「ファッション」のデザインとは、何を射程にしたものなのだろうか。自らの意思だけで装いや生き方を選ぶことのできなかった時代に、ファッションは人を記号として見る世界をハックするための革命装置だった。誰もが衣服や生き方を選択できるようになった今、我々は何をハックすればいいのだろうか。

人間をつくるファッション

いつの頃からか芸術、文芸、ファッションなど、人間が作ったものから感じる質感やテクスチャーの根源を知りたいという漠然とした思いがあった。私自身が感じているこの感覚の本質は、何か普遍的な形で表現することが可能なのだろうか。そのテクスチャーの強い存在感は何故私に影響を与えるのだろうか。

こんなことを考えていたのは今から約10年ほど前のことで、その頃私は化学反応のカオスと生命現象への関わりを調べながら、何かしらの厳密な数理的アプローチで、人間の認知について研究をしたいという希望を抱いていた※1

心理学や統計学は勿論、認知科学、あるいは分析哲学の本を読んでもどこか物足りない。数学の本を眺めながら、数百年、あるいは数万年の時間があれば、もしかしたら新しい数学によって何かわかることがあるかもしれないとも思った。ただ結局何かがわかったところで、私はそれを誰かに説明したいのだろうかという疑問が何となく頭をよぎる。

「私」はいかに生きればいいのか? 私とは何なのだろうかという漠然とした問い。聖書や仏典に関する書籍を眺めると、人間という生き物がこの問いと長い間向き合ってきた形跡を感じることができる。 歴史を通してみると、「私とは何か」という問いは次第に「人間とは何か」という問いへ変わり、そして再び「私自身への問い」へと戻ってくる。

自らの未来のことを考えつつ過去を振り返ると、小さな頃から考えていた「私はどう生きればいいのか」、あるいは「私は何か」という問いは、歳を重ね知識を身に付けるにつれて「人間とは何か」という抽象的な問いにすり替わり、人間といった普遍的な対象を強迫的に考えるようになっていたことに気がつく。「人間」という抽象的なものを観察しながら、いかにして具体的な「私」の世界に戻ればいいのだろう。この問いはまた別のものなのだ※2

私は「私自身」と「人間自身」を調べながら、それらを造ること、つまりデザインすることはできないかと考えるようになっていった。その視点に立ってみると、世界では物が人に影響を与え、人がまた物や環境に影響を与え、新しい事実を生み出していく。だから、人間の身の回りに纏わるものを作り、世界に少しずつ変化を与えていくファッションは、面白い可能性を帯びているような気がしていた※3

Invisible Man10年ほど前、ある雨の日に会った男性の写真。目を引く不思議なスタイル。我々はこの様子から彼の何を知ることができるのだろうか?

Ludwig Wittgenstein脚注で紹介したLudwig Wittgensteinの写真。例えばこの写真の中で、彼の彼たらしめる要素あるいはシステムは現れているのだろうか?

遠いデザイン、近いデザイン

建築家の磯崎新氏※4は時折講演で、Architectureという言葉の意味について話題にすることがある。Architectureは「建物を建てること」「デザインすること」と同義に扱われているが、実際は建物という構造体を都市の中に造ること、あるいは都市自体を造ること、そしてその先に都市に住む人間自体のダイナミクスへ影響を与え、さらにそのダイナミクス自体を作り変えることまでを射程に入れているものだという。しかし、Architectureの翻訳語である「建築」がその本来の豊かな意味を限定してしまっているらしい。

これを聞くと、ピーター・ドラッカーの「三人の石工」の話を思い出す人がいるかもしれない。石を積んでいる男に向かって「何をしているのか」と問いかけると、一人目は「生計を立てている」、二人目は「国一番の仕事をしている」、三人目の男は「大聖堂を建てている」とそれぞれが答える。ドラッカーは三人目の男を真のマネジメントを理解する好例として挙げている。そもそも「何故それを作るのか」というのは、どんな物を造る上でも根源的な問いに違いないのだ。

また、筆者が20代前半の頃に出会った荒川修作氏※5の存在も頭によぎる。芸術家と建築家の間を絶え間なく往復していた彼は、いつもこう言っていた。「社会を変えるためには、その構成要素である人間の倫理を作り変えなければいけない」と。そして「それを可能にするためには、人間の身体を変えなければならない」と続ける。彼は「身体を変える装置としての建築」に可能性を見出し、作品を造り続けた。作品の射程は景観の中に建てられた建築物そのものというより、遥か彼方にある人間のダイナミクスの変遷にあったのは言うまでもない。彼は自らに得体の知れない「コーデノロジスト」という呼称を与えていたが、それは建築物や芸術作品といった物質的な枠組みを超えたものを設計しようとしたがゆえに生まれたのだと思う。

我々は造られた物やシステムに触れることができる。もちろん、その構造や質感の美しさや利便性について、感じたことを議論することもできるだろう。しかし私はいつも、その作者が射程に入れていたこと、遥か彼方で起きて欲しいと願った「出来事」について考える。人は物に触れ影響されて新たなダイナミクスを生み出し、自らも新たな人間に影響を与え続ける。その影響は連鎖し、たった一つの物やシステムの誕生が、何か大きなものまでを変える可能性がある。我々は常に、そして永遠に世界と相互作用し続ける。デザインとは本来、そこまで考えて語られるべきではないだろうか。

便宜的ではあるが、造形や構造のデザインを「近いデザイン」とするならば、より射程を広げたデザインのことを、「遠いデザイン」と呼んでもいいかもしれない。

三鷹天命反転住宅三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller。「死なないための住宅」というコンセプトの元に作られた住宅。景観の中にある建物そのものではなく住む人間の身体から思考へ作用することを目的に作られている。「遠いデザイン」を目指した一例として。

モードからコードへ

「デザイン」という言葉と同様、「ファッション」という言葉も曖昧な意味のまま、日常で摩耗するほど使われ続けている。しかし私は、ファッションが「遠いデザイン」を可能にする領域の一つであると信じて疑わない。

実際、元来のファッションとしばしば同義に扱われる「モード」という言葉は、Modality※6を語源としている。これはファッションという言葉が、衣服やスタイルという意味にとどまらず、人間社会における現象や様相、また動的なパターンであることを示唆している。「様装」※7とでも翻訳すると、日本語でも少しその大域的な雰囲気が出てくるかもしれない。

19世紀の初頭あたりまでを振り返ると、衣服の組み合わせはある程度厳密なルールを形成し、人間の社会階級や所属するコミュニティを半ば機械的に振り分けるのに使われていた。社会の中では、装いや所有物、日常の行動パターン、そこで起きる物事が限定されるがゆえに、各人の属性が視認し易く、外見という「表層」から社会的な属性を察することができたからだ。特権階級に所属する人間、あるいは聖職者や宗教家の様子を見れば、人間の装いや行動パターンが、法律に近い暗黙の制度で限定される状況であった事実を察することができる。人々の装いは、各コミュニティにおける「制服」であり、「制度」が視覚化されたものであったと言えるだろう。

ヴェルサイユ宮殿でのワンシーンを描いたイラストレーションヴェルサイユ宮殿でのワンシーンを描いたイラストレーション。17世紀のファッションでは、身につけているものがそれぞれの階級を示唆している。

時代の変遷に伴って、装いのルールはその後、制度から「コード(規定)」の形に変容して行く。それは明文化された法律のようなものというよりは、儀礼的であり慣習的なもので、人の間に介在する暗黙の空気やその相互作用の過程で、動的に生成され変化していくものだ。固定化された社会的階級が徐々に崩壊するに連れて、コードも動的になっていく。人の装いや行動規範は多様になり、所属するコミュニティの境界も動的なものへと変化させられていく。衣服によって一人の人間(individual)は、時と場所によって複数の顔を持ち始め、分人(dividual)としての人間が確立される。物の組み合わせであったはずのスタイルは、そうして社会のダイナミクスの有様を変え、「遠いデザイン」が知らず知らずのうちに実行されていくのだ。

ファッション、宗教、ウィルス

20世紀に活躍したファッション・デザイナー、クリストバル・バレンシアは以下の言葉を残している。

クチュリエは計画の上では建築家、フォルムの上では彫刻家、色彩に関しては画家、調和という点では音楽家、そして節度に関しては哲学者でなければならない。

彼の時代から現在までの100年の間に、身体を土台とする衣服の様式は、既に出尽くしたのではないかと言われて久しい。多くのスタイルが生まれ、制服化し、最終的には新たなカテゴリーとして固定化されてきた。パンク、トラッド、ワーク、ストリート、アヴァンギャルド……。

80年代のロンドンの写真80年代のロンドンの写真。学習を経たシステムを使えば、この姿から社会的階級や属性を予測することは可能だろう。我々も同じように無意識下で人の属性を判断している。判断と現実のギャップを作り、新しいコミュニティを生み出してきたのが現代までのファッションの系譜である。

実際、細かなディテールと質感の違いを別とすれば、現代のクリエーションの殆どが、既存のカテゴリーの中に否応無しに回収されてしまう。その様子は、雑誌を含めたメディア、ブティック、百貨店の区画、オンラインショップでの商品分類のされ方を見れば、顕著に見て取れるだろう。それを単純化してみると、固定化された既存のカテゴリーをX軸上に刻み、Y軸上に商品やイメージの価格帯をとった座標平面のようなものになっている。デザインを生む行為は、空間上の何処かに着地するアイテムを生み出す行為とされ、その未着陸地点に降り立つことが新しいスタイルの創造として捉えられている※8

現代ファッションの文化的なターニングポイントは、これまで生み出された様々なスタイルの伝搬によって成しとげられてきた。新しい装いは、社会に存在する暗黙の「コード」と固定化された価値観をハックし、コミュニティの境界を曖昧にしてきた。そしてスタイルに共感する人々を次第に集めることで、既存の現状(Status Quo)を変貌させてきたのだ。新たなスタイルは、次第に新しいコミュニティの境界を行き来するための「制服」になっていく。装いのイメージは人々に伝搬し、そのイメージに結びついた言葉によって人の思考に影響を与える。

かつて梅棹忠夫※9は宗教のウィルス説を唱えたが、こういったファッションの側面を考えれば、ファッションは宗教の性質を持った社会現象なのだということがよくわかる。この意味で、人間のダイナミクスに影響を与え続けている三大宗教は、最も壮大な「遠いデザイン」を可能としていると言っていいだろう※10

ビッグデータと人工知能が可能にする『モードの体系』

このように変わり続けるファッションデザインの射程を、我々はどう分析できるのだろうか。

ファッションを分析した人間の代表として、ロラン・バルトを挙げる人がいるかもしれない。衣服に言語学的性格がありうると指摘したニコライ・トルベツコイに影響を受け、彼はファッションを言語学の側面から考察した。1967年に記された『モードの体系』は、その集大成である。

しかし実際のところ、その完成度は現代の水準ではあまり高いものとは言えない。自由が保証され、人間の有様が多様になっていた当時、すでにその動的な動きは人間の認知限界を遥かに超えていた。論理的破綻を避けるため、彼はその分析対象を雑誌の上に表象されたファッションへと限定してしまう。その分析自体は示唆的であるものの、「近いデザイン」の周辺を語ったにすぎない。これについては、彼自身が以下のように語っている。

わたしが書かれた記述に限定したのは、方法論と社会学の2つの理由からなのです……イメージから書かれた記述へ、さらにこの記述から再び街中に移行して、この眼で確認できる観察へと無差別に移行していては、精密な分析など不可能だったのです。記号学のやりかたは、ある対象を要素に分割し、これらの要素を形式的な一般的等級に分類して再配分する事ですから、できるかぎり純粋で均質的な素材を選ぶ方が有利だったのです。ロラン・バルト「『モードの体系』セシル・ドランジュとの対談」

その分析は限定的であったが、300年以上前なら十分に機能していたかもしれない。人の有様と生活様式は限られており、それを表す言語との相関関係を測るのは比較的容易だったはずだからだ。

50年代の日本の一般家庭の様子50年代の日本の一般家庭の様子。ここに映るさまざまなものから、我々は何をどこまで知ることができるのだろうか? 何をどう「いじれば」、このシーンの動きを、あるいは左の男性の行動規範を劇的に変化させられるのだろうか? 遠いデザインはそういったことをターゲットとしている。

People of the 20th Century20世紀前半のドイツで様々な職業の人を撮った作品集、August Sander “People of the 20th Century”より。被写体の男の職業は?

現代は、「有様」や「装い」といった局所的な情報から人を判断していた過去とは違う。我々の分人化は進み、情報過多で認知限界を超えた世界全体の見通しの悪さが、コンピューターによる記号的かつ離散的な世界の分節化を加速している。

しかし、我々はそのうち、機械によって予めフィルタリングされた世界を、ありのままの世界として認識するようになるかもしれない。人間という存在も、身体的特徴、年齢、性別、出身地、住所、所有物の名前、属性や品質、ソーシャルメディアでの活動といったものを数理的に切り出し、人工知能が学習して構成したプログラムの評価関数を通して判断してしまえば、むしろその世界は300年前の時代とあまり変わらない様子になるだろう※11

離散化される世界に抗う

人工知能によるファッションデザインも既に始まりつつある※12。現実世界を切り出す離散的なメッシュはより細かくなっていくだろう。その時、バルトが試みた記号論的な分析(あるいは分類)も、雑誌といった限定されたメディアでの分析にとどまらず、全てのテキストデータとイメージ、あるいはインターネットと繋がるモノそのものまで拡大すれば、本当の『モードの体系』が人間の有様として大きな射程で見えてくるだろう。 膨大なデータの分析が可能となった今、人間社会の深層を表層から探ろうとしたバルトの『モードの体系』での試みは、再び意味を持つようになって来たように思う※13

そのうち我々はコンピュータによって描かれた空間の中で、一喜一憂することになるのかもしれない。新しい形でフィルタリングされ一様化される危険を孕んだ世界で、我々はまた新たな記号化と戦うことになるのだろう。

現実の世界を離散的に写した空間。その空間で輝きを失ってしまう「私」にしか見えないものたち。それらの存在を憶う時、村上春樹の『1Q84』に書かれた言葉を思い出す。

「説明しなくてはわからないということは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ。」村上春樹『1Q84 BOOK 2』

流動性を失った世界を動かしてきたのは、いつも数々の一様化や体系化に抗う、強い「私」たちだった。それは、限りなく具体的だが体系化することのできない、掴みどころのない「私」たちの様装である。

離散化されていく世界に対し、その過程に抗いハックする生き方が、そしてその生き方を生成する新しいファッションの発明が必要とされる時代が迫りつつあるのだと思う。新しいファッションデザインの可能性はいつも、遥か遠くをデザインすることから生まれるのだ。

  • ※1 統計を使った傾向分析とは違った形で、人間の認知システムを普遍的構造として数理的に書き出し表現することができるならば、その構造は数学的対象として厳密な分析が可能となる。「書き出し」表現することで落ちてしまう情報があるかどうかが大きな問題となる。
  • ※2 仮に数理的な構造がわかったとして、分析の過程で生まれた新たな数学的表現を現実的な人間の認知システムとして再表現できるかどうかは、新たな問題になってくる。例えば人間の認知システムの活動を、何らかの微分方程式や代数の組み合わせとして表現できたとして、その構造が従う系や定理の意味は認知システムにおいてどのような意味を持っているかを解釈するというのは、また別の問題として立ちはだかる。そもそも人間という分類は正しいのか? コーカソイドとモンゴロイドが仮に別々の数理的構造に従っているとしたら? など、問いは尽きない。足や指の本数、あるいは指紋のパターンの幾何学的構造と神経の動きの関係性があったりするのだろうか? あながち馬鹿げた話ではないように思う。
  • ※3 ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の冒頭の命題で「世界は事実の総体である」と述べている。ファッションが人間社会に与える感覚を、彼の意図した世界観でみると少しスケールが広がる。
  • “Invisible Man” Photo by YUSUKE KOISHI
  • “Ludwig Wittgenstein and Georg Henrik von Wright” (1950), via Wikimedia Commons
  • ※4 20世紀から21世紀の中で最も重要な建築家の一人。建築として作品を制作するだけでなく、建築の歴史的側面を考慮しつつまとめ上げた多数の著書が数々の影響を与える。キュレーターやコンペティションの審査員としての立場でも、多数の才能を発掘している。
  • ※5 「反芸術」を掲げて結成された「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」のムーブメントに一時関わった後、ニューヨークへ渡米。マルセル・デュシャンなどと交流を持ち、パートナーのマドリン・ギンズと共に「芸術の世界(表象的な図形・記号・言語を用いた精神の世界の表現・創作)を超える身体・肉体に向かわなければならない」というテーマを自身に課す。人間の宿命を反転させるための「死なないための建築」を主題とした様々な建築作品、さらには都市規模の変革プロジェクトを提示した。筆者は縁あって彼の作品である「三鷹天命反転住宅」に一年間住んだことがある。
  • Photo by Masataka NAKANO, Courtesy of ARAKAWA + GINS Tokyo Office
  • ※6 モダリティ、法性(ほうせい)、様相性(ようそうせい)とは、話している内容に対する話し手の判断や感じ方を表す言語表現のこと。
  • ※7 Modalityを意味する「様相」を、「様」と「装」から造語にしたもの。
  • Antoine Trouvain “Fourth room of Apartment at Versailles” (1696), via Wikimedia Commons
  • “Skinheads in London City in 1981” (1981), via Wikimedia Commons
  • ※8 Z軸はそのスタイルに集まった人数をとることで、コミュニティ別の人口を見ることが出来る。平面の様子は培地の上で培養した菌のマップのように見えるかもしれない。
  • ※9 文化人類学者。主著の『文明の生態史観』はファッションにおいても示唆的な内容を大いに含んでいる。
  • ※10 厳密ではないが、イメージしやすくするため少し便宜的に数理的なモデルを考える。ある時間Tにおける世界の人間の数をN(T)、同様にある時間において世界に存在する系(システムやオブジェクト)の数をM(T)とする。世界の中で、ある人間iの状態N_iを世界の人間と世界中に存在する系の相互作用の結果として書き表すことを考えると、以下の様に便宜的に見ることができる。
    N_i(T)=N_i(N_1(T), N_2(T),…,N_n(T),…, M_1(T),…,M_n(T)…)
    同様に系の状態を世界の人間の状態と世界中に存在する系の相互作用の結果として考えると以下の様になるだろう。
    M_i(T)= M_i(T)=M_i(N_1(T),…,N_n(T), M_2(T),…,M_m(T))
    ここで世界の状態をA(T)=(N_1(T), N_2(T),…, N_n(T), M_1(T)…)というN x M次の抽象的な空間として考えたとしよう。すると我々人間が、あるいは系が世界に対し「何かを行うこと」は、A(T’) = O(T)A(T) (T’ > T) といった形で考えることができる。このO(T)は、ある時間において人間あるいは系が未来の世界に働きかけるイベントを意味する。「遠いデザイン」を限りなく遠い射程まで広げる時、世界の中に新たな系M_xを作ることで世界の状態Aにどの程度影響を与えられるかという議論が主軸になってくる。
  • ロラン・バルト『モードの体系 — その言語表現による記号学的分析』(1967)
  • ロラン・バルト『モード論集』—「『モードの体系』セシル・ドランジュとの対談」(1967)
  • “Japanese family meal in 1950s” (1954), via Wikimedia Commons
  • August Sander “People of the 20th Century” (2002)
  • ※11 例えば人間を保有資産の総量、身長や体重などの身体的特徴などで分類するというということは、人間の集合Nの状態を評価関数の元に実数に置き換え、並び替える操作をすることに他ならない。
  • ※12 表立った成果は現段階で出ているわけではないが、GoogleとドイツのZalandoの共同プロジェクト「Project Muze」によって人工知能によるデザインの試みが行われている。
  • ※13 世界に存在するイメージの集合全体をAとする。イメージの集合の元 A_mに関連する言語表現の集合をL(A)_mとしよう。かなり大雑把に言えば、バルトの研究はA_mとL(A)_mの関係をL(A)の集合間の関連性から評価することといえる。ビッグデータによって巨大な数の画像ファイルとそれに関連する言語表現を特定の自然言語処理などで評価すれば、バルトの研究の続編が可能になると考えている。共同で研究をできる方を募集中。
  • 村上春樹『1Q84 BOOK 2』(2009)