モードレスデザインの非決定性
——— まずは上野さんからモードレスデザインおよびオブジェクト指向ユーザーインターフェースについて簡単に説明していただけますか。
上野学:
オブジェクト指向は、もともとプログラミングの分野で出てきた考え方ですが、1970年代以降、グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)の研究と連動して発展しました。オブジェクト指向ユーザーインターフェースとは要するにGUIのことで、オブジェクト指向プログラミングに対応させた呼び方です。どちらも、まずオブジェクト、対象というものをつくる。画面上のオブジェクトにはプログラム上のオブジェクトが対応していて、それらが自律的に動く。そういった世界観です。
ゼロックスのパロアルト研究所でGUIの原型がつくられていた当時、一般的なコンピュータは決められた手順で計算処理をおこなうだけのもので、操作体系も手続き的でした。コンピュータの性質上、ひとつの機械にいろんな機能を持たせることができるので、コマンドでモードを指定するのが当たり前だった。ワードプロセッサであれば、「今からテキストを打つ」というモードに入ったり、「今からテキストを削除する」というモードに入ったり、モードを切り替える操作が必要でした。そうやって設計していると、モードが入れ子になったりして、だんだん使いにくいものになっていきます。
実際にテストをしたところ、モードレスの方が使いやすいことがわかり、ユーザーインターフェースの操作からモードをなくそうという活動が、GUIの初期の研究のなかで強くなっていきました。
われわれが今使っているパソコンやスマートフォンは、モードレス性を意識してつくられています。それでも細かく見ると、まだたくさんモードがあります。システム業界のなかにいるような、ユーザーインターフェースデザインのことをあまり知らない人がソフトウェアを設計すると、どうしてもモーダル(モードがある状態)になることが多い。「こういう機能をつくろう」「こういう仕事をするためのシステムをつくろう」という発想では、作業が線形的にとらえられていて、「この目的のためにはこういうプロセスを経て目標状態に到達する」というひとつの流れを、設計者側が自然に発想してしまう。それにしたがってデザインすると、線形的で手続き的な、モーダルなデザインになってしまいます。
モードレスにするには、それなりのテクニックを知っている必要があって、それを『モードレスデザイン※1』に書いています。何か自分がやりたいことをするときに、モードレスなデザインでは手順があらかじめ決まっていません。自分の好きなように、好きな順序で作業をしていいし、途中で作業の目的を変えてもいい。つまり、ユーザーが自分で自分のやり方をデザインできる。
ユーザーインターフェースの操作からモードをなくしていく活動は、もうすこし広く見ると、われわれが道具を使うときの、人と道具との関わり方の話になります。たとえばハンマーにはモードがないので、どんなふうに使ってもいい。よりプリミティブな道具は抽象度が高くモードがない。同じように、より複雑な機能を持ったコンピュータのようなものに対しても、積極的にモードレスにすることで、同じような道具性が立ち上がってくるのではないかと考えています。
平井靖史:
日常生活のなかでも、ものすごく使いづらいWebの申請フォームなどがあります。所属を入れて、予算を入れて、ひとつずつ項目を埋めていかないと、次のページに行けない。しかも先のページに何の項目があるかすら見えない。
上野:
先の見えないトンネルを歩かされているような感じになるんですよね。
平井:
それが合理的に練られていて、その順番で考えていくことで楽になるならいいんですけど、そういうわけでもなく、間違った順番で拘束されている。でも何がダメなのか、何が必要なのかもわからない。
こういったことは、時間の問題と直接つながっていると思います。系列的に順序立てて物事が進んでいくものが時間だと思われているわけです。ベルクソンという人の時間哲学では、そうではない時間が本質的にある。系列化された時間は、むしろ空間化された時間であるという、時間という概念の反転が起こる。そこが上野さんの議論とつながってくるように思います。
デザインは空間の問題だと言われます。そこで空間と言われているものの空間性と、系列として表象されている時間という概念への批判が、われわれの接続可能性を見えにくくさせてきた気がします。
上野:
平井さんの本のなかで、「未完了相」や「非決定性」というキーワードが出てきますが、これらは私が言っているモードレスデザインと同じことを指している印象を受けています。道具をデザインするときには、それが「何のための道具でこう使われるものだ」といったん決めてからつくります。でも実際には、目的を物に直接貼り付けられるわけではないので、それが本当に役に立つかとか、どう使われるかは、実際に触れて使う人との関係のなかで初めて決定される。新たに生まれてくる、あるいは創発的に現れてくるものだと思います。
デザイナーがデザインするときには、もちろん何かの目的意識を持っていますが、目的に対して個別最適化し、つくり手が恣意的に決めた使い方を前提にすると、逆に使いにくくなってしまう。たまたま同じ文脈を共有していた人は、その通りに使えるかもしれないけど、ほとんどの場合そうはなりません。つまり、適合の形を厳密に想定しすぎると、それ以外の状況で不適合になってしまう。非決定性を前提とせずに、決定論的な態度でデザインをすると、人と物がコンフリクトしてしまう。
このように非決定性を重視して、物自体が使う人の文脈を拘束しないようにしようという考え方が、モードレスデザインです。そうすれば、われわれが物に接して、そこから道具性を見出していく過程のなかで、人と物との関係が豊かになって、本当に意味のある形で使われていく可能性がある。そういう可能性をデザインのなかに保存するような考え方のことです。
平井:
つくり手が使い方を理想化することによって、かえって実際の利用者側が不自由をするということですよね。まさに「決め打ち」の完結相的時間です。
上野:
あるいは、使う側があまり意識せずに、特定の行動に誘導されてしまうということもあると思います。デザインのテクニックとしては昔からあるとは思うんですが、今はそういう誘導技術がものすごく発達しています。
平井:
認知心理学を使うわけですよね。
上野:
そういったものが狡猾に活用されてしまっている問題があります。
環世界での再帰的デザイン
平井:
目的論的な閉塞は、ベルクソンでも同じような論点があります。僕の方からも、ベルクソンをあまり知らない方に向けて、先にいくつか論点をまとめておきます。
まず認知について。とくにエナクティブでエコロジカルな認知と言いますか、生物はその行動可能性によって類似空間を定義する、つまり「何ができるか」の分布を通じて「何と何が似ているか」が決まってくるという議論があります。それから、認識とその彼岸から二元論的に世界をつくっていくデカルトみたいな認識論じゃなくて、まずフラットなイマージュから始める。ここがすでにオブジェクト指向っぽいんですけど、そこからいろんな構造化や組織化が起こっていくなかで分岐が起きて、複数の時間階層が相互作用するような場が開かれてくる。そこで物理学が扱えるような範疇の物質と、そうじゃないものとが分かれてくる。それをわれわれは後から心とか魂とか呼びますが、自然の側では分けているつもりはなく、ただそうなっている。その結果、多様な現象が起きて、今回の議論の前提である存在論と方法論がくっついた世界観になるのかなと思っています。
これを「拡張された自然主義※2」と言っています。現代の哲学で自然主義はほぼ物理主義の言い換えとして使われてしまうのですが、ベルクソンは物理主義ではないんですよね。クオリアとか心といったものの実在を認めていて、自然現象としてカウントしないといけないと考えている。どうしても、物理学的に存在と言えるものだけが真の存在者であり、それ以外は派生的で二次的、ないしはイリュージョナルな存在者だという暗黙の前提がある。でも自然現象をフラットに見れば、クオリアだって生じているし、感情だって生じているわけで、それらを生み出している自然をちゃんと考えようという営みなんです。だから本来は自然主義なんだけど、現状の自然主義の範疇が狭いので、わざわざ「拡張された」と言わないといけない。
そう考えると、われわれが物に対して主観的に触れること自体も、一周して自然現象のなかで説明できる。そこに相互作用が生じ、ある対象に偏った「水路づけ」がおこなわれて、ふるまいの仕方がランドスケープとして立ち上がってくる。まさにそれが生物ごとに固有の「環世界※3」と言える空間ですよね。そのなかで、生物は物と向き合っていて、主観と客観の区別なく、行動や認知をつくっている。
上野:
環世界的なとらえ方、あるいはギブソン※4のアフォーダンス理論なんかは、かなり近いことを言っていると思いますし、デザイナーにも関係が深い話です。たとえばギブソンは、われわれが環境と呼んでいるのは物の面であると言っている。つまり、物質とその外側の空間の境界にある面を見て、それを環境だととらえている。その面が「アフォーダンスを持っている」という言い方をします。その面は、われわれの知覚と行動に対して意味を持つものであり、アフォーダンスは主観と客観にまたがっている。
われわれは生態学的な知覚世界で環境との関係のなかで生きているので、物をデザインして環境を変化させることは、われわれ自身がデザインし返されることと同じです。そういった再帰的なデザインの運動をどれぐらい自覚できるかというのが、デザイナーとして大事なことだと思います。
デザイナーはある目的のために一番いい形を提出する活動をしていますけど、実際にはデザイナーがそう思っているだけで、それ自体がどういう意味を持つのかは決定できません。常にそこには「遅延性」もしくは「非決定性」がある。
平井:
「開かれている」ということですよね。
上野:
開かれている。開かれた物をつくるべきで、デザイナーが物をつくるときに、物を決定することはできないんだと自覚することが大事だと思います。
平井さんの本のなかで「可能性空間の書き換え」とか「社会地形」という言葉が出てきます。われわれには社会生活のなかで自動的に身についている常識や慣習があり、それが世界観を形成しているので、すぐには変えられないんですけど、ある程度なら変えることができる、また変わっていくものである、ということが書かれています。
すぐに世界を変えることはできないけれども、世界をよく変えたいと考えて活動しているのが、デザイナーだと思います。ただその結果として、とくに産業革命以降の近代合理主義のなかで、能動的に問題を解決しようとして、逆に硬直化して大規模な問題がいろいろ生まれている。平井さんの言葉でいうと、目的論と機械論の両方が持っている直線性のなかにはまり込んでいる。そのような緊張を解いた違う視点で、直線的ではない広がりを持ったデザインの活動があるんじゃないかと考えています。そういったところでも共通するものがあります。
平井:
『モードレスデザイン』の「はじめに」にも書かれていましたね。よかれと思ってデザインすることが、むしろ問題を引き起こす。問題を解決する行為そのものが問題をもたらす。そのパラドキシカルな状況が、かなり大きな視野で描かれていました。
上野:
目の前にある小さな課題と、世のなかにある大きな課題のなかに共通する形というか、フラクタル性がないかと探しています。それが見つけられれば、いきなり大きな問題を扱えなくても、目の前の小さな問題に取り組むアプローチが、そのままつながっていく可能性がある。日々のデザイン活動のなかで実践することができて、それを多くのデザイナーがおこなえば、より大きな範囲で物事を開かれた状態にできるんじゃないかという期待があります。
アスペクトの時間哲学
——— ここまで話を聞いてきて、上野さんがモードレスデザインを語るときと、平井さんがベルクソンを語るときで、かなり語彙が重なっていますね。
平井:
そうなんですよ。すでに上野さんがキーワードとして出してくださった「未完了相」について、簡単に説明しておこうと思います。これはベルクソンが切り込んだ、時間の新しい描き方です。
まず時間には系列があると考えられています。それは計算可能で、実数直線で表象されるように、足したり引いたりできる量的な時間表象です。第二の切り口として、哲学者がよく頼りにしていたのが、テンス(時制)というものでした。過去・現在・未来というテンスは質的な区別ですが、カレンダーを並べても現在とはどこにも書かれていないので、現在は特別なものでした。現在に対して過去と未来があって、実数直線を三色に塗り分けて、「なぜこの宇宙には特別な現在があるのか」とか「過去というものは存在するのか」といった問題が、哲学の足がかりとしてあった。アウグスティヌス※5やマクタガート※6は、時制の哲学者です。
そして、第三の切り口がアスペクト(相)です。過去・現在・未来という時制の区別も、未完了・完結・完了というアスペクトの区別も、言語学から借りてきた道具立てです。これが効いてくるのは、時制とアスペクトが直交しているからなんです。未完了・完結・完了は時制とは独立の概念で、たとえば過去であっても未完了ということはありうるし、未来でも完結しているということはありうる。そういった枠組みが言語学で構築されていて、それをわれわれが時間をとらえるときの概念的な根本フレームを描く軸としてカウントしてあげる。アスペクトで分析すると、時制で分析していても見えないものが出てくると予想できる。
その意味で、ベルクソンはアスペクトの時間哲学として読めます。ポイントになるのは、記憶の問題を話すときに、過去のことであっても未完了でありうるというところです。「過去は完了していて、もう動かない」「現在まで起こったことは変わらない」と思ってしまうことが、われわれの素朴な時間像にはある。アスペクトと時制を区別していないと、すべて時制の話に聞こえてしまう。
ベルクソンの時間の最大のポイントは、過去は現在と共存していて、それがダイナミックに変わるということなんです。単に遅いだけであって、過去は変わりうる。ときにドラスティックに変わったり、クリティカルな場面だけで変わるようなことがある。つまり、違う時定数※7と時間動態※8を持っている。「違う」というのは、われわれが現在と呼んでいる窓とはスペックとして「違う」スケールを持って共存しているということです。過去が未完了性を持ちうるという論点が、彼の『物質と記憶※9』にはありますし、僕の見立てでは、そこから『創造的進化※10』や社会論までブレイクスルーが続いていく。
未来についても反対の含意や洞察があります。僕たちはすぐに「未来が開かれている」と言ってしまいますが、それ自体はクリエイティブでポジティブなことはもたらさない。未来だけ開かれていても、せいぜいランダムに訴えるのが落ちです。実際には、われわれはしばしば未来の予定を固定してしまっていて、あるいは計算してしまっていて、未来に完結相を伸ばしている。あらかじめ予定された未来というレールが敷かれてしまっている。上野さんがおっしゃったみたいに、本当は自由に使っていいのに封殺しているということが平気で起こっている。
時制はある意味で枠であり箱でしかないから、そのなかで何が起こっているのかを記述するには、そのなかのアスペクトをちゃんと見分けていく必要がある。それがアスペクトを持ち込んで時間哲学をするもっとも大きな賭け金なんですね。
デザインするときには、もうやることを決めている。先に設計を与えています。デザインとは、空間を設計して行動の制約を与えることという通念からすると、それに対するモードレスというものを、もっと深く理解すべきだと感じています。モードレスになるようにデザインするというのは、自由に動けるような可動域をもったデザインにするということですよね。僕が社会とか記憶とか生命のランドスケープを論じているところから、上野さんが何かを得られたのだとすると、それがデザインの場においてどういう営みなのか、どういう指針なのかを見てみたいです。
上野:
まず「デザインをする」というのは、つくられた物に触れた誰かが、自分なりに何かできるようにすることです。だから「デザインをする」とは、それに触れる人をデザイナーにすることなんじゃないかと思うんです。つくられた物、被造物に触れた人が創造性を発揮できるような、行為を促すような形になっているのがよい。そのような形をつくるのがモードレスデザインだと思っています。
モードレスな形とは、それを使う目的や手順が恣意的かつ暗黙的に規定されていないものです。ハンマーを例にすると、棒の先に硬いものがくっついた形を見たときに、「手に持って振り下ろすことができる」とか「硬いものを打つことができる」と感じられて、行為を創発しやすい形になっていると思うんです。物が使う人の行為に対して、素直に反応する構造を持っていることで、使う人が「それで何ができるか」「よりよく使うにはどうすればいいか」ということを発想しやすくなる。でも、ソフトウェアのように複雑な機械の場合は、画面のなかに見えているものなので、手に持ってどう使えるかという試行錯誤がしにくい。
平井さんの本には、ベルクソンの言う「創造性」とか発明をする人の思考の「飛躍」の話が出てきますが、先ほどの記憶や時間の話にしても遡及的なとらえ方だし、「遅延性」みたいな話じゃないですか。そこがクリエイティビティと関係が深いと思っています。
たとえば、何かの問題を解決しようと思ったときに、「問題がどう生まれてきたのか」という過程を考えますよね。すると、「まずこういうことがあって、次にこういうことがあって、今こういう問題になっている」と、線形的にとらえがちになります。ただ解決できない問題は、そもそもその問題そのものの背景に解決不可能性があって、今ある技術や考え方ではソリューションが絶対に出てこないからこそ、問題として顕在化している。だから難しい問題は大体解けない。
だけど、問題そのもののとらえ方を変えて、問題の背景構造や、問題が成立した過程のとらえ方を変えることはできる。つまり、過去に遡って過去を変えて、過去をとらえ直すことによって、現在が変わるわけです。そうすると、「そもそも問題じゃないんじゃないか」「もっと違うところに問題があるんじゃないか」といったことを思考できる。暗黙知として何かをひらめくとか、前提のとらえ方を変えるとか、囚われていた問題の構造を違うものとしてとらえ直すとか、そういう人間の創造的な思考や活動と、ベルクソンの話が関係しているんじゃないかと感じています。
水路づけとメタモード
平井:
まさに「遅延」という言葉は、最近書いた『はじめてのベルクソン※11』でもキーワードにしています。ベルクソンは時間を生物が登場する前の根本的なところから考えているんですね。物理法則だけで動いている世界、ユニバーサルな法則があって、粒子たちがただそれに従っているだけの世界。ある初期条件が与えられると、次の状態は法則だけによって完全に決まっている世界。そこでは、「時間の幅」とか「遅延」は必要がない。決定の必然性が、瞬間を越えて「持続」することを不要にしている。
生物が出てきて、生物の空間的なサイズができてくることで、インタラクションによって一回に扱う運動階層の単位が上がって、はじめて「遅延」が起こる※12。そこに開かれるのは、事前の準備ですべて決定されていなくて、最終的にどう仕上げるかは、その現場でやらなきゃいけないという場所。「非決定性の座」あるいは「非決定性の領域」という言い方をするんですが、そこで未完了相が必要になる。
そもそもこの宇宙で生命が目覚めるということ自体がそういうことで、そうじゃなければ瞬間だけがあって「遅延」の座がない完結相(アオリスト相)的な世界になる。そこに最初の時間の創造性の一手がある。今われわれがいるのは、それがさらに大きくなっていく流れのなかです。いわゆるクリエイティブな活動というのは、われわれの記憶の膨大なスケールを行き来するなかで、「遅延」を複雑な仕方で動員し直して、そのなかから新しい効果をもたらすことです。「遅延」が創造性の鍵として決定的な役割を果たしているんですよね。
ベルクソンで「持続」や「純粋記憶」、「遅延」といったポジティブなテーゼは知られている方だと思いますが、彼が記憶をふたつに区別した、もう一方の「習慣記憶」とか「運動性」については、空間に関わるということもあって、どうしても二次的な解釈として描かれがちです。『世界は時間でできている』の4章・5章の眼目は、そうした従来のとらえ方をひっくり返すことにありました。そこに、デザインとの深い接点が出てきているのだと思っています。
理由はこうです。変化だけを語って時間に「骨組み」というべきものを与えられないと、ヘラクレイトス※13のような流動主義と区別がつかなくなる。ベルクソンはただの流動主義ではない。時間は形を持っていて、だから階層性を持つことができる。構造があるから、その構造をたわめたり歪めたり、階層間の相互作用を起こしたりできる。そこから多くの創発が帰結してくるわけです。近年は「ランドスケープ」というキーワードでこの論点をさらに掘り下げています。
『世界は時間でできている』には「マルチ時間スケール」という解釈があります。この構造は、ベルクソン自身が描いたものではないですが、よく知られるベルクソンの「記憶の逆円錐図」に大体対応します。
マルチ時間スケール(平井靖史『世界は時間でできている』より)
記憶の逆円錐図(平井靖史『はじめてのベルクソン』より、原図はアンリ・ベルクソン『物質と記憶』)
ベルクソンの思想は、すべてが流れていて、すべて形になっていなくて、あらゆるものは瞬間ごとに移り変わってとらえどころがないといったようなものではありません。それではただのスローガンにしかならない。生命が種として生まれ落ちた以上は、動かせない基本スペックを与えられていて、その上で毎日ご飯を食べています。社会だって、閉じた社会の規範や常識があって、そのなかで日々のコミュニケーションを営んでいる。それは、われわれが何か行動するときに、土台として必要なルールだったりパターンだったりする制約空間です。言語学の問題にしても、ラングがあるからパロール※14がある。
違いはその先にあります。普通は、その土台のことを固定されたものと考え、その上にインスタンス的な活動があると考えます。ところがベルクソンは、そのどちらも動くと考えた。ただ時定数に十分な開きがあるだけで、土台も動いているし変わっていく。その意味で、ベルクソンは徹底的に時間哲学者なんです。神様が最初にすべてをデザインしたんじゃなくて、自然は時間のなかで地形を掘ってきた。それが「水路づけ(canalization)」です。水が流れて川底をえぐって、すこしずつ川の形をつくっていく。だからインスタンスも決して無縁じゃなくて、他ならぬインスタンスこそが川底を日々掘っている。ただそこに時間スケールのギャップがあるから、われわれは川底の変化のほうを無視して過ごすことができる。
最近、生命記号論の文脈で論文を書いたときに、これを「記号論的断熱性」という言い方で特徴づけました※15。「断熱性」は物理学から持ってきた概念で、注目系に対して環境系が十分に遅ければ環境は止まっている、つまり固定された条件とみなして計算から外してよい。実際は十分に遅いだけで、環境系も動いているし、やりとりの分だけ変化もしているんだけど、注目系の時間幅のなかではあまりにもわずかだから無視できる。こういったことは、あらゆる場面で起きています。
生命進化の場面で種が安定していたり、社会が安定して通常運転している状態から、どこかでクリティカルなダイナミクスがランドスケープ側で起きる。そのときには、ランドスケープの動きの方が相対的に速くなるわけですね。そうすると、インスタンスの時間スケールとの間に開いていた十分なギャップが崩れて、その断熱性が崩れ、ルールとその適用インスタンスが敏感に相互反応するような状態になる。そこにいろんな新しさのメカニズムの範型を見ることができます。これは上野さんがおっしゃったことときれいに重なるんじゃないかなと思います。
何もないところでわれわれは自由になれません。常に与えられた特定の可能性空間の制約のなかにいる。でも、その可能性空間は変わりうる。その変わりうるということに対して自分がオープンであることが創造性を呼び込む。「これはこういうものだ」という段階でモーダルに固定されていることは、むしろ疎通性を高める面もある。でも、決め打ちしているところから動けない。だけど、実は可能性の地形は変わりうるし、それが過去の向きに変わるときだってある。それがさっき話した、過去の描き直しから新しい創造性が立ち上がることにもつながっていると思うんです。ベルクソンの時間構造の議論で、あまり注目されていなかった論点を拾ってくださったことで、上野さんの問題とつながって、感慨深いものがあります。
上野:
「マルチ時間スケール」は本当に目から鱗でした。物理的な時間と主観的な時間があるといった二元論的な解釈ではなくて、階層化されていて両方ある。これは『モードレスデザイン』の問題にも通じるところで、モードにも階層があると思います。モーダルな状態とモードレスな状態が排他的にあるのではなく、異なるスケールでモードが重なっている。
アートやファッションの分野でモードという言葉は肯定的に受け取られています。結局何かを表現するときの「他ではないその表し方」、運動性そのもののことだと思います。つまりモードが何もなければ、おそらく表現としては成立しない。そういう意味でもモードは必要だし、われわれの日常の生活観や世界観だったり、あるいはそれこそ生物の種ごとの知覚特性だったり、そういったものから生まれている世界観が必ずあって、その上でわれわれは思考したり行動したりしているわけです。
モードの存在を前提にして、それを肯定した上で、そうじゃない恣意的なモード、われわれの身体特性や認知特性に合わないようなモードをできるだけなくしていく。それらを取り除いていったあとの、一番基底にあるモードを『モードレスデザイン』のなかでは「メタモード」と呼んでいます。それは、長い時間スケールで水路づけされた地形のようなものじゃないかと思います。そこはわれわれの世界認識を形づくる先入観として個別事項の解釈に先立っていますが、日々のデザイナーの小さな活動によって、すこしずつよい方向に水路づけできる可能性がある。その意味で平井さんの話と同期していると思いました。
つくることと使うこと
平井:
上野さんは『モードレスデザイン』のなかでも、デザインの存在そのものが、要求を生じさせる背景構造を変化させる、ということをおっしゃっています。自分の仕事周りのことでもそうなんですけど、いまだに何かをうまくオーガナイズしようとすると、一時的にできて満足しても、すぐにそこからうまくいかない部分が出てきます。これは原理的な剰余という気がしているんです。
デザインの問題とも関係すると思うんですけど、そういったオーガナイズできているものをはみ出していくのが、まさにわれわれの生ではないかと思います。全部きれいに収まるものができたとしても、それは仮につくったスナップショットで、1秒後からずれていく。それはオーガナイズの観点からすると失敗なんですけど、時間の観点からみれば成功とも言える。既存の型をはみ出していくような動きが根源的な横溢としてあって、われわれはそれを「回顧的錯覚」によって、「これが起きたらこうすればいい」という後知恵で整理していく。もっと前からうまくできるやり方はあったと思ってしまうんですけど、実はできなかったということが時間の力を示している。われわれは後から可能性空間の整理を持ってきているわけです。
そのような地形の変化をもたらした、地殻変動の力を供給しているのが、ベルクソンにとっての時間です。時間とは、可能性空間を書き換える力である。だからデザインしなくていいというわけではなくて、その運動が絶えず遡行的に解釈し直す、まさにその強さが横溢をさらにサポートするという、矛盾した構造があるんですよね。これがベルクソン的な真理だと思うようになってから、「なぜかこっちのファイルがあっちに入っている」みたいなことがどうしても起きても、無駄と思わずに許せるようになりました。
上野:
自分自身が環境から影響を受けて変容するので、環境をつくることと、そこから自分が影響を受けることは常にセットになっています。道具のようなものをつくるときは、基本的に「ユーザーはこういう人で、こういう問題があって、こういう物があれば解決する」と固定して考えて、「それを実現する形をつくりましょう」という話になるんだけど、実際使ったら合わなかったとか、使っているうちに違う要求が生まれるということが普通にあります。
平井:
それを使ったからこそ、出てくるんですよね。
上野:
そうですね。使わなければ顕在化しなかった問題が生まれる。その意味で、よく私が言うのは、物をつくることと使うことは、同じ現象を違う方向から見ているだけということです。使ったりつくったりするなかで、自分も変わって物も変わって、それがずっと繰り返されているものなんじゃないかと思います。
使う人がどういう人かを観察して、「こういう物を与えればいい」とわかっても、結局合わなくなる。だから、私がよく言うのは「人が合わせられる物をつくろう」ということです。「人が合わせられる物」というのは、一般的にわれわれが持っているさまざまな特性に合っていて、特定の文脈や厳密な要求ではなくて、ある程度の抽象度を持った形として提示するという意味です。人が道具に合わせて自分の行為を変えながら、その道具に要求を合わせていけるような物。そういった道具と人の関係がつくれるといいんじゃないかと思っています。
——— 上野さんのお話にあった、デザインの前提にある「メタモード」は、平井さんによるベルクソンの「社会地形」や「水路づけ」の話とトポロジカルに重なっています。デザインの場合はモードとモードレス、平井さんの話だとランドスケープと時間との間で「折り合い」をつけていく。でもそれは決して妥協ではないというのが、ベルクソンの言っていたことだと思います。
つまり、上野さんと平井さんは、似た形の世界モデルを持っているんじゃないかと思いました。世界のシミュレーションの仕方と言ってもいいかもしれません。たとえば、お二人が世界を量子力学的にとらえているとしても、われわれが共有しやすいのは古典物理学的に単純化したシミュレーションの方です。そうすると、簡単には伝わらず、勘どころを要求されると感じる方もいるはずです。
平井:
どうしても時間を空間化してしまうということですね。つまり、近似というか、単純化することによって、われわれは直線的な時間像を持っている。でもそこに曲率があり、重ね合わせもあって、相互振動もある。そういったものを古典物理学的に整えた状態を表象として持っている方が楽だし便利だから、そことわれわれの世界モデルにはギャップがあるということですよね。
——— そうですね。でも実際は過去と現在は同時にもあるわけで、その話をどう「折り合い」をつけて語るかを、お二人がされていると感じます。
上野:
たしかに今日のキーワードでも、「遅延」や「持続」という言葉がありましたけど、どちらも線形的な時間概念に対する表現ですからね。ですから、その段階ですでにパラドックスがあると思います。典型的な時間の観念を解除した上で、感覚や思考のあり方をとらえないといけない。
私はデザイナーとして、普段からクライアントの抱える課題や、構造的にうまく収まらないものに対して、アイデアを出そうとすることが多いんですね。そのなかで何かをひらめくことがある。私は「問題の外に出る」という言い方をするんですけど、「こういう問題だと思っていたけど、とらえ方をこう変えると、そもそもその問題自体が問題ではなくなるような世界がつくれる」とひらめくことがある。これは大林さんが言った量子力学的な世界観に近いんじゃないかと思います。
自分はそういう感覚を手がかりに仕事をしてきたんですけど、一般に言われているデザインの理論や手法は、工学的な観点でつくられていることが多くて、「Aというインプットは、Bというプロセスを経れば、Cになる」という古典物理学的な因果関係でソリューションがつくれるという考えが前提になっているように思います。それは自分がやっている創作活動の感覚と全然違う。そんなふうに物はつくれないし、つくれたとしても、本当に新しい物は生まれないんじゃないかと思っています。なので、『モードレスデザイン』では、自分が物をつくるときの感覚を文字にして説明しようとして書きました。
仕立て屋の哲学の交差測量法
平井:
それには深く共感できます。デカルトが『方法序説※16』で示していたように、問題を分割して枚挙して、小さい問題に分けて解いて、それらを合体したら全部解けるようなものは、実は大した問題ではないんですよね。
僕は問題と対比して「謎」という言葉を使うようにしています。「謎」は問題の意味がわからなくて、解けることによって問題の意味が遡って供給される。普通の問題は、意味が先にわかっていて、わかっているから分解できて、既存の方程式やルールやテンプレートによって解決を導き出せる。流れ作業やプロシージャに委ねることができる。でも「謎」はそれが適用できないから「謎」なわけですよね。「謎」を解くためには、まさに「問題の外に出る」「問題を見る地形を変える」といったことが必要になります。
マーガレット・ボーデン※17という人が、クリエイティビティを三種類にまとめた理論をつくっています。まず第一がコンビネーショナルで、これは結合的な創造性で、既存要素の組み合わせです。第二がエクスプロラトリーという探索的な創造性。ベルクソンの『創造的進化』でも、「温度」の解釈によって、可能性地形のなかで局所最適化に陥っていく話があるのですが、そこに留まらず「温度」を上げて、別の可能性空間の場所を探検していくようなことです。だけど、その段階ではまだ地形は変わらない。で、第三はトランスフォーメーショナルと呼ばれる革新的・変革的創造性で、まさに変形する考えです。
これをベルクソンに重ねると、まず第一のコンビネーショナルには可能性の罠があって、彼は可能性のなかには新しいものはないと考えている。ベルクソンがクリエイティビティを見出すフィールドは、第二から第三の段階で、とくに最後のトランスフォーメーショナルな創造性にあると言えます。自我の自由論もそういう話で、表層では日々の暮らしで使われている回路が形になっていますが、過去が混ぜ返されて、その回路を深層から破断するようなクリティカルな場面が論じられている。何か本当に新しい問題をつくる、それを開くという作業は、日常的な土台の上でなされる通常の問題解決プロセスとは違うレイヤーの営みであるはずです。
それはたしかに、大林さんが古典物理学的とおっしゃったような、通常の地形を前提とした枠組みを仮定しているとわかりにくい。
——— それを言葉というリニアな道具を使って伝えようとすると、理解はできても感覚としては受け取れないという状態になるのかもしれません。それをリフレーミングとかアブダクションといった枠組みを外す概念として語ることはできても、感覚が追いつけるわけではない。
平井:
それは今回新書を書くときに、ものすごく苦労したところですね。
上野:
その話、すごく聞きたかったです。
——— ぜひ聞かせてください。
平井:
「あとがき」でこぼしましたけど、今回の新書『はじめてのベルクソン』を書くのは、かなりきつかったんです。研究とは違うタイプの努力が必要でした。論文は専門家だけが読めばいいし、もしかすると専門家さえもわからないかもしれないけど、とにかく研究の成果を詰め込んで書いていたんです。時間についてベルクソンが意味のわからないことを言っていて、それに取っ組み合うのが精一杯で、読み手のことなんて考えていられなかった。だけど、本にするとなると、比喩を使ったり、構造化して可視化したりして、噛み砕かないといけない。それは自分のためにもやっていることでもあるんですが。
それが新書となるとさらに困難で、この4年は新書スタイルの開発に使ったという感じでした。ベルクソン自身も「持続は計測できない」ということを言っていたり、言語で表現できないことを語ったりしていて、ベルクソニアン・パラドックスとでも呼ぶべきものがあるわけですね。でもベルクソンは、それを用意周到かつ自覚的にやっていたんだと思います。
僕は彼の言葉から「仕立て屋の哲学」という言葉をよく引用します。これは「使い回しはいけません」「生命の問題がそのまま社会に当てはまると思ってはいけません」「問題ごとにちゃんとオーダーメイドで概念からつくらないといけません」といった意味で、「採寸して哲学する」ということなんですね。「採寸して」というのはフランス語で « sur mesure » と言って、「メジャー」という言葉が入っています。英語でも “made to measure” と言うように、ちゃんと「計測して」ということです。
ベルクソンは計測自体を批判しているんじゃなくて、こちらが最初から手元に持っている「メジャー」、つまり時代や共同体の所与になっているデフォルトでインストール済みの「メジャー」に世界を合わせるという怠惰な手法を批判している。そうではなくて、その固有の対象の可動域をしっかり残すために、スーツをつくるときのように徹底的に採寸して裁断しないといけない。プラトン※18が、腕のいい料理人は自然の関節に沿って切り分けると言ったように、対象の本性の分かれ目を見て測っていく。それが、普通の意味で計測できない「持続」を測るという、ベルクソンの哲学だと思っています。
だから、僕も「マルチ時間スケール」の話をするときに、ここは「何ミリ秒です」とか「10の何十乗です」と書くんですけど、古典的なベルクソニアンから「数値化したら持続じゃないじゃないか」と怒られることがあります。でもベルクソン自身が、生理学者のジグムント・エクスナー※19から2ミリ秒の時間分解能を引用している。計測した上で、400兆回の振動をわれわれの最小時間分解能で枚挙すると2万5千年かかると、数字を出しているんです。
つまり、彼が「凝縮」の質に言及して、なぜ赤のクオリアが出てくるのかという話をするときに、エクスナーが言っていた聴覚の時間分解能を使って、彼なりに議論を組み立てている。だから、「計測する」ということは、決して「持続」に矛盾することではありません。実際にどうするのかと言ったら、ただひたすら毎日探すしかないのですが。
——— じゃあ平井さんはベルクソン的な方法論で、時間をかけて『はじめてのベルクソン』という新書に取り組んだんですね。
平井:
そうですね。ベルクソンの比喩は、一般的にはわかりにくいと言われるんですが、わかってくると本当に的確なんです。ただそれを見つけるには、すごく時間がかかる。文章にすると一行なんですけど、その一行をひねり出すのに何ヶ月も何年もかかる。でも記述的に書くよりも、物事をダイレクトに見せてくれるところがある。
ダイレクトにと言っても、ひとつじゃわからないから複数並べて、それを「交差測量法」という言い方をする。ひとつの比喩は必ず不完全だけど、複数出せばベクトル空間のようなもののなかから、直接描けない何かを同定できると彼は考えていました。フランス語で « la méthode de recoupement » という「交差測量法」は、測量で使われる方法と同じアイデアでやっていて、そうすることで直接法の叙述では表現できないものを記述できると考えているんです。僕ができているかはわからないですけど、自分なりにすごく頭をひねったところでした。
焼きなまし、書くことの時間
平井:
『はじめてのベルクソン』では、最新の議論も多く盛り込まれていて、たとえば社会地形の議論や「エラン・ヴィタル※20」の解釈は、去年から今年にかけての成果です。とくに「エラン・ヴィタル」は、ベルクソンの哲学でも鬼門中の鬼門とされていました。
新書では、金属のアニーリング(焼きなまし)を例に、熱したものを冷やしていくプロセスの話をしています。最初にいろいろ発想を広げる作業をしても、現実の制約に落とし込んでいくプロセスには時間がかかる。これが「遅延」の正体なんですね。「焼きなまし」とは、原子が自分で一番落ち着く位置を探しながらゆっくり冷えていくなかで、内部のひずみが抜けたしなやかで粘りのある材料になっていくというものです。温度をきめ細かく管理するチョコレートのテンパリングも例に出しました。
新書では引用できなかったんですけど、ベルクソンは『道徳と宗教の二つの源泉※21』のなかで、「社会の熱が冷めていく」という意味として、フランス語で « refroidissement savant » と使うんですよね。巧みで知的な、優れたクーリングという言い方で。単に冷ませばいいというものじゃなくて、うまい冷まし方がある。ただ待っていればいい形になるかというとそうじゃない。冷却の下りのテールのなかで、温度管理をうまくコントロールしてあげると、しっかりしたものができる。教義の通俗化にも同じことが当てはまるとベルクソンは言います。ここではベルクソンの創造活動のキーワードになっている「練り上げ(élaboration)」が描かれていて、これが「エラン・ヴィタル」の解釈の土台にした着眼点でした。デザインの文脈でも似たような議論はあるんでしょうか。
——— 一見すると、たくさんのプロダクトが場当たり的にデザインされては消えて、そのうち淘汰されたものだけが残って、それを参考にしたプロダクトがデザインされてと、連綿と続いているんですが、デザインをデザイナーの仕事ではなく、人間にとって根源的な日々の営みの位相として見ると、また答えは変わってきそうです。プロダクトのデザインだと、イメージどおりの空間的なデザインだと思うんですが、たとえば平井さんがベルクソンの新書を4年かけて書くというのは、その行為自体がデザインとも言えますし。
上野:
平井さんが4年かけて新書を書かれたことやベルクソンの交差測量法の話を聞いていて、『モードレスデザイン』を執筆していたときのことを思い出しました。リニアな言葉では表せないような感覚を記そうとしたときには、やはり時間が関係していて。一言では書けないけれど、言いたいことを外側から形づくるような周辺のストーリーや考えをたくさん書けば、そこから言いたいことが浮かび上がってくるという期待があって、結局ダラダラとたくさん書きました。それだけの文字を読む時間を費やしてもらうことで、自分の感覚が読者にすこしでも染み込んで伝わるんじゃないかという期待がありました。
私もデザインを空間的なものだと思っていたんですけれども、実際にはそれをつくったり使ったりするときに一定の時間があって、そのなかで自己変容をするわけですよね。変容することで、その物と接続していくという関係性があると思うので。その意味で、書くこともそうだし、デザイン行為というのも、時間のなかで浸透していくような現象が常にあるんだと思います。
平井:
みんな時間の質的な変化を感じていて、とにかく「時間が足りない」と考えている。時間の節約術のような対症療法的な本はたくさんあるわけですけど、時間が短くなっていることに対して、短い時間ですぐに効くはずはないと薄々気づいている。時間の問題には、記憶、生命、社会といった大きな話をするベルクソンが、遠回りのようでいて一番効くことを示すのが、今回の新書でのチャレンジでした。時間の変容は、結局「自分がどれだけそこにダイブできるか」「時間をどれだけ与えられるか」に依存している。それを短時間で変容させようとしても、時間の本性からして無理だと気がついてほしかった。
上野:
『はじめてのベルクソン』のなかに、「すぐに答えが出ない悩みも、時間をかけて熟考した結果として答えが出るのであれば、それは時間のなかで自分が変わったからだ」という話がありましたけど、本当にそうだと思います。自転車に乗れるようになるとか、逆上がりができるようになるというのは、自分が変わった証拠です。それが物と接することに限らず、課題やテーマについて熟考するだけでも、自分は変わりうる。
平井:
さっきの水路づけの話ですよね。思考がわれわれの地形を変える。ただ一瞬考えただけではなく、何度も寝ても覚めても考えていると、だんだん水路が掘れてきて、地形が変わって、なかったところに新しい川ができている。問題は変わらなくても、通れなかったところが通れるようになって、違うルートで攻められるようになる。
さっき大林さんがシミュレーションという言葉を使っていましたけど、スポーツ選手がイメージトレーニングをやると、実際に身体を動かしていなくても運動野が活性化されて、身体運動がスムーズになるんです。だから、ただ考えるということにさえ力があって、それはベルクソンのフラットな存在論とつながっていると思うんです。現実に起こっていることだから、それ自身の時間階層のランドスケープを持っていて、それが変わる。未完了なのは、弱さの証拠ではなくて、それだけの時間を要求している問題だということです。つまり、問題のサイズに依存している。それだけの時間を要する地形の変化が、その問題の時間スケールだったと理解すれば、時間が要求しているんだと考えられる。
——— そう考えると、「時間に仕事をさせる」っていい言葉ですよね。
上野:
いいですね。
平井:
時間にしかできない仕事があるということなんですよ。
2026年10月5日 聞き手: 大林 寛