エクリとリニューアルのこと

+Mエクリ散策案内インタビュー

大林 寛 / Hiroshi Obayashi

2022.05.31

メディアの内在的な必要性

——— 今回はエクリがリニューアルするということで、編集長の大林さんにいろいろ聞いていきたいと思います。まずは、そもそもの話なんですが、エクリを立ち上げた動機について教えてください。OVERKASTでデザインの仕事をしながら必要性を感じたのか、それとも個人の趣味の発展型なのかが気になりました。

大林:
仕事のなかで必要性を感じたという方が近いですね。デザインは趣味にもつながっていますが、事後的な影響が大きいと思います。

以前からデザインの仕事をしているときに、何か変換しているような、かなり特殊な思考をしている感覚がありました。いろんな要求があって、それを並べて順番に解決して統合していくことがデザインではなく、その手前でイメージを言語化したり、また言語をイメージ化したり、賽を振るかのような作業をしている。そこには、あまり語られることのない暗黙知があって、それがどんなものなのか考えたり、他の人の意見を聞きたいと思ったことが、エクリにつながっていきました。

20世紀後半のグラフィックデザインや建築では、今よりもデザインの思想を語る論考がたくさんありました。それがインタラクティブデザイン以降は少なくなった気がするので、時代性も関係していると思います。自分が読みたかったのは、インタラクティブデザイン以降に納得できるデザイン原論だったんですけど、同時代のものはあまりなく、あっても点在していたので、先回りして集めてメディアとしてアーカイブしていこうと思いました。

§

——— なるほど、制作プロセスにおける内在的な必要性から、エクリができたということですね。

こんな質問をしたのは、エクリにある種の一貫性を感じているからなんです。記事を並べてみると、人類学や哲学の論考もあれば、もっと狭義のデザイン論もあって、雑多なジャンルとも見られかねない。でも、明らかに選別基準があるのを感じていて、それが今言われていた制作プロセスでの思考として内在的に参照できるというのが基準になっているのかもしれません。いずれにしても、スタティックな視点で批評するようなものとは、かなり違いますよね。

生田久美子さんが書かれた『わざ言語※1』という本があります。この「わざ言語」というのは、科学言語みたいに事柄を正確に記述するのが目的ではなく、身体に埋め込まれた技能や感覚を伝達するときに用いる特殊な比喩的表現のことです。つまり、その世界の経験がないと受け手に伝わらない種類のものになります。たとえば、大工の師匠が弟子に「そこはもっとシュッと」と伝えても、感覚的な手応えがわからないと、何を言われているかまったくわからない。でも、的確なタイミングでそう言われることで、ある種の人のなかで意味が喚起される。それが「わざ言語」です。

この「わざ言語」というものは、きっと言語で何かを伝達するときの本来のスタイルだったと考えられます。それが段々とスタティックな言説に登録されて、記号的な言語として洗練されていって、受け手に身体性がなくても伝わるような形になっていったわけですよね。だから、何かをクリエイトしていくときに、本当の意味で役に立つのは「わざ言語」に近いものだと思います。

エクリのテキストを喜んで読んでいる人たちの多くはクリエイターだと思うんですけど、すごく単純に言うと「ここのテキストは使える」と受け取られているんじゃないでしょうか。つまり、抽象度の高い議論でも具体的なノウハウでも、使えるテキストと使えないテキストがあると思うんです。制作プロセスにおいて参照できるものと参照できないものとがあって、そこが大林さんの選定基準として働いているのかもしれないと感じました。

批評的な言語は、客観的でスタティックな基準を前提に、そこからすべてを確定的に記述していくことを目指します。しかし、そういった言語は、何かしらのジャンルというものが共有されている集団に対してしか意味をなさない。たとえば、哲学というジャンルを共有している集団では、哲学的な議論は有効に機能します。エクリのテキストにも、限定された分野における専門性の高い議論がありますし、いずれも抽象度が高いですけど、横断可能性が強い印象があります。

大林:
エクリをローンチしたのは2015年1月ですが、2013年の暮れから準備をしていたので、10年ぐらい前の自分の美学みたいなものも、エクリという場所に記憶されているとは思います。だけど、今はエクリ自体にアイデンティティがあるので、そのアイデンティティに問い合わせながら記事を選定しています。それでも決められなかったら、編集部のメンバーに相談しています。運用している立場から見ると、エクリという場所があって、そこに書く人や書かれたものが呼び寄せられているようなイメージがありますね。

ジャンルとしては雑多に感じられるかもしれませんが、軸足がデザインにあるというのは、立ち上げ当初から変わっていません。テキストを読んだ人が自らの身体を作り直して、その新しい身体でデザインに向かえるようなメディアでありたい。最初から狙っていたわけではありませんが、今はそれがエクリの存在意義になっていると考えています。

§

——— エクリというアイデンティティは、私にもなんとなく共有されているんですけど、それは特定のジャンルでもなくトーンやマナーの整合性でもないですよね。実際にそれが何かは明示されてないですし、記事から流入して初めてエクリを読んだ人には、伝わっていないと思います。そのアイデンティティについて、ある程度の言語化をされていますか。それとも完全な無意識なんでしょうか。

大林:
完全な無意識ではないですけど、なんとなくつかんでいるだけなので、言語化して説明するのは難しいですね。仕事では、誰がターゲットで、その人に対してどんな価値を提供するかといった、いわゆるビジネス的なプロセスを踏みますが、エクリではそれを一切していません。もし誰かにエクリのコンサルティングをお願いするなら、その方にいろいろ解釈してもらいながら言語化していくことになりますね。まさに今、そのコンサルティングをしてもらっている気もしますけど(笑)

§

ディスコースのデザイン

——— 今まで自分がいろんなメディアに触れて至った持論ですけど、コンセプトやジャンルを優先している媒体よりも、編集者の体感でやっているものが圧倒的におもしろいんですよ。その意味で、エクリも大林さんの体感を基準にしているのが、おもしろいと思ってる人に伝わってるんじゃないでしょうか。

暗黙知の領域でのデザインプロセスは、言ってみれば熟練した経験のなかで思考している状態だと思うんですけど、そこに対して「こういうことなんじゃないか」と自覚を促すテキストが多い気がするんです。それを自覚できることによって、自分が無意識にやっていたことが対象化されて、反省的にとらえ直すことができる。そういった意味で役に立つメディアと言えるんじゃないでしょうか。

これを無理やり言語化すると、エクリは、ライフバリューとしてクリエイティビティを涵養していきたい、そのプライオリティが高い人たちに向けられていて、その人たちがテキストを読むことで、クリエイティビティの無意識な部分を自覚できる。もっと言うと、自由な身体性を獲得できるメディアなんじゃないかと思います。

言語というバイナリーなツールを使って、デザインのプロセスというノンバイナリーな形態を扱う。その形態と言語をうまく多層化させることで、クリエイティビティが発揮されるのがどういう状態なのか、どういった身体性なのか、実際そのとき何を考えているのか、といったものを照らし出していく。そういった方向性のテキストがアーカイブされている印象があります。

大林さんがエクリを初めて以降、普段されているデザインの仕事に向かうなかで、変わったことはありますか。

大林:
変わったことのひとつは、まず社会的な部分で、エクリみたいなメディアを運営している人として興味を持たれるようになったことです。もうひとつは内在的な意味で、編集というフィルターを通して、テキストに触れていることでしょうか。文章は読んでも忘れていくものですが、編集を通じてテキストに接すると、自分のなかに違った残り方をします。きっと読むのとは違う身体形成がされているんだと思います。

OVERKASTでやっているのは、主にクリエイティブディレクションやコンサルティングですが、この種の仕事で価値とされるのは、合理的かつユニークな切り口で提案できることじゃないですか。そこでユニークであるためには、リベラルアーツを基礎にしつつ、自分だけの地図を持ってないといけません。なので、基本的には自分の興味に流されるままがいいと思うんですが、デザインについてはライフワークとして意識して、それなりに長く追い続けています。エクリは、自分がそうあるための場所になっていて、そのことが普段の仕事の意味付けもしている。そんな感じでしょうか。

§

——— 先ほどの「わざ言語」にも通じるところで、翻訳的な機能を果たしているということかもしれませんね。クリエイターの人には、他のクリエイターの仕事のレベル感がわかると思うんですけど、それと同じように、エクリは一般の人たちに対して、自分たちがやっていることや考えていることを翻訳しているようなイメージです。

エクリに載ってる記事は、創造性を内在的に言語化していくものが多いですよね。ヒトとモノとのインタラクションや、主体と客体の関係性といったことは、一見するとデザインの実践に関係なさそうだけど、よく考えたら自分のなかで起きていることだとわかる。

さらに、テキストというのはバイナリーなので、必ず理解できるように書かれている。だから、それを読めばクリエイターの内在性がどんなものかわかるはずです。クリエイターたちが自分のやっていることを自覚するのには、かなり助けになっているんじゃないかと思います。

大林:
そうだとうれしいですね。

サイバネティックスや情報理論とウルム造形大学の伝統的なデザインを統合しようとしたクラウス・クリッペンドルフという人がいて、彼が『意味論的転回※2』という本を書いています。ここで彼が、最終的にデザインしなければならないものを「ディスコースのデザイン」と言っているんです。

クリッペンドルフは、ディスコースのことを「コミュニティを連帯させるもの」と言っているので、パッと聞くとデザイナーたちが議論してる絵が浮かんでしまいますが、また別のところでは、ディスコースを「デザインみずからがデザイン自身をリデザインするための種子」とも述べています。ウィトゲンシュタインの引用から始まる本のなかで、フーコーに由来したディスコース(ディスクール)という言葉を使っているわけですから、この「種子」もデリダの「散種」みたいな意味を含んでいるんじゃないかと思います。

デザインされたオブジェクトがあって、そこから無数にバリエーションが続いて変化したりする。これがデザインという運動の総体ということで間違いないと思うんですが、その可能性を示唆するものとしての「テキスト」をディスコースと呼んでいる気がするんです。これはデューリングのプロトタイプ論※3にも近くて、個人的な「生のフォーム」として、かなりしっくり来る。

デザインが、世界の欠けた部分を埋めるピースを作る行為なら、どう世界を分節するかというところからデザインは始まっているわけじゃないですか。エクリのテキストを読むことで、これまでと違う形で世界を再分節化できるようになれば、ディスコースとしての役割を果たしていると言えるかもしれません。

§

——— おもしろいですね。その効果はかなり強い気がします。何かについての正解を出そうといったテキストではないので、創造的で制作的なプロセスのなかで作動させると、どんな分節が適切なのかは共有されるように感じます。

図と地で言うと、どう地を分節して、どんな図を浮かび上がらせるのか。そのときも、自分をそこに投機するので、操作としてやっているというよりも、自分自身がどうなれば可能なのかといった話になると思います。つまり、その循環のなかに入っていくのがデザインの理想形であり、その意味でエクリはプラクティカルなんだと思います。

単純に何かを見たり聞いたりするときに、確固とした主体の自分が客観的に世界を判断していると想像すると、消費生産的な世界観に没入してしまいます。エクリから出版された上妻世海『制作へ※4』に書かれているように、エクリには「消費・生産」の世界観から「愛好・制作」の世界観へと移行していきましょう、「生のフォーム」を作り変えていきましょう。そして、自分という主体をどのような形にしていくべきか、それをスタイルとして見て、明確に「こっちの方がいい」と提示している。そんなメッセージを根底に感じます。

大林:
自分が思想書のような本を読むとき、形態や構造を見ている感覚があります。それぞれの項は何でもよくて、それよりも全体の構造が単純すぎるとか複雑すぎるとか、デザイン的に強度を評価している。たとえば、相互包摂も構造であり形態だと思うんですけど、最近はこれが自分の結論になりがちだなとか、テキストを読みながら仕分けをしています。意味を積み上げながら考えていくよりも、概念を頭で塑造する方が処理が早くて便利なんです。

逆に、デザインを哲学の領域に持っていって、哲学的に強度を評価することもできるはずで、そこがつながっているのは間違いありません。そのときに哲学の専門家の意見を鵜呑みにしてしまうなら、それはデザインの強度に問題があるんだと思います。

§

——— なるほど。たしかに今エクリに掲載されているテキストには強度がありますよね。自分が本当におもしろいと思うものを作ろうとしたり、あるいは自分が楽しんで生きていく場面で関係性を処理しないといけなかったり、そういったシリアスな場面でも役に立つ強度で、そこさえクリアしていればスタイルは何でもいい。そんな割り切りさえ感じます。

§

フェティッシュとしての機能主義

——— 今回のリニューアルについても、触れておきたいと思います。まずはかなり印象が変わりましたね。読む側としては、かなり記事を探しやすくなった気がします。ツリー構造を意識させるのではなく、タクソノミーを主体にした発想を感じました。ネットワーク状に記事が位置付けられていて、他の記事とリンクしていく前提でつくられている気がします。

大林:
ありがとうございます。記事を中心に据えた設計は、以前から変わっていません。これまでの運用を大きく変えず、アセットを再利用しながら、今の閲覧環境に合わせてアップデートしました。あとは、執筆者のリストをAUTHORSというカテゴリに昇格させたり、「More-Than-Human」や「ÉKRITS ROPPONGI」のようなプロジェクトをアーカイブするPROJECTS、プロダクトが買えるITEMSというカテゴリを新設しました。

時間を使ったのは、どんなコンテンツ構造がエクリらしいのかを考えるところでした。Webの技術も変わってきているので、エクリ編集部でリサーチをして、デザイナーの神村さんと話し合いながら、どんな姿がエクリらしいのかを話し合って、それをエンジニアの江見さんに実装してもらって、いろんなことを試しながら、今の最終形になっていきました。

§

——— ちなみに、エクリはWeb媒体の活動だけじゃなく、書籍を出版したりイベントを開催したりもしてますよね。そういった展開は、強い意志のもとにやられてるのか、思いつきなのかも気になります。

大林:
これもエクリというアイデンティティが先にあって、その上で何をすべきかを考えています。たとえば、Webサイトはいろんなものをアーカイブするのに便利だから、エクリの全体像がわかる場所として、紙の本は確からしい所有感が得られる場所といった具合に、メディア特性を道具のように見ています。

それから、スマートフォンや書籍といったデバイスの形態や質感も、場所の性格を決めていると思います。たとえば、Webで記事を読んだあと、URLをSNSで共有したり、ブックマークしたり、紙に出力しても、決して「持っている」とは思わないのがおもしろいですよね。だから、「持つこと」や「買うこと」で交換される価値も、「読むこと」と同様に興味があります。

イベントは、Webサイトや書籍のようなマルチプルに対して、フルクサスのハプニングじゃないですけど、書籍を出版したときなどに好奇心で思いついたものを企画しています。

§

——— なるほど。やはり、ある特定のジャンルについてのメディアではないのがわかりますね。今回のリニューアルには、何かコンセプトがあったりしますか。

大林:
コンセプトは「フェティッシュとしての機能主義」というものです。機能主義は、デザインの文脈では悪いものとして語られがちですが、自己拡張の欲望は人間が原初的に持っている衝動だと思うんです。男性的な自意識に根がありそうで興味深い。

機能主義的なデザインの例としては、タスクをそのままデザインしたような業務系システムのユーザーインターフェースが、もっともイメージしやすいかもしれません。使う人の立場への想像力を忘れてしまって、情緒が感じられない状態と言いますか。今となっては牧歌的な印象さえありますが、そういったシステムは、デザインの雰囲気から「機能主義的な発想」が伝わってきますよね。

「フェティッシュとしての機能主義」というコンセプトは、この「機能主義的な発想」を意匠として参照したようなニュアンスです。われわれがなんとなくインターネット黎明期に想像して共有していた、すこし先の未来のインターフェースやインタラクションのデザインにも、イメージが重なってくるんじゃないかと思います。

だから、今回のリニューアル後のデザインは、いかにも機能性が高そうな雰囲気ですが、実際に機能的なんです。左下のメニューからTypesettingで文字組みやカラースキームを変えることができたり、オートスクロール機能というのもあって、利用者が「読むこと」をデザインできるようになっています。記事のリストに「É046」みたいなナンバリングがされているのも、機能主義的な意匠の一環です。

§

——— そのコンセプトは、人間が機能性に惹かれる種であるという説につながっていて、おもしろいですね。よく幼児のおもちゃで、ボタンを押すと動くようなものがあるじゃないですか。あれはもっともミニマムな因果推論だと思うんですけど、動物にとっては非常に高度なことらしいんです。でも、人間には生得的にセットされているから、幼児でも操作ができる。つまり、人間は本質として機能へと向かうわけで、機能主義はひとつのイデオロギーではないんですよね。

大林:
田中純さんが『建築のエロティシズム※5』という本で、アドルフ・ロースの建築デザインについて、装飾が排除されてプレーンでシンプルな表面になっているけど、そこに去勢されたフェティシズムを感じる、と書かれています。これに近い発想で、装飾的にムードを醸し出しているわけではなく、機能性を感じさせる意匠とそれに応える機能がムードになっている。そんなコンセプトですね。

§

ヴィジョンの到来と制作の一致

大林:
先ほどエクリを始めたきっかけとして、デザインの仕事で暗黙知を感じていたからと答えましたけど、そこにあるプロセスは、「見える」とか「わかる」といったぼんやりしたものを形にしていくことだと思うんですね。ただ、それを無理に見ようとしたりとかわかろうしたりすると、強度が低くなっていく。そんな実感があります。

§

——— まず「ヴィジョンをつかむ」といった段階があって、そのヴィジョンがデザインプロセスのなかで明確化されていくものなんでしょうね。

大林:
そうですね。しかも、そのデザインのプロセスでの感覚と、思想書のような本を読むときの感覚って、そんなに変わらないんですよ。形にするかテキストにするかの違いだけで、すごく似た作業をしてる気がします。

§

——— 大林さんとはステム・メタフィジックという研究会でご一緒してましたけど、そこで課題図書になった『草木虫魚の人類学※6』の岩田慶治や、中心メンバーとして参加されていた哲学者の清水高志さんが『実在への殺到※7』で言っているようなことも、先見的にヴィジョンをつかんでいますよね。ヴィジョンが到来するだけではなくて、こちらから制作的に進んでいって一致する。そういった特殊な運動性について、いろんな言い方をしているという気がします。

形をつくる、あるいは形にカスタマイズを加えていく作業というのは、つかんだものを内在化して自分の身体性の変化とともに形にしていくプロセスじゃないかと思います。形というよりも、さっき大林さんが言われていた構造の方が近いかもしれない。そもそも構造というのは、変換可能性があるということじゃないですか。それを概念として言語化していくと、たとえば哲学的なコンセプトとして相互包摂性のようなものになるし、実践的に敷衍していくと上野学さんのオブジェクト指向デザイン※8みたいなものになったりする。

エクリの記事は、いろんなジャンルが点在しているけど、その各ジャンルを専攻している人が読んでも、ある一定の水準はクリアしてますよね。でも、デザインのメディアであれば、普通はデザインのジャンルの水準をクリアしてればいいと思うんです。その専門の査読に通ったらいいレベルと言いますか。だけど、エクリはそうではなくて、自分の「生のフォーム」という実践と内在的にリンクしてくるところがある。それは強度と呼べそうです。

大林:
そうですね。繰り返しになりますが、デザインの強度みたいなものがあったとして、他の分野に触れたときに、それを捨てる必要はないと思います。リアリティを持ってつかんだ実存みたいなものがあるなら、そこから他の分野を見て、純粋におもしろいか、心に響くか、といったことを判断すればいい。それができるなら、十分に強度があると言えそうです。

§

——— おもしろいと言っても、Netflixで連続ドラマを観ているおもしろさとは種類が違う。本業があって、一方で気を抜くための趣味として娯楽があるという二元的な状態ではなく、すべてのものを同じ強度で享楽するところにこそ、リベラルアーツが涵養されていくわけですよね。そういった意味で、エクリはクリエイティビティのプライオリティが高い人のためのリベラルアーツのアーカイブになっているんじゃないかと思います。

大林:
ありがとうございます。そのままタグラインとして使えそうですね(笑)

§

言説のコードを超えた横断

大林:
Netflixの話で思い出しましたけど、リモート主体のワークスタイルになってから、よく自分の部屋で映画を観るようになったんです。フィルム・ノワールとかヌーベルヴァーグとか、あとはホラーとそのサブジャンル、東映アクションや日活ロマンポルノといった、いわゆる「ジャンルもの」を片っ端から掘っていました。

映画を観ていて、気づくとその世界に浸っているという体験は、めずらしくないと思いますが、どういった作品でそれが起きやすいのか、なんとなく観察してたんですね。そうすると、人物にもストーリーにも中心がない群像劇が多かったんです。監督名を挙げると、いずれもすでに評価されている人たちですが、ジャン=リュック・ゴダールとかロバート・アルトマンとかで、とくにそのエフェクトが大きかったのは神代辰巳でした。

映画の世界に浸っているというのは、見ている世界と自分がいる世界が一致したような気がして、その場所が愛おしくてしょうがなくなって、できるだけ今の時間が長く続いてほしいと願っているような状態です。たとえばゴダールは、本人が『カイエ・デュ・シネマ』に寄稿していたり、批評の文献も揃っているし、ゴダールが憑依したようになって書かれたエッセイも多い。

そうしたテキストを読んでから映像を観ると、「考えてることが全部わかる」といった感覚になります。「これが映画だ」と感じるのと、「これが世界だ」と信じてしまうことが同義になっていく。一般に重要とされるストーリーへのコミットや、これから起きる未来への興味よりも、今の世界での経験を持続させたい方が勝っているという状態になるのがおもしろいと感じます。

このオーガズムみたいな状態を、どう表現すればいいんですかね。女性的で持続性があって、プラトーとでも言えばいいんでしょうか。

§

——— プラトーですよね。深夜3時ぐらいのクラブでそういう状態になったりしますけど(笑)

大林:
ピークタイムなんだけど、みんなにとってのピークタイムかどうかはさほど重要じゃなくて、ダンスを媒介にして、音楽と自分が一体になっていて、何も考えず没入してる。その状態に気づいて客観的にならないと、気持ちよさがわからないぐらいの気持ちよさ。エクリもそんなところを目指している気がします。

§

——— 気持ちいいと反省する契機になるけど、それすらないって状態ですよね。それは自分と対象の区別がついていない状態だから、西田幾多郎の言う「純粋経験」に近い。主体と客体が分かれてくるのは、主客の区別のない「純粋経験」のあとに反省をするからとも言われます。だから、あえてエクリを哲学的に区分すると、西田幾多郎派という感じがします。

大林:
それはすごく納得がいきますね。さっきのゴダールじゃないですけど、初めて西田幾多郎を読んだときに「もうこの人が全部言ってたんだな」と思いました。

§

——— 上妻世海『制作へ』でも、かなり精緻に西田の文献を読み込んで、論に適合するところを引っ張ってきてますよね。その一方で、哲学書をあまり読まない人にとって、西田哲学はかなり手が出しづらい難解なイメージがあると思います。でも、私も大林さんもそうですけど、別に哲学を体系立てて勉強したり、それを目指して学んでいる人間ではないじゃないですか。

大林:
そうですね。おもしろそうだから読んで、実際おもしろかったというぐらいの距離感ですよね。

§

——— そう、おもしろいから読んでるだけ。そんな在野の人間が読んでも、西田哲学はかなりヴィヴィッドにわかる。さっき言われてたように、「考えてることが全部わかる」という状態になる。それはゴダールの映画を観て、この映像や音響がなぜこうなのかわかる感覚にも非常に近い。その「身ぶり」のようなものが、エクリにはあるんだと思います。自分のなかでクリエイティビティの核をつかんでいる人に対して、「これわかるでしょ」「これはどう」と呼びかけている。

その言説にはいろんなコードがあるけど、コードを体系立てて勉強しなくてもわかるようになっている。われわれみたいに何かを専門的に研究したような経歴を持っていない人間がおもしろいと感じるってことは、横断的なひとつのコアがあるということだと思うんです。どんなデザイナーも、最初からデザイナーとして生まれてきたわけじゃなくて、デザインの実践の記憶をたどることで、エクリと感覚的にリンクしていけるわけですよね。

大林:
哲学もデザインも、人間に本来備わった機能というか、身の回りをブリコラージュすることから始まった原初的な活動ですから、そういったコードは超えていけるといいですね。クリエイティブというのは元来の人間の生活そのものを言っていると思いますし。

§

——— そうなんですよ。クリエイティブな人とクリエイティブじゃない人がいるわけじゃなくて、人間が生きるということ、われわれのライフというものがクリエイティブであることと同義に近い。ただ近代以降は、そうではない人間観や社会観が出てきて、クリエイティブであることが特別な形で提示されてしまっている。

だからなのか、最近の哲学や人類学は、それを乗り越えようという動きが強いですよね。ひとつの批判的検証を通して、別の世界観を提示していくわけだけど、それはオルタナティブな世界観ではなく、われわれが上書きされていない意識のなかでやっている普通のことだったりする。

大林:
そうですね。本来デフォルトだったものに遡行しているんじゃないかと思います。デザインについても、そうした動きがあって、それをすこしでも後押しできているならうれしいです。

§

——— われわれがこうして話が通じるように、アナロジックなリベラルアーツが蓄えられてる人って、いろんな分野に同じようにいる気がするんですよ。バックグラウンドが違うのに、分野を越えて話ができるのは、自分の経験とテキストで読んだことをアナロジックに結び合わせて、ひとつのネットワークとして領域を共有できているからだと思うんです。

その意味で、エクリは外在化されたリベラルアーツのネットワークみたいになっていて、そこにはひとつのアイデンティティを持った人格のようなものが、はっきりと感じられます。

§

2022年1月24日
インタビュアー: +M(@freakscafe

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