インターフェースとしか言えないもの
「デザイン」という言葉が大量生産の登場と共に生まれたように、今日の「インターフェース」という言葉は、コンピュータの登場によって生まれた概念だ。コンピュータ以前の道具にとって、カメラのシャッターボタンはシャッターボタンであり、ピアノの鍵盤は鍵盤であって、インターフェースではなかった。インターフェースとは、コンピュータという新しいメタマシンを、見慣れた道具や機械に似せることで、既存の経験や個人の慣習の領域に引きずり込むための表象であった。
インターフェースを現実世界に存在するものに似せてつくる「スキューモーフィズム」。それはすでに、身の回りの素材やモノに溢れていた。木造住宅をレンガのようにみせるサイディングや、木目が印刷された壁紙、大理石のようなプラスチックなど。これらもコンピュータ以降の世界では、インターフェースと呼ばれていいものだろう。
しかし、こうしたスキューモーフィズムから「フラットデザイン」へと移行したことによって、グラフィカル・ユーザー・インターフェース(GUI)におけるメタファーは消えた。インターフェースは、メタファーを作動させる場ではなく、かつてのカメラのシャッターボタンやピアノの鍵盤と同じように、「インターフェースとしか言えないもの」になった。
ブレイン・マシン・インターフェースの登場
そうした中、脳に機械を接続する「ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)」が、近年急速に発達しつつある。このBMIが実現しようとしているのは、脳による機械や道具の「直接操作」だ。多数のニューロンの活動を同時に検出することができる電極を脳に挿入し、そこから得られたデータをコンピュータで解析することで、外界のロボットアームやマウスポインタを操作する。人間の脳のニューロンの大集団が繰り広げる、絶え間ない動的作用の一部を抽出することで、人間の思考や感情、概念やイメージを復元したり変化させようとする。それがBMI研究の目標だ。
人間の脳と機械や道具を、直接電子回路で接続することで実現されるのは、考えただけで外界を操作したり、人々の思考や概念を直接結びつけることである。こういった「直接操作」は、一度GUIにおいて消滅したはずのものだったが、今それが再び、究極の姿で復活しようとしている。
直接操作は、1989年にApple Computer社が出版した「ヒューマン・インターフェース・ガイドライン」でも示されていたとおり、GUIにおいてその根幹をなすデザイン原則のひとつであった。それはユーザーにコンピュータを意識させることなく、メタファーを直接操作しているような感覚を与える「画面環境」を提供するべきだ、という設計思想である。
直接操作から委譲への転換
古典的なスキューモーフィックGUIは、目の前にある具体的な物体を、メタファーによってあたかも直接操作しているかのような感覚を与えることで、ユーザーのメンタルモデルと行為や思考を一致させようとした。しかしながら、1996年にヤコブ・ニールセンが「Anti-Mac Interface」で指摘したように、コンピュータの性能とインターネットがその後急速に発達するにつれて、その原則は揺らぎ始める。
まずはプロセッサーやメモリの進化によって、コンピュータの容量や速度が急速に増大し、コンピュータのタスクが人間の思考の枠内に収まらなくなってきた。さらにインターネットの発達により、場所や空間の制約が希薄になることで、操作の対象が身体の枠を大きくはみ出し始めた。その結果、インターフェースは否応なしに、モノや身体を越えなければならなくなった。
そこで必要とされたのが、デザイン原則を「直接操作」から「委譲(デリゲーション)」へと転換させることであった。「委譲」とは、操作を相手に委ねること。つまり、コンピュータを自分ですべてコントロールしようとするのではなく、「良きにはからえ」と任せてしまうことを意味している。一旦操作を相手に任せてしまえば、そこに現実世界のメタファーはもう必要ない。
たとえば、1998年にGoogleが公開を始めたミニマルな検索インターフェースには、フィジカルなメタファーは存在せず、検索語をキーボードで入力するフォームがあるだけだった。それまでのウェブディレクトリやポータルサイトのような、現実世界の住所録や索引のメタファーにもとづいた、煩雑なインターフェースとは対照的だった。思い起こせば、これこそが今日のフラットデザインの源流だったのかもしれない。インターネット検索という道具は、物理世界にそれまで存在しなかったので、スキューモーフィックなインターフェースを当てはめる必要がなかった。むしろ私たちの側に、その新たな使用法や思考法が必要とされた。
僕が1999年に書いた『消えゆくコンピュータ』でも参照したが、認知意味論では言語の意味の源が、人間の身体や地球環境にあるとされる。だからメタファーを用いたインターフェースも、そうした言語と同じ構造であると主張した。インターフェースとは、その中に身体がたたみ込まれた言語なのだ。しかし脳のイメージ、すなわちニューロンの動的なパターンを検出するBMIにとって、言葉は必要不可欠なものではない。インターフェースという言語にメンタルモデルを反映させるのではなく、メンタルモデルやイメージそのものと直接接続しようとするからである。
窓と鏡のインターフェース
科学技術を社会に普及浸透させていくためには、文化や芸術の力が必要不可欠である。BMI技術も、それが多くの人に使われるようになるためには、GUIと同じようにインターフェースのデザイン、つまり「ブレイン・マシン・インターフェース・デザイン」の確立が欠かせない。BMIでWIMP※1のような既存のGUIを操作しても意味がない。1984年のMacintoshの登場時に、スーザン・ケアによるフォントやアイコンのデザインが必要とされたように、BMIのデザインにも、これまでのデザイナーが考えていなかった、新しい「何か」のデザインがきっと必要になるはずだ。その「何か」とは、一体どのようなものだろうか。
ボルターとグロマラが提示した、インターフェースにおける窓と鏡、すなわち透過性と反映性の二元性は、脳科学においても重要なテーマである、身体感覚(窓)と自己認識(鏡)に対応している。BMIにとっても、おそらくこの窓と鏡は、重要なリファレンスモデルになるはずだ。
BMIには、情報を外部から内部に伝える、人工内耳や人工網膜のような「感覚入力型」BMIと、逆に内部の情報を外部に伝える「身体操作型」BMIがあり、両者を含めて「BMBI(ブレイン・マシン・ブレイン・インターフェース)」という人もいる。BMIの実験から明らかになったのは、そのいずれのBMIにおいても、人間の脳の側が直接的に変化する、ということだ。脳に接続した電極の解像度が、脳のニューロンのスケールよりもはるかに粗くても、その少ない情報から他の情報を補完したり生成できるように、脳の側が変化する。つまりBMIにおいては、メンタルモデル「を」操作することと、メンタルモデル「が」操作することが、同時に発生している。
今後のインターフェースを未来から逆算する
BMIというインターフェースの新たなゴールを踏まえれば、人間を中心に考え、そこにインターフェースを適合させることよりも、「人間はインターフェースによってどれだけ変化できるのか」を考えることが、ますます重要になってくるだろう。BMIによって、人間の知覚や認識、概念や思考、さらには感情や行動は、その人為的なインタラクションによって変化し、そこから人間ができることや、人間そのものの可能性を拡張できる、というヴィジョンがあるからだ。
考えてみれば、BMIの登場を待たずとも、既存のコンピュータとインターフェースによって、人間はものの見方や考え方を大きく変化させてきた。BMIは、こうした「インターフェースの良し悪しは、それがどれだけ人を変化させたかで測られる」という価値観を強化し、変化と多様性を受け容れる文化を再肯定してくれる。メタファーが消えたフラットデザイン以降のインターフェースの可能性は、きっとそこにあるはずだ。