デザインと哲学、その未分の源流で

清水 高志 / Takashi Shimizu

上野 学 / Manabu Ueno

2022.12.15

オブジェクト指向の哲学とデザイン

清水高志:
最近僕は概念を造形的に考えることが多くて、それが哲学とデザインに共通する話につながってくるんじゃないかと思っています。

ドゥルーズは『ベルクソニズム※1』などの書物で、概念は最初から複数の概念対が複合したものとしてあると語っています。たとえばプラトンは『パルメニデス※2』で、「一」とか「多」とかいうバイナリーな概念の対を単独で語るのではなく、それを別の概念の対と結びつけてより具体的に語っています。つまり、「一」というのは「ある」とか「ない」という概念の対と結びついて、「一」が「ある」とはどういうことか、また逆に「多」が「ある」とはどういうことかを考える。最初から哲学はこうした操作としてあって、その中で似たような概念対同士の違いも明らかになってくるわけです。

これは哲学の概念の話ですが、最近僕はどうも人間が世界を認知する局面でも、すでに似たようなことをしているのではないか、つまり色や音の知覚でも同じようなことが言えるんじゃないかと思っているんです。「光の三原色」では、青に対して残りの赤と緑を混ぜると、青の補色の黄に近いものが出てきますよね。バイナリー要素をいくつか組み合わせたものを分解したり混ぜ合わせたりすると、また二項性が現れる。しかし、それらを元に限りなく多様な色彩が生み出されたりもする。実はそういったことを概念のレベルでメタ的に考えているのが哲学なんじゃないかと思います。「光の三原色」のような、普遍的でシンプルなものを概念として提示し、操作しているわけです。

むかし僕の曾祖父はピクトリアリズムという写真美学に凝っていました。カメラを通して写真を撮るときに、われわれが見たままには再現できないじゃないですか。情報が多すぎるので、消して白っぽくしたりして、生態的な視覚を再現しようとネガに小細工をする研究をしていたんです。こうした白黒の写真では、白と黒はそれなりに分離していますけど、色というのは混合した状態では白色光です。しかし分解すると、先ほど言ったような三原色があり、さらには色々な補色関係がある。光学的には光がただ規則正しく屈折しているだけなのに、なぜ認知ではコントラストが違うのかを考える必要性があるんです。

青と黄色が補色だという話は、インドの論理学の経典『ニヤーヤ・スートラ』にも出てくるらしく、仏教学者の師茂樹さんによると、「なぜ青なのか」というと「黄色でないがゆえに」といったことをわざわざ述べるらしいです。瞑想しているときに互いの反対色を同時に思い浮かべているらしく、「紺地金泥」とも言いますが、紺の地に金色でお経を書いたりするのも、それが補色だとはっきり意識しているからだと言いますね。

ウクライナの国旗は黄色と水色ですけど、あまりにも空が青いので、穀倉地帯の麦が黄色に見えるらしい。はっきりとした刺激を知覚すると、反対の方向でも刺激を感じたくなる。そんなバイナリー志向がどうも人類には普遍的にあるみたいです。

上野学:
そういうのって不思議ですよね。音階がなぜそう聞こえるのかとかもすごく不思議です。

清水:
鍛冶屋が仕事をしている音を聴いて、ピタゴラスは四度と五度の和音を発見したと言いますね。

上野さんのお仕事はユーザーインターフェイスのデザインなので、可視化ですよね。ユーザーの側から見ても、たとえばあるデザインの対象がわかりやすく可視化されていると、それにいろんなアプローチができるので、事後的にタスクや選択肢が見えてきたり、フィードバックループの関係で局面が変わってくる。そうやって発見があるのが理想的だと思いますが、人間が知覚していることをモデル化してコンピューターとの関係をデザインしていくことは、昔から哲学がやってきたことに案外近いんじゃないかと思います。

実際に哲学もそうやって概念を作っているわけで、わかりやすく作っていると考えられがちなデザインやアートの現場にも、哲学が踏み込んでいけそうな気がしています。だからこそ上野さんのデザイン思想はすごく面白く感じられる。

オブジェクト指向デザインでは、可視化されるモノの用途やさまざまなアプローチが、事後的に見えてきますよね。そこからまたオブジェクトの別の局面に収斂していくフィードバックループがある。こういったことは、認知の問題を可視化しようとしてきたユーザーインターフェイスの歴史において、自覚されていたものなのでしょうか。

上野:
たしかにオブジェクトという概念だけ見ると、哲学で使われる意味と変わらないですけど、ユーザーインターフェイスで使われる場合は、それをたとえばスクリーンに表示するといったやり方で、目に見える形にします。

パソコンの画面は、大体絵でできていますよね。だけど、コンピューターの歴史の初期段階では、まだスペックやリソースが足りなくて、アニメーションをリアルタイムで表示することが難しかったんです。それが段々できるようになっていくなかで、改めてオブジェクトを表すには、絵が適していることがわかってきました。コンピューターのプロセッサーは逐次的で線形的に処理をしていくモデルですけど、それをわれわれが実際に生活したり仕事したりするプラットフォームとして考えると、やっぱり空間が必要になるんですよね。その方が作業をするのにわかりやすい。だから絵が適しているわけです。

空間というのは、複数のものが同時に存在可能じゃないですか。オブジェクトのような概念がプログラミングに持ち込まれたのは、線形的な処理が必要な言語的なものではなくて、空間的なものとして表すためだったんだと思います。画面に見えているものが複数あっても、そのひとつひとつに処理がプログラムとして記述されていて、処理が実行されるときも実際にはプロセッサーの中で逐次的に行われます。だけど、コンピューターの処理速度が早いと、同時に存在しているように見える。

同時に存在しているように見えると、われわれは子供が粘土遊びをするような感覚で、好きな順序で触ることができると感じます。つまり、選択肢が増えるということです。オブジェクトは順序や方法が無限にあるように見せるものなのだと思います。そうやって選択肢があるような空間を作ってきたことが、オブジェクト指向のプログラミングが発達してきた背景にあると思います。

コンピューターシステムは、基本的に決まった仕事ができるようにする仕組みとして作られるわけですけど、その決まった仕組みに合わせて順番にやらせるだけでは、思うように使えないということがわかってきたんです。コンピューターでは、いくらでも複雑な仕掛けを作れますけど、そうするとやり方がわからなかったり、その手順を覚えきれない。作る側の観点からも、やることが複雑になってくると、どういう手順になるのか予測できない。そのやり方を決めてしまうと、ある人にはいいけども、その他の人にとっては使いにくいものになってしまいます。

われわれの使っているパソコンの画面なんかがいい例ですけど、オブジェクト指向UIは何かをするためのやり方を固定しない。そういう思想で作られています。使う人は自分なりに触って反応を見ながら、オブジェクトとインタラクトするなかで学習していきます。そこでやり方を工夫をして、自分の仕事を組み立てていく。そういった世界を作ったんだと思います。

清水:
すごく面白いですね。使う側に選択肢がたくさんあって、それを空間的に可視化するものとしてオブジェクトがあって、それを触るためにインターフェイスがあるということですよね。

上野さんの『オブジェクト指向UIデザイン※3』には、タスクを優先してリニアにつないで、その入り口を誘導的に用意することが不合理だと書いてありました。ある人がトイレに行ってご飯を食べて寝ようと考えていたとしても、玄関を開けると、その順番で空間的に並んでいたら非常に不便で不合理なんだという話は、とてもわかりやすかったです。

それは、局所的に適応してリアクションするのではなくて、いくつもの違うリアクションを留保することで、自由度が増していくということだと思うんです。しかも、同じ対象に対してだけじゃなく、違う局面の違う対象に対しても、横並びの自由度が波及していくようなものではないでしょうか。生物が進化していくときにも、局所的に適応するだけではない潜在性があって、それでいろんな進化の仕方をしてきたわけですが、同じ構造のように感じます。

哲学では、最近はベルクソンについての本が多く出版されていて、皆さん送って来てくれるんですが、そこから興味を惹かれてさらに前のダーウィンなんかに遡ってみると、進化論だけじゃなくて心理学のようなことも書かれています。過去の記憶を横並びにストックして、そこから人間の精神がどう自由度を確立していくのかという話と、進化の話が類比的に考えられている。オブジェクト指向デザインの話も、われわれがさまざまな社会の機構を人工的に再実装しないと可視化されないような世界に生きているから、その必要に迫られているんじゃないかと思います。

一方で、いろんなレベルの社会構造において、玄関を開けるとトイレのドアがあって、その先にご飯の部屋があって寝室があるといった、古いデザインがたくさん残っていますよね。そういったものはリデザインされていかないといけない。そうした認知や進化の問題も、おそらくオブジェクト指向デザインの話とつながっているし、ベルクソンより前の人たちは、認知も進化も哲学も混ざったところで話をしているんですよね。

西田幾多郎は、そうした地続きの世界でヨーロッパのテキストを換骨奪胎して、オリジナルなことをやっていました。そんな風に昔のフラットな場所に戻っていく必要があると考えています。そこにはデザインや認知や進化や哲学といった、さまざまな分野が渾然とした源流があるわけです。

哲学はどうしてもタスク指向で決まった系譜を繰り返し引用している節がある。それよりも、コンピューターを実装するようにモデル化したり、日常的にデザインを美しいと思ったり、便利で汎用性があると思ったりする方が、よっぽど重要でヒントになるんじゃないかと感じます。だから、上野さんが言われているようなことは、すごく示唆的だと思うんですね。

オブジェクト指向の哲学を、中途半端にテキスト解釈するよりも、オブジェクト指向デザインから入っていく方が絶対に面白いんですよ。その方が本質に近いし、グレアム・ハーマンもそういったことを意識して書いています※4

上野:
グレアム・ハーマンの本に書かれていることは、われわれがやっているプログラミングのオブジェクト指向とほぼ同じ考え方なんですよね。

清水:
同じですよね。たとえば彼が「緩衝因果(buffered causation)」なんていうときの「バッファ」はさっきの同時に横並びにしていくという話だし、オブジェクトの断絶を表す「脱去(withdrawal)」はプログラミングで言う「カプセル効果」のことですよね。

上野:
そうですね。オブジェクトは自律的な存在なので。

清水:
どうしてもオブジェクトと言うと、モノが隔絶していると捉えて、相関主義の向こう側みたいなことを素朴に唱えてしまいがちで、そうすると余計に二元論をこじらせてしまう。そうではなくて、「脱去」は二元論的相関性の中に別の二元論的相関性が残留するとカプセル効果が起こるということなんですよね。オブジェクトは、要素から構成されるというかたちにも一方的に還元されないし、それが持つ外的関係にも還元されない。また原子もさまざまな性質を含み持っているし、最小単位から合成されるというような構図を採らず、すべてが重層的に含み合っている。原子が小さいわけでもないし、集合体が大きいわけでもない。

上野:
大小の問題じゃないんですよね。

清水:
そうなんです。たぶんハーマンが言っていることは、上野さんのようなデザイナーたちには直観的にわかっていることなんでしょうね。

上野:
そういう意味では、アクターネットワークセオリー(ANT)※5も似ているかもしれませんが、あの世界観はプログラミングやデザインをしている人の頭の中で、ずっと前から普通にやってきたことで、彼ら自身もそうやって世界を見ているんだと思います。

合目的性から選択肢へ

清水:
一方で、アテンションエコノミーと言われるように、サービスプロバイダーが消費者の行動から情報を抜いて、そこからまた次の行動に対して方向づけをしているという状況もありますよね。誘導的にして選択肢を狭めて、局所適応の方に導いているのは、オブジェクト指向デザインの思想とまったく違うと思うんです。しかし、こういったアテンションから考える可視化も、リデザインの一形態だとは思います。

20世紀中葉のサイバネティクスは、たとえば飛んでくるミサイルを迫撃砲で落とすとき、蛇行するミサイルに照準を合わせながら機械を有効に動かすといった技術ですね。当初のサイバネティクス的対象は単純で、この例で言うなら、ミサイルと迫撃する機械による一対一関係のフィードバックループだったんですけど、それが20世紀後半に入って変化しました。一つのミサイルに対して、追撃砲がいくつもあるような状況、フィードバックループの対象が被っていて、複数のアプローチが重なる状態が生まれて、かつそれが可視化されるようになった。これが20世紀の終盤にでてきた第二世代のサイバネティクスです。フィードバックが一対一ではなく、一対多になってきたんです。

アテンションエコノミーは、そういった状況を第三者的に俯瞰しているシステムであると言えます。西垣通さんが、第二世代のサイバネティクスは、自分たちを別格だと考えて誘導的に社会構造をデザインすることではないかという整理をされていて、とても腑に落ちました。

こういった話は、オブジェクト指向のUIデザインも含めて、今の社会の構造自体がフィードバックループによって複数の主体的アプローチの可能性を共存させて、オブジェクトを際立たせるということをやっている、その現われですよね。もっともアテンションエコノミーはそれを誘導的に、いわば悪用しています。これらはミシェル・セールの準-客体論やラトゥールのANTと同じ構造の話をしているんだと思います。

ただこれは第二世代の話で、その構造をメタなポジションで俯瞰して一方的に誘導するGAFAのような存在がいるので、できればそれをもう一度フィードバックループの中に入れるようにしないといけない。デザインの例で言ったら、オブジェクトが示す局面と選択肢が、自在に切り替わっていくような仕組みを考えないといけない。それができれば、おそらく社会として総合的なネットワークを作ることができるんじゃないかと考えています。

僕はこういうことを仏教や他の回路でも考えたくて、今もテキストをいろいろ書いているんですけど、これを一番わかりやすく社会に実装したかたちで提示できるのは、デザインの人じゃないかと思っています。

上野:
どこまで社会構造やシステムの話に通じるかわかりませんが、元々コンピューティングパワーは一部の特権階級が持っていました。それから1960〜70年代のアメリカ西海岸のカウンターカルチャーの中で、パーソナルコンピューターみたいなものが発想されたという経緯があります。しかし依然として、テクノロジーを使って、より大きなものを組織化して統制しようとする思想は根強くあって、複雑な仕事を合理化する考え方として残っていると思うんです。

こういった流れの中では、ある目標へのプロセスを線形で定めます。それに基づいて、人々に使役的に仕事をさせるための仕組みとしてコンピューターを使うわけです。たとえば会社の業務システムでは、社員にそれを使わせることで、経営者は経営に必要な情報を手に入れることができる。でも日報を書かなきゃいけない社員からすると、仕事するだけでも大変なのに、自分の仕事の内容を書き出すために1時間かかるといったことが起こります。

現実世界においては、線形でプロセス化できない問題や目標というものがたくさんあって、むしろそれが本来の姿だと思うんです。だけど、これもある種の近代の誤謬というか、「何かをデザインをすること」が「何かを線形化すること」であるという発想として固定化されていて、そこから抜け出せない人が多いんだと思います。だから、清水さんが想像されているような、フラットで複合的なネットワークになった社会構造のデザインに取り組めている人は、なかなかいないんじゃないかと思います。

こういう話をするときに、よく「リンゴの皮むき機」を例に出すんですが、これはリンゴの芯に刺して回すことで皮が早くきれいに剥くことができる道具です。デザインをするときに、リンゴの皮が剥かれていない状態から剥かれた状態までを効率的かつ合理的にプロセス化して設計すると、このリンゴ皮むき機が生まれるわけです。ただこれはかなり大きな機械で、リンゴの皮を剥くこと「しか」できません。工場でジャムを作るのにリンゴを何百個もむくならまだしも、一般の家庭にあると邪魔でしょうがない。

なので、どうやってリンゴの皮が剥かれた状態を獲得するかという目標から抽象化して、リンゴの皮を剥くとはどういうことかを考えるんです。手に持てるような小型の食材があったとして、それに対して何か細工をするのに必要な鋭利性や手元性があれば、リンゴの皮だけでなくキュウリやトマトを剥けるかもしれない。そういった発想をすれば、果物ナイフを作ることができる。

それに合目的性から設計してしまうと、「料理をすること」や「食材を加工すること」への感覚がどんどん鈍っていくと思うんです。だけど、果物ナイフが一つあったら、最初は指を切るかもしれないけども、使うために練習しますよね。その道具を使えるようになるということは、それによって自分自身が食材とのよりよい関係を作れるとか、食事とか料理においてより豊かな体験を得られることにつながるんだと思います。

デザイナーとしては、果物ナイフのような道具を作ることを意識しないといけないんですが、世の中の流れとしては、リンゴ皮むき機をどんどん作ろうという方向に向かっているようにも見えます。

清水:
ミシェル・セールの弟子のピエール・レヴィが「ヴァーチャル化(virtualisation)」ということを語っています※6。これはアクチュアルなものをニュートラルな状態に戻すという意味です。あえて解像度を下げて、局所的に適応する前の抽象的な状態に戻すということですね。これは記憶と行為の関係だけじゃなく、道具でも同じことが言えると思います。

ライプニッツは「物質は瞬間における精神である」という言い方をしていますが、なぜかわれわれは逆に「精神は瞬間における物質である」と捉えてしまう。ベルクソンが言うように、物質は持続のスパンが非常に短いものです。色や音のような「現われ」にしても、物質的現象は非常に短い間隔でのパルスの反復などによって維持されている。

これに対して精神は物質との相互作用の中で自らを持続させ、その働きは形を変えて持続し、さまざまな姿をとって現れる。そもそも記憶のような過去のものはもうアンタッチャブルなので毀損されない。物質的でアクチュアルなものにも精神は働きかけるが、その結果も次々と過去に送られる。だからベルクソンは、精神の方がより持続のスパンが長いと考えました。

そう考えていくと「脳とは何なのか」という問いが出てきます。われわれは脳を記憶が刻まれている場所のようにイメージしているけど、実際はモグラ叩きのように次々と過去に送り出される身体の瞬間の状態にすぎません。つまり身体や脳は、いろんな使い方ができる、非常にニュートラルな道具の一つだと思うんですね。

道具を作ったりデザインするということは、精神と外界の間で起きている相互作用を可視化し、自在に操ることですね。道具をデザインしている人は、精神と物質の世界の関係を考えているわけなので、それを自覚的にやることはまさに哲学です。道具を作る職人にも、無知の知があるわけです。

デザインと美の価値

清水:
オブジェクト指向のUIデザインでは、さまざまな選択肢が水平的に用意されていて、進んだ先にまた選択肢が広がっていく、そしてオブジェクトも多様に切り替わっていくような局面が展開することを目指していますね。そうした選択肢の種類を増やしていくことが公正であることだし、その数値化にも興味があります。

これまでよく見られたのは、逆にオブジェクトが固定されてしまう状況で数値化を考えるというものです。たとえば経済学でも、貨幣というオブジェクトが特権的に作用する状況をわざわざ想定して、それだけで数量化が行なわれるということがありました。近年ラトゥールやドゥルーズによって再評価されている社会学の祖の一人であるガブリエル・タルドは、そうした態度が人間にとっての「価値」のあり方を画一化してしまうと批判していました。

マルクスは「物象化」とか「疎外」というキーワードで数量化を考えていましたが、タルドは「競合」や「模倣性」という概念から考えました※7。社会においてさまざまな人が競合するなかでは、結節点的にいろんなものを集めた人がクリエーションをしますが、そこで生まれた生産物が堕落していくとただ模倣されるだけのものになってしまう。

大事なのは新しい結節点を次々生み、状況を切り替えることなんです。ここで言う「結節点」は、まさしくオブジェクトですね。彼はそんなモデルを作っていて、何種類もある価値や競合のシチュエーションを数値化するシステムを作るべきだと言っていました。

タルドは社会学や集団心理学など、まだいろんな分野が混ざっていた時代の人ですけど、社会学というジャンルを分離して確立しようとした当時のライバルであるエミール・デュルケームのような人の方が、制度的にどうしても後の時代まで残りやすい。われわれはその後の世代として育ったので、その前の混沌とした世界観はわからなくなってしまったし、それでタルドの存在も隠れてしまいました。

でも現実として、多くの人が採る典型的なチョイスをすればするほど袋小路に入ってしまうことはよくあります。先にいろんな選択肢が広がっていない構造になってしまい、過当競争の負荷も重くなってくる。今では誰もが、グローバルな競争の激化とその画一性に苦しんでいる。オブジェクト指向デザインの考え方は、タルドのような100年ぐらい前に生きていた人が夢想した社会を、現在にリデザインする可能性を持っていると思うんです。

上野:
そうですね。社会の制度については、どうしても手続き化するという方向で考えてしまうのかもしれません。手続き化することで局所的に合理化されても、他の選択肢がなくなったり、正解が一つでそれ以外が不正解という想像をしてしまう。不正解が発生する機会をわざわざ増やしているとも言えそうです。

線形化したり階層化したり、ゴールやその出発点を一つにしたりと、プロセスを固定化してしまうことで、当然人々の行動はそれに引きずられてしまいます。そうすると、自然と局所最適の発想になったり、正解や不正解が第三者的な尺度で決まるような境界付けが生まれてしまう。そういったケースはたくさんありそうです。

オブジェクト指向の考え方では、何をしてもいいように作ってあるので、たとえばパソコンの操作をするときにも正解や不正解がありません。オブジェクト指向というのは、どうすれば「何をしてもいいように作れるか」という発想で考えることです。ひとつひとつのオブジェクトがちゃんと自律していれば、それを使う人がどう操作しても、全体として壊れることはありません。そういった考え方を、社会制度や手続きに適用していくことは有意義だと思います。

清水:
オブジェクトがひとつひとつ自律、または独立しているというのは、もうすこし掘り下げるとどういうことなんでしょうか。

上野:
アラン・ケイあたりが言っていたことの受け売りなんですが、「一つの装置の中に複雑な処理がプログラムされているコンピューターを作る」のではなく、「小さいコンピューターの集まりで大きなコンピューターを作る」という発想なんですよね。

だから、物理的なコンピューターがつながってネットワークになることもありますし、画面の中に並んでいるファイルのアイコンひとつひとつがコンピューターだとも言えます。ひとつひとつがコンピューターというのは、それぞれにメモリー空間があって、何か処理が記述されたプログラムが入っているとしたときに、そのオブジェクト同士は入れ子にすることもできるし、ネットワークのようにゆるい関係を持たせることもできる。大きなオブジェクトも小さなオブジェクトも仕組みとしては全部同じで、再帰的なフラクタル構造になっている状態です。

清水:
まさに先ほどのオブジェクト指向存在論の「脱去」がカプセル効果だという話ですね。ひとつひとつのパソコンの中でもそうだし、全体もそうでないといけない。だけど、ただ全体をマス単位で見ると、あまりうまく機能しない印象はありますよね。たしかにSNSなんかを見ても、誘導している方の流れが強いように感じます。

上野:
アテンションエコノミー的な発想で、人々の行動の統計をコンピューターが自動で算出して、さらに行動を誘導するような技術が、ものすごい勢いで発達していますよね。もう作っている側もコントロールできなくなっているかもしれません。その状況を、前に清水さんが「黒魔術」と言われていましたが。

清水:
ヴィリエ・ド・リラダンというフランスの作家が、かつて「栄光製造機※8」というシニカルな短編を書いたんですが、芝居のサクラが拍手をするという行為自体が機械化される未来を妄想してリアルに描いています。サクラ行為や八百長批評に対する痛烈な当てこすりを意図した小説だったのですが、今はそれがSNSの世界の現実そのものになっているように感じます。

ところで上野さんに聞きたかったことがあるんですが、たとえば先ほどのガブリエル・タルドは、価値というのは、富のように蓄積するフェティッシュな数量化ばかりではないのに、オブジェクトが固定化されていきがちだと述べています。

ブリュノ・ラトゥールも、みずからが作った偶像を崇める偶像崇拝を否定して、西洋人が人間を超越したものとしての神を想定したり、科学者が多様なアプローチで介入したり、そこからフィードバックが繰り返し起こったりする前に、科学の対象があることを想定したりするのは、同じ種類の欺瞞だと語っていますね。価値を一つに絞ってしまうことは、高級で文明的なことのように思えるんですが、現代文明が陥っているあらゆる危機はまさにここから生じている。

タルドは、事象を細かく切り離して客観的にするという発想で、経済学はむしろフェティッシュや疎外を作り出して安心しているけど、それは間違っているといった言い方もしています。タルドによると、価値というのはいくつかあって、「美についての価値」「有用性についての価値」「富についての価値」と三つに分類できると言うんです。

UIデザインの話をするときに、「有用性」や経済価値である「富」についての価値は考えやすいと思うんですが、「美」についての価値の定義は、どのように考えられていますか。

上野:
あまり「美」という観点から考えたことはありませんが、UIデザインでは道具をデザインしている感覚があります。だから、道具の機能美についてのフェティッシュはあるかもしれません。

人が道具を使うときには、そのインタラクションの中で何かが生まれます。何かが生産されたり、自分自身の価値観が変わったり、その道具を自分で作り直したり、いろいろな相互作用が起こる。われわれは普段からいろいろなモノに囲まれて生きていますが、モノとの相互作用が起こったときに、自分がモノと「接続した経験」が、生活価値のような「美」として記憶されているようなことはあると思います。

清水:
それは、たとえばスムーズさみたいな経験ですか。

上野:
スムーズさそのものではなく、道具を使って何かを作ったときの情景が記憶されて、別の環境に身を置いたときに思い出されたりするようなことでしょうか。われわれは身の回りのモノをなんでも道具的に捉えてしまうので、モノとの関係性がわれわれの世界観や経験や記憶を形作っていると思うんです。そういう意味で、モノと接することで自分が変化をしたり、身の周りのものとのコミュニケーションが発生したこと自体に価値を感じることはあるんじゃないかなと思います。

清水:
なるほど。今二つぐらい連想したことがあって、一つはエリー・デューリングという哲学者が語っている「プロトタイプ※9」の話です。「プロトタイプ」というのは、概念的に作ったモノの用途は、形や構造ができてから事後的に生まれてくるという考え方です。熱を逃がすための熱機関の弁があったことで、それを使った圧力釜が発明されたように、道具の形ができあがってから、そのポテンシャルがさまざまに生まれてくる、そうした完結性のあるものが美しいという考え方です。

たとえば桂離宮に行ったとして、そこにある一つの石は借景の中で遠くから眺めることもできるし、腰掛けてみても実に感じがいい。茶室にもそうした多義性をもった要素がいくらでもありますね。新しい形を生み出す結節点であるオブジェクトはたくさんあって、それが「美」の要素になっているというわけです。上野さんが言われている「美」は、そういった体験のことを言われているんじゃないかと思いました。

柳宗悦が「用の美」ということを提唱したのは有名ですが、これはただの局所適応ではなく、いくらか汎用的な可能性が見出されるようなものがあれば、それが道具の便利さだとして、いかにも「美」であるという定義ですね。

もう一つ思いついたのは、「記憶」についてでした。理想の道具は、「記憶の中で美しい」ということがあるのかもしれません。あるモノと向き合ったときに広がる選択肢の中に、そのポテンシャルが一つの形としてあって、さらにそれが新しい形へとつながっていく、そんな可能性の話をされているのかなと思いました。

西田幾多郎は、「物を作るということは、物と物の結合を変ずることでなければならない」「物と物の結合を変ずること、すなわち形を変ずることでなければならない」そしてそれは「形が形を限定する」ことであると述べていますが※10、これは彼の道具論です。そんな話ともいかにもつながっていそうです。

上野:
そうですね。記憶というと、クリストファー・アレグザンダーのデザインパターンにある柱の話を思い出します※11。柱は基本的に天井とか屋根を支えるために作られていますが、その存在性を観察すると、そこで誰かと待ち合わせをするとか、その近くにテーブルが置かれるとか、環境の中で個別の意味を持ってくることがあります。

つまり、人と柱の関係は一定ではなく、柱を作った人にも決めることができません。柱を作った人は、あくまで天井を支えるために作っていますが、実際の柱はそういった存在に限定されないわけです。でも柱は、人が待ち合わせをしたり、近くにテーブルが置かれたりすることを受け入れているじゃないですか。そういったモノのあり方を美しいと感じます。

しかも、そこで待ち合わせをした人は、そこに柱があることを意識しないですよね。モノの助けを借りて違う何かを作り出したり、自分自身が変化するといった相互作用が日常でずっと起こっていくなかで、わざわざ思い出しはしないけど、経験や記憶のようなかたちで後から内省されていくことはあると思います。そういった存在の美があるのではないかと思います。

清水:
それはベルクソンが言う「無意志的記憶」ですね。記憶は、過去の方から選択肢を持って後に向かっていくものだと思うんですが、上野さんがおっしゃっているのは、モノに触発されて想起される、物と記憶の間にあるような道具ということですよね。

上野:
そうですね。

清水:
ベルクソンは、現在というものがすぐ過去に送り込まれてしまうといった話をしているんですが、過去や記憶は触れることができないから、なくならずに残っている。つまり、過去は選択肢として残っていて、現在へは結節点的なかたちで合流してくる。それで及ぼした影響は、さらにモグラ叩きのように過去にまた送り込まれて記憶になる。それがまた選択肢になるんですが、また結節点的にアクチュアルな影響も及ぼして、というのを繰り返す。これがベルクソンの哲学なんですね。

こう考えると、ベルクソンの議論とオブジェクト指向デザインの共通点が見えてきます。ベルクソンは、人間が進化していく未来を見ているけど、到来した未来をモグラ叩きの踏み台にして、また過去にそれが戻ってきて、そうやって追いかけっこしている状態を、世界のデフォルトだと考えているんですよ。これはすごくUIデザイン的ですよね。

このあたりは進化でも認知でも哲学でも同じように考えられているし、発展史観的に捉えるとそれも線形的になってしまうきらいはあるけれど、ライプニッツやラトゥールのネットワーク的な構造についても、普遍化した議論ができる。線的に説明するより、実践的なデザインの観点で、道具に現れる「美」の話にした方がわかりやすい。

アレグザンダーの話も、自分の家を建てるときに、よく建築家の柄沢祐輔さんとしていたので、実感を持って共感できるところがあります。

上野:
階段は段差があるところに登り降りするための機能を提供するものなんですけど、美術館の前に大きくて平たい階段があると、みんなそこに座ります。そうやって人が好きに座っているのがいいという話を、アレクサンダーはしていました。

これって、目的やタスクのために局所最適化の方向でテクノロジーを駆使するのとは、別世界の話じゃないですか。階段を作る人が、本来の機能以外の部分をどこまで想定しているかはわかりませんが、結果的に座れる階段の方が座れない階段よりいいということだと思うんです。

目的に特化したものを作っても、実際にはその環境や人々の行動にフィットせず、邪魔なものになってしまうこともあるところが、デザインの難しさです。なので、すこし遊びを持たせて、あえてそれが何であるか決めないでおくことも必要になります。

でも、単に何も考えず、よくわからないものを作るのがデザインとも言えないので、目的とする機能を提供しつつ、ちゃんと余裕があって、実際に環境や人々の行動にフィットして、何かしら活用されるにはどうするかという発想で考えないといけない。そのための形式的な経験則がオブジェクト指向なんだと思います。

私はよく「モードレスデザイン※12」という言葉を使うんですが、特定のモードに縛られない、モードから解放された作りにあえてしておくということが重要だと思っています。

清水:
モードレスというのは、要するに「無用の用」みたいなものですよね。

上野:
そうですね。

清水:
「無用の用」と言えば、前に海外の学会で、「車輪の中心にある轂(こしき)のような、一見無用な遊びの部分があってこそ、車輪の用が果たされる」という老子の喩えについて話していて、「遊びの部分」を英語でどう表現しようかと悩んだんですが、考えたら「play」でいいんですよね。

上野:
そうですね。不思議ですよね。

清水:
いかにも不思議です。しかもどこの国でもそうで、フランス語でも「jeu(遊び)」でいいんです。こういった「無用の用」は、AIが使われる世界にも実装されるべきなんでしょうか。

上野:
30〜40年前の人工知能は、人の精神的活動や認知をどのようにシミュレーションするかに関心が向けられていたと思うんですけど、今は深層学習の技術がかなり進んで対象も変わってきましたよね。

われわれもクリエイティブな行為をするとき、全ての段階を計画してから手を動かすというよりも、自分が深層学習したものを手がかりになんとなく手を動かしています。線を引いている途中で、あと1ミリ右にずらすか、左にずらすかは、描いている本人もなぜそう描いているのか言語化できないようなレベルで、その都度経験的に判断していると思うんです。

最近はお絵描きAIが話題になっていますけど、おそらくコンピューターにもそういったことができるとわかってきました。むしろコンピューターの方が計算が速いので、「なんかわからないけどうまくできる」という状態に早くたどり着くんだと思います。なので、人間らしい行為や創作は、実はコンピューターの方が得意だと言えるところまできていると思います。

清水:
モデルを作るわけですもんね。ニューラルネットワークの構造をみると、入力層というのがいくつかあって、その次に隠れ層というのが来ます。この隠れ層はノード(結節点)とも呼ばれるんですが、これもいくつかあって、入力層からの情報がすべてのノードにそれぞれ集中するようになっている。ちょうど、オブジェクトに複数の選択肢、アプローチが結びつくようにです。

入力層から隠れ層のノードに入ってくる情報の重みはそれぞれ微妙に違うので、ノードはなんらかの特性について1か0か、脳でいうとシナプスが発火するかしないかという、要するにバイナリーな判断をして、出力層ではそれらのバイナリーが複数種合流して混じったものが結果として出てくる。この構造に出力層から逆に答えを教えてやって入力層の重みづけの調整をしたりするのがディープラーニングの構造なんですが、これはアクターネットワークとか、オブジェクト指向UIデザインとかのあり方を、組体操みたいに多重にしたかたちになっていますね。

もともと脳がこういう認知の仕方をしていたのを模したわけですが、これは紛れもなく、自分が哲学で考えていることやオブジェクト指向UIデザインがやっていることと同じです。概念というのは、この場合の出力項と同じで、最初からいくつかのバイナリーが複合しているものなので、結果が違う場合はその組み合わさり方が別のかたちでツイストしていたりするわけです。哲学は、この構造そのもののうちで、一と多がどう関係しているかとか、認知主体と対象がどうなっているとか、そこで見い出される複数のバイナリーと、その組み合わさった形を自覚的に考察することで、普遍的な知を得ようとする試みです。

われわれは認知を身体的に処理しているんですが、その過程のもつ意味をさらに解明すれば、世界そのものがあらゆるものをどう弁別しているのかということまで考えられるはずです。哲学はそれを言語化するものですが、それが認知の問題でもあるのだとすると、デザインの実践によってもっとも可視化されるのかもしれません。シンプルに抽象化していく部分と、そこから複雑さを生み出していく部分は実は同じであって、ベースとして共通するところがあるという実感があります。

上野:
私は元々グラフィックデザインをしていて、それからソフトウェアやUIのデザインに移行したときに、対象がすごく複雑で大きいことに気が付きました。全体を一気に計画できないし、細かい部分をひとつひとつ作って集めても、全体性が成立するものではないのがすぐにわかりました。一方で、技術的な実装の仕組みがあれば、大きなものを作るのも小さなものを作るのも同じ行為として取り組める気がしたんです。

プログラミングでは、単純な動きをするものを作って、それを複製することで全体を作っていきます。全体の構造についても、ある型をベースにしてインスタンス化していけば、大きなところから小さなところまで同じ仕組みで動くものを作ることができる。そんなイメージをしながらなんとなくやっていたら、ソフトウェアを作る人たちが既にそれを「オブジェクト指向」と呼んでいるのを知りました。そこでようやく、その着眼点が普遍的な発想だと知りました。

清水:
それは日本的な美学に通じる話かもしれませんね。演劇や歌舞伎でも、全体には間と遊びがあって、ストーリーからするとどうでもいいような愁嘆場が細部に無限にある。名優は、そこを自在にクローズアップして引っ張ったり、そこで登場人物の葛藤を描きだして観客の眼を釘付けにしたりするわけです。職人が重箱の隅をこだわって突っついていると、かえって仕事が増殖していくようなもので、どんどん細部に仕事を作っていくのが面白いという考え方ですよね。浄瑠璃のような楽曲でも、ピタッと全部の間が合うのは面白くないとか、ずれがあって独立してないと面白くないとか。スケールフリーなんです。最初に話していたハーマンのオブジェクトの話とも通じます。

松岡正剛さんも語られていましたが、伝統的に日本人は、内側のものが外側にねじれて出てくるようなことも好みますよね。着物は帯で留めたものを、さらにもう一度紐で縛っていますよね。元々着物を留めるための一部分だったものがいつの間にか形式化して、全体のように大きくなって、あの帯の形ができたというんです。温泉旅館で出てくる頭の表だけを残した刺身のお造りとか、全部そんな感じです。

トライコトミー(三分法)の布置

上野:
すごく素朴な疑問なんですが、今日も話に出たセールの準-客体論や、ラトゥールのANT、ハーマンのオブジェクト指向存在論、ライプニッツのモナドといったものが、私にはすごく似たものに感じるんですけど、これらは構造的にどのような同一性があるんでしょうか。

清水:
セールの準-客体論とラトゥールのANTは近いですし、セールはライプニッツを援用しています。

ライプニッツの場合、扱われる二項対立の種類が「質料/形相」と「一/多」の問題で二種類あります。二項対立を近代モデルにすると、多様な自然があって、一なる統一的原理である精神にそれらが回収されるというパターンを多く見かけます。しかし、ライプニッツは独特の質料形相論を展開していて、人間精神が見いだす形相性はもともと質料性の中にあって、そこから切り出してくるという考えを最初から持っていました。

これはスコラ学ではスコトゥスとかアルベルトゥス・マグヌスなども、たとえば数学の対象は知性的質料と呼ばれるもので、そこから形相性を引き出してくるという考え方を持っていたし、わりとよく見られたものです。むしろ特別なのがデカルトの場合で、コギトを出発点として、形相性と形相性を正しく鎖のようにつないで、最後に質料的な対象にアプローチする。その鎖がちゃんと長くつながっていれば、それはよく考えられた対象で、実在的だと考える。形相性に質料性を回収するわけですね。

一方でライプニッツにとっての形相性は、学問の対象に対するアプローチが、その対象に向けて複数あって、質料的な対象がそれらを含んで合流させていると考えると理解しやすいんです。対象へのアプローチが複線的であることが、よく考えられているということなわけです。彼はデカルトより代数的な数学観ですから、ある物的な全体があると、それを二等分するとかの代数的操作はいくらでもできる。微積分などの操作もまたそうです。円錐があったら、そこからさまざまな円錐曲線を取り出せる。複数種の異なった形相が質料的対象のうちに含まれていて、モノがそれらを合流させている。

ライプニッツは形相性を線形的にはつないでいないし、アプローチがオブジェクトにいくつも並存的に含まれているわけです。こういった構造が、オブジェクト指向UIデザインにもかなり共通していると思います。

このライプニッツの哲学をさらに準-客体モデルとしてまとめ直したのがミシェル・セールです。準-客体モデルは、中心にオブジェクトがあって、そこに複数のアプローチが合流し競合するあり方を、ボールゲームに喩えたものです。さらにそれを科学の対象への複数のアプローチと、そこからのフィードバックループを分析するメソッドとして理論化したのが、ラトゥールのANTですね。

ハーマンはすこし違っていて、さまざまなオブジェクトを、お互いに非還元的な相互の入れ子構造として考えています。ライプニッツも複合的にモナドを集めたり、相互入れ子を考えたり、晩年には実体間紐帯といって、集合体的なモナドのことも考えているので、本来は似たような議論のはずなんですが、ハーマンはライプニッツがモナドをただ単独的にのみ考えていると解釈しているようで、その点を批判しています。もっとも、彼自身が多くの場合まさにそう誤解されています。

一方でハーマンはラトゥールを強く意識していて、なんとか違いを出そうと腐心しているところもあったりして、基本的には似ているのですが、経緯は複雑ですね。

上野:
ありがとうございます。準-客体というか、主客の区別が曖昧であるというのは、日常的にプログラマーの人が持っている観点じゃないかと思います。

オブジェクト指向プログラミングをするときに、オブジェクトの名前や振る舞いを定義として記述するんですが、そのオブジェクト自身を「セルフ」と呼ぶ慣習があります。つまり、プログラミングしている主体もオブジェクトになっているんですよね。自分自身がオブジェクトになったつもりで自分の振る舞いを書いていく。そのときにオブジェクトは客体的に扱われるけれど、プログラミングする人は主観的なんです。そうやって主体と対象が共存する感覚を、プログラマーは自然に持っていると思います。

清水:
それをまた俯瞰しているわけですよね。

上野:
そうなんです。それを俯瞰しているんです。

清水:
たとえばハーマンも「人がいて木がある」という状態、それらがおのおの感覚的対象として現れている状態を考えるんですが、その状況を第三項的に見る者について考えています。つまり、主体と対象の相関関係に、さらにカプセル効果が働く状況を考えるわけです。またこの第三項の位置が「幽霊列車のように連結したり変わったりするのはなぜか」という話をするんです。

三項論理で主客があって、それをまた内側に入れて俯瞰して、その構造のユニットがまた別の三項構造の中に入って相互包摂し合い、一なるものが間接的に多なるものに含まれ、多もまた一を含むというように、トライコトミー(三分法)の哲学をやっていると、だんだん仏教の世界観に似てきます。

唯識仏教の構造がそうなんですよ。「識」と呼ばれるものは、古くは「三分」と言って「相分」「見分」「自証分」の三項から成り立っているとされています。「見分」は知覚している側で、「相分」は対象のアスペクト、つまり「現われ」ですね。実際は「見分」には「眼識」「耳識」「鼻識」などの五感が全部あって、「相分」を合流点として主体的なアプローチが複数つながり、フィードバックループがあるわけです。そしてさらに、それを自覚している私、すなわち「自証分」がある。これが「識」の構造です。

しかもこうした「識」の構造は他の「識」にも知覚される。先ほどのサイバネティクスの話ではないですが、フィードバックループごと、お互いに被りあってどこまでも相互入れ子になっている。これら全体を一方的に包摂する唯一の「識」はない。客観的で唯一の世界が外在するという近代西洋の考え方とは違って、無数の仏世界がそのようにして生まれ、行けども行けどもどこまでも「識」であると考えるから、「唯識」なんです。

西洋的な世界観が唯一客観的なものであり、その合理性にみんながやがて従ってくれるだろうというかつての前提は崩壊し、世界を捉える複数のパースペクティヴが乱立する状況に現代はなっています。そうすると無数の世界を語っていた仏教の考え方にどうしても近付いていくわけですが、これは東洋だけの話ではなくて、たとえばレヴィ=ストロースが「野生の思考」と呼んだような、非西洋の文化圏のものの捉え方すべてに通じてくるんです※13

複数の二項対立の組み合わせがツイストするように変わるという話が今日は度々出てきました。このツイストというのはたとえば「丸と四角」という二項対立、「白と黒」という二項対立があった場合に、「白い丸」であったものが「黒い丸」になり、「黒い四角」が「白い四角」になるといったようなことです。

このとき「丸」は、「白と黒」という二項対立に関して言うと、両方をつなぐ第三項的な土台になっている。『親族の基本構造※14』でカリエラ型婚姻法則の研究をやっていた頃から、レヴィ=ストロースはこういう構造が非常に重要な意味を持っていることに気づいていました。この第三項的な位置は、「丸」であれ「白」であれ「黒」であれ、すべてが担うようになっていて、一巡するようになっている。

『神話論理※15』ではこの構造がもっと複雑化しますが、基本的には「二項対立を媒介する第三項」の役割がそれぞれの項で一巡するというあり方が神話の構造なんですね。これはオブジェクトが複数のアプローチの合流点になっていて、そのうちのどれかを選ぶとまた新たな合流点としてのオブジェクトに切り替わり、線形的に誘導するのではないかたちで、さまざまなオブジェクトが実質的に並存してあるUIを作るというオブジェクト指向UIデザインの美意識にすごく近い。デザイナーが可視化しているのは、世界を複雑に弁別するこういう「無意識」でもあるんじゃないでしょうか。

複雑性を考えるときに、一度バイナリーに戻して組み合わせ直すと多様性が出てくるというのは、あらゆる面から見て真理なんですよ。コンピューターだったら0と1でやりますけど、それがさらに何種類かあるという違いだけかもしれません。

哲学には何種類かの基本概念、根源的なバイナリーがあって、その再解釈を延々とやっている面もあります。その組み合わせはある程度固定される傾向があるんですけど、それを動かすヒントを得るには、認知や推論のための論理学、進化論、プラグマティズムなどが地続きだった時代に遡る必要がある。あるいは、現代のデザインの現場でまさに実践されていることから、ヒントを得なければならないと思います。

やはり諸学問が渾然と同じステージで考えられていた、ベルクソン以前の時代に回帰するべきですね。同時代的な人としてグレアム・ハーマンやカンタン・メイヤスーがいますが、半ば無自覚にではあっても、彼らも他のサイエンスやデザインの動きにリンクしている気がします。

《発現しやすい形》という希望

清水:
変な質問かもしれませんが、すこし前の時代のデザインに関する思考で、古くて我慢ならないといったものはあったりしますか。

上野:
これまで話したことの繰り返しになるかもしれませんが、デザインの一般的な方法論として言われているものに感じるところはあります。つまり、ユーザーの要求を調べて定義して、それを満たすソリューションを提供するというプロセスがあって、それを実践すれば役立つものや売れるものができると考えてしまうことです。

というのも、ユーザーは要求を持っていないことが多いんです。何もモノがない状態で「あなたは何が欲しいですか」と聞かれてもわからない。われわれは、自分が今足りなくて必要としているものはほとんど意識していなくて、モノが現れてから初めて自分との関係性やその必要性を知るわけです。

でも、世の中のプロダクト企画や設計のプロセスでは、人々が自分の要求を知っていることが前提になっています。そして、それが仮に定義されたとして、要求さえわかればそれを満たすソリューションが半ば自動的に設計できるという楽観的な感覚があるんです。だけど、要求がわかっても、それを満たす最適な形はわからないですよね。

あともう一つ、仮に今の生活や仕事の課題が顕在化されていて、それを解決するための道具を作るとします。だけど実際に作ってみると、道具がその人の生活や仕事に導入されたことで、これまでの生活や仕事の仕方、もっと言うと物事の捉え方が変化してしまいます。すると、最初に想定していた要求とソリューションの関係が成立しなくなる。作るところまではできたけど、実際にそれを使ってもらう段階で役立たないということはすごく多いんです。

道具のデザインには、抽象度と遊びがもう一段階必要で、それを手にした人が工夫を働かせて、自分なりにその道具との関係性を築いていけるような余地を残す必要があるのだと思います。

清水:
作られるべきものについて社会的な合意があって、それがあらかじめ認知された上で、そうしたものが作られるというのは、科学社会学などで社会構築主義と呼ばれている考え方ですね。でも、ないと思われていたニーズを満たすものができてしまったり、違うニーズが後で出てくることもある。これはANTで分析されたりしていますが、事後的に最初からニーズがあったように錯覚してしまうんですよね。

上野:
何かモノが目の前に現れて、それをみんなでいじくり回していたら、後から想定されていなかった使い方や役立て方が発見されるということは普通にあると思います。だけど、デザイナーである以上は、自然発生的な価値の創出を待つだけではなく、「発現しやすい形」があるのではないかという希望を持ってデザインをしています。それを作ることができて、自分がデザインしたものが、どう使われるかはわからないけれど、いいかたちで使われやすいものになればすごく嬉しく思います。

清水:
先ほどピエール・レヴィの「ヴァーチャル化」の話をしましたけど、そうやって解像度を下げるというのは、認知におけるクオリア的なものに戻していくことかもしれませんね。アレグザンダーの話もそれに近い。

ライプニッツの哲学も同じで、基本要素の組み合わせによって世界を記述する普遍言語を生み出すことが彼の理想でした。こうした基本要素というのは、時間が経っても使えるような強度のあるシンプルな概念で、新しいものが出てきたときに立ち返れる場所であるべきなんですよ。そこに戻れば、全然違うものが出てきても、読み換えられるようになる。僕自身も、哲学はそういうものでなければならないと思っています。だから、概念は知って終わるものではなくて、材料なんです。どんな道具をいかに使うかという問題です。

たとえば世阿弥は『風姿花伝※16』で、「離見(りけん)の見」ということを言っています。自分が観客の前で舞っている姿を俯瞰するのが「離見の見」で、そういうものの捉え方が能には大事なんだと。反対に、自分の側からの見方に捕らわれているのは「我見(がけん)」と呼ばれ、要するに唯識の「三分」と同じような構造を世阿弥は意識して、自分の舞というものをニュートラルな状態に置こうとしていたんだと思うんです。記憶の中の道具もそうですけど、物質と記憶と精神が混ざっているような、ニュートラルな状態に「美」があるというのはわかります。

以前対談した折に、松岡正剛さんが人形浄瑠璃の話をしていたんですけど、とりわけ人形を三人で操っていることに感心していたのが印象的でした。あれは多くの人間のアプローチが合流する依代みたいなオブジェクトなんですよね。そうした人形に擬えてストーリーを見る。物語や人生そのものを俯瞰するわけですね。

デザインをテーマにすると、オブジェクトによる可視化やユーザーのさまざまなアプローチ、そして使い勝手の話になりますが、実は歴史的な芸能のうちで生き生きと躍動していたものにも、案外血が通ってくるところがあるように思います。

上野さんと話をすると、これからの未来の話になって面白いですね。技術的で明解だし、デザインの思想はさまざまな美学に連鎖していく。そういう意味で、非常に議論がクリアになることに本当に驚きました。

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2022年8月22日