テクストへの意志
何かについて語るとき、まず、それが何なのか、何を指し示しているのかについて、よく考えなければならない。たとえ発音や文字の羅列が同一であったとしても、それが意味するものは必ずしも同一ではないし、誰しもが同一の意味を展開し、受け取れるわけでもない。
私はデザインを生業としてはいるものの、文章を書くことに関しては全くの素人である。私はスコラ学的にありとあらゆる文献を参照できるほどの知識を持ち合わせているわけではないし、世界の仕組みを解き明かしたわけでもない。それでもなお、言葉を発し活字にするということがタイポグラフィについて語るということであり、タイポグラフィという行為そのものでもあるのだろうと私は観念し、この、文章についての文章、すなわちテクストを書くに至っている。
意味と言葉
デザイナーの私にとって、デザインという言葉と同程度、もしくはそれ以上に、タイポグラフィという言葉は重要な意味合いを持っている。一部の人々には聞き慣れた言葉かもしれないが、日々の生活のなかで耳にするような一般的な言葉ではないし、それについて知らなくても、おそらく生きていくことは出来るだろう。
しかし、人々が生活する大抵の空間 —— 文化的に構築された空間において、その影響が少ないわけではない。平たく言えば、言葉や文字を用いずに出来上がった文化というものは、長い歴史を見渡してもほとんど存在しない。私は言葉や文字のような記号を用いたもの、そしてその延長にあるものはすべてタイポグラフィの範疇として捉えている。
拡大解釈しすぎだと言われればそうかもしれないが、私にとってはこの漠然とした解釈こそが、タイポグラフィの理解を容易にし、なにより実践での展開をより有機的なものにしてくれるのだ。
とはいえ、これまでタイポグラフィがどう解釈されてきたか、見て見ぬ振りするわけにもいかない。私の知る限り、この言葉の解釈に関しては、河野三男氏の『タイポグラフィの領域』に最も良くまとめられている。そこで氏は最初にこう綴っている。
本書はタイポグラフィとは何であったのか、何であるのか、そして何であり得るのかについてこだわり続けて、その言葉の意味を追い求めたレポートです。私自身の書物制作の体験や読書経験という小さな窓を通して、一つの外来語の変質の歴史を調べ、その言葉に通底する漠然とした観念を、何とか自国の言葉でわかりやすく把握しようと試みたものです。その方法は限りなく多くの解釈を収集し、その有効と思える部分を抽出し、場合によっては翻訳して、それに私見をくわえて一定の結論を導き出したものです。河野三男『タイポグラフィの領域』
20年ほど前の1996年に出版されたこの書物は、今でもその輝きを失っていない。むしろ、あらゆる言葉が浮遊し氾濫する今こそ、焦点を当てられるものだろう。このレポートではタイポグラフィを「書体による再現法」と結論づけ、それと同時に「〈タイポグラフィという言葉の領域〉つまり基本概念の設定を地道な実践の中でさらに模索し、その真髄を追求する必要があるのです」と締めている。かつての私はこの言葉に触発され、今でもタイポグラフィの銀河系の中に閉じ込められている。
タイポ/グラフィ
typography という語は、typo と graphy※1 に分解される。かつての type とは金属活字を指す言葉であったが、金属活字が使われなくなり電子活字が一般化した今日において、その解釈は妥当であるだろうか。
マーシャル・マクルーハンが言うように、電気回路技術は私たちを変えた。私たちは電子メディアを扱うとき、物質的な側面以上に、観念的な側面を強調するようになった。type は金属活字である以前に、型・形式・様式といったような意味合いを持っており、type がもつ観念は活字であることを越えて、あるいは遡って、ただの「型」となった。対して graphy は今でもよく使われるように、描く方法・形式・画法・書式・写法・記録法というような意味合いをもつ。
先に示した解釈で graphy が「再現法」とされているのは、タイポグラフィを行うのはあくまでも活字を用いて組版をする第三者のことであり、テクストの書き手はそこには含まれないという理由からであった。しかし、type の領域を活字から「型」へ、物理的制限から解き放つことによって、テクストの書き手もまたタイポグラファ(言葉の組み手)と認識される。
近代のタイポグラフィの系譜に見られる詩人、ステファヌ・マラルメや北園克衛もその好例であろう。彼らの行為は、再現だろうか、それとも表現だろうか。「世界は一冊の書物に至るために作られている」とマラルメが言うように、重要なのはそのどちらでもなく、テクストを「形成」する行為それ自体のように思える。
これらを総括すると、現代におけるタイポグラフィとは「型による形成法」と書き換えることができる。ここで「形成」するものは、フェルディナン・ド・ソシュールの言うところのシニフィエ(意味されるもの)であり、「型」というのはシニフィアン(意味するもの)である。シニフィエはイメージや概念、シニフィアンは文字や音声すべてを含んでいる。これらが表裏一体となったシーニュ(記号)の考え方の実践形こそが、来るべきタイポグラフィの姿なのかもしれない。
書くということ/読むということ
文字を書くことが発明されるまで、人間は無限の、方向もなく、水平線もない聴覚の世界、心の暗やみ、情動の世界の中に、原始的直感と恐怖をもって、生きていた。話し言葉はこの泥沼の社会的地図なのである。ところが、鷲ペン※2 が話し言葉の役割に終止符を打った。それは神話を破壊して、建築物と町を作り、道路、軍隊、官僚制をもたらした。鷲ペンは、文明のサイクルが始まったことを示す基本的な隠喩であり、精神の暗やみから光の中へ登って行く階段であった。羊皮紙のページを埋めた手が町を作ったのである。マーシャル・マクルーハン『メディアはマッサージである』
マクルーハンが『メディアはマッサージである』で示す、文明の変革についてのこの一節は、今、タイポグラフィの行為としてのテクストを書く私にとって、非常に重要な示唆があるように思う。
また、これと同様に私に示唆を与えるのは、ロラン・バルトの「意味の調理場」の冒頭である。
衣服、自動車、出来あいの料理、身ぶり、映画、音楽、広告の映像、家具、新聞の見出し、これらは見たところきわめて雑多な対象である。 そこには何か共通するものがあるだろうか? だが少なくとも、つぎの点は共通である。すなわち、いずれも記号であるということ。街なかを —— 世間を —— 動きまわっていて、これらの対象に出会うと、私はそのどれに対しても、なんなら自分でも気がつかないうちに、ある一つの同じ活動をおこなう。それは、ある種の読みという活動である。現代の人間、都市の人間は、読むことで時間を過ごしているのだ。ロラン・バルト『記号学の冒険』
書くということが文明をつくり、読むということが私を私たらしめている。これらの活動は、先に挙げたタイポグラフィという行為と切り離すことは出来ない。
先ほどは例に習って「型による形成法」としたが、もう少し踏み込んだ書き方をするのであれば、タイポグラフィとは「記号による(文明の)形成法」であると言える。
生の方法
私が生まれたとき、既にそこに字はあり、紙もあり、広告も、建築物も、映画も、音楽も、コンピュータもあった。今日、身の回りにある記号をすべて、自分自身で一から作ることは到底できないが、それらについて読むことは出来る。出来るというよりも、読まずにはいられなくなってしまっている。
もはや、私たちは読み手であるのか書き手であるのかすら曖昧な、記号に溢れた世界を生きている。それらの作用に思いを馳せながら、私はどのように立ち振る舞うべきなのだろうか。
今日も私は、タイポグラフィを、デザインを、している。テクストを、書いている。私にとってタイポグラフィとは、知らない世界を読む方法であり、また、知らない世界を形成するための方法である。知る必要のない、決して知ることのできない世界について、知ろうとするための方法である。今日、私は、そしてあなたは、何を読み、何を書いているのだろうか。