『空間へ※1』は、磯崎新の膨大な著作の数々の中で最初に刊行されたものであり、全体で82冊※2という膨大な著作の数を誇る氏の著述のキャリアの中で、その輝かしい思考の経緯の出発の地点をなまなましく記録したドキュメントである。磯崎新という稀代の建築家が世の中でデビューを果たし、その長いキャリアを通じて世界的な建築家として活動を繰り広げるきっかけとなった、すべての思考の原点がいわば無数の宝石の原石の如く散りばめられ、その精緻な議論と視点の斬新さ、議論の射程の巨大さ、学問領域としてカヴァーする範囲の広大さに、『空間へ』に触れた人間は誰でも驚愕することであろう。
磯崎新の活動の全容とその日本の建築界、そして世界の建築界への影響力について今ここで改めて振り返る必要はないだろう。丹下健三の弟子としてのキャリアを開始し、メタボリズムの建築運動の最中に彼が発表した数々の都市計画案は世界の若い建築家達を即座に魅了し、アーキグラムなどの前衛的な建築運動が世界で立ち上がる直接的なきっかけとなっただけでなく、その後ポストモダン・ムーブメントとして世界を風靡することになる先鋭的にしてラディカルな世界の建築家の活動の数々にいち早く着目し、その流れを日本に紹介するばかりでなく、自らも先鋭的なプロジェクトの数々を発表し、1970年代の前半に実現を果たしたそれらの数々の大規模な公共建築群は日本国内のみならず世界の建築シーンに巨大な衝撃を与え、以後日本国内および世界の建築界における最先端のシーンを牽引するトップランナーとしての地位を確立することになる。設計を手掛けるプロジェクトの数と種類、規模は飛躍的に拡大し、設計活動の舞台は世界中に広がるのみならず、数々の国際的な設計コンペティションの機会において審査員を務め、当時はまだ無名であったザハ・ハディドらの新人の建築家の数々を発掘し、世界の建築シーンにデビューさせるのみならず、都市計画のプロジェクトのプロデュースを幾つも携わり、レム・コールハース、スティーブン・ホールらまだ若く実作に恵まれない野心的な建築家達に数々に実作の機会を与え、国内でも同様に無数の若い建築家達に実作の機会を提供し、今日世界的に前衛的な建築家が活躍するシーンの下地を生み出したという事実の数々は、ここで改めて記す必要もない程広く知られている。
このように甚大な影響を世界の建築シーンにおいて炸裂させた建築界の巨星の、思考の端緒のすべてがこの『空間へ』には収められている。私自身この書籍に触れた時の衝撃は大きく、オランダに留学を文化庁の奨学金にて行い、ロッテルダムに滞在した折に、日本から2冊だけ持っていった本のうちの1冊が、この『空間へ』であった。いわばこの本は、当時、建築の設計とデザインを志す者の間で、のみならずおよそ建築と都市について思考する人間にとって、共通の一種の〈聖典(バイブル)〉のような存在であったといってよい。建築の設計を志す同世代の友人の家を訪れると、かならず書棚にはこの『空間へ』と『建築の解体※3』が収まっているのを見かけることができた。あたかも敬虔なカソリックの信徒にとってベッド脇にそっと置かれている聖書のようにして、この『空間へ』はおそらく今日世界的に活躍する著名な建築家を含めて実に多くのさまざまな建築の設計を志す人間を精神的に支えてきたのではないだろうか。またこの本は数多の建築の設計を志す人間にとってかけがえのない思考の導きの糸となり、建築家としてデザインを世に問うために誰しもが通過する自らの独自のデザインを確立するための思考へと深く沈潜するその時期において、自らのデザインを確立するために不可欠となる建築と都市のあり方とは何かを本源的に問いただす、いわば「根源へと遡行する思考」へと数多の建築家を駆り立てていったのではないだろうか。少なくとも私にとって、『空間へ』はそのような導きの糸であり続けていた。
『空間へ』は磯崎新の1960年から1969年にかけて様々なメディアに発表された文章やエッセイの数々を発表順に収録し、磯崎新の1960年代の思考の流れをクロノロジカルに読み取ることが可能なように構成された論考集であるが、収められた内容は広範に及ぶ。その記述の対象は、「孵化過程」のエッセイに代表されるような都市に対する具体的なヴィジョンの提案から、「都市デザインの方法」のような都市設計の手法を体系的に論じたもの、あるいは「プロセス・プランニング論」のような独自の建築設計の手法をまとめたもの、「闇の空間」のエッセイに象徴されるような建築空間や都市空間に対して独特のアプローチによる考察と探求を経て到達した独自の空間論、「日本の都市空間」のような日本文化の特性に基づいた都市空間のあり方の理論的な考察、「見えない都市」にみられるような未来都市に対するヴィジョンと考察、「世界のまち」のような世界各地の都市や集落を実際に訪れて廻った体験を綴ったエッセイの数々、はたまた巻末に収められた建築家のとしての自らのアイデンティティの形成にまつわるエピソードの数々を綴った「年代記的ノート」、など、この本に収められた文章の守備範囲は多岐に亘り、書籍全体の内容を要約し概略として示すのは著しく困難である。
また『空間へ』が「日付の付いたエッセイ」と著者自らによって名付けられていることからも伺えるように、それらの文章は基本的には雑誌媒体等への発表順に配置されたものであり、この本の構成がなにがしかの理論的な結論へと収斂してゆくことを意図したものでは決してない。しかしながら『空間へ』の構成を丹念に探ってゆくと、そこには明らかに1960年代の10年間を通じての磯崎自身の思考の流れの系譜とそれぞれの時期ごとの思考の主題を読み取ることが可能である。具体的には1960年~1961年にかけてのさまざまな未来都市のイメージを具体的なヴィジョンとして提出することを主眼としていた「都市のイメージの胚胎期」とでも呼びうる時期、続いて1962年~1963年にかけての都市とは何かについてのリサーチと思考を精緻かつ体系的に行い、その成果を綴る作業に没頭した「都市理論の体系期」とでも呼びうる時期、続いて1964年~1965年にかけての、世界中の都市や集落を実際に訪れてその体験を考察した「都市空間への身体的な耽溺期」、そして1966年~1967年にかけての、それまでの都市、建築の設計の理論を実際の都市設計、建築設計へと応用し検証を行った「都市・建築理論の実践と検証期」、そして最後の1968年~1969年にかけての当時の世界的な政治状況の中で混乱・拡散してゆく都市のあり方で都市と格闘する過程を記した、「混乱・拡散してゆく都市との対峙の時期」とでも呼びうるような5つの時代区分に『空間へ』全体に収められた数々の論考とエッセイの配置を大まかに分類することが可能であろう。そしてこの中に、このような大きな流れとは幾分不連続な形で、「孵化過程」(1962年)、「プロセス・プランニング論」(1963年)、「闇の空間」(1964年)、「見えない都市」(1967年)というその後も磯崎新自身の思考と理論の展開の原点として広く参照されることとなる重要な文章が配置されるという構成を取る。『空間へ』の相互の議論が絡み合いながら時には錯綜・反射し合い、輻輳する複雑きわまりないあたかもそれ自体が都市そのものであるかのような議論の構成を理解するとしたら、おそらくはこのような見取り図を描くことができるのではないか。
このように建築と都市空間にまつわる思考が多岐に渡る視点から広範に展開する数々の論考が収められ、1971年の刊行の直後から今日に至るまで建築の世界においてあたかも一種の〈聖書〉の如く長い期間に及んで広く読まれてきた『空間へ』であるが、ここに収められた議論を今改めて読み返して驚くのは、その議論の数々の射程は今日でも依然有効であるばかりでなく、いやむしろ今日の都市と建築をめぐる議論において、この本の数々の原稿が執筆された1960年代の当時よりも、今日の情報ネットワークとコンピュテーションが社会の隅々にまで浸透した状況において、この本に収められた数々の議論の内容の重要性と意義は明らかに増大しているという事実である。
今日の激しく進展を遂げる情報化社会の中で、さまざまな表現がコンピューターを介して生み出されている。プロダクトデザイン、グラフィックデザイン、映像、音楽、出版、広告、いうまでもなく建築の設計、都市計画の分野も含まれる。芸術の分野全般も今日ではかつてのように手作業のみで完結するものではなく、創作の過程において多かれ少なかれコンピューターという情報技術の影響と恩恵を被っている。このように言ってみればすべての創作と表現がコンピューターを介して行われる現在、表現を支える創作の論理、美学、哲学は根本的な変化を遂げ、不可避的に大きな変容を果たしていると言ってよい。
その変化をもっとも端的に指し示すのが、フランスの哲学者、エリー・デューリングによる「プロトタイプ論」であろう。哲学・美学の領域において今日世界で最も注目を集めるフランスの新鋭の哲学者、エリー・デューリングによって2009年に発表されたこの「プロトタイプ論※4」においては、従来の芸術の観念とは異なる「プロトタイプ」としての芸術という概念が、それまでの芸術概念とは対比され、「準芸術(quasi-objects d‘art)」として提起されている。この「プロトタイプ」としての芸術という概念の提出によって一躍世界的にその名を知られることになったエリー・デューリングであるが、この概念を紐解くと、そこには今日の情報技術が進展を遂げた社会における芸術のあり方、創作の論理についての最も先鋭的な思考を見て取ることができるだろう。ここでその理論の概要を簡単に一瞥したい。
そこではまずフランスの科学人類学者、ブルーノ・ラトゥールの定義したハイブリッドと純粋化という議論の枠組みが前提とされている。ブルーノ・ラトゥールは世の中のあらゆるものが複雑なネットワークを構成しており、この複雑なネットワークは「ハイブリッド」と名付けられ、同時に近代という時代においてはその複雑なネットワークが絶えず隠蔽されてきたことを指摘する。この隠蔽化の作業は「純粋化」と呼ばれ、近代という時代においてはこのハイブリッドが純粋化のメカニズムによって単純化され、今日私たちが一般的に見るような社会の諸制度の数々が生み出されてきたと語る。このような近代の社会のあり方を解きほぐし、物事の実体を再び複雑なネットワークとして、つまりはハイブリッドなものとして世界を捉え返すパラダイムをブルーノ・ラトゥールは提示する。そのような世界のあらゆる物事を複雑なネットワークとして眺める視点は今日の哲学・人類学の世界においては「存在論的転回(オントロジカル・ターン)」と呼ばれる。
しかしこのような観点は、主に2000年代以降さまざまな分野に浸透し、芸術・美学の世界においては「関係性の美学」と呼ばれる立場が広く浸透し、リレーショナル・アートに代表されるような、主にコミュニケーションそのものを題材とし、作品自体を極度に軽視する流れが生み出されることとなる。エリー・デューリングの「プロトタイプ論」が批判するのは、まさに芸術と美学の分野におけるこのような傾向についてである。エリー・デューリングは世界そのものが複雑なネットワークであることは認めながらも、そのネットワークを無際限に拡張し、作品としては最後に何も物理的な実体が残らないリレーショナル・アートの動向を「ロマン主義」と名付けて批判し、攻撃を加える。対して、複雑なネットワークのあり方を、その動的に変化を遂げてゆく無限の流動的なネットワークのあり方を一時的に「切断」し、作品が物質的な安定性を保持する状態を「プロトタイプ」と名付ける。この「プロトタイプ」は作者の観念が一時的に視覚化されたものであるとされ、その後に続く無数のバリエーションの存在や、その後の絶えざる変容の可能性を示唆するものとされる。いわば、近代の芸術の完結したオブジェクトでもなく、また無限のネットワークを指し示すことを主眼としたリレーショナル・アートのようなオブジェクトの不在のプロジェクトとしての芸術でもなく、そのどちらでもない中間の状態を指し示す芸術のあり方を指し示すものであると言える。ここでは、オブジェクトとしての作品の意義が「プロトタイプ」として新しい位相のもとで照射され、全く新たな形で指し示されていると言ってよい。
重要なのは、この「プロトタイプ」としての芸術のあり方が、今日の、そしてこれからの芸術のあり方を模索するための大きな方途を指し示しているという点である。というのも、あらゆる表現がコンピューターを介して制作される情報の時代においては、制作とは、そして創造とは、旧来の意味での制作や創造とは異なり、無数のバリエーションの中からとりもなおさずひとつのバリエーションの選択を意味することになるからである。このバリエーションの選択という作業が、エリー・デューリングの「プロトタイプ論」における「切断」の概念の内実となる。コンピューター上での表現は、変数を無数に入力することによってほぼ無限ともいえる表現のバリエーションを即座に生成することが可能となる。そのために、制作とは、創造とは、この無限のバリエーションの中から、ひとつの変数を選択するという行為、いわば流動しかつ無限の変動の可能性を示唆するコンピューター・アルゴリズムの織りなす関数のネットワークの中にひとつのパラメーター(=変数)を投じてそのネットワークを「切断」するという行為に、その重要な力点が移行することになるのである。ここで「切断」された変数が、すなわち実際の作品として、オブジェクトとして立ち上がることになるのだ。建築の場合では、コンピューターのモニター上で変数の投入に従って刻々と多様に変化を遂げてゆくヴァーチュアルな形態のあり方から、ひとつの変数を選び出す作業が、「切断」に相当することになる。この「切断」の経緯を経なければ、コンピューターのモデル上で多様に変化を遂げてゆく建築の姿は、物質として、現実の空間として私たちの前に立ち現れることは、決してない。
ここで『空間へ』の中に収められた論考の数々を読み返してみると、磯崎新が1963年に大分県立図書館を設計する際に独自の設計論として組み立てた「プロセス・プランニング論」に、このエリー・デューリングによる「プロトタイプ論」で提示された今日の情報の時代における芸術のあり方、すなわち「プロトタイプ」の創作のあり方に極めて酷似した論理の体系を、私たちは見出すことができるだろう。
「プロセス・プランニング論」において、磯崎新は動的に変化を遂げてゆく流動的なプロセスを提示し、その動的なあり方とダイナミズムを内包しつつ、最後にその動的で流動的な変化を遂げてゆくプロセスが「切断」される様を描き記した。そもそもは敷地条件が決定しているのみで、予算も規模も決定せず、一切が流動的であるという困難な条件下におかれた磯崎新が、独自の手法で、大分県立図書館の建築を組み立てるために編み出した苦肉の策とも言える方法論であるが、動的な諸条件の中から機能を導き出し、その機能を類型化することによってエレメントを生み出し、そのエレメントの相互の関係性をスケルトンとして定義し、それらの様態がプロセスに応じて刻々と変化をしてゆく様子を「プロセスの建築」と呼びならわし、これらは一切が流動的で可変的な条件と状況に応じて変化を遂げるプロセスそのものであるが、しかし最後の一瞬においてそのプロセスが「切断」されることにより建築物としての具現化・現実化を果たすという独自の建築の創作のあり方が指し示されている。
ここで重要なのは、条件に応じて自在に対応し流動的に変化を遂げてゆくプロセスが「切断」されることによって、初めて建築として具現化されるという視点が明確に打ち出されている点である。この「切断」のイメージは、当時のメタボリズムの建築家たちの共通した発想と比較して考えるとその独自性が顕著に浮かび上がるだろう。当時のメタボリズムの建築家たちの発想は皆おしなべて社会工学に裏打ちされた未来志向であり、メタボリズム=新陳代謝の言葉に端的に表れているように未来への無限の成長と発展を暗黙の裡に前提としていたと言える。このことはメタボリストの建築の作品が、いずれもメガストラクチャーの内部に設えられた居住ユニットが自在な更新、つまりは新陳代謝を意図して設計されていた事実に伺えるだろう。しかしたとえば黒川紀章の代表作である中銀カプセルタワーが、メガストラクチャーに吊り下げられたカプセルとしての居住ユニットがたやすく更新をされることを意図されながらも、それらは決して現実には更新されることはなかったという事実に端的に表れているように、メタボリズムの建築の作品は、未来への無限の成長・発展を夢見ていながらも決してその夢は実現する契機を果たすことがなかったと言える。しかしながら磯崎新はそのようなメタボリズムの未来志向とは対照的に、「都市の未来は廃墟である」という終末のイメージを語りながら、当時活躍していたメタボリズムの建築家達においてはまったくのところ欠如していた「切断」の思考の重要性を繰り返し指摘する。
そして重要なのは、ここで提出された「切断」のイメージに裏打ちされた磯崎新の創作の思考と論理が、エリー・デューリングの唱える「プロトタイプ論」における「切断」に基づく創作の論理、イメージとまったく同様のものであるという事実である。あたかもメタボリズムの建築家達の将来への無限の成長を志向した思考の限界を見定めるかのようにして、磯崎新は「切断」のイメージを提出し、エリー・デューリングもまた「プロトタイプ論」において流動変化する無限のネットワークの「切断」のイメージを提出するのだ。情報の時代の創作のあり方として今日もっとも先鋭的かつクリティカルな議論を展開するエリー・デューリングの思考の一端を、なかば40年以上も前に先取しているかのような思考を私たちはこの本に認めることができるという事実に、私たちはこの『空間へ』に収められた磯崎新の数々の議論の射程の長大さの一端を見て取ることができるのではないだろうか。
設計とは、とどのつまり無限に変化を遂げてゆく流動的なネットワークを、「切断」するという行為に他ならないのではないか。さらにこの「切断」という行為を突き詰めるならば、その根拠は、おそらくは自らの身体感覚のみを頼りにして、多様に変化を遂げてゆく流動的な状況の中で、その無限ともいえる膨大な可能な選択肢の中からたった一つの可能性を、選び出す作業に他ならなくなる。私たちは、磯崎新の「プロセス・プランニング論」に、その創作の最も重要な契機として、そのような自らの身体感覚を介しての「切断」の瞬間が、生々しく刻印されているのを、読み解くことが可能だろう。そして情報化がさらに進展を遂げ、創作のあり方が根本的な変容を被りつつある現在、この「切断」についての先鋭的な思考が封じ込まれたこの『空間へ』という書物は、今後のあらゆる建築家、都市計画家、のみならずおよそ芸術とあらゆる表現を志す全ての人間にとって、創作とは何か、その表現の根拠は何かについて思考をするための、巨大な導きの糸となり続けることだろう。