1 非人間のエージェンシーをめぐる作家と演出家の対話
作家・五木寛之は、あるエッセイ集の中で、ロシアで活躍したユダヤ系の演出家ユーリー・リュビーモフ(1917-2014)との対話を回想している。リュビーモフが来日して、東京で『ハムレット』を上演し、五木はその斬新な演出にショックを受けた。芝居の終わった後に、舞台の端に腰かけて短い時間対談を行った時に五木が呟いた言葉を、リュビーモフは鋭く聞きつけたという。詰問するような口調で、「五木さん、あなたは人間も蟻も豚もみんな同じようなものだ、と考えているのですか」と問い返してきたので、一瞬ギョッとしたと五木は述べている※1。
しかし、考えてみると、人間の生命というものと、蟻の生命と豚の生命、その間に優劣の差なんかはない。どこか心のなかでそう思っていたので、私は頷いて言いました。
「人間も蟻も、一個の生命という意味では同じだと思います」
するとかれはものすごくあきれ果てた表情で、「人間と蟻とは違います」
と言い、その後、話はなかなか発展しませんでした。
私たちが「山川草木悉皆仏性」と感じ、野も山も、あるいは森も川もすべてに命がある、水にも命がある、虫にも命があると考えることは、彼にとってはいわば大変前近代的な考えと思えたのでしょう。
五木寛之『生かされる命をみつめて《見えない風》編※2』
五木は、アリやブタの生命に対する自分の考え方が前近代的な古臭い考え方だと思われたことに忸怩たる思いを抱いたようである。エッセイの中では彼はそこから逆に、今こそこうした考え方が意味を持つはずだと切り返している。
五木は、生命学、分子生物学の研究者と話している時に、木の葉にも、虫にも、人間にもすべてのものに生命があり、生命という意味において平等であるという考え方は、DNAあるいは遺伝子とかゲノムという考え方においては常識だと言われたことを思い出している。続いて、「そんなことは、じつは科学の応援を待つことなく、私たちが何千年も前から感じていたことではなかったのか※3」と自問する。人間と同様に、アリにもブタにも生命があって、その間に優劣の差などないということは、日本人にとっては、今さらとりたてて言うまでもないことだったことに五木は気づく。
ところで、2000年代に入って、人類学では「マルチスピーシーズ民族誌」という研究ジャンルが登場し、その後2010年代になると盛んに研究が行われるようになってきている。自らの歴史と政治を持つ生ある存在としてスピーシーズ(種)たちが、人類学の文献の中に登場し始めたのである。こうした新たな研究展開を眺めながらティム・インゴルドは、五木と同じように、そんなことは今さらとりたてて言うことでもあるまいと、マルチスピーシーズ民族誌に批判的である。
物質文化の理論家たちには長らく無視されてきたのだけれども、もう何世代にもわたって、狩猟民や農耕民、牧畜民の文献のページの中には、「間違ったたぐいの非人間たち」が大股で歩き続けてきたのだと述べて、マルチスピーシーズ民族誌は時代錯誤的だと、インゴルドは主張する※4。インゴルドの批判は、リュビーモフの詰問に違和感を抱いた五木の側に立てば、正しいことなのかもしれない。
そうだとすれば、インゴルドが言うように、古典的な民族誌の中には人間のように振る舞う生きものがさんざん語られてきたことに対して、あえて今、非人間たち、多種を取り上げて語り出さねばならないのはなぜなのだろうかという点が問われなければならないことになる。五木が感じたように、人間とアリとブタは同様の存在だと見ないようなリュビーモフのような西洋の知性に対して、日本人や非西洋の狩猟民、農耕民、牧畜民などに古くからある考えを持ち出して、反論したり対話したりするということではあるまい。
本序論では、本書に掲載されているマルチスピーシーズ人類学者、社会人類学者、環境人文学者(文学研究者、哲学者)へのインタビューに先立って、今世紀になって新たな研究ジャンルとして創発し、近年富みに研究が活発化してきているマルチスピーシーズ民族誌を取り上げて、その誕生や特徴を紹介し、それをより広い「環境人文学(Environmental Humanities)」という、同じように新しく立ち上がってきた学問横断的な領域に結びつけてみることで、本書が扱う学問領域の研究動向と展望を概観してみようと思う。マルチスピーシーズ民族誌の中へ、そして最後に外へ、環境人文学へと出ていくという流れの中に、本書が扱うモア・ザン・ヒューマン(人間以上)という研究領域の全体像を示してみたい。
2 人新世の時代におけるマルチスピーシーズ民族誌
2-1 地球の環境変動に対して及ぼされた人間の力
多種(マルチスピーシーズ)をフィールドワークに基づいて調査研究するマルチスピーシーズ民族誌が現われたのは、21世紀のゼロ年代のことであった※5。それは、2000年に、地球上にこれまで存在した夥しい数の生物種のうち唯一の種としての人間の活動が地質学的な次元で地球に影響を与えていることを示す「人新世(Anthropocene)」というアイデアが示され、その後、その用語に発する問いが、とりわけ欧米で広がりつつあった時期に重なる。
人新世は、「オゾン・ホール」のメカニズムの研究によって一九九五年にノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンが、2000年のメキシコでの「IGBP(地球圏・生物圏国際共同プログラム International Geosphere-Biosphere Programmes)」の会議の中で、従来の地質年代「完新世(Holocene)」に代えて、新しい地質年代として提唱した用語である。それは、高名な科学者の若干軽卒といえなくもない発言※6だったという見方があるが、寺田とナイルズによれば、それ以前の、「GECプログラムズ(地球環境科学における国際共同研究 Global Environmental Change Programme)」と呼ばれる、地球システム科学をめぐる巨大な国際共同研究ネットワークの中で、科学をめぐる政治におけるレトリックの力を意識した発言であった※7。
古環境学では、雪が降り積もって圧縮された「氷床」に様々な降下物や空気がパックされた「氷床コア」を、ボーリングによって取り出すことで、地球環境の調査研究を進めてきた。1990年代になると、過去40万年分の二酸化炭素とメタンの含有量のデータが得られて、10万年単位で地球が「氷期」と「間氷期」を繰り返してきたことが裏付けられるようになった。こうしたことから、地球の温度の経年変化のパターンが解明され、地球上に人間活動が存在しなかった時点での地球の振る舞いが浮かび上がったのである。そのことから逆に、現在の地球がどのように人間活動の影響を受けているのかが明らかにされる道筋が示されるようになった。
かつては、地球の環境変動は、太陽からの放射を外部からの力として形成される「地球システム」だと説明されていた※8。それに対して、1990年代に入ってからの古環境学の研究は、地球の環境変動が、それ以外の要因、すなわち人間の活動によって引き起こされていることを明らかにしたのである。言い換えれば、地球のグローバルな環境変動に対して単一の生物種である人間の活動が「力」を持っているということが、科学的なデータによって示されたのである※9。
人新世という問題提起に対しては、その後、人文学から様々な応答があり、思索が行われ、議論が立ち上がってきている※10。寺田とナイルズはいう。「人文からの視点とは人々の視点であり、人々の多様な世界観の視点である……たしかに、人新世と表現しえる巨大なシステムが地球全体を覆っているかにみえるが、一方で人間の世界においては依然としてさまざまなシステムや世界観が在地には存在する。それらと人新世をどう接続するのかを考えるのは人文に関する学の課題である※11」。寺田らが述べるように、人新世が人間世界の多様な価値観にどう関わるのかというのが、人文学の課題だというのは確かである。
2-2 一種から多種への視点移動
本書で取り上げるマルチスピーシーズ民族誌もまた、人新世が提起した問題意識への応答であったということができる。それは、人間世界の多様な価値観にも関わるが、必ずしもそれだけではない人文学の一分野である人類学からの応答の一つである。
近藤祉秋によれば、「マルチスピーシーズ人類学が生まれてきた背景には「人新世」という時代認識がある」。「人新世の状況を生み出したのが人間例外主義に基づく自然環境の搾取なのだとすれば、人間以外の存在が持つ行為主体性に光を当てて民族誌的記述を進めていくことは、人間例外主義を乗り越えるための手段として構想されうる※12」。人間は、自らが他の生きものに比べて例外的な存在であると自認した上で、自然から奪い取れるものを奪い取り、好き勝手に振る舞ってきた結果として、地球が深く傷つけられてしまったのだとすると、人間以外の存在を行為主体として取り上げて調査研究をすることは、人新世の時代に人間例外主義を乗り越えるための一つの方策になりうるだろうというのだ。
そうした問題意識を持つ研究ジャンルの一つが、マルチスピーシーズ民族誌である。以下では、人新世に触発されたマルチスピーシーズ民族誌研究の幾つかを紹介しよう。
アナ・チンは、人新世が、人類の出現ではなく、資本主義という人間活動の活性化によって始まったという歴史認識自体は、「進歩」の概念に支えられていると見ている。その概念は、私たち人間は将来を見通すことができるのだが、他の生きものは「その日暮らし」で、私たち人間に依存しているという考えに結びつく。「進歩を通じて人間が形成されると想像するかぎり、人間以外の存在は、この仮想の枠組みのなかに押しとどめられたままである※13」。
しかし、その前進する歩みの中から一歩退いてみれば、別の時間パターンが存在することに気づくことになる。「生きるものはそれぞれ、季節ごとの成長、繁殖、地理的移動を通じて、世界を作りなおしている。いかなる種であっても、複数の時間制作プロジェクトが存在し、生物がたがいに協力しあい、協働して景観を作っている※14」。こう述べてチンは、人新世の「人類」の持つ陰の部分、すなわち人間と人間以外の存在による、マルチスピーシーズが営む「世界制作」に踏み込んでいくことを提唱している※15。「ほかの種の生活に覆いかぶさって拡大していこうとする生き方に魅了され、研究者は、ほかになにがおこっているのかを問うことを怠ってきた※16」のであり、進歩する人類という前提から視点移動して、多種が営む世界制作に目を向けることによって、私たちの惑星が変化してきたことに気づくべきだという。
」のであり、進歩する人類という前提から視点移動して、多種が営む世界制作に目を向けることによって、私たちの惑星が変化してきたことに気づくべきだという。
ホアグ、ベルトーニとブバントは、人間の活動によって大きく攪乱された「人新世的な廃墟」であり、現在は自然・文化遺産として保護されている、デンマークの廃棄物処理・リサイクル施設で近年、人間以外の生物が予想外に増えていることに注目している。彼らは、人間中心主義的に組み立てられていた従来の「ドメスティケーション」論を斥けて、マルチスピーシーズ民族誌の中に「荒れ地の政治生態学」を描き出そうとしている。そこでは、人間によるプロジェクトが、「人間以上」の生命によって再構成されるとともに、種、政治、資源、技術が新たに組み直されていく。ホアグらは「非ドメスティケーション」と呼ぶプロセスによって、特定の種が生き残り、他の種が消えていくという人新世以後の生命の世界に目を向けている※17。
テイラーとパッシニ=ケッチャバウは、人新世の物語は概して、私たち人間に見える範囲での生きものを取り上げる傾向にあるという。それに対して、「微生物存在論」は、ミミズやアリたちが生きる地下世界における強力なエージェンシー(行為主体性)とその重要性を考える上で役立つという。人間は自分たちと同じような大きさの動物には関心を向けるが、微生物への関心を抱くことは少ない。地下世界では、何兆匹ものミミズやアリが、私たち人間が地表で行い、目撃しているショーを演出してくれている。つまり、微生物やバクテリアの舞台裏での代謝が、地上という表舞台での生や活動を可能にする条件を創り出している。人新世の多くの物語は、人間例外主義を繰り返し強調する傾向にあるが、人間の生は、ミミズやアリや微生物のような、小さくて見過ごされたり、目に見えないほど小さい生物に依存しているという事実を軽視すべきではないと、テイラーらはいう※18。
今しがた見たように、チンは、人新世を支えている人類の進歩思想から一歩引いて、多種が絡まり合いながら生み出している世界制作に目を向け、ホアグらは、人新世的な廃墟で新たな世界が、人間を超えた存在によって再編成される過程に注目し、テイラーらは、人新世では人間と同じ大きさの生きものにしか目が向けられないが、人間に見えないところで微生物やバクテリアなどの代謝活動が人間の生を可能にする条件を創造する過程に着目する。
これらのマルチスピーシーズ民族誌に共通するのは、人新世によってフォーカスされた人間という「単一の生物種」ではなく、人間以外の「複数の生物種」が協同して世界を作り上げたり、自律的に相互に関係を結んで世界を再編したり、人間の生を可能にする条件に目を向けることによって、人間と人間以外の生物種が生み出す世界を描き出し、考察検討しようとする態度である。マルチスピーシーズ民族誌は、科学技術や政治経済体制が地球の隅々を覆い尽くす中で、その活動が破壊的な力を持つとされる、人間という単一種から、動植物や微生物といった生物種が、人間の支配や制御のもとで、あるいはそれらから逃れて、行為主体として、多種の絡まり合いの中で生存と繁栄を築いてきたことへと視点を移動させたのである。
2-3 マルチスピーシーズ民族誌の誕生の背景
オーストラリアの環境哲学・エコフェミニズム研究者ヴァル・プラムウッドは、心を持った非人間について書くことの大切さを訴えている※19。「作家とは、私たちに別の考え方をさせてくれる最も優れた存在のうちの一つ」であり、「私たちは、力強く、行為主体的で、創造的なものとしての自然の経験にオープンになり、私たちの文化の中に生き生きとした感性と語彙のためのスペースを作ることが重要なのです」。このプラムウッドの提言に触発されて、人類学者デボラ・バード・ローズは、人新世という環境変動が問題とされている時代に書くことの役割を強く意識しながら、「私たちの文化を揺さぶり、世界やその内側での私たちの居場所についての新たな、かつより生き生きとした理解と、私たちを多種の共同体(multispecies communities)に結びつける状況的なつながりへと私たちを目覚めさせることができる種類の文」を書かねばらないのだと宣言している※20。つまり、人新世の時代に、人類を「多種の共同体」に結びつける状況化されたつながりに目を向け、「人新世の時代に書くこと」が目指されなければならないというのだ。
人新世の時代に、「人間」の行動や「人間社会」の動きを探るというのではない。人間と多種とのつながりを見直さなければならない。それが、マルチスピーシーズ民族誌特有の問題意識である。マルチスピーシーズ民族誌はこのようにして、人新世によってもたらされた問題意識に触発されながら、多種をめぐる研究を発動させてきた。しかし、そのことがマルチスピーシーズ民族誌誕生の唯一の背景であったわけではない。その誕生にはより複合的な流れがあった。
山田仁史は、マルチスピーシーズ民族誌の登場には、上述した、人新世の問題提起に対する応答に加えて、さらに二つの背景があったのではないかと推察する※21。その一つは、20世紀後半には「自文化中心主義」に続いて「ヨーロッパ中心主義」の乗り越えが目指されたが、その次に今「人間中心主義」が乗り越えられねばならないとする、私たちの生きている時代の精神である。自文化中心主義は20世紀の「文化相対主義」によって、ヨーロッパ中心主義は「ポストコロニアル思想/理論」によって、その乗り越えが目指されてきた。それに対して、人間中心主義をいかに乗り越えるのかというテーマは、すでに述べたように、マルチスピーシーズ民族誌の発展の大きな駆動力になってきた※22※23※24※25※26。
オグデンらが述べるように、「マルチスピーシーズ民族誌は、非人間の行為主体性への注意によって特徴づけられる。石、植物、鳥、蜂は、世界を変える力を有している※27」。こうした非人間のエージェンシーへの着目は、人間中心主義の乗り越えと表裏の関係にあるのだといえよう。
山田のいうもう一つの背景は、クローンや遺伝子操作による科学技術の進歩によって今日、生命観だけでなく、種そのもののあり方が揺らいでいることである。まとめると、⑴人新世の時代に人間と多種との関係を見直さなければならないとする問題意識、⑵人間中心主義の乗り越え、⑶科学技術の進歩によって種のあり方が揺らいでいること、という三つの流れが、概ねマルチスピーシーズ民族誌の誕生の背景にあったのだといえよう28。マルチスピーシーズ民族誌が生み落とされた背景には、こうした複合的な要因があった。
3 多種の絡まり合い
3-1 人間-動物関係から多種の絡まり合いへ
すでに見たように、マルチスピーシーズ民族誌は、人間という一種から多種へと視点移動した。そこには、人間だけでなく、あらゆる生物種は、他の種や環境から孤立して存在するのではなく、それらとの関係をつうじて生きてきた(いる)とする考えがある。そのアイデアを端的に示すのが、「絡まり合い(entanglement)」という語である。絡まり合いとは、人間と人間以外の多種、あるいは人間を含む多種どうしが働きかけたり働きかけられたりして、特定の関係性が継続したり断続したり途切れたりしながら生み出される現象のことである※29※30※31※32。
マルチスピーシーズ民族誌では、人間と他の一種が絡まり合う場合もあるが、多種多様な存在の絡まり合いが扱われる傾向にある。人とアリ、人とブタなどの、多くの場合、一対一の「人間-動物」関係から、多種多様な存在の絡まり合いへの関心の移行がなされてきた※33。そうした移行の背景には、生物学や生態学で多種への視点が取り入れられてきたことや、政治哲学において「群れ」や「マルチチュード」が取り上げられてきたことなどがあるとされる※34。
重要な点は、二者が相互作用するのではなく、多種が絡まり合うさまに注目することで、自然/文化という二元論思考の乗り越えが視野に入っていることにある。メリッサとロビンソンがいうように、「マルチスピーシーズ民族誌は、人間-動物の相互関係の「人間」の側面から個の強調を移し、自然/文化の世界を見る伝統的な二項対立的なアプローチを曖昧にしたり、かつ/あるいは排除したりするような関わり方を培う※35」。
これに関連して、人間と動物を主体と客体として素朴に捉えてしまう「人間-動物」の関係研究を、マルチスピーシーズ民族誌の側から突いたのが、マリソル・デ・ラ・カデナである※36。彼女は、後にレーン・ウィラースレフの研究に継承された、インゴルドの「住まうことの視点(dwelling perspective)」を批判的に検討している。民族誌研究において他者あるいは他者の実践を「真剣に受け取る(taking seriously)」とは、「住まう者であるがゆえに建てなければならない」というハイデガーの言葉を引いて、インゴルドが「建築の視点」に対置させた「住まうことの視点」から観察・記述する態度である※37。ウィラースレフは、「住まうことの視点」を用いて、シベリアの狩猟民ユカギールにおける「人間-動物」の関係を詳細に記述検討している※38。デ・ラ・カデナは、インゴルドやウィラースレフが採用する「住まうことの視点」には、主体と客体という二項が前提されていると見る。
デ・ラ・カデナが「住まうことの視点」に対置するのが、ペルーのパクチャンタの村人たちの「アイユ(ayllu)」である。彼らは山々を、感覚を持つ存在である「地のものたち(tirakuna)」と呼ぶ。人々にとって、現代の露天採鉱はたんなる自然破壊ではなく、感覚的存在者である山々と人間、動植物がともに暮らす世界の破壊である。ダイナマイトで岩石を吹き飛ばす現代の鉱山開発によって、山、川、人間、動植物などが暮らす場であるアイユが破壊されてしまう。アイユでは、山、川、作物、種子、羊、アルパカ、ラマ、大地などが常に相互に気づかい合う「アイワイ(uyway)」が日常的に実践されている※39。
インゴルドのいう「住まう」とケチュア語の「アイワイ」は似ていると、デ・ラ・カデナはいう。しかし、彼女によれば、「住まうことの視点」は、「関係に先立って主体と客体が存在する※40」点で不十分である。他方で、「アイワイ」では、多種は、常に相互に気づかい合いながら創発し、生起する。
つまり、アイワイでは、関係が存在のあり方を規定する。そこでは、人間と動物、文化と自然、主体と客体があらかじめ存在するわけではない。人間と動物という二項を設定した研究枠組みでは、主体と客体があらかじめ存在する。そこから踏み込んで、主客が入り乱れる多種の絡まり合いの中で紡ぎ出される関係から存在のあり方を探っていくならば、「人間-動物」の関係という枠組みの中に前提されていた境界線を溶かしていくことができるだろう。
3-2 人間-生成、縁起、動的共同体
絡まり合いとは、主体がいつの間にか客体となり、ふたたび主体になる……という恒久的な生成過程のことである。その意味で、マルチスピーシーズ民族誌は、従前の人間観を刷新しようとしている。固有性・単一性・実体性を有する「人間-存在(human beings)」ではなく、多種や環境と絡まり合いながら、個体としての本性を持つことなく、刹那刹那に生成する「人間-生成(human becoming)」であることが強調される。「マルチスピーシーズ民族誌を方向づける鍵となる問いは、「人間の本質とは何か?」ではなく、「人間生成とは何か?」である※41」。
個体Aと個体Bと個体Cが相互作用し、絡まり合うというのではない。絡まり合うことによって、AなりBなりCなりが生成する。人間、動物、植物、細菌、ウイルスなどは、それぞれが孤立して生じ、死滅するのではなく、食べ食べられ、使役し使役され、影響を与え与えられて、相依相関しながら、流転し続ける世界で絡まり合う。
その意味で、絡まり合いとは、相依相関する「縁起」でもある。縁起とは、仏教用語で「縁って生起すること」を意味する。縁起の哲理は、マルチスピーシーズ民族誌で「関係性」として捉えられうるメカニズムをより細密に理解するための手がかりでもある※42。
このことはまた、「宿主」がいて「共生生物」がいると見るのではなく、生命現象を、ダナ・ハラウェイとともに、多様な結合の仕方の中で、あらゆる個体が互いにとって共生生物でありえるような「動的共生体(holobiant)」として理解することにも重なる※43※44。逆卷しとねが述べるように、「動的共同体とは、行為や関係が生成する前に存在するものではなく、複数種の行為のなかで関係が生成し身体が構造化されていく、内的作用(intra-action)そのものである※45」。
「未分化な細胞が集まった中空の球状コロニーを経由して、単細胞の祖先から動物が進化してきたのだという仮説がある※46」。単細胞生物の中では動物に最も近いとされる、小さな単鞭毛の鞭毛虫である「襟鞭毛虫(Choanoflagellates)」を取り上げてみよう。「襟鞭毛虫は、「襟細胞」あるいはchoancytesと呼ばれる、海綿動物の摂食細胞に似た、単細胞でコロニーを形成する鞭毛虫である※47」。
それは、精子のような形状の鞭毛細胞にアクチンを主成分とする微絨毛からなる襟が付いた生物である。捕食の際に襟の部分に細菌などを付着させる。襟鞭毛虫の中には寄り集まって細胞接着したコロニーを形成するものがいる。コロニーとなって襟鞭毛虫は、各個体の機能を分化させて、まるで一つの生物のように振る舞う※48。
襟鞭毛虫に見られる動的共生体的な生命現象は、「生命とは何であるのか」という問いに本質的に迫る事例である。それは、ハラウェイが述べるような、人類学者マリリン・ストラザーンのいう「部分的なつながり」によって組み立てられている。「お腹を空かせて食事をし、部分的に消化し、部分的に同化し、部分的に変化する※49」ことによって、生命は生存する。
4 マルチスピーシーズ民族誌の射程
4-1 種から生命論へ
種があらかじめ実体的に存在するのではなく、他の種や環境との絡まり合いの中で生成するという考えは、エドゥアルド・コーンの研究と強く共鳴する部分がある。コーンはかつて、人間の特権的な存在論的地位を揺るがせるために、生命を人類学の中で主題化し、「生命が、現在考えられている生物学以上のものであることを認める※50」人類学的な探究のことを「生命の人類学(anthropology of life)」と呼んだ(本書のファインによる「あとがき」も参照のこと)。
コーンが、C・S・パースを援用しながら述べるように、森の中に住まうあらゆる有機体は、「記号過程(semiosis)」の結果としての「記号論的自己」である。記号とは、「何かが誰かにとって何かを表すこと」を指す。最初から自己が安定的・自律的に存在しているのではない。樹上のウーリーモンキーが、ヤシの木が倒れる音を聞いて、その場から飛び退く。ウーリーモンキーは、その記号を解釈し、「思考」していたのである。記号過程の結果として、精神や自己、すなわち記号論的自己が生じる※51。
小枝のような、アマゾニアの巨大な昆虫ナナフシには「ファスミド(幽霊のような)」という学名が付けられている。そのことは、その虫が、周囲に溶け込む幽霊のような存在であることを示している。それは、捕食者に対するナナフシの擬態に他ならない。ナナフシと小枝を混同することがなかった、つまり、ナナフシと小枝の間に「差異」を見つけたトリなどの捕食者は、そのナナフシを食べたはずである。それとは逆に、捕食者がナナフシと小枝の「差異」に気づかなかった場合、ナナフシは捕食されず、生命をつないでいくことができたはずである。コーンが述べるように、小枝と見分けがつかなかったために、食べられることがなかったナナフシの系統が、後世にまで生き残ったのである53。
マルチスピーシーズ民族誌を世に送り出した人類学者の一人であるステファン・ヘルムライヒは、海洋微生物学とその研究者たちを扱った異色の民族誌Alien Ocean(『異海』)の中で、生命現象を探るために深海に潜る海洋微生物学者たちの研究とそれを支えそれに支えられる、医学や産業を抱き込んで展開する現代世界を描き出している※54。海洋微生物学者は、深海の「熱水噴出孔(hydrothermal vents)」に注目する。熱水噴出孔とは、高温の化学物質が地殻から噴出し、太陽光がなくても生きられる様々な生物の栄養源となっている海底の場所のことである。光合成ではなく、他の多くの生物にとって有害な硫化水素やメタンなどの化学物質からエネルギーを得て有機物を生産する化学合成を行う、熱を好む微生物、すなわち超好熱菌が生息していることで知られている※55。
海洋微生物学では、生命は「有機体の境界」から「つながりのネットワーク」へと解き放たれつつある。魚、クラゲ、微生物などが海中に泳いでいるというイメージから、遺伝子のテキストの網に変換されるというパラダイムシフトが進行しており、海洋微生物学者は、遺伝的なプロセスを生態系の網から切り離せないと説明する※56。遺伝子配列によって生物進化の過程を遡っていくと、全生物の系統樹の根元のあたりで、コモノート(共通祖先)としての超好熱菌に辿り着く。今から約40億年前に、熱水噴出孔の周辺で原始の海中で有機物が濃縮・高分子化されて出現した超好熱菌が、地球最初の生命であったとする説が、現在では有力である※57。
マルチスピーシーズ民族誌の先駆となったこれらの諸研究の深くには、「生命とは何か」という問いが潜んでいた。それらは、より包括的な生命論の可能性につながっている。
シュレディンガーは、あらゆる物理現象が乱雑さや無秩序に向かう「正のエントロピー」に抗して、秩序を維持する「負のエントロピー」を増大させることが生命の本質であると捉えたことはよく知られている※58。これに対して、西田幾多郎は、「生命」と題する論文において、「私の所謂主体と環境との矛盾的自己同一的に、時間と空間との矛盾的自己同一的に、全体的一と個物的多との矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する※59」ことが、生命の定義だとしている。
哲学者・池田嘉昭は、シュレディンガーは「正のエントロピー」が「負のエントロピー」という秩序形成に取って代わる点を見ているだけであったのに対して、西田は、そのからくりを「矛盾的自己同一」にあることに気づいたという※60。西田は、それを生命主体と環境との矛盾的自己同一、つまり、「作られたものから作るものへ」と形が形自身を形成する表現作用として理解した上で、環境の中の「正のエントロピー」の逆限定的な「負のエントロピー」と見たのである※61。
こうした問いは、マルチスピーシーズ民族誌という研究の枠組みをすでに踏み越えてしまっているが、多種多様な存在の絡まり合いを主題化する上では手放すことができない重要な課題であろう。なぜならば、マルチスピーシーズ民族誌は、人類学という学問の内側で人間という種だけを探究するのではなく、従来の人類学のそうした構えを崩して、人間を含めた種の問題、すなわち生命一般へと乗り出してきているからである。こうした課題は今後、生物学や物理学とともに、またSTSや哲学やその他の人文諸科学とも連携して挑むべきより大きな課題であろう。
4-2 「多」なるプロジェクト
ところで、大石高典は、日本におけるハチと人間の絡まり合いを考察する論考の中で、生態人類学とマルチスピーシーズ民族誌はどのように違うのかを考察している※62。生態人類学は、狩猟採集、牧畜、農耕、漁撈などの人間の生業活動や資源利用を扱う中で、多種の関係も含めるが、多くの場合、人間と動植物の関係に焦点をあてて、人間の個体や集団が自然環境との間でいかに関係を築いて、生存を可能にしてきたかの解明を目指す。それに対して大石は、主にチンの研究※63を手がかりとして、マルチスピーシーズ民族誌の特徴を探っている。読み取れることの一つは、チンが、世界各地でマツタケが同時多発的に創発する、「種」を越えたつながりを記述していることである。それに加えて大石は、チンの民族誌のもう一つの大きな特徴は、多くの地点をフィールドに調査を行う「マルチサイテッド・アプローチ」を実施していることだと見る。そのことにより、定点的な観察では掬い上げることができない現象を地域相関的に浮かび上がらせているという。
こうした検討を踏まえて大石は、マルチスピーシーズ民族誌を、複数の生物種と複数の場所というつながりの文脈で、これまでの生態・環境に対する経験実証主義的なアプローチを相対化しながら行われる調査研究であると見る。『マツタケ』の邦訳の訳者である赤嶺淳もまた、チンは、複数の場所での調査に加えて、多様なキャリアを持つ複数者の共同研究の重要性も強調していると見ている※64。チン自身は、自らの共同研究を振り返って、「民族誌の特質は、調査協力者とともに状況について考察することにある。研究分野は研究の進展とともに発生してくるのであって、研究に着手する以前から存在しているわけではない※65」)と述べている。この言葉は、マルチスピーシーズ民族誌が、人間を「人間-生成」と捉えるだけでなく、種とその活動を生成論的に捉える方法論と響き合う。「生命が絡まりあう、開かれたアッセンブリッジの様子を描※66」いたり、「協働の過程※67」を重視したりする「複数性」は、マルチスピーシーズ民族誌という研究ジャンルを支える(静的・実体論的ではなく)動的・生成論的な捉え方に密接に結びついている。
『カルチュラル・アンソロポロジー』誌の特集※68で最初にマルチスピーシーズ民族誌を取り上げたのは、バイオアートに関心を抱く人類学者であり、マルチスピーシーズ民族誌をアーティストや生物科学者との協働に開いた「マルチスピーシーズ・サロン(Multispecies Salon)※69」の企画者エベン・カークセイと、海洋微生物と生物学者の調査研究を行った、上述したヘルムライヒであった。その特集では、科学技術の人類学に接続する問題意識のもとに、科学研究や生物保全、公衆衛生、技術開発といった現代的な文脈における人間と自然の関係が扱われた※70。「マルチスピーシーズ・サロン」では、マルチスピーシーズ民族誌家はアーティストと協働して、作品を制作する※71。
第58回ヴェネチア・ビエンナーレの日本館展示「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」でもまた、異なる領域を背景とする専門家たちの「共異体」的な協働作業によって制作が進められる中で、人間と他の生物種や目に見えない存在者たちが集う「共異体」という、マルチスピーシーズ的なアイデアが提示されている※72。国内でのマルチスピーシーズ民族誌をめぐるアート関連の顕著な動きとしては、マルチスピーシーズ民族誌家八名がそれぞれフィールドで出会った多種の絡まり合いをマンガ化する試みに乗り出していることである※73。
このように多種、多数の場所、多数の者、多数な媒体などの「複数性」が、マルチスピーシーズ民族誌に見られる特徴でもある。マルチ(多)であるのは、この研究ジャンルが対象とするスピーシーズ(種)だけではなく、マルチスピーシーズ民族誌が持つ研究活動全般にわたる指針のようなものである。その意味で、マルチスピーシーズ民族誌は、多なる学的領域(人文諸学)の統合に向けて開かれているのだといえよう。
5 モア・ザン・ヒューマンに広がる世界へ
1970年代の環境哲学、1980年代の環境史、1990年代のエコクリティシズム、2010年代の実在論哲学、マルチスピーシーズ民族誌やアートと人類学などの研究に見られるように、20世紀後半から現在にかけて、社会科学を一部含めた人文学の諸領域において、人間の周囲の環境や非人間的存在をめぐって、顕著な研究の進展が見られた。こうした動きは、従来の専門分野の壁を超えた隣接分野との協働というかたちで現れることが多いが、漸次個別に発展した、小さな学際的動きの先に、人文学全体において結わえる大きな領域横断的試みが今日、「環境人文学」として発展してきている※74※75。
魚類が乱獲され、空気が汚染され、海にはプラスチックの浮島があり、人間の消費によって生み出されるゴミの量が年々増加しているといった環境問題を特定し、説明することは科学者が得意とするが、それらの解決は科学者だけではできないし、政治的・文化的な専門知識が必要になるだろう。自給自足のソーラーハウスを建てることはできても、一般消費者がそれを買うとは限らない。エネルギー効率の高い都市の設計はできるが、建設資源を投入し、そこに住むことを人々に納得させることは、科学だけの問題ではなく、より学際的な課題なのである※76。そうした認識が、環境人文学の背景には広がっている。
人新世との関わりでは、人間活動の影響が及んでいない環境はもはやなく、人間から切り離したかたちで環境を論じることは意味をなさないという議論の広がりとともに、環境問題を人間の問題として考える方向性が明確に打ち出されていったとされる※77。環境人文学は、新しい研究対象や手法を提示するものというものではない。20世紀後半以降の小さな学際的動きの中で蓄積されてきた、環境をめぐる人文学的なパースペクティヴが、とりわけ2010年以降に発展してきているのである※78。
マルチスピーシーズ民族誌と環境人文学を跨いで使われる語に「人間以上(more-than-human)」という語がある。「人間以上」の世界とは、「人間の共同体とそれよりも大きな人間以上の世界※79イブラムの用語法としては、それは、物質的であるだけでなく、精神的なものを含めた存在や現象のことを指していた。
チンは、彼女の初期の著作では恥ずかしながら、社会的なことを「人間の歴史と関係がある」ことと定義していたことを吐露している。それに続いて、「今では、それはとても奇妙なことのように思える。社会性の概念は、人間と人間でないものを区別しない。「人間以上の社会性(more-than-human sociality)」は両方を含む※80」と述べている。「人間以上の社会性」という概念は、人間と非人間の両方を含むのである。
チンがそのことに気づくようになったのは、ある菌類学者にインタビューした時からだったという。その研究者に研究内容を尋ねた時、「キノコの社会学(mushroom sociology)」という答えが返ってきた。チンはその後、人間だけでなく、非人間のキノコもまた社会的な存在であると見ることができるようになったという。彼女は、社会生物学者や進化心理学者を慎重に排除しているが、自然の中に社会的なものを見る研究者たちと協働すれば、社会的関係やネットワークをどのように研究するのかをともに考えていくことができるだろうと述べている。今日マルチスピーシーズ民族誌研究の第一人者であるチンにとってさえ、「人間以上の社会性」へと「改心」する契機が必要だったということは、逆に、社会的であることが人間だけに限って語られることが一般には圧倒的に多いという事実を示している。
アスダル、ドルグリトロとヒンクリフもまた、「人間以上」のことを語ることの困難について述べている。「人間は、人間以外の多くの他者との「入り組んだ」事柄や関係で構成されている、つねに「人間以上」の存在であると主張し、「人間以上の条件」に言及する時、私たちは、明らかに哲学思想の鍵となる柱に逆らっている※81」と、彼らはいう。人間が「人間以上」の存在であると主張することは、哲学の主流の考えに逆らうことになる。
アスダルらは、「人間以上の条件」は、特にハンナ・アレントのいう『人間の条件』との間で緊張関係にあると述べている。アレントは、「人間が経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけているからにほかならない※82」と述べ、「言論(スピーチ)の問題が係わっている場合にはいつでも問題は本性上、政治的となる※83と主張する。
アレントは、人間と非人間の動物は話す能力によって区別され、話すことは「人間」を政治的存在にし、それゆえに政治的共同体のメンバーになるための資格になるという。だから、「人間は、動物のように、モノや受動的な自然の対象として扱われるべきではない。たとえ政治的共同体がまだ存在していなくても、人間は、主体として、共有された共同体への潜在的な貢献者として扱われなければならない※84」。話し、政治をする人間は、モノや受動的な自然の対象としての動物とは根源的に違うというのが、哲学の主流なのだ。本稿の冒頭で、人間とアリの違いに関するリュビーモフの堅固な考えに触れたが、それは、彼が頑なだったのではなく、広く西洋社会に根を張った考え方だったのではないだろうか。
ふたたびチンの「改心」に戻ろう。彼女が「人間以上の社会性」によって提起しようとしているのは、生物種が人間と同じように社会的に行動すると自然科学者が捉えていることを、社会科学者・人文学者がどのように捉えればいいのかという問いである。彼女は、地上には人間の手が加えられなかった場所がもはや見当たらないとされる人新世の時代において、私たちは、「人間以上の社会性」について知る必要があるし、逆に、人間以外の存在の人間性(社会性)のことを想像し始めるようになったことを手がかりとして、「人間以上の社会性」がどのようなものであるのか探ってみる必要もあるという。「人間以上の社会性」という概念は今日、広く環境人文学界隈で用いられるようになってきており、「人間以上の社会性」をめぐる問いは、社会科学や人文学、自然科学などの垣根を越えてあたらなければならない課題となったのである。
6 マルチスピーシーズ民族誌から環境人文学へ
マルチスピーシーズ民族誌は、人類学の一つの研究ジャンルとして立ち上がってきたが、他方でそれは人類学の中だけに位置づけられる研究群ではなく、環境をめぐる人文諸科学の統合領域としての「環境人文学」において「マルチスピーシーズ研究」という研究カテゴリーによって浸透し、広がりつつある。マルチスピーシーズ研究を包み込みながら、環境人文学は今いったいどのような研究戦略を立てているのだろうか。
環境人文学の論集『ラウトレッジ 環境人文学の手引き※85』のウルズラ・ハイザによる序論では、六部からなるその本の構成が概説されている。各部のまとめからマルチスピーシーズ研究を含めて、環境人文学が取り組もうとしている研究の広がりが見えてくる。以下では、それらを手短にまとめながら、環境人文学の研究の方向性の一端を示してみたい。
第一に、人新世を「世界的な家畜化のプロセス」と捉える見方に沿って、これまでのところ、人新世は、生態系の黙示録の別名なのか、生態系の新たな可能性なのか、あるいは人間による自然支配の勝利なのかといった議論がなされてきた。そうした議論を超えていくための研究が今、環境人文学ではなされている。
第二に、人新世という概念の登場によって、人間には生態系を変化させる力があることが強調されたが、そのことは、同時期に環境をめぐる人文学の諸研究で発達してきた潮流に反している。ラトゥールのアクターネットワーク理論やオブジェクト指向存在論、マルチスピーシーズ民族誌などは、人間主体の中心性に哲学的・政治的な懐疑を示すポストヒューマニストの思想として広がってきているからである。人間の力を強調する人新世とそれを疑うポストヒューマニティーズという二つのパラダイムの緊張関係の中に登場してきたのが、環境人文学である。
第三に、人間例外主義を疑問視して、人間と非人間の平等を唱えれば、人間だけが環境破壊の責任を負っているとは言いにくくなる。他方で、植民地主義や人種差別、外国人排斥などを人間特有のやり方だとみなせば、その基準に適合しない者たちは人間以外の領域に追いやられかねない。これらの主張が生み出す問題の複雑化を視野に入れながら、種のエージェンシー(行為主体性)を仮定することで、既存の社会経済的な不平等や地球環境変動への不均質な関与などを隠蔽してしまわないように、環境人文学は、ポストヒューマニスト的な問いを、不平等が蔓延する状況にしっかりと位置づけていかなければならないだろう。
第四に、自然の衰退や絶滅、それらとは逆の自然の回復力や改善のナラティヴは、文化史や価値判断を伴う生態学的事実と複雑に絡まり合っている。環境人文学は、言語や地域によって異なる、環境のナラティヴをめぐる複雑な形態および政治的機能の考察と検討に挑むべきである。
第五に、環境ナラティヴは、芸術やメディアなどによって流通する面が少なからずある。環境人文学は、生態学的プロセスや文化的実践に関する新たに接近可能な統計を用いた部厚い記述などによって、たんにデジタル画像や人工物を研究するだけではなく、デジタルツールや手法を従来の人文学的な手続きに統合していく必要がある。
第六に、環境人文学が今後目指すべきなのは、環境変化への適応、生態的な損失の緩和、新しい社会構造への移行などの実践が伴う、学知の外部のパートナーとの協力関係を築くことである。総合的な視点と分析的な視点、建設的な思考と批判的な思考を促すことが、環境人文学にとって今後の大きな課題だろう。
人新世の時代に環境変動に直面している人類は、人間社会特有の諸課題や科学技術の革新状況を踏まえて、常に多くの複雑な問題を抱えている。環境人文学は、人文諸科学の知識やネットワークを活かして、それらの問題の究明と解決に果敢に乗り出そうとしているのだといえよう。マルチスピーシーズ民族誌は今、人類学の中で生み落とされた特性を活かしつつ、その外側にある統合領域である環境人文学へと乗り込みながら、他の人文学の専門領域や実践家たちと協働して、近未来の研究展望を描き始めている。
本書には、マルチスピーシーズ民族誌および環境人文学という、いずれも二一世紀になって発展・拡大してきた研究領域において、過去10年ほどの間に国内外で著しい活動をしてきた九人の研究者に対して、日本国内の研究者および大学院生が行ったインタビューが掲載されている。「第一部 人間と動物、一から多への視点」、「第二部 人間的なるものを超えた人類学の未来」、「第三部 モア・ザン・ヒューマンの人類学から、文学、哲学へ」には、それぞれ三つのインタビューが収められている。加えて、各部の三つのインタビューの後に、総論Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと題して本書の監修者と大学院生が、それぞれの部に関して内容を整理しながら理解を深めるために行われた対談の記録が掲載されている。それらは、インタビュー内容の振り返りと読解として読んでいただきたい。
人間による地球の環境変動が取り沙汰されるようになった今日、人間という単一種から離れて、微生物から昆虫、動植物だけでなく地球外生命にも目を向け、多種の共同体を取り上げてその中に人間を位置づけ直してみることを、民族誌という人類学の強みに拠りながら探っていくのがマルチスピーシーズ民族誌であった。その試みは、人類学という既存の学問の枠だけにもはや収まるものではなくなっている。他方、環境人文学は人間と人間が住まう環境や自然、生物やモノとの関係性を、今日の複雑な政治・経済・社会および科学技術をめぐる文脈の中に位置づけて、既存の人文諸学の垣根を越えて、その近未来的な展望を果敢に切り拓こうとしている。それはマルチスピーシーズ民族誌を含みながら、人新世の時代において今後人文諸学が取り組むべきテーマを明確に示しつつ、諸課題に実質的にあたるための手がかりを与えてくれるだろう。