あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです宮澤賢治「眼にて云ふ」

ネットワークする身体の発生

どちらが最初であったかはわからないが、人間は道具を使い、肉体に衣服をまといはじめたときから、人工的に自然環境へ接続されてきた。そして言語の登場が、この接続のあり方を概念化・分節化し交換すること、つまり世界化することを可能にし、物理的な肉体と相同ではない「身体=意味を胎んだ体」の獲得へと人間を導いた。

身体の起源を端的に述べればこうなるだろう。

人間の存在を物理の層、現象の層に分けてとらえるとき、この二つの層をバインドする情報の層が「身体」である。それは西田幾多郎やメルロ=ポンティの指摘するように、意識の働きにより「道具」を媒介として世界を取り込むように延長していく、イメージのシステムでもある。

行為や直感を、身体へと媒介する「道具」。インターネットの発達は、この道具の在り方を劇的に変えてしまった。道具は様々な物質的な制限から解放され、ダイナミックに相互作用し続けるネットワークに変化したのだ。今や私たちは目には見えない「透明な道具」を休みなく使用し続け、時折それを可視化・実体化させるという行為の連鎖の中に生活している。

このような状況では、経験によって更新されゆく習慣的身体と、イメージ駆動する延長的身体の境界を、一意に区別することは難しい。なぜなら媒介自身のネットワーク性によって、四次元主義※1のような時空に広がった存在のパターンや、連続性・不連続性を編み込んだ離散的※2な様相などが立ち現れ、身体もそれらの性質と不可分になってしまうからだ。

同時に「ネットワークであること」は、単なる「接続」ではなく、関係やつながり方、それ自体が何らかの「演算」となるような論理、そしてその作用機構、ということでもある。

この視点からすれば、「人間が経験とイメージをネットワークとして計算する、その実装」のことを「身体」と呼ぶ方が適切な時代になったと言える。私たちは今や「ネットワークする身体」「計算する身体」を持つ生き物になったのだ。

身体の「延長」について

「身体」と「肉体」とは一致しない。それは「想い」と「現実」とが一致しないことに似ている。大脳新皮質の機能からすれば、「世界」は独立した実存というよりも、想いや現実をひっくるめ、記憶や認知を使って不断に予測される「対象」である。

言い換えれば、人は誰でも「世界」を連続的に生成し続けている。今この文章を目にした瞬間も休むことなく、あなたは「世界」をつくりだしている。

もしここで、この文章から目を離し壁に注意を向けたとしよう。すると、あなたの意識は空間の方へ向かって伸びていく。そこに落ちる影の形、光源の色、それらを包み込む音の響き。受け取られる表象の一つ一つがノードとなって、今この瞬間のネットワークを生成する。その実感は、身体がノードへ向かって「延長」されていることの再発見そのものだ。

そしてこのような「延長」の離散的な機会に応じて、私たちの身体は偏在する。収束する手段を持たない「拡張」の原理とは趣を異にし、「延長」のネットワークは、私たちから離散しながら再び私たちのところに着地する。数学的には自己準同型※3と呼ばれるような、この構造とつながりを介して、私たちは情報としてアップデートされていく。

こういった身体の延長性・偏在性は、情報技術によって社会のネットワーク密度が高まるにつれて、プライバシー、リスク、トレーサビリティといった概念が重要になってきたことからも理解可能だ。これら日常の至る所で展開可能な安全概念は、個人がそれを意識していないときにこそ自動的にしっかりと機能しなければならない。故に、今すぐには使用されない多種多様な情報に対しても、予め身体が行き届いていることが必要となってしまうのだ。

フェティッシュ・情報・マナ

ところで、なんらかの属性や役割であった対象が、本来の所在から離れて独立した価値へと至った様態を「フェティッシュ」と言う。例えば、属性で言えば光沢やフォルムといった視覚的な特徴、機能で言えば貨幣の交換可能性などが、典型的なフェティッシュだ。

フェティッシュはそもそも「呪物崇拝」として発見された。しかし、一度成立したフェティッシュにとって「物」は元の宿り木でしかなく、フェティッシュそのものが実体となって流通し、かえって「物」の方がフェティッシュに対して着床するようになる。

ネットワークを組成している「情報」の本質を考えるとき、今やこのフェティッシュとの違いを見いだすことは難しい。物質や関係がコーディングされてアルゴリズム性を持ち、それ自身が欲望で駆動されはじめるならば、情報も貨幣のようにフェティッシュとなり、身体はその流れに沿って分岐し、その先で多様な経験を編んでいるということになる。

宿り、流通し、受け手の力として非接触的に発現する情報。それはマルセル・モースが指摘した、原始部族社会における「マナ」※4にも近い。物質であり事象でもあるような、この非人格的かつ関係的な現象であるマナこそが、我々を行動させまた制約する実存であるという観念。情報的な身体、そのネットワークとしての広がりは、そのままフェティッシュやマナの現代的なシステムと見て取ることができる。

精神の「系」から情報の「圏」へ

かつてグレゴリー・ベイトソンは、サイバネティクスの視点から人間と世界との関係を「系」としてとらえ、その「系」を出入りする情報が「精神」であると説いた。それは、身体と世界が常に接続されていて切り離せないという現象学的な考えと、物質の振る舞いに関する熱力学的なシステム論を統合した見立てであったが、現代においてこの「系」の視点は、情報論や計算機科学の発展によって得られた重み付けの手法により、定性的かつ定量的な「圏」の視点へと進化しつつある。

ルチアーノ・フロリディの「インフォスフィア」やケヴィン・ケリーの「テクニウム」などの大域の議論から、ジュリオ・トノーニの「統合情報理論」のような意識問題に至るまで、つまり地球全体から一人の人間までを情報の視点で透過的に把握することで、世界は計算するネットワークのイメージとして革新されはじめている。

人は誰もが、「世界」を連続的に生成し続けているネットワークである。そのネットワーク全体を「圏」として見るとき、それは脈動の重層的な広がりのようでもある。そのような場所で目的に応じたネットワークを考えるのであれば、それは「作られる」のではなく、フェティッシュやマナのように、情報に乗って「励起される」と捉える方が妥当ではないだろうか。そうすることによって、身体は矛盾を許容しながらより「計算可能」になり、そのサイズも決まっていくはずだ。

計算可能な世界

ネットワークがそのまま計算であるような世界では、幾何学的な投影や位相の変換、極限における近似やスケーリング、さらには因果の確定まで、多種多様な演算がノードとエッジ※5の関係に繰り込まれる。その意味において、ネットワークの計算過程は、関数と関数の関係すら確率的だ。そしてこの世界像は、常に「遷移」し続けるが故に静止することがない。連続という概念すら、可換性やトポロジーによって遷移のバリエーションとなる。

この計算過程に沿うようにして、身体と表象との関係も切り結ばれていくことになる。ノードから始まり離散して、また別のノードに至って閉じる。その繰り返しによって重み付けられていくような関係の立ち上がり方は、個別関数の評価の総体でありながらも、そのままではネットワーク全体の「意味」とはならない。なぜならば、完全グラフ※6のような全ノードの均質な結合や、逆にネットワークの分割に全く影響を与えないような疎な結合※7は、それらがどれだけ大量にあったとしても、ネットワーク全体の意味のあり方、その統合性を変更することができないためだ。

よってこの世界像は、確率の遷移、つまり個々のノード結合をベースにしつつも、それらの結合が「さらに統合された」何らかの状態量を、「意味」の表現として持つことになる。このような状態量は、「遷移の濃淡」といったネットワークのあり方を反映し、情報が意味となって励起する様子をよりよく抽象化して、計量可能なものとするだろう。

この観点による限り、システムにおける「意味化のプロセス」は、流入する情報の量や個々の質というよりも、全体としての統合性を担保する特定の関係の密度によって成立する。そしてそこに「システムに流れる時間、その全ての瞬間はユニークである」という仮定を付け加えるならば、「統合性を意味する状態量」は「確率ベースの一回性」すら編み込んでいるとも考えられる。

今後あらゆるものがセンサー化されインターネットで結ばれていくことで、この世界の情報量は劇増し、私たちはさらに未経験な世界へと否応なしに踏み込む。それはつまり、私たちにより多くの「身体的なコスト」が要求されることともイコールだ。そのような世界にあっては、身体も表象も、ネットワークの意味化によってのみ解を持ちえるはずだし、そこ以外に合理性の根拠が無いように私は見ている。

身体・表象・デザイン

「ネットワークする身体」「計算する身体」が現れてきた今、それらがデザインという行為に与える影響は大きい。この新しい身体によって私たちが数十年前とは全く違うあり方で世界を経験し続けるのであれば、世界の見られ方、つまり表象も、旧来とは違う方法で受け取られていくはずであり、そのことはいわば公理としてデザインの前提となる。

一方でネットワークであるということは、要素の自由なふるまいが、最終的に法則的なパターンに収斂しうることも含意する。それを「自然」を〈じねん〉と呼ぶときのような、自律的構成の働きと見てとることも可能だろうし、逆に恣意的に構築すべき理想的なモデルと見ることもできるだろう。そのような世界で、デザインは何をどのようになすべきなのか? ということが、現代の必然的な問いとして浮かび上がってくる。

すでに述べたように、今の私たちを取り巻いている表象は、そのようなネットワークの働きによって、身体の延長として切り結ばれるノードとなって現れる。

ネットワークする身体にとって、その表象は先計算的な何かだろうか? それとも計算の結果が表象として投影されているのだろうか? あるいは表象それ自体もまたプロセスであるということになるのだろうか?

いずれにせよ、表象に対するこれらの問いに、単一の答えを用意するのは早計だ。私たちはデザインを通して、表象との関係を切り結んでいくのだし、それは身体へと再帰するはずなのだから。

意味ある秩序形成としてのデザイン

デザインの役割は、先に述べた「意味化のプロセス」を生成させることと言える。「定義としての意味」ではなく「関係としての意味」を実装すること。それは理念的かつ実践的なビジョンだ。

こうした思想は、ヴィクター・パパネックによって1970年代に既に語られている。プロダクトの形状からデザインを考えていては、本質的価値を損なう。そう考えたパパネックはデザインを、人間活動の基礎となる「意味ある秩序状態」を作り出すためのプロセスであると論じた。

結果としての形状だけではなく、それが励起するプロセスを行き渡らせる、またその行き渡った系をデザインと捉えること。それは「グリッドの生態学」を志向していたオトル・アイヒャーら『ノイエ・グラフィーク』※8のデザイン観から通底している流れだ。

これらの思考は換言すれば、名詞としてのデザインではなく、動詞としてのデザインとは如何なるものかという問いでもある。「前に(pro)」と「導く(duct)」の合成語である「プロダクト(product)」という名詞。そこに折り込み済みの「到達点へと向かっていくナビゲーション性およびその時間的奥行き」を、デザインという行為としてどのように引き出すか。パパネックやアイヒャーらが向き合ったのは、そのような「方法への問い」でもあったろう。

そこで、この「意味ある秩序」へ向かうための「名詞ではなく動詞としてのデザイン」という問いを、吉本隆明の「指示表出」と「自己表出」という言語の二重性の分析を借りて眺めてみると、「導線」のように名詞(=指示表出)として提示された対象が、「導かれた」という動詞(=自己表出)として「意味化される」までのプロセス、そのプロセスがデザインにおいて実装されるべき「性能」として浮かび上がる。その結果、「デザインによる体験は、名詞が身体のネットワーク性によって動詞へと変換される、その遷移の設計によって生み出される」といったイメージを得ることができる。

デザインとはこのように、関係性を前提として、認知が意味化されるその境界への介入を実装するプロセスでありながら、同時に人間にとっての「意味ある秩序形成」として、生活を担保する身体性に帰着する。

我々の脳には自己の身体の完全なモデルがマッピングされているともいわれるが、人間が概念操作を行うとき、認知限界の枠によって「世界」は時間的・空間的にも縮約され、その一部は切り取られてしまう。それ故、行為は結局、経験を通じその枠内においてしか意味化されないし、細分化によって定義されきった世界と、統合的な意味量で測られた世界は同じにはならない。

であるならば、いや、だからこそ、情報を根拠とするデザインにおいて「ネットワークする身体」「計算する身体」へのまなざしが倫理そのものに思えてくるのは、私だけなのだろうか。

  • 青空文庫: 宮沢賢治『疾中』(1928)
  • ※1 存在論において、物体が常に完全な形で三次元の空間に現れているとする「三次元主義」に対し、物体は時間的部分を持って四次元の時空に拡がっているとするのが「四次元主義」である。四次元主義的に世界を見れば、人間をはじめとする、時間を通して持続するあらゆるものは、その「全体」ではなく、時間的にその瞬間にだけ存在する「部分」でしかないことになる。
  • ※2 離散的(discrete)とは、連続的(continuous)ではなく散在した状態を意味する。たとえば、0と1から成るデジタル情報は離散的、均一な要素に分解できないアナログ情報は連続的である。整数やグラフといった離散的な対象を扱う離散数学は、コンピュータサイエンスや情報理論の分野でも活用されており、デジタル技術やコミュニケーションに関して「離散的」という言葉が使われることも多い。
  • ※3 数学の圏論では、ある構造を持った対象と、その構造を反映するような対象間の関係性である「射」の集まりから成る「圏」の概念によって、数学的構造を取り扱う。自己準同型という用語は、ある対象からそれ自身への「射」のことを指す。
  • ※4 マナ(mana)という単語は、台湾から東南アジア島嶼部、オセアニア、マダガスカルに広がるオーストロネシア語族の言葉で「力、有効性、威信」などの意味を持つ。モースが論じたマナの観念は、人に宿る呪術的能力やカリスマ性、あるいはお守りや迷信に見出される神秘的な力のように、社会の中で価値を持つ非人格的な力を指す。
  • ※5 ものごとのつながり方を数学的に扱うグラフ理論では、ネットワークの結節点のような頂点を「ノード」、それらをつなぐ経路となる枝線を「エッジ」と呼ぶ。
  • ※6 グラフ上のどのノードも他のすべてのノードとつながっている場合、それは完全グラフ(complete graph)と呼ばれる。
  • ※7 ネットワークに限らず、ハードウェアやソフトウェアにも見られる「疎結合」とは、細分化された個々の構成要素の結びつきが緩く、独立性が強い状態を指す。そこでは、構成要素の相互依存度が高い「密結合」に比べて、要素間の影響にあまり煩わされずに、要素単位での改良や交換を柔軟に行なうことができる。
  • ※8 『ノイエ・グラフィーク(Neue Grafik)』は、第二次世界大戦後の1958年にスイスで創刊された伝説的なデザイン誌。ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンやヘルムート・シュミットらと共に、その構成的グラフィックデザイン運動を担ったオトル・アイヒャーは、書籍などでのメディアにおける表現だけでなく、1972年にミュンヘン・オリンピックの総合的デザインのディレクションによって、デザインの概念と実践を大きく広げたことで知られている。