エモーション😜のなかに生まれる空白💬

2015年の言葉としてイギリスのオックスフォード辞典が選んだのは「うれし泣きの顔文字😂」であった。その選定にあたって、「速さと見た目を重視する21世紀のコミュニケーションに、従来のアルファベット文字が付いていけなくなっている」ことが指摘された。確かに、140文字以内の短文🐤で気持ちを伝えたり、画像🎆🌋🗼を次々に送り合ったりというように、オンラインのコミュニケーションが速さ🚀と見た目👑を重視するなかで、私たちはこれまでの基準からすれば、熟考することなくメッセージ📨📧💌をやりとりしている。

デザイナーのたかくらかずきは、オックスフォード辞典と同様に、絵文字がSNS以降のコミュニケーションに適した文字であることを踏まえて、「感情」という観点から次のように指摘している。

SNSのような、口語的で瞬間的なやりとりには、それらを想像する時間も文字スペースもない。想像している間に、タイムラインは流れてしまうし、140文字では伝えきれない。そんなときに表情が分かる言葉や情景、身振り、声色の感じが分かる文字が、一文字あったらどうだろうか。絵文字はそんなふうに、SNSとぴったり寄り添うことになった。EMOJIは、奇しくもその名の通り、感情(エモ)を表現する「文字」として、世界に受け入れられた。たかくらかずき「SNS以降の視覚表現「絵文字」はそのシンボルとなる」

たかくらの言う通り、SNS以降のオンライン空間では、十全に意味を伝えるための時間もスペースもなくなっている。その少ない時間とスペースを意味で埋めようとして、「表情😗が分かる言葉や情景🌠、身振り👌、声色🎶の感じが分かる文字」がテキストに挿入され、メッセージに感情を与えていく。

その端緒は、Facebookの「いいね!👍」にあったのかもしれない。「いいね!」は絵文字👍ではないが、ボタンひとつでリアクションを示すものであった。それが良いか👍悪いか👎はともかく、クリックするだけで伝わる超低解像度の情報だからこそ、瞬時にリアクションがとれることは確かだ。

絵文字👄なら、Facebookの「いいね!」よりも解像度の高いリアクションがとれる。ただし、「いいね!」にあって、絵文字にないものがある。

絵文字を言葉として考えたときに、音声が付随せず、インターネット上では世界中の多くの人々に伝わるのにインターネット外では一切発言できない言語というふうに考えると、とても不思議だ。たかくらかずき「SNS以降の視覚表現「絵文字」はそのシンボルとなる」

絵文字は発音できないという、たかくらのこの指摘は、当たり前すぎるかもしれない。これまでにも、発音を伴わない「!」や「?」といった記号はあった。しかし、誰も発音できない言葉が突如として大量に現れ、全世界的に使用されているのは、やはり奇妙な現象である。Facebookの「👍」には「いいね!」という「読み」が与えられているのに対して、絵文字🚤には絵文字🍪が示しているものの説明は与えられていても、読みは与えられていない。説明を読みと考えることもできるが、実際に読んでみると、絵文字😞の部分では読みがなくなる。

たとえば、「今日はいい日だった😊」という文を音読または黙読するときに、「😊」を言葉に置き換えて読む人はほとんどいないだろう。もし読むとしても、「笑顔」「スマイル」「ニコッ」などと、その読みは人それぞれに異なるはずだ。「今日はいい日だった」という文字列に、「😊」は楽しげでハッピーな感情や感覚を付与するが、それ自体は読まれない。絵文字👤は文のなかで音として「空白」になるものの、文が全体として示すエモーションのトーンを決める役割を果たしている。

絵文字😉の身体性💪

アートユニット・エキソニモとして活躍する千房けん輔は、Twitter🐤の短文表現や、Instagram🗻などでの画像コミュニケーションで多用される絵文字⚽️のやりとりを、「理屈だけでは使いこなせない、身体に寄り添った「反射神経的」なコミュニケーション手法だと感じる」と述べた。千房はそれに続けて、こう書いている。

先ほど「反射神経」と言いましたが、絵文字にはひとつの文字の中に沢山の意味や感情を込めることができ、しかもそれがコミュニケーションの文脈によっていろいろに意味を変えるということから、いわゆる”文字”のようにどこでどう使っても意味自体は変わらない記号よりずっと高度で、それがまるでテキストの中に現れた身体性のようなものではないかと思っています。千房けん輔「デザイン・サイコメトリー 見えないデザイン 第18回」

絵文字🐩を「テキストの中に現れた身体性」とすることは、絵文字🌵が読みの空白を伴うことと合わせて考えると興味深い。読みという行為を伴わない記号が、テキストの内部に身体性をつくりだす。それは、読みがないこと、つまり言語として確立されていないことで、意味が多様になり、それを受け取ろうとする身体と結びつくためだろう。

千房は落語家を例に出しながら、落語👴では話すテキストが同一でも、しぐさや間、声の調子といったテキスト以外の部分🎧によって、まったく異なったものになると指摘する。そして、「メッセンジャーでのやりとりの中でも、絵文字が入ってくることで、笑ったりちょっと困ったり、飛び跳ねたりずっこけたりといった身体的な表現が自然に伝わるようになりました」と書いている。

千房が指摘するように、「しぐさ」や「間」といったオフラインでの非言語的コミュニケーションを、絵文字🌴がオンラインに持ち込んだということはできるだろう。ネット上では、感情や身振りを示すために、読みを持たない絵文字🌻に見られる意味の不確定性が利用されている。多様な意味を生み出す絵文字🗽の読みの空白が、テキストに身体性を招き込んでいるのだ。

インターフェイスのモード💻と絵文字🎮

インターフェイスの観点からは、「テキストの中に現れた身体性」をどのように考えられるのか。イヴ・ジャンヌレは『世界の文字の歴史文化図鑑』に収録された論考「書くことと情報メディア」で、次のように書く。

一つしかない画面───ただしその形状は変化しうる画面───上に、さまざまな異なったドキュメントを表示することを可能にしているのは、この機械に記入されたコードと、目に見えているディスプレイ表面とのあいだの関係なのである。読み手にとっては、これらのオブジェクトは一つの画面として目にうつるが、しかしそれは、これらのオブジェクトの性質の解釈を統合する、さまざまな処理によって可能となっている。例えば、文書は「テキストモード」(文字列)としても、「イメージモード」(空間構成)としても処理されることが可能となる。アルファベットのコードから解放されることで、コンピューターシステムは、動作、テキストの画像入力、その空間操作を徐々に押しすすめ、イメージの読み取りに基づく解釈を現代に復活させたのである。こうしてインターフェース工学が、テキストのフォーマットや、そのイメージ入力、画面上での操作に用いられる手段を開発したことにより、音読と黙読に続く新しい読み取りの形式としての、「動作による」とでも言うべき読み取りが確立されたのである。イヴ・ジャンヌレ「書くことと情報メディア」

ここでの「動作」の主体は、ヒトではなく、コンピュータである。コンピュータはコードを処理することで、テキストを文字列としても、画像としても表示する。このような状況をジャンヌレは、「テキストは物質化されないわけではないが、個々の物としての性質を失い、機械的な処理によってテキストを読みだす、動作による読み取りの行為に応じ、都度、繰り返される一回性の出来事となった」と指摘する。コンピュータが主体となる「動作による読み取り行為」によって表示される画面に、ヒトが反応することになったのだ。

「動作による読み取り行為」のひとつの結実であったのが、「アイコン」💾の誕生👶だろう。アイコンは、コマンドを覚えてタイプするCUI(キャラクター・ユーザー・インターフェース)から、見て選択するGUIへと、コンピュータ操作の原則を変えた。CUIからGUIへの変化は、コンピュータの画面が「テキストモード」から「イメージモード」へと移行したことを示す。それは、キーボードでの一文字ごとの選択を、画面上でまとまった意味をもつ「絵」🎨の選択へと変化させた。その結果として、ヒトは「指差し」👈という最小限の行為で、ある程度まとまった意味をコンピュータに示せるようになった。しかし、それはコンピュータが前もって遂行した「動作による読み取り行為」に対するヒトの反応である。だとすれば、一定の意味や感情を示す言葉を、コードとしてコンピュータに登録しておけば、ヒトは積極的に「コードの選択」というリアクションをするようになるのではないだろうか。そのようにして生まれたコードが、絵文字🎊なのである。

コンピュータのインターフェイスは、操作に必要な要素をあらかじめ画像として表示することで、操作に必要なヒトの行為を「指差し」👉のみにしていく流れにあった。そして、身体的な行為を最小限に抑えたまま、画面上のテキストに身体性を組み込む手段として、絵文字🍝がテキストフィールドに入り込んできたと言える。

日常的コミュニケーション📢のスリル💦

ここで、インターフェイスに絵文字🍲が持ち込まれた理由を、絵文字を入力するヒトの側から考えるために、演出家・脚本家の岡田利規が書いた演劇論「演劇/演技の、ズレている/ズレてない、について」を参照したい。

しぐさは、言葉からではなく、〈イメージ〉から生成されてくるものだと僕は思っています。そして言葉もまた、〈イメージ〉から生成されたものとしてパフォームされるべきものだと、僕は思っています。……ここでいう〈イメージ〉とは、言葉という形や、しぐさという形を取る以前の、グロテスクな塊のような状態のものが溜まっている場所みたいなもののことです。人はそこから言葉という形にして、あるいはしぐさという形にして、一部を取り出してみせます。岡田利規「演劇/演技の、ズレている/ズレてない、について」

岡田の指摘に沿うならば、テキストと絵文字👶は、それらが形になる前の「グロテスクな塊のような状態のもの」からつくられることになる。言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションを、同じソースから発生したものと考えてみると、テキストフィールドという同一の場で線形的に並べられるテキストと絵文字👨‍👨‍👦の関係を捉えやすくなる。

ヒトはもともと、オフラインのコミュニケーションのすべてを、テキストフィールドに持ち込みたかったのではないだろうか。そのために、ヒトはコンピュータにおける文字を規定するUnicodeでコード化された記号を利用し、「:)」や「(^^)」といった顔文字をつくりながら、コミュニケーションを行なってきた。そしてついに、絵でもあり文字でもある絵文字👨‍👨‍👦‍👦をコード化することで、コンピュータでのコミュニケーションに「しぐさ」を取り込んだ。

岡田は〈イメージ〉から「言葉」と「しぐさ」が発生すると述べたが、コンピュータではもともと言葉しかコード化されていなかった。そこに後付けで、しぐさを絵文字⛳️へとコード化して、〈イメージ〉をつくったのだろう。いや、そもそもコンピュータでは「言葉」も後付けなのである。コンピュータではヒトとのコミュニケーションがすべて後付けであり、それゆえにUnicodeという統一コードをつくることができたともいえる。その結果、テキストフィールドで言葉としぐさを同様に扱えるようになり、日常的コミュニケーションにおける身体性がコンピュータに持ち込まれた。Unicodeは絵文字🎰を取り込んだことで、言葉ではなく「グロテスクな塊のような状態のもの」💨を、そのままコード化📖したのである。

では、Unicodeが言葉のコード化だけで満足できなかったのはなぜか。ここでも岡田を参照しよう。

話をする身体の中には、言葉がパフォームされる際のリズムと、しぐさがパフォームされることのリズムとが、並行して身体の中を走ることになるわけです。そのときふたつのリズムが、その都度一致したりズレたりする。複数のリズムが並行してひとつの身体を走ること、その拮抗が、スリルを惹起します。これが僕の言う「スリル」です。岡田利規「演劇/演技の、ズレている/ズレてない、について」

絵文字💍はテキストフィールドのなかで、言葉とは異なるリズムで使われる。テキストフィールドに言葉と絵文字🎯のふたつのリズムが走り、そこにスリル💦が生まれる。それが絵文字🐮を巡る現状であり、これからも絵文字🏄はそのスリル💦を保ち続けるだろう。Unicodeは言葉と共にあるしぐさや声色などといった身体性を絵文字🏊として実装し、異なるリズムを持つ言葉としぐさを並行して使用できる環境をヒトに提供した。ヒトはテキストフィールドに、日常的コミュニケーションで感じているスリル💦を持ち込みたかったのだ。しかし、それは逆に、コンピュータがUnicodeという仕組みを用いて、ヒトの「グロテスクな塊のような状態のもの」を取り込み、感情や声色といった身体性というコード化しづらい領域さえ、コードとして処理できるようにしたことも意味するのである😋😋😋