テクストとは、その中で読者が猟師となる森である。 ベンヤミン『パサージュ論』
「ÉKRITS / エクリ」というディスコースの森を散策するための道しるべに、いくつかタグを設定した。タグが指し示すのは、明確な分類ではなく、意味における調和と対比。だからコンポジション(構成)というよりコンステレーション(星座)ぐらい曖昧なものとして配置している。
まず真ん中に置くのは、「ÉKRITS / エクリ」の主題となるデザイン(design)。
わたしたちはデザインを、アーキテクチャ(architecture)に内包され、経験(experience)として出会うものと考えている。経験はわたしたち自身のものであり、アーキテクチャはわたしたちの経験と記憶が寄せ集められて体系化されたもの。これら二つはデザインに相対的な視点を与えてくれる。
またデザインの過程では、実践(practice)によって経験が生み出され、経験によって実践が可能になる。そして経験が累積された結果として、思想(thought)が築かれる。だから実践と思想はユニークなものであり、「ÉKRITS / エクリ」では方法(method)や理論(theory)よりも重要なものとして取り扱っていく。
デザインは、わたしたちが生きていくのに不可欠な、コミュニケーション(communication)という活動に向かう。わたしたちはコミュニケーションによって、文化(culture)と社会(society)を形成する。この二つは、時を超えて、人間とともに歩み続けてきた。
どれだけ季節が巡り、どんなに環境が変わろうと、わたしたちが人間である限り、生来的に「人間のためのデザイン」が行われる。だから人間(human)はタグとして不可視なものにした。わたしたちはデザインを、人間と環境の相互関係に介在するものだと考えている。
ギリシア哲学の時代から言われるように、人間が環境から見出すものが科学(science)で、人間が環境に生み出すものがアート(art)である。これら二つの活動は、教育(education)という営みによって、世代を越えて引き継がれ、わたしたちを育ててきた。
そしてデザインを生成させるのはテクネー、つまり「人間の手による技術」の現在形であるテクノロジー(technology)である。デザインによって生成されるものはメディア(media)となり、メディアと人間の触れ合う場所がインターフェイス(interface)になる。
わたしたちは、インターフェイスより高い身体性を備えたデバイスなどの人工物(artifact)によって、さらに主観的な世界を広げていく。そのときインターフェイスはコミュニケーション論、人工物は存在論の側にある。
以上の連なったスペクトルから、8つの色を抜き出して、パレットに置いて名前を付けた。
「ÉKRITS / エクリ」では、これらの色をパレットから取り出し、言語としてカンバスに塗りつけていく。そしてこの完成することがない絵は、「ÉKRITS / エクリ」の表象となっていく。
文は人なり。わたしたちはこの格言に同意する。ただし、すこし言葉を追加するという条件付きで。「文はその宛先の人なり」。この格言ならわたしたちが提起してきたあの原則にも当てはまるはずである。わたしたちはこう述べてきた。言語において、わたしたちのメッセージは〈他者〉からわたしたち宛てに到来する。差出人と受取人が入れ替わって。 ジャック・ラカン『エクリ』序文