1948年6月、ドイツの米英仏占領区域でドイツマルクが導入され、ソ連によるベルリン封鎖が始まった。いわゆる冷戦の始まりである。アメリカでは1940年以来の平時徴兵が復活する一方、トルーマン大統領が軍における人種差別禁止の大統領令に署名した。7月29日、第二次大戦で繰り延べになっていたロンドンオリンピックが開幕、敗戦国の日本は参加を認められなかった。同31日にニューヨーク国際空港(のちのJFK空港)開港。8月には大韓民国(韓国)が、9月には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が相次いで成立した。日本では5月に美空ひばりがデビューし、7月に風営法公布、8月には渋谷ハチ公銅像再建除幕式が行なわれた。第二次世界大戦が終結して3年目の夏に、ブラックマウンテンで起こったことをお話ししたい。

2つのインタビュー

「私がブラックマウンテンに着いたのは1948年の夏だった」バックミンスター・フラー※1はインタビューに応えてそう言った。1971年10月3日、ワシントンD.C.でのインタビューだ。インタビュアーはメアリー・エマ・ハリス※2。1987年にMITプレスから刊行された『The Arts at Black Mountain College』の著者である。BMCのリサーチはハリスのノースキャロライナ大学における修士研究で、このインタビューのときにはまだ在学中だったと思う。彼女は修了してからもBMCのリサーチを続け、16年後に前述の大著を上梓。BMC芸術分野研究の第一人者と目されるようになった。

フラーがBMCに着任したちょうど70年後の2018年夏、文字起こしをしたままのそのインタビュー原稿を見た。ノースキャロライナ州西部地域アーカイヴズ(以下、NCアーカイヴズ)でのことである。タイプされた文字を読んでいく。話し言葉なのでそれぞれの単語は難しくないのだが、ベタ起こし※3ということもあって、言葉の意図を読み解くことは難しい。PDFをもらって帰ってしばらくそのままにしていた。

1年経った2019年夏、そのインタビューを粗訳してみた。やはり細かなニュアンスはとりにくいが、置き換える言葉を丁寧に探していくと、フラーが言いたかったことの輪郭が見えてきた。

そして秋(2019年秋)、三たびブラックマウンテンを訪れた。JFK空港で乗り換えてシャーロット空港へ。今度はちょうどお昼ごろに着く便である。シャーロットから85号線を走り、321号、40号と乗り継ぎ、ブラックマウンテンを越え、スワナノア渓谷を渡るともうアッシュビルだ。そして定宿になったモーテル「ダウンタウン・イン」に着いた。静かな部屋にしておいたよ、とフロントマンがいう。どうもありがとう、と入った部屋は、いつもと変わりない部屋だった。

今回の主要な目的のひとつに、NCアーカイヴズで1948年と49年の夏期講座を調査することがあった。しかし、いつものことだが充分な時間をとれるわけではない。フラーの資料がたくさんあることはわかっていたので、最初にジョン・ケージ※4の資料がないか尋ねてみた。ケージは48年と52年の夏期講座に講師として参加し、BMCとは深い繋がりを持つアーティストである。

「ケージの資料は図書館やトラストが持っていて、写真もここにはほとんどないの。でもインタビュー原稿ならあるわよ」
司書のサラはそう言ってタイプされた原稿のコピーを出してくれた。それは、『Black Mountain: An Exploration in Community※5』の著者、マーティン・デュバーマンが1969年4月26日に電話インタビューしたものだった。これも文字起こししたままの原稿だが、デュバーマン自身によるものと思われる校正が入っている。
「コピーを取ってもいいかな」
「PDFがあるから送るわ」
ものの数分でメールが届いた。

東京に戻ってすぐ、フラーとケージ、この2人のインタビュー原稿から夏期講座の読み解きをはじめた。

サティ・フェスティバルとメデューサの罠

フラーは1948年の夏期講座に講師として参加し、49年にはディレクターとして迎えられている。夏期講座だけではなくBMC全般において、外部から招聘されたただ一人のディレクターである。指名したのはアルバースだが、フラーはそれをこのインタビューを受けるまで知らなかったようだ。

フラーはBMCへの着任を偶然だったと言っている。もともと1948年の講師を頼まれたのは、シカゴの建築家でバウハウスへの留学経験があるバートランド・ゴールドバーク※6だった。しかし都合がつかなかったのか、その代役としてフラーに話がきたらしい。しかもフラーとゴールドバークとは面識がなく、共通の知人を通じての誘いというから、フラーにとっては本当に偶然のようなものだったのだろう。

1946年ごろからフラーは本格的な幾何学の研究に入っており、BMCの夏期講座に参加する直前にその後のフラー幾何学の核となる「ジターバグ変換※7」を発見している。それが1948年夏のBMCでのジオデシックドームの実験に繋がるのだが、フラーが本格的に注目を浴びるのはドームが実用性を帯びる50年代半ばまで待たねばならない。したがって、このころはまだまだ不遇をかこっていた時期だった。そんなフラーにとって、2度のBMCの夏はかけがえのない時間だったはずだ。そしてそれは、BMCにとっても同じだった。

図1[図1]1949年夏のBMC。ジターバグ変換の自作模型に囲まれ授業するフラー

インタビューは、1948年にフラーが「メデューサの罠(Le piège de Méduse)」のお芝居でメデューサ男爵を演じた話で始まる。たぶん写真を見ながらだと思う。演劇はBMCの芸術教育のなかでもベーシックなものだが、この舞台は少し事情が違ったようだ。

図2-1[図2-1]エレイン・デ・クーニングとフラー

図2-2[図2-2]機械仕掛けの猿を演じるマース・カニンガム

(以下、BFはフラー、MHはハリス、##は誰だかわからない。頻繁に発言してるところから、フラーとは親しい人のようだ。このインタビューのコーディネイターなのかもしれない。カッコ書きは筆者の補足。)

BF「これはウィレムとエレイン、失礼、マース・カニンガム※8とエレイン・デ・クーニング※9だ。エレインは私の娘役で、マースは猿(機械仕掛けの猿)の役だった。こっち(の写真)はその猿と踊っているところだ。そして……。」
##「おお、それが知りたかったの!バッキー!」
BF「シアターに参加したすべての人のなかで、私が考えられる完璧なキャストだよ。」
##「ほら、この帽子を見て!とても素敵な帽子!」
BF「私が作ったんだよ。」
##「あなたが?」
BF「うん、ベネチアンブラインドストラップで作った。」
MH「この帽子を?」
BF「そうだよ。」
MH「どっちの?」
BF「私が被ってる帽子」
MH「あなたの帽子……わかった! ラインがあるのに気付かなかった。 」
BF「私はこの小道具を長い間全部保管していたけど、移動が多くてもうどこにやったかわからなくなってしまった。」
##「バッキー、ジョン・ケージは出演していた?」
BF「いいや、彼は最後まで音楽を演奏していた。彼はこのハプニング全体を担当していたんだよ。」
MH「この人は誰?」
BF「それは、猿に扮したマース(・カニンガム)だよ。彼は猿だから、決して直立姿勢にはならなかったんだ。」

「メデューサの罠」はエリック・サティ唯一の戯曲で、ジョン・ケージがBMCで企画した「サティ・フェスティバル※10」に関連したパフォーマンスだ。もちろん当時にはまだ「パフォーマンス」という概念はない。フラーがインタビューで言っている「ハプニング」の概念もまだないが、同じことを指しているはずだ。戯曲や演劇とは言いたくない、新しい何かだったのだ。

パンフレットがあるので見てみよう。

図3[図3]「メデューサの罠」パンフレット。フラーはインタビューで、ブラックマウンテンの印刷所で刷った美しいパンフレットと言っている

タイトルは「メデューサの罠 一幕の詩劇 エリック・サティによる」。原詩はフランス語で、翻訳はM. C. リチャーズ※11。キャストは、メデューサ男爵にフラー、その奉公人にアイザック・ローゼンフェルド※12、娘の許婚にウィリアム・シュラウガー、男爵の娘にエレイン・デ・クーニング、機械仕掛けの猿にマース・カニンガム、ペイジ役にアルビン・チャールズ・フューの6人。

スタッフとして、監督:ヘレン・リヴィングストンとアーサー・ペン※13。振り付け:マース・カニンガム、ピアノ:ジョン・ケージ、舞台装置:ウィレム※14&エレイン・デ・クーニング、衣装※15:マリー・アウテンなど、そのほかさまざまな役割をあわせて14名、総勢20名で行なった演劇(パフォーマンス)である。こうして名前を並べるとその豪華さに驚く。フラーとケージはそれなりに知られていたかもしれないが、2人を含め、まだみんな無名だった。

ここで「メデューサの罠」を企画したジョン・ケージに話を移そう。ケージは1948年4月にカニンガムといっしょにBMCを訪れている。ニューヨークからカリフォルニアへと向かう大学を巡る「ソナタとインターリュード※16」のツアー(ダンスと音楽のツアー)を組んでおり、その一番最初の公演先がBMCだった。滞在は5日間で、公演の報酬は宿泊と食事だったという。

図4[図4]4月20日に公演されたカニンガムのダンスプログラム。音楽とピアノはケージ。ここでサティの「モンキーダンス」を踊っている

ケージはBMCの進歩主義的な教育方針に惹かれ、これまでに2度手紙を出している。1度目は30年代末、教員のポストを打診するもの。2度目は1942年に実験音楽センターの開設を要望するものである。どちらのラブコールも叶わなかったケージにとって、この公演はとても楽しみだったに違いない。

結果、公演は大成功を収め、ケージとカニンガムはアルバースからその年の夏期講座の講師を依頼される。ケージは、同じく講師として、彫刻家のリチャード・リッポルド※17と画家のウィレム・デ・クーニングを推薦した※18

ケージは自叙伝でBMCの印象を述べ、サティ・フェスティバルについても触れている。

ドイツ人が多いブラックマウンテンカレッジで、エリック・サティの音楽に触れる機会が少ないことに気がついた。ここでひと夏教えることになり、学生がいないこともあって、サティの音楽を紹介して聴いてもらおうと、夕食後30分のサティ・フェスティバルを企画した。そしてそのなかでサティとベートーヴェンを対峙させる講演を設け、ベートーヴェンではなくサティが正しいことを語った。
ジョン・ケージ「自叙伝※19

ケージは「音楽の構造」と「振付法」という二つの授業を担当していたが、「振付法」には履修者がいなかった(「音楽の構造」は7名が履修した)。したがって、サティ・フェスティバルは「振付法」の代替えとして考えたプログラムだったのだろう。

学校ではほとんどの人がドイツ人かドイツ気質だった。だから夏を通じて現代音楽全般ではなく、エリック・サティだけを取り上げたということで、とても反感を買ったんだ※20。アルバースはそれを少しでも軽減し、考えが理解されるようにと、毎回のコンサートの前に講義をするように求めた。それはうまく機能したと思う。
マーティン・デュバーマンによる電話インタビュー

ケージが「BMCはドイツ人ばかり」と言っているのは、ほかの文章でも目にしたことがある。ひとつの発言がさまざまに引用されているのだと思うが、印象に残る言葉ではある。あきらかにドイツからやってきた亡命芸術家への、ある種の感情が見え隠れしているからだ。

一方の“ドイツ人ばかり”のBMCの音楽講座は、伝統的なクラシック音楽教育が中心で、ディレクターを務めていたエルヴィン・ボドキーはバッハやショパンを鑑賞する「土曜の夕べ」のコンサートを企画し、ベートーヴェンの「32曲のソナタ」の講義を行なっていた。ベートーヴェンはご存じのようにドイツが生んだ偉大な作曲家である。

図5-1[図5-1]夏期音楽講座で催されていたコンサートのパンフレット。7月10日のプログラム

図5-2[図5-2]バッハ、ハイドン、ベートーヴェンといった名前が並ぶ

ロサンゼルス生まれのケージは、1930年、17歳のときに飛び級で入学した大学を中退し、ヨーロッパへ旅に出ている。最初に滞在したパリでピアノのレッスンを受け、ドイツ、イタリアと移動したが、大恐慌の影響で家が傾き、17ヶ月でLAに戻った。なので、けっしてヨーロッパに対する理解がないわけではない。ケージにとってもヨーロッパ文化はお手本であり、先導者だった。しかし多くのケージ研究が指摘するように、ヨーロッパから帰ってからは東洋的な偶然や不確定性に関心を寄せるようになった。ケージはサティ・フェスティバルでの講義をこう記している。

西欧の物質主義の出現とともに和声的構造が出現し、物質主義に対する疑問をいだきはじめたときに、それは崩壊していった。そして異なった東洋の伝統、心の平穏、自己を知ること、そういったことを、われわれが心から必要とした時期に、問題の解決として東洋に伝統的に存在しているリズム構造という問題に到達したことは興味深く、注目に値する。
ジョン・ケージ「サティ擁護※21

サティとベートーヴェンを対峙させる講演「サティ擁護」で語られた和声(=ベートーヴェン)とリズム(=サティ)の議論に、ヨーロッパ的伝統から離脱しようとする戦後アメリカ美術の萌芽をみることができる。この場合、東洋的云々はさほど重要ではないだろう。戦争も終わり、自分たちの表現を見つけはじめていたケージらアメリカの若いアーティストたちにとって、BMCで講義されているようなドイツのクラシック音楽は、かび臭く、否定すべきものだったに違いない。

しかし、学生の側からすると少し事情が違ってくる。第二次大戦から戻った退役軍人を支援するためのプログラムであるGI法案※22を利用して1947年秋にBMCに入学したアーサー・ペンは、テレビジョン・アカデミーのインタビューに応えてこう言っている。

ドイツのバウハウスにいた移民アーティストの多くが、アメリカの大学について知ることができなかったためか、ブラックマウンテンに定住し、そこで教鞭を執っていたんです。それで私もBMCに興味を持ちました。BMCは学校として認可されていなかったため、彼らはそこで自由に仕事を得ることができたんです。
Arthur Penn on studying at Black Mountain College※23

1948年秋学期から入学したロバート・ラウシェンバーグ※24も同じくGI法案を利用してBMCにやってきたひとりだが、彼もアルバースの厳格な教育に惹かれて入学したと述懐している。

つまり、バウハウス出身者に代表されるドイツ人講師と、その(アメリカ側からみれば)伝統的な教育に憧れた学生、そして、すでに新しいスタートを切っていたアメリカ人アーティストたち、それら三者三様のインタラクションが1948年夏のBMCで起こっていたのである。

いずれにせよ、このサティ・フェスティバルでの講義は、ケージが言うように“うまく機能した”わけではなかった。アルバースが心配したとおり、音楽講座の教員との軋轢は、和解不能なところにまで陥っていた。ケージの評伝にこういった記述がある。

ケージの講演は、この学校を2つの音楽陣営に分断した。ある指導者によると、何人かの学生がベートーヴェンのレコードと楽譜を燃やした。……学校の校長は、長引く論争を終わらせようとして、両陣営に台所で戦闘の準備をして、決着をつけることを提案した。ベートーヴェン派は仔牛肉のカツレツを手にし、反ベートーヴェン派はクレープ・シュゼット〔リキュールに火をつけて出すクレープ〕をつかんだ。校長の戦闘開始の呼びかけは、食べ物を投げ合う大乱戦となったようだ。
ケネス・シルヴァーマン『ジョン・ケージ伝 新たな挑戦の軌跡※25

訳文に「校長」とあるが、BMCに「President」は存在しない。ただ、ディレクター的な役割の人は決められていて、「Rector※26」と呼ばれていた。1948年8月時点のレクターは、アルバースである。このエピソードに間違いがなければ、アルバースが台所の決闘を提案したことになる。いかにもBMCらしい決着のつけ方ではあるが、厳格でならしたアルバースからは想像しがたい。しかし、そういう一面もあったと思えば微笑ましい。

だからと言って、これで決着がつくはずもなかった。音楽講座の教員たちの怒りは収まらず、理解者であったアルバースの退任もあって、ケージは1952年の夏までBMCに戻ることはなかった。

BMCの夏期講座は、1944年から「サマーインスティテュート」として、音楽(Summer Music Institute)と美術(Summer Art Institute)の2本立てでスタートしている。夏期講座には、この44年からとする論と、前回に紹介した建築と農業の実践講座「サマーキャンプ」が始まった41年からとする論があるが、実は1940年の夏に「スペシャル・サマーミュージックコース」という講座が開かれている。期間は6月16日から7月21日までの5週間、場所はエデン湖キャンパスだが、キャンパスができるまで避暑施設として運用していた名称である「LAKE EDEN INN」となっている。これがBMCが開講した一番最初の夏期講座である。

図6[図6]1940年のスペシャル・サマーミュージックコース、パンフレット

エデン湖畔の土地を手に入れて、長い夏休みに何かプログラムがつくれないかと考えたのだろう。それがサマーミュージックコースだった。ディレクターはハインリッヒ・ジャロウィッツ※27とエデュアード・スティアーマン※28。ジャロウィッツは第二ウィーン学派の中核メンバーとして活躍したヨーロッパからの亡命組でBMCの音楽教育を支えたひとりである。スティアーマンもやはりオーストリア生まれのピアニストで、渡米後もベートーヴェンのリサイタルで名を馳せた。つまりドイツやウィーンのクラシック本流の音楽家たちである。音楽系の教員たちには自分たちが夏期講座をつくったという自負もあったのだろう。名もなき美術講座の若い講師がフランスの異端者の音楽を学生に聴かせることだけでも受け入れがたかったに違いない。

そして、そのサティ・フェスティバルの最後に企画されたのが「メデューサの罠」だった。主演のフラーはシャイなうえ、もちろん演技経験はない。たぶんその素養もない。そのフラーをはしゃがせ、飛び跳ねさせたのは、のちに世界的にエポックメイキングな映画となる『俺たちに明日はない(原題:Bonnie and Clyde)』を監督するアーサー・ペンの演技指導だったというから面白い。フラーはインタビューでこう言っている。

MH「以前にお芝居をしたことはありますか? 」
BF「人生で一度もないよ。」
MH「しかし、アーサー・ペンはあなたに演じさせた?」
BF「観客と実際にコミュニケーションをとる方法について、彼から本当に多くを学んだよ。このことが長年にわたってとても役立ったと思ってる。」
MH「スピーキングや講義で?」
BF「そう。そのとき私は、おそらく演技できないだろうと思っていた。私は子供会など——知ってる?学校じゃないところ——の経験で、実際に演技するのに十分なほど自分を冷静にすることができないと知っていたんだ。詩的な表現を覚えることはできたけど、それを演技に適用することはできないと思っていた。でも、ケージとマースとアーサー・ペンは私にはできると確信していた。だから、『まあ、試すことを鍛錬するのは良いことだと思う』と言ったよ。そして、本当に私は演技のほぼ全部ができたんだ。とても難しい演技だったのに。私はステージに出ずっぱりだった。私のパートは何度も何度も続いた。だから私は、そう、演技することができたのだと思う。」

この舞台は、フラーにとって(内的な)転機となるものだった。まさに経験とは実験の結果に過ぎない。50年代以降のフラーの活躍にとって、この経験は大いなる糧となっただろう。また、ケージやカニンガムと親密な関係になったことも見逃せない。

BF「ジョン(・ケージ)と私は本当にとても暖かい友人関係を作った。ジョンはいつも私について書いているか、あるいは話していた。私も同じだった。
……
そしてジョンとマース、ナターシャが料理をし、私たちは毎日朝食を一緒に木の下で食べた。それは、私たちのための特別な時間だったんだ。……その夏を彼らと一緒に、新しい学校で、本当にとても楽しい時間を過ごした。
……
いくつかの壊滅的なできごとはあったが、それらも私たちがすでに話していた類いのものだった。ジョンとマースの地図(活動計画の話)は、本当にとても楽しかった。私もそうだが、彼らは話すことが好きだったんだよ。」

夏期講座は大成功だった。フラーはインタビューで、「冬のBMC(の学生数)は1ダースかせいぜい2ダース。でも夏はその10倍。少なく見積もっても100人は下らなかった」と述べている。フルに参加した学生がどのくらいいたのかはわからないが、ピーク時にはそれぐらいの人がいたのだろう。経済的にも夏期講座で大いに(とはいかないまでも、少しは)潤ったと思われる。

図7-1

図7-2

図7-3

図7-4

図7-5

図7-6

図7-7

図7-8[図7-1〜8]夏期講座での教員や学生たち。オフも授業中もあまりかわりはない。少しでも雰囲気が伝わればと思い、写真を選んだ

1948年の夏期講座終了後、フラーはシカゴのデザイン研究所※29で教鞭をとるようになる。デザイン研究所は、モホイ=ナジがシカゴに創設したニューバウハウスの後継校である。当然、ナジとアルバースは親交があるが、着任においてアルバースの口利きがあったのかどうかはわからない。フラーは、アルバースが深く信頼を寄せ、自分が退任したのちに夏期芸術講座を任せようと考えたほどの人物である。まったく無関係とも考えにくい。いずれにせよ、アルバース夫妻、フラー、ケージ、カニンガムらの親交はBMC後も長く続き、それぞれの生涯において欠かすことのできない関係を紡ぐことになる。

最初のジオデシックドームの実験

夏期講座に限らずBMCの授業は担当教員が自由に決めていたようだ。だからこそ、ケージもサティ・フェスティバルを開くことができたのだ。教育の自由に関して、フラーはこのように答えている。

MH「(BMCで)教師は本当に教える自由がありましたか?」
BF「ええ。あれ以上の自由はなかったでしょう。私たちは望み通りに何でもできた。それはとても良いことだったと思う。誰も何も言わなかった。教員の資格云々といったことさえも。」

フラーのドーム建築に協力したひとり、エレイン・デ・クーニングもこう言っている。

(夏期講座の)客員教員は何をどのように教えるかを知らされていませんでした。一部の人は、そういった自由に当惑させられました。ほかの人たちは、スポンサーによる精査や事前の宣伝、大規模な資金提供が必要となるプロジェクトに着手するよい機会だと考えました。彼らは彼らの目の前の情熱、その時に取り組んでいたプロジェクトを教えました。したがって、学生は新しい学習に伴う興奮と不確実性の恩恵を受けることができました。……フラーの夏のプロジェクトは、ベネチアンブラインドストリップの彼の最初のジオデシックドームを建設することでした。
Mary Emma Harris “John Cage at Black Mountain by Mary Emma Harris※30

エレインの言うとおり、フラーのプロジェクトは、直径48フィート、高さ23フィート、面積1500平方フィートにおよぶ、大きなドーム型構造体「ジオデシックドーム」をつくることだった。BMC着任前にその着想を得ていたフラーは、トレーラーハウス(移動式研究室!)にたくさんのドームの模型を積み込んでBMCにやってきた。そして、すぐにジオデシックドームの実験に取りかかった。それが初めてのドーム建設の実験とされているが、フラー自身の気持ちではそうではなかったようだ。

MH「あなたは…その夏に演技者になっただけでなく、ベネチアンブラインド※31を使用してドームをつくりませんでしたか?」
BF「うん、つくったよ。そのとおりだ。ちょうど利用可能な素材を持っていたので、それができた。 」
MH「それ以前にドームを建設していましたか、それとも…?」
BF「ああ、つくっていた。全部自分ひとりでやっていたよ。ジオデシックドームについて実証したかったんだ。私は自分でつくったモデルでいっぱいのトレーラーを持っていた。」
……
MH「ベネチアンブラインドタイプのモデルも、そこにあった?」
BF「いや。さまざまなタイプのジオデシックドームをつくったが、それはなかった。(BMCで使った)ベネチアンブラインドはアルミニウムを削って使用できるので、とてもたくさんの実験ができたんだ。」

結局、1948年夏のジオデシックドームの実験は失敗に終わった。しかし、そのことに対してフラーはあまり落胆はしておらず、うまくいかないことを予想できていたようだ。そして失敗はより良い結果のための経験であると考えていた。うまくいかなかった理由は資金や資材の不足と言われている。そういうことも多少はあったのだろうが、いろんな意見を統合すると単なる準備不足だったのだと思う。まだ時期尚早だったのだ。それをフラーはよくわかっていたのだろう。この失敗したドームは「The Supine Dome(あおむけのドーム)」と名付けられた。

図8-1

図8-2[図8-1,2]制作中のフラー(中央)

図8-3[図8-3]失敗したドームについて話し合うメンバー

図8-4[図8-4]失敗したドームに残って作業するエレイン

いくつかのコメントから、ドーム建築の実習より初回授業の講義がみんなの心に残っていることがわかる。フラーの3時間にもおよぶ熱弁は、聴くものの心を揺さぶったようだ。エレインは「バッキーはめまぐるしい勢いで話し、ボビーピン、洗濯ばさみ、5セントストアや10セントストアで買い集めたあらゆる種類のものを部品にして、幾何学的な可動構造をつくり……」とアクティブなフラーを、また、カニンガムは「バッキーのBMCでの講義は……当時すでに、世界を単一の存在として見なしていた彼の考え方についてでもあった」と思索的な内容について、それぞれ回想している※32。ほかにもこの講義についての記述は散見され、名講義だったことが伺える。きっとアルバースもこの講義に心を動かされた一人だったのだろう。

戦後アメリカ美術の発火点

1948年、BMCの夏期講座に参加した学生や教員のリストをここにアップしておきたい。なぜなら、このBMCの夏が戦後アメリカ美術と呼ばれる美術界の新潮流の発火点になったと思われるからである。

図9-1

図9-2[図9-1,2]1948年夏期芸術講座、学生・教員リスト最初のペーパーと記入後の最終リスト

たとえばケージからフルクサスに至るハプニングを軸とした音楽とも美術とも演劇とも言い難い“行為の芸術”の潮流は、この夏期講座から端を発していることは間違いない(ケージが最初のハプニングと言われるイベントをBMCで行なうのは52年の夏だったにせよ)。まだラウシェンバーグは登場していないが、ウィレム&エレイン・デ・クーニングやM. C. リチャーズ、また学生では、アーサー・ペンや、文中には登場していないがルース・アサワ※33といった、このあとに美術を超えて活躍する人たちがいた。そして写真の教員として、BMCにおいて多くの写真を残したビューモント・ニューホル※34のことも忘れてはならない。

ここに書いた人以外にも、ぼくが知らない「え、こんな人もいたの?」と思える人物がこのリストのなかにいるかもしれない。もし、そういう人いたら知らせてほしい。アメリカという新しい国が新しい芸術を育んでいく萌芽がここにあったのだ。そして彼らはそれに立ち会った実験者だった。そしてその実験は、美術のみならず、アメリカを中心として現在まで続くコンピュータやインターネット文化にも影響が及んでいる。それが、この1948年のBMC夏期講座が、「奇跡の夏」として語り継がれている所以である。

1948年夏期講座の話はこれで終えておこう。しかし、48年の夏に起こったことはこれだけではない。同年、この夏期講座をディレクションしたアルバースが退任し、49年にはフラー・ディレクションの夏期講座が始まる。次回はこの続きから話を始めたい。


連載記事「ブラックマウンテンカレッジ考」

  • ※1 リチャード・バックミンスター・フラー (Richard Buckminster Fuller, 1895–1983)
    アメリカの思想家、建築家、発明家。人類の生存を持続可能なものとするための方法を探り続け、宇宙船地球号、シナジェティクス、デザインサイエンスなど、重要な概念を生み出した。1949年にBMC夏期美術講座のディレクターを務めた。
  • ※2 メアリー・エマ・ハリス (Mary Emma Harris, 1943–)
    美術史家。1969年にノースキャロライナ大学の修士課程に入学し、BMCを修了研究の対象とする。その後、“The Arts at Black Mountain College” (1987)を刊行し、2000年から2010年まで、BMCプロジェクトのチェア兼ディレクターを務める。2019年9月には、ReVIEWING 11 カンファレンス(BMCミュージアム)で、「バウハウスとブラックマウンテンカレッジ:新たなる世界のための教育の予見」と題した講演を行なった。
  • ※3 音声を逐一漏らさず文字に起こすこと。
  • ※4 ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア (John Milton Cage Jr., 1912–1992)
    アメリカの作曲家、音楽家、アーティスト。戦後アメリカ美術の主要人物のひとり。バックミンスター・フラーとともにBMC夏期講座の最重要人物である。
  • ※5 Martin B. Duberman “Black Mountain: An Exploration in Community” (1972)
  • ※6 バートランド・ゴールドバーグ (Bertrand Goldberg, 1913–1997)
    アメリカの建築家、工業デザイナー。シカゴ生まれ。1932年、18歳のとき独バウハウスに留学。当時学長だったミース・ファン・デル・ローエの事務所で働く。バウハウス閉鎖後パリに移るもすぐにシカゴに戻り、1937年に彼自身の建築事務所を開設した。代表作にマリーナシティ複合施設(シカゴ, 1961–1964)。
  • ※7 Jitterbug Transformation。フラーがダイマクション理論から発見した正多面体の構造モデル。1940年代に流行したダンスの名前にちなんで「ジターバグ」と命名した。
  • ※8 マース・カニンガム (Mercier “Merce” Philip Cunningham, 1919–2009)
    アメリカのダンサー、振付家。マースカニンガムダンスカンパニーのリーダー。ケージはじめ多くの音楽家や美術家とのコラボレーションがあり、モダンダンスのみならずアメリカ美術に大きな影響を与えた。生涯にわたってケージの良きパートナーだった。
  • ※9 エレイン・デ・クーニング(Elaine Marie Catherine de Kooning, 1918–1989)
    ウィレム・デ・クーニングの妻としてBMCに滞在するも、BMCではウィレム以上に活発だったようにみえる。エレイン自身も画家であり、BMCを主題としたBlack Mountainシリーズを残している。Art News誌の編集者、ライターとしても活躍した。
  • ※10 正式には「エリック・サティの音楽によるアマチュアフェスティバル(The Amateur Festival of the Music of Erik Satie)」。アマチュアと銘打っているのは、ケージ自身がまだサティの音楽に対して知識が足りていないと考えていたからだという。Mary Emma Harris “The Arts at Black Mountain College” (1987) p.154
  • ※11 M. C. リチャーズ (Mary Caroline Richards, 1916–1999)
    アメリカの詩人、陶芸家、作家。1945年から51年まで英語教員としてBMCに参加。批評と執筆を受け持ち、『ブラックマウンテンプレス』を設立。48年夏期講座には教員としては参加していないが、「メデューサの罠」の翻訳を受け持ち、これをきっかけにケージと生涯の友となる。52年夏期講座では、ふたたびケージ、カニンガム、ラウシェンバーグらと活動を共にし、53年の夏には陶芸を学ぶ学生としてBMCに戻っている。
  • ※12 アイザック・ローゼンフェルド (Isaac Rosenfeld, 1918–1956)
    シカゴのユダヤ系アメリカ人作家。1941年にシカゴからニューヨークに移り、ニューヨークの知識人たちに大きな影響を与えた。48年夏期講座に講師として参加。
  • ※13 アーサー・ペン (Arthur Hiller Penn, 1922–2010)
    フィラデルフィア出身。ロシア・ユダヤ系アメリカ人の映画監督、プロデューサー。「俺たちに明日はない(原題:Bonnie and Clyde)」でニューハリウッド(日本ではアメリカン・ニューシネマと呼ばれた)の先駆けとなる。彼は1947年春から48年夏にかけてBMCの学生であり、学生講師として講座も持っていた。兄は写真家のアーヴィング・ペン。
  • ※14 ウィレム・デ・クーニング (Willem de Kooning, 1904–1997)
    オランダ系アメリカ人の画家。ロッテルダムで生まれ、1926年に米国に移り、1962年にアメリカ市民になった。ニューヨークスクールのアクションペインティングを代表するひとり。
  • ※15 猿の衣装をウォーカーアート・コレクションで見ることができる。
  • ※16 「Sonatas and Interludes」。ジョン・ケージが1946年2月から1948年3月にかけて作曲した16曲の「ソナタ」と4曲の「インターリュード」から成る楽曲。88音のうち45音にボルトや消しゴムなどのプリパレーションが施されているグランドピアノ「プリペアド・ピアノ」で演奏された。プリペアド・ピアノは、和声からリズムへというサティとベートーヴェンの議論にも通じる。
  • ※17 リチャード・リッポルド (Richard Lippold, 1915–2002)
    アメリカの彫刻家。ケージのプリペアド・ピアノの加工を担当した。BMCへは48年夏期講座の講師として参加している。
  • ※18 最初はリッポルドの友人で画家のマーク・トビー(Mark George Tobey, 1890–1976)が候補だったが、トビーが病気のため、代役としてデ・クーニングを推薦した。
  • ※19 ジョン・ケージ「自叙伝」ー ジョン・ケージ『ジョン・ケージのローリーホーリーオーバーサーカス記録集』(1995) p.8
  • ※20 サティはフランスの作曲家かつ異端でもあったので、ベートーヴェンを信奉するタイプのドイツ人音楽教員からの反発は大きかったようだ。
  • ※21 Defence of Satie。白石美雪『ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー』(2009) p.31
  • ※22 GI Bill。1944年に発令された軍人再調整法(The Servicemen’s Readjustment)の通称。第二次世界大戦の退役軍人(GI)が帰国するために一連の利益を提供する法律で、住宅や事業のための低金利ローン、1年間の失業補償、および高校、大学、職業学校の授業料免除と在学中の生活費の支給などがあった。失効する1956年までに、約780万人の退役軍人が教育給付を利用したという。アーサー・ペンやラウシェンバーグらもこの制度を利用してBMCに入学した。第二次大戦後にBMCが盛り返したのはこの制度のおかげともいえるが、学生の質の担保ができなくなったという負の面もあったようだ。
  • ※23 インタビューからの意訳。 2020年2月翻訳。
  • ※24 ロバート・ラウシェンバーグ (Milton Ernest “Robert” Rauschenberg, 1925–2008)
    ジャスパー・ジョーンズとともにアメリカのネオダダを代表するひとり。1964年にベネチアビエンナーレで大賞を受賞した最初のアメリカ人アーティストとして知られる。ラウシェンバーグについては、本文で詳しく述べる機会もあるだろう。BMCに入学した理由としては、恋人(画家のスーザン・ウェイル)を追って入ったという説もある。
  • ※25 ケネス・シルヴァーマン『ジョン・ケージ伝 新たな挑戦の軌跡』 (2015) p.82
  • ※26 元々はキリスト教の用語で、プロテスタントの場合は主任牧師、カトリックの場合は修道院長などを指す。転じて学校長の意味にも使われるようになった。本稿では便宜上「学長」と訳しているが、BMCのRectorは本来の意味での「学長」にも「校長」にも当らない。
  • ※27 ハインリッヒ・ジャロウィッツ (Heinrich Jalowetz, 1882–1946)
    ドイツの表現主義者で第二ウィーン学派の指導者だったアーノルド・シェーンベルクに師事し、プラハやウィーンで指揮者として働いた。アメリカに移住してからはBMCで教鞭をとり、BMCの音楽教育を担った。46年、ブラックマウンテンにて他界する。
  • ※28 エデュアード・スティアーマン (Eduard Steuermann, 1892–1964)
    ウィーンのユダヤ系ポーランド人のピアニスト。アーノルト・シェーンベルクに師事し、1938年、アメリカに移住。1950年代にベートーヴェンのリサイタルで名を馳せる。
  • ※29 The Institute of Design。バウハウスのマイスターだったモホイ=ナジ・ラースロー(Moholy-Nagy László, 1895–1946)が創設したニューバウハウスの後継としてつくられた学校。現在はイリノイ工科大学大学院のプログラムのひとつで、アメリカで最初にデザインの博士号を発行したことでも知られる。
  • ※30 Mary Emma Harris “John Cage at Black Mountain by Mary Emma Harris” (1948)(2020年2月翻訳)
  • ※31 Venetian Blinds。遮光ブラインドに使われる羽根の素材。このインタビューでフラーは「アルミニウムを削って使用できる」といっているので、このとき用いたのはアルミ製だったと思われる。
  • ※32 バックミンスター・フラー『ユア・プライベート・スカイ』(2001) p.316, 318
  • ※33 ルース・アイコ・アサワ(Ruth Aiko Asawa, 1926–2013)
    アメリカの彫刻家。日系移民2世。サンフランシスコ芸術学校(現ルース・アサワ・サンフランシスコ芸術学校)創設に尽力したことで知られる。大戦中ニューメキシコ州の収容キャンプへと送られ、そこで美術を学び、大戦後BMCに入学しアルバースの元で学ぶ。48年夏期講座では、アサワは学生ではなくキャンパスワーカーに区分されており、農場やキャンパス整備の労働に従事していたことが伺える。しかし、フラーやケージの信望は厚く、長く交流を続けた。
  • ※34 ビューモンド・ニューホル (Beaumont Newhall, 1908–1993)
    アメリカのキュレーター、美術史家、作家、写真家。1940年にMoMA写真部門の最初のキュレーターとなり、のちにジョージ・イーストマン博物館の第2館長を務める。アルバースに誘われ、46年からBMCの常勤教員。BMCではたくさんの写真を残している。