夢の終わり

ブラックマウンテンカレッジ考 #5

永原 康史 / Yasuhito Nagahara

2021.02.18

2019年11月のブラックマウンテン訪問から、もう1年も経ってしまった。これを書いているのは2020年の11月半ばである。本来であれば今ごろ4度目のアッシュビルから戻り、第6回の執筆にかかっているところだが、コロナ禍でそれも叶わなかった。

前回訪問の目的は、主に1948年から52年にかけての夏期美術講座について調べることにあった。ジョン・ケージとマース・カニンガムが初めてBMCを訪れた48年から、ハプニングのはじまりとして名高い「シアターピース No.1」が行なわれた52年までのことだ。その間、バックミンスター・フラーのドーム建設があり、ルース・アサワやアーサー・ペン、ロバート・ラウシェンバーグ、サイ・トゥオンブリー※1らが入学し、デ・クーニング夫妻やM.C.リチャーズ、ビューモント・ニューホル、ベン・シャーン※2らが教鞭をとった。美術史的にはもっとも実りの多い、その5年間を重点的に調べたかった。

そして、もうひとつ目的があった。エデン湖キャンパス全体を見て回ることである。2019年の春ごろだっただろうか、BMCの調べものでノースキャロライナ州のサイトを検索しているとき、たまたまキャンパスの完成後と思われる地図をみつけた。略地図ではあったが、おおよその場所はわかる。そこで、実際に歩いて確かめてみたいと思ったのだ。

エデン湖キャンパスを歩く

夏期講座が実現したのは、エデン湖の土地を得ることができたからである。ブルーリッジのYMCAは夏の期間明け渡さねばならず、長い夏休みをつくるしかなかった。新キャンパスの地として見つけたエデン湖畔の土地はもともと避暑のための別荘であり、そこにスタディ棟をDIYで建てたことは第3回で述べたとおりだ。もともとあったコテージがあり、さらにその間を埋めるようにして新しい小屋が建てられた。

NCアーカイヴズで写真を見ていると小さなインターナショナルスタイルの建物がいくつかあり面白い。資料に残っているローレンス・コーチャーのスケッチにはロッジ風のものとインターナショナルスタイルのものとがあるが、写真のそれらはコーチャー退任後に学生たちが自主的に建てたもののようだ。コーチャーのスケッチよりかなり小さい。スタディ棟を建てたときの経験が生きたのだろうが、DIY建築に堅牢性はなかった。山小屋風の建物は今も残るが、ミニ・インターナショナルスタイルのものはどれも残っていない。

[図1-1]上:印刷ワークショップのためのロッジ(地図22)。下:インターナショナルスタイルのミニマムハウス(地図26)。学生有志による設計と建築。1947年に評議委員会の承認がおり、48年に完成した

[図1-2]サイエンス棟(地図に記載なし)。学生だったポール・ウィリアムスが設計し、1949年から53年にかけて断続的に建築した。ウィリアムスはエデン湖キャンパス建設のために、BMCに多額の寄付や融資を行なっている

アッシュビルについて週が明けた月曜日、すぐにリッチモントキャンプの事務所を訪ねた。窓口になってくれているレベッカと再会を喜び、もう一度スタディ棟の中を撮影させてもらってから外に出た。

iPadに表示した地図を確かめる。地図には、古い建物(Old Building)と新しい建物(New Building)の凡例があるが、今となっては全てが古い建物なので見た目ではほとんど区別がつかない。とにかくスタディ棟を出発点として、地図のとおりに歩いてみることにした。黄色にマークしたところは、当時のものかどうかは別にして、とりあえず確認できた建物である。

[図2]North Carolina Digital Collectionサイトで見つけた地図。マークとメモは筆者

スタディ棟(15)の北に作られた階段を登ると16から19の建物がある。どれも凡例ではOld Buildingだ。Governmentは管理棟と訳していいのだろうか、全て同じような山小屋である。19のコの字型の建物はトイレに改装されており、周囲の建物には新しい番号が振ってあった(図に朱書きしているもの)。そのさらに上には地図にない建物があり、それを西に向かって坂を下ると道にでる。少し脇に入ったところに印刷ワークショップのためのロッジ(22、図2−1上)、少し歩いて右側にはジャロウィッツハウス※3(24)と呼ばれる建物がある。両方ともNew Buildingだが、当時につくられたものはもうなく、建て替えられたロッジがあった。

建物を見ているうちに基礎の作り方がいくつかあることに気がついた。たぶん作られた時期の違いによると思われるが、残念ながらそれがわかるほど建築の知識がない。

[図3-1]スタディ棟の背後の崖を登る階段。地図には赤線でメモ(≡)

[図3-2]現在は棟番号33のロッジ(地図18)。Old Buildingはほとんどこのようなロッジで所々に補修の跡がある。元のものを改修して使い続けているのか、建て替え後にさらに改修したのかはわからない

[図3-3]18からさらに上の坂道。山側の雰囲気はだいたいこんな感じ

[図3-4]トイレに改修されたOld Building(19)

[図3-5]山側ロッジのテラスから見たエデン湖。樹が育っているので当時はもっと良く湖が見えたと思われるが、基本的に風景は変わっていないはずだ

さらに道を北に上っていく。あるところからキャンプ場ではなくなりプライベートエリアになるが、それとなく入っていく。途中、犬の散歩をする人に出会う。おおらかなもので“Hello”のひと言で済んでしまった。歩いていくと24番の建屋があり、中を覗くと机や椅子が積まれ、教室として使われていたようにもみえる。さらに上った丘の上には写真で見慣れた家畜小屋(30)や納屋(31)があるはずだったが、そこにはもう何もなく、柵で囲まれた広場になっていた。

[図4-1]地図の一番左の二股の分かれ道。ここまでがロックモンドキャンプだと思われる。標識にはPRIVATE ROADとあるが、この道を登ったところにあった牧場まで行ってみることにした

[図4-2]坂を登り切ったところにある広場(空き地?)。フェンスの向こうが元牧場

[図4-3]広場の突き当たり、一番奥にある木製の柵。これはどうもBMC当時からあるもののようだ

[図4-4]31の納屋。向こうに見える柵が上の写真と同じものであることに注目

坂を下ってエデン湖に戻る。THE GROVEのプレートが掲げられたロッジ(12)を左手に見ながら、さまざまなドラマがあったダイニングルーム(3)で休憩し(ケージはBMCの教育は主にダイニングで行なわれていたと述懐している)、南に下る。ストーンハウス(4)だけがはっきりとわかる石造りの建物で、あとは、同じ場所に建物があったというだけの確認でしかなかった。エントランスの位置は変わらず、ゲートハウス(1)もこの場所にあった。それより南へは工事で行けなかったが、立方体の音楽室(10)が残っていれば見たかった。その向こうは農場のあったあたりで特別な収穫はなかっただろう。

坂を上ったり下ったりして1時間強といったところだろうか。これが、エデン湖キャンパス全体を歩いたおおよそである。

[図5-1]THE GROVE のプレートがかかるロッジ(12)。New Building。石積みから見て、これは当時立てたままではないか。もちろん補修はされているだろう

[図5-2-1]ダイニングルームの全景(3)

[図5-2-2]ダイニングルーム入口。EDEN HALLのプレートがかかる

[図5-2-3]ダイニングルーム内部。鍵が開いていたので初めて入ることができた。食事を摂るのは中よりテラスの方が人気だったようだ

[図5-3]石造りのストーンハウス。そのまま残っている

[図5-4]入口にあるゲートハウス。守衛所といったところ。これも大きくは変わっていないだろう

[図5-5]ゲートの様子。右のキャンプのサインの位置にBMCのプレートがかかっていた(第2回[図3]参照)。手前の黄色いラインの道がNorth Fork Road

ドレイアー、そしてアルバースの退任

先に書いたように、昨年の渡米は1948年から52年にかけての調査が主な目的だった。その間に多くの芸術的成果があったことも先に述べた通りだが、もうひとつ重要な出来事があった。BMCの美術教育を主導してきたジョセフ・アルバースの退任である。

アルバースの退任理由は、教育的なことより運営的な問題、主に学内でのイデオロギーの対立にあったとされている。アルバース自身も1965年のインタビュー※4で、「学校の失敗、継続できなかった要因は?」という質問にこう答えている。

それは、基本的な態度を変えた結果だ。最初のころはとても刺激的な状況だった。なぜなら、私たちの多くが亡命者だったから。私たちはポケットマネー程度の給料しかもらっていなかった。しかしのちに、人類の学問の中で私たちがもっとも恐れていた経済学の流行がやって来た。……誰もが同じ権利を持ち、誰もが同じ社会的機能を持っている。……しかし、人の間には、精神的にも肉体的にも平等はない。見た目が違うように、私たちも違う。こんな平等な所有の理論では、世界の問題は何も解決しない。それが私の信念だ。彼らは経済学において、自分たちが有能だと考えていた。……それが摩擦を引き起こしたのだ。特に、創設メンバーだった同僚の一人に対してひどい扱いをする者がいた。私はあと数年は残る約束をしていた。でも、辞めたんだ。1949年のことだ。何人かが一緒に辞めて、それがカレッジの「ダウン」だった。
Melvin Lane “Black Mountain College Sprouted Seeds”

ここで言っている「経済学(economics)」というのは、当時流行していたコミュニズム的な指向を指しているのだろうか。いずれにしてもよほど腹に据えかねることがあったのだろう。話しているうちに熱を帯びてくるのがわかる。

それは民主主義の誤解だった。民主主義では誰もが投票しなければならない。だから我々は会議をした。無限の会議。今日はYes、明日はNo。民主主義と呼ばれるものに吹き飛ばされて、不可能であることを証明しただけだった。……BMCは当たり前のことをしてきたんだ。しかし無能な人が多すぎて、有能な人が有能な役を演じている。それではまるでティーンエイジャーのスタイルだ。そのまま大人になったらそれこそ地獄だよ。

確かに成熟したヨーロッパからやってきた人たちにとって、アメリカはティーンエイジャーに見えたのかも知れない。このときの状況をフラーもインタビューで話している。

すべての教育機関で常に大きなものは財政問題だ。そして、テッドはより多くのお金を得るためにいつも外に出かけていた。……コミュニズムに対する当時の若者の関心は高まっていた。……テッドやアルバースについて話す方法を本当に知っている人に会ったことがない。私の非常に多くの友人が大恐慌の間にコミュニストになったので、私はそれについてとてもよく理解しているつもりだった。……アルバースは彼の絵と彼の美しい色の講義に夢中になっていた。テッド、この理想主義者は自治的な教育機関のアイデアを実行しようとしていた。……彼は本当に多くの、非常に理想的で美しい教育を行なった。
メアリー・エマ・ハリスによるインタビュー

アルバースのインタビューにある「創設メンバーだった同僚の一人」とフラーの「テッド」は、同一人物である。ライスとアルバースに並ぶ第三の人物、テッド(セオドール)・ドレイアーのことだ。

テッド・ドレイアーは、ライスと行動を共にしてフロリダのロリンズ大学を退職したBMC設立メンバーのひとりである。それだけではない。ライスをフォローしてBMC設立へと導き、開校準備からブルーリッジYMCAの貸借、エデン湖キャンパスの購入、スタディ棟の建設など、BMCの運営と経済を一手に担ってきた、まさにBMCを経営する中心人物だった。あまり表には出てこない彼の話をわかるかぎりで書いてみたい。

ドレイアーについてのまとまった記述は驚くほど少ない。断片的に拾うことはできるが、二次情報、三次情報で憶測に過ぎないものもある。本人のインタビューが先のアルバース同様、『Black Mountain College Sprouted Seeds』に掲載されている。そこでは、BMC設立時の資金調達やエデン湖移転時の苦労、またスタディ棟建設のいきさつが話されているが、本当の心の内は話はしていないように思う。しかし、本人の言葉として引いておきたい。

BMCは1933年9月に開校した。しかし、7月にはまだ財政計画はなかった。ライスは、ロリンズ大学の学生の父親から個人的に1,000ドルの贈与を受けた。その学生は、私たちが新しい大学を始めることに成功した場合、家族といっしょに夏を過すため、そして大学を組織するために、私たちと行動を共にしたいと考えていた。……しかし、計画も予算も立たなかった。ライスと私は、スワースモア大学のアイデロット学長(ライスの義理の兄弟)の家で会い、これからどのように進むべきかを相談した。私は、資金不足を最も懸念していたのだ。……アイデロッテはライスに私を会計係に立てた方が良いと提案した。とにかく私は、一晩かけて予算を立てるために滞在した。……15,000ドルを支払う15人の学生がいて、さらに15,000ドルの現金または引受があれば、1年間30,000ドルで走ることができる。新しい大学を公けにする前に、これらの最低条件を満たさなければならなかった。

これが、BMC開設のためのリアルなストーリーだ。ライスやアルバースの話ばかりが表に出るが、実は裏ではこういった苦労が続いていた。それは、学校が軌道に乗ってからも同じだった。

教員の給与については何も保証されていなかった。教員の給与は、15人以上の学生が来た場合にのみ配給された。来たいと言った学生は大勢いたが、自分でコミットしたいと思っていたのは実際には3人か4人だけだった。

アルバース招聘を実現させたのもドレイアーだったし、第二次大戦の危機を乗り越えられたのもドレイアーあってのことだ。エデン湖キャンパスも彼の努力で手に入った。グロピウスに校舎建築を依頼したのも、MoMAでのプレゼンテーションをお膳立てしたのも彼だった。

……地元のエデン湖として知られている700エーカーのサマーホテルを購入し、そこに理想的な大学キャンパスを設計するためにグロピウスとブロイヤーに新しい建築を依頼した(私たちは二人と仲良しだった。ドイツの元バウハウスの創始者であるグロピウスは、そのときハーバードの建築学科の部長であり、同じくバウハウスのブロイアーはグロピウスの新しい教授陣の一人だった)。図面が作成され、建築モデルがつくられ、フォトモンタージュで建築後を示す写真を公開した。……モデルはニューヨークの近代美術館に展示され、そこには数百万ドル(大恐慌の時代にはとても大きな金額だ)の資金集めキャンペーンを開始する機能があった。新しいBMCを構築するためのキャンパスがそこにあったのだ。

たぶん1932年のMoMAでの展覧会《モダン・アーキテクチャー展》のときに知り合ったのだろう、グロピウスとドレイアーはBMC以前から親交があったようだ。

「1948年と49年、その二つの夏の間に、私が本当にとても親密になった人が何人かいた。彼らがブラックマウンテンの本質(essence)だったんだ」そう前置きして、フラーはドレイアーについて語っている。

ブラックマウンテンカレッジの歴史についての私の見解を聞いてほしい。それはフロリダのロリンズ大学の教授とその他の教授たちから始まる。ロリンズカレッジは非常に裕福な大学であり……

ひとくさり、ロリンズ大での悶着の説明をしたあと、ドレイアーに話が移る。

そして、(ロリンズ大の)教授たちのリーダー、彼自身が去った——彼の名前はライスだ——。それ(新たな学校の設立)を実行に移す並外れた能力を持つ誰かがいなければ、彼がいくら野心を持っていてもどうすることもできなかっただろう。そして、それを実装したのがセオドール・ドレイアーだった。
ドレイアーの5人の兄弟姉妹は、20年代にそれぞれ100万ドルを相続した。テッドは理想主義者だったから、お金を引き継ぐのは間違っていると感じそれを拒否した。彼のお金はほかの兄弟たちに分配された。彼らはブルックリンのコロンビアハイツ出身だった。私の妻も何世代にもわたってコロンビアハイツにいたので、テッド・ドレイアーのことをよく知っていたんだ。テッドは理想主義者であるだけでなく、エンジニアであり科学者でもあった。彼はMITに行っていたんだ。彼の妹のキャサリン・ドレイアーは——おそらく彼のお金の一部を使って——20年代を代表するモダンアートの収集家の一人になった。キャサリンはカンディンスキーたちのコレクターの最初の人だ。彼女はアーティストの非常に活発な後援者だった。……とにかく、私はこのテッド・ドレイアーのことを知りたかった。

フラーによると彼の妻君とドレイアー一族は同郷で、よく知る間柄だったらしい。しかし、フラーが妹として紹介しているキャサリン・ドレイアーは実は叔母であることがインタビュー原稿に注釈として書き足されている。誰が書いたものかはわからない(あとからエマ・ハリスが加えたのかもしれない)。このようにフラーの記憶がどこまで正しいのかは疑問だが、ドレイアーは裕福な環境の下で十分な教育を受け、身内に名の知れた美術コレクターがいて、アメリカやヨーロッパの美術界、ひいてはバウハウスとも関係があったことがわかる。

そういうことを知って初めて、なぜBMCの設立前からMoMAと関係が持ててアルバースを招聘できたのか、YMCAに間借りできたのか、そして、まがりなりにも運営できるだけの資金調達ができたのか、などの疑問が解けてくる。

彼らはフロリダからノースカロライナの西部に移動した。それがブラックマウンテンだ。美しい山里、アメリカ合衆国のはじまりのころからあった信仰心の厚い地域、そして多くの宗教上の会合が行われてきた、まさにキャンプが集まった場所だ。……そのような地域にはとても貧しい人々が住んでいた。しかし、丘にはとても豊かな土地があり、お金持ちもたくさんいたんだ。……そしてドレイアーは、その地域に、YWCAやYMCAなどの北部の機関が、夏の休暇に大勢の子供たちが集まるための独自の場所を建設したことを知った。……テッドはとても大きなホテルをとても安くで借りることができて、彼とフロリダの教授たちはそこに引っ越した。その後、彼は湖の周りに開発された土地を見つけた……そして、テッドはその地所も購入することができた。……大恐慌のあとであり、誰もお金を持っていなかったが、それは物理的な意味でのブラックマウンテンの創立だった。そう、テッドはいつも舞台裏にいたんだ。

裏方に徹して決して表に出ようとしなかったドレイアーだが、火中の栗を拾う心境だったのだろう、スキャンダルでカレッジを去ったボブ・ウンシュに代わって、1945年11月から46年の春学期が終わるまでのあいだ学長(レクター)を務めている(46–47年度も再選されたという記述もあるが、現存するBMCの議事録では明らかにはなっていない)。そんな彼が、なぜBMCを追われなければならなかったのか。インタビューでフラーはBMCの内実に関して(多少主観的なところはあるとはいえ)かなり詳しく語っている。

テッドとアルバースを最後に見たのはその夏のことだと思う。……テッドはより多くのお金を得るために絶えず出かけていた。……しかし時はマッカーシー※5の(赤狩りの)時代で、コミュニズムに対する若者の関心は高まっていた。学生たちは心理学にひどく興味を持つようになり、テッドとほかの評議員たちを説得して心理学者のリヴァイ※6を招聘した。彼は最終的に学内に多大な力を持つようになった。……やがてリヴァイは学生の一人と結婚した。

この話にインタヴュアーのエマ・ハリスは「ホント?(really?)」と応えている。結婚相手はM.C.リチャーズで、彼女はのちに陶芸の学生としてBMCに戻ってくるが、この時点では「Reading and Writing」を担当する教員で学生ではない。これもフラーの勘違いと思われる。

M.C.リチャーズは、40年代後半から50年代初頭にかけてのBMC(つまりBMCの動乱期)に欠かすことのできない人物だ。48年にケージの「メデューサの罠」の翻訳を担当し、その後もケージやカニンガムと交流を深めつつ、もともと文学の人ということもあってオルソンやロバート・クリーリーとも親交を持った。48年には印刷工房で学生とともに「ブラックマウンテンプレス」を設立したが、彼女たちが刊行した『ブラックマウンテンカレッジ・レビュー』は1951年6月発行の1号だけで終わっている。51年には教職を退き、NYに移ってケージやラウシェンバーグらと行動を共にし、52年夏、再びBMCでケージの「シアターピース No.1」に参加する。53年には学生としてBMCに戻り、陶芸と詩作で注目されるようになった。

47年秋にドレイアーのあとの学長に就任したリヴァイは学生を扇動し、学生や一部の教員がコミュニズムにのめり込んで、資金集めに奔走するドレイアーをキャピタリストだと糾弾した──とフラーは述べている。しかし、記憶は曖昧なものだろう。アルバースのインタビューも加味すると、コミュニズム的な傾向と民主的なプロセスとが混ざり合って起きたアジテーションのようなものだったと思える。

どうであれ、バウハウスでもデッサウ時代の学長であったハンネス・マイヤーがコミュニストであることを公言して学生を組織したため当局に目をつけられ、政治色を払拭しようとベルリンに移転したものの、時を同じくして政権を取ったナチスの圧力は収まらず、結局閉鎖に追い込まれた経験を持つアルバースにとっては、まさにデジャヴュだったに違いない(実際にFBIがBMCを捜査していた記録が残っている)。アルバースはリヴァイのあと48年秋から49年春まで実質半年だけ学長を務め※7、ドレイアーとともにBMCを去った。

このことについて、フラーは「彼とアルバースは本当に大きな痛みにだまされていた」と言い、アルバース本人は「カレッジのダウンだった」と述べている。しかし、マーティン・デュバーマンの『Black Mountain: an Exploration in Community※8』には、少し違う面からこのことが書かれている。

もうひとつの退任譚

戦争が終わった1年後の1946年9月、BMCは92人(男性49人、女性43人、うち10人がGI法案を利用してやってきた退役軍人)というかつてない数の学生を迎える※9。学習は実際の経験を通じて最も効果的に達成されると考え、デューイ流の進歩的教育をさらに推し進めたかたちで実践していたBMCにとって、急激に増えた学生に対応するのは大変なことだった。

これまでのリベラルアーツプログラムを拡充するためには、少なくとも30人の教員が必要だった。もちろんかなりの予算が必要になる。学生と教員は共同生活を営み、経費節減もあって自給自足を目指して農場と牧場を運営していたが、それもとうてい追いつかなくなる。

それなら、BMCにおける体験学習の中心で、最もよく知られている芸術分野に注力すべきではないか。夏の音楽講座や美術講座には100人近い学生が集まる。そこにクラフトや製本、印刷、そして建築や農業も含めて、これまで蓄積してきた知見を注ぎ込めば、既存の一方的な美術や音楽の学校ではない新しい形態の学校ができるのではないか。そう考えたアルバースとドレイアーは芸術学部の設立を提案した。そして、その名称を「Black Mountain College of the Arts」として、芸術学部だけに用いる(校名は変更しない)ことで、合意がとれるところまでは漕ぎつけていた。

先ほど「デューイ流」と書いたが、BMCはライスからカレッジの組織原則と芸術に重点を置いた体験学習の両方を受け継いでいる。その上で、後者を独立させることはなんとかできそうだった。しかし、アルバースらは前者にも手をつけようとした。

BMCは設立以来、教員と学生の代表で話し合う合議制をとっていた。President(学校長)すら存在しないことは前回にも書いたとおりだ。外部にはジョン・デューイはじめ、ワルター・グロピウスやアルバート・アインシュタイン※10らが名を連ねる諮問委員会が設置されていたが、権限は何も持っていなかった。教員と1人の学生で構成される評議委員会(Board of Fellows)が唯一の統治機関だった。BMCは、学生と教職員が住まいと食事をともにし、ともに学び、働き、交流し、創造する、小規模で実験的かつ経験的な大学コミュニティとして自治され、教員と学生によって所有および運営されている——それがカレッジの自負であり、大前提だったのだ。

しかし経営の安定を理由に、アルバースとドレイアーは新たな理事会の導入を提案した。アルバースは、9人の評議員(6人の学外者と3人の教職員)で構成される委員会を設立しようと考えていた。ドレイアーはそれに対し「委員会は、富を求めるアイデアではなく、カレッジが何をしているのかを理解するためにつくる。私たちが自信を持って推薦した人々と計画されたプログラムを信じることだ」と援護をした。それはBMCのメンバーにとって受け入れがたいことで、反発は火を見るより明らかだった。

アルバースは、「芸術家が総合的な教育を受けることができる場所」あるいは「経験するだけではなくカリキュラムの中心にある芸術の専門家を育てる場所」の実現で満足し、BMCの運営に意見できる学外評議員の招聘まで言う必要はなかったのかも知れない。彼がそれを遂行しようとしたのは、ヨーロッパからの亡命者がアメリカで発言権を持ちはじめたことが背景にあったのか、あるいはその逆で、いつまでも亡命者でしかあり得ないことに業を煮やしたのか。いずれにせよ、バウハウスでなし得なかった理想の美術学校の夢はここで潰えた。

ドレイアーについてはもう少し複雑だ。ドレイアーは経済的にBMCを支えていた結果、それがためにBMCを追われることになった。これについてはいろんな記述があるが、本当のところはよくわからない。

ドレイアーの扱いに対する抗議から、アルバース、トルード・ゲルモンプレズ、シャーロット・シュレシンジャーが辞任した(そしてグロピウスはすぐに諮問委員会から辞任した)。アルバース ─ ドレイアー政権に対する反逆は秋を通して構築されていた。……ドレイアーがブラックマウンテンをあきらめて閉鎖するつもりだという噂が広まり始めたとき、あるいは、将来の管財人から新しい「Black Mountain College of the Arts」を率いるように頼まれたという噂が広まり始めたとき、不満は頂点に達した。
Martin Duberman “Black Mountain: an Exploration in Community”

このあたりが、そうだったのかなと思えるところだ。ドレイアーは、ライスの描いたリベラルアーツ教育を諦めて、ニーズのある芸術教育に移行しなければ経営的にBMCの将来はないと考えていたのだろう。そしてそれを実行しようとしたのだ。

戦後の状況やその後の社会変化を知っている我々からすれば、彼の判断は理解できる。しかし、(たとえアルバースの言うように青臭い考えだとしても)ユートピアとしてのカレッジコミュニティも否定したくはない。仮にアートスクールに鞍替えしていれば、アートやデザインに特化した(バウハウス型の)美術教育はできても、その後のハプニングに代表されるような新しい(アメリカ美術的な)運動やブラックマウンテン派の詩人に代表される文芸活動などを生むことはなかっただろう。その後現れてくる対抗文化やコンピュータカルチャーにまで繋ぐことができたかどうか。新しい文化の芽が美術の内側に取り込まれていったであろうことは想像に難くない。

結果として、ドレイアーとアルバースはBMCを去った。ドレイアーの長い経理責任者としての、そしてアルバースの芸術部門責任者としての、プレッシャーもここに解き放たれることになった。BMCから解放されたあと、アルバースはイェール大学に移り、その後の活躍は周知のとおりである。ドレイアーは、1950年から62年までGE(General Electric Co.)で働き、最初の原子力潜水艦を駆動する電源を開発するプロジェクトに参画、のちにノウルズ原子力研究所の課長を務めた。

これによって「ライス、アルバース、ドレイアーのBMCが終わった」とデュバーマンは書いている。しかしこの騒動は、この時代特有のイデオロギー対立の一面があったにせよ、アメリカ的な(特にデューイ的な)プラグマティズムと第一次大戦後の西欧(主にドイツ)文化や思想との軋轢の帰結だと総括できる。ドレイアーはその間に立って理想論者として働いたが、結局のところ疲弊し、あきらめたのだと思う。アニ・アルバースは、「絶え間ない緊張、プライバシーの絶え間ない欠如、お金の絶え間ない欠乏、そしてあなたたちが持っていたのと同じ投票権を持つことによるすべての教員との絶え間ない摩擦、それらによって疲れ果てた」という言葉を残している。

そして1949年の夏を待たずして、フロリダ・ロリンズ大からやってきたすべての教員がBMCを去った。ドレイアーは最後に最善を尽くし、「カレッジの友人」にと長い謄写版の会計報告を書いた。彼は個人的な確執と苦い記憶を押し戻し、こう語っている。「ブラックマウンテンは15年間素晴らしい場所だった。私たちはいくつかの新しい道を切り開いたのだ」。

エデン湖とダウンタウンでの出来事

話をエデン湖に戻そう。かつてのキャンパスをひととおり巡ってスタディ棟に戻り、ピロティに腰掛けて気がついた。壁が立っている —— ピロティのスペースを区切るパーティションが立っていたのだ。キャンプに来る子供たちのためだろうか。コーチャーが考えた建物の端からクラフト室の石垣までを見渡せた空間は、そこにはもうなかった。来るのが1年遅かったらパーティションのある風景しか見ることができなかったし、それをスタディ棟だと思っていただろう。間に合って良かった。写真に収めながらそう思った。

そのピロティを象徴するフレスコ壁画※11の修復が始まったというニュースが、2020年の春に舞い込んできた。1946年にジーン・シャーロットが描いたものだ。保存修復家のクレイグ・クロフォードとマホ・ヨシカワが復元に取り組んでいるという。秋になって修復が完了したという投稿がFacebookにあった。写真もアップされており、ずいぶんきれいになっている。子どもたちに落書きされたりしてけっして良い保存状態とは言えなかったし、劣化も進んでいたので、長く残していくために修復は当然だろう。しかし、色が剥げ落ち壁が削れていたとしても、シャーロットのオリジナルを見ることができて良かった。こちらも間一髪で間に合った※12

[図6]手前が二つある壁画の片方「INSPIRATION」のオリジナル。左手奥に見えるのが新しく立ったパーティション。

週末、ブラックマウンテンのダウンタウンまで足を伸ばす。目的は二つあった。前回資料を買った本屋のオヤジさんの写真を撮りたかったことと、Song of the woodという楽器屋にもう一度行きたかったのだ。

2018年秋に訪れたとき、曲がり角にあったハンマーダルシマーと書かれた五線譜の看板が目に止まった。店に入ってみると、これまで見たことのない(強いていえばオートハープに共鳴用のボディをつけたような)美しい楽器が並んでいた。サイズは、ノートPCぐらいからコーヒーテーブルぐらいのものまで大小さまざまだ。カウンターではオーナーなのかお店番の人なのか、年配の女性がバチで弦をたたいて美しいメロディを弾いていた。「打弦楽器だからハンマーなのか…」その音色にしばらく聴き入っていた。

東京に帰って調べてみると、ハンマーダルシマーはペルシャに起源をもつ民族楽器だということがわかった。ピアノの祖先のひとつだそうだ。しかし、ブラックマウンテンで見たものとは少し違う。一方、マウンテンミュージックと呼ばれているアパラチア山脈に伝わる伝承音楽に使われる楽器の一つにアパラチアンダルシマー(マウンテンダルシマー)がある。膝に置いて弦をはじいて弾く、ルーツミュージックファンには馴染みのある撥弦楽器だ。ブラックマウンテンで見たダルシマーは、ペルシャ起源のものとアパラチア伝承のものとの中間のようなイメージだった。コロンコロンと鳴る美しい音をもう一度聴きたかったし、小ぶりのものを1台買って帰りたいと思っていたのだ。

アパラチア山脈はアメリカ音楽のルーツの地と言われており、なかでもブルーリッジは音楽が盛んな土地柄である。アッシュビルでは、1928年に始まったアメリカでもっとも古い伝承音楽のフェスティバル「マウンテン・ダンス&フォーク・フェスティバル」が毎年8月に開催されている。そういう場所でBMCはヨーロッパのクラシック音楽を教え、ケージの現代音楽を受け入れたのだ。「ブルーリッジにおけるBMCの音楽」というような文章もいつか書いてみたい気がする(ちなみにぼくはルーツミュージックのファンです)。

楽器屋は、旧駅舎からメインストリートに入る角の建物にある。そしてちょうどその角にハンマーダルシマーと書かれた看板があって、曲がるとライブのフライヤーが貼られたショーウィンドウがある……はずだったが、そこには違うメッセージがあった。Song of the Wood has Moved! —— 引っ越したんだ!たしかに前回来たときこの建物は売りに出されていた。そういえば隣の店も閉まっている。オーナーが変わって立ち退かざるを得なくなったのだろうか。貼紙には電話番号が書かれており、そこに電話すれば移転先を教えてくれるのだろう。番号の下にはAnd We’ll see you soon…とあった※13

[図7-1]Hammer Dulcimers と書かれた、楽器店「Song of the Wood 」側面の看板

[図7-2]角を曲がったショーウィンドウにあった貼紙

[図7-3]全景。シェードにSINCE 1975とある(2018年撮影)

結局楽器を手に入れることはできなかったが、気を取り直して本屋に向かう。日曜だからか人通りが多い。車も多く、通りの反対側からは店が見えないぐらいだ。それでも通りを渡って店の前に出た。ドアには「Sale All Books 50% Off」という貼紙がある。どおりで人が集まっているわけだと思ってふと横を見ると、大きく「For Sale」と書かれたポスターが目に入った。どういうことだ!?ドアを開けた。

閑散とまではいかないが、確かにずいぶん本が減っている。半額セールなのだから当然か。オヤジさんは見当たらず、女の人がいた。たぶん彼のワイフだろう。思い切って声をかけた。
「去年来て、本を買ったんです。そのときはここに男の人がいました」
「あらそう。それはきっと夫よ」
「店を閉めるんですか?」
「そうなの。跡を継いでくれる人を探したんだけどいなくて。もう私たちも年だから。去年は何の本を買ってくれたのかしら」
「BMCの本です。奥に棚があったから」
「棚はまだあるわ。もうあまり残ってないけど、欲しい本があれば全部半額だからお買い得よ」
だいたいそんなやりとりをして、BMCの棚に向かった。本当にもう何も残ってなかったが記念にと思い、48年夏の「メデューサの罠」にも参加したアーティスト、レイ・ジョンソンの詩画集を持ってレジに行った。

「詩が好きなのね。ロバート・クリーリーのサイン本があるけど、いる?これは売らないつもりだったけど……。もちろん半額よ」
そう言ってレジのうしろの戸棚から本を出してくれた。本には黄緑色の紙片が挟まっていて、SIGNED by Robert Creely (Black Mtn College) と書かれていた。
「写真を撮らせてもらっていいかな。去年ご主人を撮り損ねたんだよ」
少しはにかんだ笑顔と2冊の本を持って、店をあとにした。

[図8-1]店の前の人だまり。入口左のショーケースにFor Saleのポスターが見える

[図8-2]BMC 関連書籍の棚。もともとたくさんは並んでいなかったと思うが、もう何もなくなっていた

[図8-3]お元気で。またいつか。

今度行ったときには楽器屋同様、本屋もそこにはないだろう。小さな山間の町でも、やはり変化していくのだ。同じように今に残ったBMCも変わっていく。それをこうして記録できるのは、幸運なことだ。

1949年春にBMCは大きく変わった。それはそう悪いことでもなかった、とぼくは思う。その後のBMCや20世紀中葉のアメリカ文化を知っているからそう思えるのだが。

1949年3月、アルバースは評議委員会を辞任し、臨時委員長の選出を要請する。委員長には農場の責任者で農村社会学を担当していたレイモンド・トレイヤーが指名され、10月には財政を立て直すためにやってきたビジネスマネージャーのN.O.ピッテンガーが学長に選出された。しかし、早くも12月には辞任について言及されており、以来、混乱のなかで学長(レクター)は不在となった。

1950年6月2日、候補者を検討するためにレクター委員会を設置し、長い議論の末、改めてレクターの権限についての文書を作成した。1952年1月18日、チャールズ・オルソンは、外部からレクターを招聘するという考えを破棄するよう動議し、マックス・デーン※14はそれを支持した。同月25日、誰かが再びそれを持ち出すまでレクターを決めることを延期することが動議され可決された。10月7日、教授会はレクターの必要性を再度議論し、主任管理者(chief administrator)として誰かを探すことに着手するという動議を可決した。そして53年にオルソンがそのポジションに就いたとされるが、正確な日付はわかっていない。

さて、写真とキャプションを整えているちょうど今日、2021年1月27日から、ドレイアーのアーカイヴ展示「Connecting Legacies; A First Look at the Dreier Black Mountain College Archive※15」がアッシュビルのヴァン・ウィンクル法律事務所ギャラリーで始まった。アッシュビル美術館が主催しており、昨年少し話題になったCLIR(図書館情報資源評議会)からの助成金によるBMCデジタルアーカイヴ※16最初のお披露目展である。400点に及ぶドレイアーのBMC関連ドキュメントが展示されるらしい。誰も書けなかったドレイアーとBMCの関係の一端を見ることができるかも知れない。すぐに飛んでいきたいところだが、そういうわけにもいかなくなった。YouTube※17を見ながら、デジタルアーカイヴの公開を待つことにしよう。

    1. ※1サイ・トゥオンブリー (Cy Twombly, 1928–2011)
      ボストン美術学校を卒業したのち、NYに移り、1951年、BMC夏期講座に参加。ベン・シャーンら教員の高い評価を受け、正規学生として秋学期もBMCに残った。ラウシェンバーグらと親交を持ち、作家活動に入ってすぐに独特のドローイングとペインティングで脚光を浴びる。BMC時代に学んだ写真の評価も高い。BMCで一番興味深いアーティストは?と問われれば、ぼくは真っ先にトゥオンブリーを挙げるだろう。

    2. ※2ベン・シャーン (Ben Shahn, 1898–1969)
      ユダヤ系リトアニア人、アメリカの画家。幼少期に移民としてアメリカに渡り、社会派リアリズムの画家として戦争や貧困、差別、失業などをテーマにした絵画を描いた。1951年にBMCの夏期美術講座で教鞭を取った。


    3. Martin Duberman Collection. Private Collections. Courtesy of Western Regional Archives.

    4. ※3地図にはJalowitz Cottageとある。ジャロウィッツ(Heinrich Jalowetz, 1882–1946)はケルンオペラのディレクターを務めたドイツの音楽家。BMCでは音楽を教え、妻のヨハンナも声楽と製本のクラスを受け持った。コーチャーはこの家を、学生でも建てられるようにプレハブ仕様で設計した。ジャロウィッツは46年、心臓発作でブラックマウンテンで急逝。ヨハンナは53年まで教鞭をとった。53年以降、ここにはチャールズ・オルソンが住んだ。

    5. ※5ジョセフ・レイモンド (Joseph Raymond “Joe” McCarthy, 1908–1957)
      アメリカの政治家。1944年に民主党から共和党に鞍替えして主導した反共主義いわゆる「赤狩り(Red Scare)」はマッカーシズムと呼ばれる。マッカーシズムが吹き荒れるのは50年代に入ってからなので時期的には数年ずれているが、赤狩りはすでに1946年ごろから始まっており、47年のハリウッド映画界のそれはつとに有名である。

    6. ※6アルバート・ウィリアム・リヴァイ・ジュニア (Albert William Levi, Jr, 1911–1988)
      フラーは心理学と言っているが、BMCでは哲学を受け持っていたようだ。1947年秋学期から48年春学期(47–48年度)にレクターを務め、49年のアルバースとドレイアーの退任時にはリチャーズと二人でファカルティ休暇を取っていた。

    7. ※7前回(第4回)で1948年夏期講座のときのレクターはアルバースだと書いたが、アルバースのレクター就任は10月なので、夏の時点ではまだリヴァイが務めていたか、年度替わりの夏の間はレクター不在だったのかもしれない。

    8. ※9BMCニュースレター (Black Mountain College Bulletin/Bulletin-Newsletter, Vol.V, No.1. November 1946) より

    9. ※10アルバート・アインシュタイン (Albert Einstein, 1879–1955)
      一般相対性理論で名高い物理学者。やはりドイツからの移民でBMCとの関わりも、そのあたりに関係しているのだろう。また、ドレイアーが原子力畑の科学者だったので、それとも関係があるのかもしれない。

    10. ※12Jean Charlot Fresco Conservation。BMCミュージアムのサイトで修復の映像が公開されている。

    11. ※13Song of the Woodのサイトがあったのでリンクを貼っておく。ぼくが買おうと思っていた小さいものはプサルタリーという種類のようだ。

    12. ※14マックス・ウィリアム・デーン (Max Wilhelm Dehn, 1878–1952)
      ドイツの数学者。群論のスモールキャンセル理論「デーンのアルゴリズム」で知られる。1939年、アメリカに亡命し、アイダホサザン大学 (現アイダホ州立大学)、イリノイ工科大学を経て、45年にBMCに着任。当時ただひとりの数学教員となった。BMCでは数学だけではなく、哲学、ギリシャ語、イタリア語のクラスを担当し、彼の授業の一つ「アーティストのための幾何学」では、形態が互いにどのように関係しているかについて考察した。ブラックマウンテンを愛したデーンは、1952年、名誉教授としてキャンパスに留まり顧問を務めたが、同年6月に没した。彼はキャンパスの森に埋葬された。

    13. 資料協力:Courtesy of Western Regional Archives, State Archives of North Carolina ※ 禁転載 / No copying and printing.