インタラクションコストとアプローチャビリティ

渡邊 恵太 / Keita Watanabe

2016.05.11

インタラクションには行為のコストがある。インタラクション自体のみならず、その行為を始めるまでのインタラクションのコストを考えることが大切だ。今回のテキストでは、主にVR(ヴァーチャルリアリティ)やAR(拡張現実)におけるインタラクションの問題を例に、「インタラクションコスト」について考察していく。

ここで注目するのは、プロダクトやサービスを利用する際のインタラクションではなく、その体験の「外部」で生じるインタラクションである。インタラクションコストという用語で示したいのは、利用状態に入るまでのインタラクションが、行為を始める上での障壁になるということだ。

体験の外部にもあるインタラクション

現在「VRとインタラクション」について聞くと、没入感を高めたり酔わないようにする設計など、VRコンテンツというVR空間の「内部」に関わる話がほとんどだ。そこにも多くの課題はあるものの、筆者が常々思う課題は、VRコンテンツにおけるインタラクションではなく、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)やGoogle Glassのようなメガネ型のウェアラブルデバイスを着用するシチュエーションでのインタラクションにある。つまり、それらのデバイスを、いつどこで身に付けて使えば最適なのか見えてこないのである。

最初のVRのブームは、アミューズメント施設などでイベント的にVRを体験するには役立った。新しい体験をしたいがために、その場に足を運ぶ意味があった。しかし、今はかつてのエンターテインメント体験ではなく、よりコンシューマー向けで日常的な利用への期待がある。そのような利用体験を実現するには、VR/ARに入る前に何らかのデバイスを装着するという、インタラクションコストが課題となる。

インタラクションコストの例

たとえば、据置型のビデオゲーム機では、テレビに接続して電源をオンにすればゲームを体験できる。これでもゲームを開始するまでのインタラクションコストはそれなりに高い。ニンテンドーDSやPSP、スマートフォンなどでゲームをする方が、いつでも始めやすく止めやすいゆえに、行為が日常化される。今日電車の中をみれば、男女問わず多くの人がゲームをしていることがわかる。

それに比べて、HMD装着型のVRはどうだろうか。現在のHMDは画質も高いし、頭の動きのトラッキングにおけるレイテンシ(遅延)も少なく、自己帰属感も高い。そのHMDをかぶるという条件さえクリアすれば、そのVR空間を現実のように感じられる体験ができつつある。しかし、この「ただかぶるだけ」という行為が、実は大きな障壁になっている。

こういったシンプルな手順であっても、それが利用状態へ移る障壁になることが、多々あるのだ。

たとえば、インターネット接続もそうだ。SIM内蔵で常にネットに繋がるタブレットと、Wi-Fi接続のみのタブレットでは、使い勝手がまったく違う。同様に、かつてインターネットを利用する度にダイヤルアップ回線で接続していた時代と、常時接続が可能になった現在では、料金体制だけでなく利用体験そのものに大きな差がある。

スマートフォンのカメラの画面に、CGを重ねて表示するタイプのARアプリも同様だ。カメラをかざすだけで関連情報が提示されるシンプルな仕組みだが、アプリをインストールしてあったとしても、日常的にカメラをかざすという行為は、シンプルに見えて大きな障壁だった。

アプローチャビリティという尺度

こういった利用状態への移行しやすさの尺度を、筆者は「アプローチャビリティ」と呼んでいる。使いやすさではなくアプローチのしやすさ、つまり「使おうとしやすさ」だ。

使いやすいものだとしても、棚の奥にしまうようなものであっては、日常的に「使おうと」しにくい。こうした問題への解決として、スタイリッシュなデザインを採用し、しまわないで生活のインテリアに融け込ませるというアイデアがある。そうすれば、生活の中ですぐに「使おう」とすることができる。たとえば、掃除機や防災ヘルメットなどのデザインでは、そういった工夫がなされている。それに対するモチベーションと行為性を可視化して備えることで、利用状態へと移行しやすくなるのだ。

また、簡単な手順で「ただやればいいだけのこと」であっても、「開始する前に手続きが必要なこと」や「別の行為の流れを中断すること」は、日常化、慣習化しにくい。たとえば、使う度に水道を止めることも、歯磨きをしたりシャワーを浴びている途中には、なかなかできない人が多いだろう。節約を考えれば、こまめに止める方がよいが、意識しなければ習慣として身につかない。こうした「事前の手続き」や「行為の中断」となる作業は、利用前のモチベーションを、利用した後に半減させることになる。あるいは、その作業によって欲求がほぼ消失し、再びモチベーションが高まることがなくなってしまう。なぜなら、人間の欲求は一方向的なものだからである。

心理学者のマズローは、これを「欲求の不可逆性」と呼んだ。欲求の不可逆性とは、一度欲求が満たされてしまうと、再び欲求になることはない性質を意味する。したがって道具のデザインでは、利用の開始について考えることも大事だが、利用の終了や中断の仕方には、それ以上に気を遣うべきである。なぜならその終了状態が、次の利用開始へのアプローチャビリティを決めるからだ。そして、始まりと終わりのデザインが優れているものは、常にアプローチャブルであり、継続利用のしやすさにつながり、生活に融け込む。

VR/AR系のテクノロジーは、このアプローチャビリティの問題を引きずっているように見える。マーカー※1を使ったARは広告などで採用されてきたが、それについては皮肉な話がある。当初は「マーカーを広告に貼り付けて、わざわざ専用のアプリを入れ、わざわざカメラをかざすくらいなら、初めからそこに書いておけばいいではないか」という意見があった。しかし、画像認識技術が進展してマーカーレスARが登場すると、今度は「マーカーがないとどこにカメラをかざしていいかわからない」と言われてしまった。とにかくこの手のARは、生活の中で使うにはインタラクションコストが高く、アプローチャビリティが低かったのだ。アプリをインストールし、カメラをかざした後のインタラクション設計はなされていても、アプローチャビリティを高めるためのデザインは、皆無に等しかった。

ARのブームは、「自分のスマートフォンで何か新しい体験ができるみたいだ、面白そう」というモチベーションに、ほぼ委ねられていた。モチベーションに頼ったシステムが期待に応えられなければ、ユーザはついてこないし、消費されて著しく価値が落ちてしまうことになる。なおさらインタラクションコストの高さは、期待を裏切ることになる。もっとインタラクションコストが低ければ、利用の持続性、生活への融合性は高まったはずだ。こうして、ARは未来の技術の体験版に留まり、一時のブームも過ぎ去って、生活には融けなかった。

VR/AR系のテクノロジーは、HMDなどのデバイスを装着していることや、アプリをインストール済みのスマートフォンを携帯していることを前提として開発されている。だから、それらの前提を疑うことは保留されたり、タブーとなっているように見える。市場に展開しようとする段階になって、それらの前提が必ずしも成り立っていない問題に直面する。まずそこでは、デバイスを身に付けたり、スマートフォンを常に持ち歩く理由が必要なのだ。さらに、それらを継続的に使うための状況も必要になる。それにもかかわらず、こうした方法の設計が、あまり検討されていないように見える。

VR/ARに入るためのインタラクション

インタラクションコストから発想していくと、スマートフォンを使ったARアプリの場合、それを「空間にかざすように利用する」という人の行為をまず考えることになる。今すでにそのような行為をしている人は、何をしているのかを考えてみる。すると、スマートフォンをかざすように使っている人は、「写真を撮る行為」をしていることがわかる。

写真の撮影は、日常的にしている行為だ。ここにARの要素を入れられないかと考えれば、写真を撮るというモチベーションや、自分が慣れているコンテクストを利用できる。そうなれば、撮影の流れの中で、「背後に映り込んでいるお店は、評判の高いラーメン屋」といった情報が提示されるサービスなどが、考えられるのではないだろうか。あるいは、写真をうまく撮るためのARとして、顔の位置に対して最適な構図になるように自動トリミングしてくれるのは、良い機能になるかもしれない。すでに実現されている部分もあるが、そもそも顔認識の技術はARの活用である。

こういった「もともと」ある行為の中でARのインタラクションに慣れてもらうことで、その価値を体験しやすくできるのではないだろうか。新しい技術が生活に融け込むためには、そこで得られる価値だけでなく、その利用に先立つインタラクションの設計、戦略は極めて重要な課題となる。

さて、そんなインタラクション設計の考え方において、大いに参考になると感じているのが、合気道である。

合気道の哲学から考える「円転自在性」

合気道は日本発祥の武道で、世界的にも親しまれている。合気道の本質は、その漢字からもわかるように、「気を合わせる」ことにあるとされている。合理的に身体を運用することで、体格や体力によらず相手を制することができるのが、その特徴である。

書籍『禅と合気道』には、合気道の哲学として「円の哲学」が紹介されており、そこには「心を留めないこと」の重要性が説かれている。

われわれの心は外界に適応しながら、外界に応じて限りなく移り動いていく。しかも対象が好ましいものであれば、心はそこにとどまる。心をとどめるということは、ものに心がとらわれることである。

「自由自在」という言葉があるが、自由とか自在というのは、心が対象にとらわれないことをいう。勝手気ままにということが自由ではなく、どんな対象に対しても心がとらわれないことである。

合気道では気の動きを一カ所に停滞させてはならぬ。どこまでも動いてゆかねばならぬ。技における動作は一時、静止する場合もあろうが、気はとどまることはない。気の流れが無限の流水のように流れてゆくところ、体のさばきもまた円転自在となることができる。鎌田茂雄、清水健二『禅と合気道』

対象は合気道であるものの、「身体と外界との関わり方」を論じていることから、インタラクションを考える上でのヒントになる。合気道は体力的にも認知的にも、無駄のないインタラクションを試行しているように見える。しかも、合気道は動き続けることが通常で、止まることが特別であるとしており、ギブソンの生態心理学における人の捉え方、知覚の考え方に似ているのである。

私たちは、止まっていることが常態であり、動くことが特異であると思いがちだが、実はその逆であり、人間も動物も死なない限り動いている。「止まる」と「動く」という、この「静」と「動」の関係は、機械やシステムでは逆になることがほとんどだ。車もパソコンも、起動してから使う。こうした機器は、起動して初めて意味がある。つまり、それらは「まず起動する」という意識と行為を要求してくる。

一方、ハサミやハンマーなどには、起動という概念がない。その機能に対する行為として、連続的にアクセスできる。合気道の哲学を知ると、行為の流れや円転自在性を得ること、心を留めず執着しないことが、インタラクションコスト、アプローチャビリティを考えるヒントになるのがわかる。

体験の外部を考えるデザイン

VR/AR体験のためにデバイスを装着することは、その目的への動きを止めてしまう。起動を要するデジタル機器はますます増えていくので、それは「ちょっとしたこと」では済まされない。しかも、機能が複雑になるほど、起動への意識と行為が求められる。

我々は起動という概念を、どうにかすべき状況にきている。あるいは、起動を感じさせないインタラクションが必要なのである。電源レベルでなくとも、アプリケーションにも起動という概念がある。これらの切り替えも、また同じ課題である。

実世界であろうと、デジタル機器であろうと、バーチャル空間であろうと、行為を止めずに関われるあり方が、インタラクションコストを下げ、世界をひとつに融かした人々の生活の「円転自在性」を実現するのではないだろうか。

インターフェースデザインという観点から考えると、利用状態の前後のインタラクションや利用までのモチベーションは、テーマになりにくい。インターフェースは、主に体験の「内部」にあるインタラクションに関わる要素であるからだ。しかし、体験の「外部」に生じるインタラクションまでを視野に入れることで、人とデバイスや道具の関係をより幅広く捉え、プロダクトやサービスに対するデザインを考察できるようになる。インタラクションコストとアプローチャビリティは、そのための重要な手がかりとなるだろう。