テクノ画像📺と意味の旋回性🍥

ここで、テキストフィールド内の絵文字🐴を考えるために、ドイツのメディア論者であるヴィレム・フルッサーを参照したい。フルッサーはヒトのコミュニケーションを、画像、テキスト、そして「テクノ画像」という3つのコードに分ける。フルッサーによると、ヒトは世界を説明するためにまず画像を描き、その後、画像を説明するためにアルファベット🆎を発明し、テキストを生み出した。そして、そのテキストが説明する世界を明解に示すため、画像が表す概念に意味を与えるテクノ画像が現れたとしている。カメラ📷などの「装置」と、その装置を操作する「オペレーター」が融合した複合体によって、線形的テキストがコード変換されて生み出されるもの、それがテクノ画像である。

画像は世界を平面的に記述し、ヒトはその画像平面を旋回🍥しながら、そこに描かれた意味を認識していく。その平面的で旋回的に絡みあった意味を直線のように引き延ばしたのが、テキスト📚である。画像の密度が上がりすぎて世界を認識できなくなったときに、テキストの線形的認識が現れ、世界を明晰判明に把握していった。しかし、この線形的認識でも、また世界を把握しきれなくなったときに、テキストを説明する画像としてテクノ画像が現れたのだ。

フルッサーの3つのコードから考えると、絵文字👽はテクノ画像と位置づけられるだろう。だが、絵文字🔞にはテクノ画像といえない部分もある。テクノ画像は、道路標識⛔️や天体写真🌠のように単独で使われたり、ポスターや新聞📰で使われる写真のようにテキストと並置されたりして、テキストの意味を説明する画像として機能する。それに対して、絵文字🐬はテキストフィールドのなかで、テキストとともに使われるからである。

また、絵文字📚は主にテキストの線形性のなかに組み込まれて使われるという理由から、芸術作品としての絵画🎨のように、平面的で旋回的な認識をつくりだす「伝統的画像」とも異なる存在と考えられる。しかし、絵文字🚽はテクノ画像でも伝統的画像でもないとはいえ、画像であることには変わりない。だから、伝統的画像のように平面全体を旋回させる認識をつくることはできなくても、テキストがつくる意味の線形的な流れに旋回性🌊を持ち込むことはできる。

しかも、その旋回的な意味🌟は、読みの空白💬とともに発生する。そのときテキストフィールドでは、絵文字🌙によってテキストがつくる直線状の意味を曲げて円環状にしようとする力が働くと同時に、旋回させられた意味をテキストの線形性が引き延ばそうとする力も働く。そこでジェットコースターの宙返りのように、意味がクルッ🌀と回って、あっという間に通りすぎていくこともあれば、あさっての方向に飛んでいってしまうこともある、というスリル💦が生まれるのだ。

絵文字🍢を入力するときに起きていること

演出家・脚本家の岡田利規は、言葉としぐさは固有のリズムを持っていて、それらはめったに同期することがないと述べている。そして、しぐさのほうが言葉の生成速度よりも必ず速いとしている。その理由として、「しぐさのほうがアブストラクトな状態のまま現れることが可能だから」と書いた

絵文字👞にも、このことはそっくり当てはまるだろう。絵文字🎒の意味は言語のように明確ではなく、少なくとも今のところ、まだその意味はアブストラクトである。入力した「🎒」がランドセルという具体的なモノを示しており、それを含むテキストが小学1年生の入学式についての文章であったとしても、テキストフィールドのなかに現れた「🎒」は「ランドセル」という文字列よりもアブストラクトな状態になる。それは、絵文字👓がもともと、しぐさを担うためにコード化されたものだからである。入力するとき、明確に文字として認識する前に選択されるから、なぜその絵文字🔮が使われたのかという理由は、はっきりしないのである。

ここで、絵文字🍕を選択するときの感覚を追っていきたい。今ここでは、「🍕」を選んだのだが、そのときに意識は少し「🍕」にもっていかれる。といっても、その後で「ピザ」や「ピッツァ」という文字を書いてみると、意識が急激にその文字列が示す意味に持っていかれた。「🍕」と入力したときは単に「🍕」でしかなく、これは「ピザ」や「ピッツァ」という文字列とは異なり、意識の流れにほんのちょっとだけさざなみを立てる感じである。流れそのものはテキストが引っ張っていく。感覚としては、テキストがつくっていく流れのなかに、「🍕」という「絵」を置いているという感じである。

しかし、キーボードを絵文字ビューアや絵文字キーボード※1に切り替えて絵文字😅を入力するときには、ちょっとした間ができる。また、例えば「えがお」という文字列を入力すると、利用環境によっては変換候補として「😊」や「😁」が出てくるように、文字列から変換できる絵文字もある。これらの絵文字は、文字を入力するのと同じ感覚で打ち込んでいるのだが、その文字列が「😊」と「😁」のどちらになるかによって、少しずつニュアンスが変わってくる。それは、日本語であれば「ひらがな」「カタカナ」「漢字」と、文字の種類を変えることと同じようなものなのかもしれない。だとすれば、アルファベットのような単一種の文字だけを使う言語での絵文字入力では、それとは違った感覚が生じるのだろう。

いずれにしても、絵文字😝を書くときの変化は、やはり、絵文字ビューアや絵文字キーボードを表示してから、絵文字😶を入力することにあるのだろう。絵文字キーボードで絵文字を入力する際に生じる、キーボードを切り換えるという行為が、テキスト入力の流れに断絶をつくりだし、ヒトの意識に変化を与える。断絶とは言い過ぎかもしれないけれど、テキストを入力する流れのなかで絵文字🔗を使おうとするとき、テキストを書いている流れに変化が起こることは確かだ。

書く文字📝から、選ばれる文字👈へ

絵文字🍒は読みと同様に、書きにも「空白」をつくり、テキストの流れに変化を起こす。絵文字💣の入力は、「書く」というよりは「選択する」という感じであり、それは、入力方法を切り替えて絵文字🔪を選択するさいに、テキストの流れがいったん止まることに起因している。

しかし、絵文字ビューアにしても絵文字キーボードにしても、すべての絵文字📂がそこ✏️にあり、そのなかから選ぶという点では、通常のキーボードと変わらない。もともとキーボード自体が、文字をピックアップするための装置であった。キーボードは、すべて✏️のアルファベットをあらかじめ外に出して示している。あとは選んでキーを押せばいい。「K」を入力したければ「K」のキーを押すだけで、画面に表示される。

フルッサーと同じドイツのメディア論者であるフリードリヒ・キットラーは、蓄音機🎶、映画🎥、そしてタイプライター📃の3つを、近代の技術が生んだ特筆すべきメディアで🙆あると考えた。それらを論じた書籍『グラモフォン・フィルム・タイプライター』で、彼は次のように書いている。

キーボードにみられる一定の数の、かつ一定の配列の文字からの選択であるような書字を、はじめて可能にしたのはタイプライターである。この書字には、いまはすたれた植字工の活字箱をつかってラカンが示してみせたものがそっくりそのままあてはまる。つまりタイプライターの書字では、切れないで流れるようにつながってゆく筆跡とはちがって、それじたい目立たず、スペースによって個々に分割された要素がただ横並びに連結されているだけなのだ。サンボリックなものとは、だから要するに、ブロック文字というステイタスのことなのだ。フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』

コンピュータのキーボードの先祖ともいえるタイプライターは、文字を「スペースによって個々に分割された要素がただ横並びに連結されている」という状態にした。そしてここで、キットラーとフルッサーがともに指摘するように、タイプライターがその後、コンピュータ💻と結びついたことを忘れてはならない。「タイプライターによるブロック文字の標準配置図を計算可能性という技術そのものへと転換したこと」※2によって、コンピュータがつくられた。そして、タイプライターの文字をバラバラ💔にする性質はコンピュータに引き継がれ、キーボードのみにとどまらず画面上にも、コンピュータの機能を個別に示す画像がアイコンとして表示されるようになり、ファイルやフォルダのアイコンがマウスとカーソルで選択されることになった。スマートフォンも基本原理は同じで、画面に表示されている文字やイメージを選択していく。その延長線上にソフトウェアキーボードがあり、そこで絵文字🍤が選択されているのである。

ただし、絵文字🍅が文字と異なるのは、それぞれの絵文字🍍がある程度のまとまった意味を示すことで、ヒトに何かしらのリアクションを引き起こす刺激となっている点である。「J」は「J」として特定の意味をもつことはないけれど、「🍏」はひとつで「りんご」という意味を示すとともに、絵文字🔋の絵の部分が、言葉以前にヒトに何かしらの反応を与えるものになっている。ヒトから何かしらのリアクションを引き起こす、一定のまとまりの意味をもった絵💰を選択するということが、身体的筆跡をバラバラにしてスペースでつないだタイプライターの文字とは異なるのである。

感情😵をなめらかに選択する🏄

タイプライターは書字から身体性を奪うと同時に、身体性を与えたものでもあった。マーシャル・マクルーハンは、その有名な『メディア論』において、タイプライターで書かれた詩の真髄は音読してこそわかると書き、以下のように続ける。

エリオットとパウンドは、彼らの詩の中核となるさまざまな効果をあげるために、タイプライターを使った。彼らにとってもタイプライターは、口踊的道具であり、身体の動きを模倣する道具であって、これによってジャズやラグタイムの世界のあの口語的奔放さが獲得できたのである。マーシャル・マクルーハン『メディア論』

タイプライターが「書く」という行為から単に身体性をなくす道具ではなかったことを、マクルーハンは詩人の事例から指摘する。ただ、それは文字を「読む」ことから感じられるリズムであり、絵文字🔑の空白とは相容れない。しかし、タイプライターの打鍵音が詩人にリズムを与えたと考えてみるとどうだろうか。つまり、ペン📝によって紡がれていく、なめらかなつながりの書き方から、タイプライターという装置とともに行なう、打鍵音🎶による区切りの感覚が強い文字入力へと、書字行為のリズムの変化があった、と考えてみたいのである。

マクルーハンはこの書字行為のリズムの変化をテキストから聴き取り、そこに電気⚡の時代に適した身体性を読み取った。タイプライターが、バラバラの文字を打鍵音のリズムとともにスペースで区切りながらテキストの流れをつくり、電気時代の身体性を文字列に招き入れたのだとすれば、書字行為の断絶や意味の空白、そして発音できないという絵文字🔨の「スペース」💬をつくる性質が、コンピュータ時代の身体性をテキストに招き入れたのだ。

絵文字🐲はこうしてテキストの流れに、ヒトがペンでなめらかに書くのでもなく、タイプライターとともに打鍵音をリズム良く響かせながら間歇的に文字を選択し続けるのでもない、あたらしい書字行為の流れをつくりだした。それは、コンピュータがなめらかに表示していく絵文字🗿を、タイプライター同様に間歇的でありながらも、表示上のなめらかさに引っ張られるかたちで、ヒトがスムーズに選択していくというものである。

間歇的であり、かつなめらかに続いていく絵文字🍁を含んだ文字列から、コンピュータを起点とするあらたな身体性が生まれたといえる。岡田はテキストと絵文字👶はいずれも、「グロテスクな塊のような状態のもの」からつくられると表現した。その塊を、文字ではなくしぐさのリズムで分割し、一定の選択肢としてフラットに並べて見せるのが、絵文字ビューアや絵文字キーボードなのである。文字を空白で区切り入力できるようにしたタイプライターが一文字ずつ個別の文字入力を可能にしたように、絵文字📦は本来なら途切れることのない感情😍😖😡を、あらかじめ区切るツールということができる。

そう考えると、絵文字😜を使うことを覚えた私たちが、多彩な絵文字🙀に感情や身体感覚を引っ張られて、熟考することなく半ば反射的に、なめらかにテキストを入力していることも納得できる。このことは、絵文字🏈のなかでも特に、ヒトの表情を示す顔文字😘に当てはまるところだろう。画像の選択をメインとしたヒトとディスプレイとのインタラクションに絵文字👏が入り込んできて、ヒトは自らの感情😆を、コンピュータが用意した絵文字のリストから選択していくようになったのである。

ヒトの知覚と行為の半分が、ディスプレイを起点にして始まるようになってきた状況を考えれば、テキストフィールドに絵文字😱が入り込んできたことは、コンピュータがヒトの感情を予め区切り、ヒトが用意された感情を選択していくことを意味するだろう。それは、ヒトが自らの感情をコンピュータとともに探っていくようになる、大きな変化の始まりなのである😂😂😂