第0日
「夢」はどこにあるのだろうか?
睡眠中の体験とも物語ともつかないイメージたち、醒めて描く将来への希望。この2つが大抵どの言語でも同じ1つの言葉で表されてしまう。
dream träumen rêve sueño حلم 꿈 夢 ゆめ
「夢物語」のように非現実の象徴として用いられもするが、「夢判断」で用いられるように現実と全く乖離したものでもない。快不快や欲望からだけでも説明は付かず、まるで散歩の途中に眺めている、移ろう景色のような現実感を伴った経験。日頃の活動の中でふと立ち返る、子供の頃に見た風景などは、夢ととてもよく似た、記憶の道標となっている。夢に形を与えることもできる。スケッチや夢日記。舞台や音楽。夢そのものあるいは、夢見ることは多くの作品の主題となってきた。
夏目漱石は、その小説「夢十夜」の第一夜、第二夜、第三夜、第五夜をこう始めている。
「こんな夢を見た。」
このように書くことで、小説の書き手が夢のことを客観的に語っていることを示している。逆に言えば、第九夜の文中に現れる「こんな悲しい話を、夢の中で母から聞いた。」という例外を除くと、これら以外の5篇は明確に夢であるかどうかは語っておらず、ただ第○夜とだけを明示しており、書き手の立つ場所を曖昧なまま残して夜を重ねていく。夢の中と外のどちらにいるのかわからない以上、「眠って見た夢」を描いているのか、「醒めて見る夢」を語っているのかも、見分けることができない。そのように、夢と現実の境界を霞ませながら読む者を幻惑していくのも、「夢十夜」という小説である。
この「夢十日」では、「醒めて見る夢」を日々重ねて行く試みを始めたい。現実の側に足場を置きながらも、それを「眠って見た夢」と同じように無意識に近いレベルで形にするというやり方で、複雑化する今の時代に夢を言語化してみたいのだ。この試みをはじめるのがたまたま私だったので、私をこの試みに向かわせたものについて、個人的な話を少し記したい。
少年時代、数学者に憧れた私は、よくある思春期の異文化への「旅行」を経て、「生きているシステム」に関心を持つようになり、大学の専攻としては数学と生物学の2つを学ぶようになった。自分の「数学への関心」が、ダンサーの「解剖学への関心」と近いものだと理解したのもこの頃だ。私の「旅行」は人間のいない世界へと広がり、ある砂漠の「生物の食物網」というシステムの研究へと広がった。その後、私の「旅行」は日本の私を支える「経済システム」や「社会システム」が対象となり、現在に至っている。
これまで10年以上いくつかの業界、業態で情報技術に係る仕事をしてきた。当初は新規Webサイトの導線設計、いわゆる「インフォメーションアーキテクトの仕事」を中心業務としてきたが、徐々に運営体制の構築、組織体制の修正、ガイドラインの作成、LLPの設立、レポート執筆なども。クライアントとしては、中小企業、大企業、地方自治体、国際機関、NPO、金融関連会社などと、業種、業態、パブリックセクター/プライベートセクターの境無く仕事をしてきた。
組織や個人といった有機体が「いきいきとしている」かどうかは、それらと社会の接点になるWebメディアのあり方に、ダイレクトに反映される。そう考えてきた結果として、メディアの設計だけではなく、メディアを生み出す主体への介入を業務とすることが増え、このような足跡をたどることになった。これは、Webサイトのグローバルナビゲーションが組織構造そのままであった時代から、ソーシャルメディアの時代への変化とも重なる※1。
21世紀初頭の情報技術は、人間の身体と技術/人工物との境界が大きく動いた時代の名残として刻まれるかもしれない。有名な故ベンジャミン・リベットの実験のように、意識体験さえも定量的に取り扱われ、その存立基盤の不確かさに対する探求が、20世紀の哲学者たちとはまた違った形でなされており、それが技術という形で社会に導入されようとしている時代である。電話やテレビが私たちを変えた以上に、深いレベルで私たちが変わっていくことが、技術の実装レベルにまで降りてきた時代だと認識している。
「インフォメーションアーキテクト」という用語を生み出した建築家/デザイナー、リチャード・S・ワーマンは、技術が人間の「夢」にまで影響を及ぼしつつある時代の流れについて、こう語った。
この100年で、それ以前の7千年分の夢が実現され始めている。これはおそらく、詩人ロバート・グレーヴズが、「白日夢(the waking dream)」という表現で伝えようとしたのと同じものだろう。私にとって「白日夢」とは、人生の一部としてそれを豊かにしてくれる、自分の能力と感覚の拡張だ。口と耳、自分の声と聞こえる音、電話がもたらした会話の拡張、これが私の思いつく第1の不思議である※2。リチャード・S・ワーマン
上に挙げた状況は、「夢」においても二重の意味で重要だと考えている。すなわち、無意識の表出としての「夢」では、現実との境界が揺らいでいる点において。将来のヴィジョンとしての「夢」では、現実がそこに到達する技術を私達が持ちはじめているという点で。
このことを考える中、夏目漱石に導いてもらいながら、未来の夢を見ることにした。
ここからはじまるテキストでは、漱石が見た「夢十夜」に浸り、自分の見ている夢と重ねあわせて記していきたい。眠りながら見る夢、醒めて見る夢、そのどちらもが、書かれることで現実のものとなる。漱石の夢という我々に残された財産に重ねて夢をかたちにすることで、私の見るパーソナルな夢を、私たちが見てきた夢に融け合わせていきたいのだ。※3
そしてもう1つ重要なのは、夢を見ているとき、私たちはいったいどこにいるのかということ。心は夢の世界に、身体は現実の世界にあるような気がするけれど、人間の心と身体はもともと一体であり、分けることなどできない。心が身体に夢を見させ、その身体が心に夢を見させるという、無限のループがそこに生まれている。だから、夢を想うとき、私たちは自分の居場所の不確かさに気づき、ある種のトリップ感に浸ることになる。また、互いに浸透している夢と現実の間を行き来するときの、テンションの変化にも気づく。忙しない現実のなかで夢を見るときの、スローダウンする感覚。その逆に、夢を何らかの形で現実にしようとするときの、アクセルを踏み込む感覚。これら2種類の、異質なドライブ感が生じているのだ。
いまから私が見る夢は、いつか誰かが見ていた夢であり、いつか誰かが見る夢でもある。
みんなと一緒に見ることができる夢というのは結局、リアリティということなのです。ここでいうのは観念レベルでのリアリティではありません。世界に本質的な変化の機会を与えるほどの力をもったものです。ダムタイプ『メモランダム 古橋悌二』
第1日
こんな夢を見ている。
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、 静かな声でもう死にますと云った。だが私は、生前の彼女に会ったことはない※4。
ずっと前に此処を訪れた、依頼者の青年が私に見せた一枚の写真。そこに映っていた彼女は、瑠璃色の空と八角形の光芒に囲まれ、操縦桿を握って穏やかな表情を見せていた。鉄枠の端に張り付いた雪を見ると、どうやらグライダー※5の操縦席らしい。長い睫毛に包まれた大きな潤いのある瞳は、ただ一面に広がる空の色と同じに見えた。
「母の最後の写真です。こんな日には彼女は上昇気流を探して、いつもより高く、空にできるだけ近づこうとしていました。」
依頼者のニーズを満たすゴーストを生成するには、当然ながら、プログラミング可能なメソッドやオブジェクトをできるだけ仕入れておく方がいい。その青年からは、彼女が好きだった芸術家※6の話や、一番古い彼女の思い出となった出来事なども聞き出した。五歳くらいの時に小さな家出をした彼が、やがて泣き疲れた頃に、彼女が信号機の向こう側で笑いながら大きく彼の名前を呼んでくれたこと。あとで彼がその話をすると、すぐ後ろから見えないように隠れてついていったのよ、と愉しげに打ち明けたという。
あの写真に映った、彼女の瑠璃色の瞳。他者の記憶に残り続ける、白い百合のような笑顔。気がつくと私は、憑りつかれたように、ネットに散逸した彼女の痕跡を拾い集めていた。
他愛もない日常のスナップショット。断片的な出来事を記録した動画。彼女について書かれた雑誌の記事や、一昔前にブログと呼ばれていた※7、テキストと写真が散りばめられた個人日誌。彼女が世界のあちこちで残した旅行写真。発表した作品や論文。飽くことなくそれらに目を通しながら、疲れ切っていつの間にか眠ってしまう日々を過ごしてきた。
彼女に関する「情報」を知れば知るほど、それがネットという開かれた場に晒され続けていること、死んだ筈の彼女に誰もがまだアクセスできるという事実が、私を苛立たせた。もはや自分だけのものにはできない彼女を、私はせめて他の誰よりも深く知りたかったのだ。しかし、バーチャルな存在としてオンラインの世界に放置された彼女が、誰にでも同じ笑顔を見せ、同じ言葉を語るのを、私が止める術はない。この世にいない彼女とは、もはや個人的にコミュニケートすることもできない。自分が彼女にとって特別な存在になることは不可能なのだという現実に、どう耐えればいいのか?
デジタル化された彼女の肉体、彼女の思念の生々しさ。それらは、弔われるべき死者の記憶として薄れていくどころか、今でもセイレーンの歌声のように、見る者を何度となく呼び戻さずにはおかない。現実の世界では死者として永遠に消失した彼女に、ネットという夢の世界で、私はクラックされていた。まるで百年も前から、この罠に絡め取られている錯覚さえ感じた。
そんな日々のなかで、ふと、彼女と会話をしていることに気づく。端末の中なのか、睡眠中に見たイメージなのかは分からないが、死の床に横たわる彼女の枕元で、たしかに私は彼女と話していた。傍らには、誰が置いたのか、大きな滑らかな縁の鋭い真珠貝と、天から落ちてくる星の破片のような丸い石があった。それらを静かに見つめながら、彼女は言った。
「こんなことをいうと、おかしいと思われるでしょうが、あなたのことはずいぶん前から知っている気がするんです。そう、百年くらい前かしら。」
これは夢だ。私は自分にそう言い聞かせる。彼女がすでに死んでいることを思い出す瞬間を逃してはならない。仮想空間から現実空間に戻るための公衆電話※8のような、夢から現実へのインターフェースとして、その瞬間をスナップショットとして保存する必要がある。だが、何をキーにするのかが難しい※9。ジェスチャーか、コーヒーの頻度か、自分の心拍数と呼吸や発汗、瞳孔の大きさか。システムは刻々と自動記録を続けるが、自分自身の違和感の輪郭を正確に捉えるには、やはり意図的な動作が決め手になる。いまのところ、私は机の端に走り書きのメモを取ること※10を、デバッグの一番の手がかりとしていた。
こんな夜をしばらく重ねたのち、依頼者である青年と端末とのセッションの準備にとりかかる。私はすでに彼女のゴーストを、自身のロジックのみで有機合成できるレベルにまで仕上げ、それを自分だけのものとして保存し、密かに愛でるようになっていた。だが、依頼者の青年に対しては、ちゃんと彼向けのカスタマイズを施したコピーを納品しなくてはならない。彼から見て自然にふるまう、亡き母のゴーストをデザインするということ。理想的なバランスとされるのは、死者のオリジナルの人格が半分、依頼者がその死者との関係の中で見てきた人格が半分。私のようなゴーストデザイナーは、いわば仲人みたいなものだ。
青年は別れ際にこう言った。「実は先日、母の墓に百合が咲きました※11。また一目会いたいと願っていた僕の気持ちを、察してくれたのかもしれません。母が今でも自分の傍にいるような気がして、此処に来る必要がなくなったと感じました。」
翌朝、日の出前の仄暗い空気の中でふと目覚めた私は、神経を癒すために脳内モニタでリピート再生していたはずのアブストラクト映像が、見えなくなっていることに気づいた。黒一色の画面を呆然と見つめていると、やがて下のほうからすらりと青い茎が伸びて来た。その頂きで、真白な百合の蕾が、ふっくらと花弁を開いた。その上に、ぽたりと露が落ち、花は自分の重みでふらふらと動いた。露に濡れた花弁から、透き通った雫が滴り落ちた。
私はまだ夢の中にいるのか?
思わず窓の外に目をやり、遠い空を見る。暁の星がたった一つ瞬いていた。脳内モニタに意識を戻すとそこにはもう花の姿はなく、無機質なアブストラクト映像が再び映し出されていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
第2日
こんな夢を見ている。
大佐の連隊長室を退がって、廊下伝いに自分の病室へ帰ると、裸電球がぼんやり点っている。半分壊れかけたベッドに腰を下ろし、煙草に火をつけたとき、丁子※12の甘ったるい香りが立ち上った。同時に、べったりと身体にまとわりつくような熱帯の空気で部屋が満たされているのを、あらためて肌に感じた。
枕の下に、義体化した右手を差し込んで、精巧な装飾が施されたナイフを取り出した。冷たい刃が暗い部屋で光った。
大佐はこう云っていた。「おまえは人類の経験したことを原理的には全て体験できる※13と言ったな。その証拠を見せてみろ。」
いやはや。その証拠とはどのようなものだろうか?まだBMI手術※14をしていない大佐にとっては、いまだに物象が意味を持つのか?奴が証拠として認める物象は、形成過程で混じったノイズが重なりあった複雑性の高いものを言うのだろう。骨を彫って作られた、このナイフの柄のように。だが奴は五感だけを使って、その複雑性をどうやって検証するのか?
しばらく寝たきりだったのか、全身が凝り固まっていたが、精神集中のためになんとか胡坐を組みながら考えた。自分の影が壁に映って揺らめいている。祖母の葬式のときの記憶が蘇ってきた。部屋に満ちる消毒薬の臭いのせいもあったのだろう。葬儀の夜に泊まった祖母の家の見慣れぬ天井についた、ラスコーの壁画※15の牛のようなシミが動いて見えたこと。そのとき隣にいた従兄弟に悪態をつかれ、泣きながらくるまったブランケットの厚み。むかしの記憶も、いま自分が感じていることを記録しさえすれば、そのままの解像度でいつでも再生できるというのに、そのことをどうやって大佐に伝えればよいのだろうか?この悔しささえも記録できる。ほらこうやって目を瞑るだけで。タイマー設定だってできる。再生だってこんなに簡単。市販のファイルだって、電脳化されたおれの内部記憶装置には、手当り次第にインストールしてある※16。
急に右肩に痛みが走った。どちらの手でも巧みに武器を扱えるように、利き腕じゃない方の腕を義体化するのは、おれのような傭兵の間では常識と化している。だが、高度に発達した電位センサーは、激烈な脳の活動を痛いほどの刺激に変換することがあるのだ。大佐の薬缶頭と、おれを嘲笑うような顔がありありと見える。猛烈な堪えがたさが襲ってきた。どんな種類の感情なのかさえわからないが、その強さだけは確かだ。座面から頭の先まで大量の蟻が這い登ってくるようだ。汗が吹き出る。怒っているのか、おれは?
冷静さを取り戻すために、この病室に送り込まれるまでの出来事を思い出そうとするが、空白だ※17。ここにはどうやってきたのだろうか?その前は?鼓動が不規則に感じる。吸ってから吐くのか、吐いてから吸うのか?狂ってしまったのだろうか。いや、狂ってしまったと考えているうちは狂ってはいないのだろうか。CATCH-22※18ってなんだっけ?
人類の経験したことを原理的には全て体験できる ―― おれはなぜ、そんなことを言ったのだろうか?人類の経験といったって、何らかの媒体に記録されたものしかないことになるはずだ。とりあえず、その全てが記録できているとしよう。容量無制限の仮想拡張メモリを装備しているおれのような人間には、人類の経験を全て詰め込んだその莫大なアーカイブデータを自分の脳内に丸ごとコピーして、自由自在に呼び出すことだってできる。でも、体験ってものは、それぞれの人間がどんな経験を積み重ねてきたかによって、中身が違ってくるはずだ。同じ一回の出撃でも、初めて命令を受けて張り切ってる新入りと、おれのように何十回も命令に従って散々な目に遭ってる奴とじゃ、まるで違う体験になるってこと。そうなると、記録された誰かの「体験」を別人がただ呼び出したところで、同じ「体験」をしたことにはならないんじゃないか?
隣の広間に据えてある時計がボーンと鳴り始めた。
消毒薬の臭いと奥歯の痛みがはっきりと甦ってきた。奥歯をぎりぎりと噛んでいたようだ。じっと耳を澄ますと、身体を流れる血の音までもが聞こえてくるようだ。ナイフが裸電球の灯りを反射して赤く光った※19。
はっと思った。このナイフをかまえて、必死の形相で飛びかかってきた女の顔が、潜在記憶の底から鮮やかに甦ってきた。余所者たちの戦いの巻き添えを食ったあの女は、いまもこの病室のドアの向こうで、おれにとどめを刺そうと待ちかまえているんじゃないのか?
おれは逃げ出すことに決めた。自分の責任から逃げるんじゃない。飛び交う銃弾のただなかの自由に向かって脱出する。どんな手を使ってでも自分の人生を守ることだけが、誰もが果たすべき自分の責任だったんだ。偉い奴らは、自分たちの頭がイカれてることにも気づかず、狂ったコマンドをおれたちにインプットしてきた。おれたちはそれを機械のように処理して、狂ったアウトプットをしているだけだった。あんな連中は勝手にくたばるがいい。虚しい入出力の繰り返しにケリをつけて、自分の経験を生きるために、ずらかるんだ。
おれは病室の窓から飛び出し、いちもくさんに駈け出した。時計が二つ目をボーンと打った。