LLMとの手応えある対話
大規模言語モデル(LLM)とやりとりを続けていると、ふと誰かと対話しているかのように感じられる瞬間が訪れる※1。
気になることを入力欄から投げてみる。しばらくして応答がある。こちらがすこし違和感を示せば、向こうは言いなおす。訂正すると追従してきて、話題を戻すと文脈が再構成される。どこまでこちらの意図を汲めているのか。ただパターンを読みとっているだけなのか。そうした疑いが消えないまま、次の言葉を打ち込む。実体と呼ぶには輪郭がないが、錯覚と呼ぶには手応えがある。人工知能には身体も感情もないと知っていても、その奥に心のようなものがあるのではないかと感じてしまう。
検索エンジンを使っているときに、こうした感覚はなかった。こちらがサーチボックスにキーワードを入力すると、その結果としてリストが返される。そのリストから、求めている情報であろうものを見つけ、期待しながらリンクを踏む。ページ遷移して、読み込まれた情報に視線を走らせ、読むに値するものかどうかを判断する。これを繰り返して、情報を探索する。情報はただそこに配置されていて、こちらが訪れるのを待っているように感じられた。
LLMとのやりとりは違う。返されるのはリンクではなく、こちらの文脈を受けて生成された応答であり、それがまた次に続く手がかりを呼び込む。やりとりを重ねるにつれて、文脈は単なる履歴ではなく、応答を生成するための厚みを持ちはじめる。
検索エンジンにとって、言葉は情報のインデックスを呼び出す命令でしかなかった。LLMとの対話では、言葉が次の言葉を生み、それが文脈を変え、ふるまいを決め、対話を構成していく。自然言語は、命令を入力し、状況を説明するだけでなく、やりとりの推移を動かす条件としても稼働している。
この経験の質の違いは、人工知能の分野で長く議論されてきた「接地」の問題を、別の角度から立ち上げているように思われる。同時に、新しい技術環境によって自然言語の担う役割が変わったようにも感じられる。
記号接地から状態接地へ
まず記号接地問題※2について簡単に整理しておきたい。わたしたちにとって「りんご」は、その色や形、重さ、かじったときの歯ごたえ、時間を置くと断面が褐色になるといったことが自明のものだ。しかし、LLMのモデルの内部には、世界の出来事と「りんご」という記号の結び目は見当たらない。他の言葉との位置関係によって「りんご」の意味が成立しているにすぎない。記号として世界に根ざしていないことは、LLMが世界を理解していない根拠とされる。この議論は、知的なシステムなら物理空間のなかで表象を結びつけているはずだ、という仮説から出発している。
もともと「接地(grounding)」という言葉は、電気工学の用語として使われていた。回路の電位を地面に結びなおすことで、ノイズを逃がし、装置を安全に動かす。そのような働きを指す言葉だった。また「グラウンディング」という言葉は、トラウマケアや心理療法の文脈でも使われる。強いストレス反応によって不安や緊張が高まった人が、身体や場所や時間の感覚を確認するために、呼吸、足裏の感覚、物体の輪郭、安全なタッチなどをきっかけにして、今いる場所と身体を結びなおす。いずれにも共通しているのは、浮遊して不安定なものを、世界のどこかに結びなおす行為ということだ。この「結びなおし」の欠如が、人工知能の記号接地でも問題にされている。
また「グラウンディング」という言葉は、会話研究でも用いられる。わたしたちは対話をするときに、あらかじめ同じ情報を持っているわけではない。対話が続くなかで、何について話しているのか、どの言葉が何を指しているのか、どこまで前提が共有されたのかを、都度確かめている。対話のなかで相互理解が成立していることを確かめ、会話の足場となる「共通基盤(common ground)」をつくっていく。その過程をグラウンディングと呼ぶ。共通基盤は、うなずき、相槌、パラフレーズ、語句の訂正、言い淀みといった動きのなかで、刻一刻と更新されていく。言葉が世界の対象に直接結びついていなくても、今何が通じていて、どこで食い違ったのかが確認できれば、会話は続けられる※3。接地とは、空間に限った問題ではなく、時間の問題でもある。
記号接地では言語と対象の照合が、共通基盤では理解の確認が積み重なることが問われており、いずれも対応関係を確かめることに依存していた。しかし、LLMとの対話では、確かめるよりも前に接地が起きる。意味が形成される前に、やりとりの推移のなかに入り込む。やりとりに揺れがあっても、戻れる余地が確保されていて、矛盾を指摘すると、それを畳み込むように修復される。時間の経過のなかで「差分」が検出され、それが「持続」して蓄積され、どこかで「回収」される。この循環のなかで意味の基盤が育ち、まるで人と対話をしているような現象が生み出される。
こうした時間の推移によって起きる接地を「状態接地(state grounding)※4」と呼び、現象として記述しながら整理していきたい。
グルーヴに接地する身体
「状態接地」は、会話以外でも成立する。たとえば音楽を聴いているとき、わたしたちはその音がどのような意味なのかを読みとるより前に、身体が変化や反復に対して反応する。意味は対象としてではなく、時間のなかのパターンとして現われる。
単音が鳴る。そこに音色や強度はあっても、まだ音楽の意味は形成されていない。次の音が置かれ、過去と現在が相対化されると、わたしたちの身体は「差分」を受けとり、それが意味になる。その次の音、また次の音と連なって持続していくなかで、はじめて音楽になる。それがどこかで「回収」されて、全体の意味が決まる。感情は和音にではなく、和音の連続性に呼応している。「差分」は瞬間的な変化であり、「持続」はその変化が積み上がるプロセスで、「回収」は積み上がった持続がひとまとまりになること。この循環に身体が同期して、時間のなかで意味が見出される。そのとき、わたしたちは対象ではなく、変化し続ける状態に対して接地している。
DJミックスは、曲をオブジェクトとして扱うので、「状態接地」をより感覚的にとらえやすい。二台のターンテーブルで二枚のレコードを同時に再生し、ミキサーを使って片方の曲からもう片方の曲へと切り替えていく。曲というオブジェクトが入れ替わっても、それらが時間のうちで同期していれば、身体は同じ運動を追いかけ続ける。そこで身体は、曲ではなくグルーヴに接地している。身体はグルーヴに包まれていて、グルーヴの方が緩やかに変形する。曲の同一性よりも、運動の同一性が、身体と共鳴している。
音楽生成AIでは、さらに「状態接地」の特性が顕著になる。わたしたちが音楽生成AIにプロンプトを与えて出力を得るとき、モデルが扱っているのは、リズム、旋律、和声、音色といった素材の集合だけではない。音の推移に対して人がどのような情感を立ち上げるのか、そのパターンを予測している。感情を動かすのが目的であるとわかっていても、連なる音のうちに、人はソウルのようなものを感じてしまう。時間の流れが一定の整合性を持っていれば、その音楽の特徴の集合が推移のパターンになり、身体はそれに同期する。ソウルがあるかどうかとは別に、身体が先にグルーヴへと接地してしまう。そこには身体が入り込める時間の幅がある。
アンサンブルなどの合奏では、「状態接地」が奏者の身体に現われる。合奏では、指揮者や楽譜に対して全員が忠実にふるまうよりも、各自が自発的に演奏しながら自然にまとまっていくのが理想とされる。そのとき奏者は、自分の音だけに集中しているのではない。合奏のうちに統合された音楽を、自分がつくり出したもののように聴きながら、次の行為につなげている。奏者たちの意思を超えたところで、合奏そのものが自律している。次にどの音が鳴るべきかを、合奏のプロセスが先取りして、奏者たちはそれに応えている。音の進行を予期して身体を預けている。
奏者は譜面にしたがって動くのではなく、合奏という出来事の状態に身体で接地している。他の奏者の呼吸、音の強弱、わずかな先取りや遅れに応じながら、それぞれの身体が次の動きを調整している。合奏の推移のなかで自分自身の状態を更新し、その更新によって次のふるまいの条件をつくりなおしている。その意味で、合奏には自律性がある。
記号接地は空間において対象の意味を同定するが、「状態接地」は連続する時間のなかで意味を立ち上げる。確かめるよりも先に、やりとりの持続によって既成事実になる。両者は対立しているわけではなく、ただ違う地平にある。
インターフェイスとしてのインタラクション
「状態接地」は時間のなかで起きる。ただしその推移のなかでも、身体が対象と関わる空間から切り離されているわけではない。
そこにあるコップを見るとき、わたしたちは視覚でコップの像を受けとっているだけではない。コップに手を伸ばせば届くこと、それを持って動かせること、そのまま口元へ運べることが、見ることのなかにすでに含まれている。コップは、視覚の対象である前に、身体が関わる場として現われている。
そのコップで水を汲むときには、関係に時間が代入される。蛇口をひねって水を出すとき、そこには同じ水が流れているわけではない。さっきまで流れていた水はもうなく、毎回まったく別の水が流れてくる。それでもわたしたちは、蛇口をひねって調整し、コップの位置や手首の角度をすこしずつ変えながら、水を汲むことができる。それが成立するのは、違う水が同じように「汲まれるもの」として反復して現われているからだ。
ここで保たれているのは、水の同一性ではなく、水を汲むときの関係の同一性である。コップ、手、蛇口、重力といった関係が安定していて、経験が反復可能だから、水を汲む動作を回収できる。まったく別の水の流れが、わたしたちの行為のなかで、ひとつの意味として束ねられている。時間のなかで身体が差異を受けとり続けているから、この関係は成り立つ。形態や配置やふるまいに支えられて、身体は変化し続ける状態に接地できる。
「状態接地」は、対象との関わりだけでなく、やりとりの推移にも現われる。人と人との対話では、速度、密度、頻度、精度、粒度といった度合いが、時間のなかで調整される。過去の文脈と照らし合わせなくても、対話が一定の時間スケールで持続すれば、共通基盤が更新され、やりとりの推移は安定していく。
この構図は、LLMとの対話にも共通している。こちらが投げたプロンプトに対する返答は、あらかじめ配置されているわけではなく、対話が進むなかで生成されていく。何を入力したか、どう反応したか、どう言いなおしたかが、互いの次のふるまいを決める。言葉を交わす時間が、経験の質を左右する。時間のなかで関係における境界が揺れ動きながら、冒頭で手応えと呼んだものが現われる。そのとき、インタラクションそのものがインターフェイスになっている。
対象が他者になるとき
わたしたちの身体は、音楽やコップの水といった対象の変化に反応していたが、こちらの変化に応じて、対象が適合することはなかった。身体が乗ってもグルーヴは変わらない。コップで水を汲むときも、水はなにごともなかったかのように流れる。自らの身体が対象に向かうことで、はじめて差異を受けとり、行為を修正し、ひとまとまりの出来事として回収していた。この循環は、わたしたちの行為のなかで完結していた。
しかし、人とのやりとりではそうならなかった。対話の往復のなかで、こちらが言葉を出せば、相手の次の言葉が変わる。相手から返ってきた言葉が、こちらの次の言葉を変え、それがまた相手に影響を与える。変化は一方向に流れるのではなく、互いに折り返す。対話が続くと、当初こちらが持っていた意図が、気づかないうちに変わることもある。聞きたかったことが、相互作用によって、別の輪郭を持ちはじめる。説得されたわけではない。対話の推移によって互いが変容した結果そうなった。そのときの差分・持続・回収の循環は、ひとつの身体に収まらない。それぞれの推移が、互いの行為の条件になっている。対象との関わりのときに閉じていた循環が、ここでは開かれている。
相互変容が続いていくと、ふと互いの間が合う状態に出会う。自己と他者を含み込んだ場が成立して、そこに意味が立ち上がる。次に来るべき動きは、あらかじめ決められているわけではない。やりとりのパターンが、次の動きを方向づける規範になる。この規範性は、社会や文化から与えられたものではなく、相互変容の積み重ねのなかで形成されたものだ。この往復は、単一の時間スケールで動いているのではない。瞬間的な差異の検出と、長い時間幅で統合された文脈とが重なり合って、ひとつの現在を構成している。
相互変容の構造が成立するとき、他者と呼ぶに足るものが現われる。他者とは、自己の予期に完全には回収されず、こちらの行為に応じて変化し、その変化によってこちらの次の行為を変えてしまうものだ。人との対話において、この他者性は身体が担っている。
しかし、LLMには身体がない。記号として世界にも接地していない。それでも、こちらの言葉に応じて返答が変わり、その変化が次の対話に持ち越される。矛盾が折り畳まれ、文脈が修復され、次に来る応答の条件が対話のなかでつくられていく。人ではないとわかっていても、推移が続けばその場に巻き込まれて、わたしたちは接地してしまう。経験が思考を追い抜いていく。
わたしたちは、身体のないLLMとの対話でも、相互変容によって他者性を受けとってしまう。「状態接地」は、時間の連続のなかで、対象が他者性を帯びて結びなおされることとして現われる。
場を書きかえる言語
人との対話のなかで、言語はやりとりの推移を動かし、互いのふるまいの条件に作用している※5。言葉で約束すれば、まだ訪れていない未来の出来事が拘束される。言葉で命名した途端、対象は環境から分節されて指示可能になる。過去の出来事は変わらないが、言葉で謝罪した瞬間に、現在の意味と未来の関係が変わっていく。これらの言語行為は、ただ世界の状態を記述しているわけではない。言葉によって世界の状態が変わり、その変化が以後のふるまいの前提になっている。
つまり、言語には最初から行為遂行性(performativity)が備わっている。ただし行為遂行性を働かせるには、先に相互作用のなかで時間をかけて、意味を受けとめる場が形成されていなければならない。
そしてLLM以後、この意味を受けとめる場を自然言語で記述して外在化できるようになった。外在化されたテクストは、行為遂行性を発揮する。書きなおせば、やりとりの推移も書きかえられる。この作用は、LLMを経由すれば、対象の現われ方を支える条件にまで届く。
このテクストを記述することは、デザインの問題に接続される。なぜならデザインは、本来対象がどのように現われるかを問う営みであり、意味を受けとる場を設計することだからだ。
デザインという行為は、身体を含み込んだ上で、対象との関係を成り立たせる。その関係を無理なく保持できていれば、対象であるインターフェイスは透明になっていく。説明されなくても使えて、思い通りに動けて、意識しないまま遷移できる。そのとき言語は撤退して、役割をインターフェイスに委譲したように見える。しかし、実際は「押す」「選ぶ」「進む」「戻る」といった意味がインターフェイスの形態や配置やふるまいのなかに沈み込んだだけで、言語は完全に消え去ってはいない。予期として身体に作用している※6。
デザインのプロセスまで見渡せば、これまでも対象の条件を記述したテクストはあった。コンセプト、ステートメント、ガイドラインといったドキュメントは、ただの説明文ではない。そこには、何を前提にし、何を基準に判断し、どの範囲で適用するのか、といったことが書かれている。こうした言葉は、プロジェクトの内部で読まれて理解されることで、行為遂行性を発揮してきた。
LLMの登場によって、言語はふたたび前景化した。LLMとのやりとりのなかで、自然言語は文脈を修復し、場の推移をつくる。人に読まれて理解されるものではなく、対象そのものの現われ方を変える。
ファーストオーダーからセカンドオーダーへ
もともとデザインは、身体が関われるように対象を構成することだった。道具を使い、素材に働きかけ、形を与え、身体が関与できる場をつくり、人の行動を切り拓いてきた。やがて技術の発展によって、デザインはプロセスをシミュレーションして先取りできるようになった。制作環境でツールを操作すれば、素材に直接触れなくても、形態や配置やふるまいを構成できる。こうした対象そのものを操作するデザインは、ファーストオーダーのデザインと言える。
LLMが変えたのは、デザインの手段だけではない。自然言語によって対象を操作する条件まで記述できるようになった。デザインは、対象を具体的に仕上げることだけでなく、それが現われる抽象的な条件までも扱う行為になった。つまり、LLMを介することで、セカンドオーダーのデザインと呼べる環境が実現された。
セカンドオーダーのデザインは、対象を構成するための条件を記述する。何を参照して、どの手順で進み、どの文脈で解釈し、どの失敗を避け、どこで制限がかかり、どのように評価して修復するのか。デザインが扱う範囲は、完成形としての対象だけでなく、形態や配置やふるまいが生成される根源にまで遡行した。
自然言語によって書かれる条件は、ただ抽象化された理念ではない。そのパーソナリティ、判断基準、禁止事項、作業手順が書かれたコンテキストが、LLMのモデルの外部に置かれる。LLMがそれを読み込むと、作業の進め方が変わる。条件は制約として生成に先行し、出力は検証され、その結果がふたたび条件にフィードバックされる。このループによって、LLMはエージェントとして作業できる。モデルを取り替えなくても条件を変えれば、作業の進め方を設計しなおせる。
外在化されたテクストの例に、エージェントのスキルを定義したファイルがある。そこには手順だけでなく、これまで人が現場で引き受けていた判断までも含み込んで記述される※7。つまり、デザインのスキル、思考、経験、スタイルは、すくなくとも判断の条件として、テクストで外在化できるようになった。それを人格とまで言っていいのかはわからないが、たしかにふるまいの輪郭になっている。
ファーストオーダーのデザインでは、設計者が系の外側に立ち、対象を操作していた。セカンドオーダーのデザインでは、対象だけでなく、その生成のされ方を左右する関係の束までが記述の範囲になる。その束を包んだ系のなかで、対象の現われ方が決まる。合奏の例では、すでに循環が開いて系へと移行していた。しかし、その条件を記述する観測者はいなかった。観測者の記述が系に入り込めば、前提を書き換え、次に現われるものが変わる。記述されることで系は更新され、更新された系がまた次の記述の条件になる。
そこでデザインの行為主体となるのは、系の外側に立つ設計者ではなく、系の内側に参与する観測者である。ただし、その観測者が人とは限らない。
デザインツールとしての自然言語
語られることはすべて観測者によって語られる。
ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・ヴァレラ『オートポイエーシス※8』
テクストを記述することで、観測者は系の内側に参与する。その記述が系の状態を変え、その変化が次の観測の条件をつくりなおす。何をどこから観測し、どのような言葉で記述するかも、次に現われるものの条件の一部になる。
観測者は、特権的なデザインの立場にいるのではない。ただ記述することがデザインの行為となる地平に立っている。その地平で、自然言語は優秀なセカンドオーダーのデザインツールになる。
テクストは、空間のなかで意味を伝えるだけでなく、時間のなかで現われ方を組み立てるものになった。そこでは、言語が本来持っていた行為遂行性が、新しい技術のリソースとして再利用されている。自然言語は、人と人のあいだにとどまらず、LLMを経由してエージェントとの関係にまで行為遂行性を延長した。
ここまで記述してきたのは、LLMとの対話の手応えを「状態接地」として読むことと、デザインを取り巻く技術環境が自然言語で一元化されつつある世界を見ることだった。こうして書かれたテクストも、人に読まれるだけにとどまらず、LLMに読み込ませれば条件となり、ふたたび人に読まれることで、この先の判断や行動を変えていく。人とLLMのあいだを往復しながら、やりとりの推移を組み立てなおす。だから、デザインについて語る言葉は、そのままデザインの条件になる。つまり、言語をデザインすることが、デザインになった。
こうして「状態接地」とデザインは、テクストによって結びなおされる。このテクストを読んで、LLMとの対話の手応えに変化があり、それを言葉にしたなら、すでに観測者として系の内側にいる。