まえがき
現代社会には「不正」を防止したり、監視したりするシステムがそなわっている。しかし、素朴な実感として、それが十分に機能していると思う人は少ないのではないか。
不正や不正義に対する憤りを持つ人は少なくないだろう。また、それを表明し、告発しようとする人が絶えることもない。しかし、憤りを持続させ、多くの圧力に負けずに批判や抵抗を持続させるのは困難だ。我々の生の時間は限られており、その時間をなるべく幸福に安心して過ごしたい。成果や報酬の乏しい闘いをつづけるのは辛い。そのような事実の先にやってくるのは「諦め」という感情だろう。
仕方が無い、「現実」とはそういうものだ、という諦めを受け入れることで、成果の乏しい闘いに時間を費やすことが避けられるし、その分を幸福追求に使うことができる。さらに、困難な闘いをつづける人たちを冷笑することで「諦めた」という事実に対して復讐するような悦びが得られる。現状では、社会を覆うこのような感情(諦め・ニヒリズム)から逃れることは難しい。歴史を振り返れば、この冷笑にさらに疲弊した人間が行き着くのが、適当に選んだ原理に帰依して他人を一方的に攻撃する社会運動(全体主義、ファシズムなど)だ。
我々に「諦め」を強いる大きな原因の一つに、「プレイヤー」と「審判」との癒着による不正が、社会の様々なレイヤー、様々な場面に多く見られるという事実がある。ただ、そのような癒着を防ぐための制度も既にあり、社会に埋め込まれている。その代表例として三権分立と呼ばれるものがある。にもかかわらず、それによって癒着が抑制されている「実感」がない。たとえば、我々は選挙のたびに、最高裁判所の裁判官を弾劾できる。だが、それによって、いつも(日本では)最高裁で覆ってしまう「国に不利な判決」を実効的に抑制できると「感じる」人は恐らく皆無だろう。
「プレイヤー」と「審判」との癒着を有効に防ぐ権力分立が可能であれば、あるいは、フェアな審判が期待できれば、我々は「ニヒリズム(諦め)」の感情からある程度自由になれるのではないか。では、三権分立はなぜ有効ではないのか、どのような権力分立なら有効で持続可能なのか。制度設計時の意図をキープし続ける権力分立メカニズムがあるのか?権力の暴走を抑制しうる「フェアであるべき存在」を前提せずに済む方法はあるのか?それとも、冷笑が正しく、あらゆる権力分立は結局癒着と形骸化に終わるのか?
このエッセイでは、権力分立の周辺部が持つ現代的なアスペクトを「戦略」と「市場経済」の未来という観点から眺めた後、古くて新しい権力分立と三権分立の概念に立ち戻る。上の「諦め」を生じさせる起源がそこにあるからだ。
とはいえ、いきなりそんなことを言われても「なぜ、今・現在、そんなことを、そんな風に考えなくてはならないのか」が分からないかもしれない。なので、権力分立について検討に入る前に、我々の問題意識を構成する下地となる「世界観」や「未来観」のようなものを提示し(0章、1章)、次いで分権について検討する(2章以降)。
0. ゲーム・多様性・力関係の幾何学: Google vs Pynchon
上の図は、たとえば「ジャンケン」での「グー・チョキ・パー」のような、サイクリックな戦略の強弱を持つゲームで、戦略の集合が作るサイクルの大きさ(たとえば、ジャンケンの場合、大きさは「3」のように数える)(横軸)と、プレイヤー集団の(平均的な)スキルの巧拙(縦軸)の関係を描いた模式図だ※1。
縦軸に沿って上に行くほどプレイヤーのゲームスキルは高く、頂上(Nash of the game)は「神のように最適戦略を計算できる(ただし「最適」なだけなので「無敵」ではない。運要素があるからだ)」場合、一番下は、「プレイヤーがわざと負けるような無意味な行動しかできないほどスキルがない」場合、中間は「徐々にスキル平均が上昇するプレイヤー集団」を表現している。一方、横軸(断面)の広がりは、先に述べたように、そのスキルレベルの集団に存在する戦略サイクルの大きさ=同時に存在しうるプレイヤータイプ=戦略の数=多様性を表す。
まず、誰も何のスキルもない場合、(誰もがすぐ負けるので)戦略サイクルはできない(一番下 Agents trying to lose)。なので、断面の横幅は小さい。縦軸に沿って上昇していくと、皆がそこそこスキルを持ち始め、戦略の多様性が爆発的に増加し、戦略間に非常に大きなサイクルが形成される段階(Extremely non-transitive)が来る。その後、例えば囲碁のような「よくできたゲーム」では、洗練された少数の戦略(定石)間の小さなサイクルだけが維持される段階(Non-transitivity gradually disappears)が来る。そのため頂点近くの断面は小さな幅を持つ。
この論文の文脈では、多様な戦略による巨大なサイクルが形成されるより、それらの戦略全体を超えたスキルレベルの高い戦略の少数集団が現れることが「望ましい(ゲームとしての質が高い)」とされている。その理由は以下の通り。
多くの「面白い」ゲームでは、プレイヤースキルが全般的に低い初期に、さまざまな「びっくり戦略」のようなものが出現する。しかし、やがて、そうしたトリッキーな戦略に対応する定石がプレイヤー間に蓄積され、奇抜なだけの戦略は淘汰される。その後、残った戦略間での「高度な駆け引き」が出現する。
最初の段階は、一見多様だが、実際は定石で一挙に対策されてしまうという意味で、本質的には無意味、とも言える。そうした観点から、「単純に多様であること」を、望ましいとしない事になる。
要するに、「皆が色々な仕方でむちゃくちゃなことだけをやっている」ゲームは、「面白くない」あるいは「深みがない」。これは、複雑なシンフォニーだけを「真の音楽」だと主張するように、ある意味エリート主義的だから、エリートかつ(ほぼ)ヒッピーのトマス・ピンチョンなら批判しそうな価値観※2ではある。選ばれた者しか愛せないのでは、もはや(愛に満ちた)神と言えないのでは?というわけだ。ピンチョン小説の「ヒーロー」達は、こうした観点から「選ばれた」、無駄な行動しかできない存在であることが多い。
「ゲームの幾何学」論文の著作者であるDeepMindをあえて戯画的に「Google」と呼ぶなら、この図をどう評価するかという点には、「Google vs Pynchon」的な構図が隠れている。
「多様性が重要」ということはよく指摘される。しかし、「どのようなタイプの多様性が社会として望ましい」のか、は「スキルレベル」のような能力差の概念が入る場合、とてもデリケートな問題になる。
ところで、次パート以降で論じることは、「数理的に理想化された状況での最適解」ではなく、ノイズのある環境下で「あるレベルの多様性とサイクルサイズの範囲を保ち続けること」を目標とするメカニズムデザインに向けた、とても初歩的な考察だ。
たとえば、熱帯雨林のような巨大な依存関係と多様性のある集団は、恐らく上の図で「横幅が極端に広がった断面(もしくはその少し上あたり)」であり、厳選された少数の制度がお互いを抑制するのは「横幅が狭い状態」とも解釈できる。第3章で後述する「「レイヤー」とそのサイクルに対する議論は、後者を主に扱っているともいえる。
しかし、そこの議論では「世界」と呼ばれるレイヤーが出てくる。囲碁のようなルールが定まりしかもゼロサム・決定論的なボードゲームと違い、「世界」のような「なんでも入るレイヤー」を通じて、「(ルールの集合すらはっきり決まっていない、ゲームの進行に多くの偶然的要素やゲームの「外側」まで絡む)開かれたルール」の運営をターゲットにしている。その場合、戦略、基本ロジック、レイヤーの数がどの程度の強さで洗練・少数化していく(べきな)のか?ということも含め、さらなる議論が必要になるだろう。
結論を先取りして言えば、一見水掛け論に終わってしまいそうな、その茫漠とした議論全体に、全体を貫く幾何学と多様な構造がありうる、という事実そのものが、ある意味で「希望の量」の莫大さと手触りを表現している、というのが本稿の趣旨だ。
次の章では、仮に「市場」を必要としないくらいの豊富な計算量を持つ世界があり得たとしたら?、という『ラディカル・マーケット』に書かれた思考実験について検討する。「皆が本当に望んでいる」最適な生産と配分を計算によって事前に算出可能な世界があったとして、そのような世界でも、権力の分立に関する議論は相変わらず必要になることを示すのが狙いだ。
1. 新しい計画経済と権力分立
1.1 市場の終わりと新しい計画経済
『ラディカル・マーケット※3』という本の終章に、「市場の終わり」についての話がある。
『ラディカル・マーケット』は、終章直前まで、基本、市場メカニズムを賛美する。市場に任せると資源配分が効率化し、その有効範囲は、通常、人が「市場の外部」にあるべきだとする領域にまで拡大される。「外部性を、あえて市場に任せる(市場に内部化する)方が、倫理的にも望ましい場合もありうる」という方針が、ラディカル・マーケット、つまり、普通の市場万能主義の先にある、市場が本当に隅々まで浸透し尽くしたメカニズムの提示につながる。
この議論は、従来の市場万能主義の限界点から出発しているようなところがあり、一昔前の「なんでも市場に任せればうまくいく」という内容とは、だいぶ違う。むしろ市場主義の究極系が共産主義に近い形式になっていく様な描写になっている。
しかし、この本の終章では、もし、市場を、「(経済活動を行う人間たちの群れという)巨大並列計算機が、(需要と供給に関する)連立方程式を解く効率のいいやり方(=取引成立を最大化する価格を見つけるメカニズム)」に過ぎないとするなら、途轍もない計算力がある世界では、もはや市場すら必要ないこともありうる、という思考実験が出てくる。
もちろん、莫大な計算力がないと、人間に実際に取引してもらって価格メカニズムで生産と分配を決めてもらうしかない。だが、技術的シンギュラリティが起き、全人類の思考をシミュレーションできるぐらい計算力豊富な世界なら、市場と価格という分配メカニズムが、用済みになりうる。生産と分配の最適配置に関する連立方程式を、市場メカニズムの試行錯誤なしにシミュレーション内部で解けるからだ。
現代人は、「価格」や「市場」が生産と分配の解を決める一つのメカニズムに過ぎないということを忘れるぐらい資本主義にどっぷり浸かっている。だから、この指摘には、割と盲点を突かれる。
物に価格がなく、かつ、物が過不足なく行き渡る世界?
そのとき、再び「計画経済」 という古めかしいコンセプトが、もう一度日の目を見るだろう。
もっとも、そのイメージは、たとえば、「映画を観ている時の視線の軌跡から、『注意の仕方』が似た人が好む映画を推薦する」 というような、莫大なセンサー技術によって、需要をもはや市場で発見する必要がなくなる世界なので、20世紀の旧共産圏とはだいぶ違う。
Amazonが物流で、Netflixがレコメンドで既に行っている作業を、もっと大規模に、生体情報に基づいて行い、さらにその生体情報に基づいた人間の消費行動を、全人類の反射的要求の入った計算機の中でシュミレートしてしまう。
それだけの能力を持つ「全人類計算機」を仮定すると「市場」という「実際の人間を使ってやる計算」は必要なくなる。
これが、新しい計画経済。あるいはセンサー計画経済のイメージだ。
1.2 それは人間にとってどんな社会か?
技術的シンギュラリティは、もしそれが起きるほどの計算リソースが社会に存在するなら、センサー計画経済のような「社会的シンギュラリティ」を伴うはずだ。
もちろん、「人間に需要されるもの」が、計算機の中に取り込んだ生体情報だけでは計算できないほど複雑だったら、こんな計算はできない。たしかに変わった趣味の人は多いし、変わった趣味は、欲望内部に複雑な計算過程を持つように見える。
けれども、実際の人間がそれほど複雑なのか、少なくとも我々には確信がない。 むしろ全体主義や陰謀論で誘導される巨大集団が出現するのは、「実際の人間が、それほど複雑なものではない」ということの証明にも見える。
注意して欲しいのは、全体主義や陰謀論といったものへの単純な引き込みは、知性とは無関係に誰にでも起きうる、ということだ。これを書いている我々にも、もちろんあなたにも。20世紀最大の哲学者とよく言われるハイデッガーがナチ党員であったのは有名な史実だ。
たとえば「他者」「存在」「強度」といった、思想でプラスの価値を持ちがちのキーワードが出てきた瞬間、「尊重しなくてはならない」と反射的に言いたくなる思想好きは多いのではないか?こうした反応は既に今のレベルのAIでも十分予測可能なので、社会的シンギュラリティ下であろうとなかろうと、結局、引き込みに利用されてしまうだろう。
では、(人間がシミュレート可能な程度に単純だったとして)新しい計画経済には、なにか問題はあるだろうか?
そのことについては、『ラディカル・マーケット』ではあまり触れていないので、妄想的なセッティングを引き継ぎつつ、少し考察してみよう。
まず、レコメンドが非常に正確なものだと仮定すると、新しい計画経済社会では、皆だいたい満足している。
資源配分や環境問題は、とりあえず後回しにしておく。皆がだいだい満足しているので、目下の問題は、不満や苦痛ではない(現代の社会システムを前提とした苦痛の対処については、他の場所でこういう考察をしている※4)。
では、尊厳と自由意志がなくなることが問題だろうか?
恐らくそれは問題ない。 あるいは問題にできない。
なぜならAIが行う推薦は本当によくできている(人間がほとんど反射で動く程度に単純)という仮定なので、この社会では、彼らの誘導に従っている方が楽しく利便性に優れ、そう簡単には逆らえないからだ。
AIの推薦を拒絶して自分で選んでも、結局提案されたものを選んでしまう。もしくは違うものを延々と探した挙句、最終的に推薦されたものにたどり着く。そんな世界では、「自由に選ぶ」という言葉の意味がうまく定義できないだろう。
月並みな近未来・サイバーパンクSFの世界ではある。
この設定では、市場(巨大企業)と政府がほとんど融合していて、最適な生産と配分という一つの原理で貫かれた一つの機能になる。「皆が本当に望んでいること」が分かるなら、市場を通すことなく全部「計画」してしまう方が合理的である。投票も市場が決める価格も、人々の本当の欲望を知る間接的な調査メカニズムだからだ。
1.3 リベラル型社会的シンギュラリティとレコメンド
この未来社会の仕組みを、なるべくリベラルな方向で、もう少し具体的に考えてみよう。ここでリベラル方向を選ぶのは、通常、この手の管理社会は陰鬱な権威主義的支配体制(悪の大企業とマフィアによる「力こそ正義」の世界)とセットで語られるのがよくあるパターンだからだ。
リベラルなサイバーパンク社会とはどのようなものだろう?
まず、分散型プラットフォームで、センサリング政治と経済が運営されているから、特定プラットフォームによる独占もないとしよう。悪の巨大企業は不効率なので競争に敗れている。また、フェイク除去装置もちゃんと機能していて、フェイクニュースやレトリック操作による扇動は、ここで書いた仕組み(『分散化ソクラテス※5』)の発展版のようなメカニズムで、すぐラベリングされてしまう、とする。
予算配分(という概念がまだあるなら)は、全市民の欲望をセンサリングした結果を、たとえば、ここで書いた『ミラーバジェット※6』に、改良された投票メカニズムをプラグインしたようなもので、毎日毎秒ストリーミング更新されていく。もはや、政府、計画、自分の欲望、知覚を明確に区別することも難しいようなメカニズムだ。
センサー計画経済社会では、政治的な主張や投票に対しても、その仕方を懇切丁寧にレコメンドしてくれるAIがいるはずだから、恐らくほどなくして、政治行為は、政策レコメンドに、Yes・Noを申し訳程度に回答するだけになる。
ちなみに、最近のAIと人間の共存、倫理に関わる話は、多くの場合「強い人間」の物語だ。AIは奴隷で、人間が上司になって「クリエイティブな意思決定」に集中する、という神話である。
センサー計画経済社会でこの神話を維持するには、恐らく、曖昧な言葉でAI倫理法を定めるより、「人間の尊厳、権限、意思決定能力を維持するため、AIを用いたレコメンドを全て禁止する」の方が範囲も分かりやすいし効果的だろう。
社会的シンギュラリティが起きている場合、「人間」は、基本、「(AIの)計画レイヤーにとっての外部、世界」となる。つまり、「AIにとっての人間」は、「人間にとっての自然災害や環境」と似てくる。限られた認知、寿命を持ち、莫大な計算リソースで作られた提案に対して、YesかNoで反応する自然としての人間。仮にAIがそれだけの能力を持ちつつ、なぜか運よく人間に従属するなら、彼らは「環境としての人間」という、自分とは別のロジックに従い、自分とは別にあるレイヤーの存在を常に気にし続けるしかない。
よくあるSFでは、こういう社会での人間は、「社会の外部がないこと」の窒息感や不安に耐えきれなくなり、真の世界を探すテロ活動に出発する。最大限リベラルに振り切っても、この閉塞感に対処することは難しい。
だから恐らく、それもありうる筋書きの一つだ。けれども、別の問題もある。
1.4 レイヤーの枚数から権力分立の問題へ
実は、上で描いたセンサー計画経済社会には、結局、「世界(寿命、余暇限界、死、気候変動、資源)」と「計画(AI・ブロックチェーン・センサー計画経済・センサー政治)」の2つのレイヤーしかない。ある意味で「計画レイヤー」が「世界レイヤー」を一方的に支配・制御している。しかし、たとえばもし、「計画」ではなく「暴力(軍隊・警察+外交)」を独占するだけの政府が残るなら、それは計画とも市場とも違うロジックに基づくレイヤーだから、3つの異なる原理を持つレイヤーがあることになる。
なお、再分配(税、あるいはマクロ経済政策など)は、「市場がいらないほど完璧に需要が分かり、供給制約もない」という仮定に立つなら、もはや必要がない。過剰投資の焦げつきや、そこからの回復、賃金の下方硬直といった事態は起きないからだ。
冒頭で示唆したように、我々は、ある権力の暴走を監視・規制する、第三者的で「フェアな存在」の自律性・客観性を信頼して前提とすることは出来ないと感じる。プレイヤーの外に自律した審判がいるのではなく、プレイヤーの都合で動く「審判まで含めてひとつのロジックで貫かれた閉じたレイヤー」がある。故に、これらのレイヤーは、それぞれが、一枚で世界全てを覆い尽くしている(「外側」が無いので見える部分を覆い尽くす「レイヤー」という概念になる)と仮定する。
こういう状況で、「公正さ」や「一方的な従属なしにシステムが動く」ということを維持するには、レイヤー間でどういう権力の振り分けや相互抑制、換言すれば、「権力分立」が必要になるだろうか?
この問題は、新しい計画経済やその管理社会的脆弱性、閉塞感、云々とは別枠で存在する。『ラディカル・マーケット』には、政府への不信とマクロ経済操作関係の話は不思議と出てこないが、「現状の政府で誠実にある程度効率よく機能する」という仮定を置いて議論をシンプルにしたかったのだろう。
そもそも、センサー計画社会には、2つのレイヤーで十分なのか、3つのレイヤーが必要なのか?それとももっと多い方がいいのか?その数はいくつか?それは、一桁なのか?膨大なのか?数百ぐらいのオーダーなのか?
いわば、一般化された権力分立による相互抑制という問題領域があり、それがテクノロジーにより、顕在化してくる。
ところで、下の図は、「レイヤーの数は5つまでしかない」という想定で、様々な権力分立と相互抑制について試行錯誤していた時のメモだ。2017年頃、ブロックチェーンの隆盛と、そのガバナンス、特にブロックチェーンの格付けと、格付け機関とその対象の癒着などについて考えていたことから抽象化されていった。
つまり、『ラディカル・マーケット』の終章、「新しい計画経済」の話題は、とても古い問題、「三権分立」のような、当たり前のようで、多くの社会であまり有効に実行されていない概念に繋がっていく。
権力分立といえば、三権分立がすぐに出てくる。だが、我々がここから描写する3レイヤーによる分権はそれとは別の概念だ。三権分立には、実は隠れた2レイヤー構造があり、その本来の目的を果たしにくい脆弱性もある。それを明確にするために、とりあえず(三権分立が2レイヤーなので、一つ追加し)3つのレイヤーを考えると分かりやすい。なお、三権分立が形骸化し、骨抜きにされがちなのもその点に理由があることを指摘するのがこの図式化が持つ最初の目的で、理想の権力分立状態を提示しているわけでもない。むしろ3つのレイヤーでは、その構造を維持するのは事実上不可能なのでは?という考察が続くことになっている。
しかし、3を超えるレイヤー数、一般の権力分立の話に入る前に、まずその辺りを整理するのがこの原稿の目的となる。
2. 三権分立とその脆弱性
2.1 フェアな権力分立を維持するための3つの前提
前章では、「市場」を用いなくても人々が需要するものを計算可能となるような「センサー計画社会」を素描し、しかしそこには「世界(寿命、余暇限界、死、気候変動、資源)」と「計画(AI・ブロックチェーン・センサー計画経済・センサー政治)」という権力の2つのレイヤーしかないことを指摘した。そしてこの章では、実は「三権分立」にも権力のレイヤーが2つしかないことを指摘する。
先述した通り、VECTIONでは、ガバナンスにおける権力分立の望ましいあり方についてのエッセイを準備中で、そこでは、現状の権力分立の問題点を検討し、より適切と考えられる新たなあり方について提案している。
まず、その際の問題意識を簡単に示す。我々は、「権力(レイヤー)の暴走や腐敗が防がれ、フェアな権力分立を維持できている」と言うために、最低限、次の3つの前提が必要だろうと考える。
(1) 永続的・絶対的な権力者(王)を認めないこと
(2) 分立された権力のフェアな行使を監視するための、第三者機関(権力の外部)の中立性をあてにしないこと。
さらに、(2) を実現するにあたり、
(3) 権力を監視する者、を監視する者、を監視する者……、といった監視(メタレベル)の無限後退を避けること。
つまり、王様もなく、外部もなく、メタのメタもない、をすべてクリアした状態が必要だと考えている。
近代国家に多く見られる「司法・行政・立法」の三権分立は元々絶対王政の権力を分解したものなので、「王様がない」という点はクリアしているように見える。また、三権の相互抑制により「外部がない」「メタのメタがない」も実現できそうだ。
しかし、もしそこに隠れた「王様」のような構造があるなら、話は違ってくる。そもそも、三権分立は、上の前提を満たすフェアな権力分立になっているのだろうか?
ここではまず、現状の三権分立を検討し、それが実は「政府」と「国民」の二層構造であることを示す。そして、それ以外に「世界」という3つめのレイヤーがあるという事実を確認する。3つのレイヤーによって形成される「3レイヤーサイクル」として権力分立を考えることで、現状の三権分立のような二層構造ではうまく考えられない、「王がない」「外部がない」「メタのメタがない」をすべて満たす状態を、とりあえず(持続可能性は別として)表現可能であることを示したい。
2.1.2 国民は三権分立の外にある
通常、三権分立は下のような図によって説明される。ここで注目して欲しいのは、三権分立においては、意外にも、国民がそもそも「三権」の外にあるという点だ。この点の重要性と含意について、次に考える。
2.2 (国民を中心に含む)三権分立は実質的に二階層=2レイヤー構造である
2.2.1 国民と政府の関係から捉え直すと三権分立は二層構造である
国家の権力を分立する方法として、日本やアメリカ、欧州各国などで用いられている三権分立の構成は、行政、司法、立法の「三権」の他に、それら国家機構の行動を制御する評価の主体、つまり主権者としての「国民」を含んでいる。
ここで、実質はどうあれ、建前上の主権はあくまで国民にある。つまり、国民まで含めて描いた三権分立の形式は、図の右側のように、政府(ここでは、行政、立法、司法の三権をまとめたもの)の上位に国民が配置される、一方向的な「二層(2レイヤー)構造」であると言える。
2.2.2 二層(2レイヤー)構造の問題点
ただし、先に描いた図はあくまで理念上の構造で、実質上の権力構造においては矢印が反転し、「政府や既得権益層などに属する一部国民により、その他の国民が支配されている」という状況に陥っていることも多い。
だが実は、国民と政府の権力関係(矢印の方向)は、どちらを向いていたとしても、それが一方的であること自体に問題がある。「政府が国民を一方的に支配する」ことは、自由や人権といった価値観の否定につながるし、逆に「国民が政府を一方的に支配する」こともまた、ポピュリズムによる社会の暴走を引き起こす懸念がある。レイヤーが二層のままでは、国民が王(あるいは絶対権力者)か、政府が王か、どちらかになる。二層構造では、矢印の方向は反転(どちらか一方向)しかあり得ないので、この問題は解決されない。
もちろん、丁度よい双方向の制御関係を保てれば理想的だが、先に権力分立の条件(2)(3)として、「図式の外側にその『丁度よさ』を判定するさらなる中立的なレイヤーはない」としているので、この二層構造では、極端な方向性が出現しても、それが是正されるには、ただ自然解消を期待して待つしかない。
3. 2つのレイヤーから、「世界」の入った3レイヤーサイクルへ
3.1 3つめのレイヤーとして「世界」を導入する
「国民」と「政府」の関係は、根本に問題を抱えた二層構造(2レイヤー)に見える。しかし、視野を広げて考えてみると、国家の存立・持続には、国民と政府だけではなく、それらを取り巻く環境の存在を忘れることはできない。
我々は、国家における権力構造を構成する3つめの要素、新たなレイヤーとして「世界」を導入し、考えを進めたい。
ここで「世界」とは、国際社会という意味での世界でもあり、自然や環境という意味での世界でもあり、つまり、国(国民+政府)以外の要素(=外部性)の総称である。国の権力構造のなかに、その外である「世界」が含まれるのだ。この追加により、「世界」「国民」「政府(立法・行政・司法)」の3つのレイヤーが成立する。
しかし、これでは、「国民」が「政府」を制御し「世界」が「国民」を制御するという、「世界」を最上層としたトップダウン構造になり(ここで「世界」は、「国民」が投票や世論を通じて直接制御できるものではないので最上位と考えられる)、「世界」が王になってしまう。が、世界をたとえば自然災害だとして、それをただ放置するようなことは人間にはできそうにないので、このような構造もまた不自然だ。
そこで、最下層(オブジェクトレベル)である「政府」から最上層(メタレベル)である「世界」への関与を想定する形で、三者それぞれが互いに制御し合う構造を考え、以下で、その構造が現実世界に当てはまるかどうか検討する。
これまで、分かりやすさのため、3つのレイヤーを四角で表現していた。しかし、レイヤーがそれぞれ全体として完結するというアスペクトを考慮すると、実は、エッシャー(あるいはペンローズ)の無限階段のような、奇妙な構造とも言える。
これ以降、三角形のように平面化して書かれるグラフには、本来このような奇妙さが含まれていることに留意されたい。
また、3レイヤーサイクルの構造にある「辺(矢印)」に注目すると、皆、局所的には上下関係が決まるが、全体としては決めることができないようになっている。本稿では、この構造を権力分立の条件(1)(2)(3)の表現として使いたい。
なお、この構造が第0章で「じゃんけん(非推移的な戦略間の関係=サイクル)」を出しておいた理由となる。ここから先の話は、先の「ゲームの幾何学」が持つ横断面一枚について語っているともいえるだろう。この後の議論のように、断面に関する条件を色々変更すると、それを積み重ねてできる図形(「壺」の形やサイクルの大きさ)も連動して変わるはずなので、「適切なサイクルの長さ=横断面の大きさ」という問題にも自然な結論が出てくる可能性はある。
この節の最後に、3レイヤーサイクルの奇妙な構造と、それを構成するレイヤーと矢印という要素について、三権分立との違いを明確にし、イメージを平板化させないための比喩を示しておきたい。
Photoshopという有名な画像編集ソフトには、レイヤーとチャネルという概念がある。レイヤーは、イメージを層として重ねることで画像を構成する概念であり、チャネルは、その層を貫いて、いわば縦に作用することで画像を制御する概念だと言える。
本稿では、「国民」「政府」「世界」を「レイヤー」とするならば、それらを制御する「シグナル(暴力・政策・忖度・予想など)の方向」を表現する矢印は「チャネル」である、というイメージで、レイヤーと矢印を捉えている。
4. 3レイヤーサイクルとレイヤー間の制御(矢印の向き)
先に示した図4の右部分(下に図11として再掲)を再度見てみよう。この例では、民主主義は国民主権であるから、政府は(本来ならば)国民に制御されている(はずである)。
よって、制御を表す矢印の方向として「国民」→「政府」となる。だが、これだけでは三権分立の実質的な二層構造と同じである。
「世界」は、上述した「世界→国民→政府」という三層構造においては、最上層(メタレイヤー)として二層の上に乗っていた。国際情勢の悪化による貿易制限や戦争、災害や資源枯渇による生活への影響などという形で、「世界」は国民の生活を制限し、影響力を行使する。だから通常の場合、矢印の方向(制御シグナルを伝える矢印の方向)は「世界」→「国民」となる。
一方、「政府」は、三層構造では最下層(オブジェクトレイヤー)である。しかし、「政府」は、個人や民間では持ち得ない、集約された大きな力と大きな予算を行使できる。つまり、外交や軍事力によって国際情勢に介入したり、ダムや防波堤を作ったり排出ガス規制を行ったりすることで、最上層である「世界」に介入できる。よって矢印の方向は「政府」→「世界」となる。
これにより、下の図のように、「世界」「国民」「政府(立法・行政・司法)」の3つのレイヤーが循環的にお互いを制御する3レイヤーサイクルが成立する。
制御と被制御、メタレベルとオブジェクトレベルが、無限階段のように重なり合うこの構造により、「外部」も「メタのメタ」もない状態での相互制御構造を、(この状態が「理想」なのかという議論とは別に)とりあえずシンプルに表現することができる。
3レイヤーサイクルによって、王様もなく、外部もなく、メタのメタもない状態が表現可能となるのは、それが、「局所的にはメタとオブジェクトの上下関係が決まるが、全体としては決まらない」という、上下関係(制御と被制御の関係)が循環する構造を持っているからだった。ただし、このような構造は、制御チャネルの方向(矢印の向き)が一貫している時にだけ成り立つものだ。
たとえば、緊急時には、例外的に制御チャネルを表す矢印の方向が逆になる場合も考えられる。2020年以降のコロナ禍のように、外出禁止やマスク着用など、政府が国民の行動をある程度一時的に制約する必要がある場合もある。
この表現では、そのとき「国民」に対して、「政府」と「世界」の二者が矢印を向けることになる。この場合、国民が「一方的な弱者」=制御されるだけのレイヤーとなるため、3レイヤーサイクルの制御の循環構造は崩れてしまう。
この場合、「政府」は事実上誰にも制約されない「王」になっている。国民と世界を一つの存在とみなすと、「政府」が一方的に「政府」→「国民、世界」という支配関係を持つことになり、実質的な二層構造が出現するからだ。一方、「国民」に注目すると、「政府・世界」をあわせた存在から、「国民」は支配されているとも解釈できる。この見方でも、「政府・世界」→「国民」という二層構造になる。どちらにせよ循環による相互制約は破綻する。
歴史的に見て、こうした権力分立の「一時的」不均衡は、(優位なレイヤー内アクターに利用されて)永続化する傾向があり、様々な権力の腐敗につながってきた。この問題については別稿で扱う。
5. 三権分立は政府の内部構造
3レイヤーサイクルと三権分立は一見すると似ているので混同しやすい。が、全く別の構造である。混同しやすいので、この点について、以下で説明してみよう。
各レイヤーは、均質な一枚岩ではなく内部に構造を持っている。たとえば、本稿で注目している、国民、政府、世界の3レイヤーサイクルの各レイヤー内部を、次のように二軸に分割してみることもできる。
- 国民……一般的な国民と、ある種の既得権益層
- 政府……改革派の官僚と、保守派の官僚
- 世界……自然環境としての側面と、国際関係としての側面
それぞれのレイヤーについて、これに限らず別の内部構造を見出すこともできるだろう。
いわゆる三権分立は、本稿の表現では「政府」という一つのレイヤー内部における、このような構造の一つと解釈することができる。
たとえば次の図に示すように、3レイヤーサイクルの「政府」部分を展開すると、その内部構造として、立法、行政、司法の3つを見出すことができる。この場合、形式的には政府の内部で三者は独立し、権力を分立していることになっている。
そもそも、ここで「三権分立」を取り上げた理由は、それが「権力分立」概念の典型例としてしばしば取り上げられるものであり、同時に、我々が表記する3レイヤーサイクルと混同されやすいということがある。
3レイヤーサイクルと三権分立は、どちらにも3つの権力主体が登場するため一見同じものに見える。が、前者は「権力の制御と被制御、あるいはメタレベルとオブジェクトレベルというレベルの違いから見た権力分立の構造」であり、後者は「政府という特定レイヤー内部の構造」だという観点で区別される。そして、この区別が必要なのは、三権分立が実は2レイヤー構造になっていると指摘したように、ある特定のサイクル構造自体に潜在する隠れた権力分立の破綻を検出したいからだ。三権分立(と2レイヤーサイクル)という枠組みでは、この問題を表記することすらできない。
6. 「政府、世界、国民」という3レイヤーのサイクルと、制御チャネルの向き(正方向と逆方向)
6.1 3レイヤーサイクル構造
権力分立としての3レイヤーサイクル構造は、制御チャネルの向きを示す矢印がサイクル全体として一方向であることによって成り立つ。自然災害時の3レイヤーサイクルの例で示したように、矢印の方向が一カ所でも変わると権力の不均衡が起こり、一方的な弱者が発生する。ゆえに、権力分立の構造としては不適格になる。一方、もしすべての矢印が逆方向になる(サイクルが逆回転となる)ならば、3レイヤーサイクルの全体的な循環構造は維持されるので、(「国民が政府に制御される」などの是非は別として)権力分立自体は成立したままと考えても良いだろう。
これだけだと観念的すぎてイメージが湧きにくいので、以下、正方向と逆方向それぞれの状態例を、図と箇条書きによって示す。
6.2 サイクルの方向 Normal(正方向の場合)
サイクルが正方向の場合については少しだけ前述したが、違う例で見てみよう。
まず、「国民」から「政府」への働きかけは選挙や世論調査などを通じて示される。それをここでは「統計的意思決定」と呼ぶ。
次に、「政府」から「世界」への介入は、国際社会に関しては外交や軍事介入を通じて、環境に関しては治水工事や資源開発を通じて行われる。それら行為の目的は「境界条件(=問題を解く前提(環境)の)向上」にあると言えるだろう。
「世界」から「国民」への圧力は、国際社会から来るものとしては情勢変化による生活レベルの低下、自然から来るものとしては気候変動による生存への脅威・苦痛などがある。それは大雑把に言えば、世界が国民につきつける「資源制約」である。
なお「植民」や「軍事介入」が、境界条件の「向上」になっているのに違和感を感じるかもしれない。だが、植民される側や軍事介入される側を無視して(利己的な)一国を考えているので、このような表記になる。換言すれば、権力分立と善悪の問題は別なので、このような表記で良い。
6.3 サイクルの方向 Reversal(逆方向の場合)
今度はサイクルが逆方向の場合を検討してみよう。「政府」から「国民」への制約は法による規制や情報利用の制限、あるいは暴力を通じて行われる。それは国民の「(意思決定可能な)選択肢の範囲限定」だと言える。
「国民」から「世界」への働きかけは、国際社会に関しては(人権など)普遍的な権利の獲得や植民地の設営、環境に関しては観光や資源搾取としてあらわれる。これは国民による世界からの「資源獲得」だ。
「世界」から「政府」への圧力は、国際社会としては国際法などの国際間のルール制定による拘束、環境としては公害など環境変化による支出の増加などがある。世界からの圧力により、政府には「境界条件悪化」が突きつけられる。
3レイヤーサイクルでは、ある時間において正方向か逆方向かのどちらかの循環さえ成立していれば、権力は分立されていることになる。また、一時的に不均衡が起こったとしても、それが、自然に、あるいは制度設定により(十分短い時間で)回復可能であれば、分立していると言ってよいだろう。
また、上の例(たとえば「資源獲得」など)を見れば、局所的にどちらの向きが「正しい」のかはかなり相対的な問題で、重要なのは分立性が維持されていること、つまり矢印の部分的逆転による弱者の固定化(2レイヤー化)が起きないことである。この点を理解しないで、局所的な矢印の向きがどちらでもいいという点にばかり固執すると、何もかもが「発言者のポジションに依存する」という態度に導かれやすい。
あるいは、たとえ全てをポジショントークとする観点が正しくても、全体の構造にある質的な差(サイクルの成立、不成立)はポジションから独立に存在する、としてもいい。局所的な相対主義は、全体の相対主義を帰結しない。
もちろん、この図式全体が「我々(VECTION)のポジショントーク」なのだから、やはり(全体に関する)相対主義を作り直せる。だが、すぐ分かるように、我々を相対化する「あなた」の視点を包含した新しい3レイヤーサイクルもまた作ることができる。この「メタ」に立つ視点(レイヤーの追加)には「終わりがなく」みえる。しかし実は、この作業に 「終わりがある」ようにできるのかもしれない、というのが、権力分立に関する議論が古くて新しい由縁となる。また、この(すぐに「外部にあるメタ的な視点」を取り込んでしまうという)点を強調することに、我々が「レイヤー」という概念を使う理由がある。
それゆえ、サイクルを維持する仕組みがとても重要になる。だが、一時的な不均衡が永続するのを拒む仕組みは、そもそも3レイヤーサイクルに内臓されていない。しかし、その点について考えるのは本稿に続くはずの論考の目標になるだろう。
7. 結び
我々はまず、「三権分立」が実は「国民」と「政府(立法・行政・司法)」による二層構造(2レイヤー)であることを指摘した。そして、そこに「世界」を加えた3つのレイヤーによって権力分立を考える表現を提案した。「世界」「国民」「政府」の3つのレイヤーが、3レイヤーサイクルを形成することによって、無限階段的な相互制御が可能になり、王様もなく、外部もなく、メタのメタもない形での権力分立が(実現可能性・持続可能性はとりあえず別にして)表現可能になる。
3レイヤーサイクルは、正方向であろうと逆方向であろうと、矢印の方向がそろっている場合に機能する。だが時に、一部だけ矢印の方向が変わって、不均衡が生じてしまうことがある。
また、この原稿では触れていないが、3レイヤーサイクルは、それぞれのレイヤーが自律的である場合は機能する。しかし、たとえばどこが2つのレイヤーが癒着した場合には破壊されるだろう。
我々はこれらのレイヤーサイクルの「劣化」対策として「フェアネス評価」という手法を考えている。これにより、王もなく、外部もなく、メタのメタもない構造でありながら自律的に権力分立が保たれる仕組みを模索したい。この点については次稿「3レイヤーサイクルと劣化」および、続くはずの「本論」で示す。
本稿はそもそも、忖度や癒着が発生しないような権力分立の形式(構造)についての考察を重ねる(「本論」)なかで、いわばその副産物のようにして生まれたアイデアに基づいている。よって、本稿は、その本論に対するイントロダクションなので、興味を覚えた方は、続きを待ってほしい。
8. 次稿へ、そしてその先へ
下の図は、我々の前回のエクリ掲載記事『r/place的主体とガバナンス – 革命へと誘うブロックチェーンとインターフェイス※10』に掲載した図だ。
3レイヤーサイクルがすでに書いてある。実は、下で触れる5レイヤーサイクルなどもすでにこの時からあったものだ。
我々は、3レイヤーサイクルの弱点の克服について考えをすすめ、その一つの結論として、対称/非対称5レイヤーサイクルというさらに発展した構造に至った。
下図は、「本論」で最終的に提示される非対称5レイヤーサイクルと対称5レイヤーサイクル構造のレイヤー間制御の関係とフェアネス評価のターゲットを図示したものだ。本論の結論をここに先に書くと、できる限り少ないレイヤー数で、王もなく、外部もなく、メタのメタもない構造を維持しながら、自律的に権力分立が保たれることを(実効的に)期待できる構造が、対称5レイヤーサイクルとなる。
このような構造は、あくまで抽象的、形式的な思考の結果であり、それぞれのレイヤーにあたる具体的な対応物(「政府」や「国民」など)が常に想定されているわけではない。ほとんど机上の空論で、実現性もなく無意味な思考と感じる人もいるだろう。
だが、第1章で提示したような、高度に発達したAIが我々の意思決定を補助するという未来像を考えてみよう。一人一人の人間が自己主張と政治を行うことで集団の意思が決定されるのではなく、人々の欲望を高精度に拾うことの出来るセンサーと、それを人間以上に解析しうるAIがあるとする。そのときに我々の社会の権力分立は、「世界(AIにとっての「自然」としての人間を含む)」と「強力な意思決定システムとしてのAI」という2つのレイヤーによって構成されることになる。
本文でも触れたように、2レイヤーシステムでは、権力は分立しない。では3レイヤー目、5レイヤー目はありうるのだろうか?それはまだ「政府」なのだろうか?それとも他の原理を持ったレイヤーが追加されるべきなのか?
我々は、たとえ意思決定を実質的にAIが担うようになったとしても、複数のAIや制度的目的の間での権力分立(相互規制)は必要であり、その場合にも、この構造に対する結論は(形式的な思考の結果であるが故に)有効であると考える。その制約構造自体は、基盤となる知性が同じロジックを共有しているなら、AIにとっても逃れがたいはずだからだ。
もう一度ゲームの幾何学とその図形に戻ろう。あの「(戦略のサイクルが積層して作る)壺」の横断面が各種レイヤーサイクルなら、「ゲームに勝つこと」以外目的を持たず、「ルールの公正」さをAI研究者が担保している時に成立するあの形は、もっとも単純な設定でサイクルが積み重なった形状を示す。
しかし、レイヤーサイクル内に拘束条件が増えていく時、あるいは公正さを目指して増やしていく時、それが積まれた形はまだ見ぬ幾何を内包するしかない。もちろん、その「壺」の形はまだ誰も見たことがない。
だが、その形が未知である程度、それが誰にとっても未知であるという事実、その図形が持つはずの膨大な潜在性は、そのまま、相対主義と虚無そして全体主義へという道を退ける希望の強さを意味する。本稿は、ある意味、次の世代に属する知性への手紙であり、我々の前に姿を現し始めた、権力分立と希望の幾何学を描く「ラスコーの壁画」かもしれない。
Credits:
原案:西川アサキ
草稿執筆:古谷利裕、西川アサキ
同時編集:VECTION
作図:掬矢吉水
本稿は、既に発表された以下のテキストを再構成し、加筆したものです。
2021/10/16|社会的シンギュラリティ、センサー計画経済、権力分立の未来
『三権分立の脆弱性を修正する』より
2021/07/25|補遺: 「多様性」なら何でもいいのか? ー Google vs Pynchon
2021/07/17|Part VI: 結び
2021/07/11|Part V, 2/2: 局所的な逆転、相対主義、権力分立維持
2021/07/03|Part V, 1/2: 政府、世界、国民とチャネルの向き
2021/06/20|Part IV: 三権分立は政府の構造
2021/06/13|Part III, 2/2: レイヤー間の制御と矢印の向き
2021/06/05|Part III, 1/2: 「世界」の入った3レイヤーサイクル
2021/05/22|Part II: 三権分立は2レイヤー構造である
2021/05/16|Part I: 権力分立の条件と国民の位