はじめに

このテキストは上妻世海の『制作へ』で提示された概念を手がかりに、詩という言語表現一般の制作をめぐるものです。制作するという行為そのものについての思考が書かれた本書を、実際の制作者や制作を志す人間が引き受ける際に重要となるのは、そこで提示される制作概念はどのように個々の表現ジャンルへと展開できるのかという問いであるとおもいます。執筆者自身は言語表現、とりわけ詩というジャンルの表現に携わる人間なので、『制作へ』を詩論として読みました。

さて、詩という言語表現はなぜここに書かれてあるテキストが詩なのか、つまり詩「以外」でないのかを説明することが非常に困難です。萩原朔太郎という近代詩人は、詩は言葉というよりもむしろ言葉を読んで喚起される感覚こそがその本質であると考えましたが、この指摘はなかなか的を得ています。なぜなら、たとえば「絵画的」「映画的」という形容は絵画や映画を担う媒体の固有性に由来する性質が見込まれているのに対して、なにかが「詩的」であると言い表されるとき、そこで注目されているのはたいていの場合、鑑賞者の情動を喚起させる表現の質だからです。「詩的な絵画」や「詩的な映画」は、それが詩というテキストに特有のなにかを含んでいるというよりも、「詩的」と形容するほかない感覚に向けられているわけです。

そうなると「詩」という表現は、言語だけを土台としているとは必ずしもいえないのではないか、という疑問が浮かんできます。であれば、詩という表現はなにをその本質的な土台としているのでしょうか。この「土台」を「媒体」と言い換えてみましょう。つまり、詩における媒体とは、なにを意味するのか? ここで、『制作へ』の巻頭テキストである「制作へ」で、しばしば「媒体との対話」という表現が用いられていることに触れてみたいとおもいます。詩を書くとき、詩人は言葉と対話をする以上に、なにと対話をしているのでしょうか?

媒体とは、そもそも対話が可能な対象として自明に存在するものなのか、どうか。メディウムの固有性に対する議論を思い返すとき、それはしばしば素朴な実在性においてとらえられてしまう傾向があります。制作において、作品は最後の最後まで姿をあらわすか(完成するか)わかりませんが、媒体そのものは作品に先行して、非芸術的な物質性を発揮しつつ私たちの目の前に存在している。その存在が疑われてしまえば、そもそも固有性を問うことさえできなくなります。

しかし、物質的な「素材」と作品の「媒体」にはいくらかの差異があると考えてみることはできないでしょうか。つまり、その固有性を問うに値する知覚が素材から引き出されたとき、私たちははじめて素材をとおして、つくられるべき作品を支える媒体との対話を立ち上げることができる。このとき、対話の条件そのものが不安定であらざるをえない詩という表現から媒体概念を考えてみることは、翻って詩に限らないさまざな表現における媒体のあり方を問いなおすための手がかりになるのではないかとおもいます。

第1章 上妻世海『制作へ』について

消費から制作へ

ひとまずは『制作へ』に収められたいくつかの文章と、同名の巻頭エッセイ「制作へ」における制作概念を急ぎ足で踏まえつつ、そこで用いられるさまざまな対概念を整理していきましょう。『制作へ』における「制作」という語は、単になにかをつくることを意味していません。というより、「なにかをつくる」ことそのものは、制作が担うある試みに比べれば、それほど重要ではないとさえいえます。それはひとつに、制作概念が「なにかをつくること」として同一視されやすい「決められた設計図通りに同じものを作ること」を意味する「生産」と区別されるものとして、もうひとつに、制作的態度が特定の制作物を「観る」側にも起こりえる(制作者/鑑賞者の差異に左右されない)事態としてある、ということです。

さて、『制作へ』で制作と対置される概念は、いま述べた「生産」と、一方で作品を受容する行為における「消費」が当てはまります。これらは制作とどのように異なるのか。鑑賞体験をめぐる具体例として、本書のインタビューからひとつ引いてみます。

消費的に「ピカソの絵っていいよね」と終わる前に、ピカソの人生を追っていったら、四次元思考の話に行くし、当時の数学によって空間の捉え方が変わったこともわかる。……好きなものを外側から見て消費するんじゃなくて、まずは自分の内側にピカソを取り入れて、自分がピカソになる。それだけで身体が複雑になっていかざるをえない。
上妻世海「制作的身体のためのエクササイズ

つまり、鑑賞においては「外側から見ること」と「内側から見ること」の対比が、「消費」と「制作」を区別しています。作品を外在的に観るのではなく、作品を内在的に経験すること。内在的な鑑賞は、作品の制作プロセスそのものを巡る経験へと私を巻き込むものとして起こり、場合によっては鑑賞者である私の思考や存在の様態が「組み替えられ」る。それは、必然的に従来の制作者/鑑賞者の区分や、鑑賞経験そのものの再定義へとつながります。それを端的に言い表すものとして、『制作へ』は「リバースエンジニアリング」という語を用いて、次のように解説しています。

また、僕は「リバースエンジニアリング」という方法を、鑑賞するときにも制作するときにも必要なものだと考えている。何故なら、リバースエンジニアリングを上手く実行するためには、単に好き/嫌い、良い/悪い、美しい/醜いといった価値判断に基づいて鑑賞/消費するだけでなく、潜在的な可能性へと潜り込み、観察者や制作者、モノなど様々な視点を往還しながら、複数の要素間の関係性を分析し、名前をつけることで抽象的な場を生成し、変換/操作可能性を作らなければならないからである。その動的な場所から作品を体験することは、もはや鑑賞者と制作者の間の差異がその人の中にある部分的な役割に過ぎないことを意味する。
上妻世海「神話的世界へ、僕の方法、そして、僕と異なる方法」

リバースエンジニアリングとは工学用語で、製品を分解しもとのかたちに組み立てなおすことで、その技術的構造を明らかにしようとする行為を意味します。言い換えれば、「内在的に見る」とは、制作者による制作プロセスを内面化し、作品を構成する要素や要素間の関係を見ようとする行為であり、この過程が制作者と鑑賞者の両者において求められること、そして制作者はものをつくる過程においてつくられつつあるものの分析(「内在的に見ること」)を絶えず行うことから、そもそも「制作者」と「鑑賞者」の区分は個人のなかで絶えず切り替わる「部分的な役割」にすぎないわけです。

制作的空間

さて、制作に対置されるふたつの用語として、「生産」と「消費」があると先に述べました。『制作へ』において賭けられる制作概念の可能性は、このふたつの語によって表現されるだろう、「近代」からの乗り越えにあります。生産や消費という概念を成立させるために不可欠なシステムは、「制作へ」では「近代制」と呼ばれていますが、その最たるものとして挙げられるのは「AがAであること」、つまりある対象の同一性を確保し、これを保証するシステムです。

個人の時代に代わるもの、それは、しばしば素朴に信じられがちなように、集団の時代なのではない。そうではなく、ある非人称の時代。なぜなら、個人の時代が終わったとすれば、問題は、主体=客体という二元論と、そして認識 → 伝達(現実の主体的な再現)という二重過程との上に成立してきた近代の古典的な認識論そのものの崩壊にほかならないであろうからだ。そして、このコギトの消滅のうちにあらわれるもの、それはそれ自体の存在における言語であり、イマージュであり、コミュニケーションでなくて、なんだろうか。
宮川淳『鏡・空間・イマージュ

「制作へ」はこのシステムについて、宮川淳の『鏡・空間・イマージュ』というテキストを引用しつつ説明します。近代という区分はなによりも私=主体と対象=客体の明確な分離、「私は私である」と「私でないものは私ではない」の確立にあった。それによって「消費」的な鑑賞態度、作品を外側から見ることが可能になった。

この分離について、重要な比喩となるのが「鏡」です。私たちは鏡を見ることによって、そこに私を発見し、同時に私が私であること=私の同一性を確認します。しかし、鏡に「私」が映り、それを「私」が見るという構造には、実は隠されたねじれの構造があります。「私が私であること」の確認が鏡をとおしてしか行えないのであれば、そこに映る「私」は鏡によってつくりだされた像であり、そして私の像と私を結びつけることで「私が私であること」の同一性が確認されるのであれば、鏡を見ずにこの同一性は保証されず、前提にもされていないのではないか。いわば、鏡は「私が私であること」を生産する装置であるといえるでしょう。このとき、鏡は自己の同一性が確認される「表面」と、その基盤となる「鏡のなか」というふたつの性質を持っていることが示されるのですが、この私の同一性の知覚の根源は、主体と対象という区分の設置、いわゆる二元論に基づく思考であるといえます。

「鏡」が二元論的知覚がおこなわれる場であるのなら、「鏡のなか」は二元論的知覚を可能にさせる場として存在することになるでしょう。

鏡を見ることは一般的に、主体としての私が対象としての私を見ることを意味している、と考えられているが、それだけでなく、主体と対象という二元論的知覚そのものを成立させる場所を見るという経験でもある、と言うのだ。そしてその場所こそ、宮川が「鏡の中に降りていく」と表現している場所なのである。ここに二つの「見る」がある。私が対象を見るという仕方、私が私と非—私を成立させる基体そのものを見るという仕方。鏡の表面と、その中。
上妻世海「制作へ」

重要なのは、同一性を生産するシステムが安定化し、自明視されることで、安定化した私が私でないもの=対象を観察するという、主体と客体の分離へとつながることです。近代とはこの自己の同一性と主客の分離を押し進めてきたと。

しかし、私と対象の二元論が近代制=「鏡の表面」の産物であるのなら、「鏡のなか」にはそれ以前の、非人称とでもいうべき場がありえるということになる。

《ぼく》の存在そのものの曖昧性はここから生まれる。それは決してあのいわゆる自我の非連続、不確実性を意味しているのではない。それは書くことの根源的な体験 —— 鏡の体験、二重化の体験であり、多かれ少なかれ、一人称の小説、いやすべての小説に内在する曖昧性なのだ。というより、フィクションとはおそらく、この二重化の危険な体験のいわば制度化によるエグゾルシスムではなかっただろうか。それによって、作家はおしゃべりの不毛な空間、この鏡のなかからのがれ出ることを、一方、読者は物語、この無意味なおしゃべりの背後に意味を求めることを許されるのだろう。
宮川淳『鏡・空間・イマージュ』

この「非人称」とは、制作者・鑑賞者として安定化された位置にある私ではなく、両者を行き来しながら、内在的に作品をとらえ、「私」の視点と「対象」の視点を行き来するような様態として、制作概念の核心になります。

モノと情報と人間は各々が自律的な役割を与えられ、それぞれが主と従を相互に奪い合いながら相互生成している。人間も含め世界を構成する全ての演算子は、観察するという特権的な地位を与えられていない。むしろ、全ては自己制作的であり相互制作的なのである。それは同時にあらゆる領域における定義の再編成を僕たちに要請するだろう。なぜなら、そもそも人間が自らのシステムを「感性」「悟性」「構想力」「理性」と整理し、世界を現象や確定記述の束として扱ったり、その外側をモノ自体として不可知に定めることを通じて、様々なモノの定義がなされていたからである。
上妻世海「消費から参加へ、そして制作へ

いわば、「制作へ」における制作概念は、近代化の過程で試みられた「同一性の確保」=「私が私であること」に代表される、主客の分離=連続的な世界の分節を前提とする消費的な身体とは異なる、べつの身体のあり方を、私たちに提案しているわけです。

消費は安定した自己同一性を前提としていますが、制作においてその安定性は突き崩され、そこでは「私でなく、私でなくもない」=絶えざる視点の交換や主従関係の往還が起きる、私と他者のあいだの連続的な中間領域が開かれます。この中間領域は「制作的空間」と呼ばれます。

ここまでで二つの存在様態があることを示してきた。一つには安定した自己同一性が対象を認識するという常識的な在り方、一人称単数小説のような私小説的コギトである。第二に、鏡の空間、イマージュとミメーシスによる魅惑の世界では、「私は私ではなく、私でなくもない」といった二重否定を伴った不安定な〈私〉が取り出された。……僕はここで、描くこと、書くこと、狩ることを通じて僕たちが降りていく、あるいは落ちていく空間を「制作的空間」と名づけたい。……僕たちは、制作という媒介によって、「制作的空間」に入る。制作するためには制作を介さなければならない。この一歩、降りていく経路、落ちていくまでの経路を無視してはならない。「制作的空間」には、世界観が前提とするような全体性は客観的に存在しないのである。
上妻世海「制作へ」

「制作へ」というテキストは、この制作的空間と呼ばれる領域を「制作」するために編まれたものであるということができるでしょう。

主語的統合と述語的統合

「制作へ」で、制作的空間の画定作業は宮川淳の「鏡/鏡のなか」に始まり、さまざまな対をとおして試行されていきます。対はきわめて簡略化すれば「上部構造/下部構造」のような図式を取っていて、制作空間は両者のあいだにありつつ、下部構造寄りの場所に位置づけられます。ここで、「制作へ」で用いられている対のなかでも代表的な例である、「主語的統合/述語的統合」を挙げてみたいとおもいます。この対に向けられた思考こそが「制作へ」の根幹をなす、「制作行為による身体の再編成」に関わるからです。

主語的統合および述語的統合は、中村雄二郎の『共通感覚論』というテキストから取られたものです。まず前段として、この対のもとになる鍵概念である「コモン・センス」と呼ばれる感覚について説明します。中村いわく、この語はふたつの意味を持っているといいます。

日常経験は、多くのわかりきったこと、自明なことの上に成り立っている。そのために、もっとも身近なものでありながら、かえってありのままにはとらえにくい。あまりにも身近で、多面的で、錯綜しているために、距離をとって一定の視点からとらえることができない。ここで要求されるのは、なによりも総合的で全体的な把握、それも理論化される以前の総合的な知覚である。その点からいうと〈常識〉は、現在ではあまりその知覚的側面が顧みられないでいるが、まさに総合的で全体的な感得力としての側面を持っている。常識とは〈コモン・センス〉なのであるから。というより、ふつういう常識とは、この〈コモン・センス〉の一面をあらわしたものにすぎない。たしかにコモン・センスには、社会的な常識、つまり社会のなかで人々が共通(コモン)に持つ、まっとうな判断力(センス)という意味があり、現在ではもっぱらこの意味に解されている。けれどももともと〈コモン・センス〉とは、諸感覚(センス)に相わたって共通(コモン)で、しかもそれらを統合する感覚、私たち人間のいわゆる五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)に相わたりつつそれらを統合して働く総合的で全体的な感得力、つまり〈共通感覚〉のことだったのである。
中村雄二郎『共通感覚論』

通常は「社会のなかで人々が共通(コモン)に持つ、まっとうな判断力(センス)」としての「常識」を意味するコモン・センスは、「諸感覚(センス)に相わたって共通(コモン)で、しかもそれらを統合する感覚」=「共通感覚」を同時に意味するというわけです。いわば、互いに異なる、バラバラな感覚を統合し、対象を知覚する動的な機能である「共通感覚」が、静的な枠組みとして固定化されることで「常識」が構成される。

彼は、ここで〈コモン・センス〉が本来持っていた二つの意味、〈常識〉と〈共通感覚〉を取り出している。〈共通感覚〉は、アリストテレスが用いていたように、五感を跨りそれを統合する感得力であり、感性と理性を結びつけ、想像力を司る場所であると言われる。そして、そこから広く一般に、人々に共有され制度化された判断が常識と言われるものになったのである。つまり、共通感覚とは一種の統合作用であり、それは生成を司るものである。そして、それが静的に固定化されたものが常識なのだ。
上妻世海「制作へ」

バラバラな感覚を統合する「共通感覚」と、それが固定化された「常識」。「鏡のなか」と「鏡」の対構造が、ここでは共通感覚をめぐる対としてパラフレーズされています。中村はこの共通感覚の考察をとおして、近代史に諸感覚の編成と変容の過程を見ていきます。共通感覚は単に諸感覚を統合するだけではなく、五感のどれかを中心として、それ以外をその下部に組織化していくわけです。たとえば、中性ヨーロッパでは聴覚優位の感覚編成があり、視覚はその下位に置かれていたと。「キリスト教会がその権威をことばという基盤の上においており、信仰とは聴くことであるとしていたからである」。

しかし、時代が推移するにつれて、やがて視覚に対する聴覚の優位という構図に転倒が起こり、近代化の過程で視覚優位の編成へと移行していきます。「近代文明にあっては、ものや自然との間に距離がとられ、視覚が優位に立ってそれらを対象化する方向に進んだのである」(『共通感覚論』)。つまり、「『主体–対象–属性』という認知の在り方が近代において成立」していきます(「制作へ」)。

重要なのは、こうした時代の推移に応じて共通感覚における五感の編成が変化することで、それが固定化されることで共有される、私たちの「常識」も変化していくことです。時代によって常識が異なるのは、共通感覚における五感の編成が時代ごとに異なるからだというわけです。

さて、このようにして「常識/共通感覚」の対は、後者における五感の編成の組み替えに伴い、前者を変化させる時代の時間性へと接続されます。中村はここで、よりミクロなレベルでこの対に動性を付与します。具体的には、ベルクソンの「運動図式」やメルロ=ポンティの「身体図式」をもとに、共通感覚における諸感覚の統合機能と、それをベースとした行為への能動的な意味付与機能を身体に搭載させていきます。「制作へ」で手際よくまとめられているので、そのまま引用します。

まず「運動図式」とは、「人間の身体は、生の有用性のために組織され習慣化された〈感覚—運動機構〉として捉えることができる。それは、生理学的な意味で、求心性の感覚神経回路と遠心性の体性つまり運動神経回路との連動機構であるにとどまらない。そうではなくて、主体の行動への身構え、つまり能動的な意味賦与の作用、とのかかわりで働くものとしての、そのような二つの回路の連動機構」である。このように「運動図式」を、これまでの五感に基づいた受動的な知覚概念とは異なり、体性感覚とくに運動感覚の全体化の働きのうちに、内部世界の無意識に根ざした、行動への意味と方向を賦与したものであると評価する。他方で、それはまだ人間の身体のもつ受動的かつ能動的という両義性を捉え切れていないと考える。そして、運動感覚をただ単に運動感覚としてではなく、深層の内部知覚として捉え直すために、「運動図式」に加え、メルロ=ポンティの「身体図式」を持ち出すのだ。
「身体図式」は、〈運動感覚〉を表層における外部とのかかわりとしてだけでなく、深層の内部知覚としても捉えるものである。通常、身体の内部知覚は意識の表層には現れない。しかし、それは実存的な身体の本質的基盤であり、しかも外部知覚と連続している。無意識の苛立ちや内臓の機能不全が気分に影響を与え、それが知覚や行動に影響を与えることは、日常的に理解できるものである。「身体図式」は、〈体性感覚〉としての〈運動感覚〉を、外部世界に行為として表層的に関連づけるだけでなく、気分として潜在的にかかわらせている、主体的で可能的な身構えのことを指す。
上妻世海「制作へ」

ここで注目されるのは、視覚や聴覚といった外的な感覚と、内臓感覚に代表される内的な感覚をつなぐ、〈あいだ〉の場所としての触覚である「体性感覚」です。中村は体性感覚における諸感覚の統合を「述語的統合」と定義し、述語的統合が固定化されたものを「主語的統合」と定義します。

つまり、「常識/共通感覚」の対に加えて、ここで「主語的統合/述語的統合」の対が持ち出されます。この後者の対は、共通感覚がいかにして常識へと変化するのかを分析するものとして、共通感覚を構成する論理に組み込まれます。

〈体性感覚〉は、〈触覚〉、〈運動感覚〉、〈筋肉感覚〉が、すなわち内側と外側が交差的に入り組んだ場所である。そして、その場所は、表層である特殊感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、平衡感覚)と深層である特殊感覚(臓器感覚、内臓痛覚)を相渡る場所であり、だからこそ中村は諸感覚(特殊感覚)の体性的統合を〈基体的〉統合とも〈述語的〉統合とも呼ぶのである。
上妻世海「制作へ」

共通感覚における五感の編成は、さらに述語的統合と呼ばれる体性感覚をベースとした諸感覚の編成として細分化されるのです。そして、主語的統合は、述語的統合における諸感覚の編成が可視化され、常識へと固定化されていく枠組みを意味します。

それが〈基体的〉統合だけでなく〈述語的〉統合と呼ばれる理由は、お察しの通り、諸感覚の〈主語的〉統合と言うべきものがあるからだ。これは〈共通感覚〉と〈常識〉の対概念に相当するものである。つまり、僕たちが暗黙の裡に用いている知覚の構造、近代図式、主体—対象—属性という構造が、〈主語的〉統合と呼ばれるもの、そして〈常識〉にあたる。……〈主語的〉統合が、時代、地域、そして人によって異なるのは、この〈述語的〉統合が別の〈主語的〉統合を「制作」する潜勢力を持っているからである。
上妻世海「制作へ」

述語的統合における諸感覚の編成が、主語的統合をつくりだす。それは時代や個々人の差異に応じて複数あると。ここまでは常識と共通感覚の対にほぼ近しく、実際に「相当する」と「制作へ」では述べられていますが、単なる言い換えではないことに注意しましょう。共通感覚が主語的なものと述語的なものに分けられているのは、この感覚の統合の仕方そのものが時代において変化するという、歴史的過程との関係を記述するために試みられているからです。

そして、この主語的統合の次元こそが常識を準備する。述語的統合の次元で果たされた五感の編成=主語的統合は、いったん組織化されると、今度は述語的統合を制限し、その統合作用の方向性を抑制する働きを持ちます。この過程が社会的な次元へと拡張され、反復されたものが、常識と共通感覚の対であるわけです。

重要な点は、主語的統合は述語的統合の上に成り立つとは言え、ひとたび成り立つと述語的統合を方向づけるようになるということである。つまり、主語的統合が強烈に優位になると、述語的統合が異なる身体を「制作」することを抑制するようになる。人と違うからとか、常識的ではないという理由で、違和感や差異を無視したことは誰にでもあるだろう。
上妻世海「制作へ」

以上を簡単にまとめてみると、人々のあいだで共有される常識という観念があり、それはそのつどの時代の人々によって共有されている五感の統合と編成=共通感覚の変化に対応している。共通感覚は主語的統合と述語的統合の対に分けられ、編成そのものの変化は述語的統合の次元で行われる。編成の組み替えは主語的統合の変化によって可視化されるが、主語的統合が形成されると述語的統合の作用を限定してしまう。この主語的統合によって常識がつくられる、と。

そして、この主語的統合が「制作へ」においては近代制がもたらす同一性の確保や自他との区別=対象化のシステムになぞらえられます。ここで制作的空間は、主語的統合と述語的統合のあいだを切り開き、述語的統合=五感の組み替えによって身体を作り替える、そのための領域として要請されます。

要するに「制作」とは、この〈共通感覚〉という暗闇へと降りていき、新たな五感の秩序を形成すること、それぞれの身体を独自の身体として生成することにあるのだ。

……中世から近代にかけて〈述語的統合〉として近代の視覚中心の〈主語的統合〉が制作され、近代の只中では、その視覚中心の〈主語的統合〉から、また別の身体の制作が行われていた。一九世紀後半から二十世紀前半は、現在僕たちが置かれている状況と非常に似たものであった。機械化の波が、人々の生活を激変させ始めていた。モダニズムの芸術家たちは、動植物だけではなく、近代社会の只中で、異質なパースペクティブを取り込むことで、感応的知覚を取り戻し、それぞれの身体を制作していたのである。

上妻世海「制作へ」

制作的空間の足場としての作品=主語的統合

さて、このようにして「制作へ」における制作的空間の持つ意義が明らかになりました。制作的空間が位置づけられるのは主語的統合と述語的統合の「あいだ」ですが、組み替え自体は述語的統合の次元で行われます。制作とはこの身体の組み替えを行う行為を意味する。

では、一方で制作をとおして生み出される作品はどのように位置づけられるのでしょうか。「制作へ」において作品が持つ意義は、近代制と制作的空間の両者に関わるものとして想定されます。しかし、重要なのはなによりも制作そのものであるとくり返し「制作へ」では述べられ、作品そのものはあまり特権的な地位を与えられていません。むしろ、制作過程で生み出される副産物であるとさえ形容されます。

芸術家とは「作品」を作る人を指すのではない。上記のように、「作品」は、あくまで「制作」という媒体との対話を通じて、私と非–私が不安定に循環し、私と対象それ自体を生成し、その中で〈あいだ〉に生じるものが〈形〉として外在化されることで、外側から見たときに「作品」と呼ばれるだけのことなのだ。それは同時に「作者」と「読者」を生む。しかし、それは副次的なことである。重要なことはそれぞれの諸感覚を再構成すること、それぞれの身体を制作することである。
上妻世海「制作へ」

つまり、作品は主語的統合(主体と対象の峻別を担うシステム)を不安定化させ、主体と対象が絶えず往還しあう「あいだ」の空間である、制作的空間の外在化において生じるものにすぎないと。作品は、述語的統合に対置される主語的統合、ないしは常識のようなものと平行関係にあります。常識は特定の時代において、共通感覚が固定的なものとして外在化され、だれかへと共有・伝達される過程を意味するからです。イコールで結べば、述語的統合=五感の再編成=制作は、それが外在化されることで主語的統合=常識=作品となる。そしてある作品が人々のあいだで共有されるにあたって、近代制のもとで作品に同一性が与えられ、流通する過程を不可欠とします。その意味で、作品という存在を支えるのは近代制というシステムの側によるものです。

「私が私であること」を保証するために作り上げてきた一連の制度を、近代制と呼んでもよいくらいだ。絵画という制度、作品という制度は、まさにそれらを象徴していると言えよう。
上妻世海「制作へ」

なぜ、「作品」は制度を象徴するのか。作品は「私が私であること」に通じる同一性の保証を可能にする制度として、「作品が作品であること」の同一性を保証する制度を必要とするからです。そして、この保証を通じて私たちは作品を消費し、場合によっては同一性のレベルを操作することで、図録や複製物といった作品の(ある一定のレベルにおける)等価物を生産しさえします。

しかし、近代制のベースとなる主語的統合は、単に否定されるべきものではないことに注意しましょう。「私」や作品の同一性を保証する主語的統合は、制作をとおして乗り越えられるべきものではなく、制作的空間そのものが充填されるべき「あいだ」をつくるために、不可欠な要素でもあるのです。「制作へ」では、しばしば制作的空間における制作や、述語的統合における諸感覚の組み替えが強調されますが、こうした制作が可能になるのは、私たちがすでに主語的統合を備えているからです。べつの主語的統合をつくるためには、「この」主語的統合=「鏡」を通じて、「鏡のなか」に降りていかなければならないのです。

そしてこのとき、べつの身体=主語的統合の生成を成し遂げた結果の副産物として外在化される作品は、一方で私でない他者におけるべつの主語的統合をつくりだすための足場になります。

「作品」とは「制作」の外在化であり、制度化である。しかし、それは同時に、いつか、どこかで、誰かの、次の、身体制作への足場となるものでもある。僕が今、彼が作った足場に立っているように。つまり、「作品」とは外在化であり、誘惑であり、誘惑された者たちの、小さな部分的共同性を生成する装置でもあるのだ。
上妻世海「制作へ」

自他の対象化と同一性を確保する近代制は、むしろ近代制に還元することのできない制作的空間の持つ非人称の次元を他者に送り届ける機能を同時に担う。主語的統合は一方でべつの主語的統合へと移行する、述語的統合の組み替えを可能にする足場であると同時に、他方では他者が組み替えを行った足場の誘惑を可能にするのです。

場合によっては、個々の表現ジャンルにおける歴史性を過度に相対化する読みを『制作へ』は許してしまうかもしれません。それは作品そのものへの軽視というより、作品が持つ制作過程の固有性が、制度によってつくられた同一性へとすり替えられてしまうことへの問題提起であり、その意味でこうした態度は選択的に取られたものである点に、注意しておかなければいけません。

作品は制作の外在化による副産物であるが、私たちはそれをとおして他者の制作的空間を仮想的に自らのうちに取り込み、あらたな身体の生成=述語的統合の再編成を行うことができる……この指摘は見逃せませんが、ところで、この「外化された他者の(私の)制作的空間」としての作品が備える主語的統合は、近代制という一本の太い線だけなのでしょうか。言い換えれば、述語的統合によって相対化され、べつの主語的統合への移行が試みられるとき、私たちの可能な身体のあり方を制限しているのは近代制や、それを象徴する巨大な主語的統合「だけ」なのでしょうか。「制作へ」で、「〈主語的〉統合が、時代、地域、そして人によって異なる」と述べられている点を確認しましょう。時代や地域だけではなく、個々人によっても異なる主語的統合。それなら、常識そのものがなぜ通じるのか。それは、時代と地域、個々人でそれぞれが異なる主語的統合を備えているのではなく、そもそも主語的統合と呼ばれるものが個人のパースペクティブにおいて複数存在することを意味するのではないでしょうか。

「媒体との対話」をめぐって

複数の主語的統合は、時代や地域、共同体、個々人といった複数の階層に渡って存在し、私というパースペクティブのなかでそれらは共存し、私が私であることの同一性を維持させる。このとき、近代制は同一性そのもののフレームをつくりだしたシステムとして想定されつつ、その同一性を維持する機構は階層ごとに異なっている、と見ることができるでしょう。

ここにあるのは私の複数性ではなく、私の同一性の複数性ともいうべき事態です。述語的統合におけるべつの身体の生成、つまり制作は、生産的・消費的な身体のあり方を迫る近代制からの相対化を試みつつも、「近代制」の語だけには単純に還元されない、複数の同一性の維持システムとの緊張関係に置かれることになります。

このようにして近代制という巨大なシステムを土台としつつも、複数的にあらざるをえない主語的統合を、個々の制作の現場からとらえてみることが、制作を考える上で重要になるのではないかとおもいます。端的にいえば、述語的統合における五感の再編成に、複数の主語的統合の再編成を絡ませること。

近代という抽象的な時代区分を単一の主語的統合として扱うことで、そこからの乗り越えをはかるにあたって必要となる「足場」のなかに、制作と密接に関わる複数の主語的統合が温存されているのではないか。そうした制作的空間に絡みつく複数の主語的統合を細分化し、一足飛びではなく多分に緊張をはらんだかたちで、べつの身体の制作を試みる必要があるでしょう。

それを考えるにあたってひとつの鍵となるのは、「制作へ」でしばしば述べられる「媒体との対話」です。制作主体を主語的統合から解放し、述語的統合における五感の組み替えの舞台となる「媒体」は、絵画であればキャンバスや絵の具、彫像であれば石であり塑像であれば粘土といったように、主語的統合からの制限を逃れて制作主体の五感をフル稼働させてくれる存在といえばいいのでしょうか。あまりにも強い説得力を持って私たちの身体に迫る物質性は、そこに制作的空間をありありと現出させます。

環境によって身体を作られるな。作られつつ、作ること、作りつつ、作られること。受動的な状態から往還的な状態へ移行すること。能動的な状態ではない。それは幻想にすぎない。自分勝手な幻想を媒体に投影するな。媒体には媒体に固有の特性がある。媒体と対話することで私と対象の双方が生成される。事前にすべてを把握する主体は存在しない。
上妻世海「制作へ」

この引用は「制作へ」における「媒体との対話」がもっとも詳しく書かれている箇所です。「自分勝手な幻想」とは、制作主体が制作の素材に対して二元論的に向き合い、前者が後者に対して制作をおこなうという、本書で描かれる制作論が批判すべき「近代的な」制作態度です。そうではなく、制作者/対象という区分は、制作的空間に降りていき、「対話」をとおしてはじめて生み出されるのです。

しかし一方で、対話される「媒体」とはそもそもどのような存在を念頭に入れているのか、という疑問が浮かびます。ひとまずは私=主体と対象の区分を新たに生成する基盤となり、述語的統合の組み替えによる、べつの主語的統合への移行を可能にする制作的空間が、媒体の持つ特性であると見ることができます。このとき、媒体という語は制作的空間を身体に引き起こすものとして、近代制の制限から外れた中性的な概念として用いられています。また同時に、素材が持つ物質的な説得力によって、その実在性はあらかじめ担保されているともいえます。

媒体が制作的空間の基盤となること、それ自体は積極的に肯定すべきですが、その詳細な議論は「制作へ」においてあまり多く語られてはいません。ある主語的統合を備えた身体がその五感を述語的統合の次元で組み替えようとするとき、媒体はどのような存在として制作する身体のまえに到来しているのか。あるいは、このときすでに制作者の(意識的なものであれ、無意識的なものであれ)認識の投影として、媒体は無垢な物質性とは異なる次元の性質を備えてしまっているのではないか。

本テキストは、先ほど述べた複数の主語的統合と述語的統合の関係を、制作における媒体概念の議論によって分析できるのではないかと考えます。なぜなら、媒体は制作に関わる限りにおいて、既存の主語的統合からまったく自由なものではなく、むしろ複数の(細分化された)主語的統合に依存するものだからです。たとえ素材の物質性が制作主体の主語的統合を突き抜けて、その奥にある述語的統合に直接な作用をもたらしたとしても、たとえば素材を選択する過程や素材そのものへの操作の吟味は、主語的統合からまったく自由であるとは必ずしもいえないでしょう。むしろ、ここで制作につきまとう複数の主語的統合と述語的統合の往還関係を視野に入れ、それらを媒体そのものの問いへと送り返していくことで、より細密に制作的空間を取り巻く複数の視点の関係を描き出せるのではないかとおもいます。

第2章 岩成達也「詩的関係」について

詩の言葉における「第二の意味」

さて、複数の主語的統合と媒体の関係を分析する上で、本テキストは言語表現、とりわけ詩がそのモデルになるのではないかと考えます。というのも、詩は言葉によってつくられるものでありながら、言葉そのものをその中心的な媒体として提示することができないからです。俳句や短歌であれば音数律というフレームとの参照関係から、両者を区分することは基本的に可能です。しかし、音数律を基盤としない詩、たとえば散文詩は、単なる散文とどうちがうのか。際立って詩的な言葉が用いられているわけでもなく、改行もされていないテキストが、場合によっては詩として提出されることもあります。いわば、詩における言語とは、単に物理的な材料のようなものにすぎないのです。「詩は言語でつくられる」と主張するだけでは、詩が「散文」と異なることを提示することができず、決定的に抜け落ちてしまうなにかがある。

単に言葉そのものの物質性を強調するだけでは、常にそれが単なる言葉、詩ではない言葉(たとえば小説の言葉)と見分けがつかないことで、言語だけでは詩の媒体になりえない。メディウム・スペシフィックではあることのできない詩。詩という言語表現において媒体に相当するものは、言語だけではないのです。翻って、制作における媒体を考える上で、詩と散文を巡る過去の議論をあらためて参照する意義が多分にあるでしょう。

こうした詩の問題を考える上で、かつては非常に参照される機会の多かった書き手として、岩成達也の理論を叩き台にしてみます。彼は、詩を言語による世界認識、およびそこで果たされる私たちと世界の関係の問題として考えつつ、そうした認識=関係そのものと詩の「あいだ」の問題について触れています。詩とは言葉でつくられる以上に、言葉によってつくられた世界の認識、つまり私と世界との関係こそが、詩の構成要素であると。

正直なところ、岩成の詩論はかなり異様で、「詩とはなにか」をめぐってそれなりに多くの書き手が言葉を費やしてきた歴史のなかでも、とくにその難解さにおいては他を抜きんでているとおもいます。彼はとりわけ言葉を用いた私と世界の関係に重きを置きましたが、そこで用いられる「世界」や「現実」、「関係」といった語彙を多重に複雑化させ、文脈によってそれらが担う意味は微妙に異なっている上に、その差異をさらに語彙にフィードバックさせて「非現実的現実」や「非現実的非現実」など、ねじれた定義分けが目立ちます。

詩を語る上で避けられないある種の「言いにくさ」のようなものを全身で引き受けようとするなかで議論が込み入ってくるのは、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』や菅谷規矩雄の『詩的リズム』といった書物に共通する点ではありますが、岩成は客観的な公理を詩に見いだそうとするなかで、同時に読み手や書き手の主観的な側面をそこへと回収しようとすることで、主観的なものと客観的なもののあいだのねじれが議論のなかにもつれ込んでいるような印象を受けます。

岩成の理論を解説するにあたって、『詩の方へ』という書物から引用してみます。冒頭にある「詩(論)を求めて」というエッセイで、彼は言葉を表現の基礎素材とするだけでは、詩が「散文」との区別がつけられないと指摘しています。

絵画は線と色でつくられ、音楽は音でつくられる。では、詩は何でつくられるのか。あまりにも当り前の答えですが、詩をつくるものは言葉です。しかし、困ったことに、言葉は詩だけではなく、散文もまたつくるのです。のみならず、普通、言葉は意味から切り離せませんから、言葉の組み合わせ↔意味の組み合わせ↔概念の束(世界)という経路で、たちまちにしてそれは散文になってしまうのです。
岩成達也「詩(論)を求めて」

「散文もまたつくる」とは、言葉によって詩が書かれるほかに、メモや報告書、日記、小説、シナリオなど、「詩ではないもの」もまた、言葉によって書かれるということです。そのため、岩成は「この言葉が詩であること」を保証し、それを提示する「制度」が、詩を書く上では絶えず必要とされてきたと考えます。制度、というと輪郭がぼやけてしまいそうですが、とりあえず「このように書けば詩として読まれる」というルールが強固になり、固定化されたものととらえていただければとおもいます。その制度の代表的な例として、岩成は「抒情」と「行分け」を挙げています。

抒情とはいったい何でしょうか。ごく簡単に言えば、それは意味のさしだしや概念表出ではないこと、つまり、感受(特に感情に係わる)の総体のさしだしだ、ということでしょうか。一方、行分けとは、一口で言って、散文ではないという宣言であり、行間の概念飛躍を容認するというか――むしろ、行間での概念の非連続、意味の跳躍そのものに「内容、または第二の意味を読みとれ」とする仕組みだと思われます。
岩成達也「詩(論)を求めて」

制度は、ある言葉が「意味のさしだしや概念表出ではないこと」を伝達するもの、いわば意味の伝達が一義的な目的とされない言葉を設計するものであり、意味に替わるものとして「感受の総体のさしだし」や「概念飛躍」といったものを、制度は言葉から引き出そうとする。「感情に係わる感受」という言い回しは、詩が詩的な感情そのものを不可欠の要素とするといった萩原のような議論を相対視する意図があるのではないかとおもいます。

さて、岩成は「抒情」や「行分け」が制度であると述べていますが、とはいえこれらが不要であると考えているわけではないことを、補足しておく必要があるでしょう。後述しますが、この二つの表現がやり玉にあがっているのは、これらがなければ詩として読めないという認識が人によってはありえてしまうこと、このふたつが詩的言語を担保する上で覇権を握りすぎていて、詩を書く上でほとんど慣習化されているからです。そうした状況は「抒情」や「行分け」があれば詩になるという、短絡した思考に結びつきかねない。

しかし、同時に「抒情」や「行分け」はその慣習としての側面以上に、制度として覇権を握るに足る機能を備えていることが、一方では指摘されてもいます。岩成によれば、「抒情」や「行分け」という「制度」を利用することによって、言葉は「通常の意味」を奪われ、「第二の意味」が与えられるといいます。

この二つの「制度」に共通する仕組みの働きは、本質的には、言葉からいったん意味を奪ったうえで、その上に第二の意味を発生させるということにありました。……つまり、言葉から意味(概念)を奪うと同時に、意味を奪われた言葉の組み合わせが第二の意味を発生さえさせることができれば――詩が成立するとひとまずは見做すわけですから、そこでは様々な仕組みの試みが可能になります。
岩成達也「詩(論)を求めて」

言葉から意味を奪い、意味を奪われた言葉の組み合わせから生じる第二の意味によって、詩ができる。このとき、「奪われた意味」と「第二の意味」の対が散文と詩の文章の差異に相当します。この対は「制作へ」における「科学革命以降の言語」と「感覚・身体的な言語」の対と同様に、固定化され、安定性を備えた社会的な言語と、身体性(感受)を備えた言語という、言語における二つの様態を指し示すものです。

詩的関係と媒合機能

しかし、岩成は詩がいわゆる詩的言語と呼ばれる言語から構成され、それが「日常言語」もしくは「社会的言語」と対置されるという、詩的言語の実在性ではなく、言語から意味が奪われたり与えられたりすること、つまり、言語と意味のあいだの間接性に注目します。言語は意味を持つにあたって、特定の環境や話者の「関係」を経由する必要があるのです。その上で意味を散文的なものから詩的なものへ変えるために、抒情や行分けといった制度に代表される仕組みが存在するわけです。

ここで、岩成は「通常の意味」と「第二の意味」を「散文的関係」、「詩的関係」と言い換えながら、詩とは言語を用いる人間の想像力と「現実」のあいだの関係=認識を取り扱うジャンルであると考えます。

少なくとも私にとって、想像力とは〈現実〉と間接的な関係を結ぶこと、もっと言えば、〈現実類同物〉とでもいったものを介して〈現実把握〉を行うことを意味していた。ちなみに、私は詩に興味を持った当初から、詩は現実/世界を把握する営為、この意味ではある種の認識(類似)行為だと考えていた。
岩成達也「詩についてのごく僅かの手掛り

私(達)は抒情と行分けよりなる作品が、あるいはこのいずれかを主要な特徴とする作品が、詩作品ではない、と言っているわけではない。私(達)が見いだしたいと思っていたのは、むしろ、抒情や行分けもそこに含むような、より〈根源的な〉一つの関係系なのであった。
岩成達也「詩についてのごく僅かの手掛り」

しかし、私/世界の関係の現実類同物としての言語をとおして現実を認識する過程は、散文的関係(通常の言語使用)においても同様に見られます(というより、これは言語が言語であるための根源的な要素のひとつでさえあります)。現実類同物は「非現実」のものとしてありつつ、「現実」を認識するためには不可欠である。つまり、非現実はイコール現実ではないことを意味せず、むしろ現実を構成する要素でもある。彼は散文的関係を「現実的非現実」、詩的関係を「非現実的非現実」と呼んだりします。

さて、散文的関係と詩的関係はどのように異なるのでしょうか。岩成は、散文的関係は「現実」たりうる安定性を備えた関係である一方で、詩的関係とはある異常(=第二の意味の付与)があり、そのために不安定化していると述べた上で、その条件をつぎのように定義します。

①詩的関係が成立する場合、言述の〈表現(形相):内容(形相)〉関係が必ず異常(不十分/過剰)である。
②詩的関係が成立する場合、言述の連辞–連合関係(その支配のあり方)が異常であることが多い。
③ー1:詩的関係は本質的に不安定である。
③ー2:あるテクストが詩(作品)であるためには、(明示的であるにせよ、暗示的であるにせよ)関与者の宣言を必要とする。(同前)
岩成達也「詩についてのごく僅かの手掛り」

散文的関係は安定化し、共同体内で共有化された言語による世界認識を意味し、詩的関係はそこで用いられる意味から逸脱した言語による世界認識を意味する。しかし、詩的関係は不安定性をどうにかして回復される必要がある、と岩成は述べます。つまり、詩的関係の不安定性、異常性は、そこに「第二の意味」を与えることで安定化される必要があります。また、岩成はべつのテキスト『詩的関係の基礎についての覚書』で、安定化は言葉の「媒合機能」によっておこなわれる、と述べます。

〈表現:内容〉が不充足である場合の典型例は、〈表現:内容〉関係が不十分にしか成立していない場合、あるいは〈表現:内容〉関係が過剰に成立している(通常の用語では「一義的に確定し得ない」)場合のいずれかが与えられるであろう。ところが、これらがコノテーション関係(乃至は詩的関係)に係わっている場合には、これらの二つの例を通じて、次のような現象が認められるのである。まず、この場合の〈表現:内容〉関係を、更に小さい単位へと分割していくと、ある小(関係)単位があって、そこでは〈表現:内容〉関係が一応は充足されている。……しかも、多くの場合、それらの小関係単位での表現形相や内容形相の中には、別のある小関係単位での表現形相や内容形相に対する一種の対立/同調の指標(とでもいうべきもの)を担っているものがある。そして、この場合、さきほどの媒合機能は、これら対立/同調の指標を手掛かりとし、これら対立/同調を統合する新しい構造 —— したがって、その構造よりもたらされる「第三の」内容形相 —— の造出を通して自らを実現する。
岩成達也『詩的関係の基礎についての覚書』

媒合機能は一連のテキストから見られた複数の詩的関係を束として、そこからかろうじて安定化が確認できる意味をとおして、詩的関係の構造化をもたらすものです。ここには制作に参与する制作者の介在が前提となるので、言葉の持つ機能というより言葉を書き、読むことをめぐる私たちの認識の機能であるように読めます。つまり、いったん異常性として把握された詩的関係に対して、その異常性が担うべき意味や構造を、私たちは他の詩的関係との関係から見いだそうとせざるをえず、結果として不安定な詩的関係は、その外部である他の詩的関係を拠り所として、散文的関係とは異なる安定化=新たな統合を果たします。複数のテキストと私のあいだの、個々に不安定な認識=視点を飛び移り、詩的関係を安定化できる第二の意味を探索すること(上記の引用では、「第三の内容形相」に相当するもの)。それが詩を読むという行為にほかなりません。

さて、ここまで見てきた散文的関係と詩的関係の対にあたって、岩成の議論ではソシュールなどの構造主義言語学における「ラング/パロール」や「デノテーション/コノテーション」の対が援用されていることを補足しておく必要があるでしょう。というのも、パロールおよびコノテーションは、彼によれば言語使用者が前–言語的な身体を持つことに由来し、言語が「主体の介在によって『無数の滲みを持つ意義』」を含んでいることで生じるものであるからです。つまり、詩的関係は前言語的な身体が言語に介在することによって生じ、その不安定性を回復させる媒合機能もまた、私たちの身体が他のテキストやテキストの外と関係することによって可能になるのです。

言語と同時に身体があり、その身体をとおして不安定性が知覚され、詩的関係が生み出される。「制作へ」の言語観もまた、こうした言語の母胎となる身体を問題としています。

ここまでロゴス的論理と言ってきた慣習的で指示的な言語は、本質的に二次的で派生的なのだ。もし言語が純粋に理性的で恣意的なコードではなく、「肉的相互交流と参与=融即から生まれる感覚的で身体的な現象」であるならば、私たちの言語は人間という種以外のものの身振り、音、リズムからも影響を受けていると言えるだろう。……それは身体が自然に根を下ろした状態なのである。そうでなければ、言語は死んでしまうのだ。主語的統合を作り変え続けなければならない。それが身体を制作するということなのである。
上妻世海「制作へ」

「慣習的で指示的な言語」は、言語の社会的な使用を支える一方で、その活動を制約するものでもある主語的統合です。慣習や指示性だけを言語の特質とすると、述語的統合の次元にある融即的な言語を見いだすことができない。「制作へ」において、「融即」的な言語とは「主語的統合のように主体と対象が分離された状態での知覚ではなく、主体と客体が未分化の状態で相互に影響を与え合う知覚」に根ざした言語として、「慣習的で指示的な言語」の以前に設定されるものです。媒合機能における複数の詩的関係の交差は、詩的関係の不安定性という「なにが意味されているのか」を探索せざるをえない、ある種の主客の分節の破綻につながる知覚であることを踏まえれば、「制作へ」の議論を

  • 散文的関係=「慣習的・指示的な言語」=主語的統合としての言語
  • 詩的関係=「融即としての言語」=述語的統合としての言語

と、岩成の理論に結びつけてみることができるのではないでしょうか。つまり、散文的関係と詩的関係を、主語的統合と述語的統合の対から見ること。詩的関係は通常の意味=散文的関係=主語的統合(的な言葉)とは異なる言葉、そこから逸脱する言葉です。そして、それは主語的統合に対置される述語的統合(的な言葉)としてあらわれつつも、不安定な関係(言葉)に意味を見いだす対象化の過程(媒合機能)を経て、文章単位での主語的統合が行われている。形式化すれば、詩的関係の把握は「主語的統合=散文的関係↔述語的統合=詩的関係(→主語的統合=第二の意味)」という手続きで立ち上げられていくことになります。詩は、こうしたテキスト単位での主語的統合と述語的統合の往還関係をもとに書かれていくのです。

「関与者の宣言」の不確定性

ところで、以上で述べた詩的関係の発現と媒合機能による把握=回復の流れが、そのまま詩を意味するわけではないことが、詩的関係の定義の最後で不穏に示されています。あらためて引用すると、「あるテクストが詩(作品)であるためには、(明示的であるにせよ、暗示的であるにせよ)関与者の宣言を必要とする」の箇所です。「詩(論)を求めて」にも、制度としての行分けが「散文ではないという宣言」を意味すると述べられていますが、最終的にテキストを詩として提出する、この「関与者の宣言」とはなんでしょうか?

これについてより詳しく見ていくには、岩成達也のべつのテキストを参照する必要があります。詩的関係についてのより詳細な記述がある『詩的関係の基礎についての覚書』で、彼は該当の定義を次のように分解しています。

(1)あるテキストが与えられたとき、そこに含まれる個々の詩的関係を(個々の宣言に基づいて)間主観的に確定することはできる。しかし、そのテキストが詩(作品)であるかどうかは、そのテキストが与えられただけでは間主観的に確定しつくすことができない。
(2)あるテキストが詩(作品)であるためには、そのテキストへの関与者(作者、読者等)がそのテキストを詩(作品)であると宣言する必要がある。
岩成達也『詩的関係の基礎についての覚書』

詩が詩であるためには、「このテキストは詩である」という「関与者の宣言」が最終的に要請される……これでは、「詩として書かれたものが詩である」という、同語反復のような議論に聞こえます。しかし、ここで岩成は「詩と散文のちがい」について触れた、当初の議論を蒸し返しています。つまり、テキストからは客観的に詩と散文を区別できないという、他の言語表現との識別可能性の希薄さが、「宣言」の存在を要請しているわけです。

詩は言葉でつくられるが、言葉は詩以外のものもつくる。そのため、彼は詩的関係という、テキストから発見される異常な認識への知覚をとおして、詩を構成するテキストの条件をそのテキストへの関与者(制作者および読者)に求めたのでした。しかし、それは一方で、詩的関係が詩を保証する客観的な指標にはなりえないことを、同時に表明してしまってもいます。

すべての関与者に対して詩であるようなテキストは理論上存在しない。何故なら、あるテキストが詩であるためには、関与者との関係において専ら詩的関係が成立しなければならないが、すべての関与者に対してこのような関係が成立し得るかどうかは、一般論としては確言できないからである。
岩成達也『詩的関係の基礎についての覚書』

ここで、詩的関係を成立させた(とみなされる)制作者と言語の関係が、さらにそれを読む読者とテキストのあいだで検証されています。私において詩的関係を担う文が、私でないだれかとも詩的関係を持ちうるか、どうか。それが不可避的に求められつつも、しかし実際に果たされうるのかどうかが担保されていない……「制作へ」の議論に転用すれば、述語的統合における五感の組み替えという内在的な行為が、詩作品そのものの組織化の水準で起きているのです。詩的関係の量子性は、詩的関係が詩的関係であることの条件である(散文的関係との対から見られた)不安定性へとつながりつつも、客観的な安定性を欠如していることそれ自体によって、詩的関係は詩作品を保証できない。だからこそ、このテキストは詩であるという「宣言」が必要とされてしまうわけです。

しかし、この詩的関係が持つ不確定性は、詩を成立させるための「宣言」そのものの不確定性にも食い込んでいきます。

例えば、新聞記事の断片を詩(作品) —— オブジェ —— として読むことはしばしば可能であるが、執筆者たる記者との関係においては、多くの場合、明らかに詩的関係は成立していない。また逆に、作者および多数の読者に対して詩(作品)であるようなテキスト(例、「行分け詩」)でも、作者の宣言(「行分け詩」の場合には行分け表現そのもの)を識別し得ず、識別し得たとしてもそれにより詩的関係が成立しないような関与者に対しては、それは詩(作品)であることができないからである。つまり、宣言の存在でさえも、詩(作品)成立のための必要条件ではあっても、十分条件ではないのである。
岩成達也『詩的関係の基礎についての覚書』

たとえ「行分け」でテキストが書かれていても、「行分け」=詩の「宣言」という「制度」が共有されていない関与者や、「制度」を理解していてもそこで書かれたテキストに詩的関係を見いだせない関与者にとって、そのテキストは詩ではない。詩的関係の不安定性が詩の不安定性へと滲みだし、行分けに代表される制度を含めた「宣言」と強く拮抗しあっています。

当然ながら、こうして関与者の差異によって量子的であらざるをえない詩作品は、そこで知覚される詩的関係の様態さえも個々の関与者によって複数化されます。つまり、私があるテキストから読み取った詩的関係は、必ずしも他のだれかにとっても同じ詩的関係であるとは限らない。

更に、あるテキストが複数の関与者に対しそれぞれの詩(作品)である場合も、それらの詩的関係が関与者の間で共通しあるいは同一である —— とはかぎらない(関与者による詩的関係の「滲み」)。
岩成達也『詩的関係の基礎についての覚書』

このようにして、「宣言」をめぐる不確定性へと議論が展開されていくにつれて明らかになるのは、そもそも岩成が述べる「宣言」とは、それを発し、聞き取ることができるかどうかという私たちの知覚・判断レベルの問題であるということです。また、先ほどの引用で「宣言」に「行分け」という表現形式が含まれている点にも注意しましょう。「宣言」が明示的であったり暗示的であったりするのは、それがテキストに対する関与者の知覚・判断の次元(あるテキストが詩・詩的関係であるという知覚)や、表現形式そのものも含んでいるからです。いわば、該当のテキストを詩作品として認識することが妥当な表現という、形式と知覚・判断のセットが「宣言」と名づけられているのです。つまり、「宣言」はテキストに対するなんらかの特筆すべき知覚を土台とする詩的関係の成立の条件と、程度の差こそあれ同一の基盤を共有している。であれば、ある意味で「このテキストは詩である」という知覚は、必ずしも詩的関係と無関係であるわけではなく、むしろその成立の条件において両者は同じく関与者の知覚を必要としていると見なすことができるでしょう。

弱い主語的統合

さて、「宣言」の定義をめぐって取り出された不安定性・不確定性を、あらためて散文的関係と詩的関係の対から確認した主語的統合と述語的統合、べつの主語的統合への移行へとつなげてみます。

詩的関係とは安定的に世界を表象し、かつ個々人に広く共有された主語的統合としての言語から構成される散文的関係に対置され、常に個々の「私」との関係においてその様態が多様化する述語的統合としての言語表現です。そして、あるテキストから知覚された詩的関係は、すぐさま他のテキストとの配置関係をとおしてそのテキストに固有の「第二の意味」が見いだされることで安定化し、組み替えられた意味としてべつの主語的統合を形成します。このとき、同時にテキストは特定の理解の形式を伴って対象化されてもいます。

しかし、詩的関係は特定の関与者によっては発生しない場合が多いにありえますし、たとえ知覚されたとしても、その知覚のあり方は個々の関与者によって異なり、同一性が保証されていません。かつまた、詩的関係が見いだせるテキストであれば詩であると断定することもむずかしく、書いた本人がそうおもわなくても、読者が勝手に詩的関係を知覚してしまうかもしれない。いわば、関与者の内在的な経験に深く根ざしたものとして、詩的関係は存在するのです。

詩的関係の成立が詩の成立を必ずしも意味しないということは、詩が詩であるために詩的関係は必要でありつつ、詩的関係だけではテキストを詩として見なすことができないことを意味します。そのため、「このテキストは詩である」という「宣言」が、あるテキストを詩として提出するために要請されます。この「宣言」は「行分け」や「抒情」に代表されるように、多かれ少なかれ詩の「制度」に依存する場合があります。

しかし、「宣言」もやはり関与者の知覚が介在し、客観性が保証されているとはいえません。「宣言」はテキスト内部の表現形式と個々の関与者による知覚、判断のセットにおいて成立するものであり、そのなかで知覚される「宣言」=主語的統合は各々の関与者にとってバラバラであるほかありません。言い換えれば、「宣言」は制作過程と受容過程のあいだにギャップがあり、「宣言」は万人に共有されているものではないと。このギャップによって、「詩として提示されているにも関わらず、詩のように読めない作品」もありえます。たとえば、山田亮太の「災害対策本部」という詩の冒頭を見てみましょう。この作品は東日本大震災時、各企業による支援物資の引用から構成されています。

【森永製菓】ウィダーinゼリー180万個無償提供。従業員1名の安否未確認。東北配送センター(宮城県黒川郡)の建物と製品在庫に被害。小山工場(栃木県小山市)において建物及び設備の一部に損傷。小山工場の主要生産品目:チョコボール、キャラメル、エンゼルパイ。おもちゃのカンヅメ発送延期。【ロッテ】コアラのマーチビスケット〈保存缶〉14,000個、キシリトールガム48,000個、のど飴ZERO48,000個、その他ガムやチョコレート、ビスケットを含め、合計288,000個提供。『ホカロン』1万枚提供。追加提供準備。新宿区が停電地域となった場合ホームページ閲覧不可。【明治HD】義援金1億円。支援物資対応。以下工場で(一部)操業停止。
山田亮太「災害対策本部」

もともとが「詩ではないテキスト」を、引用と「宣言」によってかろうじて詩作品として提示し、翻って山田自身の引用主体としてのテキストとの関わり方が吟味されるという作品ですが、ぱっと見た限りでは詩のように見えません。テキストそのものというより、「宣言」をとおして事後的に詩的関係をそこから構成する作品であるといえるでしょう。このとき、「宣言」は対象のテキストが詩であることを表明し、一方では「宣言」の機能そのものが疑いにかけられるという二重性も、同時に知覚されます。ほかにも、ほとんど小説のような体裁のマーサ・ナカムラの作品や伊藤比呂美の『河原荒草』も、俎上に乗せるべきかもしれません。

さて、こうした言語表現をめぐる詩的関係や「宣言」の問題から、主語的統合に強度のバリエーションを考えてみることができます。つまり、複数的な主語的統合にはさらに、「制度」と呼ばれるような「強い主語的統合」と、さらに個々の「私」や事物をめぐる「弱い主語的統合」がありえるのではないか。

たとえば、「このテキストは詩である」という「宣言」や、それを表現する行分けや抒情といった「制度」は、詩的関係をめぐる議論において強い主語的統合として、詩を読む経験に強く働きかけます。しかし、この強度は万人に共有されるものではなく、詩に関わる個々の存在者にとって異なるものでしょう。そして、第2章の「詩的関係と媒合機能」の後半で述べたテキスト内部の詩的関係への知覚は、まず散文的関係からの逸脱として把握され、そこから媒合機能をとおして新たな意味を形成するという手続きを踏みます。その意味で複数の詩的関係をめぐる「宣言」の知覚は、徹底した不確定性を基盤に持ちつつも、「制度」とある種の緊張関係をはらんだ「弱い」主語的統合であるといえます。

制作過程は述語的統合の組み換えによる新たな主語的統合を形成しつつも、それは個々のちいさな、弱い主語的統合の成立によって行われると同時に、「制度」という強い主語的統合との関係を不可避的にはらんでいる。「制作へ」において「作品」や「ジャンル」といった問題は、近代制のパターンのひとつとして扱われ、制作過程はそれに還元されないものとして確保されています。なので、こうした主張はいわば「作品やジャンルはやはり考慮すべきなのではないか?」という、保守的な主張であるようにも聞こえます。

しかし、制作を近代制からの自由ではなく、常に過去の歴史や当座の文脈との関係を不可避なものと仮定した上で、そうした関係を含んだ上で制作を引き受けることが、本テキストの主題のひとつでもあります。つぎの章では、「制度」をめぐるべつの議論として、「制度」が発現させる複数の主語的統合間で異なる強度について考えてみましょう。

第3章 詩の媒体とはなにか

「宣言」の強度

「制作へ」において、「媒体には媒体に固有の性質がある」と述べられていましたが、詩の固有性がつよく発揮されるのは、詩的関係から意味を見いだしていく媒合機能にあるでしょう。しかし、それは詩に限らないテキストにも見いだされるものであるため、同時にテキストが詩であるという「宣言」を不可欠とする、ハイブリッドな様態を示します。もっとも安直な答えであれば、詩の固有性を担保してくれるのは「宣言」であるという話になるわけです。

言い換えれば、この「宣言」=あるテキストが詩であるという知覚・判断および表現形式と、その周辺に組織化される複数の詩的関係の束から、詩の媒体を見いだすことが可能なのではないでしょうか。前章ではこの「宣言」をめぐる不確定性の議論を中心に行いましたが、一方で詩が詩であることの「宣言」を強く担う「制度」と、詩の制作のあいだの緊張関係について、本章では論点をい くつか提示したいとおもいます。

先に見た通り、「行分け」は「抒情」と合わせて、岩成によって「制度」と呼ばれていました。なぜ「抒情」や「行分け」が制度なのか。岩成はこれについて、言語という素材そのものが「通常の意味を持つこと」を要請し、安定化が絶えず強力に働くからだと考えました。つまり、通常の意味を解除するためには、その強度に釣り合う(意味を解除しうる)操作を制度として強固に持つ必要があった。行分けや抒情は「制度」として、詩・詩的関係を成立させる効果を持っていたのです。

おそらくは、ここに、抒情や行分けが制度化せざるをえなかった事情の一斑があるようです。つまり、言葉の元々の成り立ちからして、言葉は意味とともにあるのがもっとも安定的だという性質をもっています。したがって、言葉から意味を奪うような仕組みは、その仕組みそのものがよほど強力でないと(制度化がその一例)、持続しないはずだからです。
岩成達也「詩(論)を求めて」

これは、詩・詩的関係が制作者とテキストと読者のあいだで量子的なふるまいを見せる、二重に不安定な関係であることも要因のひとつとしてあるでしょう。詩的関係はテキスト内部から知覚される異常性をもとに把握される一方で、言葉は不安定な状態に留まろうとせず、常にその意味を一般性、流通可能性へと回帰しようとする安定化の傾向を持っている。構造上不安定な詩・詩的関係を安定的に制作可能なものとして、慣習的な「行分け」と「抒情」が要請されてきたというわけです。

しかし、「行分け」と「抒情」がその詩的関係の生成しやすさゆえに制度化へと至ったという回答には、留保すべきであるとおもいます。なぜなら、この二つには詩の言語をつくる上で非常に機能的だったために濫用され、歴史的に制度化されたという過程だけではなく、そもそも日本の詩の成り立ちにおいて深く絡んでいるものだからです。

たとえば「行分け」は、日本語圏で書かれた最初の(翻訳)詩集『新体詩抄』(1882年)において、海外詩のフォーマットを直接的に借用することで日本近代詩史上に現れ、文語体と合わせて詩が詩であることを示す規範となりました。当時の日本語において改行規則を適用して書かれる文章は詩以外にはあまり見られず、翻って改行された文章=詩という認識さえ起こっていたわけです。

また「抒情」については、文語定型詩が口語自由詩へと変化する過程のなかで、詩が詩であることの根拠を制作者の「内面」の発露に求めることで、詩が文語体および改行操作に拠らずとも制作できることを模索した、という経緯があります。冒頭に述べましたが、萩原朔太郎が代表的な例です。

私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表れた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらいたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言い現わしがたい複雑した特殊の感情を、私は自分の詩のリズムによって表現する。しかしリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとって語り合うことができる。
萩原朔太郎『月に吠える

リズムは言葉として外化されず、それを読む人間の内在的な経験として生み出されるものであり、その意味で詩のリズムは書かれえず、常に詩を読む人間とのセットでつくりだされる。いわば、私にもテキストにも事前に位置づけられないものとして、詩のリズム=抒情は存在する。萩原自身は改行のフォーマットに対して批判的で、改行があれば詩になるという誤解が生まれた原因であるとさえ述べてもいますが、抒情は言葉そのものの機能というより、それを読む人間の心の機能であるという意味で、やはり「言葉以外のなにか」を要請するものです。

さて、「行分け」は日本語における詩の誕生に付随してあらわれた詩のフォーマットであり、「抒情」はそれに替わって詩が詩であるために必要とされたものでした。つまり、これらは詩の言語を散文的なあり方から変形させるための強力な装置であると同時に、詩が詩であることを保証するための、慣習としての側面を多く含んでいます。しかし、その「慣習」とは装置として機能しやすいがために慣習化されたというより、詩というジャンルの組成そのものを成立させるための形態的なイデオロギーとして(「行分け」)、またそのイデオロギーから自由な表現のあり方を提案するためのべつの(非形態的な)イデオロギーとして、慣習化されたものなのでした。

主語的統合としての流通過程

詩はあらたな言葉の意味の制作を担うものとして、慣習的な散文的関係から距離を取り、あるいは相対化しようとします。しかし、詩というジャンルそのものは、なんらかの慣習化を必要とする。とはいえ、この慣習化されたフォーマットには、詩の根源的な要素である詩的関係を成立させるための代表的な仕組みである「行分け」や「抒情」が含まれています。つまり、制度はある意味で、慣習(=散文的関係)からの解放を試みるにあたって用いられる、「べつの慣習」であるということができます。慣習をめぐる制作の問題は、こうした二重性にさらされています。「制作へ」から見てみれば、詩の制作はある主語的統合からべつの主語的統合へと身体を組成する営みですが、一方で詩の制作をとおして形成されるべつの主語的統合もまた、ある表現ジャンルや制作内部での慣習と向き合わざるをえないのです。

このべつの慣習が「あるテキストを詩として読む」ということを可能にさせるという、「宣言」のひとつとして非常に有効であるという視点は、避けがたくあります。岩成が述べるように、「宣言」が決して前提ではなく、かつまた、前提として万人に共有可能なものではないとしても、「制度」として機能していないべつの仕組みと比較すれば、詩・詩的関係をつくりやすいからです。

さて、この「制度」をめぐる機能と慣習のあいだの問題を、岡﨑乾二郎によるキッチュ(kitsch)についての発言から考えてみることで、より明確にしていきたいとおもいます。キッチュとは俗悪なもの、芸術作品を模倣したり過度に大衆化したものを意味しますが、岡崎によればそれは「何かが生産されたときの条件、生活様式と、それが流通され認知されるときの様式、流通様式のズレが生み出すもの」、「流通様式を反映し、それを生産様式にフィードバックされたとき生成されるもの」であるといいます。

……どんな芸術作品であれ、セザンヌだろうとダヴィンチだろうと、それが社会に触れ流通する過程においてはキッチュ化される。これをフロイトに倣って二次過程といってもいいかも知れません。制作過程というものを一次過程とすると、それが流通する二次過程においてはキッチュになってしまっている。だがわれわれはこの二次過程によってしか事物を認知できない。
岡﨑乾二郎「キッチュとは何か、あるいは〈価値真空状態〉の芸術 ― 石子順造を読む

つまり、流通過程とはなにかが制作されるプロセスとそれを知覚するプロセスのあいだにある差異を根源に持つものであると。言い換えれば、キッチュとはいわゆる「キッチュな」作品に見られる性質だけではなく、むしろあらゆる表現においてキッチュ化、ないしはキッチュ的なものの介入が避けられないことを意味します。詩においていえば、散文的関係=ある主語的統合からべつの主語的統合への移行を試みるための「抒情」と「行分け」という制度が、鑑賞体験においては「詩らしさ」を装うものとして、固定的な主語的統合を呼び込んでしまいます。近代制の相対化において試みられる制作の技術が、同時に「制度」でもありえるのです。

とはいえ、岩成の詩論はもとより、「制作へ」における制作行為が試みるものは、こうした芸術作品のキッチュ的鑑賞=消費の批判にあるでしょう。先ほどの引用は石子順造を巡る座談会のなかでの発言ですが、石子にとってキッチュへの注目は近代から現代への移行を示す鍵概念でした。いわば、キッチュという流通様式の模倣は、「制作へ」における「近代制」が担保する芸術作品の「同一性」を強力に組織化するものです。ある表現がある表現として同一視され、流通するということは、言い換えれば主語的統合としてのキッチュの生産を意味するのです。

さて、「詩が詩であること」を保証する最も安直で強力な「宣言」は、掲載紙面において作品に「詩」の名が冠せられるなど、「このテキストは詩である」というインデックスをつけること、あるいは「抒情」や「行分け」=流通過程から見られた詩の慣習を無批判にフィードバックさせること、が挙げられるでしょう。岩成は絶えず、こうした強力な「宣言」でさえ前提にできないことを指摘しますが、であればよりいっそう、キッチュ化を経由して詩を詩として成立させようとする傾向は、個々の制作者の身体と作品のあいだの詩的関係を確立させる上で、慣習化されやすいともいえます。不安定性をとおして、かたや表現の成立の決定できなさが展開されつつ、一方では強固に「制度」が機能してしまう現場として、詩の制作的空間が存在するのです。

制作的空間としての媒体

「抒情」や「行分け」が制度化するにいたった過程については、複数の手続きが踏まれています。まずは、それが詩的関係をつくりだす(=知覚・判断を作動させる)ために効果的な表現形式であること。つぎに、日本近現代詩と同時に出現したフォーマットとして、詩的関係の束を詩として統合させやすい歴史性を持つこと。そして、それに伴ってあるテキストが流通過程における「詩であること」を安定的にフィードバックできること。詩を書き、読む経験に介在するゆらぎを排除することはできませんが、だからこそ「制度」としての「宣言」は、多くの制作者によって濫用されてしまう。こうして「制度」は制作者の身体に深く根づいた慣習として、べつの主語的統合の生成を目指す述語的統合の組み替えの次元に介入します。

これまでの話をふり返って、主語的統合・述語的統合の概念と結びつけながら図式化してみましょう。

① 散文的関係=言語をとおして把握される、私と世界の安定的な関係/認識(主語的統合)

② 詩的関係=不安定な関係/認識(述語的統合)

③ 媒合機能…詩的関係(②)における不安定な構造を(内部としては不安定なままで)安定化させる構造を、他の詩的関係や外部において見いだし、安定化させようとする力(述語的統合→主語的統合)

④ 宣言…「詩が詩であること」、「詩的関係が詩的関係であること」を成立させる表現形式と知覚・判断のセット(インデックス=キッチュとしての「詩」に代表される、慣習や「制度」を含んだ複数の主語的統合)

⑤ 不確定性…①~④に内在する制作者–テキストと読み手間の量子的ゆらぎ(強い述語的統合)

④は詩のインデックスが伏されることで詩として流通されたり、制度をフィードバックさせることで詩のフォーマットを搭載されたりといった「強い主語的統合」や、詩的関係の把握から媒合機能による安定化といったテキスト単位の「弱い主語的統合」といった、いくつかのバリエーションを含んでいます。また、⑤は④の裏返しとして詩の制作をめぐる不確定性であり、便宜上「強い述語的統合」としました。
さて、詩の制作的空間は、いくつもの主語的統合と述語的統合の対が多重的に重ね合わされた場所です。制作者は述語的統合における意味の組み替えを不断に行い、テキスト単位で複数の主語的統合を行き来しながら、決して一般化されることのない言語的複合体を、自身の身体と一般化された詩の制度とのあいだで、絶えざる検討と反省のなかでつくり上げていきます。
最終的にはインデックスや制度を背景とした「宣言」がテキストを詩として提出することで、この「宣言」を知覚しテキストを詩として読む者にとって、テキストはあらかじめ詩として書かれていたかのような体裁を事後的にまとってしまいます。しかし、その中途で行われる制作過程と、作品にインデックスが付されて流通される過程のあいだにはズレがあることを、あらためて強調しておく必要があるでしょう。これは一次過程と二次過程のあいだの差異に相当しますが、後者は不断に前者へとフィードバックされうる(キッチュ化する)という緊張関係をはらみつつも、制作過程が純粋に流通過程の模倣へと還元しきれない(「生産」にならない)ことに、制作という行為の核心があります。そして、このズレを開くために制作的空間は要請されてもいたのでした。

いわば、中途にある制作行為の次元で制度や慣習、流通過程と距離を取りつつ、引き受けること。複数の主語的統合同士が織りなすレイアウトのなかで詩の制作を立ち上げること。ここに詩の核心があるのです。詩のテキストの核心となる詩的関係だけではなく、詩的関係とセットで現れ、かつ詩が詩であることを提示する大文字の「宣言」から、詩の媒体を考えてみましょう。

それにあたって参照すべき視点として、先ほどの図式を念頭に入れながら、クレメント・グリーンバーグによって開発されたメディウム・スペシフィシティの議論からの相対化をめざす、いくつかの論考を見てみたいとおもいます。ここで叩き台となるグリーンバーグの理論は、特定の表現における媒体の不透明性の強調による、他の表現に回収されない自律性の確保をめぐるものです。

芸術の純粋性は、特定の芸術におけるミディアムの限界を受け入れる、それも進んで受け入れることにある。……各々の芸術が独自のもので、厳密にそのもの自身であるのは、まさにミディアムによるのである。ある芸術の独自性を回復するためには、このミディアムの不透明性が強調されねばならない。
クレメント・グリーンバーグ「さらに新たなるラオコオンに向かって

「不透明性」とは、絵画であればそこで描かれるイメージの土台になるキャンバスや絵の具、言語表現であれば言語それ自体が持つ物理的な性質を意味します。ある表現が他の表現と異なることを提示するにはそれ自身が依拠する物質性を消去するのではなく、むしろ強調する必要があるというわけです。

彼の思考はこの自律性の強調だけにとどまるものではありませんし、いまでは参照される機会もすくなくなってはいますが、いっときは表現の固有性を考える議論のなかで強く支配的なものでありました。しかし、先に述べたとおり詩の媒体を考えるにあたって、グリーンバーグが提唱するような自律性は採用できません。言葉そのものの不透明性を強調するだけでは、詩以外の言語表現との区別がつけられないからです。

慣習の束としての媒体

さて、制度や慣習、流通過程といった複数の主語的統合の束から組織される媒体の諸相をとらえるうえで、ロザリンド・クラウスによる「メディウムの再発明」というテキストを参照します。彼女はメディウム(媒体)の問題を、その固有性ではなく異種混合な要素の組み合わせとしてとらえなおしています。いわば、物質的与件を強調するのではなく、ある表現が流通するにあたって共有される性質、とりわけ慣習に由来する要素に注目します。

「メディウムの再発明」はまず、ベンヤミンの歴史哲学について触れながら、写真という表現の歴史的な盛衰をめぐる記述から始まります。クラウスはここで、自身の理論が過去への想起に深く関わるものであるとし、現代から見て衰退しつつある表現、過去の時代の産物と見なされ、特権的な地位を失った表現に注目していくのですが、そこから先ほど述べた「物質性へと限定されないメディウム」の諸相を分析するにあたって、写真が代表的なモデルとして選択されています。

さて、クラウスは写真が他の表現ジャンルと異なる点のひとつとして、その美学的な次元以上に「理論的対象」としての側面が利用されてきたことにあると述べます。

それがロラン・バルトによる神話学の典型例であったのか、あるいはジャン・ボードリヤールによるシミュラークルの典型例であったのかは問わないことにしておくが、いずれにせよ、写真は一九六〇年代までに歴史的もしくは美的対象としてのみずからのアイデンティティを背後に置き去りにし、その代わりに理論的対象へと変化した。
ロザリンド・クラウス「メディウムの再発明

どういうことかというと、写真は美的対象として、芸術ジャンルのひとつとして考察される以上に、ヴァルター・ベンヤミンやロラン・バルト、ジャン・ボードリヤールらの理論における重要なモチーフとして、哲学的に考察されてきたと。つまり、「複製技術」や「引用」、「オリジナルなき大量生産品」といった概念を語る上で格好のモデルとして写真は扱われたわけです。

そしてつぎに、こうした「理論」が暴こうとしていたものは、芸術作品一般の固有性そのものの破壊ないしは衰退という事態でした。資本主義体制下において流通過程をフィードバックした「キッチュな」作品は大量に生産され、あるいは複製可能性を見越した作品がつくりだされるようになると。また、写真などの各種メディアに流通するイメージだけで済ませることも可能になった鑑賞体験は、美術作品そのものの同一性をゆるがし、その固有性の地位を低下させていく。

クラウスはベンヤミンの「複製された芸術作品は、いまだかつてないほどに、複製可能性を見越した芸術作品へと変化している」という言葉を引きながら、つぎのように述べています。

ベンヤミンにとって、理論的対象〔としての写真〕が明らかにした変化には二つの顔がある。第一の変化はその対象の領域にかかわるものであり、そこでは連続するユニットが、複製の構造上、統計処理におけるそれと同じく等価なものへと変化する。その結果、さまざまな事物は〈より近い〉という意味でも〈より理解しやすい〉という意味でも、大衆にとって〈より手に取りやすい〉ものとなる。他方、もう一方の変化は主体の変化に関わるものである。というのも、この主体に対しては新たなタイプの知覚が作動するのだが、その新たな知覚においては「「事物の普遍的な平等性に対する知覚」が増していくため、それは複製という手段によって、唯一無二の対象からさえもその平等性を抽出する」からである。
ロザリンド・クラウス「メディウムの再発明」

この複製技術と手を組んだ平等性の知覚は、デュシャンが行った仕事を経由しながら「レディメイドな平等性」の知覚という様相を帯びています。そのため、芸術作品をとおして万物の普遍性が知覚されるのではなく、すべてを等価なものとして還元可能なシステムから芸術作品を見るという、逆の流れが起きているのです。

重要なのは、写真がこうした時代の推移とパラレルな関係を持った、メディウム・スペシフィックであることが非常に困難な表現であるということです。クラウスはそこから、写真が「芸術的な実践を脱構築するための道具」として現代美術においてスポットを当てられる、1960年代以降の様相について解説します。きわめて一般化された議論ではありますが、芸術作品の唯一無二性の神話を解体し、各々の芸術表現が持つ物質的な伝統を相対化していく現代美術と、絶えず「視覚的な」水準で自身の性質を体言し、自身の外にある文脈の連続性やキャプションに依拠しなければいけない(「つねにイメージとテクストが潜在的に入り交じっている」)非自律的な構造を持つ写真とは、相性がとてもよかったと。

しかし、やがて写真は世俗化し、ビデオカメラといった後続の出現によって、その地位がすこしずつ特権視されなくなっていきます。写真は哲学や芸術の領域以上に、商業的な利用価値を持つものとして市民権を得ましたが、技術革新が進むにつれてべつの表現に取って代わられ、最盛期から衰退期へと移行し、20世紀の後半には過去の遺物として扱われるようになったわけです。そのなかで、クラウスはこのようにして写真が「古びていく」という過程にこそ注目します。

このようにして写真は突如として、さまざまな産業廃棄物のひとつ、すなわちジュークボックスや市街電車と同じように、新たに生み出された骨董品のひとつとなった。だが、写真が美的な生産物と新たな関係を結ぶにいたったのは、まさしくこの時点において、すなわちそれが〈時代遅れになる〉という条件においてであったように思われる。ただし今度は、写真は〈メディウムを破壊する〉というかつてのみずからの本分に反する役割を担うことになる。というのもそれは、まさしくみずから衰退しているさまを装いながら、〈メディウムを再発明する〉行為とでも呼ばねばならないような、ひとつの手段へと転じたからである。
ロザリンド・クラウス「メディウムの再発明」

この「再発明」という語は、物質に内蔵された性質からメディウムとしての固有性を引き出すのではなく、複数の物質やそれに対する私たちの慣習的な使用法や知覚といったルールの束から、特定の表現が持つ同一性を引き出し、再帰的に使用可能なものへと生成することを意味します。つまり、媒体を物質的条件による拘束ではなく、そこから引き出される使用法や知覚が一般化し、「慣習にもとづいた約束事」という再帰性の問題とすることで、その固有性はあらかじめ物質的に付与されているのではなく、そうした約束事を反省的に見出すことによって事後的に発明できる、ということです。
ロザリンド・クラウス「メディウムの再発明」

ここで問われているメディウムというのは、絵画、彫刻、素描、建築、さらには写真そのものさえ含むような、伝統的な諸メディウム〔=メディア〕のいずれとも異なる。……むしろそれは、メディウムの観念そのものにこそ関わっている。すなわちここで言うメディウムとは、所定の技術的支持体がもつ物質的な条件から生じてくる(が、それとは同一でない)慣習にもとづいた約束事(convention)としてのメディウムであり、〔未来への〕投影であり、〔過去への〕想起でもありうるような表現力に富んだ形式は、この約束事から展開されていくことになる。
ロザリンド・クラウス「メディウムの再発明」

こうして、「メディウムの再発明」は写真についての考察から始まり、「絵画、彫刻、素描、建築、さらには写真」といった伝統的はメディウムとは異なる、たとえばスライド・テープのような商業的な用途で使用された表現や、フォトノベルのような複数の要素から構成される表現について注目していきます。そこではむしろ、商業的な意図のもとで使われる表現への考察こそが重要になります。なぜなら、「使い古される」に足るだけの多くの人々による使用と時間の経過を前提として、ある慣習は再帰性を持つからです。言い換えれば、クラウスの理論は慣習として私以外のだれかが知覚し、反復可能な使用に足る要素間の関係を含んでいるかどうかが問題になります。そのため、発明は慣習という保守的な傾向のある語によって立ち上げられるものでありながら、その共有可能性が保証されていません。その意味で、「再発明」は「未来への投影」であり、かつ「過去への想起」なのです。

クラウスの理論は使い古され、遺物として見向きもされなかった過去の表現に対する意味で「発明」という語を用いているので、これをそのまま詩の問題として引き受けられるとはいいがたいかもしれません。とはいえ、対象の物質的な性質ではなく、むしろそこから引き出される使用法や知覚こそが、ある表現を表現たらしめる基盤として思考可能であるという視点は実りあるものであるしょう。岩成が言語それ自体ではなく言語から引き出される知覚や認識=関係を詩の問題としてとらえたことや、「新聞記事」のような定型文のオンパレードからも詩的関係は知覚されうるという指摘を思い出せば、クラウスの指摘は詩の条件を言語に対する使用法や知覚、ひいては「制度」的な慣習から考えることを有効にしてくれます。

そして、媒体は慣習の知覚と再発明による再帰性の発現という、他者がそれを慣習として利用可能になるよう制作される過程が、事前に決定できない状態で要請されるという点も、詩が抱える不安定な性質をうまく言い表しているのではないかとおもいます。つまり、詩は際だって明確な媒体の固有性を知覚できないからこそ、その制作においては常にいくぶんか「メディウムの再発明」に相当する過程が存在してしまうのです。

「あなたの記憶」に生成される媒体

クラウスによる「メディウムの再発明」をとおして、特定の表現における慣習の束から媒体を制作(発明)するという議論が可視化されました。これまで制作された詩から見いだされた「制度」に代表されるような、流通過程をフィードバックした慣習を取り込むことで行われる「宣言」を、詩の媒体として再発明することで、私たちはテキスト自体をその構成要素のひとつとして見つつも、さらにべつの視点から詩を考えることができるでしょう。

しかし、詩を支える慣習は必ずしも物質と分かちがたく結びついたタイプのものでも、慣習としてただ単一化できるタイプのものでもありません。これまで見てきたように、「詩が詩であること」を保証する「慣習・制度・宣言」(=主語的統合)は個々のテキストとそれらの関係において複数化され、さらに「行分け」や「抒情」といった「制度」、「このテキストは詩である」という巨大なインデックスなどもそのひとつに数えられます。そして、制作者・テキスト・読み手が個々に単一の主語的統合に属していないこと、それぞれが一方にとって他者であり、かつまた、それぞれが過去・現在・未来において変容しうることに由来する、徹底した不確定性の次元も見逃すことはできません。つまり、慣習の束をそのまま詩の媒体と見なすのではなく、再帰性の獲得に伴う不確定性を積極的に組み込むことが必要なのです。

ここでさらに、グリーンバーグとの相対化を試みつつも、岩成が量子的なものとして指示した個々の関与者=他者の問題と、詩における「物質性」の問題とを同時に考えたテキストとして、詩人の佐藤雄一による「さらに物質的なラオコーンに向かって」を挙げてみたいとおもいます。このテキストでは、他者への伝達における不確定性を帯びた詩という表現の条件が、具体的な受容のレベルから問いなおされています。

佐藤はまず、詩と絵画のあいだのパラゴーネ(優劣比較)の歴史的言説を引きながら、グリーンバーグの理論によって、絵画はメディウムの物質性をいかに取り扱うかが不可避の課題となった反面、詩がその物質性を消去する表現として扱われてきたこと、また絵画や詩のメディウムを巡る議論において、そもそも「物質性とはなにか」に対する問いが欠けている、と指摘します。

その議論は基本的にひとつの図式に収れんできる。つまり、彼らは、アリストテレス的な「形相–質料(メディアム)」という図式のなかで思考しているということである。そして、「形相」に重点をおくとき「絵画は詩のように」あるべきだという主張になり、「質料(メディアム)」に重点をおくとき逆になる。
佐藤雄一「さらに物質的なラオコーンに向かって ― 「固有値(Eigenwerte)」としての支持体を自己生成する

詩と絵画の区別はレッシングの『ラオコオン』が代表的な例です。そこで詩は時間的な継起性を取り扱い、絵画は同時性を取り扱うべきものであると区別されます。いわば、詩と絵画を比較可能なものと見なした上で「詩は絵画のように」、あるいは「絵画は詩のように」あるべきだという、優劣比較を持ち込む議論とは距離を取り、詩と絵画はそれぞれが自律した芸術であるという視点を提示しました。

グリーンバーグは「さらに新たなるラオコオンに向かって」で、こうしたそれぞれの芸術における純粋性とはなにかを追求することで、個々の表現のメディウムが持つ固有性の問題を展開します。しかし、それらはそもそも形相と物質の二項対立に依拠した議論であり、かつまた、物質がいかにして物質たりえるのかについての視点が欠如していると佐藤は指摘し、ここで問われていた物質性そのものを再定義していきます。

では「物質性」とは何か。グリーンバーグのつぎの言葉に気をつけてみよう。「鋳造による作品は細く滑らかになって、それが注ぎ込まれた時の元の溶解した状態の流れに返ろうとしている、いや、初めて作り出された時の粘土の材質感や可塑性を思い出そうとしているかに見える。」ここでの「物質性」とは「可塑性」である。「可塑性」とは、カトリーヌ・マラブーにならっていえば「変形作用に抵抗しながら形に譲歩することを意味する」言葉である。
佐藤雄一「さらに物質的なラオコーンに向かって ― 「固有値(Eigenwerte)」としての支持体を自己生成する」

可塑性とは粘土のようにやわらかい物体が、外部の力を加えられて変形しつつ、そのかたちを保持する性質を意味します。対象の物質性は一般的に、その存在に付随する性質として静的にとらえられる傾向がありますが、ここで物質性を可塑性の観点からとらえることで、ある物体とそれに変形作用を加える力とのあいだの動的な関係を含み持つことになるのです。佐藤はこうして物質の可塑性を「動的システムにおける均衡概念」として解釈しながら、さらにジルベール・シモンドンを引用し、可塑性を土台とした物質性の基礎づけをおこなっていきます。このとき重要なのは、変形を受け入れつつそのかたちを維持するという準安定状態モデルは、素朴な意味での物質に限定されないということです。

つまり「形を受け入れる粘土の能力は、その形を保持しておく能力と区別されない」。だから、受動的な「質料(メディアム)」に一方的に力を与えて変形するのではなく、形を保持する力と形を与える力(たとえば「レンガの鋳型の力」と「粘土の可塑性」)が運動システムのなかで衝突しているとき、その諸力を均衡させて「準安定状態(metastabilité)」を保っている状態をそれぞれの「物資性」であるということができる。……ここで「支持体」およびその「物質性」を「動的システムにおいてある形を均衡させ相対的に長く保つような固有値(Eigenwerte)」と定義しなおしたい。
佐藤雄一「さらに物質的なラオコーンに向かって ― 「固有値(Eigenwerte)」としての支持体を自己生成する」

こうして、所与の物質そのものに還元されない動的システムと固有値の議論は、対象を観測する私たちの知覚においても適応可能なものとして拡張されます。たとえば詩を書き・読むという動的システムのなかで得られる認識を含めた、私たちの記憶においてつくりだされる固有値として、ある認識が記憶される過程やその記憶の傾向性に物質性が紐づけられるのです。

ところで、物質性という語をめぐる佐藤の理論展開は、「物質性とはなにかという問い」の補填を目的としている以上に、「なぜ問いが欠如してしまうのか」を同時に考えるものでもあります。「物質性」という語は、避けがたく推論の展開を止めてしまう実在性の強度を呼び寄せ、「マジックワード」的に用いられる危険が伴うのです。そのように記憶をめぐる「固有値」へと物質性の指す意味がとらえなおされるなかで、佐藤はジャック・デリダの詩論から、詩におけるリズムの問題に注目します。

デリダは、詩をどんなに長くても「暗記(apprendre par cœur)」できるものとしている。……たとえばデリダは次のようにいう。(マラルメによるエドガー・アラン・ポーの「鐘」仏訳にふれながら)「ポーの押韻が保持できないのは、もちろんだが、あらゆる階梯で、あらゆるリズムの鼓動(battement)は、可能な支持体あるいは質料的表面がなんであっても、可能な限り保存される」。ここで、デリダは通念とは逆のことをいっている。詩は翻訳されたら原語のリズムが失われると考えるのが普通だからだ。にもかかわらず、押韻のような狭義のリズムでない「リズムの鼓動(battement)」が保存されるということ。……つまり、記憶においてあるかたちを相対的にながく維持できる物質的な「抵抗」として、詩のリズムは「固有値(Eigenwerte)」をつくりだすことができる。つまり詩は自身を保存する支持体を自身で生成できる。
佐藤雄一「さらに物質的なラオコーンに向かって ― 「固有値(Eigenwerte)」としての支持体を自己生成する」

押韻に代表される修辞的な技術に限定せず、なによりも詩を読むという行為において、私たちの記憶に働きかけ、暗記という固有値=支持体に関わるリズムを、「あらゆる『質料的表面』に移動させられても、それをフィードバックしつつ、『固有値(Eigenwerte)』を生成し、形を恒常性(ホメオスタシス)として記憶に保持できるアルゴリズム」と、佐藤は定義します。

さらに、佐藤はコンセプチュアル・アーティストのローレンス・ウィーナーや詩人の藤井貞和などを引きながら、このリズムが「あなた」という具体的な他者の「質料的表面」を不可欠の要素として導入することで、「コミュニケーションによって支持体を生成していく『創発』モデル」として、詩を提案します。あなたの記憶に保存されるかどうかが事前には決定されず、固有値の生成をとおしてリズムの強度が事後的に観測されるわけです。

これは、ともすれば萩原朔太郎のリズム論のように神秘的な「内在律」を相対化するため、リズムを「私の内面」ではなく、そこから「あなたの内面」へと接続可能な積極的なコミュニケーションの現場に開くことを意味します。ここで注目すべきは、言葉が相互発信される場において、リズムが変化し、洗練されていく過程です。動的な様態で把握される物質性(固有値)を支えるリズムは、相互発信の関与者が持つ身体から演繹的に導かれず、そのつどの伝達を経由しながら変化し、より固有値を生成しやすいリズムの実現に向けて練り上げられていくのです。

すなわち、「Eigenwerte(固有値)」としての「支持体」が生成されているかどうか検証できる「あなた」の記憶(淘汰システム)を一度経ることで、もしそれが残れば、「物質性」を生成した自分の「作品」だと主張することができる、と。……つまり、(主に記憶などによる)淘汰を織り込んだ言葉の相互発信によって、結果として「支持体」を生成できるアルゴリズムをみつけることができるのだ。
佐藤雄一「さらに物質的なラオコーンに向かって ― 「固有値(Eigenwerte)」としての支持体を自己生成する」

詩のリズム=アルゴリズムの実現は記憶の保存に伴う固有値の生成から判断されるため、観測者の「記憶に残る『物質性』を生成すること」が作品の条件として設定されつつも、その効果は事前に保証されていません。そしてまた、このリズムは複数の作品や制作者のあいだで反復され、変化していく過程での淘汰を織り込みながら発展していくものであり、その意味で閉じた領域にとどまるものでもありません。

さて、こうした理論から導き出される実践として、佐藤は自己生成するリズムを複数人でのコミュニケーションをとおして検討するシステムから詩を考えるべく、「サイファー」というプログラムを提案します。もともとはヒップホップで使用される語ですが、ここでは(主に公園や路上などで)参加者たちがお互いにフリースタイルを回していき、発された言葉を絶えずフィードバックしていくことで、「詩をつくりだすリズム」の生成へと向けた「淘汰システム」を意味します。これは、さきほど述べたリズムの変化と洗練の過程を具体的にモデル化するものであると同時に、この変化と洗練をとおして「私」から「あなた」へと詩のアルゴリズムが鍛え上げられていくことが目指されます。いわば、「ひとを詩人にできる作品だけが詩である」という仮説のもと、詩が複数人の記憶を経由しながらつくり上げられるのです。

リズム化される「制度」=慣習の固有値

「さらに物質的なラオコーンに向かって」の核心は、詩の媒体が私たちの「記憶」という動的システムのなかで保存される固有値としてつくられるという点にあります。ここから、「メディウムの再発明」における慣習の束としての媒体概念を組み合わせながら、「制作へ」で述べられた主語的統合・述語的統合の対を引き受けた詩的関係の議論をふり返ります。

さて、岩成の詩論における「宣言」は、あるテキストが詩であるという知覚・判断と表現形式のセットを意味していました。そのため、「宣言」は必ずしも客観的に保証されるものではなく、制作者・読者のあいだで取り交わされる具体的なコミュニケーションに関わるものです。くり返しになりますが、テキストはひとまず散文におけるそれとは区別される異常性の知覚が必要となり、散文的関係という主語的統合のゆらぎとして、私たちの記憶という述語的統合に働きかけます。そして、詩的関係は私たちの知覚において「宣言」が把握され、そこから媒合機能を経由しながら、あらたな主語的統合として組織化される。ここで「宣言」をめぐる知覚、そして媒合機能によって制作される主語的統合は、私たちの知覚過程という動的システムのなかで不確定性を伴いながら果たされるという、流動的な物質性を携えています。

しかし、こうした詩的関係をめぐる「宣言」とは別個に、詩として提出されるテキストにはより大きな主語的統合である「このテキストは詩である」というインデックス=「宣言」が要請されるため、「詩」という語の付与をめぐる問題はさらに二重化されています。この大きな主語的統合には「行分け」や「抒情」といった制度に関わるものが挙げられますが、それらはこれまで詩が詩として読まれてきた流通過程を絶えず反映させた慣習として、歴史的な性質を持っています。

この慣習は、詩の制作において単に無視すべき存在ではなく、むしろ積極的に制作の現場においてフィードバックすべきものです。なぜなら、「さらに物質的なラオコーンに向かって」で見たように、固有値を生成させるリズムは個々の「あなたの記憶」を経由しながら変化し、洗練されていくわけなのですが、先ほど述べた相互発信=コミュニケーションの現場を最大限に拡張させれば、そこには流通過程という巨大な主語的統合も含まれるからです。つまり、慣習をありうべき詩のアルゴリズムの生成過程の途上にあるリズムの一種として考えることができるのではないか。いわば、詩の制作に絶えず介入する歴史的な慣習や「制度」は、「流通過程を経て、より洗練された詩のアルゴリズム」なのです。これを「制作へ」における主語的統合と述語的統合の議論に接続すれば、リズムの変化・洗練とは制作的空間における「他者の作品=主語的統合を足場とした新たな主語的統合の生成」にほかなりません。

もちろん、この慣習は佐藤の提案するリズム=アルゴリズムと完全に同一視されるものではありません。先ほど述べたように、この慣習はコミュニケーションの過程で獲得された技術である以上に、日本において突如として誕生した詩という表現に付随して開発された、外在的なフォーマットとしての側面を多分に含んでいるからです。しかし、私たちが考える詩の「制度」は、単に制度の一語で括られうるような抽象化された存在ではなく、常に個々の関与者の身体による知覚(=「宣言」)を媒介して把握される、動的で不明瞭な輪郭を持ったものであることを補足しておく必要があるでしょう。たとえば「行分け」ひとつを取っても、文語定型詩から口語自由詩を経て、五七調の切れ目で機械的に改行する方法が自明のものではなくなり、文のどこで改行するかを事前に決定できなくなりました。そのため、「行分け」は過去に書かれた作品群への参照を伴いつつ、個々のテキスト単位で制作者の身体に根ざしたものへと技術的な変形が起きています。ここにコミュニケーションレベルでのリズムの洗練と近しいものを見ることは十分に可能です。

さて、この点からいえば「行分け」や「抒情」といった「制度」=慣習は、(視覚的な、あるいは情動的な)リズムと見なすこともできるので、クラウスの「メディウムの再発明」によって可能になった「慣習の束」としての媒体概念は、固有値=再帰性の実現によって獲得されるというかたちで、より強固に輪郭づけられます。そして、このリズムは前述した「制度」の複数的なあり方や、「制度」との緊張関係を伴いながら生み出される個々のテキスト=詩的関係を引き連れているため、非常に多重的な様相を持っています。

また、述語的統合(=不安定な詩的関係)の組み換えをとおして、ある主語的統合(=散文分的関係)からべつの主語的統合(=新たな意味)への生成を可能にさせる媒合機能から、「あなたの記憶」における保持と同程度に有効な固有値の生成を見いだすことが可能であることも、指摘しておく必要があります。詩をめぐる固有値の生成は「さらに物質的なラオコーンに向かって」において、主に鑑賞者である「あなた」の記憶に固有値をつくりだせるかどうかの問題として扱われていました。しかし、詩的関係における新たな意味の生成に伴う不安定な関係の回復は、それ自体がテキストの意味の準安定状態をつくりだすものとして考えることができます。つまり、詩の媒体という固有値は慣習=リズムの束という「制度」の次元において、そして媒合機能による詩的関係の準安定化において成立するのです。詩の媒体をこの二重の論理から立ち上げることで、詩とそうでない言語表現とを区別する詩の固有性を取り出せるのではないでしょうか。

肯定すべき不確定性に向けて

さて、あらためてこれまでの議論をまとめてみます。詩の媒体は歴史的過程と流通過程において反復された複数の「制度」=慣習の束と、個々の詩的関係における媒合機能から形成される。このふたつの論理にはいくつもの主語的統合と述語的統合の対がひしめきあい、それらが織りなすレイアウトに詩の制作的空間が存在しています。

この制作的空間は、たったいま書かれている詩がほんとうに詩であるのかどうか、新たな意味を備えたテキストなのかどうか、その意味の探索を引き起こす魅惑の知覚が「あなた」に起こり、「あなたの記憶」に残るのかどうかが事前に決定されていません。詩の媒体は、「事前にすべてを把握する主体は存在しない」という「制作へ」の記述をまさしく体現するものとしてあります。

とはいえ、この不確定性は「わからない」という否定形で記述されるものでは必ずしもありません。岩成のテキストはくり返し客観的な定義の不可能性を論じていますが、「制作へ」はもちろんのこと、クラウスや佐藤のテキストからはむしろ肯定的な意味を持つ言葉として「不確定性」という語をとらえることができます。というより、むしろこの不確定性を基盤に置いてこそ、はじめて詩の媒体は論じるに値するものとして存在するとさえいえます。つまり、事前にその存在を自明視できないという問題は、制作に不可欠の要素として引き受けられるのです。

クラウスにおいて媒体の再発明が「未来への投影」であり、「過去への想起」でもありうると述べられていたのは、現在の時制における制作行為が過去の慣習を引き受けつつ未来における再帰性の生成に向けられていたからです。いわば、対象が多くの人間にかつて知覚されてきたが見過ごされてきたものをあらためて過去から抽出し、再帰性を持ちうるものとして提出することを意味します。であれば、制作は常に再帰的構造の実現が不確定だからこそ意義のあるものであり、これを詩の問題へと転用すれば、「宣言」は不安定だからこそ「宣言」されなければならない(それを詩として提出しなければらない)、といえます。

そして、佐藤が述べた「あなたの記憶」における固有値の生成に関わるリズムは、岩成によって共通項を著しく欠いていると述べられていた「宣言」の問題に、ポジティブな視点を加えてくれるものです。なぜなら、ここで「宣言」の持つゆらぎは、客観的な定義の不可能性ではなく、当事者間でのコミュニケーションをめぐる応答可能性へと開かれるため、詩を書き、読む経験のなかで不確定性は「共有可能なものかどうかわからない」ものから、「共有可能にすることができる」ものへと、その様相を変えるからです。万人があらかじめ詩人であることはできないが、そのうちのだれかを詩人にすることができるかもしれない。だれかの身体を詩人の身体へと述語的統合を組み替える力が、詩が詩であることの本質なのです。

しかし、これはこれで「あなた」を詩人にさせるかどうかは事前に決定できず、詩作品の完成は常に事後的であるほかないという結論に向きやすい傾向があります。ところで、「制作へ」で試みられた制作的空間は、この身体=主語的統合をべつの身体=主語的統合へと変形させるために、その変形を可能にさせる「あいだの空間」なのでした。制作行為が述語的統合の次元へと降りていき、そこで新たな主語的統合=身体の生成を目的とするなかで、制作的空間はそれを可能にする自他の対象化以前の、「媒体との対話」をとおして私と対象を生成する領域です。しかし、詩の制作においてこの自他の対象化は詩的関係の生成と、そこで得られた不安定な知覚の回復という、弱い主語的統合の複数的な発生によって観測されます。またべつの視点から見れば、制作はジャンル=流通過程=インデックスとしての「詩」という巨大な主語的統合をフィードバックすることによって「制度」化された複数の慣習=リズムと、それを引き受ける私の身体のあいだで、私の知覚において徐々に組み立てられてもいます。

であれば、詩の固有値は「変化した」あなたの身体をめぐる事後性だけではなく、あなたの身体の変化を試みるべくして制作をおこなう私の身体にも見いだされうるものでしょう。つまり、詩の媒体としての固有値は「あなた」という、事後性のもとで観測可能になる手前の地点にまで拡張される。「あなたの記憶」における固有値の形成が未了である状況を背景として、制作者の身体と言語のあいだにある制作的空間で個々の詩的関係が組み立てられ、それらが媒合機能をとおして関わりあうなかで、固有値は徐々に(自己)生成されているのです。

これは個々のコミュニケーションが流通過程を含めて、ゆるく連鎖的につながりあうシステムのどこに力点を置くかという問題であるともいえます。詩を読む者にとっての詩の固有値と、詩を書こうとする制作者にとっての固有値の質的な差異が、一方で読み手であり他方では書き手であることもできる私たちの身体において、二重化されている。これは、あなたから私の記憶へとつくりだされる固有値と、私からあなたの記憶へと保存されることを目指すテキストを制作しようとするなかで、私とテキストのあいだにつくりだされる固有値の差異として分けられます。つまり、制作過程=一次過程と流通過程=二次過程のあいだのズレの反映として、その構造式がコミュニケーションを介在させつつ変異する。私を詩人にさせる言葉を、私がつくることの次元。むしろ、たったいま書かれる言葉が「詩ではなく、詩でなくもない」という未定の時間、テキストと制作者の身体という述語的統合のあいだで、制作者にとっての詩の媒体がつくられるのだと言い換えてもよいのかもしれません。

つまり、制作に伴う媒体との対話は、媒体の制作と平行しながら漸進的に展開される。あらためて整理をすれば、その制作は二つの手続きを要請します。ひとつはインデックスとして示されるような近代制=巨大な主語的統合の、複数的なバリエーションである「制度」=慣習=リズムの束を取り込み、詩が詩であることの「宣言」を知覚可能なかたちで表現することによって果たされます。もうひとつには、いくつもの詩的関係が述語的統合としてテキスト単位で発生し、媒合機能によって組織化される、弱い主語的統合の束として。両者が相補的に機能することではじめて、詩は他のテキストから区別される固有の媒体を表現できるようになりますが、それは他者への伝達をめぐる不確定性を抱える制作者の身体に知覚される限りでのみ機能する「私にとっての詩の媒体」であり、他者への流通過程においては事後的な慣習=リズムの再帰性と記憶の固有値を基盤とする「あなたにとっての詩の媒体」へと、テキスト内部の情報は受け渡されていきます。

詩の媒体は固有の領域に限定化されず、個々の関与者を横切りながら自己を変形させていく過程のなかで、そのつど異なる様態でしか知覚されない。しかし、こうした異なる媒体の往還関係は詩そのものの構成に不可欠のものであり、それこそが詩の媒体に固有の性質であるといえます。つまり、不確定性を表現の基盤とすることで、徹底して個々の関与者が(媒体の)制作者であらざるをえないという経験の渦中にあらわれるもの。それが、ほかならぬ詩と呼ばれる言語表現なのです。