、仮にそれを「顔を認識する三つのルール」として強引に書き下したとしましょう。「卵型で、黒い部分が2箇所あり、上の方がやはり黒い」というように。ただし、人間による実際の顔認識は、やはり決してルールでは書けない複雑な判断でできているとします。

上記のルールの場合、「横顔」や「灰色の髪」が出てきた瞬間に破綻しますが、それでも「三つのルール」を守りたい人はどう振る舞うでしょうか? ルールの解釈を変えて忖度させるか、あるいは、あらゆるルールに失望するか、どちらにしてもルールは形骸化します。ルールへの固執は、その形骸化を導きがちなのです。

そこで、理想を抱き、それをルールによって表現する以外に、目標を定める方法を探してみます。

ポイントとなるのは、「(AIは)ルールでは書けないが、事実上は顔を認識できている」ということです。ルールに固執する視点からは、この顔認識の実現は望めません。諦めるべきは、「明示的なルール(による理想の表現)」であって、ルールによって目指されていた、自然言語では「否定」という形式でしか表現できない「理想」ではありません。また、顔認識は否定神学のように「〜でない」という言葉を繰り返すだけの無内容な主張でもありません。

同様に、r/placeにも見られるような上書きの繰り返しによるガバナンス、つまり否定を根拠にした自律的なガバナンスも、ルールベースでは実現できないでしょう。ですが、結果さえ出ればどんな手段を用いてもいいと言うのなら、それは現在の日本社会を広く覆う現実追認主義、上書きに上書きを繰り返すバトルロワイアル的世界観の礼賛にしかなりません。また、明示的に定義できないゆえに、とりあえずすべての共同体的伝統を肯定する(共同体主義)のなら、これもまた「自分たちの価値観の外でどのような苦痛が起きていようと無関心」という現実追認の一種となります。

では、r/place的な「ルールで明示的に書けない理想によるガバナンス」が、むき出しの生存競争と自由放任に陥らないようにするには、どういう条件が必要なのでしょう?

組織の外部をキープし続けるためのブロックチェーン:PS3と苦痛トークン

最小限の理想主義として、西川アサキが「PS3」というものについて書いています※16。そこでは「否定」による目標として「①苦痛の最小化」が挙げられます。そして、その実現を目指す組織が維持される条件として、さらに三つの前提を挙げています。外部からの攻撃や悪意ある制度のチートを防御する「②操作へのセキュリティ」、メンバーが増加しても他のメンバーの目標が維持されるような「③スケールの拡張性」、そして持続(競争)可能性を生む「④同時に存在する異なる組織、制度との共存」です。

これらの条件を「PS3(Pain, Security, Scalability, Sustainability)」と呼び、ガバナンスの基本的な要請として「無根拠」に仮定してみます。

あえて「無根拠」とする理由は二つあります。まず、ここで掲げられている理想がすべて効率の一種であることに対して、たとえば、生理学的な要請を政治的な領域や理想に持ち込むことに反対する思想家(先に出てきたアレントなど)は反論するはずだと想定され、しかも、これから論じることは、様々な政治哲学の議論を踏まえていないからです。

そのような態度について議論を尽くすこともできるでしょう。しかし、そもそもそうした議論が、議論のための議論、一種のゲームになってしまい、結局は最終的な制度設計にとって意味を持たないという事例が多いと感じるので、ここでは単なる「仮定」として、前に進みたいのです。

PS3は否定的な目標です。それはブラック・ガバナンスに対する抑制の条件であり、積極的に理想の状態を描くものではありません。しかし、その実施は極めて具体的にならざるをえないと思われます。また、通常は肯定的に扱われるメンバーの多様性や組織の学習可能性などは、多様性がないと学習不能になり、結果的に組織が現実への適応能力を失って持続不能となり、苦痛の増大が起きるならば、という条件でしか考慮しません。

さらにPS3は、「ルールに従っていれば、後は個々人の自由」という思想だけの状況とは、似ているようで違います。どう違うのでしょうか?

一つには、言い換えられたかたちでの、他人との共感・関心が、すべての項目に入っていることです。感情的、あるいは感覚的な共感としての「①苦痛最小化」、見知らぬ意図を持った他者への関心としての「②セキュリティ」、群衆としての他者に埋もれても制度が破壊されないこととしての「③スケーラビリティ」、相反する目標や信念を持つ他者たちと共に生存しつづけるための「④持続可能性」、というように。

PS3は、ブロックチェーンという技術の制度的可能性について考える中で仮定されたものでした。苦痛を最小化するといっても、苦痛を追跡・評価する手段がなければ無意味ですし、その信用が特定の権力によって維持されているなら、結局のところ国家の上位はないという事態へ逆戻りします。全体主義と現実主義をくぐり抜けた人類に、国家が苦痛の追跡に関してだけは不正をしない、と説得するのはとても難しいことです。

しかし現在では、ブロックチェーンによって、「(苦痛への)トレーサビリティ」と(中央集権的な組織や権威に頼らない)「分散化した信用」とを、技術的に結びつけるやり方を想像できるようになりました。

また、西川は「苦痛トークン」という簡単な仕組みを提案しています※17

苦痛トークンは次のような文脈を仮定した仮想的な権利です。

  • 幸福についての合意よりも、苦痛についての合意の方が得やすい
  • 大義(理念)や誰かの幸福のためには当然苦痛が伴う、と信じるのを避ける
  • 潜在的で見えない苦痛を顕在化する
  • 組織の失敗が苦痛というシグナルを持ち、それを通じて組織構造を変え、学習しうる

苦痛トークンは、ネットワーク内で利用されるトークン(仮想通貨のような、権利量を表す単位)という形をとり、次のようなルールに基づいて運用されます。

  1. 苦痛トークンは、組織のメンバー(=以下の図に描かれたグラフに含まれるノード)に一定期間に一定量配布される
  2. 譲渡不可能
  3. メンバーは行使量を毎期決める
  4. 行使は匿名で行われる
  5. 組織はその生産物(アウトプット)に、それを生産する際に行使された苦痛トークン量を、トレースできる形で添付する義務があるとする

苦痛トークンは、パブリックなブロックチェーンに記載されるため、改竄できず、しかも匿名で分散された、組織に対する変更要求権限となります。

苦痛トークンには、具体的な提案への評価の必要がなく、誰のせいでそうなっているのか、なぜ苦痛なのかわからないが、とにかく「苦痛」が生じている事実を匿名で表現できる、という特徴があります※18

では、その苦痛トークンの行使に対し、組織はどう応じるのか? たとえば以下のような想定ができます。

  • 苦痛トークンの行使により、組織構造(各メンバーの貢献、権限、命令、資源のルーティング方法)が変化する
  • 変化の大きさや形は、行使された苦痛トークンの総量、行使したメンバー群の分類情報、現在の組織構造などを配慮し、別途定められたアルゴリズムによって(裁量の発生をできるだけ防ぐため人の手を介さずに)決定される

苦痛トークンは、組織メンバーの苦痛シグナルを組織内外でトレースする仕組みの初歩的な一例に過ぎません。が、似たような仕組みが正常に機能しうるのなら、「フェアでない商品は買わない」というような行為にも、もう少し具体的な内実を与えうるはずです。

ここまで説明したことは、以下の図のように整理できます。

苦痛トークンの概念図

N:仮に想定した、完全にフラットで分散的なネットワーク状組織。

T=N(T):ある時点までの環境や学習によって形成されたツリー状のルーティング構造=組織。
※ N(T)はTと同じ構造を表現するネットワーク。

T´=N(T´):苦痛トークンの行使結果をフィードバックし、新たにルーティングし直された、別のツリー構造。
※ N(T´)はT´と同じ構造を表現するネットワーク。

N´:N(T)とN(T´)の両方に素早く切り替わりうる動的ルーティング構造として、複数のツリー的支持構造を内在させた組織。

a:現在のタスクや状況にあわせ、ネットワークNをツリーTにします。ツリーにする必要があるのは、分業可能性や実行速度などの点では、多くの場合ツリーが有効だからです。ただし、一度できたツリーの硬直化、利権化、裁量化、支配権化が問題になります。

b:Tの環境不適応シグナルとして発せられた苦痛トークンを、ブロックチェーンを用いてトレースします。このシグナルは組織内政治からの客観性を担保するため、パブリックなブロックチェーンを使用するべきでしょう。苦痛トークンのトレースを考慮した自動プロセスによって、ツリーTはT´へと変化します。そして、この苦痛トークンのシグナルを、人の手が入らない形で、組織構造やルーティングへ反映させるアルゴリズムを走らせます。

パブリックなブロックチェーンを使っているので、トレース結果は外部から参照できます。排出ガスのようなイメージで、組織が活動によって産出した苦痛トークンの総量がわかるわけです。これにより、ブラック・ガバナンスの不透明性、シニカルな自己満足の両方を打ち消すよう試みます。なお、組織がトレース結果を公表しない場合、なぜ公表しないのか、という公衆からの疑問に対峙する必要があります。

苦痛トークンを行使するのはメンバー自身であり、しかも匿名かつブロックチェーンにより客観性が担保されるので、情報入力部分での不正はかなり防げるでしょう。むしろ、問題は苦痛トークンの組織構造への反映方法や、そのアップデートアルゴリズムを巡る政治だと思われます。が、これについては、いずれ別に論じる予定です。

c:環境の状態に応じ、過去の学習結果を参照したアクションとして組織構造を組み替えます。図ではN(T)とN(T´)の二つが同時に描かれていますが、ツリー構造はいくつあっても構いませんし、明確に切り分けることができない場合もあるでしょう。この状態の組織では、異質なツリー構造が同居するので、状況に応じ「上司-部下」のような関係が逆転することもあります。このような動的構造をキープすることが、環境に対してツリー状組織よりも高い適応能力と学習能力を持つなら、ブラック・ガバナンスは競争力を持たず消滅します。苦痛は主観的なものなので、物理的・統計的な保存とは無関係に、いわばフリーランチで減らせる可能性があり、そこには希望があります。

なお、ここで記したAIやルーティングアルゴリズムの使用は、とても観念的なもので、現実的にはデータの不足や再現の不可能性、タスクの不明確さ、報酬定義方法、学習の失敗など、様々な問題、特にAIの仕様変更を巡る問題が生じます。これらを考慮すると、ルーティング変更規則は、機械学習を使わず、誰にでも意味の明らかな非常に単純なルールで機械的に行うという手もあります。ただし、その場合は環境への適応能力が犠牲になるかもしれません。ポイントは、特定主体の責任・裁量が可能な限り無関係になるように、自動化・分散化・明示化することです。

では、仮にそのようなシステムが機能したとして、「誰かにとって不幸な組織変更が起きた場合、誰が責任を取ればいいのか?」、そんな疑問が生じるかもしれません。

しかし、誰か特定の人間・主体に「責任」を取らせる、という方法自体、システムが複雑化した場合の制度維持方法として、もはや効果がなくなりつつあるように思えます。苦痛トークンは、「主体–責任」というペアを、「苦痛トークン–分散的変更」というペアに置き換えようとしているとも言えます。

はじめの一歩:PS3+ESG投資

PS3や苦痛トークンは大雑把な指針にすぎません。ブロックチェーンも単なる技術で、それを苦痛の最小化などと実効的に結ぶステップはまだ不明です。目標となる状態はあっても、そこへの軌道は別に必要です。

では、とりあえず何から始めればいいのでしょう?

手をつけやすいのは、「建前上正しくて、すでにあり、景気を良くするもの」を更新することです。なぜならば、これら三つの条件が揃っていると、国家はその仕組を建前上も実質上も禁止しにくいからです(ただし旧ソ連の大粛清は、すべての条件を無視しましたが)。

ここでは、そういったものの一例として冒頭で少しだけ触れた「ESG投資」に着目してみたいと思います。

ESG投資とは、自然環境(Environment)・社会(Social)・企業統治(Governance)に配慮した活動を行っている企業に対し、選別的に投資を行おうという運動です。受託者責任(フィデューシャリー・デューティー※19)の徹底による安定的資産形成および利益相反行為の抑止という考え方の拡張と言えるかもしれません。

ESG投資の基本的枠組は、ポジティブ・スクリーニングとネガティブ・スクリーニングの組み合わせと、テーマ別投資です。ネガティブ・スクリーニングとは、武器やポルノ、動物実験、宗教的倫理観に反するような観点から、リスクの大きい銘柄を排除することです。逆に、ポジティブ・スクリーニングは、人権や多様性、再生可能エネルギーなどに配慮している銘柄(企業)、およびそれらによって構成される指標に対し、積極的に投資することです。

つまり、企業の社会的責任という文脈で文化・芸術への支援を主目的としたメセナとは違い、より直接的に投資によって社会環境をコントロールしようという動きであり、社会的に無意味な指標や高リスク銘柄に対しては投資が起こらず、結局は市場に評価されなくなるという力学によって駆動されることが期待できます。

しかし、現実主義によって疑い深くなったわたしたちには、そもそもいいことばかり言うESG投資が、「本当に善きもの」だと素直に信じるのは難しいことです。たとえば、ESG指標を満たしていると主張する企業と、ESG評価機関やESG投資を行う投資機関が癒着している場合、ESG投資は、単なる投資の新しいネタぐらいの意味しか持たないでしょう。現状を放置すれば、事実上もそうなる可能性があります。

今までのところ、ESG評価機関と企業の癒着を防ぐ仕組みは確立されていませんし、ESG投資を行うにしても、誰かが資料をもとに機密の理由で判断するという枠組みは変わりません。たとえば、日本の巨大な政府系機関投資家であるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が、なぜか軍需産業に投資していたことが指摘され、まさにESG的観点から問題になりました※20

なお、GPIFがESG投資についてどう考えるのかについての活動記録が公開されています※21。が、その内容の是非以前に、150兆円以上※22というGPIFの投資規模を考えると、その意思決定をどのように行うのか、どの程度の規模の組織で行うのが適切か※23という問題があります。

つまり、現状のESG投資の仕組みそのままでは、現実主義的目線に耐え切れない可能性があります。そこで、どのようなESG投資ならば、結果としてPS3が実現できるのかを考えてみます。

まず、極端に理想的な状況を考えてみましょう。ESG投資が全面化して、世界や国家の景気を左右するほど規模が大きくなる。しかも、ESG指標の作成や評価は、とてもうまく分散化され、透明かつフェアで、国境を越えているとします。

ESGの無視(=環境、社会、ガバナンスを配慮しない企業の存在)を「苦痛」と考え、(苦痛トークンを一部に含むような)ESG投資のトレーサビリティが完璧であるなら、ジャーナリストが発見しなくても、たとえばAmazonの倉庫で苦痛に満ちた作業が行われているだけで株価が自動的に下がり、それが是正されれば上がるような世界もありえます。

もちろん、今現在でも似たような働きは報道や株式市場への反応によって起きますが、その経路は誰にもトレースできず、日々の新しいニュースに流されて忘れられがちです。だからこそ、「理想的な」ESG投資は一種の「革命」なのです。

では、理想から現実に戻って、「革命」を起こすためには何が必要か、まず技術的な観点から探ってみましょう。

ESG指標の作成や評価が自動化される場合、それぞれの企業において、全体や組織のために「仕方のない犠牲=苦痛」が生じていないか、生じているとしてその補償はあるのか、そもそもその苦痛は補償しうるものなのか、といった状況をモニターする仕組みが必要となります。

この時、苦痛トークンが指標として役に立ちます。「何か異常が起きている!」という段階で検出と緩和を行う仕組みでは、問題を整理して明文化する前に対処する必要があるからです。原因や対処は不明でも「苦痛がある」こと自体が検出されなければなりません。

また、モニターする仕組みや指標が「事実」であるためには、特定の人物や組織の意図だけで動かないことを保証し続ける仕組みも必要ですが、その役目にはパブリックなブロックチェーンが適任です。既存の経済システムで構築されているバリューチェーンをそのままブロックチェーン化することでも、恣意性の排除だけならば可能かもしれません。

ただし、ESG投資におけるトレーサビリティは、これまでのような限定されたバリューチェーン内の物流(ロジスティクス)ベースの追跡性だけでは不十分です。バリューチェーンの指標は相対的に固定していますし、その正当性や評価に関しても利潤追求以外の目的がないため、抽象度の高いESGよりも信用の保証が簡単にできるからです。

さらに、もしESG投資+ブロックチェーン化された(苦痛などESG失敗の)トレーサビリティ、という構造が実現しても、それだけではまだ足りません。

そこには、「理解可能性」と「参加への動機づけ」が欠けています。技術的にインフラが整ったとしても、ほとんどの人に理解できない指標の羅列がモニターを流れていくだけなら意味がありませんし、ESG投資を実現できる枠組みがあっても、市場が閑古鳥では無意味、もしくは事情通の投機を呼び込むだけです。参加者とのインターフェイスデザインが問題になる、とも言えるでしょう。

この「理解可能性」については、AIの解釈可能性という研究分野があります。可視化、因果性追跡、反実仮想フェアネス※24など、「自分の行為が、何に、どの程度貢献しているのか、誰のどのような行為が、どのような貢献をしているかを追跡すること」にも、AIを使えるように改良する試みが始まりつつあります。

一方、「参加への動機づけ」については、ESG投資がやはり利潤性を持つ「投資」であることが、かなり大きなインセンティブになります。しかしそれに加え、自分のしていることが何をもたらし、何を防いでいるのかという公共性が可視化されるなら、「投資の利潤」という経済的・生理的・現実主義な動機だけではなく、アレントのいう意味での「政治的」な領域を弱められた形で復活させうるかもしれません(なお、アレントの場合、「政治的」とは、現実主義的な利害調整ではなく、物事をどうするべきかという「理想についての熟議・表現」という特殊な意味を持ちます)。

行き過ぎたESGの要求が、社会に遊びをなくしてしまう危惧もありえますし、さらにそのムードを悪用して市場操作を試みる者もいるかもしれません。冒頭に挙げたFacebookの株価変動がまさにその例です。ですが、もしそのようなESG指標を利用した相場操縦が起きたとしても、その抑制には、ブロックチェーンによる「失敗のトレーサビリティ」に加え、AIの補助による「理解可能性」、投資による「参加への動機づけ」を得て、変質した新しい政治的な領域としてのESG投資が、効果的な手段になりうるでしょう。

ここで、もう一度r/placeを思い出してみます。

r/place

Satoshi's Placer/placeのBTC版として開発された「Satoshi’s Place」

上の画像は、「Satoshi’s Place※25」という、r/placeを模してBTC(ビットコイン)コミュニティが作った仕組みによって描かれたものです。r/placeより多少カオス的というか、単純に秩序が崩壊しがちな印象を受けます。

r/placeのイメージは、「社会」という巨大なものに対する、とても優れたインターフェースの形を暗示しています。個人が全体を把握でき、その影響も1ピクセルの貢献という形で理解できます。自分が何をしているかも、他人が何をしているのかも、そして、全体が何をしているのかも、管理されない形でわかります。

r/placeの動きは収束しません。しかし、意味のある図形を描いた状態が、わりと長く続きます。たとえば、悪意をもった個人や集団が意図的に図形を破壊する行動をとっても、その意図が誰の目にも明らかなので、対抗する動きを自発的に起こす人たちが出てくるからです。

最後に:r/place主体の実験と「制度の形骸化を防ぐ制度」について

最後に、PS3のもとでESG投資が機能する条件をおさらいしてみましょう。

  1. 単なるブロックチェーンだけでは、「国+暴力=規制」にも「企業/個人+悪意=詐欺」にも勝てない
  2. すでにある仕組みを、目的に沿って事実上の意義が変わるまでアップデートした方が、既存制度による抑圧(禁止)がしにくい
  3. ESG投資は証券取引+フェアネスなので、建前上、国家=規制によって消せない
  4. しかし、ESG投資を特定機関で行うのは、様々な形骸化が発生しうる上、規模が小さい
  5. 規模が大きくなり、分散化され、透明かつフェアで、さらに国境を越えた政治的影響力を持つなら、ESG投資は一種の革命になりうる
  6. 第一歩となるのは、ESG投資のトレーサビリティ、解釈可能性、インターフェースを改良していくこと

おそらく、分権的トレーサビリティ基盤・AI・インターフェース、それらすべてが揃っていないと、ESG投資は文字通りの意味では機能しません。

さらに、後述する「制度の形骸化を抑制する制度」もないと、すぐ骨抜きになります。

以上をすべて揃える仕方はまだわかりません。しかし、理想に破れ、現実主義を標榜し、結局は薄められた全体主義に流されていくよりは幾分ましな形で、スローガンや手段のないアジテーションではない、具体的・個別的な対策をいろいろと考える余地がまだ残っているのではないでしょうか?

たとえば、この文章はr/placeを模して、筆者たちが非同期リアルタイムで書いてみました。一つのGoogleドキュメントを共有し、メンバー全員が同時に執筆・編集し、他人の書いた文章を無断で消したり上書きしたりしています。これに加えて、文章を書く速度を一定化するルール、コンフリクトを解消するルール、誰が何をしたのかを追跡し、報酬に反映する方法などがあれば、よりr/place的なガバナンスに近づきます。

奇妙なのは、このような執筆方法だと、論文の一貫性をマネジメントする必要が減少するという体験をすることです。r/placeと同様、誰かが勝手に直すからです。「主体の死」については散々語られてきましたが、それを要約したり入門書を書く作者はたいてい一人で、一貫した文章を書くことになります。しかし、この文章は実際に複数の著者で同時に書かれています。「ある人にしかできない」と想定されるタイプの仕事でも、意外に分散化できるかもしれないという印象が、実感として得られました。

もし、国会答弁や公文書などをトレース付きでr/place的に書けば、非常に簡単な手段で、文書の真正性保証や官僚の責任逃れの防止ができるかもしれません。そもそも、記録が残る状態で同時に編集作業をすると、恫喝が難しくなります。恫喝するぐらいなら、自分で直せばいいのですから。

もちろん、最終的な状態やスタイルをどう確定するか、意図的ではない破壊=失敗をどうリカバーするかなど、課題も多いことは確かです。しかし、共同編集には、新しいガバナンスと主体性を同時に実現する可能性を途中で実地体験できるメリットがあり、理想社会と、それに至るプロセスに生じる「必要悪」としての制度を分離した結果失敗した共産主義を反面教師にできます。

最後に、「制度の形骸化を抑制する制度」について少しだけ触れましょう。

歴史を振り返ると、古代ローマでも近代のワイマール憲法でも、専制や全体主義はいつも「正当な」民主的手続きから生まれています。いわば、民主制の自殺傾向です。分権化を唱うパブリックなブロックチェーンでも、現状しばしば問題になるのは、その実質上の権力の寡占による中央集権性です。

分権を維持する仕組みの最もメジャーな形は三権分立です。しかし現実を見れば、忖度、癒着、ロビイングが発生し、権力分立は形骸化します。近世ヴェネチアでは、周囲の都市国家が君主制へ移行していく際、いろいろと制度を工夫して寡頭制を維持しようとしましたが、分権化を維持する制度的な枠組みのデザインには、まだ工夫の余地が残っている気がします。

そこで、筆者たちは、新しい権力分立の図式も考察しています。以下の図は、そのなかで描いたものの一つですが、その具体的な中身については、別稿で綴ります。

新しい権力分立の図式

おそらくブロックチェーンの新しさは、それがありとあらゆるメタレベルからのチートに晒されても、ひとまず存続しているという事実にこそあります。そのような事態は、今まで暴力によってしか達成できなかったことです。

我々自身、ここではお話しきれなかった仕組みを、苦痛トークンやESG投資の改良以外にもいくつか考えていますが、同様に誰もが、無数の新しい制度を想像できるはずなのです。

P.S.
この文章を作成中に「ESG投資」ということばが、それなりに説明を要する概念から、「わりと知られた時事ネタ」へと変貌しました。それは、ESG投資が、「投資」という「市場の心臓部」に位置する概念と、「環境E・社会S・統治Gの重視」というある種のフェアネス、つまり「市場の外部」をショートカットする、手品じみた概念だからだと思われます。

たしかにESG投資には希望があります。しかし、このまま行けばきっと失敗して、むしろ既に冷笑の準備を完了している人々を鼓舞する結果になるでしょう。ESG投資は、善意の形骸化に抗する免疫機構を、あまりにも欠いているからです。
 
ですが、初手の失敗は、それが希望であったことまでは毀損しません。
 
ある程度むずかしい数学の問題は、そもそも「何が困難なのか?」をはっきり見定めるまでで、やっと序盤です。近頃、われわれは「困難の兆し」だけで問題から逃げまわる、ワガママな、あるいは臆病な子供のようになっているのではないでしょうか? そのような子供は、問題が自分に解けないと感じるや、「終わった」と恫喝し、次の問題を探しに行くのです。Don’t Panic.