「ここにいると、気分がいいの。」
この言葉にならない幸福は、一瞬、稲妻のように言語の上を通り過ぎてそこに跡を残してゆく。まさにそれが、空間の実践なのである。ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』

空間の実践、場所の経験

「ÉKRITS / エクリ」が生まれて一年になる。振り返ってみると、ローンチ前に予期していなかったことも多くあった。

テキストのユニークさは、具体化されたテーマではなく、抽象化された執筆者の経験にあること。読者との意思疎通は、ディスコースではなくエクリチュールとして、つまりテキストの外ではなく内にあること。それぞれのエクリチュールは、相互に作用しながらクレオール化して、未来の記事やその文体に影響していくことなど。

ロゴのバリエーションロゴのバリエーション

そこで、当初に青写真として考えていたコンセプトと、一年間で経験したことをつなぎあわせて、去年書いた「エクリ散策案内」をアップデートしてみることにした。ここでの散策に目的はない。目的のための道のりがあるのではなく、道のりが目的となっていく。

コンセプトと構造的空間

コンセプトシートコンセプトシート

「ÉKRITS / エクリ」は、都市における「空間の実践」と「場所の経験」をモチーフに設計された。この2つの視点を切り替えながら、散策できるナビゲーションを配置するためである。

画面設計のメモ画面設計のメモ

まずは記事のインデックスから、散策をはじめよう。見る者(Voyeur)による、空間の実践。都市のパースペクティブ。見晴らす歓び。体系化と構造化。分類のストラテジー。論理的推論による支配の欲望。幾何学的な世界のプランニング。理想(イデアル)の地図作成。

次に、記事のノードへと移動する。歩く者(Flâneur)による、場所の経験。路上のパースペクティブ。地を感じる歓び。リズムとビート。存在のタクティクス。蛇行しながら逃走する欲望。ストリートワイズな野生の思考。憂愁(スプリーン)のスケッチ。

サイトマップとページテンプレートサイトマップとページテンプレート

ワイヤーフレームワイヤーフレーム

トランクとブランチからなるツリー構造。そこに蒐集したテキストが深く根を下ろし、森になっていくことを願いながら、エクリチュールの苗を植えてきた。Webメディアという環境は、その場所として選ばれたにすぎない。タグラインはやがて「デザインについての思想を、デザインされたテキストで届けるメディア」というものに落ち着いた。

エレメントリストエレメントリスト

森のコスモロジー、モードの宿命

ある都市で道が分からないということは、大したことではない。だが、森のなかで道に迷うように都市のなかで道に迷うには、習練を要する。この場合、通りの名が、枯れ枝がポキッと折れるあの音のように、迷い歩く者に語りかけてこなくてはならないし、旧都心部の小路は彼に、山あいの谷筋のようにはっきりと、一日の時の移ろいを映し出してくれるものでなければならない。ヴァルター・ベンヤミン『1900年頃のベルリンの幼年時代』

都市は、森が切り拓かれることでつくられた。森にまつわる神話を解体して、わたしたちが支配的に生存できるように、地表を洗い流した。だから森はどこかしら懐かしい。都市がわたしたちの精神の表象であるならば、森はわたしたちの記憶が集積した場所と言えるのではないだろうか。それはわたしたちを外面から包摂しつつ、わたしたちの内面も投影している。この弁証法は、場所に無限の奥行きを与えるのだ。

イメージの空間

「ÉKRITS / エクリ」では、そうした森のコスモロジーを8つに分光して、カラーパレットを設計した。その色は、カバー画像のバリエーションとして反映されている。

カバー画像のカラーパレットカバー画像のカラーパレット

カバー画像は、読む者の視線が光として注がれ、文体の枝葉に反射するイメージでつくられた。そのモードは、記憶の絵の具が乾かないうちに更新される。待ち受ける死の宿命を前に、そのリズムの高鳴りを感じながら。

またこれらの色は、タグに設定したキーワードのタクソノミー(分類)とは別のセリー(系列)として構成される。カテゴリー(排他的分類)ではなく、全体と前後のハーモニー(調和)を考えて展開している。

タグとカラーの相関性タグとカラーの相関性

読むこと、場所を失うこと

ミシェル・ド・セルトーは、場所にまつわる物語がブリコラージュであると言った。時と場合に応じて、世界の断片を呼び集め、つくり上げられるものであると。他所からやってきたテキストによって、意味は飛躍し、ずれて、消滅し、関係が歪められる。すでにある秩序の表面に向かって楔を打ち、穴をあけ、予期せぬ抜け道をそこかしこにつくるのだ。

こうして差異が生み出されていくプロセスを、セルトーはジャック・デリダの「散種」という言葉を借りて表現した。

発芽、散種。最初の受精というものはない。種子はまずもって分散される。「最初の」受精は散種である。痕跡、痕跡の失われた接ぎ木。ジャック・デリダ『散種』

エクリチュールの空間

編集方針と執筆ガイドライン編集方針と執筆ガイドライン

胞子や種子を散布する言表行為。デリダが散種(dissémination)という言葉を選んだのは、“semen”(種子/精子)と “séme”(意味素)の綴りが似ているという、偶然によるものだった。エクリチュールはその偶然によって、植物の種子や動物の精子のように、無邪気に意味を拡散させる。散種された意味が芽を出すのは、過去の文脈から切り離された場所である。それらは読むという具体的な手続きを通じて、静かに木々へと育ち、森になっていく。ひとつのテキストが、千の意味を持つのは、千の読み方があり、そこに千の秘密が隠されているからである。

森は人びとによって記憶された場所だった。そこは、読むという密猟によって立ち現れる、失われた場所である。読むことは、テキストに集中するだけに限らない。あちらこちらを眺めて、ふと関係ないことを思いついたり、斜め読みしながら、周りの様子が気になって顔を上げたり、後で読もうとしてブックマークしたり、印刷したり、シェアするときも、まだテキストに捕らわれているなら、その場所に留まっている。そこにたどり着いたときには、もうこの散策案内は必要なくなっているだろう。

「わたしは読み、そして夢想に耽る。してみれば読書というのは、ところかまわぬわたしの不在なのだ。」……読むということは他所にいるということであり、自分がいないところにいるということ、別の世界にいるということなのだから。それは、あるひそやかな舞台をしつらえること、好きなように出たり入ったりできる場所をしつらえることだ。ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』